
人をヌかせる人になるのが目標。
編集者より: Austoriaは、やってのけた。
要旨
さまざまな形のアニメ批評において、「深さ」は欠かせない評価カテゴリーである。私たちはよく、「内容が深い」「考えさせられる」といった言い方でアニメを評する。あるいはもっと具体的に、ある作品を「人間性を暴き出し、厳しく問う描写に満ちている」「ヒューマニズムに根ざしたまなざしに満ちている」「近代性への省察が見られる」などと評することもある。「深さ」という概念の輪郭は曖昧だが、アニメ作品を論じる際、それが作品を肯定し、高く評価する理由として持ち出されるのは明らかだ。本稿では、見過ごされがちな次の問題を詳しく検討する。なぜ「深さ」は、アニメ作品の称賛に値する長所となるのか。この問いには、アニメ批評における深さの多様な意味と、学術研究における深さとの比較が関わっている。学術研究はしばしば、人間の思考の深さを示す典型とされるからだ。問題そのものを明確にしたうえで、本稿は一つの回答を提示する。アニメ作品を独特な種類のモデルとして理解すれば、深いとされるその内容は、ふだんはあまり顧みられない領域や視点において、独自の見識を示しうる。この理解を支える、アニメ作品と科学モデルとの存在論的な類似性を明らかにし、さらに、この方策の利点を論じる。
キーワード: 深さ、アニメ批評、モデル、存在論、解釈。
1. はじめに
さまざまなネット上の媒体で交わされる日常的なアニメ評でも、比較的本格的な批評文でも、「深さ」は欠かせない評価カテゴリーである。このカテゴリーが特別なのは、それが通常、アニメの中でも最も抽象的で、最も概念的な部分に向けられる点だ。そのため、この輪郭の曖昧なカテゴリーを正確に定義するのは難しい。それでも私たちは、ごく当たり前のようにアニメ作品の「深さ」を語り、その作品が主題として「本当に表現したいもの」を考える。さらには、何らかの理論的な枠組みから、大きな主題への応答や共鳴を作品の中に探ることもある。
アニメ批評で深さが広く論じられているのは明白な事実だから、このカテゴリーがどのような意味を持ちうるか、その例はいくらでも挙げられる。解釈と深さは、つねに概念上の双子である。ある作品に「深さ」のカテゴリーに含まれる何らかの属性があると考えるとき、私たちは実際には、作品を読み解くという解釈実践を通じて、その作品の「深さ」を構築している。この世界にある具体的な解釈実践の数だけ、深さにも異なる姿がある。しかし、深さの意味を説明することよりも難しいのは、次の問いだ。なぜ「深さ」は、アニメ批評で正当な評価基準とされるのか。言い換えれば、なぜ私たちはアニメ批評において深さを高く評価すべきなのか。
この問い自体、少しわかりにくく感じられるかもしれない。アニメ批評のカテゴリーである「深さ」が、なぜ問題になるのか。少なくとも、アニメ作品の「作画が優れている」という評価が明らかに肯定的なものであることには、ほとんど誰もが同意するだろう。そこで第2節ではまず、「深さ」を肯定的な評価カテゴリーとすること自体に、なぜ問題があるのかを詳しく明らかにする。そのために、私たちの典型的な深さの理解と、人間の知性の深さを示す典型である学術文献の深さとを比較する。この比較によって、深さを無反省に高く評価することにはいくつかの矛盾があり、そこにこそ問題があると示す。第3節では、さまざまな学問分野で広く使われる「モデル」という概念を導入し、簡単に紹介する。そして、私たちが直面する問題にこの概念を用いることが、存在論的な類似性によって正当化されると説明する。第4節では、アニメ作品をモデルとみなす立場から、アニメの解釈実践と、アニメの中で深いとされる内容をどう理解できるかを論じる。最後に第5節では、モデルという見方が「深さ」をめぐる難問の中心的な矛盾にどう応答するかを論じる。また、他のいくつかの見方と比べて、アニメ作品を現実のシステムのモデルとみなすことが、なぜこの難問へのよりよい回答となるのかを簡潔に示す。
2. 「深さ」をめぐる難問――日常的な直観から生じる困惑
「深さ」という評価カテゴリーを説明する例は簡単に挙げられる。しかし、あるアニメを「とても深い」と言い、別のアニメを「考えさせられる」と言うとき、私たちがいつも同じ側面について語っているとは限らない。実際の使われ方を見ると、深さにはいくつもの顔がある。アニメの象徴や隠喩が示す多層的な意味を指す場合もあれば、物語の語りにおける表と裏の構造を指す場合もある。時には、特定の種類のイメージが作品に登場し、そのイメージ自体が解釈実践を可能にするというだけのことを指す場合さえある。こうした異なる側面が組み合わさり、重なり合うこともある。大まかに言えば、深さのさまざまな姿に概念上共通するのは、隠されたものを解釈しようとする要求だ。あるアニメ作品に「深さ」に属する何らかの属性があると考えるとき、私たちは、観察言語で直接記述できる何かが、深さに属する属性を示していると言っているのではない1。私たちが解釈実践を通じて、作品中の何かにそうした属性を与えることができる、と言っているのである。
