
才能?ないよ!
新海誠の新作『天気の子』について、ありうる精神分析的な解釈の一つは、主人公が最後に下した選択を倫理的な選択と捉えるものだ。主人公は土壇場で、自らの欲望を選んだ。私たちが目にしたとおり、陽菜を救うためなら、彼はすべてを犠牲にすることもいとわない(この意味で、主人公の選択はまさに〈大他者〉への挑戦ではないか。現にある社会秩序を全面的に停止しようとするものなのだから)。しかし、ここではむしろ逆の道をたどり、倫理をめぐるキルケゴールの決定的な洞察をもう一度取り上げるべきなのかもしれない。倫理そのものが誘惑なのだとしたら、どうなるだろうか。主人公は陽菜のために犠牲を払う。だが、自ら払った犠牲に、どのような態度で向き合うべきなのか。
ここで私たちは、キルケゴールの足跡をたどり、悲劇的英雄―無限の諦めの騎士―信仰の騎士という三項構造を検討する必要がある。悲劇的英雄は〈物〉のために自分を犠牲にする。無限の諦めの騎士は、さらにその犠牲を自ら確認する。犠牲という身振りは、ここで対他的なあり方から対自的なあり方へと転じる。最後に、信仰の騎士は犠牲という身振りそのものを放棄する。ジジェクの言い方を借りれば、彼はその犠牲を犠牲にするのである。これはまさに典型的なヘーゲル的三項構造であり、そのなかで倫理は、無限の諦めを媒介として信仰へと止揚される。

この三項構造に照らして映画の展開を位置づけることは難しくない。主人公の選択こそ、〈物〉のための犠牲ではないか。彼は映画の結末で、その犠牲をもう一度確認しているのではないか。しかし、ここでは弁証法的過程の第三項が欠けている。主人公は自分の犠牲を犠牲にしようとはしない。彼には、その犠牲を通じて享楽することが必要なのだ。
まさにこの意味で、『天気の子』の二人の主人公の恋は、「女は男の症状である」という、あの悪名高い言葉を完全に裏づけている。帆高は、陽菜を介して二重に自分を省みる。陽菜の視点に立ってはじめて、自分の犠牲には「意味がある」と見なし、「自分の犠牲を確認する」ことができるのだ(映画の前半で、陽菜が晴れ女になる代償が繰り返し強調されるのも無理はない)。こうした働きこそ、ファルス1の果たす役割ではないか。ファルスは欲動の「悪無限」から主体を救い出し、それによって欲望する可能性を与えるのである。

中国語の歌詞字幕の意味:なぜ、私たちに与えられるものは、どれも不確かなものばかりなのか。
帆高は、陽菜がいることで、自ら払った犠牲をめぐる行き詰まりを回避できる。だが、その行き詰まりこそ、精神分析的な意味で真に倫理的な主体が向き合わなければならないものである。「陽菜を救うか、東京を救うか」という選択を前にして、真に倫理的な態度は、存在しない第三の選択肢にこそあるはずだ。すなわち、陽菜も東京も失うことである。こんな結末を想像してみよう。帆高は結局、陽菜を地上へ連れ戻すことを選ばなかった。土砂降りの雨のなかで再び目を開けたとき、彼は自分が警察に逮捕されていることに気づく。そればかりか、陽菜の記憶さえ失っている。残されたのは、ただあの指輪だけ――「頭蓋骨」、真に消し去ることのできない不活性な残余、対象a……。

中国語の歌詞字幕の意味:なぜ、限りある人生に対して私たちを――。
もう一度、弁証法的な三項構造の問題に戻ろう。この欠けている第三項こそ、弁証法的過程で最も重要な「否定の否定」なのだ。それが欠けているために、映画全体が、秩序を侵犯しようとする卑猥な試みになっている。同じことは、主人公の警視庁への反抗(治安秩序への反抗の比喩と見ることができる)にも言えるのではないか。ここで、中世のカーニヴァルの儀礼を思い浮かべるのはたやすい。一年のうちのある日、都市の女たちは街頭に繰り出し、普段は男性市民しか行使できない権利を行使することが許される。この一日は既存の社会秩序がことごとく停止されるが、カーニヴァルが終われば、すべてはただちに平常へ戻る……。映画が私たちに示したとおり、東京の雨は結局やまず、主人公の生活もまた日常へと戻っていく。
最後に、あらためて映画の結末に目を向けよう。『天気の子』の結末が新海誠の初期作品と大きく異なるのは、明らかな事実である。ここでは、新海誠は不可能な恋に忠実である姿勢(〈物〉は禁止されなければならない。そうしてはじめて現象が可能になる)から、そうした恋の背後に潜む可能性を肯定する姿勢へと転じている。この両者の対立は、まさにカントとスピノザの対立ではないか。しかし、注意しなければならない。この肯定の倫理学こそ、今日の資本主義社会で最も広く行き渡っているイデオロギーの一つなのだ。ナイキのあの有名な広告の標語、「Just Do It」――ためらわずにやれ――を思い出してほしい。もし『天気の子』という映画に観客へ語りかけさせることができるなら、おそらく同じようにこう言うだろう。「ためらわずに愛せ。帆高のように、愛を貫け。そのためなら、どんな代償も惜しむな……」(このスピノザ―ドゥルーズ的な思考をたどれば、さらに踏み込んだ解釈さえできる。たとえば、水没した東京を一種の脱領土化、奥行きのない滑らかな平面と見る、といった具合に……)。

ここで、新海誠をめぐる主題――新海誠とポスト・エディプス期――に戻ることができる。『天気の子』は、欲動(『秒速5センチメートル』)と禁止(『雲のむこう、約束の場所』)とは別の、第三の選択肢を示した。父による禁止の命令を、享楽せよという超自我の命令に置き換えるのである。不幸にも、精神分析はこの置き換えに十分に応答できない。私たちは認めざるをえない。私たちが生きているのは倒錯の世紀であり、絶対的な肯定の世紀は、同時に絶対的な否定の世紀でもあるのだ。いま、この挑戦を前にして私たちがなすべきことは、おそらく、欠けている第三項、すなわち決定的に重要な「否定の否定」を遂行することにほかならない。つまり、真にラディカルな行動に出る前に、まずもう一度、否定的な省察を通じてまったく新たな場を構想することだ。そして、その場は私たちの誰にとっても、なじみのないものとなるだろう。