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「島宇宙」、「セカイ系」、「マゾヒズム」

鍾子默は幻想、被虐的幻想、島宇宙を手がかりに、『天気の子』における社会的媒介と政治的決断の曖昧さを批判し、異性愛による救済を問い直す。

著者: 钟子默中国語版校閲: 伦勃朗翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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鍾子默

関心:ACG文化研究/ジェンダー/空間/思想史。共感があふれて止まらない、周縁の観察者。

ラディカルな視点から映画を読み解くなら、私たちは、その映画が「未完の現実の存在論」としての役割を果たしているかを検討することになる。つまり、映画が幻想を繰り返し演じ(act on)、幻想どうしの矛盾が露呈するところまで進み、大他者の魅惑的な現前を暴いているかどうかである。それができる映画には、唯物論の核心に向き合う可能性がある。ただし同時に、幻想を横断しようとするあまり、出来の悪い幻想を見破ったという際限のない自己満足に浸ってはならない。要するに、基本的な幻想さえ成立させられない作品を肯定し、「駄作の崇高化」へと走ってはならないのだ。駄作はまさに、観客が作品からほどよく美的距離を取れるようにしてしまう。うまく機能しないことが、かえって現実の「自己満足」を裏づけ、作品としての無能さが、観客にそこへ幻想を持ち込ませてしまう。だからこそ、いっそう批判的な検討が必要なのだ。

『天気の子』は、そうした失敗の典型なのかもしれない。十分に引き込まれる仮想空間(virtual space)を作れない一方で、曖昧な政治的イメージを作り出し、人々が断片的な幻想をもとに、この映画の倫理的価値を擁護できるようにしている。「唯々諾々としているのが、いちばん反動的だ」とはどういうことかを、鮮やかに示してくれる。この作品への批判の核心は、「主体の欲望に忠実である」か「大他者の人柱力になる」かという二つの対立する価値の扱いが不明瞭で、単純化されていることではない。社会倫理の問題を天候のスペクタクルに集約し、社会的・政治的媒介を希薄にしていることでもない――新海誠に対する批判として、そこに新味はない。そうではなく、パンク的な荒廃世界が日常となるという、より大きな批判的可能性を持つ主題を描くことに失敗し、個人と社会を媒介する関係を描こうとしながら尻込みしていることだ。この「ためらい」が生んだ綻びを、ばらばらの「幻想」が縫い合わせ、私たちは出来の悪い映画のなかに「中道政治」を探すことになる。

『天気の子』より、沈んだ表情の帆高と、周囲を飛ぶ鳥たち

まず、東京への型どおりの偏見と警察の愚かさがともに示しているのは、この作品が社会的媒介に近づこうとする試みのひどさだ。東京へ出てきたばかりの主人公は路上で寝泊まりして殴られ、思いがけず銃を手にしたことで、暴力装置である警察の捜査に巻き込まれる。ヒロインは母親を早くに亡くしたため、年齢を偽って働き、生きていかなければならない……。こうして仕組まれた場面の数々は、個人と社会の矛盾をまっすぐに指し示し、のちに主人公が「個人―社会」の矛盾を解決しようとして取る、さまざまな突飛な行動をもっともらしくする材料を用意しようとしている。しかし、まさにこの箇所で新海誠は、「銃」が出現する背景と、主人公が巻き込まれた矛盾とのつながりを説明していない。禁制品の背後に広がるはずの社会的な関係網は、まったくの空白だ。生きた東京の顔も描かれず、代わりに置かれるのは「都市の抑圧」と、新参者を案内するNPC(おじさん)。そうして、ひどく型どおりの日本的な軽喜劇が再現される。この論理の空白を埋めるために、新海誠は、ほとんどおあつらえ向きに、主人公の「被虐的幻想」を何度か演じてみせる。悪人の凶悪な形相、主人公の濡れた身体、拳、赤く腫れた顔……。こうした典型的な被虐の記号を使い、主人公に同一化する観客の享楽をかき立てることで、物語を支える論理の乏しさを覆い隠すのだ。