この意味で、「深さ」という評価カテゴリーの最も典型的な姿は、さまざまな大きな主題に関わることである。大きな主題をめぐる批評には、体系的で筋道立った解釈実践が最もよく表れるからだ。生と死の意味、戦争と平和の緊張関係、正義と悪の境界、科学技術の進歩のもとでの本来性と疎外。こうした大きな主題には、通常、ある程度真剣な態度で向き合う必要があり、さまざまな理論的枠組みを導入して論じなければならないことさえある。個々の解釈実践に賛同するかどうかは別として、あるアニメ作品が全体として、大きな主題に関わる解釈可能な要素を多くの批評者に提供するなら、その作品を深いとみなせることには、基本的に異論はないだろう。したがって、本稿では深さの最も典型的な意味、すなわち大きな主題への関わりに議論を限定する。
少なくとも多くの批評者にとって、アニメ作品が大きな主題をうまく描いていることは、疑いなく称賛に値する長所である。では、アニメ批評で深さを無反省に高く評価することには、なぜ問題があるのか。それを見るには、アニメ作品の外で、私たちが深さそのものを広く高く評価する理由を考えてみればよい。その理由は通常、知識としての優位性をめぐる日常的な直観にある。深い見解とは、多くの場合、現象についてのよりよい説明や予測といった、「よりよい」知識を与える見解を意味する2。たとえば、「自殺はさまざまな社会的要因から生じ、さまざまな形をとる社会現象である」という見解は、「自殺は精神的な問題から生じる個人の行動である」という見解よりも深い。前者のほうが、自殺という現象の発生とその仕組みをよりよく説明するからだ。もっと日常的に言うなら、前者は後者より「踏み込んだ洞察」を与えている、となるだろう。深い見解は知識として優れているからこそ、私たちはその深さをことさらに高く評価するのである。
こうした知識についての直観は、比較的本格的なアニメ批評の多くにも表れている。これらの文章は学術的な資料を引用しながら、作品がそれぞれの大きな主題にいかに適切に関わっているかを、よりよく論じようとする。ドゥルーズ、ラカン、アガンベン、バディウ。現代思想史に名を刻むこうした人々が、いまのアニメ批評に繰り返し登場する。構造主義、フェミニズム、実存主義、ポストモダニズム。互いに重なり合うこれらの思想潮流もまた、今日のアニメ作品の解釈実践に浸透している。根強い人気を持つ精神分析という理論的アプローチについては、言うまでもない。何しろ私たちの文化では、学術的な著作はつねに深さの典型とされている。自分の批評をより洞察に富むものに見せたいなら、先人の残した知恵を利用するのは、疑いなく理にかなった選択だ。

しかし、問題はここにある。深さを高く評価する日常的な直観で、アニメ作品の深さを高く評価することも、そのまま説明できるのだろうか。この説明を受け入れるなら、私たちがアニメ作品の深さを称賛するとき、実際に称賛しているのは知識としての優位性だということになる。1995年の『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』を深いアニメだと言うとき、実際には、この作品が科学技術や心、魂などについて信頼できる知識を与え、しかもそれがある程度はこの作品からしか得られない知識だ、と言っていることになる。しかし、この説明には避けがたい難点がある。アニメ作品の深さと学術文献の深さを比べてみれば、そのことがわかる。
日常的な直観に基づくこの説明を認めれば、深さは知識としての優位性に還元できる。同時に、多くの人は、大きな主題についての学術文献の議論のほうが、アニメ作品における描写よりも深いと認めるだろう。学術文献では、より正確で詳しい資料に基づいて問いが立てられ、より体系的かつ厳密に議論が進められる。個々の研究成果も学術共同体による評価を受けるからである。そうであれば、深さを基準にするかぎり、学術文献は一般にアニメ作品よりも多くの称賛を受けるべきだ、と主張できるはずだ。学術文献のほうが「よりよい」知識を与えるからである。ところが、これは私たちがよく知るいくつかの事実と矛盾する。少なくともこれまでのところ、アニメ作品による大きな主題の描写、たとえば『攻殻機動隊』シリーズにおける心の描写を論じる際、同じ主題についての学術文献の議論と比較し、それを根拠にアニメの掘り下げが足りないと批判する人はほとんどいない。これは、たいていのアニメにあるのはせいぜい「動物園の中の深い洞察」だと、私たちがはっきり自覚していることを示している。だからこそ、大きな主題についてより優れた知識を与えるよう、アニメ作品に過度な要求はしないのだ。深さが評価されるのは知識としての優位性を示すからだと本当に考えているなら、アニメが大きな主題を描く際にも、厳密な学術研究へ絶えず近づくよう求めるべきだろう。しかし、実際の私たちのアニメ批評は、そうはなっていない。
