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新海誠の都市空間論

鱼板が新宿御苑をめぐる近代都市史を手がかりに、新海誠作品の都市空間が人間関係を支えるインフラとしてどう描かれているかを論じる。「技術を介した生存」をめぐる想像力にひそむ楽観と、その限界を問う。

著者: 鱼板翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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ENOUGH IS ENOUGH!

昨年、私は東京・新宿の繁華街にある新宿御苑を訪れた。折しも雨模様で、新海誠監督の『言の葉の庭』(2013)の場面を思い浮かべずにはいられなかった。アニメに描かれる、和洋折衷の趣を凝らした庭園は、実際には園内の北側、およそ3分の1を占めるにすぎない。だが、来園者の大半はそこに集まっていた。とりわけ作中に登場する小さな東屋は観光客に取り囲まれ、アニメとはまるで違う雰囲気を漂わせていた。それにも増して印象深かったのは、『言の葉の庭』が、街のランドマークとなる高層ビルに囲まれた新宿御苑の特徴を、実に的確に強調していたことだ。物語の舞台となった場所から眺めると、わずか数百メートル先に立つNTTドコモ代々木ビルが、強烈な圧迫感を与えてくる。ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルを思わせる姿である。一方には草木を優美に配した庭園、他方にはそびえ立つモダニズムの高層建築。公園の景色だけを見るよりも、この鮮烈な対照を目にしたときのほうが、別世界に迷い込んだような印象が強く残る。『言の葉の庭』の新宿御苑と代々木ビルの組み合わせのように、異質な空間が入り交じって強い対照を生む場面は、新海の監督作では珍しくない。たとえば『天気の子』(2019)で須賀圭介が娘と遊ぶ場面には、港区の芝公園に広がる開放的な都市緑地が描かれる。そこからは、赤と白の東京タワーがはっきりと見える。こうした表現の数々は、新海作品において空間が主題を担っていることを際立たせている。

雨模様の新宿御苑。樹木と池の向こうに代々木ビルがそびえる
新宿御苑の風景。遠方の高層建築は代々木ビル
『言の葉の庭』で、新宿御苑の樹木越しに代々木ビルを望む場面
『言の葉の庭』で、新宿御苑から代々木ビルを望む場面

セルゲイ・エイゼンシュテインは、アニメーションを、アニミズムという方法が直接形になったものと捉えた。人間や動物、さらには無機物までも変形させ、伸縮させ、砕き、組み直すことのできるアニメーションは、対象にそれ自体の生命力を与えているかのように見えるのだ1。しかし、アニメーションをめぐるこの存在論的な命題は、裏を返せば、絶えず変形する対象の「後方」にある、安定して変化しない背景を、存在論のうえでもアニメーションという形式の周縁に置くことになる。背景はただ物語のつながりを保つためにある、自らは何もせず、あってもなくてもよい存在となる。言い換えれば、アニメーションのなかの「非アニメーション的」な存在である。だが近年、デジタル撮影技術が飛躍的に進歩し、アニメ制作において空間という主題をさらに深く掘り下げる道が開かれた。映像の後処理技術が成熟したことで、光と影、色調の繊細な移ろいを描き、形の比較的変わらない背景にも豊かな表情を与えられるようになった。アニメーションという形式に固有の平面性を乗り越えるこうした試みは、いま日本のアニメ産業が新たな表現を切り開こうとするなかで、とりわけ注目を集めている。同じ2026年度に放送されたテレビアニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』(2026)と『ヤニねこ』(2026)は、いずれもこの技術的進歩を示す作品だ。前者の第5話と第11話は、ジェントリフィケーションの進んだ商業空間の複雑な照明や建築素材、さらには電子アートのインスタレーションの質感まで、かつてないほど見事に表現した。空間や風景をアニメ演出の前面へと押し出し、アニメと「実写映画」の技術的な融合が進んでいることを、あらためて示したのである。

『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』に描かれる東京の夜の街路
『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』に描かれる東京の夜景

