屋頂現視研
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「なぜ、ただ空の姿だけで、これほど人の心を揺さぶるのか?」

窗子が天気と感情の隠喩的な関係を出発点に、ハイデガーの基礎存在論を手がかりとして、都市と農村で人々が天気とともに暮らすあり方を分析し、『天気の子』の不条理、奇跡、愛を読み直す。

著者: 窗子中国語版校閲: 伦勃朗翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

窗子の肖像
窗子

死生去留,棚头傀儡,一线断时,落落磊磊。

一、『天気の子』の「天気理論」

『ほしのこえ』から『雲のむこう、約束の場所』へ、『秒速5センチメートル』から『言の葉の庭』へ。光と影の物語は、一貫して新海誠作品の第三の軸を成してきた。空ショット(人物のいない環境ショット)では無言のナレーションを務め、人々の出会いと別れに舞台を与え、導いてきた。もし新海誠が「雰囲気」(絵画でいう画面全体の空気感)という、これまで舞台裏にいたスタッフを表舞台へ呼び出さなかったなら、物語の「演出効果」にそれがどれほど大きく寄与しているか、私たちはなかなか気づけなかっただろう。

物語の展開とともに気分が起伏するとき、私たちの体験は、切ろうとしても切れず、もつれてほどけないような形で現れる。だが実際には、二つの基本的な過程から成っている。一方では物語そのもののなかで感情が揺れ、他方では画面の雰囲気の変化のなかで感情が揺れる。画面の雰囲気は筋の行方を予告し、クライマックスもまた、ふさわしい雰囲気のなかで迎えられなければならない。この二つの過程が互いに刺激し合い、私たちの多層的な体験を織り上げるのである。

桜が舞う道

設計の観点から見ると、画面の雰囲気は物語の第二の脚本、ひとつの環境言語に当たる。人物の心の底にある言葉にならない感情を、光と影の形で表現するのだ。絵筆は表情の微妙な差異を捉えるのが苦手なので、撮影を伴わない芸術において雰囲気を描き込むことは、たいてい苦肉の策である。だが多くの場合、画面の雰囲気は表情よりも明瞭に、力強く、人物の感情の揺れを伝える。同じ笑顔でも、真昼の陽光のもとに置かれるのか、雨の降り続く窓に映るのかで、人に与える印象はまったく変わる。

環境の雰囲気から切り離された「表情だけを切り出したミーム画像」が、いつも誤解と連想を招くのもそのためだ。社会の圧力にさらされ、人間の表情は昔から欺瞞的だった。穏やかな笑顔の下に、いったい何本の刃が隠されているのか、私たちには想像もつかない。だが画面の雰囲気は(きちんと気を配って描かれているかぎり)決して嘘をつかない。こう言ってもいいだろう。画面の雰囲気とは人物の「心の色」なのだ。それは身体という障壁を越え、世界全体へ投射される。ここでは内と外の関係が逆転し、外の世界が、逆に人物の内面になる。どんな言葉よりも誠実である。

色のまとまりの細かさによって、画面の雰囲気はさらに「大きな色面」と「小さな色面」に分けられる。大きな色面は感情の下地を広く塗り、小さな色面は感情の細部を彫り出す。前者は通常、「天気の要素」によって示され、後者は具体的な形象に託される。たとえば古典的な「枯れた蔓、老木、夕暮れの烏」だ。

具体的な物に思いを託す技法(托物言志)を分析するには、隠喩と存在論の関係に踏み込まねばならず、話はさらに深く複雑になる。そこで本稿では、前者、すなわち天気が描き出す感情の下地に話を絞る。景に情を託す(寓情于景)という技法は、古人の詩文ですでに成熟の域に達していた。映像芸術はそれに新しい生命のかたちを与えたのだ。正確に言えば、脚本家はみな「天気の子」である。彼らは風を呼び雨を降らせ、思いのままに空全体を動かして自分の願いを満たす。龍神に連れ去られることもない――これは別のかたちの奇跡ではないか。

夜明けの光は闇を追い払い、希望を広げ、無数の戦いの帰趨を左右する。盛夏の昼の光は、けだるいざわめきを育て、汗ばむ欲望のなかへ溶け込む。すすり泣く夕風は不吉なものの兆しを運ぶ。野原を抱く雪は、静かに来年への願いを撒く。空のさまざまな喜怒哀楽のなかでも、雨はおそらく最も鮮明な情緒だろう。細雨は憂鬱を帯び、にわか雨は恐れを呼び、豪雨は魂を飲み込む。どれほど多くの別れが雨音に伴奏され、どれほど多くの涙が雨とともにこぼれ落ちただろう。

これはほとんど慣例になっている。まるで雨は悲愁と結びつくべきものだと言わんばかりに(ときには雨が感情の「一新」を表すこともある。『ショーシャンクの空に』のラストシーンがそうだ。しかしこれは実際には、雨の浄化作用と滋養作用に頼っており、物に思いを託す技法の範疇に入る)。では私たちは、こう問いたくなるかもしれない。いったい、これはどうして可能なのか?

――「なぜ人の心は空と固く結びついているのか?」

――「なぜ、ただ空の姿だけで、これほど人の心を揺さぶるのか?」

この啓示が、それ以前の一連の作品ではまだ隠喩の形で存在していたのだとすれば、『天気の子』は疑いなく、その隠喩を実体化した作品である。力が次第に制御不能になるにつれ、陽菜はもともとの百パーセントの晴れ女から、天気の主へと変わっていく。彼女の寂しさは夏の日の雪となって結晶し、彼女の恐怖は青天の霹靂を呼び寄せる。巫女の喜怒哀楽が空の晴れ・曇り・雨・雪を決める。これは、日常の状態をちょうど逆転させたものだ。

『天気の子』で新海誠は、黒雲が晴れるにつれ、空を見上げる人々の表情もほころんでいく場面を細やかに描いている。きらめく電車の窓から、人々の瞳へ生気が跳び込む。さっきまで腹を立てていたおじさんが、雲が晴れた途端、満面の笑みで気前よく金を出す。待ちに待った花火が、雨に洗われた瞳に映ると、ひときわ美しく見える――この場面は、『言の葉の庭』の呼応する一場面を思い出させる。寝床から這い出したばかりでまだ眠そうな雪野が、窓の外の雨音に笑顔を見せ、雨が降っていると小さくつぶやく場面だ。

