拾荒戦略 Rags Drum 2020年度論考募集・選考結果では、本稿を前夜祭・後夜祭の双方の合格作としている。
〇、はじめに
この二、三年、中国語圏のインターネット・コミュニティでは、「雲」を字義とする接頭辞「云」を用いた「云观众」「云玩家」といった表現が頻繁に現れるようになった。日本語には、この「云」をそのまま生産的な接頭辞として置き換える定訳はない。最も近い既存のネットスラングは「エアプ」であり、いまではゲームだけでなく、作品の未視聴・未読や、さまざまな未経験を隠して知ったように語る場合にも使われる。本訳では「云观众」を「未視聴エアプ」、「云玩家」を「エアプ勢」とする。原文が一連の「云X」を総称する箇所は「『エアプ』系ラベル」、行動類型としての「云行为」は分析上の語として「エアプ行為」と訳す。一般に、これらの語はアニメ・コミック・ゲームをめぐる議論と結びついている。あるアニメの「未視聴エアプ」とは、たいてい、その作品を自分では見ていない、あるいは最後まで見ていないにもかかわらず、作品について意見や見解を述べる人々を指す。ただし、「エアプ」系ラベルの語用は、明確な意見表明だけに限られない。「ジョジョエアプ」という呼び方は、『ジョジョの奇妙な冒険』そのものをほとんど知らないのに、ジョジョネタを好んで使ったり、作品への愛を熱心に語ったりする人々を形容することもある。
実のところ、このような人や現象は、ほかの状況でも決して珍しくない。異なる社会や文化にも、興味深い痕跡を数多く残してきた。たとえば私たちの親の世代には、1980年代の詩作ブームのなかで「詩作エアプ」だった人が少なくない。少なくとも、詩を書いて恋人を口説こうとした意気盛んな若者の多くはそうだった。西洋でも、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』という本が出版されたという事実だけを見ても、「読書エアプ」がさほど珍しくないことは明らかだ。世界中の人文学系大学院生にいたっては、多少の「研究エアプ」こそが普遍的な現象なのかもしれない。学位論文の末尾に並べた数百もの参考文献を、本当にすべて読み終えた人がいるだろうか。これらの表現が指すのは、明らかに一つの行動類型である。ある行為者がそれに対応する「エアプ行為」をとるからこそ、私たちはその人を「エアプ」と呼ぶ。したがって、「エアプ」系ラベルを概念的に分析し、関連する問題を論じるなら、エアプ行為それ自体から始めるほうがよい。本稿の議論は、この概念を中心に展開する。
では、エアプ行為とはいったい何か。本稿の答えは二つの側面からなる。第一に、現在の議論の多くは、まだ例を挙げる段階にとどまっている。よりよい答えは存在論的なものでなければならない。すなわち、エアプ行為がエアプ行為であるのは、どのような本質的条件の組を満たすからなのかを説明する必要がある。本稿では、詳細な存在論的分析によってその条件を提示し、より深い議論へ進めるだけの明晰さを目指す。第二に、エアプ行為に関する語を使うとき、私たちは何を達成しようとしているのか、という視点にも価値がある。その語用論的要求から出発して、背後に潜む推論様式を分析し、それが現実の状況では一貫していないことを示す。統一された存在論的枠組みのもとでも、エアプ行為という概念は、現実の状況において内在的な異質性を示す。この異質性は、エアプ行為に関する語を使う際、見過ごせない曖昧さが存在することを意味している。1
一、「エアプ行為」の存在論
ネット・コミュニティで流行する語を考察するとき、その用法を最もよく示すのは視覚的な例である。現代では、ミームが語用論的価値を示す最良の標識になることが多い。下の「エアプ三連」ミームは、この概念が通常どのように使われるかを示している。単なる例示は、概念をひとまず把握するには役立つが、その概念が表象する実在を本当に理解するには足りず、まして、なぜその実在がそれ自身として成り立つのかはわからない。そこで本節では、さまざまな事例から出発し、任意の行動がエアプ行為とみなされるための必要十分条件を示す一般的な枠組みを提示する。

