2. 科学のイメージ――現実の垣根を越えて
2.1 存在論的属性――もっともらしいSF性
21世紀の今日という時代は科学技術の上に成り立っている。この時代を「科学の時代」と呼んでも、それほど異論は出ないだろう。ところが面白いことに、さまざまな作品の中で最も重要な科学のイメージは、たいてい私たちの時代の姿ではない。イスカンダルへと旅立つ『宇宙戦艦ヤマト』から、『機動戦士ガンダム』シリーズに代表される人型ロボットまで。『STEINS;GATE』のように、一見すると現代を舞台にしている物語にさえ、「タイムトラベル」という、現代ではほとんど不可能な中核的イメージがある。
一言で言えば、アニメなどの作品における科学のイメージに共通点があるとすれば、それはSF性だ。ただ、SFとファンタジーの区別がそれほど明確でないこともあれば、ある種の「ソフトSF」は本当の「SF」に数えられるのか、といった論争もよくある。そこで、より正確に言うなら、もっともらしいSF性となる。この「もっともらしい」という語は、論理経験主義の歴史で多くの論争を引き起こしてきたが、ここではひとまず、もっともらしさをごく弱い意味で捉えておこう。つまり、私たちの現在の科学知識と信念体系によって、あるイメージを説明できるかもしれないと、大多数の人が直感的に考えるなら、その説明が実際にどう可能なのかは問わない。そのイメージは、もっともらしいSF性を備えていると言える。

このもっともらしいSF性は、ほぼすべての科学のイメージを貫いている。理解するのは難しくない。さまざまな作品の有名なイメージを思い浮かべればよい。掲示板や百度貼吧、知乎などで定期的に蒸し返される問いの一つが、「ガンダムのような人型ロボットは実戦で役に立つのか」だ。もちろん、2018年のいまでは結論は出ている。実戦では役に立たない。唯一の利点は、バンダイこと「財団B」がプラモを売りやすいことだ。それでも、もっともらしいSF性という概念を明らかにするために、この問いをめぐる論争を少し振り返ってみよう。
少なくとも中国語のインターネットでは、かつての定番の答えはおおよそ次のようなものだった。公式設定では、ミノフスキー粒子の発見によって戦闘が目視範囲内に制限された。しかも戦闘の大半は大気のない宇宙で行われる。だから人型こそ接近戦に最も適した形態なのだ、と。しかし、この答えは明らかに穴だらけである。機械は人型になったからといって操縦しやすくなるわけではないし、人型にどんな接近戦上の優位があるのかも見えてこない。むしろ構造強度などの点で、人型ゆえの欠点を抱えている。その後、四肢の必要性を説明するために、AMBAC機動という設定を持ち出す人が現れた。手足を振って機体の向きを変えれば、推進剤を節約でき、機動性も高まるというものだ。だが、これは実際には角運動量保存則の応用にすぎない。であれば、その応用を実現する手段は四肢だけではない。そもそも四肢は、最も合理的な実現方法ですらない。最後に残る人型設定の擁護は、可能世界という考えに基づく。「いま人型ロボットを実現できないのは科学技術がまだ発達していないからで、将来もっと進歩すれば、人型の利点がわかるはずだ」。しかし、これは反事実的条件文である。その前提、すなわち科学技術が十分に高い水準まで進歩するというのは、反事実的(counterfactual)な状況なのだから、「科学技術が十分に発達している」という前提から、反対の結論を導くこともできてしまう。こんな主張は空疎で、役に立たない。