さらに重要なのは、どのアニメ作品がより深い洞察を与えるのかを、ほとんど比較できないという問題だ。ある洞察が知識として「よりよい」ものであり、それゆえより深いと判断する基準は、文脈によって異なるかもしれない。しかし、学術文献の深さが見解そのものだけでなく、むしろその見解の正当化に由来することには、誰もが同意するだろう。原則として、見解を合理的に評価するには、関連する論拠がその見解をどのように支持しているかを十分に検討する必要がある。アニメ作品では、これがほとんど不可能なのである。たとえば『大砲の街』を全体主義や技術による疎外への告発としてどれほど適切に解釈できたとしても、そこでなされているのは提示であって、いかなる意味でも見解の正当化ではない。

この二つの難点があるため、知識としての優位性についての日常的な直観では、アニメ作品の深さが高く評価される理由を説明できない。ここにこそ、「深さ」という評価カテゴリーそのものがもたらす困惑がある。アニメには、私たちがことさらに高く評価する何かがある。それは「深さ」に属するさまざまな言い方で解釈し、記述できる。ところが、私たちが日常的な直観に従って深さを高く評価する理由では、アニメの中でそうしたものを評価する理由を、そのまま説明することが難しいのだ。
もちろん、深さについての日常的な直観を、この難問に答えるための適切な手がかりだと認めないこともできる。しかし第5節で述べるように、その方策は代償が大きすぎるだけでなく、なお避けがたい欠点を抱える可能性がある。したがって、日常的な直観を足場に、間接的な回答を試みるほうが、まだ見込みのある方策だと考えられる。
3. アニメとモデルの存在論的な類似性
前節では、深さについての日常的な直観によって、アニメ作品の深さを高く評価すべき理由を直接説明することはできないと論じた。それでも、「深さ」という評価カテゴリーの従来の理解と使い方を手放したくないのであれば、何らかの媒介を通じて、間接的な説明を組み立てる必要がある。
ここで手がかりとなるのが、さまざまな学問分野で広く媒介の役割を担っている、モデルという概念である。自然科学でも社会科学でも、研究対象となる現象はつねに入り組んでいる。一方、私たちが得ようとする理論には、ある種の現象の規則性が示されていなければならない。モデルは現象を理想化して記述することで、理論と現象をつなぐ不可欠な媒介となる。たとえばミクロ経済学で主体の経済行動を論じるとき、通常は「合理的人間」という仮定に基づいて行動主体のモデルを構築する。文脈に応じて「合理的人間」という概念にどのような意味を与えるにせよ、この行動主体のモデルが、現実に生きている人間とは異なることは明らかだ。それでも、ミクロな水準で経済行動の規則性を見いだすには、部分的に現実を歪めたこのようなモデルが欠かせない。
モデルの本質をどう理解し、モデルが対象システムをどう表象すると考えるかにかかわらず、この概念的な道具の認識論的な働きは、きわめて明確である。ほとんどのモデルは私たちが人為的に構築したものだが、その構築に使った知識は、モデルの持つすべての属性を網羅してはいない。そのため、モデルを研究すれば、私たちの知識が及んでいなかった属性を知ることができる。ひいては、モデルが表象する対象システムのそうした属性についても、いくらか知ることができるのである。
では、「深さ」をめぐる難問に答えるための媒介として、モデルという概念を導入できるだろうか。言い換えれば、この難問に取り組む際、アニメ作品も一種のモデルとみなせるだろうか。これに答えるには、存在論的な水準での類似性に目を向けなければならない。アニメ作品には、モデルとある程度似通った、どのような存在論的特徴があるのか。その類似性によってアニメ作品をモデルとみなせることを、明らかにする必要がある。
存在論的な水準で通常問われるのは、モデルとはいったい何か、ということだ。今日、さまざまな学問分野で、モデルはますます多様化している。比較的よく知られたものに限っても、モデルという概念が指す対象は、物理的実体、虚構の概念、数式、記述文など、互いに大きく異なる。さらに、これらを物質的モデル、概念モデル、数理モデル、数値計算モデル、記述モデル、モデル生物など、多くのカテゴリーに分類することもできる。ただし、それらは互いに重なり合い、すべてを尽くしてもいない。したがって、多様なモデル概念に共通する存在論的特徴を正確に示すのは容易ではない。幸いにも、この難しさ自体が、モデルの本質についてあまり強い主張をする必要はないことも意味している。さまざまなモデルは、実践の中でもともと家族的類似によって結ばれているのかもしれない。私たちは状況に応じて、新たに概念として組み立てたものを、モデルのカテゴリーに組み込んでいる。そうであれば、アニメ作品をモデルとみなせるかどうかを考える際、いくつかの典型的なモデルから共通の特徴を帰納的に取り出し、モデルとみなすための基準となる条件にすることは可能だろう。
さまざまなモデルに共通する特徴という存在論的な問題について、私はワイスバーグ(Michael Weisberg)の回答の一部を援用する。現代科学のモデルとモデル化の実践を説明するために、ワイスバーグは、既存のモデルを主に具象モデル、数理モデル、数値計算モデルの三つに分類する3。そして、それらに共通する特徴は、モデルの構造と、その構造の解釈という二つの部分にまとめられる。
