屋頂現視研

科学と魔法のイメージ04

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4. イメージの境界が曖昧になる――時の推移が投げかける影

作品の何を、私たちは科学らしい、魔法らしいと感じるのか。もっともらしいSF性と他者性を手掛かりに、アニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベルにおける両者のイメージの成り立ちと、境界が曖昧になる理由を考える。

著者: Austoria翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

4. イメージの境界が曖昧になる――時の推移が投げかける影

4.1 境界の曖昧化――いくつかの作品を例に

もっともらしいSF性と、他者であるという属性は、科学のイメージと魔法のイメージをどう理解するかについて、それぞれ方向を示してくれる。あるイメージが前者の属性を備えれば科学のイメージ、後者の属性を備えれば魔法のイメージとなる。形而上学的な属性についてのこうした議論は、実際に使うにはかなり大まかなものだが、それでも作品中のイメージ、さらには作品そのものを理解するうえで、多くの示唆を与えてくれる。近年、「科学の国・文明・世界」と「魔法の国・文明・世界」の出会い、交流、衝突は、ごくありふれた題材になった。その最も典型的な作品は、おそらく『とある魔術の禁書目録』だろう。この作品では「科学サイド」と「魔術サイド」の区別と対立がはっきり設定され、二種類のイメージを容易に見分けられる。科学サイドには、科学で説明し制御できる超能力、制度化されたさまざまな研究機関、極超音速のジェット機、分子レベルの計算精度をもつスーパーコンピュータ、大量に複製された人造人間などが登場する。魔術サイドには、各宗派が統べる魔法使いの部隊、ルーンで操る炎、さまざまな術者が召喚する使い魔、神秘の力が記された魔道書、さまざまな神話を背景にもつ聖人や魔神などが登場する。どれもきわめて典型的な、科学のイメージ、あるいは魔法のイメージだ。

日本語の作品ロゴと登場人物を配した『とある魔術の禁書目録』の集合ビジュアル
『とある魔術の禁書目録』

だが、『とある魔術の禁書目録』の原作小説が示すように、こうしたイメージが表す科学的なものと魔法的なものの違いは、実際には、はっきりした境界があることを意味しないかもしれない。原作小説の記述によれば、科学サイドと魔術サイドの対立は、もともと魔術サイドの内紛から生まれた。学園都市の最高機関を率いるアレイスター=クロウリーは、もとは魔術結社の一員であり、本作の重要な魔道書『法の書』の著者でもある。彼が召喚した守護天使エイワスも、ある意味では科学と魔法の上に立つ知識の伝達者に見える。もし科学的なものと魔法的なもののあいだに、本当に越えられない溝があるなら、両者の技術的な実践が相互作用できるというのは、不可解ではないか。だが、作中でアレイスターが人工の天界を作ろうとする企ては、そうした相互作用が可能なことを示している。物理的なものは、どうやって心的なものと相互作用するのか。デカルトの時代から続くこの難問が、新しい形で、科学的なものと魔法的なもののあいだに現れたのだ。両者をもっと根本的な一つの次元にまとめられると考えるにせよ、片方をもう片方へ還元できると考えるにせよ、はっきりした境界は取り払わざるをえない。

ここまでは、ある特定の作品が科学と魔法のイメージにもたらす曖昧さを論じているように見える。だが実際には、この曖昧さは作品の面白い物語設定にとどまらず、あらゆる作品の科学と魔法のイメージにとって避けられない帰結でもある。曖昧になるのは、『とある魔術の禁書目録』のように、科学と魔法が明確に共存する世界観の作品だけだ、と考える人もいるかもしれない。科学のイメージだけ、あるいは魔法のイメージだけを描く作品なら、曖昧さはないはずだ。ある種のイメージとそれ自身とのあいだで、境界が曖昧になることはないのだから。しかし、いくつかの作品を見るかぎり、こうした曖昧さが生じるのに、必ずしも『とある魔術の禁書目録』型の世界観は必要ない。どんな作品でも、科学のイメージだけを描いていようと、魔法のイメージだけを描いていようと、一つのイメージを十分に詳しく具体的に描き、説明しようとすれば、ほぼ確実にこの曖昧さが生じるのである。

