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「云行為」とは何か? 存在論と内在的異質性

Austoria が、参加の欠如、準批評性、公共的な文脈としての共同体、基本的信念を手がかりに、「云視聴者」「云プレイヤー」などのネット上の呼称を捉える存在論的枠組みを示し、これらの呼称を使う際の狙いに潜む内在的異質性を分析する。

著者: Austoria翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

拾荒战略 Rags Drum 2020 年度公募選考結果では、本稿が前夜祭・後夜祭の選考を通過した原稿として紹介されている。

〇、はじめに

ここ二、三年、中国語圏のネットコミュニティでは、「云視聴者」「云プレイヤー」といった言葉を繰り返し見かけるようになった。1こうした言葉は、一般にアニメ・マンガ・ゲームなどのACG分野の議論で使われる。あるアニメ作品の「云視聴者」を例に取れば、通常は、そのアニメを自分では見ていない、あるいは最後まで見ていないにもかかわらず、作品について自分の意見や見方、見解を述べる人々を指す。ただし、「云○○」という言い方は、必ずしも意見や見解をはっきり表明する場合に限られない。たとえば「云ジョジョ厨」は、『ジョジョの奇妙な冒険』という作品そのものについてはほとんど知らないのに、ジョジョのネタで遊んだり、作品への愛を表明したりすることには熱心な人々を指す場合がある。

実のところ、こうした人々や現象は、ほかのさまざまな場面でも珍しくない。それどころか、異なる社会や文化にも、いくつもの面白い足跡を残してきた。たとえば私たちの父親の世代には、1980年代の詩作ブームのなかで「云詩人」だった人が少なくない。少なくとも、詩を書いて恋人を作ろうとしていた、意気盛んな若者たちの多くはそうだった。一方、西洋でも、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』という本が出版されていることだけを見ても、「云読者」が決してごくまれな存在ではないことはわかる。2世界中の人文学系の大学院生に至っては、多かれ少なかれ「云研究」をしているのがむしろ普通ではないか。学位論文の末尾に並べた百件、いや数百件もの参考文献を、本当にすべて読み終えている人などいるだろうか。明らかに、これらの言葉が指しているのは一種の行為である。ある行為者がそれに当たる「云行為」をしたからこそ、私たちはその人を「云○○」と呼ぶ。したがって、「云○○」という言葉を概念的に分析し、それにまつわる問題を論じるには、云行為そのものを考察するところから始めるのがよい。本稿の議論も、云行為という概念を中心に進めていく。

では、いったい何が「云行為」なのか。本稿では二つの側面から答える。第一に、現状の考察の多くは、まだ例を挙げて説明する段階にとどまっているように思われる。よりよい答えは、存在論的なものであるべきだ。つまり、云行為が云行為であるのは、どのような本質的条件を満たしているからなのかを説明しなければならない。本稿では、詳しい存在論的分析を通じてその条件を示し、さらに踏み込んだ議論ができるよう、概念を明確にしたい。第二に、もう一つの有意義な視点は、云行為に関する言葉を使うとき、私たちは何を達成しようとしているのか、という問いである。私はこの語用上の狙いから出発し、その背後に潜む推論様式を分析して、現実の状況ではその推論様式が一貫して働いていないことを指摘する。そこからわかるのは、統一的な存在論的枠組みのもとでも、云行為という概念には、実際に使われる場面で内在的な異質性が現れるということだ。この異質性は、云行為に関わる言葉を使う際、私たちが実際には無視できない曖昧さを抱えていることを示している。3

一、「云行為」の存在論

ネットコミュニティの流行語を考察するなら、画像による実例ほど、その使われ方をよく示すものはない。私たちの時代では、言葉がどのように使われ、どんな働きをするかを、ミームが最もよく示してくれることが多い。下の「云プレイヤーの三連発」という画像も、この概念が通常どのように使われるかを示している。ただ例を挙げて説明するだけでも、概念をひとまずつかむ助けにはなる。しかし、それだけでは、その概念が表す実在を本当に理解することも、ましてや、その実在をそれ自体として成り立たせている理由を知ることもできない。そこで本節では、さまざまな実例から出発して、一般的な枠組みを示す。どのような行為にも適用できる、云行為と見なされるための必要十分条件を明らかにするのである。

ネットミーム「エアプ三連」

画像内テキストの訳
「云プレイヤーの三連発」
左:「このゲーム、やったことないけど」
中央:「動画を見る限り、簡単そうじゃん」
右:「うまくできないのは、お前が下手なだけ」

1.1 参加を欠いた状態

アニメの「云視聴者」であれ、ゲームの「云プレイヤー」であれ、これらの概念の第一の要点は、ある関連活動に実際には参加していない状態を指すことにある。アニメの「云視聴者」は、あるアニメを実際には見ていない、あるいは最後まで見ていない。ゲームの「云プレイヤー」は、あるゲームを実際にはプレイしていない、あるいは最後までプレイしていない。この参加の欠如は、公に知られている必要はない。ある主体が実際に活動に参加したかどうかは、多くの場合、厳密な事実として確定されるのではなく、推論によって判断される。

