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勝者の時代に、愛にできることはまだあるかい? たぶん、もうない。

愛や絆だけで三人の暮らしは守れるのか。豪雨と社会的管理という二重の危機から、『天気の子』の疑似家族、主観的暴力とシステム的暴力、少数者としての帆高の政治的決断を考える。

著者: 伦勃朗中国語版校閲: 伦勃朗翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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伦勃朗

砂漠に川を開く。

編集部より: 今回の著者、伦勃朗君は、ふだんは校閲でおなじみです。

二重の危機と、どちらも選ばないこと

『天気の子』の分析は、帆高と陽菜があの豪華なホテルへ逃げ込んだ夜、帆高が心のなかで口にした祈りから始めてみよう。神様、もうこれ以上は何も望まない、ただ今が続いてほしい――おおよそ、そんな意味の独白だった。

ここで少し立ち止まり、こう問うてみよう。「今が続く」ためには、帆高と陽菜と「先輩」こと陽菜の弟・凪は、何を乗り越えなければならないのか。この問いは、『天気の子』の数多くの「批評」が、意識するにせよしないにせよ提示してきた二者択一へと私たちを導く。東京を水没させるか、陽菜を失うか。この二択なら、今を続かせるには当然、東京を水没させるほうへ向かう。映画もその答えへ傾いているように見える。だが、この見方では、映画の物語構造にある肝心の「欠落」をすっかり見逃してしまう。喵哥が「存在しないかもしれない豪雨――『セカイ系』が『社会性』に出会うとき」で指摘したように、この物語は、本来つながりのない二つの危機によって組み立てられているのだ。

  • 想像的な自然災害としての、東京の豪雨という危機

  • 警視庁に代表される社会の統治・管理の力が「皆をそれぞれの家に帰そう」として、三人の暮らしを引き裂く危機

豪雨に煙る東京の街

第一の豪雨の危機などそもそもなく、晴れ女や生贄といった超自然的な設定もなかった、と仮定してみよう。それなら、帆高君の無邪気な「今が続いてほしい」は叶うのか。断じて、叶わない。逆に、警察があれほど早く来なかったとしたらどうか(ここから物語は全速力で走り出す)。陽菜の優しい性格なら、それでも東京の人々の無意識の祈りに「自ら」従い、犠牲になってしまうのではないか。物語は奇妙な語り方でこの二つの危機を接ぎ木し、多くの「批評」を二択をめぐる堂々巡りへと追い込んだ。一方は効用と公序良俗の側に立ち、主人公の選択を、ひいては新海誠――誠兄さんの選択を、感傷的で中二病だと責める。もう一方は安っぽい共感へと落ち込み、万人を捨てても恋人を救うという愛の立場を必死で守る。だからこそ筆者は、また同じ話かと言われようと強調しなければならない。「……いや、どちらも選ばずにいたい」。私たちは、あまりに素朴な賛否の表明をいったん引っ込め、この映画の二つの危機のあいだにある隙間と向き合わなければならない。

フェティッシュとしての愛と疑似家族

映画のなかの、ひときわ攻撃的で暴力的なショットを思い出してみよう。帆高は廃ビルへ駆け込み、警察が追ってくる。彼は拳銃を拾い、(どう見ても何の罪もない)警察官たちへ銃口を向ける。このとき、クローズアップされた銃口は、映画という装置のもと、座席で呆然としている観客をまっすぐに狙っている。

前節で筆者が述べたのは、陽菜が生贄となって消えなかったとしても、彼と彼女と先輩のつくった小さな疑似家族は、「君たちのためだ」という理由で社会の規律に従わせようとする力に引き裂かれる運命にある、ということだ。だが、物語が本当にそう進んだなら、主人公が暴力に訴える正当な理由はなくなってしまう。そこで必要になるのがデウス・エクス・マキナだ。陽菜が生贄になったからこそ、主人公は最も根源的な感情の衝動に突き動かされ、観客も共感できるぎりぎりの理由を手にする。東京の「晴れた日常」を保つため、排泄物同然に徹底して卑しめられ、排除された巫女・陽菜を取り戻す、という理由だ。それがあって初めて、彼は常軌を大きく逸した一連の反抗に出られる。いささか乱暴な判断を下してみよう。豪雨の危機はここで、想像的な外部の敵になる。誠兄さんはこの道具を借りて、いや、借りるほかなく、社会内部の敵対が生む危機を寓話として演じてみせたのかもしれない。