1.1 参加が欠けた状態
アニメの「未視聴エアプ」であれ、ゲームの「エアプ勢」であれ、第一の要点は、ある関連活動に実際には参加していない状態を指すことである。アニメの未視聴エアプは、その作品を実際には見ていない、あるいは最後まで見ていない。ゲームのエアプ勢は、そのゲームを実際には遊んでいない、あるいは最後まで遊んでいない。この参加の欠如は、公になっている必要はない。ある主体が本当に活動へ参加したかどうかは、多くの状況で厳密な事実ではなく、推論として現れる。
1.2 擬似コメント性
第二に、アニメやゲームに無関心だから参加しなかった普通の人を、私たちは「エアプ」とは呼ばない。したがってエアプ行為は、行為者が自分に関わるものとして振る舞うことを、何らかの形で示す必要がある。上の画像のように、いきなり偉そうな批評を始めること、アニメを見たふりをして意見を述べること、あるいは、円盤を割る、微博やTwitterの投稿をリポストする、購入した品を見せる、といった非言語的行為によって曖昧さを作りながら、好悪を意図的に表すことなどである。これらに共通するのは、程度の差こそあれ、作品に対するコメントとして機能する点だ。ここでいう作品とは、エアプ行為のコメント的内容が向けられ、関連活動の対象となる作品を指す。すべてのエアプ行為が字義どおりのコメントとは限らないが、少なくとも何らかの意味でコメント的機能をもつ。ここから第二の要点が得られる。エアプ行為は、対象となる作品に対して、少なくとも擬似コメント性(quasi-commentness)を示さなければならない。
1.3 公共的文脈としての共同体
第三に、以上の二条件から、さらに一つの要点を自然に導ける。エアプ行為の典型的な帰属には、公共的文脈が必要である。2エアプ行為は、伝聞にもとづく意見とは異なる。通常、エアプ行為は公共的な文脈で生じ、行為者以外の主体がその人に「エアプ」系ラベルを適用して、初めてその行動が真の意味でエアプ行為となる。私が『グラスリップ』を一度も見たことはないが、評判だけは聞いていたとしよう。ある日、一人でいるときに作品名を目にし、思わず「これはクソアニメだ」とつぶやいた。独り言を聞いた者はいない。この場合、私の発言はふつうエアプ行為とはみなされず、せいぜい伝聞にもとづく意見にすぎない。しかし、QQグループで同じことを言い、ほかのメンバーが全員『グラスリップ』を見たうえで傑作だと思っていたなら、私は未視聴エアプとみなされる可能性が高い。
もちろん、ここには多くの複雑さがある。エアプ行為の帰属に必要な公共的文脈は、どのようなものでもよいわけではない。大学の教室で私が「『グラスリップ』はクソアニメだ」と叫んだとしよう。クラスで私以外の全員は、アニメといえば宮崎駿しか知らないリア充である。私はアニメに非常に詳しいが、性格が悪く、周囲から疎まれている陰気なデブオタクだ。彼らは私に反対したいがために、この作品は神アニメだと口をそろえ、私を「未視聴エアプ」だと非難するかもしれない。この場合、私の発言がエアプ行為になるとは考えにくい。この思考実験は、エアプ行為の帰属を成立させる公共的環境には、「エアプ」系ラベルを行為者に適用する主体が、少なくとも何らかの資格を備えている必要があることを示す。
しかし、それは『グラスリップ』を見たことだけが、唯一必要な資格だという意味ではない。実際、関連活動への参加は、「エアプ」系ラベルを適用する資格にとって十分でも必要でもない。次の極端な例を考えよう。『グラスリップ』を実際には見ていない三人がこのアニメについて話し始め、クソアニメだと意見を一致させる。私も議論に加わり、三人の考えを事前に知らず、アニメ制作会社P.A.WORKSを強く信頼していたため、『グラスリップ』は優れた作品だと発言する。すると三人は、たちまち私を「未視聴エアプ」だと非難し始める。私は確かに作品を見ておらず、三人の評価は主要なアニメ批評コミュニティの通説にも合っている。私の行動は、明らかにエアプ行為である。