そして新海誠は、間違いなくこの進歩を積極的に牽引してきた監督だ。2003年の『ほしのこえ』以来、新海は、比較的粗い人物作画を磨き上げることにはそれほど力を注がず、フィルターや光の効果といった撮影処理を用いて、細部まで描き込まれた、透明感と奥行きのある空間をつくることに力を傾けてきた。それによって、いわゆる「風景のきらめきの前景化」を実現し、背景をアニメーションの周縁から演出の前面へと押し出したのである2。なかでも都市空間は、ほぼすべての創作を貫く、変わることのない主題となっている。発想と制作技術の成熟に伴い、近年の作品ほど、都市空間という主題は十分に描き出されるようになった。とりわけ『言の葉の庭』と『天気の子』は、物語の舞台を東京だけに絞ることで、いっそう多声的な性格を帯びている。一方では新海の代名詞である青春の恋愛物語が進み、他方では、物語が深まるにつれて、多種多様な都市空間が幾重にも姿を現す。多くのラブコメアニメとは違い、新海作品の空間は物語の引き立て役にとどまらない。危機を生み出し、物語を動かす役割を積極的に担うこともしばしばなのだ。

2019年公開の『天気の子』は、都市空間の表現を軸に築かれた新海の個性を、最も鮮明に示している。典型的なセカイ系の構造のもとで、帆高と陽菜の恋愛は、東京を水没させるほどの気候危機と結びつけられる。都市のスカイライン、街路や路地、海岸、大気、市民社会のネットワークからなる「複合体」は、登場人物の関係の変化に絶えず応答し、またその変化を引き起こしていく。クライマックスでは、帆高は都市と陽菜のどちらを選ぶかというジレンマに直面する。ここまでの『天気の子』の物語構造は、前作『君の名は。』(2016)を反転させたものに見える。『君の名は。』では、瀧は村を救うことで三葉を救う。対して『天気の子』では、都市を救うには陽菜を犠牲にしなければならない。帆高は都市ではなく陽菜を救うことを選び、その結果、都市は永遠に降り続く雨のなかに沈んでいく。だが、その後に現れるのは、新海の全作品のなかでも最も独特で奇妙な展開である。2年後、東京へ戻った帆高は、自分が見捨てた都市が、しぶとく生き延びていたことを知る。東京は気候変動で海水が入り込んだ環境に適応し、繁栄を取り戻していた。『天気の子』は、都市を犠牲にした後で、その犠牲を撤回したかのようなのだ。同様の主題は、『すずめの戸締まり』(2022)でも、形を変えて再演される。今度は鈴芽が、都市と恋人のあいだで、ためらうことなく都市を選ぶ。こうして見ると、『君の名は。』以降の新海は、一連の脚本上の実験を通じて、セカイ系の古典的な物語構造を繰り返し組み替えている。都市を登場人物同士の関係と対立させたり並置したりして、何度も両者のあいだで選択させてきた。だが、両者に対等な地位を与えているわけではない。人物関係に比べ、都市、あるいは都市空間の存在は、決して揺るがないのである。

この不均衡は、新海作品における都市空間の特別な地位を示唆している。都市空間は物語の舞台となるだけではなく、物語とさらに深く絡み合っており、その関係はまだ十分に捉えられていない。同じ結びつきは、2013年の劇場アニメ『言の葉の庭』にも見いだせる。注目したいのは、『言の葉の庭』が、厳しい批判にさらされた初の長編アニメ『星を追う子ども』(2011)の次に発表された作品だということだ。『星を追う子ども』に比べると、『言の葉の庭』は尺を絞り、新海が慣れ親しんだ創作の領域へ戻って、より得意とする青春恋愛の題材に再び取り組んでいる。劇場アニメへの最初の挑戦に失敗した後、従来の作風へ退却した作品とも見られるし、その後の商業的成功へ向けた再始動とも見られる。前後の創作をつなぐ節目となる作品だ。同時に、新海のこれまでの作品のなかでは比較的珍しい、徹底して現実に即した作品でもある。こうした独特の位置づけゆえに、新海の創作を掘り下げるうえで重要な手がかりとなる。

先に述べたように、新宿御苑のさまざまな風景を描くことは、『言の葉の庭』の中心をなしている。作中では、変化に富んだ配置のアジアの低木、木造の太鼓橋、石灯籠、東屋が織りなす優美な風景が、和歌の担う日本の古典的な精神性と結びつけられている。だが、丁寧に刈り込まれた芝生と開けた眺望を見ると、御苑の造園の骨格は西洋に由来することがわかる。東京都内の多くの大規模な都市緑地と同じく、新宿御苑の起源も、明治期に東京を近代都市へと大規模に改造した事業にある。この改造は、近代的な技術や施設の導入だけにとどまらず、都市計画という概念の確立や、空間の機能の見直しにも及んだ。日本の都市の近代性は、19世紀ヨーロッパの都市計画思想を起点とする。そこでは、都市緑地という概念はすでに十分に練り上げられていた。