2017年のアニメ『ナイツ&マジック』は、この見方を見事に裏づけている。この作品に描かれるのは、魔法のイメージだけだ。「幻晶騎士(シルエットナイト)」などは、外見こそ巨大な人型ロボットに似ているが、機体のどの部分を見ても、明らかに魔法のイメージで満ちている。内部のさまざまな魔導術式、機体に搭載された魔法の杖、動力源となる魔力転換炉などだ。作品が作り上げる世界も、異世界風の建築から野外にいるさまざまな魔獣まで、典型的な魔法のイメージを備えている。明らかに、アニメに見えるのは魔法のイメージだけである。少なくとも、表面上は。ところが、機体の内部構造を具体的に解説し始めると、そのイメージを魔法のものと呼べるかどうかが曖昧になってくる。エルが出力や安定性、強度を論じるのを聞けば、そうした概念が少なくとも魔法の世界だけのものではないことは、はっきりわかる。魔力転換炉の働きを見れば、現実のエンジンを連想せずにはいられない。ジャロウデク王国が戦場に飛空船を投入し、大きな戦果を挙げるのを見れば、歴史上の飛行船や、空という新しい戦場が開かれたことを、多少なりとも思い出すだろう。

こうしたことに次々と気づくにつれて、魔法のイメージとしての輪郭はぼやけてくる。魔法の世界の機体が、実際には現実と似た動力の仕組みを使っているなら、その動力部分は、現実の科学体系によってもっともらしく説明できるということなのか。魔法の世界の機械設計にも古典力学の概念が必要なら、この世界もある程度は古典力学の体系に従っているということなのか。――さらに、もっと抽象的な水準のことまで考えてしまう。飛空船の登場によって大きな戦果が挙がるのなら、この魔法の世界は、いずれ制空権を争う時代に入るのではないか。こうした問いに答えは得られないかもしれないが、どれも結局は一つの帰結を指し示す。魔法のイメージそのものが曖昧になり、それが科学のイメージと本当にはっきりした境界で隔てられているのか、確信がもてなくなるのだ。

『空の軌跡』の街並み。建物にGUILDの表示があり、画面にはミニマップと各種数値が表示されている
『空の軌跡』

さらに面白い例が、ファルコムの「軌跡」シリーズだ。最初の作品『空の軌跡FC』を遊んだとき、私と同じように、少しスチームパンク風味のある魔法の世界だと思った人も多いのではないか。「導力」という言葉はあまりに聞き慣れないし、登場人物は「導力魔法」まで使える。それにこの作品では、少なくとも工房都市ツァイスに入るまでは、道中の風景の大半が、DQ以来の中世ファンタジーらしさに満ちている。スライム状の魔物もいろいろいる。ところが、軌跡シリーズには一貫して「導力革命」や、導力が蒸気機関に取って代わったという設定があり、『空の軌跡』以降の作品では、実際に産業革命が描かれているようにも見える。『零の軌跡』『碧の軌跡』のIBC銀行ビルから、『閃の軌跡』シリーズに頻繁に登場する導力車や機械化部隊まで、現実の歴史の第二次産業革命を思い起こさずにはいられない。いわゆる「導力魔法」も、ある種の電子機器を効率よく使っているだけなのかもしれない。ファルコムはこのシリーズを作るとき、もともと世界観の設定で第二次産業革命への「オマージュ」を意図していたのかもしれない。だが少なくとも、これらの作品のイメージを、科学と魔法のどちらかへ単純に分類することはできないのである。