今度は、これとほぼ逆の例を考えよう。私は『グラスリップ』を見ていないが、優れた作品だと発言する。ほかの三人は全員作品を見ており、クソアニメだと思っている。しかし私は、アニメ視聴歴が二十二年を超え、複数のSNSでかなりの影響力をもつ「古参オタク」であり、三人は今年からアニメを見始めたばかりの「新参」だとする。すると、次のような事態は十分に起こりうる。私が『グラスリップ』を見ていない事実を明かさないかぎり、経歴と影響力のために、三人は私を「未視聴エアプ」と非難しない。反対に、自分たちの審美眼を疑い始めることさえある。3
普遍的な基準を見出すことは、明らかに非常に難しい。資格の具体的な内容は、多元的である可能性のほうが高い。そこで本稿では、特定の文脈で特定の資格をもつ主体を、単に「適格な成員」(qualified member)と総称し、適格な成員がどのような特徴をもち、どう判定されるかは未決のままにする。すると、エアプ行為の帰属に必要な公共的文脈は、適格な成員によって構成される共同体として記述できる。
1.4 基本信念への違反
第四に、エアプ行為が実際に帰属される過程を考える必要がある。私がアニメ通の集まるフォーラムで、あるアニメについてコメントしたとしよう。実際にはその作品を見ていなくても、私の発言が共同体の基本信念と衝突しなければ、「未視聴エアプ」とみなされる可能性は低い。ここでいう基本信念は、作品をめぐる共同体の多数意見と同じではなく、多くの場合、事実に関する信念を指す。たとえば「『グラスリップ』のヒロイン潮留美海は、よく造形されたキャラクターだ」と言えば、私は未視聴エアプとみなされやすい。しかし「『グラスリップ』は天下一の神アニメだ」と言えば、荒らしだと思われる可能性のほうが高い。もちろん、認識論の多くの文献がすでに指摘するように、事実についての信念と、意見を表す推論的信念の境界はそれほど明瞭ではない。場合によっては推論的信念も基本的であり、それに反する行為者も「エアプ」とみなされうる。たとえば「未視聴エアプ」が一般にある推論的信念 を認めているとき、適格な成員の共同体では を基本信念とみなし、 を認めるあらゆる行動をエアプ行為とみなすかもしれない。この意味で、基本信念に境界を引くのは難しい。機能の観点から、次のように記述するしかない。基本信念とは、ある行動がそれに違反すると、その行為者が関連活動に参加していないと共同体からみなされるような信念である。
1.5 関連性規則
最後に、エアプ行為、その関連活動、そして行動が向けられる作品の関係を、どうすればより明晰に記述できるかという問題が残る。この問題を解けば、エアプ行為の概念分析を、より一般的な範疇へ広げることもできる。先に論じた第一の要点は、エアプ行為が、行為者がある活動に参加していない状態を指すことだった。しかし、エアプ行為と関連し、主体が参加する「べき」活動とは何か。より正確にいえば、擬似コメント性をもつ任意の行動について、その関連活動を一般的にどう決定すればよいのか。コメント的特徴を分析した際、関連活動には、エアプ行為のコメント的内容が向けられる作品が含まれると簡単に述べた。しかし存在論的分析としては、まだ不十分である。公共的文脈の内実が明らかになったいま、適格な成員の共同体にもとづく構成的な説明を与えられる。任意の行動 、適格な成員の共同体 、活動 、およびその活動が関わる作品 について、以下の条件が満たされるとき、かつそのときにかぎり、 は の関連活動である。
: は について何らかのコメント的機能を示し、かつ は、行為者が に参加していることを、 が実行されるための必要条件として集団的に受け入れている。