この論争は、もっともらしいSF性がどのような特徴なのかをよく示している。一方では、作品中の科学のイメージには、何らかの形でそれを合理化する説明が与えられ、その説明は科学についてのありふれた印象に基づいている。他方、その説明を丹念に調べてみると、大半は実際のところ、合理性という点ではあまり高い要求に耐えられないのである。
もちろん、多くの作品の科学のイメージには、『機動戦士ガンダム』シリーズほど詳しい設定はないかもしれない。だからといって、もっともらしいSF性をもたせるための説明の手掛かりがないわけではない。科学のイメージにこの特徴が表れるとき、そこにはたいてい、もっと広い意味での説明や理解の方法が働いている。ふつうは設定、解説、記述といった直接的な手段で、もっともらしいSF性をそのまま説明するわけではない。それでも観客や読者、プレイヤーは、作品の中でその特徴を感じ取れるのだ。1
2.2 科学のイメージはどうもっともらしいSF性を備えるのか
作品中の科学のイメージは、科学について人々が積み重ねてきた記憶の歴史と、より直接的に結びついていることが多い。もっとはっきり言えば、科学のイメージのもっともらしいSF性は、「角運動量保存則」のような抽象的な科学の印象ではなく、科学に関して人々が抱く、もっと具体的な印象に由来する。このような科学のイメージに何が含まれるかを、余すところなく列挙するのは難しい。それでも、いくつかの有名な作品を手掛かりに、どのようなタイプがあるのかを考えることはできる。ここでは最も典型的な二つ、画面と仕組みについて見ていこう。2
2.2.1 画面としてのイメージ
画面を通して表される科学のイメージは、おそらく最もよく見られるタイプだ。小説のように文字だけからなるジャンルを除けば、どんな作品も、何らかの科学のイメージを画面で表さずにはいられない。小説でさえ、物の姿や形を言葉で描写することは、たいてい避けられない。例はいくらでも見つかる。たとえば先ほど挙げた『機動戦士ガンダム』シリーズだ。カレル・チャペックが「Robot」という語を作り出して以来、ロボットは現代科学技術をめぐる最も典型的な文化的シンボルの一つになった。ロボットは、人類が外界を驚くほど自在に操れることを示すだけではない。もっと重要なのは、ある種の超越を感じさせる面白さだ。私たち人間は、自分自身に似た人工物を作り出せる。その面白さを見た目で最もよく伝えるのは、奇抜な形をしたさまざまな産業用ロボットではないかもしれない。誰もが工業製品の美しさを味わえるわけではないのだから。それよりも、姿のうえで人間にいっそう近い人型ロボットだろう。私たちの暮らす現実世界は、科学のイメージとしての人型ロボットがもつ視覚的な衝撃を、さらに強めている。人型ロボットが現在の科学技術では実用的な選択肢にならないのなら、そのことは、人型ロボットという科学のイメージに「科学技術が十分に発達した」世界が含意されていることを、いっそう示すからだ。
しかし、人型ロボットというイメージは、数十年にわたる無数の作品に、数えきれないほど登場してきた。この大まかな概念だけでは、もっともらしいSF性が時代を通じてどう伝えられてきたのか、十分には理解できない。たとえば、1963年に放送された日本初の巨大ロボットアニメ『鉄人28号』では、人型ロボットの鉄人28号はずいぶん「丸っこい」。いまの目で見れば、そのメカデザインも動きも、先進的な巨大ロボットというより、鉄人の着ぐるみに入った生身の人間に見える。『機動戦士ガンダム』と並ぶ「スパロボ御三家」の『マジンガーZ』や『ゲッターロボ』も同様だ。もっとも、こうしたメカデザインや戦い方こそが、のちに一部の人が「スーパー系」と「リアル系」を分けるようになった、隠れた理由の一つかもしれない。


これに対し、元祖ガンダムRX-78-2の角張ったメカデザインや、大地に立つ前に排気口が作動する様子、大気圏突入時に考慮される断熱の問題といった画面の細部は、ハイテク機器に対する人々の一般的な印象に、もっと近いように見える。こうした具体的な細部には、作り手と観客が共有する、科学についての印象が表れている。まさにこのやり方で、科学のイメージにもっともらしいSF性が生まれるのだ。1980年代以降、多くの作品が、画面の細部を通じて科学についての共有された印象を表す試みを、さらに進めていった。『装甲騎兵ボトムズ』に登場するスコープドッグをはじめとする機体が、ファンのあいだで「いちばんリアルなロボ」と称えられてきたのも、かなりの部分、こうした努力によるものだ。キリコの兄貴も名もない兵士たちも、戦場の状況に応じて、頭部モニターの三つの異なる照準器を絶えず切り替える。
機体が空中戦を経て着地する場面にも、人々が科学について共有する典型的な印象が表れている。スコープドッグの脚部はレールに沿ってスライドするように折れ曲がり、衝撃を受け止める。この細部は、誰もが現実の日常で得る経験に合うだけでなく、機械と人間の違いも生かしている。ロボットの関節を曲げるより、機械の「常識」にいっそうかなった設計を採ろうというわけだ。一時代を代表する名作『マクロスプラス』は、この点でさらに先へ進んだ。それは、この作品の「人型ロボット」が、より多くの時間を戦闘機の姿で過ごすからでもある。そして本作が発表された1994年の少し前には、現実世界で、次期戦闘機の座を争うYF-22とYF-23の世紀の対決があった。だから、本作が科学についての共有された印象を探る試みは、もはや画面の細部にとどまらない。



