屋頂現視研

科学と魔法のイメージ03

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3. 魔法のイメージ――他者としての巨竜、他者としての月

作品の何を、私たちは科学らしい、魔法らしいと感じるのか。もっともらしいSF性と他者性を手掛かりに、アニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベルにおける両者のイメージの成り立ちと、境界が曖昧になる理由を考える。

著者: Austoria翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

3. 魔法のイメージ――他者としての巨竜、他者としての月

3.1 存在論的属性――他者であること

科学のイメージと比べると、魔法のイメージに明確な共通性を論理的に見いだすのは、それほど容易ではなさそうだ。どうしても一つ挙げるなら、唯一の選択肢は他者であることだろう。その大きな理由は、ここで扱う「魔法のイメージ」という範囲が、実際には非常に広いことにある。この広い捉え方は、言葉の使われ方からも裏づけられる。今日の作品では、さまざまな設定や姿、展開などが魔法のイメージと見なされる。魔法の世界を作り上げるのに、必ずしも「魔法」という最も典型的な呼び名が使われるわけではない。誰もが魔法のイメージと認めるものにも、「魔術」「魔道」「錬金術」「異能」「霊力」など、「魔法」とは少し違う呼び名が数多く登場する。中国語のインターネットで「魔法」という語がどう使われるかを観察しても、この広い捉え方は支持される。たとえば、魔法の世界を描く作品で、自然界の理に妙にかなった展開を見かけると、「这不魔法」――「それ、魔法っぽくないぞ」――という反応がよく返ってくる。逆に、現実を題材にした作品で、現実と比べてあまりに信じがたい展開が起こると、「可以,这很魔法」、つまり「なるほど、これは実に魔法だ」といった言い方もされる。「魔法」という語がこのように使われているからこそ、「魔法のイメージ」を広く理解することには理由があり、またその必要もあるのだ。

こうして広く捉えるなら、多種多様な魔法のイメージがもちうる唯一の共通性は、他者であるという属性、すなわち他者性になる。「这不魔法」を「这不科学」――「それは科学的じゃないぞ」――の反対の意味で使うとき、私たちはすでに、魔法のイメージが科学のイメージにとっての他者であると前提している。魔法のイメージと科学のイメージの関係は、ワウター・ハーネフラーフが述べる、神秘思想(西洋エソテリシズム)と主流思想の関係に似ている。両者の鮮明な境界は、それぞれが相手を他者とすることによって引かれる。さらに考えてみると、神秘思想にとって、この他者であるという性質はとりわけ重要だ。主流思想は、それを基に築かれた社会全体の信念体系と、その体系がもたらす膨大な資源によって、自らの権威を強め、自らを「常識」に見せかけることができる。これに対して神秘思想の側は、自らを主流思想へと引き寄せる力に抗う際、他者性を唯一の武器とする。実際に訴えるのが陰謀論であれ、さまざまなグノーシス主義的な方法であれ、たとえ「究極の真理」や「幸福の源泉」といった規範的な主張をしなくても、少なくとも主流思想とは異なる世界像を約束しているのである。

もちろん、魔法のイメージには、神秘思想の他者性とは明らかに異なる点が一つある。神秘思想が約束する世界像は、今日の目には実在性をもたないとしても、歴史上の神秘思想、とりわけ科学以前の時代のそれは、多かれ少なかれ自然界の探究であり、その探究は実在する世界へ向けられていたと言えるだろう。最もよい例は錬金術だ。ボイルの時代を過ぎても、錬金術はなお経験的な材料を提供していた。しかし、魔法のイメージについて論じるとき、魔法の世界も、その世界にありうるさまざまなものも、いかなる意味でも実在性をもたず、実在する世界へ向けられたものでもない。多くの作品における魔法のイメージの創作が、人類の歴史にある、神秘思想を含むさまざまな思想的・文化的資源の影響を避けられないことは想像できる。だが結局のところ、魔法のイメージは、いかなる意味でも実在する世界の記述ではないのだ。1