この条件を関連性規則()と呼ぶ。これは任意の文脈で、少なくとも擬似コメント性をもつ行動と関連する活動が何かを記述する。ここでも『グラスリップ』の例を使って関係を明らかにしよう。私が「『グラスリップ』は神アニメだ」と発言したとする。この発言行為は、作品『グラスリップ』に対するコメントである。同時に、経験豊富で独立した見解をもつアニメ通からなるフォーラムが存在し、この共同体は、「『グラスリップ』は神アニメだ」と発言するための必要条件として、「アニメ作品『グラスリップ』を見る」という活動に実際に参加することを集団的に受け入れている。こうして、私の発言行為の関連活動が決まる。
によって行動と活動の関連性を定めるのは、余計な手続きではない。さまざまな文脈の違いを、可能なかぎり網羅するためである。 の関連活動を、一律に「作品を見る、鑑賞する、遊ぶ」といった活動へ要約してはならない。活動 と、それが関わる作品 は、一対一に対応しないからだ。次の状況を考えよう。2019年1月、著名な俳優の陳坤が、劇場版『Fate/stay night [Heaven’s Feel]』(以下HF)に関する微博の投稿をリポストし、このアニメ作品を推薦した。陳坤の過去の話を知らないネットユーザーがその投稿を見て、百度貼吧に「この人、金をもらって宣伝してるだけだろ? 未視聴エアプじゃないの?」と書き込む。このエアプ行為の帰属に対して、多くの返信者は、陳坤が数年前に『Fate/Zero』(以下FZ)を推薦した微博を引用し、反論するだろう。陳坤が微博をリポストして推薦した行動は、HFの劇場版についてコメント的機能を示しているが、この例で関連活動は必ずしも「HFを見る」ことでなくてよい。過去に行った「FZを推薦する」ことだけでも、関連活動として十分になりうる。現実に、このような例は珍しくない。公人のコメント的行動が小規模な趣味の文化へ入り込むと、行動と活動の関連はさらに緩く、恣意的になる。そのため私たちは、公人に「エアプ」系ラベルを使う際、いっそう慎重になる。
反対に、より専門的でコアなファンの文脈では、ある行動の関連活動が、さらに厳格で複雑になることがある。行動がシリーズ作品へ向けられる場合は、なおさらだ。専用の貼吧やフォーラムでは、2006年版アニメ『Fate/stay night』へのコメント的行動が、アニメを見るだけでなく、原作ゲームを遊ぶ活動、さらには同じシリーズの別作品を知ることにまで関わるかもしれない。専門性の高い共同体では、作品を表面的にしか知らないこと自体が、「未視聴エアプ」という非難を招きうる。そこでは、異なる文脈の状況を考慮し、集団的構成によって行動と活動の関連を記述する。4
1.6 結論
以上の分析は、エアプ行為のおおよその輪郭を描いた。これにもとづき、次の存在論的説明を与えられる。任意の行為主体 と、その行為主体の行動 について、 がエアプ行為とみなされるのは、以下の条件を満たすとき、かつそのときにかぎる。
は、適格な成員からなる共同体 のなかで生じる。
は、作品 に対して少なくとも擬似コメント性を示す。
共同体 には、条件 にもとづき の関連活動 を決定する、何らかの版の が存在する。
は、 の関連活動 に参加していない。
は、共同体 が集団的に受け入れる基本信念 に違反する。
この一組の条件は、現実における「未視聴エアプ」と、そうではない視聴者の境界を示すだけではない。言語行為によって形づくられる多くの社会的対象と同じく、エアプ行為とそこから派生する概念は、変化し続ける語用的慣習に依存して、現実のなかで判定される。ここで提示した条件は、「エアプ行為」の形而上学的根拠として理解するほうがよい。最も一般的な意味で、エアプ行為の形而上学的本質とは何かを問うものだからだ。エアプ行為の本質は、冒頭のミームが示すほど単純明快ではない。存在論的分析は可能なかぎりすべての事例を覆う必要があり、それゆえ、やや複雑な条件の組を提示しなければ捉えられないのである。