どのようなモデルにも内部構造があることは、明らかな事実である。具象モデルにあたる実物の模型を例にとろう。DNAのプラスチック模型なら、プラスチックで形作られた二重らせんがその構造である。航空機の風洞模型の構造は、風洞に入れて必要な検証を行える幾何学的な形状である。建築模型なら、鉄筋コンクリートなどの材料で建物を小さく作ったものがその構造にあたる。アニメ作品もモデルとみなすなら、明らかに構造を持っている。それは、画面、音響効果、台詞などが時系列に沿って前後に並ぶ関係だ。
ある構造を特定の対象のモデルにするうえでは、構造そのものよりも、その構造の解釈が決定的である。解釈の最も重要な部分は、構造と対象との表象関係を指定することにある。ワイスバーグは、原理上どのような構造も、何らかの対象を表象するモデルとみなせると認める。ただし、どの構造でも、どんな対象でも適切に表象できるわけではない4。適切な表象関係には、多くの具体的な条件が必要となる。私たちはこれらを、広い意味での同型性という概念によってまとめることができる。プラスチック製の模型とDNA分子の間に表象関係が成り立つのは、まさに両者が空間的構造において同型だからだ。同じように、一組の数式をある現象のモデルとみなせるのは、その変数間の関係が、対象となる現象と何らかの形式的な同型性を持つからである。もちろん、これはモデルが実在する対象を表象していなければならないということではない。たとえばプトレマイオスの天動説モデルは、「周転円」のような、実在しない対象を表象している。この点を理解することは、アニメ作品をモデルとみなせるかどうかに決定的に重要だ。一方で、モデルとみなされるために、原理上、現実の対象システムや現象を表象する必要はない。他方で、最良の科学モデルが、現実に最も忠実なモデルであるとは限らない。モデルの構成には、さまざまな虚構の要素が満ちている。とりわけ、モデルを使って正しい知識を得ることを目指さない場合には、モデル全体で虚構の対象を表象するようなものさえ構築できる。何らかの意味での同型性の原理に基づいてそれをモデルとして使うかぎり、モデルとみなすのに必要な構造は、なお備わっているのである。
とはいえ、ここにはまだ疑問が残るかもしれない。アニメ作品そのものは、いったい何を「表象」しているのか。この問題も、科学の場合になぞらえて考えられる。科学では、どれほど荒唐無稽なモデルでも、モデルと対象との表象関係を容易に説明できる。科学におけるモデルと虚構の対象との関係には、かなり自然な説明を与えられる。その大筋はこうだ。虚構の対象は実際には存在しないが、もし本当に存在するならば、それは特定の時間と空間の中にあり、特定の物理的特徴を備え、何らかの因果関係の網の目に位置するはずだ。モデルに基づく(model-based)科学の実践が研究するのは、まさにこの条件文のもとでの状況なのである5。たとえば科学史には、エーテルについてのモデルがいくつか存在する。現代物理学の体系には、もはやエーテルという物質の居場所はない。それでも、それらのモデルが全体として「エーテル」という実在しない対象を表象しているとは言える。今日、正規の科学教育を受けた物理学者が、エーテルは存在しないと知りながら、個人的な好みから高度な数学の技法を駆使し、精巧なエーテルのモデルを作ったとしよう。このモデルは、エーテルという物質が本当に存在するという仮定のもとで、その物質を正確に記述するものだと言える。

アニメ作品の場合、事情はもう少し複雑になる。セインズベリー(Richard M. Sainsbury)が指摘するように、さまざまなフィクションの作者は、現実に存在するものを描くことで、物語の現実感を高める。たとえば、架空の人物が遭遇する架空の出来事を描いていても、その出来事が起こる場所は実在し、地理的な特徴までも現実とまったく同じである、といった具合だ6。映像技術の産物であるアニメは、このような現実感の表現をいっそう得意とする。『Fate/stay night』では、聖杯戦争の仕組みも、永遠に少女のままでいるアーサー王も、魔術師の一族をめぐる因縁の歴史も虚構である。しかし、物語の舞台には、現実を思わせる細部が数多く見られる。全体が赤い冬木大橋も、遠坂邸の洋館も、現実とほぼ完全に一致する地理的特徴を備えている。ここから、エーテルのモデルとアニメ作品の重要な違いが見えてくる。前者は、もっぱら一つの虚構の対象を表象している。これに対して後者が表象するのは、現実に存在するもの、現実に存在しうるもの、現実には存在しえないものが、ある時空の中ですべて本当に存在したなら、それらが組み合わさって生じる出来事の集合だ。別の角度からは、アニメ作品が表象する対象を一つの「世界」全体として扱い、その世界を物理的存在の「候補」とみなすこともできる。アニメの世界は実際には存在しない。しかし、本当に存在したなら、それは何らかの具体的な物理的存在となるはずだ7。いずれの説明を採るにしても、アニメ作品における表象関係は、「もし本当に存在するなら……」という条件文で説明できる。