3.2 魔法のイメージはどう他者性を備えるのか

この違いのために、魔法のイメージは、歴史の中で主流思想と自然に「袂を分かった」神秘思想とは異なる傾向を内に抱えている。他者性を備えるために、自ら進んで距離を取ろうとするのだ。それは思想の水準にとどまらず、現実世界そのものからも距離を取ることを意味する。魔法のイメージが置かれるのは、現実から隔たった世界である。科学のイメージとの対照をつかみやすくするため、ここでも作品中の画面と仕組みの二つのタイプに絞り、魔法のイメージがどう他者性を備えるかを考えたい。仕組みとしての魔法のイメージは、ごくありふれている。最も簡単な例は、中国語のインターネットで行われるキャラクターの強さ議論だ。作品が作り上げた魔法の世界で、あるキャラクターには「大将」に準ずる強さがあるのか。あるキャラクターは別のキャラクターを一方的に叩きのめせるのか。あるいは、わずかな手掛かりから、その能力の正体を探る。そういうとき、私たちは実際には、仕組みとしての魔法のイメージを論じているのである。

3.2.1 仕組みとしてのイメージ

魔法のイメージを分析する際、仕組みとして表されるものは、画面として表されるものよりはるかに分析しやすい。科学のイメージと同様、魔法のイメージとしての仕組みも、巨視的なものから微視的なものまでを含む相互作用のネットワークを意味する。このネットワークを、因果関係を含む条件文へと抽象化すると、少なくとも言葉のうえでは、そこに含まれるさまざまな設定が、実際には別のさまざまなタイプの魔法のイメージとして表されなければならないことがわかる。この10年ほどで、仕組みとしての魔法のイメージのうち最も有名で、最も精緻なのは、おそらくFateシリーズの「聖杯戦争」という設定だろう。

『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』の登場人物を配した集合ビジュアル
『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』

元来の設定に照らせば、Fateシリーズ全体を見渡しても、異常事態の起きない聖杯戦争はほとんど見つからない。それでも、聖杯戦争という仕組みのイメージにある相互作用のネットワークを、大まかに描くことはできる。巨視的な一面だけを例に、それがどう他者性を備えるかを見てみよう。聖杯戦争の基本的な流れは、おおよそ次のようなものだ。7人の魔術師がそれぞれ召喚した英霊を伴い、万能の願望機である聖杯を得るために戦い、最後まで生き残った1人の魔術師が聖杯を手にする。この単純な仕組みから、多様な相互作用のネットワークが生まれる。最も単純なのは、魔術師が聖杯を求めることが原因となって、ほかの魔術師との戦闘を始めるというものだ。同時に、この仕組みでは、別のネットワークも成り立ちうる。たとえば間桐雁夜は、桜を救いたいという思いが原因となって、ほかの魔術師との戦闘を始める。時間の経過や、ありうる展開に応じて変わり続けるネットワークさえある。とりわけ物語が転機を迎えたり、キャラクターの「戦う理由」が変わったりするときに現れるものだ。とはいえ、このネットワークがどう他者性を備えるかは明白である。その記述を見ただけで、「魔術師」「聖杯」「英霊召喚」といった語が目に入る。それら自体が、典型的な魔法のイメージなのだ。したがって仕組みは、魔法のイメージの集合に規定された相互作用のネットワークを通して、他者性を備える。科学のイメージと同様、仕組みとしての魔法のイメージは派生的であり、とりわけ画面としての魔法のイメージから派生している。

『Fate/Zero』の登場人物
『Fate/Zero』

3.2.2 画面としてのイメージ

画面を通して表される魔法のイメージは、最もよく見られると同時に、最も考えさせられるタイプの一つだ。これを作り出す最も直接的な方法は、現実には存在しない何らかの姿を、そのまま作ってしまうことだろう。少なくとも直感的には、その姿が指すものは現実には存在しないのだから、必ず現実に対する他者となる。しかし、この考えは成り立たない。画面に描かれた姿が指すものが、現実に存在するかどうか。それは、どのような意味で、その姿に他者性を与えたり、与えなかったりするのだろう。反例はいくらでも挙げられる。たとえば巨大な人型ロボットは現実には存在しないが、科学のイメージである以上、明らかに他者性をもたない。異世界の魔法使いも現実には存在しないが、こちらは誰もが認める魔法のイメージであり、他者性を備える。明らかに、存在するかどうかだけでは、両者を区別できない。