雪野の心で「雨」が別のものを指していたとしても、この二つの場面の精神的な内容は通じ合っている。空の晴れ・曇り・雨・雪が、人々の喜怒哀楽を決める――そして天気の巫女の務めは、ふとした瞬間に花開く小さな幸せを守ることなのだ。陽菜は笑顔を空へ伝え、空は笑顔を人の世へ映し返す。そして、まさにその笑顔が、陽菜の心の小さな幸福と存在の意味を守っている。

緑陰の東屋

「水循環」の背後に隠れていたこの「感情循環」こそ、いまや新海誠が誇る「天気理論」を形づくっている。巫女の祈りを何らかの奇跡と呼ばなければならないのなら、空の祈りもまた奇跡ではないのか。空そのものが一人の巫女なのかもしれない。自分の気分が人々に応えてもらえるよう祈っているのかもしれない。あるいは、晴れ・曇り・雨・雪とともに訪れる喜怒哀楽こそ、祈りがかなった結果なのかもしれない。誰が知ろう。

とはいえ、空想は罪ではない。新海誠は大気の上に別の生態系が暮らしていると言い、そこは魂が帰っていく世界だとも言う。そう考えると、天気そのものが「逝ったもの」からこの世への贈り物であり、守りなのかもしれない。落ちた花も情を失ったわけではなく、春の土となって、なお花を守る。残った肉と骨が土に溶け、新しい肉と骨を生むのなら、魂はどうだろう。魂もまた似た循環の仕組みに従うのではないか。万物の魂が残るのなら、雨とともに空へ流れ、新しい魂を生み出すことがあってもよいのではないか。

そう考えれば、「人の心は空と固く結びついている」という言葉は、いっそう深い存在論的含意を帯びてくる。

二、晴れ・曇り・雨・雪から喜怒哀楽へ

もちろん、空想に証拠はいらない。私たちが気にしているのは、いったい何がこの空想を支えているのかということだ。ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』6.44で言うように、「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」――私たちが知りたいのは、景に情を託すことが「考えもせずに」行われる技法として、いったいなぜ可能なのか。言い換えれば、なぜ私たちは「自然に」気分の性質を空へ与えるのか。なぜ、ただ空の姿だけで、これほど人の心を揺さぶるのか。

雨越しの都市風景

まず、この問題が属する研究領域を正しく定めなければならない。「景に情を託すことは隠喩なのか」と問うことは、天気は、感情を引き起こしても不思議のない「もっともな対象」なのかと問うことに等しい。ここでは、この問いの時代性に注意したい。人間が自然に直接さらされていた農耕・遊牧の時代には、天気は人間の生命ともっと密接な関係にあっただろう。収穫や移動のような長期にわたる営みを左右し、狩猟や採集のような短期的な活動も左右した。

都市の勃興は前者を人間の生活の中心から徐々に隔てたが、後者はなお残った(ただし短期活動の内容は変化した)。高層ビルが空を無数の傷のように切り刻んでも、風雨や陽光は相変わらず人々の生活へ侵入しようとし、波風の立たない日常に小さな面倒や驚きをもたらす。しかし雨の日の憂鬱を、日常生活が妨げられたせいだとするのは性急すぎる。たとえ私たちが室内に留まると決めていても、暗い空は同じように心へ重くのしかかる。

では、この重苦しさは「暗さ」そのものに根ざすのだろうか。そうとも限らない。雨の日の暗さは夜明けや夕暮れの暗さと変わらないのに、後者にはそれだけで愁いが宿るわけではない。むしろ、「暗い」という語の感情的な要素そのものが、雨の日から受け継がれたのだとも言える。雨は生まれつき敵意とよそよそしさを帯びているようだ。過去と未来の確かさをぼかし、心を世界から孤立させ、居場所を失った現在へ閉じ込める。雨のなかで人が覚える孤独感は、別れにともなう孤独感と互いに照り映える。多くの物語が雨の日を背景に選ぶのは、そのためである。

実際のところ、「もっともな」という語はまだ意味の幅が広すぎる。先の問いに答えるには、景に情を託すことを、ほかの現象と並べて考える必要がある。たとえば、(1)共感覚、(2)色から感情への写像(対応づけ)、(3)音そのものに哀楽はないとする、嵇康の『声無哀楽論』などだ。

(1)では、ある感覚器官の知覚が、別の感覚器官の知覚として経験される。(2)では、ある色の知覚が感情的要素に染まる。たとえば青は憂鬱を、紫は高雅さを指す。(3)について嵇康は、いわゆる哀楽とは、まず人の心の感情が何かに触れ、その後に音楽鑑賞によって動かされるものだと書く。感情がどこから来たかは、音楽そのものとは関係がない。

認知言語学は前二者を隠喩の範疇に含める。嵇康の議論も、音楽と感情が直接結びついているわけではないことを示している。心理学のデータを借りて、ポール・M・チャーチランドは(1)を可能にするモデルを説明している。その考え方では、クオリア(感覚質)は多次元の感覚空間内の点として捉えられ、その空間の三つの座標軸が神経経路の発火頻度に当たる。たとえば桃色の視覚は95Hz/80Hz/80Hz、薔薇の香りの嗅覚は95/35/10/80/60/55という、複数の値の「和音」として表せるというのだ。

チャーチランドのモデルが妥当なら、複数の多次元感覚空間のあいだには写像が存在することになる。その写像は、各感覚空間の内部での相対的な距離を保つので、異なる感覚どうしを結ぶ類比となる。これで共感覚の基礎は構成できる。

同時に(2)も隠喩の一種だと分かる。ある色が個別にある感情を呼び起こすのではなく、色の領域と感情の領域という二つの全体を対応させる写像として考えて初めて、この現象は可能になる。青を憂鬱に喩えるためには、ほかの色も同時に写像関係へ置かなくてはならない。青はその性質だけで単独に憂鬱と結びつくのではなく、ほかの色との「差異」を通じて、「感情領域全体」と結びつくのだ。