アニメ作品が構造を持つのは明らかだ。同時に、その構造を解釈することで、アニメ作品と、全体としては虚構である出来事の集合との間に、表象関係が成り立っているとわかる。この意味で、アニメ作品はモデルの一般的特徴を備えている。したがって、アニメとモデルは存在論的な水準で類似していると言える。この類似性が、アニメ作品を一種のモデルとみなすことの妥当性を示しているのである。
4. モデルに基づく解釈実践と深さ
前節では、アニメ作品とモデルの存在論的な類似性を論じた。この類似性によって、アニメ作品を一種のモデルとみなすことができる。いま問題となるのは、モデルとして捉えることで、アニメの「深さ」をめぐる難問にどう応答できるか、ということだ。
まず、問題そのものに立ち返ろう。「深さ」をめぐる難問の核心は、深さが知識としての何らかの優位性を意味するという日常的な直観では、アニメ批評で深さというカテゴリーをことさらに高く評価する理由を、うまく説明できない点にある。もう少し詳しく言えば、この直観に従うなら、アニメ作品には、何らかの知識と呼べる明確な内容が含まれていなければならない。しかし通常の理解では、アニメ作品そのものが、必ずしも知識と結び付いているようには見えない。そこから、第2節で難問の根拠として挙げた二つの問題が生じる。アニメの深さに求める水準が低いことと、作品間の深さを有効に比較できないことである。
したがって、深さについての日常的な直観を簡単には手放したくないのであれば、適切な応答は、モデルという見方に基づいて、アニメの深い内容を捉え直すことになる。モデルの認識論的な特徴を手がかりに、アニメの特定の内容がいかに知識を含みうるかを捉えるのである。同時に、先に述べたように、アニメ作品の深さは、多くの場合、私たちの解釈実践を通じて現れる。特定の内容が深いとみなされるのは、解釈実践の中でこそなのだ。 だから、アニメの深い内容を捉え直すには、まず、ここでいう解釈実践とは通常どのような営みなのかを明らかにしなければならない。
モデルという見方からアニメの解釈実践を理解しようとするとき、まず注目するのは、モデルのある認識論的特徴である。私はこれを属性の余剰性と呼ぶ。モデルそのものには、構築の際に私たちが導入した以上の属性が含まれている可能性がある。言い換えれば、ある対象をモデル化するとき、そのモデルはつねに、対象そのもののすべての属性を尽くしてはいない、ということだ8。この特徴を持つことは、どのようなモデルであれ、新しい洞察を与えるための前提となる。属性に余剰があるからこそ、モデルをさらに研究すれば、構築時には知らなかった属性を知り、それを対象そのものにも当てはめることができる。通常の科学の実践では、この特徴はモデル化の過程に直接関係する。どのようなモデル化も、対象を理想化し、歪めることさえあるからだ。対象に完全に忠実なモデルは不可能であり、必要でもない。しかし、私たちが知りたい属性については、このように部分的に歪みを含む表象関係で、たいていは十分なのである。
アニメ作品を一種のモデルとみなすなら、そこにも属性の余剰という特徴を見て取れる。科学者がさまざまな規範に沿った研究活動を通じて科学モデルの「余剰」の属性を知るように、私たちはアニメを見るとき、文章にするかどうかにかかわらず、さまざまな解釈実践によって作品の「余剰」の属性を掘り起こしている。アニメにおける属性の余剰の働きは、次のように表れる。あるアニメ作品を作るために制作者たちが持ち込んだ観念、考え、意図は、観客がその作品に見いだしうる観念、考え、意図のすべてを尽くしてはいない。 アニメは解釈可能な構造であり、画面、音響効果、台詞などの時系列は、もちろん制作者が意図して配置したものだ。しかし、その配置を生んだ当初の観念、考え、意図だけが、作品の内容についての正当な主張だということにはならない。たとえ制作者が一つひとつの画面の背後にある隠喩や象徴を文章で明確に説明したとしても、それはモデル化の過程でアニメの内部構造と虚構の対象との間に生じた表象関係を説明しているにすぎない。観客によるアニメの解釈実践は、それとはまったく別のことだ。頑迷な作者中心主義者でないかぎり、制作者9がアニメを作る際、観客の解釈実践の範囲を厳しく定めることは不可能であり、必要でもないと認めなければならない。
したがって、モデルという見方に立てば、私たちのさまざまな解釈実践は、多くの点で、アニメ作品というモデルの余剰の属性を掘り起こす営みだと言える。つまり、通常はモデルの構築者である制作者が、制作の過程で意識して導入したわけではない属性を探っているのだ。同時に、どのようなモデルでも、属性の余剰性はモデル自体の構造に現れる特徴にとどまらず、モデルと対象との表象関係にも現れる。 私たちは、モデルを通じて知った余剰の属性を、つねに対象そのものの属性とみなす。この意味で、解釈実践はアニメというモデルの余剰の属性を研究する行為だと理解できる。同時にそれは、モデルの構築や作品の制作の段階では知られていなかった属性を、アニメが表象する出来事の集合そのものに帰属させる主張でもある。