さて、ここまで来たからには、「深読みしすぎ」という四方八方からの集中砲火に耐えつつ、先へ進もう。帆高、陽菜、先輩は、この危機とどう戦うのか。すぐに思い浮かぶのは、本作の主題歌の一つ、そしてこの記事のタイトルでもある問いだ。(勝者の時代に)愛にできることはまだあるかい?――第一の武器が愛であり、愛を土台に築かれた「疑似家族」であることは疑いない。疑似家族とは何か、検索サイトの百度で調べてもいいし、誠兄さん自身が創作の着想源の一つに挙げた『万引き家族』で感じ取ってもいい。

『万引き家族』の六人が集まった写真

まずは先人の受け売りになるが、日本の社会学の先達【注1】、中根千枝による日本の社会集団の捉え方を引いておこう。血のつながりよりも、生活の場をともにする身内のつながりが重んじられる。社会集団は生活空間としての「場」を基盤に組み立てられ、家族も例外ではない、というものだ。多くの日本の文芸作品が「疑似家族」の存在と、そこにある温もりや愛を好んで描くのは、こうした歴史的・文化的な蓄積があるからかもしれない。

だが、このように疑似家族を物神化することで、私たちは何をつかめるのだろう。ばらばらになった人々を疑似家族が再び集め、強い絆と愛を築く。その光景が繰り返し演じられるとき、そこから見えてくるのは、ほかならぬ社会そのものが、そして本来の血縁家族そのものが、すでにばらばらだということではないか。言い換えれば、疑似家族の愛の力がどれほど貴重なものに見えるかは、こうした「場」を基盤とする集団が実際にどう自己組織化するかとは関係がない。むしろ、〈大文字の他者〉からぼろぼろと剥がれ落ちてきた(掛け言葉。意味深)人々が、どれだけ妄想をふくらませられるかにかかっている。

曇り空の屋上に立つ帆高と陽菜

おお、疑似家族よ、なんと力強い! 人々はこうして疑似家族と愛と絆を、手の届かない至高の権威に祭り上げる。そればかりか、そうして祭り上げたものを雑巾にして、絶えず轟きつづける社会の敵対という事実を覆い隠す。だから筆者が言いたいのは、勇気をもって愛することが間違いなのではない、ということだ。問題は、この映画が一方では結局、無力なイデオロギー的慰めを与えてしまうことにある。状況は……とにかくひどいけれど、それでも私たちには愛がある。おお、愛よ、なんと偉大な! 親の庇護を失った高校生も中学生も小学生も、警察の追跡や風俗店のスカウトの視線から逃がしてくれるのだから!

だが、ここで誠兄さんは踏みとどまった、と私は思う。三人の暮らしを管理上の問題とみなす社会統治の力を前にして、映画は愛を敗北させた。警視庁と児童相談所が出動すると、愛も絆も疑似家族も、日の光に焼かれる影のように、一晩さえ持ちこたえられなかった、とまあ、そんな具合だ。愛と絆があって、疑似家族をつくりさえすれば、どんな難関にも勝てるわけではない。そんなわけがない。少年漫画や大衆小説を読んでいて、主人公にあまりに理不尽なチート能力が与えられることに驚くのは、よくあることだ。さまざまな社会機関と敵のボスに挟み撃ちにされたら、普通の人間ならとっくに倒れている。それでも(男の)主人公は、根性/勇気/少年の無邪気なロマンを頼りに、形勢をひっくり返してしまう。本当に、そんなに愛や奇跡が転がっているのか、と疑わずにはいられない。愛を過剰に描き、過度に持ち上げることが実際に暴いてしまうのは、私たちには愛以外に何ひとつなく、何もできないということだ。だから、より正しいのは確かに、愛を敗北させ、その欠如と無力さをさらけ出すことなのだ。その無力さが露わになったところからこそ、本当に意味のある絆と抵抗が生まれる。