4.2 具体化のパラドックス

注意したいのは、イメージの境界が曖昧になるのは、設定が不十分だからではないということだ。想像できるかぎり最も完璧な設定でも、作品中のイメージを詳しく具体的に描き、説明しようとするかぎり、この問題は避けられない。ニュートンの第二法則がない魔法の世界を想像することはできる。だが、その世界の客観的な部分に規則を定めようとすれば、ニュートンの第二法則に代わるものがどうしても必要になる。その代わりが、気まぐれな神であったとしても。この場合も、その神が客観世界にどう影響するかを、作り手が十分に詳しく具体的に描き、説明しようとすれば、やはり神というイメージと科学のイメージとの境界は、否応なく曖昧になる。

それを避けるには、こんな魔法の世界を想像するしかない。存在論的な水準で、ニュートンの第二法則F=maが存在せず、質量も加速度も力も存在しない。それどころか、私たちが現実でものを記述するあらゆる言葉の指すものが存在しない。人もいない。大地も空もない。色もない。空間を占める広がり、すなわち延長さえない。だがそうなると、その魔法の世界では何も記述できず、その世界を語る作品も存在しなくなる。したがって、魔法のイメージも何一つなくなってしまう。

これは魔法のイメージだけの話ではない。科学のイメージも同じように、曖昧になる可能性に直面する。一見すると、科学のイメージという概念に矛盾するようだ。科学のイメージは、そのイメージが指すものを、現在の知識と信念体系に基づいて説明できる可能性を探ろうとするのではなかったか。それなのに、なぜ過剰に描き、説明することを避けなければならないのか。忘れてはならないのは、もっともらしいSF性は、あくまで「もっともらしい」にすぎないということだ。その説明の文脈は、つねに現実を越えている。実際の知識体系に基づいて論理的に演繹することを意味するわけでは、決してない。だから、ガンダムが立ち上がるときに排気口から出る熱気は、いったいどの部品から来るのか。VF-22の柔軟な外皮には、いったい何の素材が使われているのか。スコープドッグが衝撃を受ける際のスライド構造には、いったいどの潤滑油が使われているのか。こうした問いに対して、十分に詳しく具体的な描写と説明が与えられれば、いずれは科学のイメージとしてのもっともらしさも失われ、他者としての性格を帯びてしまうのだ。

ガンダムの機体
ガンダム

この意味で、科学のイメージと魔法のイメージのあいだに明瞭な境界を保ちたければ、そのイメージについて、できるかぎり描写や説明をしないほかない。だから、多くの作品で語られる、魔法の本質は神秘にあるという考えは、確かに示唆に富む箴言だ。科学のイメージにも魔法のイメージにも当てはまる。もちろん、そうなると問題は、作り手が描写と説明を最小限に抑えながら、どうやってよい物語を語るのか、ということになる。

4.3 通時的な異質性と科学についての記憶史

最後に、イメージの通時的な異質性を論じなければならない。科学のイメージと魔法のイメージをそれぞれ分析したときにも触れた問題だ。ここまで述べてきたのは、イメージの境界がどのように曖昧になるかということだった。この現象を合理的に説明するには、時代によって属性を備える条件がどう異なるか、すなわち通時的な異質性を検討する必要がある。その検討には、先に挙げた二つの存在論的属性と、歴史主義的な視点を用いることになる。

二種類のイメージを分析するなかで、私たちはそれぞれの存在論的属性を、もっともらしいSF性と、他者であるという属性だと考えた。すでに述べたように、この二つの属性は、個々のイメージを判定するうえではそれほど役に立たない。最大の理由は、それらを実際に備える条件が、時代を通じて一様ではないことだ。これを最も簡単に説明するには、アシモフが提起した「エレベーター効果」に似た話が使える。この話はこうだ。1850年のSF作家には、現実の生活の中で本物の超高層ビルを見る機会がない。だから、超高層ビルのある未来を、こんなふうに想像するかもしれない。階段を上るのは大変なので、未来の超高層ビルの住人は、めったなことではビルから出ようとしない。しかも数階ごとにレストラン、スーパー、病院などの施設があり、ビルの中で暮らすのに必要なものがそろっている。ところがこのSF作家は、エレベーターの登場を予想していなかった。そのために、想像したことのすべてが滑稽なものになってしまうのである。