19世紀初頭、産業革命が都市化を急速に進め、ヨーロッパの都市は、多様な人々が混在し、ひしめき合う空間へと変わっていった。産業による汚染、劣悪な衛生環境、公共施設の不足、激しい階級対立によって、都市はますます不穏で、嫌悪を催す場所になった。当時のヨーロッパの社会主義思想は、資本主義的生産様式のもとで深刻化する階級分化を問題にしたというより、むしろ、急激に悪化する都市環境への応答を目指していた。こうしたさまざまな弊害を前に、フランス社会主義の先駆者シャルル・フーリエは、集約型の都市を構想した。住宅、工業生産の設備、公共施設を、回廊でつながったロの字型の建物に、用途ごとに分けて配置するというものだ。建物の周囲は農地の緑地帯で囲み、近隣の都市から隔てることで過密を避ける。イギリスのエベネザー・ハワードは、フーリエの構想を引き継ぎ、さらに深めた。ハワードの「田園都市」も、都市の外周に恒久的な農業緑地帯を置くことで都市の拡張を制限するが、それに加えて、公園緑地を都市空間の中心に導入し、都市内部の環境を改善することを求めた。

ハワードの田園都市構想を示す同心円状の計画図
ハワードの田園都市構想

図中の主な表記:図2/市街地1,000エーカー/農業用地5,000エーカー/人口32,000人/中央公園/クリスタル・パレス/大通り/農業学校/牛の放牧地/果樹園/療養施設/区画貸し農園。

今日、「田園都市」はごく一般的な都市計画の理念となっている。だが、現在の計画者がしばしば見落としているのは、19世紀の一連の都市ユートピア思想が、汚く混乱した都市環境を物理的に改善するだけでなく、意識的な空間設計と社会制度の整備を組み合わせて、都市住民の行動を律しようとしていたことだ。その背景には、次のような考えがある。都市空間は、人間の欲求を物質世界へ一方的に投影してつくるものではなく、逆に住民の内面にも作用するものでなければならない。したがって、望ましい振る舞いをする近代的な個人を生み出すには、良好な都市空間が必要となる。個人と空間、どちらの秩序も自然に生まれるものではなく、理性に基づく計画を要する。その作業は、社会を設計する技術であると同時に、物質的環境を設計する技術でもある。より政治的な観点から評すれば、19世紀の都市ユートピアの計画者たちは、この二重の技術を合理的に運用することで、近代社会に固有の動揺を回避し、「革命を取り除いた社会主義」を実現しようとしたのだ。都市ユートピア思想を批判したジェイン・ジェイコブズが指摘したように、「田園都市」の理念の本質は、静的で家父長的な環境の維持にある。変化も、ユートピアの計画からはみ出す一切の要素も、そこでは歓迎されない。3

とはいえ、日本の都市近代化の出発点である明治期に、都市ユートピアが大きな影響力をもつ先鋭的な理念だったことは確かである。ヨーロッパのユートピア的計画に含まれていた都市緑地の概念も、それとともに日本へ持ち込まれた。19世紀後半、戊辰戦争を通じて成立した新体制は、国家と国民の近代化を担い、社会へ理性を注ぎ込む中心的な主体として、自らを位置づけた。そして、「文明的な国民は、文明的な空間で、文明的な活動を行わなければならない」という単純明快な理屈によって、その頃すでにヨーロッパに登場していた都市公園を受け入れた。東京の北東部にある上野公園は、この西洋由来の公園が、国家主導の近代化事業にどう織り込まれたかをよく示している。維新政府軍が幕府を破って江戸城を接収すると、現在の上野公園のある地域の土地は、その大部分が国有財産とされた。オランダ人医師ボードワンの提言を受け、1873年、上野は東京で最初に指定された五つの太政官公園の一つとなった。他の明治期の都市公園と比べ、上野公園には、とりわけ多くの公共文化機関が置かれた。博物館、図書館、動物園、日本学士院、東京美術学校、東京音楽学校が相次いで集まったのである。