ここで『万引き家族』を持ち出し、あらすじをもう一度語るのは簡単だ。だが、「疑似家族」という言葉から筆者がまず思い浮かべたのは、田中ロミオ(『Rewrite』『人類は衰退しました』)が2001年に書いたギャルゲー、『家族計画』だった。このタイトルだけでも十分に直球ではないか。どこが似ているのか。血のつながった家族をもはや信じられずにいる、大都会の片隅に生きる主人公が、何人かの男女と出会って疑似家族をつくり、それによって愛と絆を取り戻そうとするところだ。

中国語版「家族计划~再开~」のタイトル画面
中国語版のタイトル画面。メニューは右から「最初から始める」「続きから始める」「保管室」「ゲームを終了する」。

両作品が私たちに残すのは、どちらも妥協した結末だ。『家族計画』で試みられる「家族計画」は、どの美少女の個別ルートでも、本編のなかでは救われない。暴力集団の脅威にさらされ、ぼろぼろに崩れていく。しかも各ルートを詳しく見ていくと、崩壊のきっかけこそ暴力集団の脅しだったものの、実際にはその計画に加わった一人ひとりが、それぞれに傷を抱えていたことがわかる。家族の絆や団結で片づけられない、自分で向き合い解決しなければならない象徴的な負債が残っているのだ。皆が去るのは、暴力集団の脅しがそれほど強力だったからではない。(こんなにもひどい状況で、幻想として維持しようとする)絆そのものが脆いからだ。

夕空に中国語の文章が重なる「家族计划~追忆~」のゲーム画面
画像内の中国語文の意味:この絆が一生続いてほしいと願っても、いつの間にか跡形もなく消えてしまう。

それでも『家族計画』は、美少女と結ばれることによって(またしても、愛!)、各ルートの主人公に程度の差こそあれ救済を、少なくともその約束を与える。こうしたオタク的な想像の慰めは、商業ノベルゲームがせざるをえない妥協なのだ。発売元のD.O.が田中ロミオをいかに尊重しなかったか、そして「売上を落とす毒薬」というあだ名がいかに田中につきまとったかは、もちろん私たちも知っている。『天気の子』でも、残念ながら同じように中途半端な妥協が見える。いわば、こういうことだ。たしかに僕、帆高は陽菜を選んだし、雨も三年間降りつづけた。でも、誰も死んでいないじゃないか。最後には、晴れのない新しい東京の日常だって送れる。ついでに言うと、僕は三年間も強制的に隔離されて監視され、そのあいだひどい目に遭ったけれど、結局は陽菜との恋を実らせられた。うらやましいだろう。

くそっ!

筆者も、結末はもっと徹底させるべきだという考えに賛成だ。たとえば、こういう結末に。帆高は陽菜を救い出すが、二人とも互いについての記憶を失ってしまう。東京の水没は社会に本当に大きな破壊をもたらし、その破壊を、何の意味も与えず、むき出しのまま映す(『機動警察パトレイバー2 the Movie』が、沈黙に包まれた都市の新しい日常をいかに多く描いていたかを思い出してほしい)。そして、地面に倒れて気を失った帆高が、あの指輪だけを固く握りしめている。この、消しがたい小さな対象……。

主観的暴力とシステム的暴力

さて、第一の武器である愛と絆と疑似家族は、一晩さえ持ちこたえられず、ヒロインもいなくなってしまった(悲)。どうする。帆高がまず選ぶのは、大人を信じないことだ。もともと彼をどうこうするつもりもなかった警察から逃げ出し、熱い追跡劇が始まる。ここで、友人Zの疑問に答えておこう。双方とも走るのをやめて、立ち止まって話し合えないのか。帆高がきちんと説明して、善良な警察官に車であのビルまで連れていってもらい、一目確かめればいいのではないか。

答えは実に簡単だ。一、もちろん双方は話し合っている。二、その結果、話し合いでは通じなかった。主人公はまず、大人の世界と直接対話するのではなく、その代理となる大先輩、須賀圭介を介して話をする。ここから何かが見えてくるのではないか。陽菜の家に警察と児童相談所が訪ねてくると、帆高は浴室に隠れて顔を合わせず、そこから出たあとで須賀と話す。須賀は彼に、大人になれと諭す。帆高が全速力で廃ビルまで走っていくと、またしても須賀に出くわす。須賀は再び大人の世界を代弁し、早く警察へ戻って事情を説明し、大人たちと和解するよう説得する。