「エレベーター効果」がおもに問題にするのは、SFの創作が経験によって制約されることだ。だがその含意は、「もっともらしさ」「合理性」「他者性」「不条理さ」といった概念の、通時的な異質性を明らかにするのにも適している。先ほどの、現実にスライムが存在するという例も同じことを示していた。科学者がその存在を秘密にしている段階から、世間に存在を公表される段階へ、さらに義務教育の課程に入る段階へと進むにつれ、もともと魔法のイメージだったものが、魔法ではないイメージになり、科学のイメージになる可能性さえ生まれる。ここには通時的な異質性が表れている。ある文脈で、実際にどのような場合に他者性が認められるか。その条件は、どの時点でも固有のものであり、普遍的な方法を提示することはできない。科学のイメージも同様だ。20世紀の多くの有名なSF作品では、科学のイメージはしばしば、画面は平らでも本体のかさばるディスプレイ、色とりどりの表示灯、銀色に光る服などによって表されていた。いまでも、それらを科学のイメージとして見分けることはできるかもしれない。だが、今日の私たちがもっともらしいSF性に求めるものの典型に、もはや当てはまらないのは明らかだ。それどころか、その多くを科学のイメージと見なせるのは、すでに決まった読み取り方をもつ文化的シンボルになっているからでもある。

この通時的な異質性は、どうして生まれるのか。それが実際には、存在論的属性を備える条件について、人々の見方が時代によって異なることだとすれば、その原因もやはり時間をたどって探さなければならない。時代が違うと、なぜその条件についての見方が異なるのか。文脈の影響にはすでに触れたが、より正確に言えば、最も大きく影響しているのは、人々が科学について積み重ねてきた記憶史である。ここでいう科学についての記憶史は、非常に広い意味をもつ。ある時代の人々が科学研究や理論に対して抱く印象だけではなく、ある種の科学技術製品に対する印象、さらにはその時代のさまざまな作品のイメージが生む印象まで含まれる。最後の側面はきわめて重要だ。たとえば1980年代の多くの中国人には、SF連続ドラマ『アトランティスから来た男』の影響で、サングラスこそが典型的な科学のイメージをよく表していたかもしれない。要するに、科学についての記憶史自体も、境界の曖昧な概念なのだ。この概念を検討する際には、知識と信念の体系を形作る働きに、より重きを置くべきだろう。それがおもに変えるのは、あるイメージが存在論的属性を備える条件を、人々がどう捉えるかということなのである。

『アトランティスから来た男』のパッケージ。中国題『大西洋底来的人』が記されている
『アトランティスから来た男』(中国題『大西洋底来的人』)

ただし、「科学についての記憶史」と呼ぶからといって、魔法のイメージと無関係だということではない。魔法のイメージの存在論的属性は、他者であるという属性だ。どの側面から見ても、他者は「主流の」「正常な」世界から離れて、独立に存在することはできない。他者はつねに、対照されるものとしてしか存在しえない。この意味では、他者性を備えさせることは、科学についての記憶史の中で形作られたものを、意図的に避けることをも意味する。比較的単純な水準では、その回避は言葉を変えることで表れる。電力を避けて「導力」を使う、といったことだ。より複雑な水準では、相互作用の規則を手放すこととして表れる。たとえば、火打石で火をおこすことを避けるために、炎の魔法を使う、といった具合である。

完璧に避ける唯一の方法は、何も語らないことだ。イメージが曖昧になる過程で見たとおり、作り手がそれを十分に詳しく具体的に描き、説明しようとすれば、必ず科学についての記憶史へと立ち戻ることになる。記憶の中にある、言葉や信念、知識、相互作用の規則の組み立て方へと、立ち戻ることになる。通時的な異質性が教えてくれるのは、私たちが作り上げるあらゆるイメージには、否応なく歴史が投影され、その境界は必ず曖昧になるということだ。これが、想像力の限界なのである。

本文終わり

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