3.2.2.1 存在をめぐる誤解を解く

具体例を直接検討するほうがよいかもしれない。大衆文学における魔法のイメージには、少なくとも科学のイメージに劣らない長い歴史があるのだろう。少なくともトールキンの『指輪物語』シリーズからは、今日に至るまでさまざまな形で派生作品が生まれている。物語の対立や戦争については、あまり知らない人も多いかもしれない。だが、尖った帽子をかぶり、マントをまとった、長いひげの老人というガンダルフの姿は、大多数の人にとって、もはや説明するまでもなく「魔法使い」という魔法のイメージそのものになっているように見える。

映画に登場するガンダルフ
『指輪物語』のガンダルフ

こうした作品の影響は広いが、日本のアニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベルにおける魔法のイメージを語るなら、ファミコン時代の『ドラゴンクエスト』(DQ)にさかのぼるほうがよいだろう。日本の「国民的RPG」であるこのシリーズでは、多くの造形や設定が後世の作品に共有される魔法のイメージとなり、JRPGの文化的シンボルになったとさえ言える。「勇者」も「巨竜」も「姫を救う」ことも、DQシリーズが初めて作った要素とは言えない。それでも今日、「勇者が魔王を倒す」といった物語の歴史をたどろうとすると、このシリーズが定着させた勇者像に、どうしても立ち返ることになる。「スライム」は、DQシリーズのみならず、JRPGの歴史全体でも最も有名なモンスターの姿かもしれない。作品をまたいで、スライムの「標準的な姿」とさえ呼べるほどだ。DQのスライムは、少し横幅のある水滴に見える。その体は流れる粘液なのかもしれないし、弾力のあるゼリー状の物体なのかもしれない。スライムという名で呼ばれるモンスターにも、最弱の青いスライムから希少なメタルスライムまで、さまざまな種類がいる。

『ドラゴンクエスト』の青いスライム
スライム

一見すると、DQのスライムが魔法のイメージであることは自明に思える。先ほどの考え方に従えば、現実世界に存在しないのだから、その意味で必ず他者性を備えるはずだ。だが、話はそれほど簡単ではない。あるものが現実世界に存在するということ自体は、作品中のあるイメージを魔法のイメージと考えることと、実際には何のつながりもない。「スライム」というものが、本当は現実世界に存在すると仮定しよう。太平洋のどこかの無人島に暮らす、粘液状の生物なのだ。発見した科学者たちは、さまざまな理由から、スライムという生物が存在する事実を厳重に隠すことにした。この場合、現実世界にスライムが存在しても、DQのスライムは魔法のイメージだという私たちの見方は変わらない。2

この問題への最も簡単な答えは、スライムを魔法のイメージだと思っている人たちが、現実にスライムが存在することを知らないからだ、というものだ。一見もっともだが、この答えにも問題がある。これでは、現実にスライムがいると知りさえすれば、その人は次にDQを起動したとき、スライムを魔法のイメージと思わなくなるかのようだ。では、別の例を考えてみよう。DQの新作に、色とりどりの毛をした狼という新しいモンスターが登場すると仮定する。大多数の人は間違いなく、この妙な毛色の狼を魔法のイメージと受け取るだろう。だが現実世界で、一頭の狼の毛をさまざまな色に染めるのは、さほど難しいことではない。そこで誰かが実際に狼を色とりどりに染め、そのことを大多数の人が知ったとしたら、彼らはDQのその狼を魔法のイメージと思わなくなるのだろうか。おそらく、そうはならない。むしろ多くの人は、罪もない動物にコスプレをさせていると思うのではないか。