この二度の対話で、主人公は黙り込んでいたわけではない。何かを伝えようとしている。だが、何の役にも立たない。まず帰りの旅費を渡され、次には目を覚ませとばかりに蹴りを食らう(アメとムチ)。車のなかでも、帆高が自分の身に起きたことや陽菜の犠牲を泣きながら訴えて返ってくるのは、精神鑑定が必要なのかと、運転手が緊張した声で発する一言だけだ。最初から最後まで、帆高と陽菜が遭遇し、身をもって経験した豪雨の危機と生贄をめぐる不思議な出来事は、大人の世界から精神病者の言葉として扱われている。こんな両者に、生きるか死ぬかの瀬戸際で「規範的秩序のもとでの対話」ができるとでもいうのか。

雨の路上でうずくまる帆高。画面下に中国語の歌詞字幕
中国語の歌詞字幕(一節)の意味:希望を抱かない人と、十分に賢い人だけが……。

一人を犠牲にするだけで東京の晴れた日常が戻るのなら、誰だって賛成するだろう、という理屈。まったくそのとおり。これは正常な人の発言であり、「大多数の人」の態度でもあるようだ。この理屈なら、このような功利主義的統治に賛成しない者は、正常な社会から蹴り出すべき精神病者なのだ。こうした絶望的な状況で、誠兄さんが正しいことをしたとすれば、それは、この功利主義的統治の生政治的な論理に屈せず、主人公に第二の武器で反抗させつづけたことだろう。幽霊のように現れる拳銃を、そのために拾うことになったとしても――滑稽なほど心もとない武器ではあるけれど。誰もが褒めそやす疑似家族の愛と絆から、人々を驚愕させ、吐き気を催させる暴力の次元へ、まっすぐに身を投じるのだ。

皆は何もわかっていない、あるいは、わからないふりをしているのだと、帆高は声を振り絞って問いをぶつける。家に帰してやるから、日本の普通の高校生としてちゃんと暮らせ、君のためなのだ――そんなあらゆるイデオロギー的な呼びかけに対する、ヒステリー的な問い返し。その問いとともに響く、「天地のあいだ、茫々として何も残らない」とでもいうべき一発の銃声。ここに来てようやく筆者は、誠兄さんの一瞬のラディカルさを、かろうじてつかまえられる。

この非合理な暴力は、どこから来るのか。筆者は、高校の教科書にも載っていたような、あの悲劇的な笑い話を思い出さずにはいられない。

ナチの官僚がピカソのアトリエを訪ね、あの有名なモダニズム絵画『ゲルニカ』を目にする。その混乱と暴力に満ち、古典的な美しさをまるで持たない画面に衝撃を受け、こう尋ねた。「これを描いたのはあなたですか?」 ピカソは静かに答える。「いいえ、あなたが描いたのです」。

廃ビル内の帆高と須賀
少年と大人の世界のあいだを揺れ動いていた須賀は、最後の最後に帆高を助けることを選ぶ。

秩序に従わせようとする力に、主観的暴力――誰がふるうのか目に見える暴力――で抵抗する帆高を、大衆が嫌悪する。その態度には、何か症候的なものがないだろうか。この嫌悪は、映画のなかの警部のやけに目立つリーゼントに、姿を与えられていないだろうか。――大都会の賤民や不良少年どもの無意味な暴力には、もっと強い暴力でお灸を据えなければ! この態度は、帆高の抵抗が持つ暴力の側面を非難することで、ほかの形をとる激しい暴力をかき消してはいないか。たとえば、「正常な人」の枠に収まらない周縁の人々に、社会の統制機関が加えるシステム的暴力。たとえば、風俗業(に代表される、いわゆる多文化的寛容のもとにある経済システム)が、貧しい人々、とりわけ深刻な被害を受ける女性に加えるシステム的暴力を。ここで私たちがしなければならないのは、まさに話題を変えることだ。拳銃の登場や使用に無理があるかどうか、果てしなく続く細部の議論から身を引き、静かにこう答えるのだ。「いいえ、あなたが撃ったのです」。