同時に、上野公園は国家の公的な儀式を執り行う場でもあった。明治天皇は1876年、1877年と続けて公園を訪れ、開園式と勧業博覧会に出席した。新たな公共空間に対する国家の主権を宣言するとともに、当時の日本社会にはまだなじみの薄いこの舶来の施設を、国民へ贈与したのである。維新体制が存続できるかどうかも不透明だった時期に、それは社会契約の最初の草案を差し出す行為となった。近代化の後発国では、国家の行為が市民社会をかたちづくるという性格が、そこに際立っている。4この都市公園では、遠い過去の文物と遠い土地の動物が科学的な管理のもとに置かれ、公衆に展示された。過去へと延びる時間軸と、同時代の空間的な広がりの両方において、国家の正統性を語る物語が拡張されたのだ。公園の設置当初から営業していた西洋料理店の精養軒さえ、栄養の近代化を推し進めるという進歩の物語に取り込まれていた。上野公園が切り開いた空間そのものも、すでにこの物語の一部に組み込まれていた、といえるのかもしれない。

上野公園とは異なり、新宿御苑は1879年に皇室の領地となり、戦前には一度も一般に開放されなかった。20世紀初頭、政府はイギリス人の設計者を招き、皇室の活動に用いるために、御苑を西洋式庭園へと改造した。この時点で、園内の景観はすでに現在に近いものとなっていた。もっとも、それは当時の新宿御苑が社会と無縁だったという意味ではない。皇室はこの庭園を、上流社会の社交や国家儀礼の場としても使っていた。とりわけ1927年には、ここで大正天皇の国葬が行われている。第二次世界大戦後、政府は戦禍を受けた新宿御苑を復旧し、今度は一般に開放した。かつてここで行われていた園芸行事も、一般向けの催しとなった。1970年代から80年代にかけて周辺の不動産開発が進むと、都心に位置する新宿御苑は、近代的な高層建築に囲まれた景観を徐々に形づくっていった。1989年、新宿御苑は再び国際的な注目を集める。ここで行われた昭和天皇の葬儀に、日本の政界要人と各国の代表が参列したのである。これは、その社会的機能が大きく変わっても、新宿御苑が上野公園とともに東京の都市公園・緑地体系の一部として、国家との密接な関係を維持していることを示していた。伝統と近代、国家と国民、自然と人工。そのいずれもが入り交じる性格は、いっそう強まったのである。

『言の葉の庭』は、青春恋愛劇という表向きの姿の下で、こうしたさまざまな要素が入り交じる様子を映像にとどめている。むしろ、恋愛の筋立てを通じてこそ、新宿御苑を取り巻くこの混成性をあらゆる層にわたって探った作品だといったほうがよい。『言の葉の庭』が描くのは、世の常識を揺さぶる教師と生徒の恋である。主人公の秋月は、新宿御苑を歩き回るうちに、自分の通う高校の教師・雪野に出会い、彼女が教師とは知らないまま恋愛関係を育んでいく。結局のところ、秋月と雪野の恋は、やはり倫理に反する恋なのである。相手の立場を知らなかったという事情がなければ、観客は二人の関係をそう簡単には受け入れられないだろう。こうした倫理的な曖昧さは、新海のアニメによく見られる要素だ。この監督は、恋人たちの「不適切」なやり取りを、大衆向けの作品に包み込むことに長けている。そして、その「不適切」な場面自体も、新海作品のモチーフの一部をなしている。不可能な関係を築く可能性、というモチーフである。

初期の『ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』(2004)では、関係の不可能性は、物理的あるいは社会的な空間の隔たりとして設定されていた。その後の『秒速5センチメートル』では、空間的な距離は依然として存在するものの、真に越えがたいものは、人生の軌跡のずれと心の壁へと変わる。『言の葉の庭』になると、不可能性を生むのは、教師と生徒という立場の隔たりだ。ここでは空間、より正確には新宿御苑が、逆に、その隔たりを越えて関係を築くための積極的な条件となる。学校では序列が明確な教師と生徒の集団も、駅を行き交う人波に洗われると、都市を孤独にさまよう一人ひとりへとばらばらになる。東京の都市公園の体系が成立当初から求めていたとおり、新宿御苑を訪れた秋月と雪野は、この空間によって、特別な身分も個人の来歴も取り払われ、誰もが平等な市民社会の一員として迎え入れられる。この前提があって初めて、二人は立場の制約を越え、関係をさらに深められる。だから、相手の立場を知らずにいたことは、ご都合主義的な舞台の仕掛けではない。新宿御苑という空間の構造が可能にしたことなのである。

