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回答:新海誠の新作アニメ『天気の子』をどう見るか?

实在狗子が、豪雨という不可視の災厄、少年少女の関係の外に立つおじさんの視点、東京の都市空間を手がかりに『天気の子』を読み直す。そこに見いだすのは、『君の名は。』型のセカイ系構造への反省だ。

著者: 实在狗子翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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实在狗子

世界のない時代に、無意味な愛を広める。

災厄の表象

『君の名は。』の災厄は隕石だ。隕石が落下し、爆発するまでの全過程が映し出される。しかも隕石は花火とともに描かれ、それが隕石の爆発に、何ともいえない美しさを添えている。災厄の全過程が、明らかに美的な対象へと仕立てられている。私たちが目にするのは、全体が表象され、高度に美学化された災厄なのだ。

ところが『天気の子』は違う。『天気の子』の災厄は、『君の名は。』の災厄とは正反対だ。隕石の落下と爆発は一瞬だが、豪雨は何か月も続く。隕石はその全体が表象されるが、何か月も続く豪雨は、どうしても一部分しか表象できない。隕石がもたらすのは光だが、雨がもたらすのは闇だ。隕石は高度に美学化されるが、降り続く雨は必然的に「脱美学化」される。なぜか。この災厄を、私たちはまったく捉えきれないからだ。雨は液体、流れる液体であり、果てしなく続く。それが人にもたらす被害は、むしろ目に見えないもののほうが多い。隕石がもたらす直接的な打撃とは鮮やかな対照をなしている。

雨に煙る新宿の街並み

隕石は、ほかのすべてを圧倒する打撃となる。その打撃を前にしては、村にあるほかの矛盾など、どうでもよくなってしまうかに見える。だが東京の大雨は違う。大雨そのものに、それほど恐ろしい直接的な影響はないように見える。むしろ大雨は、ほかの矛盾を引きずり出してくるのだ。

以前、私は「イデオロギーとしての災厄」という文章で、二種類の災厄を区別した。一つは、怪獣のような単純でわかりやすい災厄。もう一つは、霧のような不可視の災厄だ。大雨はもちろん後者に属する。大雨そのものは大したことではない。大雨が降ったからといって、破滅的な災厄にはならない(少なくとも短期間ではならない。隕石のように、一瞬で世界を壊してしまうわけではない)。ということは、大雨がやんでも世界は救えない。むしろ大雨が意味するのは、世界は最初からこうだったということだ。この世界を救う必要はない。この世界は救いようがないのだから。大雨がやめば、いくつかの問題は解決できる。だが、それで問題がなくなるわけではない。主人公の二人にできるのは、一部の人が抱える、ごく限られた問題を「解決」することだけだ。だが、人々がそれぞれに抱える問題は尽きることがない。二人が晴れを祈る仕事をやめたことも、その果てしなさを証明している。これは従来の英雄ものの災厄とは違う。英雄ものでは、災厄を一度で、きっぱりと解決することが英雄の目的になる。その後に残る一人ひとりの問題はどうなるのかって? 悪いが、英雄はそんな細かなことにはかまわない。だが『天気の子』の災厄は、まさにこの「日常の災厄」なのだ。日常の災厄が果てしなく続くこと。それこそが、「一つの世界を滅ぼす災厄」によって覆い隠されようとしているものなのだ。

曇天の東京を前にした帆高と陽菜

隕石のように世界を滅ぼす災厄は、災厄が起こる前には平穏な世界があったはずだと、人に思わせる。大雨はまさにそれへの批判だ。世界は最初から壊れていたのだと示している。大雨という曖昧な災厄が示すのは、災厄は循環し、つねに、すでにそこにあるということだ。『天気の子』のおばあさんも、結末で次のような趣旨のことを語る。

知ってる? 東京のあのあたりは、もともと海だったの……。だから、元に戻っただけなのねって、そう思うこともあるの。

面白いのは、その直後に場面がおじさん――須賀――へと切り替わることだ。須賀は、この三年間ずっとそんなことを考えていたのかと、呆れてみせる。

ここで私は思わず膝を打った。おばあさんは『君の名は。』の登場人物だ。そして『天気の子』は、まさしく『君の名は。』の三年後の作品である。おばあさんの言葉は、新海誠による『君の名は。』への批判と見ることができる。おじさんの言葉は、その批判へのツッコミなのだ。何、お前、この三年間ずっとそんなことを考えてたのか?

ここは読みすぎだと言われるかもしれないが、私にはこのつながりはかなり明らかに思える。日本の批評家が書いた『天気の子』評はまったく読んでいないので、誰かがすでに書いている……かもしれないけれど。

外からの視点

ここで、もう一人の重要人物、おじさんを見てみよう。『君の名は。』では、新海誠はまだセカイ系の定型を教科書どおりに示していた。セカイ系では、「きみとぼく」の関係を際立たせるために、主人公の二人以外の登場人物はみな「何も知らない」位置に置かれる。つまり、世界を変えつつある出来事について何一つ知らない。その一方で、特権的な知識を持つ主人公の二人は、「世界」そのものを二人の恋の秘密にする。『君の名は。』がまさにそうだ。主人公の二人を除けば、誰もが、起こっていることを何一つ知らない。