東京と鳥居、帆高の決断

神社の老人の話から、伝統社会では天候を回復させ、社会の調和を取り戻すために、天(気)と語り合える巫女を一人、生贄に捧げなければならないことがしばしばあったとわかる。明らかに、それを必要とするのは伝統社会だけではない。後期近代性を体現する都市、東京もまた必要としている(必要としないことなど、ありうるだろうか)。こうして私たちは、東京の高層ビル群の隙間から不気味に生え出した鳥居と、それゆえに首飾りの輪っか(? なんと呼べばいいのか)をつけることになった巫女、陽菜を見る。

東京のビル群のあいだに差し込む光の束
この光の束は、東京の聖と俗の領域を分けているかのようだ。もちろん、ここでの聖域は、都市の隠された淫らな裏面でしかない。なぜ誰もこの鳥居を見つけないのかって? もちろん、都市が知らないふりをしているからだ。

帆高の側の仲間を、もう一度見渡してみよう。帆高は、故郷で息苦しさを感じ、家を出た少年。陽菜と先輩は、まだ義務教育を受ける年齢なのに、親の保護を失い、自分たちだけで暮らしている子どもたち。夏美さんは、面接に落ちつづけ、御社が第一志望だとヒステリックに叫ぶ失業中の若い女性。そして、半分だけこちら側にいる須賀圭介。かつての家出少年で、今はゴシップ誌のライター。義母からは、昔からどうも頼りない感じがした、と評されている(消しがたい象徴界への登録……)。

こうして見渡すだけでも気づくことがある。皆、社会の通常の軌道から外れた、周縁の少数者なのだ。一見すれば、たしかに東京の晴れた日常のためなら、陽菜一人どころか、この連中を全員犠牲にしたって、社会秩序はくしゃみ一つしないだろう。映画を見ていて私が気になったのは、鉄道の存在感だった。ただし、電車が通り過ぎると恋人が消えている、あの有名なGIFを思い出したからではない。画面の手前を横切る列車の、不穏に低く響く轟音のためだ。その音の攻撃性が、二人の日常をいつでも押しつぶしうる力の存在を露わにしている。忘れてはならない。ヒロインの家は、絶え間なく列車が行き交う線路のすぐそばに置かれている。十数分おきに電車が通り、この小さな、あまりに小さな家庭を震わせ、揺さぶるのだ。

そして、夏美さんのバイクに助けられて警察の追跡を振り切ったあと、主人公が選んだ逃走経路(これがお前の逃走経路か、帆高!)は、豪雨に洗われ、経済的な機能を失った線路だった。後期近代の都市・東京の経済システムを支える鉄道。制御する主体がどこにいるのかもたどれないまま、客観的な力として働く、渦のようなシステム。百メートルと離れていないところから、疑似家族のささやかな暮らしを震わせ、揺さぶる路線。それが今、豪雨によって断ち切られている。ところが、なおも決められた軌道を進み、線路がなくても線路の上を行くような正常な人々は、スマホを構えて帆高を撮影し、線路を走るその愚かさを嘲笑する(なんだこいつ、電車が走るはずの線路を走ってるぞ!)。ここには、実に面白い、映画の枠を越えた問い返しがある。帆高がここで反抗し、走ることに筋が通っているのかと疑い、笑う観客は、スマホを掲げて見物し、写真を撮る映画のなかの通行人と一体になってはいないか。誠兄さんがこういう場面を演出した意図は何なのか、考えてみる意味はあるはずだ。