二、語用論的要求における異質性
「エアプ行為とは何か」に答えるもう一つの視点は、この種の語を使って何を達成しようとするのかを問うことだ。ある人を「エアプ」と呼ぶとき、話者は実質的に何を要求しているのか。「未視聴エアプ」「エアプ勢」「ファンを装うエアプ」といった呼び名はいずれも蔑称だから、ある人を貶めようとしている、というのが直観的な答えだろう。では、その蔑視は何に向けられているのか。
圧倒的多数の状況で、ある人を「エアプ」と呼ぶことが実質的に標的とするのは、特定の主体そのものではなく、その主体の行動である。熟練したアニメ愛好家の共同体で、私が「未視聴エアプ」というラベルを貼られる原因は、「底辺アニオタ」である私という行為主体ではなく、「『グラスリップ』のヒロイン潮留美海は、よく造形されたキャラクターだ」という私の言語行為だ。ほかの誰であれ、同じような発言をすれば、未視聴エアプとみなされる可能性が高い。したがって、エアプ行為を帰属させる語用論的要求は明白である。「エアプ」とみなされた主体の行動を、少なくとも特定の文脈では不合理なものとして扱うよう求めているのだ。エアプ行為はいずれも何らかの擬似コメント性をもつため、より正確には、ある主体の行動をエアプ行為とみなすことは、その行動がコメントとしてもつ正当性を取り消すためになされる。
派生的な用法のなかには、ある集団を「エアプ勢」とみなすことで、作品自体を間接的に評価するものもある。現実に、「このゲームを好きなのはエアプ勢だけだ」「一日中このゲームの話をしている人は、ほとんどエアプ勢だ」といった表現を見かけることがある。その実質的機能は、ある現状を記述することではない。たいてい話者も、それを気にしてはいない。機能しているのは、そこで扱われる作品自体に否定的評価を示すことだ。「エアプ勢」は、あるゲームについてエアプ行為をとった人であり、エアプ行為にはコメントとしての正当性がない。したがって、エアプ勢がそのゲームを好むこと自体が不合理である。あるゲームを「エアプ勢しか好きにならない」と表現するなら、少なくとも論理的には、そのゲームへの好意を示す正当なコメントは存在しないことを意味する。ゆえに、「エアプ勢しか好きにならない」作品とは、どの適格なコメント主体にとっても愛する価値のない「クソゲー」なのである。まとめれば、ある行動を直接エアプ行為とみなす場合も、「エアプ」という語で作品を間接的に評価する場合も、依拠しているのはメタコメント的な語用論的要求である。コメントとしてのエアプ行為は、不合理であり、取るに足りないものとみなされるべきだ、という要求だ。
この語用論的要求は、きわめて直観にかなう推論様式を前提としている。本稿では、それを「直接経験からコメント資格への推論」(firsthand experience to qualification for commenting、以下E2C)と呼ぶ。この推論様式は、事物の評価には、その事物を実際に経験することが必要だという常識に、かなりの程度まで合致する。「調査なくして発言権なし」「書物から得た知識は結局浅い。このことを完全に理解したければ、自ら実践せよ」。E2Cは、認識論の多くの伝統的主題とも明らかに結びつく。少なくとも、知識の獲得と正当化において、経験には代替できない必要性があることを意味する。本稿の議論では、こうした厄介な哲学的論争を解決する必要はない。しかし、先の存在論的分析において、E2Cの核心が条件(4)を満たすかどうかにあることは確認しておく必要がある。コメントとしてのエアプ行為の正当性が取り消されるべきなのは、行為者が関連活動へ実際には参加していない、すなわちコメントした作品を実際には経験していないからである。逆にいえば、E2Cは診断道具ともみなせる。関連活動への参加はコメント的行動の正当性を保証しないが、関連活動への参加が欠けていれば、その正当性を完全に取り消せる。