雪野が和歌を引用すると、新宿御苑の夏の風物は、古代の感性が日本語を通じて現代の都市空間に広がり、再び現れたものとして意味づけられる。こうして意味を広げることは、御苑という空間や二人の関係を特殊なものにするどころか、国家の歴史をめぐる神話を介して、市民という立場の均質性と普遍性を強めている。新海は都市公園の歴史を意識的に踏まえたわけではないのかもしれない。それでもなお、1世紀前の東京の都市公園の計画者たちが、この空間に託した機能を正しく描き出している。それは、都市公園に当初与えられた機能が、20世紀の政治的変動を越えて、公園の物質的なあり方にしぶとく刻まれ続けていることを示す。その機能は、現代日本の社会のあり方にも作用する文化の地層となっているのだ。新海は都市の現代史の記録者として、そのことを忠実に捉えたのである。

『言の葉の庭』に描かれる新宿御苑の東屋と庭園
『言の葉の庭』の新宿御苑

人物関係そのものを成り立たせるこの働きゆえに、新海のアニメにおける新宿御苑は、トーマス・ラマールのいう「インフラ」になぞらえることができる。狭い意味で、ラマールがこの概念によって指すのは「放送・インターネットサービス」、つまりメディアの物質的な基盤である。これらのメディア・インフラは個人とつながって生活の隙間を埋め、身体的な経験を調整し、プラットフォーム上で共振させる。5『言の葉の庭』でも、新宿御苑はまさにメディアに似た仕方で、人物関係の条件をつくり出している。公園の空間へ入ると、登場人物たちはおのずと外的な身分や属性を脱ぎ捨て、互いの内面に引きつけられる。そうであれば、新海作品の描く東京の都市空間は、すでに「仮想化」されているといえるだろう。物質的なインフラとして具体的な物理機能を果たす以前に、都市空間は心理的・文化的なインフラとして、個人に一様で空白の社会的な身分を与えている。人々が公共空間をさまように任せ、その内に純粋な情熱を呼び起こして、自らの空白を埋めさせるのである。

インフラとしてのメディアは、情報を符号化して電波に乗せ、送信し、受信した信号を復号することを絶えず繰り返し、「エーテル」を技術的に占有する。同じように、インフラとしての都市空間も、自然へと技術を拡張していく営みとして現れる。そこでは必然的に、人間の労働と理性が、空間、景観、環境を貫き、包み込み、組み直すことが求められる。『言の葉の庭』は、一方で新宿御苑を、コンクリートの森から隔てられ、自然の景観を残す飛び地として描く。他方では、公園が高層建築に取り囲まれる壮観を強調することで、この景観もすでに技術によって媒介されている事実をあらわにする。垂直に伸びる現代の高層建築は、ある程度まで、19世紀の都市ユートピアの構想の延長にある。より少ない土地からより多くの床面積を得て、人間の活動が天候に左右される度合いを減らし、同時に、より多くの土地を生態環境の回復に充てる。その理想の実現は、20世紀の土木技術の進歩、農林業における育種の実践の蓄積、そして複雑な都市の管路網や道路の設計に、全面的に依存している。

『言の葉の庭』が描いているのは、都市に断片的に残る自然ではない。自然なものとして受け取られるようになった技術の体系なのだ。人物同士の関係は、都市空間の景観だけでなく、行動や社会関係にまで技術的な調整が加えられることで展開していく。一方で、その技術的な基盤が忘れられ、民族の神話が呼び覚まされることも、関係の成立には欠かせない。だが、作中で繰り返し登場する、新宿御苑を空から俯瞰する場面は、逆の作用をもつ。航空機や高層建築の屋上から見下ろすような、自然には得られない視点が、景観の自然化を揺さぶるのだ。こうして、新海による都市のフェティシズム的な描写は、さまざまなものが混じり合い、境界が曖昧になった現代の都市空間を際立たせ、ブルーノ・ラトゥールのいう「ハイブリッド(混成体)」としての側面を存分に示しているのである。

『言の葉の庭』で、高所から新宿御苑を見下ろす場面
『言の葉の庭』で、新宿御苑を俯瞰する場面

都市空間を技術の働く場として描くことは、新海作品に偶然現れたわけではない。デビュー作『ほしのこえ』は、セカイ系という物語の型の基礎を築いた作品の一つとされるが、同時に、スペースオペラの要素を含むSFアニメでもある。だが、このSF作品に新海が最初に置いた技術的な要素は、宇宙船でも、宇宙人でも、巨大ロボットでもない。デジタル無線通信、つまりメディアだった。携帯電話の電波が届く範囲を「世界」と捉える台詞は、新海のセカイ系作品群全体に、技術との強い結びつきを与えている。新海のセカイ系が生まれたときから、「世界」はすでに技術によって深く媒介された場所だった。世界の広さは技術的インフラが到達できる最大範囲によって決まり、世界の存続に結びつけられた人物関係は、インフラが滞りなくつながるかどうかに左右される。技術的インフラが届くか届かないか、心が通じ合うか通じ合わないか。この二つの成否がさまざまに交錯するところに、セカイ系の豊かな変奏が展開する。