ここで起きていることは、中国将棋で欠けた車(飛車に当たる駒)の代わりに瓶の蓋を使うようなものだ。瓶の蓋を指して「これは車だ」と言う。だが瓶の蓋と車とのあいだに必然的な結びつきはない。瓶の蓋の位置は、別の何かで置き換えてもよい。唯一の条件は、その代替物が中国将棋のほかの駒と似ていないことだ。言い換えれば、駒の形象どうしの「全体的な差異」こそが、別の領域への写像を可能にする。色の領域における青と、感情の領域における憂鬱とは、これと似た関係にある。

形式のうえでは、(3)と(2)は同一だと言ってよい。したがって、隠喩には二つの型があることになる。隠喩(1)は心理学的な類似性に関わり、隠喩(2)は領域間の全体的な写像に関わる。

景に情を託すことと、以上三つの現象には明らかな共通点がある。だからそれを隠喩の範疇に入れてもよいだろう。ここまで来れば、景に情を託すことは、天気の領域(晴れ・曇り・雨・雪)から感情の領域(喜怒哀楽)への写像だと、無理なく定義できる。

しかし問題は、この写像が隠喩(1)に近いのか、それとも隠喩(2)に近いのか、という点にある。

(1)前者なら、この隠喩には生理学的な基礎がある。晴れ・曇り・雨・雪と喜怒哀楽は一対一に対応し、黒雲それ自体に人の心を抑圧する力があり、陽光それ自体に喜びを撒く力がある。この感情写像は普遍的だ。

(2)後者なら、この隠喩には歴史的な系譜があり、社会のなかでの成立には恣意性がある。ギリシア神話が知恵をフクロウと結びつける一方、エジプト神話が知恵をヒヒと結びつけるようなものだ。この場合、晴れ・曇り・雨・雪と喜怒哀楽は一対一に対応しない。真の隠喩は、晴れ・曇り・雨・雪の「移り変わりの連なり」全体と、喜怒哀楽の「移り変わりの連なり」全体とのあいだに生じる。天気はその変化によって感情の変化を呼び起こす。音楽の起伏が感情の起伏を動かすのと同じだ。感情の跳躍は、雲間から日が差す瞬間にも、長い旱魃のあとに恵みの雨が降る瞬間にも起こりうる。

空を仰ぐ帆高
画像内の中国語歌詞字幕の意味:かつて私に勇気をくれたのは、あなた。

ここで注意しておきたい。ある隠喩は、生理学的基礎を持つからといって必ず普遍的になるわけではないし、歴史的な系譜を持つからといって普遍性を失うわけでもない。

簡単な例を挙げよう。蛇への恐怖には生理学的な基礎がある。だが蛇が、すべての文化で敵対的な位置に置かれるわけではない。ある地域では、蛇は身近な存在ではないからだ。ある動物が希少であれば、人間に脅威を与える存在であっても、権力の象徴として崇拝されることがある。

天気の例では、南方の人と北方の人の雪に対する態度が、ほとんど天地ほど違うことに気づく。雪を見慣れた北方の人にとって、それは凍った雨にすぎず、外出を面倒にし、除雪もひどく厄介なものかもしれない。だが南方の人にとって、雪はしばしば神聖な恩寵を象徴する。静けさを運んですべてを包み込み、四方を覆い、天地を一新する。

この比較が示すのは、天気に対する感情を生理的要因だけにも、社会的要因だけにも還元できないということだ。そこにはたしかに普遍性がある。しかしその普遍性を共有するのは「ある種の人々」だけである。

ここでいう人々の区分は人種学に頼っていない。「異なる生活様態」、つまり暮らしのあり方によって区別される人々である。この区分によれば、都市に住む人と農村に住む人は異なる集団に属する。ただし、そこに貶める意図はない。都市の生活様態が、天気を人々の生活における装飾的で周縁的な役割にとどめるのに対し、農村の生活様態は、人々が必ず天気を気にかけるようにする。日々の仕事に取り組み、周囲に目を配るうちに、天気はすでに、自分たちの営みに関わるものとして現れているのだ。

以下では農村と都市を例に分析を進める。だが最後には、異なる道をたどる二つの生活が同じ場所へ行き着くところから、より基本的な一連の生活様態を見つけ出すことになる。

三、天気の存在論的解釈

物語のなかでも現実のなかでも、天気と感情は、もっと根源的な層で結びついているようだ。前節では平たく、それを暮らしのあり方、すなわち「生活様態」と呼んだ。まさにここで、私たちはハイデガーの基礎存在論に出会う。

この、まったく厳密でない随想は、面倒な文言の争いへ入り込むつもりはない。存在論の貢献とは、主客対立に固執する老学究たちに、過度に真面目な仕事を生活より上位に置くなと教えることだからだ。考え始める前に、思考が出発した場所へ戻って見てみよう。生命の故郷で、私たちはもっと自由で感情的な仕方で世界と付き合っている。

ハイデガーによれば、認識は世界内存在の一つの存在様式である。つまり、認識は生活という大樹から伸びた枝なのだ。残念なことに、「細胞分化」とともに、認識はその根源的な潜在力を失う。視野が狭くなり、凝り固まってしまう――理論的な観察では、世界はすでに、ただ眼前にある存在者の均一な広がりへと薄められている。しかし、気分に応じて揺れ動く世界の見方のなかでこそ、手許にあるものは、それに固有の世界性をもって現れる。世界が世界として現れるあり方は、一日として同じではないのだ。

後の議論の下準備として、ハイデガーから得られる次の三つの示唆だけを描いておけばよい。

(1)世界は、手許にあるものを寄せ集めて「できている」のではない。「世界内存在」とは、慣れ親しんだ世界で物事に取り組むこと――配慮――である。対象を取り出して観察するのではなく、周囲に目を配りながら、用具どうしを結びつける指示の連関に、ことさら意識せず溶け込んでいるのだ。

(2)手許にあるものは、まずたいてい、日々の配慮の対象となるものである。ハンマーは叩くことと結びつき、叩くことは修繕と、修繕は風雨を防ぐ場所と結びつく。こうした用具の役割と結びつきの全体、すなわち適所性の全体はつねに、現存在の存在のある可能性と関係しており、最終的な「何のために」へとさかのぼる。それこそが現存在に固有の、ただ一つの「それ自身のため」であり、現存在はすでにそれを理解している。