ヘルメットをかぶり、運行の止まった線路を走る帆高

ここで、いささか粗雑な理解かもしれないが、ドゥルーズのいう、少数者の側に立つ態度に触れておくのは有益だろう。君や私がそこに身を落ち着け、生きていける「多数」など存在しない。私たちは皆、差異のなかから絶えず生まれ、つくられていく少数者なのだ。本質主義的に捉えられた抽象的な多数や正常さのほうこそ、拒まねばならない暴力なのである。恋人と何万人かを秤にかけ、いかにも真剣そうに考えてから、少年めいた顔で「僕は恋人を選ぶ」とポーズを決める人を見ると、筆者は何と言えばいいのかわからなくなる。君の恋人が、選ばれるその「一人」になれると思うのか。いや、功利主義的統治のもとで数字に換算される代償になるだけだし、そもそも君に選択する権限など与えられない。『天気の子』の英語副題、Weathering With You が示唆しているのは、まさにこのことではないか。差異のなかから絶えず生まれ、つくられていく少数者である you とともに立ち、weathering――困難をしのいでいくべきなのだ。多数派の立場にもっともらしく居座るか、若い血をたぎらせて一人の恋人を選ぶロマンチックな立場につくか。そんな罠には飛び込んではならない。

陽菜と帆高の犠牲は、あくまで無数の人々の犠牲として捉えなければならない。作中で二人を「正常な暮らしへ戻そうとする措置」は、まさにポスト政治的な生の統治と治安の現れだ。この専門家による管理の構造は(『天気の子』では、『君の名は。』にあった選挙や議員は姿を見せず、生活の保護と治安を担う児童相談所と警視庁だけが見える)、必然的に、何の機能も果たさない非合理な暴力を体系的に生み出す。象徴秩序がシニフィアンによって殺戮を加えても、なお消しきれない残余。それが思いがけない瞬間に現実界から回帰するかのようだ。この映画で、拳銃がいつもわけもわからず現れるように。

『天気の子』と英語副題 Weathering With You のタイトル画面
この you は一人の恋人ではない。陽菜に代表される、過去から今に至るまで、いつも犠牲を強いられてきた無数の少数者たちだ。

ここで鳥居の話に戻って、もう少し大ざっぱに言ってしまおう。『天気の子』の伝統への態度は、『君の名は。』から距離を取っているように見える。『君の名は。』では、巫女(口噛み酒?)の時空を超える不思議な力によって、皆が喜ぶ大団円にたどり着いた。一方、『天気の子』で帆高がはっきり告げるのは、陽菜はもう晴れ女/巫女でなくてよく、天気の回復などどうでもいい、ということだ。巫女の象徴であり、伝統を象徴するあの首飾りの輪っかは、ここでほどける。東京でうしろ暗い役割を担う鳥居の先につながる天空の生態系も、のどかな理想郷などではない。ただ混沌として、犠牲者を同化させていく場所だ。そして陽菜の巫女としての力にも、暴力の側面があることは描かれている(人々はその美しい晴天の側しか覚えていないのだが、悲)。帆高が警官に地面へねじ伏せられたとき、陽菜は雷を呼び、トラックを一台吹き飛ばしている(幸い無人だった、と誠兄さんは私たちを安心させてくれる)。注意をそちらへ引きつけ、逃げやすくするためだ。なぜ、もう一歩踏み込んで考えてはいけないのか。この力をもっと対抗的な行動に使ったって、いいのではないか。

東京の街と屋上を照らす夕日

帆高のこの決断と反抗を擁護するために、次の問いも突き詰めておきたい。これは、何の政治的信念もなく、ただ生き延びることだけを求める、新自由主義的な――決断主義的な立場なのか。たとえばわかりやすく言うと、『バトル・ロワイアル』の、なぜ撃つかなど聞くな、生き残るために決まっている、俺が死ぬかお前が死ぬかだ、という反抗と、帆高の反抗は何が違うのか。筆者としては、ここまでの話ですでに答えを伝えてきたつもりだ。シュミット的な瞬間における決断と敵/友の区別は、あくまでイデオロギーの神々が争う空の下でなされる。一方、日本の新保守主義を背景とする決断主義には、その前提がない。あるのは、生存にしかかかわらない、せいぜい美少女のことまでしか考えない、ポスト政治的な決断だ。