ゆでガエルの喩えのように、人々は雨によってじわじわと追い詰められる。この雨は、災厄であると同時に、その災厄の到来を先延ばしにするものでもあり、日常生活が展開する余地を、なんとも居心地の悪い形で残している。ここでの欠点は、作者に政治的想像力が欠けていることを露呈し、物語の展開を青春の日常コメディに託すしかなくなっていることだけではない。メシアの到来を先取りしたために、メシアへと至る歴史が、際限なくおしゃべりを続ける「ガベージタイム」――勝敗が決したあとの残り時間――になってしまうことにもある。しかも、その時間の退屈さに、脱構築主義が好むポストヒューマン的な精神が応えることもない。言い換えれば、最後に東京を襲う災厄を知ったうえで映画の冒頭を振り返れば、次のように考えるのは難しくない。災厄の隠喩は物語の始まりですでに提示されている。そこから、一つには緊急状態への応答が導かれる。迫りくる終末を前に観念のうえで決断するという応答であり、それが登場人物の凝視、沈思、疑念、そして認めまいとする態度に表れる。あるいは、神経症的な不安を捨て、「歴史終焉論」の立場を取る。そこにあるのは、もはや終わりの訪れない「終わり」、すなわち終わりなき日常だ。ところが『天気の子』は、そのどちらでもない。メシア以後、人々が「ガベージタイム」にポストモダン的に適応する姿を作り出しながら、それでも必ずやってくる決断を、中盤以降になって改めて描かずにはいられない。そして、まさに政治的媒介が曖昧であるがゆえに、主人公の決断はきわめて疑わしく見える。

『天気の子』より、狭い個室でひとり食事をする帆高

中国語の歌詞字幕は、何も持たない両手のまま、こうして生まれてきた自分、という意味。

社会的媒介をめぐるもう一つの問題は、主人公と警察とのあいだの「速度の政治」だ。双方はずっと、互いに相手を誤解するという耐えがたい状態にあり、追跡劇の始まりから終わりまで、一度としてまともに意思が通じ合わない。ここに私たちは、きわめて典型的なストレス反応を見る。観客がなかなか同一化できない主人公の、その奥深い幻想のなかで、警察はすでに人格という衣を失い、機械の顔をむき出しにしている。その任務は、権力の末端として捕まえること、それだけだ。序盤の「マゾヒズム」の芝居は、この反応の辻褄を合わせるためだったのではないか、と疑わずにはいられない。身体に加えられる暴力が、じかに感じる痛みと、逃れたいという欲望とにあまりに強く結びつくため、政治的な駆け引きにおける暴力の役割も、それを組織する技術も、どうでもよいもの、さらには憎むべきものになってしまうのだ。

だが、こうしたドゥルーズ―浅田彰的な「逃走主義」は、まさに「欲動の行き詰まり」へと至るのではないか? 作者の意図が、うんざりするほどひねくれた形で露出することになるのではないか? 主人公が線路を走る、あの興ざめな場面に見えるのは、これといって見るべきところのない反復運動だけだ。傍らの人々が疑問を投げかけるさまは、ゲーム機本体(作者)のアルゴリズムをぎこちなく実行しているかのようで、もともとひどいことこのうえない政治的意図をいっそう強めている。まさにここで、私たちの幻想は遡及的に失敗を宣告される。そして私たちは、映画を少しでも肯定できる価値を見つけようと、序盤に散りばめられた日常の断片に「温もり」を探すことに、ほとんど否応なく追い込まれる。これもまた、間違いなく「巧み」な幻想による欺きである。

『天気の子』より、ヘルメットをかぶって線路を走る人物の後ろ姿

作者の意図が前に出すぎたために、価値観の対立の仕掛けが論争を生んでいる。そこにも、同じ欺きが表れている。なかでももっとも危険なのは、主人公の価値観がおかしいと批判することだ。というのも、主人公の価値観という問題は、曖昧な倫理の表面でしかないからだ。そして、それを議論の的にすることは、新海誠の狙った世論の反応でもある。その狙いとは、日本の若者の孤島化と脱政治化という時代精神(Zeitgeist)を論じさせることだ。主人公の価値観に焦点を合わせた時点で、私たちはすでに、倫理をめぐる幻想が仕掛けた罠のなかへ、暗黙のうちに足を踏み入れている。そうして遡及的に、映画にいくらかのリアリズムの価値を見出すことになる(同じように、作中の人々が「雨」をさほど気にかけないことも、ポストモダン的な凡庸さとして誤読されやすい)。だが問題の核心は、『天気の子』が倫理的な議論の場を作ることに、完全に失敗している点にある。日常を通じて築かれた感情の絆は、都市の存亡という、根本的な是非を問う問題には太刀打ちできず、その結果、主人公への鏡像的同一化が崩れてしまう。つまり、私たちはそもそも価値観を論じる文脈に入っておらず、当然成り立つものと思い込んだ議論を、そこへ持ち込んでいるだけなのだ。

『天気の子』より、帆高と陽菜

たとえ私たちが、こうした政治的な筋道を無視し、映画の数々の不合理を忘れて、主人公とヒロインの感情、さらにはその感情の隙間にまで心を奪われたとしても、この幻想の置き換えにはなお疑問が残る。社会的責任をめぐる幻想を異性愛の幻想で置き換えることを、巧みと呼べるのか? さらに言えば、「セカイ系」を、誰もがわが身の危うさに怯える「島宇宙」で置き換えることは、本当に救いをもたらしたのか?

本文終わり

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