(3)気分は現存在の根源的な存在様式である。現存在はつねにすでに何らかの気分にあり、「存在し、しかも存在せざるをえない」日常状態が、現存在の被投性を示している。世界内存在そのものから「襲来する」この気分に対して、現存在が選べるのは、それに沿うか、それとも背くかだけだ(情態性、すなわち気分づけられてあることは、現存在が投げ込まれているというあり方を開示する。それはまずたいてい、そこから逃れて背を向ける仕方で起こる)。もし世界のなかにいることが、気分によってあらかじめ方向づけられた、世界内の存在者との関わりを含まないのなら、どれほど強い圧力や障害があっても、心が動かされることはない。したがって気分は、実存論的に現存在の「世界内存在」を構成している。

――もちろん、断片的な抜粋だけで読者に理解を迫るのは無責任だ。これらの示唆を、具体的な生活世界のなかへ戻さなければならない。伝統的認識論のように、人間と世界の主客対立から天気が感情に及ぼす影響を理解するなら、同じ空を共有する農村と都市には違いがないはずだ。しかし事実はそうではない。

ハイデガーが述べるように、自然を、単に眼前にあるものや自然の威力として理解してはならない。森は材木を得る森、山は採石場、川は水力、風は帆を進める風であり、私たちは周囲世界のなかで、それらに出会うのである。

自然も天気も、つねに私たちの関心の眼差しを迎えて開示される。関心に応答するまでは「存在しない」という意味ではない。ただ、世界の片隅で、私たちが関心を払わない背景として存在しているということだ。人々の関心の中心が変われば、世界も変わる。赤ん坊の目には乳房しかない。やがて世界には、時に世話をし、時に邪魔をする二つの存在が加わる。

私たちはいつも、ぼんやりした欲望と関心をもって世界を探り、さまざまな事物を欲望と関心の順序ある展開へ組み込む。そのことによって、欲望と関心のほうもいっそう「見える」ようになる。世界はそのうえで、ある「選択を行える場所」になる。そこには隠れているものもあれば、開かれているものもある。世界の境界は、このように少しずつ切り拓かれていく。

同じ対象である「森」を例にとろう。空腹や渇きを覚えた、原初的な部族社会の人々の目には、森は彼らの「食堂」であり「食卓」にすぎない。部族民が気にかけるのは「獲物」と「花や果実」だけで、どの食べ物をどこに置くべきかを知り尽くしている。弓を引き狩りをすることは、私たちが箸を使うのと同じくらい容易だ。

勝利を求める将軍にとって、森は「戦略的後背地」になる。塹壕や罠や隠れ場所が、突然、尋常でない重要性をもって視野の中心に現れる。森の別の側面が開示され、暗い伏兵、危険、殺し合いと結びつく。こうして森は、つねに警戒しなければならない「暗黒の森」になる。

現代の平和な時代には、森は単なる「観光地」「鑑賞対象」へ格下げされる。危険はすべて取り除かれ、原始的衝動とのつながりを失い、森は人間の生に触れてこない平面絵画になる。人為的に去勢され、美学的な意味だけを残すのだ。

では、「食卓」「戦略的後背地」「観光地」としての森のうち、どれが本当の森なのか。答えは少しずるい。どれも森そのものだが、「同時に」森そのものになることはない。それぞれの森を現れさせる関心が、互いに両立しないからだ。森はつねにある視点から関心の眼差しへ取り込まれる。その視点は森の一面を開くと同時に、ほかの側面を必ず覆い隠す。

世界を開示し、世界によって開示される関心そのものは、私たちの生活から生まれる。それは日常の無数の不条理と奇跡のなかで絶えず変化する。森の姿もそれにともなって千変万化する。時には避難所となり、時には鬱憤をぶつける砂袋や秘密を打ち明ける木の洞となり、時には恋人たちの愛の巣となり、時には生物学者の標本となり、時には祈りの聖地となり、時には空想が棲む故郷となる。

そのすべてが森の「本質」だ。ただし、この本質はつねに私たちの「存在そのもの」に身を寄せている。上の「森」を「天気」に置き換えれば、天気についての存在論的説明が得られる。天気の本質もまた、私たちの存在そのものに応じて、さまざまな姿を展開する。

耕す者の目に天気は神の恩寵であり、家畜を飼う者の目に天気はあちこち走り回る庭師である。詩人と哲学者は空を自らの母として高く掲げ、生態学者は万物を貫く「天地間の循環」を見る。信徒は、空の変幻自在なあり方から神聖な意志を読み取る。

同時に、私たちの存在も天気の変化に自分の印を刻む。別れを経験した人は、雨と涙の共通する湿り気に苦しみ、真昼に散り散りになり誰にも拾われない影を哀れみ祈る。風は、いつか消え去るものの象徴となる。夕暮れは、これから訪れる長い夜を予告する。だが――長夜の果てには必ず夜明けがある。だから雪が溶けるなかにも、春との再会へのささやかな希望が含まれている。そのときになれば、四月に南へ帰る燕が、きっと吉報を運んでくる。

雲間から差す日光に照らされる都市

しかし私たちは、つねに天気を忘れ、天気から遠ざかっている。天気への関心は、何かが欠けて初めて意識に上ることが多い。雨の降り続く午後になって初めて、昨日の晴れやかな陽光を懐かしみ、長い旱魃で干上がった大地に立って初めて、豪雨を渇望する。こうした懐かしさや渇望のなかで、私たちはようやく空を正面から見つめ、空に願いを向ける。心地よい大地の上で日々の営みに没頭し、空を意識せずにいるときとは違うのだ。

ある用具が完全に役立つものになると、かえって世界から消えたかのように目立たなくなる。私たちが眼鏡を「かけたまま」眼鏡を探し、電話を「かけながら」電話を探すのと同じだ。天気はもちろん用具とは違う。だがここでは同じである。ちょうどよい天気は世界の縁へ退き、単なる背景となって、より切迫した事柄に舞台を譲る。

しかし、それは重要でないという意味ではない。むしろ、世界の背景へすでに溶け込んだ存在者こそが、私たちの穏やかな生活を支えている。「無料だが値段のつけられない」空気、食卓の上で腐るのを待つ「動物の死骸」、見返りを求めない両親や家族、「戦争を笑い話にできる」平和な歳月。それらは絶えず、目立たない姿で静かに日常を守っているのに、十分な敬意を受けたことがない。