では、DQのスライムが他者性をもち、それによって魔法のイメージと見なされるのは、いったい何によるのか。これを考えるには、先ほどの最も簡単な答えを、もう少し検討する必要がありそうだ。さらに仮定を進めよう。ある日、科学者たちが現実にスライムが存在することを公表した。だが大手メディアが取り上げなかったため、その知らせは人々のあいだをきわめてゆっくりとしか広まらない。公表の翌日には、1万人だけが知っていたとしよう。その1万人は、スライムを魔法のイメージと見なさなくなるだろうか。いや、魔法のイメージだという見方は変わらない。この状況は、色とりどりの狼の例と本質的には変わらない。では10万人なら。100万人なら。1000万人なら。それとも世界中の人が知ったら、どうだろう。今度こそ、スライムを魔法のイメージと見なさなくなるだろうか。いや、そうはならない。やはり色とりどりの狼と似た状況だ。陰謀論好きの一部の人は、事の裏を勘ぐるだろうが、大多数の人は、現実のスライムとDQのスライムが似ているのは、ただの偶然だと思うだけかもしれない。どうやら問題はここにある。ならば、答えはこうなる。鳥山明がスライムの姿を作り出す際に、実は秘密にされていたスライムを見ていたのだとわからないかぎり、私たちはやはり、DQのスライムは魔法のイメージだと考えるのである。

だが、この答えも十分ではない。現代の文学における作者の不在をめぐるさまざまな理論はひとまず置こう。ただ、次の場合だけを考えればよい。ある人は、DQのスライムが生まれた背景、つまり鳥山明が現実のスライムを見ていたという事情を知らない。その人は、やはりDQのスライムを魔法のイメージだと思うだろう。明らかに、他者性の有無を作り手側の事情で説明しようとしても、その事情は、十分条件にしかならず、十分条件としてさえ疑わしい。私たちは作品を楽しむとき、いつも作者や創作の背景を気にしているわけではない。それらは作品を理解するための手掛かりにはなりうるが、作品の理解そのものを決定するわけではない。だから、これも私たちが求めている答えではない。

3.2.2.2 存在論的属性を備えるための条件

この例を、さらに押し広げてみよう。現実にスライムが存在することは、いったいどのような場合に、スライムを魔法のイメージだとする私たちの見方を変えるのだろうか。想像するのは難しくない。科学者たちがスライムの存在を公表してから100年以上がたち、より多くの分野の科学者がこの粘液状の生物を深く研究し、それまでの科学的見解を数多く改めたとしよう。義務教育の課程も、最新の科学的見解に沿って改訂された。無数の家庭がペットとしてスライムを飼い、公園ではどこでも、スライムを連れて散歩する人を見かける……。こんな状況なら、スライムはもはや魔法のイメージと見なされなくなったと、無理なく断言できる。

この想定を踏まえると、あるイメージが他者性を備えるための、より適切な条件をこう考えることができる。画面にもっともらしく描かれたそのイメージが指すものに、現在の私たちの科学知識と信念体系に基づいて説明できる可能性がないこと。現実世界に対して自然主義的な態度を取り、現実に存在するすべてのものは、科学知識と信念体系を通じて説明できる可能性があると考えるなら、この条件には実際には存在の問題も関わってくる。つまり、現実のものに求められるこの説明可能性を欠けば、そのものは現実には存在しえない。だが、その逆は成り立たない。現実に存在しないものでも、巨大ロボットなら、科学のイメージとして、明らかに説明できる可能性がある。一方、異世界の魔法使いなら、魔法のイメージである以上、明らかにその可能性がない。ただし、科学のイメージと魔法のイメージの区別を適切に理解しようとするとき、実際に求めているのは、他者性を備えるための必要十分条件だ。であれば、説明できるかどうかについての条件だけで、すでに十分なのである。