だが、映画のなかで帆高が行う反抗は、私には明らかに、自分や陽菜一人のためだけには見えない。陽菜の犠牲は、ある集団の犠牲を代表している。帆高の反抗は、その人々の側に立ち、彼女たちの犠牲を「わからないふり」する社会システムの秩序に向けられた、政治的な反抗(political)なのである。この次元を認めないのなら、反抗は効力を失い、東京の日常という巨大な機械にまた巻き込まれる。それどころか、反抗と、それがかき立てる安っぽい共感は、東京の消費主義文化にとって格好の養分になるだろう(あの手の、安っぽいロマンチックな共感に満ちた感想を思い出してほしい。自分が天下の人を裏切るのはよいが、天下の人が自分〈の美少女〉を裏切るのは許さない。それがいい、いいぞ、いいぞ、と)。

だからこそ、反抗を表すのに、人を驚愕させるほどの暴力が必要だったのだと私は思う。銃声、東京の水没――なおも、その激しさは優しく和らげられているけれど。そこまでしなければ、反抗的な少年のドラマを見飽きた観客を驚かせ、作品から距離を取らせることはできないのだろう。その距離と見慣れないものに出会う感覚によって、観客が映画の外の世界を考える、わずかな可能性が生まれる。

結局、帆高の選択と反抗によって、豪雨の危機は解決されないまま現実のものとなった。それだけでなく、彼らを引き離そうとする社会的管理の危機も、当然、解消されてはいない。主人公は故郷へ追い返される。いわば、三年間の隔離と監視だ(東京へ来たばかりの、ある怪盗を思い出してもいいかもしれない……)。私たちに与えられたのは、妥協した結果だ。東京は相変わらずきちんと動き、帆高と陽菜はついに恋を実らせる。GOOD END。だが、ここで注目したいのは、友人Yも指摘したように、大人たちの言葉に対する帆高の態度だ。世界はもともと狂っている、ははは、君たちは本当に、自分たちがこの降りやまない雨を降らせたと思っているのか、笑わせるな――大人たちはそういう調子で語る。それでも帆高は最後に、自分と陽菜は確かに世界のかたちを変えたのだと信じることを選ぶ。

屋上で空を見上げる帆高。画面下に中国語の歌詞字幕
中国語の歌詞字幕の意味:勇気をくれたのは君だった。

そう、大人たちの言葉の世界では、二人の話などまったく信じられていない。それでも、あの想像的な豪雨の危機と、自分と陽菜に選択肢があったことを固く信じることで、帆高は、自分には選択し、世界のかたちを変える力がある、という想像を手放さずにいる。象徴秩序が正常に作動するなかでは、そんな力は一度も存在していなかったとしても。私はこうした想像的なものを、あまり擁護したくはない。だがそれでも、高校を卒業した途端に分別のある大人になるよりは、少しましだろう。

それでもなお批判すべきなのは、オタク的な想像による救済だ。帆高というやつの、この三年間の省察の空白を見てほしい。女子高生になった陽菜を見て初めて、ああああ、違う、僕と陽菜は本当に世界のかたちを変えたんだ、と来る。美少女を頼みにして初めて、彼の選択と犠牲に、価値を認められるだけの意味が生まれるのだ。反抗の純度はずいぶん低い。陽菜がいなければ、おそらく帆高は寝返るのではないか。この曖昧さ、反抗に妥協がつきまとうという作品全体の印象と、その弱さによって、本作は、喵哥の言う、半完成品の「キマイラ」になっている。筆者にできるのは、誠兄さんが次には、もっと遠くまで踏み込み、もっとよい作品を、もっと徹底してつくってくれるよう願うことだけだ。

最後に、タイトルをもう一度繰り返そう!

この勝者の時代に、支配者も神々も無関心な顔をする時代に、愛にできることはまだあるかい? 主題歌が繰り返す肯定とは違って、愛だけなら、たぶん無理なのだろう(もちろん、愛が要らないという意味ではない)。むしろ私たちは、物神化された愛と絆と疑似家族という雑巾を捨て、社会の内側で本当に轟音を立てている敵対を見なければならない。主観的暴力や二者択一――功利主義的な専門家の統治か、若い血をたぎらせるロマンチックな共感か――にばかり目を奪われ、それを論じるのはやめて、話題を変えるのだ。目には見えないが、主観的暴力が噴き出す条件を網の目のように形づくっている、システムに組み込まれた象徴的暴力へと。

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本文終わり

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