重要だからこそ、「重要でないもの」になったのだ――なんという大きな皮肉だろう。

高層ビルに身を委ねる都市の人々にとって、空は手の届くところにあるかもしれない。だが、忙しい仕事や享楽の途中で、顔を上げて空を一度見ようと思う人が、私たちのなかにどれほどいるだろう。長く下を向いていた頭を解放し、時おり体を動かすとき、私たちは習慣的に視線を「上」へ投げる。しかし空を「見る」ことと、空を「見て取る」ことは違う。都市に暮らす人の視線は、いつもどこかうわの空だ。その視線には「関心」がなく、新鮮さを探すための「一瞥」と、退屈を紛らわすための「どうでもいい」があるだけだ。

雨でも晴れでも、どうでもいい。都市の人の頭上の空は、そういう意味のない背景装置である。時を止めた油絵のように、絵のなかで天地がどう変わろうと、絵の外の人間は少しも影響を受けない。安全な白線の外に立ち、平然と絵を眺める。空は近く見えて、実際にははるか遠い。シリアで起きる戦争のように遠い。ニュースを見て、しばらく感慨にふけり、それから顔を背けて自分の用事へ戻る。

この意味で、都市の人の生活に空が存在するのは、もっぱら「天気予報」という形においてである。頭上の天気より、天気予報のほうを気にかけているのだ。

屋上の神社と都市の空

天気が都市生活のなかで、重要でないがゆえに忘れられるのだとすれば、農村生活のなかでは、日常に完全に溶け込んでいるがゆえに忘れられる。太陽は地球を育て、空は大地を養う。農村の広い土壌は、神が降臨する祭壇である。農民と牧民はアポロンに選ばれた祭司として、天の神託を都市へ伝え、その生活を導く。

カッシーラーは『言語と神話』で、アメリカ先住民のある部族が農耕を「舞踊」と見なしていたと述べている。彼らにとって作物の成長と収穫は、時宜にかなった土地の手入れではなく、正しい舞踊、すなわち呪術的・宗教的儀式の正しい遂行にかかっていたという。

この話を引いたのは、古代の迷信を復活させるためではない。ただ農牧生活の「規則性と儀式性」を強調したいのだ。こうした規則と儀式は農民や牧民の日常生活を「拘束」し、春分に種をまき、秋分に収穫するよう「命じる」。あるいは、雨雲が通り過ぎた豊かな牧草地を追い、追いすがる厳冬からあちこちへ逃れるよう「呼びかける」。

注意の足りない人は、こうまとめるかもしれない。人間と自然の長いすり合わせが、この規則と儀式の体系を「作り上げ」、それが農民や牧民の頭上へ「付加された」のだ、と。しかしその表現は、素人の思い上がりにすぎない。

空の規則と儀式は、足枷や法律とは違う。足枷や法律はつねに「破る」「越える」ことができ、主体とぶつかり合う「異質な存在」にとどまる。これに対し、真の法則は「構成的」である。自然法則がそうであるように、それは破ることも越えることもできない。主体はつねにそのなかで活動し、それの一部だからだ。

そう、天気は人を馴らす――帰馴(きじゅん)させる。だが帰馴の最高の成果は、「手綱を解き」、「流れに任せる」ことにある。空の規則と儀式は主体が自発的に受け入れる帰馴であり、誰も農民や牧民に何かをするな、何かをしろと「命令」することはできない。彼らはいつも自由なのだ――ただしこの自由を、暴徒の勝手気ままと取り違えてはならない。

自由とは、「自然に」しかも「ちょうどよく」生きることだ。そして「ちょうどよく」とは、生活のなかでつねに天気の呼び声に応答することをいう。四季の風雨と付き合う方法は、農民や牧民の骨身に刻まれ、生活の一部になっている。彼らにとって天気は、反抗すべき存在ではない。彼らはつねにそのなかで生きているからだ。魚が水に反抗せず、「水に乗って泳ぐ」ように、農民や牧民も天気の変幻のなかを泳いでいる。

果てしない原野は彼らの居間であり、高く広い空は居間の天井であると同時に、家の一部でもある。農村では、天気の存在が家の親しみ深さのなかへ溶け込んでいる。

農村についての分析は、ここで都市の空を照らし返す。先に私たちは、都市の空が「忘却」と「気にかけなさ」の姿で家の外へ隔てられていると書いた。歓迎されない異郷の客のように。だが、本当にそうなのだろうか。家の高さが違うだけで、自然との血縁関係を断ち切れるのだろうか。決してそうではない。

農村の住民は「規則」と「儀式」のなかで自由に「天気と共に住む」。都市そのものが、人と天気の付き合い方という基本形式を廃止したわけではない。ただ、その「規則」と「儀式」を複雑化し、細片化しただけだ。

天気の変化は、都市の人の「微動だにしない」生活リズムを揺さぶることが難しくなった。しかしだからといって天気が「世界の外へ遊離した」わけではない。反対に、天気そのものがこの生活リズムの形成に参加している。だからそれは、周囲世界の無数の細部に「設計者」として身を置いているのだ。

世界のなかへ溶け込んだこれらの「設計」に、私たちは日々の営みのなかでいつでも出会っている。それは生まれつきの痣のように、自分たちの出自を思い起こさせる。ハイデガーの記述をたどれば、小道、大通り、橋、家では、自然は日々の配慮によって一定の方向から開示される。屋根のあるプラットフォームは風雨を考慮し、公共照明設備は暗闇を考慮する。時計には宇宙の星々の位置が織り込まれている。目立つ場所に備えられた時計を使うとき、周囲世界の自然も、ともに私たちの用に供されているのである。

この意味で、天気は頭上にだけ存在するのではない。それは日常生活の隅々で私たちと出会う。何気なく一本の傘を持ち歩く習慣に、外を遮る窓ガラスと開け放たれた窓に、時に人をつまずかせるマンホールの蓋に、「英国式」の雑談――天気を話題にするスモールトーク――に、花灯籠を眺め花火を打ち上げる伝統習俗に、都市版の「日の出とともに働き、日暮れとともに休む」生活に、夜明けの街全体の静けさに。

私たちは空のかけらを何気なく拾い集め、想像の風に乗って太古へ戻る。こうして見ると、農村であれ都市であれ、天気はつねに人々の生活様態を形づくることに参加している。その消失は、ただ「功成りて身を退く」ことにすぎない。天気は、倒れた者の後を次々と継いだ無数の先人たちとともに、いま目の前にある平和な生活を私たちへ残した。この意味で、彼らを「忘れる」ことこそ、彼らへの最高の「敬意」なのだ。「聖人が死ななければ、大盗は止まない」。