モデルという見方からのこの理解に従えば、どのような解釈実践も、アニメ作品そのものについて語るだけにはとどまらない。アニメ作品が表象する事柄について、モデルに基づく推論(model-based reasoning)を通じ、いくらかは正当化できる主張を行っているのである。こうした主張で通常目指されるのは、モデルの認識論的機能の一つである説明機能を働かせることだ。
明らかに、あらゆるモデルには説明機能がある。通常、この機能はモデルと対象との同型的な関係に由来する。私たちはその関係に基づき、モデルの中で得られた属性を対象そのものにも当てはめる。たとえば、なぜ多くのスポーツカーが流線形の外観を持つのかを知りたいなら、対応する風洞模型から得たデータ、関連する状況を記述する数理モデルの関数のグラフ、さらには経験式に基づくコンピュータモデルの出力結果も、その説明となりうる。もちろん、モデルの説明機能は、あらゆる説明を計算可能な形で与えることを必ずしも求めない。モデルについて推論することで何らかの属性を導き出せ、それが対象についての私たちの主張に影響するなら、それもまたモデルが説明機能を果たす一つの仕方とみなせる。むしろ日常生活では、こちらのほうがよく見られる。たとえば、アーチという幾何学的構造がさまざまな建築に広く使われる理由を教えるとき、小学校の授業ではいろいろな形の紙模型を使い、アーチが他の構造より丈夫であることを示す。

アニメ作品が一種のモデルとして担うのは、まさにこの計算によらない説明機能である。アニメでは、ある主張の説明は通常、関連する筋立てを描いて見せることによってなされる。適切な提示によって、私たちはその主張に賛成、あるいは反対するほうへと傾く。わかりやすい例が、『Fate/Zero』第24話にある。衛宮切嗣は聖杯の中で、少数を犠牲にして多数を救うという自らの信条を貫けば、意に反して破滅的な結果が生じ、最後にはごく少数の人しか救えないことを見せられる。もっとも、この筋立てはトロッコ問題の変形にすぎず、きわめて浅薄でありきたりだ、という批判も少なくない。この部分の内容が表象する対象は、きわめて明確だ。人数の多寡によって倫理的な選択を行う、ある種の出来事の集合である。明らかに、『Fate/Zero』第24話のこの部分は、一般的なモデルと同じく、表象する対象を理想化している。現実には、少数の側に自分に最も近しい人が含まれることもある。また、犠牲になる人が、つねに命という極端な代償まで払わなければならないわけではない。しかし、理想化されたあらゆるモデルに適用範囲があるのと同じように、少なくとも「少数を犠牲にして多数を救うのは合理的だ」という主張については、『Fate/Zero』のこの部分は、一種のモデルとして、なぜそれが受け入れられないのかを比較的うまく説明している。
もちろん、ほとんどのアニメでは、説明機能はそこまではっきりしていない。通常の科学モデルと同じように、アニメというモデルを解釈するにも、十分な洞察力と、それに応じた背景知識が必要となる。1995年版『攻殻機動隊』を例にとろう。広く称賛されるこの作品で私たちが目にするのは、何らかの主張の説明というより、近未来の生き方や社会のあり方の提示である。しかし、このように曖昧さを含む内容でも、アニメはなお説明機能を持つモデルとみなせる。その説明機能は、私たちの解釈実践に大きく依存している。 たとえば、物語の中で素子が経験することと、それに関わる技術的・社会的背景を、解釈可能な一つのモデルとみなせる。技術の高度に発達したある社会が、現実に存在するとしよう。このモデルが表象するのは、その社会で私たちが心を扱うさまざまな営みからなる、一群の出来事だ。 この部分をモデルとして解釈することで、そこに多様な説明の働きを見いだせる可能性がある。『攻殻機動隊』のこの特定の内容は、一つのモデルとして、心に関する外在主義の見解を説明しているとも、技術の支配下における心―自己の解体を説明しているとも、さらにはデウス・エクス・マキナの必要性を説明しているとも考えられる。モデルに説明機能があるからといって、一つの主張だけを説明しなければならないわけではない。科学モデルのデータ解釈にしばしば論争が生じることからもわかるように、アニメというモデルの解釈実践は、つねに複雑で多様なのである。

もちろん、モデルとしてのアニメ作品が表象するものには、通常、本質的に虚構であるものが混ざっている。ユニコーンガンダムのさまざまな神秘的能力が、現実にも発現しうるとはまず思えないのと同じだ。そのため、アニメ作品が表象する出来事の集合は、多くの場合、そのアニメ自体の文脈でしか論じる意味を持たない。このような場合、アニメというモデルの説明機能は、主として原理の水準で働く。極端な状況を設定するさまざまな思考実験のモデルと同様に、アニメというモデルを解釈することで説明されるのは、通常、ある主張が何らかの意味で受け入れられるということよりも、その主張が原理の水準で一般に受け入れられないということである。