しかし、エアプ行為が帰属される多くの事例で、E2Cは診断道具として一貫して働かない。先の存在論的枠組みに条件(5)があること自体が、反例の可能性を含んでいる。行為者がアニメを実際には見ておらず、ゲームを実際には遊んでいなくても、そのコメント的行動が共同体の自明な基本信念に合ってさえいれば、現実にはエアプ行為とみなされないことがある。言い換えれば、ある行動が表すコメント的内容が十分にありふれていれば、行為者が関連活動へ参加したかどうかにかかわらず、コメントとしての正当性は取り消されない。
この状況は、現在の中国語圏ネット・コミュニティにおける「コピペ」現象によく表れている。話題の作品がネット・コミュニティに登場するたび、早い段階で現れたコメント的内容が、その後の議論で大量に繰り返される。肯定的評価にも否定的評価にも当てはまる。近年の肯定的な例は、任天堂のファーストパーティー作品に多い。『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』から、当時なお人気の『あつまれ どうぶつの森』まで、任天堂のゲームが一般層へ広がるたび、その評価には大量の便乗した称賛が現れる。その多くは、実際にはゲームを遊んでいない主体によるものである。とりわけ、流行に便乗するマーケティング・アカウントに顕著だ。数年前、『ドールズフロントライン』のクローズドβテストをめぐる騒動から否定的評価が拡散したことは、悪評が繰り返された例とみなせる。βテストの騒動を実際には経験していない多くの主体が、それを否定的評価の根拠にし、不釣り合いなほど多くの人が「第三次テストからの古参」を自称した。二つの例に共通するのは、少なくともコメント的内容が表現された文脈では、多くの行為者が関連活動へ参加していなくても、その行動がエアプ行為とみなされる可能性はきわめて低いことだ。2020年3月25日、私が『どうぶつの森』の動画に「どう森を買わないやつは全員グループから出ていけ」と書いたり、2016年8月、貼吧で「MICA Teamの第三次テスト騒動には吐き気がした」と言ったりしても、その行動はあまりにありふれ、平凡で、共同体の基本信念とまったく衝突しないため、エアプ行為にはならない。
E2Cへの反例をどう理解すればよいか。E2Cを全面的に放棄したくないなら――自分たちの常識を軽々しく捨てるべきではない――、これらの反例が示すのは、エアプ行為という概念の内在的異質性である。この異質性は、「エアプ」系ラベルを実際に適用するとき、私たちが強度の異なる二つのE2Cへ暗黙にコミットしていることから生じる。強いE2Cは、「直接経験」をコメントの正当性にとって必要な条件とみなす。主体がアニメを実際に見たり、ゲームを実際に遊んだりして初めて、その行動がコメントとして正当になり、あるいは正当なコメントをする資格を得る。強いE2Cこそ、先の反例が問題にしたものであり、この推論様式が原則的に求めるものでもある。
実際の語用的文脈では、より弱い版も一般的である。弱いE2Cは、「直接経験」が伝達可能であることを認める。ある行為者は、別の主体の経験、さらには何度も伝達された他者の経験を援用し、コメントの正当性にとって必要な条件の代わりにできる。この場合、別の主体が関連活動へ実際に参加したと確信できれば、コメント的行動をとる主体は、正当なコメントをする資格を自動的に得る。もちろん、この伝達には、さらに多くの制約条件が必要である。経験を援用される主体は、特定の共同体で一定の信頼性を備えていなければならず、また、あらゆるコメント的内容が、経験の伝達によって正当性の必要条件を満たせるわけではない。最も重要な制約は、条件(5)が示すとおりである。行為者が関連活動へ参加していない場合、経験の伝達可能性が支えられるのは、ありふれた平凡なコメント的内容だけだ。共同体の基本信念を超えるコメント的内容は、さらなる「追及」を招きうる。行為者が関連活動へ実際に参加したことを証明できなければ、その行動は当然エアプ行為とみなされる。この「コメント的内容は平凡でなければならない」という制約条件は、弱いE2Cが冒頭の存在論的枠組みと衝突しない理由も示している。弱いE2Cが許すコメント的内容は条件(5)を満たさないため、条件(4)を満たしても、エアプ行為にはならない。