スマートフォンを手に窓外を見る帆高

しかし、死が新生のためにあるように、天気が「世界へ溶け込むこと」もまた、その「臨顕(りんけん)」の力を蓄えている(ここでいう臨顕は宗教体験における顕現に近い語であり、空の神聖さを私たちのために保ってくれる)。

農村でも都市でも、天気がつねに「世界のうちに溶け込む」姿で生活の隅々に存在しているからこそ、天気は「再び出会い」「もう一度見つめ直す」ことのできる対象になる。そして再会を告げる「目の前がぱっと明るくなる」瞬間、私たちは、見慣れているのに見知らぬ空を、新たな目で見直す。「士、別れて三日なれば、刮目して相待す」というように。

天気との「出会い」は「再会」である。これは真剣に扱うべき命題だ。そこには「疎遠」から「親密」への転換が示されている。疎遠は見知らぬこととは違う。疎遠であること自体が、「根源的な親密さ」と「血縁関係」に根を張っている。

天気が世界へ溶け込んだ姿については、すでに明らかにした。しかし、その姿はいったいどう破られるのか。私たちは、その破れからどんな「恩寵」を受け取るのか。これらは慎重に考える必要がある。もし私たちが日常生活のなかで自由に「天気と共に住み」、忘却によって天気へ敬意を示しているのなら、なぜ天気は突然、奇跡のように生活へ「臨顕」するのか。

まさにここで、私たちは天気と感情との深い関係を取り戻す。

四、雲間から日が差す奇跡――五つの感情写像の型

第二節で、私たちは景に情を託すことを「天気の領域から感情の領域への写像」と定義した。第三節では、天気と出会う五つの生活様態の輪郭を描いた。それは、「帰馴」、「忘却のなかで天気と共に住むこと」、「無関心」、「再会」、「奇跡の臨顕」である。これらは一続きの展開をなし、それぞれが一つの感情写像の型に対応している(ハイデガーから得た第三の示唆を思い出してほしい。気分は実存論的に現存在の「世界内存在」を構成する)。

「帰馴」は、人と自然が付き合う出発点である。それは、ある安楽な状態に執着しながら、つねに苦痛と折り合わなければならないことを意味する。だからこの生活様態で天気へ向けられる基本感情は複雑だ。「不満」と「忍耐」を含みながら、いつでも「迎え入れ」「享受」する準備ができている。

天気が私たちを帰馴させるとは、いつそれを楽しめ、いつ耐えなければならないかを知っているということだ。享受の基本感情はけだるさだが、かすかな不安にも悩まされる。忍耐の基本感情は苦痛だが、ぼんやりした期待にも励まされる。

帰馴の結果として、「忘却のなかで天気と共に住むこと」は、「自在に対処できる余裕」と「平静」をもたらす。ある享受が珍しくもなく、手を伸ばせば得られると理解したとき、私たちはその享受を失う。ある苦痛から逃げられず耐えるしかないと理解したとき、その苦痛はもはや苦痛ではなくなる。

こうして天気との関係は、新婚の夫婦から長年連れ添った夫婦へと進む。同じ寝床のなかで喧嘩しては仲直りする「互いに苦しめ合う」関係から、左手で右手を握るような「互いに包容する」関係へ進むのだ。

包容とは、長所も短所も同じ目で見ることだ。だから伴侶は、私たちの目に「よい/悪い」の区別をもって現れなくなる。その人はその人自身であり、いつも変わらない。ここでの「同じ目で見る」は、相手の性分を「すっかり知り尽くした」親しみ深さの上に成り立つ。だから「忘却のなかで天気と共に住むこと」の基本感情は、「親しく、よく知っている」――「家にいるような」感覚なのだ。

家にいる親しみ深さには、つねに「自在に動ける」感覚が伴う。自在に動けるとは、家の配置を「知り尽くしている」ことそのものだ。だからこそ私たちは、あるものをその場に置いたまま、「安心して」その存在を「忘れて」いられる。それがいつでも「手を伸ばせば届く」場所にあり、望みさえすればすぐ手許に戻ってくると知っているからだ。

これが「世界のうちに溶け込む」天気である。家のなかにあると安心して、私たちはその存在を忘れている。

しかし、長く連絡を取らないほどよそよそしさが増すように、天気を長く忘れていると、ついには天気が取るに足りないものになり、私たちは天気に「無関心」になる。

遠く離れて暮らす若い夫婦が、次第にそれぞれの生活を持つようなものだ。目の前の忙しさへ身を投じ、新しい人間関係を築き、なかには第二の家庭までつくる者もいる――そのあとに続くのは、当然、故郷や妻との「疎遠」である。

疎遠は忘却とは違う。それは忘却であるだけでなく、忘却を忘れることでもある。薄情な人は、妻への思いを「意図的に」消し、歓楽街に溺れたまま目を覚まさない。だから無関心の基本感情は「倦怠」と「疎遠」だ。しかし同時に、「別の生活へ身を投じる」ことの「愉快」と「多忙」も伴っている。「楽しみて蜀を思わず」というように、故郷を忘れるほど楽しんでいるときにだけ、私たちは何かに「無関心」になれる。

晴天のベランダに立つ帆高

もちろん、この退廃した生活が永遠に続くことはない。過去の幽霊はいつか訪ねてくる。誰も過去を完全には忘れられない。記憶はいつも「何気ない瞬間」にやって来る。取るに足りない「隙間」から静かに流れ出し、服がすっかり濡れるまで止まらない。

厳冬の小さなつぼみが、私たちを春全体のなかへ置くことがある。朝の庭いっぱいに落ちた葉が、昨夜の風雨の荒れ狂いを小声で語る。地質学者は堆積岩の上で、何千万年もの気候変化を慎重に探る。細かな木漏れ日の影には、酸いも甘いも含んだ無数の記憶が重なっている。

こうして再会に先立って訪れる記憶には、いつも「はっとした悟り」と「ぱっと開ける感覚」が伴う。探偵が事件を解決するときのひらめきのように、私たちは過去のかすかな手がかりを突然つなぎ合わせ、無数の古い写真から、同じ目立たない人影を切り出す。