『ほしのこえ』で新海は、無線通信というメディアを、距離を隔てて瞬時に作用するものとして描くことを、とりわけ慎重に避けている。代わりに強調するのは、無線信号が空間を物理的に伝わることだ。この物理的な仕組みを使って、空間的な距離を、時間の流れに沿った物語へと置き換え、距離の存在を際立たせる。言い換えれば、新海の作品は、技術を空間化することによって、空間を物語化しているのである。同じように、『秒速5センチメートル』(2007)の第1部では、貴樹が東京と栃木のあいだの距離を鉄道で往復することが、物語の主要な筋をなしている。新海作品では、技術的な施設がつねに特定の物理的な空間の範囲に対応し、その範囲を指し示す。このことが、新海作品における、いわゆるスケールの移行を生んでいる。それは、鄧紹宏(Tim Shao-Hung Teng)が分析したような、現代の技術環境の受動的な反映であるだけではない。その環境に立脚して物語の可能性をつくり出そうとする、新海の能動的な試みでもある。技術は人間を周縁へ追いやるどころか、人間関係を築く実験の場となっているのだ。6

初期の『ほしのこえ』と『雲のむこう、約束の場所』、そして『星を追う子ども』はいずれも無線技術に焦点を当て、インフラの広げる「世界」を宇宙のスケールに位置づけている。一方、『言の葉の庭』は、その範囲を新宿御苑のわずか60ヘクタールにまで狭める。この二つのまったく異なるスケールをつないだ作品が、『秒速5センチメートル』である。この作品には、新海作品群に登場する技術的インフラの要素がすべて凝縮されている。登場人物たちがインフラを使って日本の国土を横断する軌跡を描くことで、鉄道や航空路、郵便、無線通信といった、あらゆるインフラが人物関係にどのような可能性を与えられるかを試しているのだ。そのクライマックスでは、種子島の発射場から1基のロケットが飛び立ち、深宇宙探査機を遠い宇宙へと送り出す。この作品はここで、技術的インフラの範囲を再び宇宙のスケールにまで押し広げることに成功している。続く場面では、飛ぶ鳥を追う視点とともに、映像は遥かに広大な宇宙から再び東京の都市空間へと戻ってくる。宇宙、生態系、技術的インフラが連続するハイブリッドのなかに、複数の空間的スケールを配置し、それを物差しにして、登場人物たちの心の距離を測るのである。

『秒速5センチメートル』で、街並みの向こうの空へロケットが上昇する場面
『秒速5センチメートル』のロケット打ち上げ場面

『天気の子』では、東京の都市空間が、再び天文・大気現象と結びつけられる。ただし今度は、降り続く雨は、人為的な介入を受けた技術的な出来事としては現れない。インフラとしての都市空間に、超越的な外部から作用する。新海の直近3作のアニメは、3・11の震災が日本社会にもたらした心の傷に、集中的に応答しようとしている。超越的な天文・地質現象の導入は、その方向への創作上の変化を映している。人工のインフラは、もはや人物関係を成り立たせる唯一の、壊れることのない条件とは見なされない。そこに潜む物質的な脆さが、詳しく描かれるようになった。作品ごとに超越的な災害の性格が捉え直され、都市空間と人物関係の結びつきも組み替えられるが、それでも新海はつねに都市を危機から救い出す。『天気の子』の結末では、一方で東京の住民たちが、気候と地質の変化は永続するのだと受け入れる。他方では、気候変動に適応した人間の技術が、都市のインフラの再建に成功する。これによって、新海の作品は、日本のアニメで長い歴史をもつ「技術を介した生存」という主題の系譜へと入っていく。この主題は、技術が自然に打ち勝つという人間中心主義の視点を手放し、絶えず変動する環境のなかで、人間が技術を使ってどう生き延びるかに目を向ける。「技術を介した生存」はハイブリッドの領域へ踏み入り、技術が万能だという考えも、自然が調和的で不可侵だという考えも否定する。人間は、自然との永遠の緊張と摩擦のなかで、生存を模索しなければならない。技術がつくり出す、自然と人工の入り交じった空間にも、やはり危機は満ちている。だが、生きる道を探すには、そこに頼るほかないのである。