ところが『天気の子』は違う。少年と少女の物語はもはや秘密ではなく、むしろ警察と一人のおじさんの視線にすっかりさらされている。終盤で少年が少女を救いに屋上へ行けるのも、おじさんの助けがあってこそだ。頼りになるおじさんに守られて、少年と少女の「幻想の空間」が開かれる。そして結末で少年が少女に再び会いに行くのも、おじさんに勧められてのことだ。しかもおじさんは、この映画を徹底的に引き裂く要素でもある。彼は映画の最後に、次のような趣旨のことを言う。

自分たちが世界を変えたと思ってるのか。そんなわけないだろ、ばか。うぬぼれるのもいい加減にしろよ。

気にするな、青年。どうせこの世界は、もともとまともじゃなかったんだから。

雨の街路でうずくまる人物。画面下部に中国語の歌詞字幕

おじさんの立場はひどく曖昧だ。一方では、少年と少女が本当に世界を変えたはずはないとはっきり言う。その一方では、二人が世界を変えたこと――つまり、世界をもっと悪くしたこと――をほのめかし、そのうえ寛大にも「気にするな」と言ってくれる。

おじさんはすばらしい父親であり、立派な保護者だ。主人公の二人の恋と並行して、この映画にはもう一つ、隠れた筋が通っている。おじさんと警察の闘い、いい加減だが世渡りのうまい大人(おじさん)と、まじめだが融通の利かない大人(警察)の闘いだ。おじさんは、新しい時代のよき大人の姿である。一方ではとても現実的であり、他方では必要なときに子どもの幻想を後押しすることもできる。もちろん、この二つは互いに支え合っている。よき大人は、その両方を身につけなければならない。

廃ビル内の須賀圭介と帆高

明らかに、おじさんの立場は新海誠自身の立場だ。解釈する者の立場であり、曖昧な時代に取る必要のある、曖昧な立場なのだ。おじさんは決して矛盾していない。矛盾しているのは現実そのものだ。おじさんの言葉を言い換えるなら、こうなる。現実はこうだけれど、幻想を抱くことが君たちのためになるなら、好きなだけ幻想を抱けばいい。君たちの幻想だって、現実の一部なのだから。

都市、どこもかしこも都市

映画の最後に、主人公の少年は、自分が本当に世界を変えたのかどうかを確かめる。何らかの証拠に基づくわけではない(強いて言えば証拠がないわけではない。だが、少年が考えているのは証拠のことではない)。その判断は、純粋に心の中だけでなされる。彼はただ、自分を納得させただけなのだ。しかも彼の考えは、大筋では、おじさんが暗に言っていたことを言葉にしたにすぎない。忘れてはいけない。最後に少女に会いに行く道すがら、少年はずっと、おじさんとおばあさんの言葉を繰り返している。『君の名は。』が大人を排除し、子どもたちを通じて観客に美しい幻想を与えたのだとすれば、『天気の子』で幻想を必要としているのは、もはや観客ではなく、登場人物自身だ。少年は最後に、想像によって現実の行き詰まりを解消するという、典型的なやり方を取る。少年の確信は、おじさんの確信しきらない態度と鮮やかな対照をなしている。少年時代には揺るぎない確信を持っていた彼が、青年期には大人の影響を受けて揺らぎはじめる。ならば大人になったときには、彼もまた、もう一人のおじさんになるのだろう。

東京の高層ビルと大きな雲を見上げる帆高

『君の名は。』では、物語の対立は都市と田舎をめぐって展開する。だが三葉が都市へ移ると、今はもう存在しない町の風景に、なぜこれほど心を引かれるのかという主人公の瀧の独白に重なって、都市の風景がしだいに広がっていく。このときには脇役の男女二人も都市へ来ている。すべてが都市のなかへ折り畳まれるのだ。続いて新海誠は、壁紙にでもなりそうな都市の映像を繰り広げ、都市のさまざまな「日常」を高度に美学化してみせる。『天気の子』になると、田舎という舞台は初めから除外されている。都市以外には何もない。『天気の子』は都市の暗部をより集中的に描き、東京で最も汚い街、新宿へと目を向ける。忘れてはいけない。冒頭の少年は、いつも一冊の本とともに画面に映っている。『ライ麦畑でつかまえて』だ。『ライ麦畑でつかまえて』の主人公もまた、罪深い都市を歩く少年である。だが、その夢はライ麦畑だ。素朴な疑問だが、『ライ麦畑でつかまえて』を手にした少年は、なぜ田舎を離れて都市へ来たのか。自分の田舎でよくないか? おそらく、エリオットが言ったように、都市化こそ最大の呪術なのだろう。廃墟となった代々木のビルは、最高の祭壇だ。このビルが、(打ち捨てられた)都市の自然状態を表している。

密集する東京のビル群に差し込む陽光

『天気の子』は、この田舎と都市の二項対立を捨てると同時に、この世と彼岸の対立も捨てている。『君の名は。』では、田舎=神社が彼岸に、都市がこの世に対応していた。『天気の子』では、神社は代々木のビルのなかへ折り畳まれ、廃墟となったビルのなかで、古い自然の力を放っている。一つの読み方として、こう考えられる。自然の力は初めから存在するものではなく、結局のところ、都市が作り上げた幻想にすぎない。最大の都市伝説は、自然そのものなのだ。

この世と彼岸の区別がなくなるということは、私たちにはもはや二つの世界がないということでもある。世界は一つしかない。その世界が、二つの視点によって引き裂かれている。おじさんの視点と、子どもの視点だ。この二つの視点は互いに対抗する。どちらも自らの正しさを完全には証明できない。だが、相手の見方がはらむ問題を示唆することはできる。

『天気の子』のタイトル画面

本文終わり

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