モデルという見方から解釈実践とアニメの説明機能を明らかにすれば、深さを知識と結び付ける直観を捨てることなく、アニメの深い内容の実質を自然に捉え直せる。私たちがアニメ作品の特定の内容を「深さ」というカテゴリーで評するとき、実際に意味しているのは次のことだ。その内容が、表象する出来事の集合のモデルとして、批評者の解釈実践を通じて、ある程度の説明機能を発揮しているのである。
5. モデルという見方の利点と、常識に反する見解
本稿の締めくくりに、アニメにおける「深さ」という評価カテゴリーをモデルの観点から組み直すことが、この難問に答えるうえでどのような利点を持つかを示す。他方、これまで繰り返し強調してきたように、モデルを用いる方策を提示した動機の一つは、深さについての常識的な理解を簡単には手放したくない、ということだった。裏を返せば、深さそのものについて常識に反する理解を採ることで、難問への別の応答が見つかるかもしれない。こうした見解についても、簡潔に論じ、評価したい。
第2節で挙げた「深さ」をめぐる難問の第一の論拠は、学術文献の深さと比べると、私たちはアニメ作品の深さにそれほど高い水準を求めず、満足している、というものだった。アニメ批評でいう深さも、確かに知識としての優位性を指すのであれば、作品を深さの面から評価するとき、そこに示される浅い洞察に満足するだけであってはならない。この論拠には、アニメというモデルの構造から応答できる。アニメ作品の構造には通常、さまざまな現実のものと虚構のものが複雑に組み合わさっている。全体として見れば、その組み合わせの結果には独創性がある。つまり、一つひとつのアニメ作品、さらにはその特定の内容の一つひとつさえ、かなり新規性のあるモデルとみなせるのだ。
たとえば1995年版『攻殻機動隊』では、素子、バトー、人形使いといった人物、作品の設定や筋立て、そして物語を映像化した画面そのものの間に、独特の構造がある。同様の構造を持つモデルや議論は、どの学術文献にも存在していない。したがって、それを掘り下げた学術文献もない。この意味では、深いとされるアニメ作品の特定の内容は、批評者の解釈実践を通じて、確かに唯一無二の洞察を与えていると言える。その洞察がどれほど些細に見えたとしても、そうなのである。
もちろん、これは、アニメ作品の深さをどんな場合にもこのように理解できるという意味ではない。いわゆる深い内容の中には、少なくともある文脈では、学術的な深さに照らすと、かえってその深さが失われるものもある。 独自性を欠く典型的な例は『Fate/Zero』第24話である。多くの批判が指摘するように、切嗣が聖杯の中で経験することは、実のところトロッコ問題の焼き直しにすぎず、思想史上のさまざまな本格的議論と比べると、きわめて浅薄に見える。モデルの観点から言えば、『Fate/Zero』のこの部分は、一つのモデルとして、既存の学術文献にあふれる多くのモデルや議論にあまりにも似ており、そのため、唯一無二の洞察を何も与えていない、という批判なのだ。
「深さ」をめぐる難問の第二の論拠は、アニメ作品どうしの深さを比較できないというものだった。主な理由は、アニメのある内容が本当に深い洞察を与えていたとしても、その洞察が正当化される過程は見えず、したがって、その主張に反論したり、それを支持したりする理由も見つけられないことにある。明らかに、この問題はすでにモデルの説明機能によって解決されている。モデルとしてのアニメは、描いて見せることで説明機能を果たす。それによって、私たちがある主張を支持するか反対するかに、原理上は有効に働きかけられる。そうであれば、アニメ作品どうしの深さを比較することも、原理上は可能だ。その可否は、二つのアニメ作品がそれぞれ表象する出来事の集合の間に、比較に足る類似性があるかどうかにかかっている。
さらに、モデルという見方でこの難問を解く利点を示すには、もう一つ明らかにすべきことがある。「深さ」を知識としての優位性と捉える直観を手放してもよいとするなら、その方策のほうが、モデルという見方よりも簡単に難問を解けるのだろうか。私は、この方策では満足のいく回答は得られないと考える。
具体的に言えば、この立場では、アニメ作品の深さを高く評価する理由は、大きな主題が作品でどう描かれているかにも、どのような洞察が示されるかにもない、と考える。アニメのいわゆる深さは、実はある種の美的経験をまとめて言い表したものにすぎないのだ。この立場は、アニメについて広く見られる次のような考え方に最も近い。私たちが評価するのは、アニメ作品そのものを見て楽しめることであって、アニメ以外の何かではない。学術文献が大きな主題についてどれほど深く論じていても、アニメでその主題を浅く描いたものほど「見ていて面白く」はない。この考え方に従えば、アニメが大きな主題に関わっていること自体は、どうでもよい。本当に私たちの心を動かすのは、優れた音楽や作画といった、そのアニメ作品自体の要素だけなのだ。それどころか、アニメそのものに属する部分が十分によければ、『攻殻機動隊』シリーズがサイバーパンク社会における自己の境界の解体を描いていても、近未来を舞台にしたB級映画のような物語を語っているだけでも、この作品に対する高い評価は変わらない、とさえ言える。