宮崎駿が1984年に監督した『風の谷のナウシカ』は、アニメーションで技術を介した生存という主題を探るうえで、その礎を築いた作品である。このアニメをエコロジーの観点から読む解釈はよく見られるが、宮崎自身による漫画版が示しているのは、それとは異なることだ。主人公ナウシカの生きる生物圏には、そこにいる現在の人類自身も含めて、自然のままのものは一切ない。すべては、前の時代の人類がつくり出したバイオテクノロジーの産物なのである。だが、まさに技術が介入したおかげで、生物圏全体は核による破局を生き延びることができた。物語の最後に、ナウシカは前の時代の人類の帰還を拒み、徹底して技術に媒介された、この破局後(ポストアポカリプス)の世界を存続させることを選ぶ。生存。それが、技術倫理の問題に対して彼女が出した答えだった。

『風の谷のナウシカ』は、その制作に参加した庵野秀明に大きな影響を与えた。庵野は自身が監督する『エヴァンゲリオン』シリーズに、『ナウシカ』の多くの要素を持ち込み、そのなかには技術を介した生存という主題も含まれていた。2021年公開の新劇場版の完結編で、庵野は工業技術が生み出す圧倒的な光景を見せる衝動を抑え、長いシークエンスを使って、破局後の荒廃した環境のなかで、人の住める小さな空間を守りながら暮らす生存者たちの集落を詳しく描いた。この集落は、土地を耕すきわめて素朴な暮らしを守りながらも、地表を覆う、神性を帯びた有害な環境から身を隔てるために、最先端の技術を必要としている。それは実質的に、『ナウシカ』の破局後の想像力を再現したものだ。国際的な影響力をもつ新世代のアニメ監督を代表する新海誠は、『天気の子』で、宮崎以来の技術を介した生存という主題を引き継ぎ、さらに多様な側面を加えた。この主題を、危機感、さらには悲観を帯びて描く宮崎や庵野とは異なり、新海は、現代人が現実に暮らす都市に絶対的な信頼を寄せている。危機に打ち勝つだけの知恵が都市にはあると信じているのだ。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』における、生存者の集落の環境改変実験
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で、生存者たちが行う環境改変の実験

新海の楽観的な態度は、都市への強いフェティシズム的な愛着にも由来している。『天気の子』には、実在の都市の細部が息をのむほど豊かに描き込まれ、都市空間の騒々しく混乱した雰囲気がきわめて生き生きと伝わってくる。そして『秒速5センチメートル』と『天気の子』の両方に見られるように、異質なものが入り交じるこのインフラの空間は、人々のあいだのつながりを解体する一方で、むき出しの個人が心を触れ合わせるための条件も提供する。この意味で、『言の葉の庭』と『天気の子』は、『秒速5センチメートル』のネガをなしている。都市に『秒速5センチメートル』のような、すれ違って出会い損なう可能性があるのなら、同時に、『言の葉の庭』や『天気の子』のような偶然の出会いの可能性もある。この二つの面が合わさって、東浩紀のいう「誤配」をかたちづくる。都市がどのような関係を生み出しうるかについて、明確な答えを出すことが、新海の関心ではない。彼がそれ以上に重んじるのは、この問いを未決のまま、不確かさのなかに保つことだ。実際、そうすることで、想像もつかないような、制約を越える関係が生まれる可能性は閉ざされずに済む。そしてセカイ系作品である以上、大規模な物質的危機は、人間関係の危機の隠喩に相当する。だから『天気の子』において、人と人の心をつなぎ、感情や心の危機を乗り越えられる都市は、必然的に、物質的な危機にも打ち勝てるのである。

セカイ系の物語への批判は、個人と世界のあいだを媒介する社会の概念が欠けていることを、繰り返し指摘してきた。そして、その欠落をセカイ系の本質的な特徴としてきた。だが、新海の近年のセカイ系作品は、この枠組みを突破しようとしている。『天気の子』も『すずめの戸締まり』も、インフラを介して実現する個人と個人のつながりを、広く人々を結ぶネットワークへと意識的に広げようとしている。こうした作品のなかに「社会」の概念を復活させ、物語の「中景」を築き直そうとしているのである。ただし、この試みには危険もある。物語がセカイ系の文学的想像力を失い、現在の社会と物質的現実、とりわけ東京の都市生活をただ肯定するだけのものへと縮んでしまいかねないのだ。この近年の動向は、先に触れた問いをあらためて突きつける。『天気の子』と『すずめの戸締まり』では、都市を救うことと人を救うことがどのように引き換えにされようと、主人公がどちらを選ぼうと、なぜ最後には都市が救われるのか。答えは、こうかもしれない。都市のインフラと人間関係の結びつきを探ることを変わらぬ主題とするこの監督にとって、都市の崩壊は、自らが慣れ親しみ、好んできた人間関係の型を、もはや組み立てられなくなることを意味する。それどころか、「物語」そのものまで、ともに終わってしまうおそれがある。物語を想像し続けるためというだけでも、新海にとって都市の崩壊は、どうしても想像できないものになるのだ。