E2Cの強弱二つの版は、エアプ行為の概念へ不可避的に異質性を導入する。ある行動をエアプ行為と呼ぶとき、私たちは何を言っているのか。強いE2Cによれば、行為者が関連活動へ実際には参加していないため、その行動はコメントとして正当性をもたない、と言う傾向が強い。弱いE2Cによれば、(i)行為者は信頼できる経験を援用していない、(ii)援用された経験は対応するコメント的内容を支えられない、あるいは(iii)行動が表すコメント的内容は共同体の基本信念に違反し、しかも行為者は関連活動へ実際に参加したことを証明できない、と言う傾向が強い。E2Cの強度に応じて、前者を「強いエアプ行為」、後者を「弱いエアプ行為」と呼ぶ。両者は明らかに等価ではない。エアプ行為という概念は、実際の使用において、この異質性をしばしば示す。
最後に、ありうる反論を考えよう。弱いエアプ行為などというものは捏造であり、単に見落としによって生じた欺瞞にすぎない、という反論だ。あらゆるコメント的行動について、行為者が関連活動へ参加したかを例外なく追及すれば、原理的には強いエアプ行為しか残らない。この反論は、原則としてのみ可能な状況を想定している。私が3月25日に『どうぶつの森』の動画へ「どう森を買わないやつは全員グループから出ていけ」と書き込んだとしても、職務に忠実な監察官が私の人生のあらゆる行動履歴を詳しく調べ、実際には『どうぶつの森』を遊んでいないという事実にもとづいて、「エアプ勢」というラベルを貼るのである。
この反論は、エアプ行為が社会種(social kind)であることの核心、すなわち社会的構成を見落としている。理想的な状況ではエアプ行為が一種類しか存在しないと考えることは、理想的な状況では貨幣が一般的等価物としての機能をもたない、と言うことに似ている。規模がきわめて小さく、情報が完全に透明で、商品の種類がごく少ない状況では、たしかに一般的等価物として貨幣を必要としない。エアプ行為のような社会種とその事例は、もちろん「作り出された」ものだ。その源は、それが置かれた社会的現実にある。人々が参加の有無を検証しないこと自体も、社会的現実の一部である。社会種を探究する意義は、さまざまな現実の状況で示す特徴を考えることにある。エアプ行為をめぐる現実とは、さまざまな状況で、私たちが他人に弱いエアプ行為を帰属させることが珍しくない、という現実なのである。
三、結語――エアプ行為の可能性と限界へ
エアプ行為の内在的異質性が示すのは、存在論的な自己矛盾ではない。メタコメント的な立場に対する、認識論的な挑戦である。今日の中国語圏ネット・コミュニティでは、「未視聴エアプ」「エアプ勢」といった呼称は、ほとんど無意識に蔑称とみなされ、対応するエアプ行為も、ほとんど無意識に取るに足りないものとされる。しかしエアプ行為の内在的異質性は、より明晰に語ることを要求する。「未視聴エアプ」を単に「そのアニメを見ていないのに、そこで知ったかぶりをする人」とみなすなら、事実として、ほとんどの人が人生のどこかで「エアプ」になったことがある。エアプ行為を「そのアニメを見ずに述べたコメント」とみなすなら、少なくとも現実には、私たちは自分で思うほどエアプ行為を排斥していない。エアプ行為を受け入れるだけでなく、さらなる推論の根拠にさえしている。