ああ、あの人こそ、私たちが喜んでいるときに喜びを分かち、落ち込んでいるときに黙って隣に座ってくれた人だった。靴箱に入っていた差出人不明の恋文の作者もその人だった。私たちが空いっぱいの花火を眺めているとき、その人は私たちの顔を眺めていた。

この「真相を明らかにする偶然の出会い」において、天気は、思いを抱えながら口に出せない恥ずかしがり屋の少女や少年になる。長いあいだ影のように寄り添いながら、その人はただ慎重に自分の気持ちをほのめかし、愛のオリーブの枝で私たちの髪を撫で、発見されるのを静かに待つ。

もちろん、決壊した感情のなかで訪れる記憶もある。それは突然の踏み外しと落下を伴う。異郷の宿でひとり目を覚まし、習慣的に寝返りを打ってベッドの端の恋人を抱こうとした手が、空をつかむようなものだ。

クリスマスの朝、子どもたちが歓声を上げてカーテンを開けたのに、世界じゅうの白い景色を見られなかったときの落胆がそうだ。空港で故郷へ帰る旅客が、天候のために便が遅れるという放送を突然聞いたときの落胆がそうだ。長く別れていた恋人たちが広場で会う約束をしていたのに、突然の豪雨のため会いそびれてしまったときの落胆がそうだ。

かつての落ち着きが粉々に砕ける。いつも不平をこぼしていた夫が、台所の包丁の音がずいぶん前から止まっていることに突然気づき、不安げに様子を見に行く。すると妻は、涙の湖のなかですでに精神的に崩壊している。

この瞬間、天気は私たちの信頼を裏切る。すべて平穏であるふりを、もう続けられない妻のように。ここで初めて、天気は私たちが好き勝手に操れる存在ではないと分かる。天気には自分の尊厳と生活があり、腹のなかに隠して気づかれたくない激しい感情が無数にある。天気も心が崩れ、後悔する。つねに生きている存在なのだ。

私たちは天気と決裂せざるをえない。だがこの決裂は、新たな「見つめ直し」と「互いに馴らし合うこと」のなかで、和解をもたらすことになる。ここまで、私たちは「再会」の二つの姿を分析した。前者では「真相に偶然出会い」、後者では「当てが外れたことで自分を省みる」。

「再会」と「奇跡の臨顕」は、どちらも「忘却」の姿を破る。しかし「再会」は内から外へ向かう刷新であり、過去を思い出すにせよ反省するにせよ、主導権は私たちにある。これに対し「臨顕」は外から内へ向かう開示である。私たちは異質な存在によって打ち砕かれ、自らを組み直すことで新たな生を得る。

人生のある瞬間、私たちは呼びかけられたように空を見上げる。「風雨もなく、晴れもない」高みで、何かが突然、心の弦に触れる。それは見知らぬ、しかし懐かしい歌を奏で始める。やがて余韻も消え、あたりはしんと静まり返る。ふと我に返ると、私たちは涙を流している。これが、空から降りてくる奇跡なのかもしれない。

奇跡とは、「生命全体」を根本から揺さぶる啓示である。それは幅のない稲妻だが、一瞬のうちに世界を成り立たせる結びつきの全体を、目の前の草木の一つひとつへ投射する。すると草木は、自分の身分にそぐわない重さを引き受け始める。鳥の飛び立ちと着地に歴史の盛衰がきらめき、風の音には万物の呼吸がこだまする。

その瞬間、宇宙はもはや平らに広がってはいない。隠喩が宇宙を私たちの周囲へ集め、世界の果てを目の届く場所へ並べたからだ。突然、「私」はどこにでもいるようになる。世界の隅々が、永遠の問いの答えを小声でささやく――「私は誰なのか」。

私の表象はあらゆる表象に伴い、世界は有限でありながら無限のメビウスの帯へ折り畳まれる。その自己接続点こそ、頭上の色鮮やかな空である。風がひとしきり吠え、ぱらぱらと細雨を巻き込む。世界が泣き始める。それは、私たちの泣き声だ。

雨に包まれた東京を眺める帆高と陽菜

五、取るに足らない後記――不条理、奇跡、愛

東京の街角で迷った帆高のように、この映画はかすかな敵意を放っている。いつでも私たちの目から逃げ出そうとしながら、どうしようもなく手を振り、ナレーションで自分の心境を語る。

街角で一組の恋人に偶然出会ったような感覚だ。礼儀から話しかけてはくるが、視線は互いだけを見つめている。私たちは、その関係のなかで自分が余計な存在だと悟り、二人きりにして立ち去りたくなる。これが敵意の源だ。そこには羨望と、二人が結ばれてほしい気持ちが混ざっている。それでも避けようなく、自分自身の孤独を映し出す。

私たちはその世界から押し出される。帆高と陽菜は互いにしか属していない――新海誠の内面世界に属しているからだ。明らかに、新海誠は私たちへ語りかけていない。だが、それがどうしたというのか。帆高が線路の上を疾走するとき、彼はほかの誰のことも考えていない。――ただあの人に会いたい。彼は少年であり、ただ少年なのだから。

少年少女は、もともとそういう存在である。自惚れていて、頑固で、現実離れしていて、目先のことしか見えない……天気に文句を言っても仕方がないのと同じだ。期待と現実が衝突したとき、私たちは現実を責められない。現実はただ存在している。命令もせず、説明も求めない。だから現実はしばしば、何の理由もない。理由のない出来事を、私たちは不条理と呼ぶ。

だから見てほしい。現実はいつも不条理で狂っている。帆高の顔の包帯のように、陽菜の祈りのように、三年間ずっと降り続いたあの雨のように。ここで私たちは、もう一つの敵意に向き合わされる。何の説明もなく、私たちは冷酷にその世界へ投げ込まれ、最後にはわけが分からないまま映画館を出る。雨が降り、雨がやみ、また雨が降り始め、そして物語は終わる。

この不条理について、新海誠は責任を負うべきなのか。だが――現実そのものが狂っているのではないか。

喫茶店で話す帆高と須賀

私たちは、現実はすでに説明されたものだと思いがちだ。だが実際には、現実が連続して起こることに慣れているだけである(ヒュームの言葉を思い出してほしい。因果関係とは、心の習慣的な連想にすぎない)。