もちろん、この条件はまだいささか大まかすぎる。科学のイメージの分析で挙げた、もっともらしいSF性という属性の、ほぼ裏返しにすぎない。「そのイメージが指すものは、現在の私たちの知識と信念に基づいて説明できる可能性をもたない」とは、いったい何を言っているのか。それはまだわからない。もっと具体的な答えを得るには、DQのモンスターとしてのスライムに戻ったほうがよさそうだ。簡単に言えば、作品自体が作り上げる文脈が、スライムに他者性を与える。スライムの姿が他者性をもつために必要な文脈は、画面で作られる最低限のものでもよい。勇者と対峙するスライム。中世風の村の近くにいるスライム。廃城にいるスライム、といったものだ。ただし、他者性を備えるために、スライムの姿が実際にそうした画面に登場する必要はない。そうした場面にスライムがいる情景を、私たちが頭の中ではっきり思い浮かべる必要さえないことは、指摘しておきたい。

さらに、2018年のいまなら、スライムを一度も見たことがない人でも、その姿を見れば、他者性にはっきり気づくだろう。「これは何の化け物だ?」。逆に、先ほどの例のように、スライムに関する知識や考えがとうの昔に義務教育の課程へ組み込まれていれば、その時代にはもう誰もスライムを魔法のイメージとは思わないはずだ。したがって、作品自体が作り上げる文脈がスライムに他者性を与えると言うとき、その文脈は、必ずしも作品を知る人々のあいだにとどまらない。ときには、より広く社会の文脈に組み込まれている。その社会的な文脈の中では、どんな作品に描かれる姿や形も、作品の外で人々がもつさまざまな知識、信念、印象と互いに照らし合わされ、フィードバックを生む。そうして意識的、あるいは無意識的に、画面上のその姿に他者性があるかどうかが判断されるのだ。とりわけ科学のイメージと魔法のイメージを区別しようとするとき、社会的な文脈にある知識、信念、印象の中で、人々が科学について積み重ねてきた記憶史は、最も目を引く側面の一つだろう。

面白いことに、スライムという魔法のイメージは、最近現れたさまざまな魔法のイメージに比べると、ずっと単純に見える。それなのに、どうして他者性を備えるのかを分析するだけで、これほどの紙幅を費やしてしまった。ただ、ありがたいことに、ここまでの分析は、おもに画面で表される魔法のイメージなら、ほぼどれにでも当てはまる。細部は、むしろさらに簡単になることさえある。たとえば、永遠に15歳のままの少女のアーサー王は、魔法のイメージだ。最新の考古学的発見が少女のアーサー王という姿を裏づけたとしても、すでに私たちには共有する記憶があるからだ。また、現代都市を舞台にしたさまざまな異能バトル作品もそうだ。「手から漆黒の炎が燃え上がる」といったことが現実に起きたとしても、それを魔法のイメージとして受け取るだろうと、私たちには直感的にわかる。少なくとも、しばらくのあいだは。これらが魔法のイメージであることをめぐる存在論上の問題には、ひとまず答えが出た。だが科学のイメージと同じく、なお面白い問題が残る。通時的な異質性、つまり時代によって条件が異なるという問題だ。

本文終わり
注02

注釈

  1. この点は科学的実在論をどう考えるかに関わる。だが、たとえばファン・フラーセンのように、科学理論は実際には「現象を救う」、つまり観察可能な現象を正しく記述することに尽きるという反実在論の立場を取ったとしても、主流の科学理論、神秘思想の理論、ライトノベルの架空の理論では、どれだけ「現象を救う」ことができるかに、顕著な違いがあることはわかる。この点で、神秘思想の理論とライトノベルの架空の理論、すなわち魔法のイメージとは、大きく異なっている。 ↑

  2. ゲームの中のものと現実のものが、どうして完全に同じものになれるのか、という問題がある。少なくとも初代DQの二次元の画面では、現実のものと外見が同一にはなりえない。この懸念については、こう考えられるだろう。二次元の画面にあるものは、実際にはどれも現実のものと外見が同一ではない。それでも、その画面を通して、現実に存在する何かを指し示すことはできる。たとえば二次元の画面の「馬」を通して、現実の馬を指し示すのは、それほど難しくない。 ↑

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