重要なのは、エアプ行為を習慣的に非難するとき、二つの版の違いを認識することだ。弱いエアプ行為は、たしかに全面的に否定されるべきかもしれない。しかし強いエアプ行為を一律に非難することは、コメントとしての可能性を無視することになる。この数十年間に人類が蓄積したアニメ・コミック・ゲーム作品は、膨大な数にのぼる。大多数の人が実際に経験できるのは氷山の一角にすぎない。それでも、状況によっては、実際の経験を超えてコメントすることが妨げられるわけではない。私は『マブラヴ オルタネイティヴ』も『ネコぱら Vol.1』も実際には遊んでいないが、Bangumiの評価を通じて、ビジュアルノベルとして前者のほうが後者より優れていると、かなり合理的に考えられる。もちろん、この可能性は無限ではない。経験の伝達可能性を論じる際、いくつかの粗雑で未分析の制約条件を提示したが、エアプ行為がコメントとしてもつ限界を本当に示すには足りない。そのためには、面識知(knowledge by acquaintance)、集団的行為主体性、認識的外在主義など、さまざまな「厄介な」既存の哲学的論争を含む、さらに多くの理論的資源を導入し、エアプ行為の可能性と限界を論じる必要がある。それは、コメントそれ自体の改善に役立つ明晰さへ近づく助けとなるだろう。
補足説明
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概念の明確化について。 エアプ行為は、本稿が主に扱う概念である。厳密な意味での「エアプ行為」は、ある行動の類型を指す。したがって、誰かのある行動がエアプ行為である、あるいは、その行動がエアプ行為という類型に属するとしか言えない。しかし本文では、「行為主体にエアプ行為を帰属させる」といった表現を使った。より正確には、「行為主体の行動に、エアプ性という属性を帰属させる」と言うべきである。叙述を簡潔にするため、特に強調しなかったが、より厳密な分析では、エアプ行為とエアプ性を区別する必要がある。
ここでいう「エアプ」系ラベルとは、「エアプ勢」「未視聴エアプ」といった具体的用法の総称である。ただし論証上の必要から、本文における「エアプ」系ラベルの用法には、次の定義が反映されている。任意の行為主体 がエアプとみなされるのは、 が行動 を行い、かつ がエアプ行為であるとき、かつそのときにかぎる。あるいは、任意の行為主体 がエアプとみなされるのは、 が行動 を行い、かつ がエアプ性をもつとき、かつそのときにかぎる。本稿では二つの定義は等価だが、あらゆる場合に置き換えられるわけではない。前者は、より多くの社会的構成に関わるように見え、後者は、エアプ性という属性が「 はエアプ行為である」という事実の形而上学的根拠を構成することを、より強く示すからである。
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最近では、「エアプ」が無害な自嘲の手段にもなっている。たとえば、ゲームを他人のプレイ動画で最後まで見たことを、率直に「エアクリアした」と言う人も多い。この自嘲的用法は通常、コメント的な意見を含まず、本稿で論じるエアプ行為とは関係しない。そこで現実の語用的慣習を尊重し、本節ではエアプ行為の「典型的な帰属」を強調した。こうした非典型的な自嘲用法を、本稿の議論に含めないことを示すためである。
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任意のコメント的行動 について、潜在的な関連活動 が存在する。これらの潜在的関連活動は、次の条件を満たす。任意の活動 について、 が関連活動となる可能な文脈が存在するなら、 は潜在的関連活動である。
すべての潜在的関連活動を要素とする集合を とする。このとき である。また、 を文脈 における の関連活動の集合、 を文脈 における の関連活動の集合とする。 と が文脈に関して異なるなら、 かつ だが、 である。