言い換えれば、私たちは新海の近作を、もっと厳しく批評すべきなのだ。そこに描かれる社会の人間関係の可能性への絶対的な信頼は、都市インフラの物質的な堅牢さや技術の可能性を新海が信じているから生まれたのではない。逆である。都市は必ず災害を乗り越え、技術を介して生存し続けられるという堅い信念は、社会が変わった姿を彼がまったく思い描けないことから生じている。新海には、都市の生活や人々の交わり方、つまり日本社会に広く行き渡る「日常」と「空気」が、根本から変わる可能性を想像できないのだ。この過度に楽観的な、さらには問題を避けてさえいる態度のために、技術の問題も浅く掘り下げただけで終わってしまう。技術の有効性やインフラの堅牢さを疑うのをあまりにも簡単にやめ、物語の重心を人間関係のドラマへと移して、技術的インフラを無条件に肯定するだけになる。宮崎駿、庵野秀明、大友克洋といった、20世紀に活躍したアニメ監督たちと比べると、新海のこの態度には、批判性の乏しさがとりわけ際立つ。

つい最近、新海は2026年に新たな劇場アニメを公開すると発表した。この作品は、より幅広い人々の関係を描くとともに、『ほしのこえ』で試みた宇宙SFの題材に戻るものだという。この題材の選択を見ると、主題や作品に盛り込む要素に強い一貫性をもつこの監督は、都市をめぐる映像と物語の探究をすでにやり尽くし、そこを離れて、新たな要素の組み合わせを試そうとしているようだ。

『天気の子』に描かれる、気候変動に適応した後の東京の都市景観
『天気の子』で、気候変動から立ち直った東京

ただ、新海個人の作品を離れて考えると、彼が切り開いたアニメの技術と表現の可能性は、この先の数年間もアニメ制作を刺激し続け、都市空間のより豊かな表現を生み出していくだろう。都市を演出の前面に置く作品を、私たちは間違いなくもっと目にすることになる。新海がアニメ監督としてデビューしてから今日まで、日本の都市景観もずいぶん変わった。ジェントリフィケーションの進んだ商業空間や公共の場の姿も、新自由主義化の進行とともに少しずつ変わってきた。新海のアニメにおける都市景観の質感の変化は、アニメ技術の進歩だけに由来するのではない。描く対象そのものの変遷をも忠実に記録している。これからのアニメは、現実を記録するこの働きを、さらに先へと引き継いでいくことができる。

本文終わり
注06

注釈

  1. Thomas Lamarre, “Animation and Animism,” in Animals, Animality, and Literature, 1st ed., ed. Bruce Boehrer et al. (Cambridge University Press, 2018). 中国語訳は「アニメーションとアニミズム」を参照。 ↑

  2. 滝浪佑紀「きらめく世界の唯物論――新海誠作品における風景について」『城西国際大学紀要』26(5)、2018年、pp.1–17。本文の引用はp.4。同論文の中国語訳も参照。 ↑

  3. ジェイン・ジェイコブズ著、金衡山訳『美国大城市的死与生』訳林出版社、2006年、p.17(中国語版)。 ↑

  4. Thomas R. H. Havens, Parkscapes: Green Spaces in Modern Japan, University of Hawai‘i Press, 2011, pp.28–31. ↑

  5. Thomas Lamarre, “Living between Infrastructures: Commuter Networks, Broadcast TV, and Mobile Phones,” boundary 2, 42(3), 1 August 2015, pp.157–170. 中国語訳は「インフラのあいだに生きる――通勤網、テレビ放送、携帯電話」を参照。 ↑

  6. Tim Shao-Hung Teng, “Time, disaster, new media: Your Name as a mind-game film,” New Review of Film and Television Studies, 20(4), pp.459–488. 中国語訳は「時間、災害、ニューメディア――マインドゲーム映画としての『君の名は。』」を参照。 ↑

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