この方策の問題は、それが粗雑な形式主義美学へと私たちを導くことにある。したがって、クライヴ・ベルに代表されるさまざまな形式主義への批判は、この方策にも当てはまる。この方策は、私たちが普段行っている批評実践から外れている。ほとんどの批評者は、アニメ作品の物語の内容にも言及する。画面表現に最も熱中する作画ファンでさえ、画面だけに価値を認めて、アニメが描く特定の物語内容の価値を否定したりはしない。さらに重要なのは、この方策では、アニメを見る際に文化的文脈から生じる鑑賞の違いも説明できないことだ。中国の観客と日本の観客では、同じ作品を見ても、楽しいと感じる部分が違うかもしれない。年季の入ったアニメファンが熱中する作品と、一般の観客に人気のある作品にも隔たりがある。こうした例はいずれも、私たちがアニメ作品を見るとき、ただ「アニメそのもの」を見ているわけではないことを示している。私たちは必ず何らかの文脈の中で、言葉にするかどうかにかかわらず作品を解釈し、その実践の中で、「深さ」という評価カテゴリーが言い表す内容を味わっているのである。
6. 結論
本稿ではまず、「深さ」という評価カテゴリーが、なぜそれ自体で問題となるのかを示した。主な問題は、深さとは知識としての優位性だという日常的な直観では、なぜアニメ批評で深さを高く評価すべきなのかを説明できないことにある。次に、一般的なモデルに共通する特徴についてのワイスバーグの議論を援用し、アニメ作品とモデルの類似性を存在論的な水準から論じた。これによって、アニメ作品をモデルとみなすことの正当性を示した。続いて、モデルという見方に基づき、アニメ批評における解釈実践と、深いとされる内容について、新しい理解を提示した。この理解によれば、「深さ」をめぐる難問の主要な二つの論拠に、うまく応答できる。最後に、深さについての日常的な直観を捨て、「アニメはアニメそのものだ」という考えから難問に答えようとすれば、受け入れがたい形式主義に陥ることを簡潔に論じた。
総じて、アニメ作品を一種のモデルとみなすことは、無理な類比ではない。むしろ、この見方には比較的確かな存在論的基盤がある。また、「深さ」という評価カテゴリー自体がもたらす難問に対して、モデルという見方は、常識をできるかぎり保ちながら、ある程度満足のいく解決策を与えてくれる。ただし、この方策にもなお限界があることは認めなければならない。その最も重要な点は、虚構の本質についての検討をなおざりにしていることだ。本稿は、比較的自然で常識的な見方に立って、虚構をめぐるさまざまな問題を扱ったにすぎない。実際には、モデルと虚構の関係という主題だけをとっても、いくつかの異なる見解が存在している10。
参考文献
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クライヴ・ベル『艺术』、薛華訳、南京:江蘇教育出版社、2004年(中国語訳)。
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セインズベリー『虚构与虚构主义』、万美文訳、北京:華夏出版社、2015年(中国語訳)。
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Weisberg, Michael. Simulation and Similarity: Using Models to Understand the World. OUP USA, 2013.
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Frigg, Roman. “Models and fiction.” Synthese 172.2 (2010): 251–268.
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Frigg, Roman, and Stephan Hartmann. “Models in science.” Stanford Encyclopedia of Philosophy (2006). seop.illc.uva.nl
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Giere, Ronald N. “Why scientific models should not be regarded as works of fiction.” M. Suárez (ed.), Fictions in Science: Philosophical Essays on Modeling and Idealization, (2009): 248–258.
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Godfrey-Smith, Peter. “Models and fictions in science.” Philosophical studies 143.1 (2009): 101–116.