2.2.2 仕組みとしてのイメージ
科学のイメージは、画面でもっともらしい細部を具体的に追求することだけで生まれるわけではない。多くの場合、もっともらしいSF性を伝える役目を担うのは、作り上げられた仕組みでもある。そうした架空の仕組みが伝えるのは、孤立した細部の設定だけではない。無数の細かな設定に支えられた、架空の世界における相互作用のネットワークである。このネットワークの中で描かれる人物の行動や物語の背景は、多かれ少なかれ、その仕組みを手掛かりに説明できる。一方では、この相互作用のネットワークは、作り手にも観客にも理解できる。ある出来事が因果的にある人物の行動を引き起こすとわかっていれば、その因果関係は必然的であり、その出来事によって、その人物の行動を十分に説明できる。場合によっては、その因果関係は作品中の別の人物にも当てはまる。例外が生じるとしても、たいていは出来事に別の事情が伴っていたためであり、その事情が物語の伏線や転機になることも多い。他方、この相互作用のネットワークは現実とは異なっている。しかもその大部分は、具体的な設定としての科学のイメージの集合に規定されている。大きくは未来の技術がもたらす新たな社会のあり方から、小さくはある技術的な機器が引き起こす具体的な行動までが、その対象になる。3
『攻殻機動隊』シリーズは、こうした架空の仕組みの好例だ。巨視的なものから微視的なものまで、さまざまな相互作用のネットワークを見いだせる。1995年の劇場版『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』を例に考えてみよう。最も巨視的に見れば、公安9課そのものの存在、人形使いそのものの存在、そして前者が後者を追う一連の過程は、いずれも新しい社会のあり方のもとでしか成り立たない。最もわかりやすいところでも、その社会には深刻なネット犯罪と、それに対処する法執行機関がある。こうして、最も巨視的で、最も単純な相互作用のネットワークが生まれる。深刻なネット犯罪の発生が、専門の法執行機関の行動を因果的に引き起こすのだ。作品中の具体的な人物や集団を当てはめれば、人形使いによる犯罪が原因となって、公安9課が行動すると表せる。さらに分析すれば、このネットワーク自体が、近未来に義体化技術が成熟し、ネットワークが高度に発達しているという具体的設定に由来するとわかる。一方、最も微視的なところを見ても、個々の相互作用のネットワークは同じように成り立っている。たとえば素子は、清掃員を追跡する場面で義体の光学迷彩機能を使う。これはまさに、素子の義体という技術的な機器によって因果的に引き起こされた行動だ。したがって、この微視的なネットワークは、素子が光学迷彩機能のある義体を持つことが原因となって、清掃員を追う際に光学迷彩機能を使うと表せる。
もちろん、実際の作品では事態はもっと複雑だ。相互作用のネットワークは、ふつう二つの対象のあいだだけで成り立つわけではなく、一つの因果命題でまとめられるものでもない。だが、実際にどれほど複雑であっても、要するに仕組みとは、科学のイメージの集合に規定された相互作用のネットワークを通して、もっともらしいSF性を伝えるものなのだ。この意味で、仕組みとしての科学のイメージは派生的である。仕組みの中の相互作用のネットワークを、因果関係を含む条件文の形へと抽象化することはできる。だが作品において、一つのイメージとしての仕組みは、より具体的な形、とりわけ画面という形で表されなければならない。4

科学のイメージの分析を終えるにあたって、一点指摘しておきたい。さまざまな作品は、SFの創作、とりわけ視覚表現の創作において、いくつかの型を共有している。そのため一見すると、具体的な科学の印象は均質化しているように見える。だが実際には、それらは文脈に強く依存しているため、必ずしも均質化に向かうわけではない。これはとりわけ、時代を通じて見たときにはっきりする。