七月に雪が降れば、私たちは驚く。だが別の惑星では、それが当たり前かもしれない。ならば、道端の薔薇にはなぜ驚かないのか。アンゲルス・シレジウスも、「薔薇には理由がない」と書いている。現実とは、この「理由のないもの」の連なりなのだ。

現実に不満を抱けば、理由のないものはすべて不条理へ落ち込む。だが現実に感謝を抱けば、理由のないものはすべて奇跡になるだろう。私たちが過ごす一日一日は、もしかすると奇跡の連続なのかもしれない――そんな言葉がある。

沈んでいく東京が現実の不条理を象徴するのだとすれば、帆高と陽菜の出会いは、雲を貫く奇跡を象徴するのかもしれない。自惚れ、頑固、現実離れ、目先しか見えない――それは、自信、執着、ロマン、未来を恐れないことと同じなのだ。

不条理とは、私たちを手も足も出ない状態にするものだ。帆高を家出へ追いやった家庭、陽菜に働くことを強いた都市、気まぐれに機嫌を変える空のように。こうした運命の代行者は、生活を狭い空間へ圧縮する。透明な箱のなかで、私たちは自分とどう付き合うかを学び、孤独とどう向き合うかを学ばなければならない。「世人(ダス・マン)」という名の、世間の誰もが属する強固な後ろ盾を失ってしまったからだ。

帆高の家出と陽菜の祈りは、世人の独裁王国から追放されたことの象徴である。ハイデガーが現存在の「平均的日常性」を「他者との共同存在」へ帰着させたとき、彼はまさに、社会に馴染めないこうした「周縁的な人々」を忘れてしまったように見える。彼らは、頽落から自分を救い出す機会さえ得られなかった。最初から、あの「匿名の」世人によって排除されていたからだ。

帆高と陽菜の出会いは、むしろ二人の家なき者の出会いである。出会いから、互いに助け合い、そして互いを頼りに生きることへ。かつて街頭をさまよった者だけが、家と灯りの温かさを理解する。

雨の路上にうずくまる帆高
画像内の中国語歌詞字幕の意味:希望を抱かない人と、十分に賢い人だけが――。

流浪の恐ろしさは、骨まで凍る風だけにあるのではない。心を置く場所がなく、居場所を失うことにある。長い夜が私たちを、誰も知らない片隅へ埋葬し、存在の証明まで雨に洗い流してしまうような感覚だ。

鉄筋コンクリートの洪水のなかで、私たちは思わず一つの錨を求める。私たちを覚えていてくれる眼差しを求める。おそらく、これほど弱く、ちっぽけな立場に身を置いて初めて、私たちは帆高と陽菜の深い愛を理解できる。

二人は互いの支えであるだけでなく、互いの心の住処でもある。互いを頼りに生きてきた二人だけが、命を惜しまず互いへ走っていく。幸い、都市は互いを頼りに生きるための代価を下げてくれる。膨張する資源の巨獣は、その身にぶら下がる蚤たちをいつでも養えるからだ。

いま、この決断はもっと根本的な渇望を指し示す。「消えたくない」――眼差しから、記憶から、人々のざわめきから、宇宙の引き潮から……。帆高は陽菜のなかで生き続けたい。陽菜もまたそう願っている。愛こそが生命へ意味を与えるからだ。愛にできることはまだあるよ。

以上は、実のところ二度目に観た後の随想である。あまりにも自分に酔っているように見えるが、それでもいい。中二めいた年ごろの自己陶酔は、しばしば世界の構図を決める。それは大人になった私たちが浪費できる資本になる。

歳月を重ねるほど、目に映る世界は灰色になり、色を失い、感情の角は削られ、傷跡すら残せなくなる。だから私は十五、六歳のころに一度、狂ったように振る舞いたい。世界の果てに「ここに来たぞ」という旗を立てたい。

そうすれば年老いて、どこかの都市の小さな通りに縮こまり、どうにか日々をやり過ごすことになっても、私ははっきり思い出せる。世界はかつて、どれほど果てしなかったかを。

なぜなら、帆高の決意に重ねて言えば、あのとき、私が、私たち二人が、本当に世界のかたちを変えたのだ。私が彼女を選び、この世界を選び、ここで生きていくことを選んだのだから!

屋上コメント

紅茶:作者は『天気の子』の台詞をきっかけに、天気と感情の結びつきを存在論的に解釈している。この解釈は評価に値する。ただし、論述の過程で、風景によって内面を表現する文学上の問題と、現実の生活において風景と感情を結びつける心理学上の問題を混同する罠に、あやうく陥っていることは指摘しておきたい。柄谷行人が『日本近代文学の起源』で述べたように、風景によって内面を表現することは、考えもせずに行われる行為であり、典型的な遠近法の倒錯である。風景が近代的自我の内面の外化となるには、まず「主体」という概念を輸入しなければならない。風景の発見は、実際には主体の発見なのだ。

もう一つ疑問なのは、もし『天気の子』の「天気理論」が作者の解釈どおり普遍的なものなら、『天気の子』はそのために凡庸に見えてしまうのではないかという点だ。作者が『天気の子』に感動したことを自己陶酔だと認めるのは、そのためなのかもしれない。

柴来人:窗子兄さんの散文は、やはり筆が立つ。ハイデガーの自然についての引用は、僕にとっては明らかに、農牧生活と自然風土を浪漫化する危険をはらんでいる。第三、第四節の論述では作品分析が抜けているので、実際に少し解釈を試みてもよかったのではないか。第一、第二節は導入としてやや長く、本文としては後半と少し噛み合わない。総合すると、『天気の子』という作品そのものを論じる部分が少なすぎる。

帆高と陽菜の経験に対する態度には、明らかに中二めいた自己陶酔があり、無反省へ滑り込む危険もある。まあ、作者本人もそれを自覚しているようなので、ここではこれ以上言わない。この先のコメントで話せればと思う。

風景によって内面を表現することについて、僕の考えはこうだ。広い意味で景に情を託すことや、作者の胸の内を表現することは、もちろん古くからある。だが、近代主体哲学における主体と、近代文学における内面の自己表現に独自性があることも否定できない。ただ、本稿はその問題に挑戦したり、論じたりするつもりはないのだろう。第一、第二節で論じられているのは、広い意味での景に情を託すことと隠喩の問題なのだ。

本文終わり

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