1.2 準批評性

第二に、アニメやゲームに関心がないために参加していないだけの一般の人を、私たちは「云○○」とは呼ばない。したがって云行為には、通常、行為主体が対象を自分に関わるものとして捉えていることが、何らかの形で表れていなければならない。たとえば、上の画像のように、上から目線であれこれ指南する。あるアニメを見たふりをして意見を述べる。あるいは、円盤を割る、微博(Weibo)やTwitterの投稿をシェアする、購入したことを見せるといった非言語的行為を通じて、曖昧さを残しながらも意図的に好き嫌いを表す。これらに共通するのは、程度の差はあれ、いずれも作品に対する批評的な意見になっていることである。ここでいう作品は、云行為が表す批評の対象であるとともに、関連活動の対象でもある。すべての云行為を文字どおりの批評と見なせるわけではないが、少なくとも何らかの意味で、批評としての機能を果たしてはいる。ここから第二の要点が得られる。云行為は、その対象となる作品に対して、少なくとも批評に準ずる性質、すなわち準批評性(quasi-commentness)を示す必要がある。

1.3 公共的な文脈としての共同体

第三の要点は、ここまでの二つの条件から自然に導かれる。云行為の典型的な帰属には、公共的な文脈が必要だということである。4云行為は、受け売りとは異なる。通常、云行為は公共的な文脈で行われなければならず、行為主体とは別の主体が、その人を「云○○」と見なす必要がある。そのとき初めて、その人のある行為が本当に云行為になる。たとえば、私は『グラスリップ』を一度も見たことがないが、その評判は耳にしたことがあるとしよう。ある日、一人でいるときにこのアニメのタイトルを目にして、思わず「これはクソアニメだ」と口にする。ほかには誰もおらず、私の独り言は誰にも聞かれていない。この場合、私の発言は通常、云行為とはいえない。せいぜい受け売りの意見にすぎない。ところが、QQグループで同じことを言い、ほかのメンバーが全員『グラスリップ』を見ていて、しかも全員が良作だと思っていたなら、その場で私は云視聴者と見なされる可能性が高い。

もちろん、話はまだそれほど単純ではない。云行為の帰属に必要な公共的文脈は、どんなものでもよいわけではない。たとえば私が大学の教室で「『グラスリップ』はクソアニメだ」と叫んだとしよう。クラスのほかの学生はみな、アニメといえば宮崎駿しか知らないリア充である。一方の私は、アニメにはめっぽう詳しいが、性格が悪く、皆からのけ者にされている陰気なデブオタクだ。すると彼らは、私に反対したいがために、そろってこのアニメを神アニメと呼び、私を「云視聴者」だと責めるかもしれない。この場合、私の発言が云行為になるとは考えにくい。この思考実験からわかるのは、云行為の帰属に必要な公共的環境では、少なくとも、行為主体に「云○○」という呼称を与える側に、ある程度の資格が必要だということである。

しかし、だからといって、こうした場合に必要な資格は「『グラスリップ』を見たこと」だけだと考えるべきではない。実際、関連活動に参加していることは、「云○○」という呼称を与える資格にとって、十分条件でも必要条件でもない。次のような極端な場合を考えてみよう。『グラスリップ』を実際には誰も見ていない三人が、このアニメについて話し始め、全員一致でクソアニメだということになった。そこへ私が議論に加わる。私は三人の意見をあらかじめ知らず、アニメ制作会社のP.A.WORKSを強く信頼していたため、『グラスリップ』は優れた作品だと発言する。すると、たちまち三人は私を「云視聴者」だと責め始める。私がこのアニメを見ていないのは事実であり、三人の評価は主要なアニメ批評コミュニティで通用している意見と一致している。したがって、私の行為は明らかに云行為である。

今度は、これとよく似た、しかし逆の結果になる場合を考えよう。私は『グラスリップ』を見ていないが、優れた作品だと発言する。ほかの三人は全員このアニメを見ていて、クソアニメだと思っている。ただし、私はアニメ視聴歴が22年を超える「古参のオタク」で、さまざまなSNSでもかなりの影響力を持っている。三人のほうは、今年からアニメを見始めたばかりの「新参」である。そうなると、次のようなことがきわめて起こりやすい。私にはそれだけの経験と影響力があるので、『グラスリップ』を見ていないという事実を明かさないかぎり、三人は私を「云視聴者」だと責めない。それどころか、自分たちの審美眼を疑い始める可能性すらある。5

明らかに、どの場面にも通用する基準を見つけるのは、非常に難しいだろう。この資格の具体的な中身は、むしろ多様だと考えられる。そこで本稿では、特定の文脈において特定の資格を備えた主体を、ひとまず「適格な成員」(qualified member)と呼ぶにとどめる。適格な成員にどのような特徴が必要なのか、誰が適格かをどう判断するのか、といった問題は、未決のままにしておいてよい。そうすると、云行為の帰属に必要な公共的文脈を、次のように説明できる。ある行為を云行為と認定するには、適格な成員からなる共同体が必要なのである。

1.4 基本的信念に反すること

第四に、ある行為が実際に云行為と認定される過程も考える必要がある。私がアニメ・バラモンの集うフォーラムで、あるアニメを批評しているとしよう。6通常、その作品を本当は見ていなくても、私の発言が共同体の持ついくつかの基本的信念と衝突しないかぎり、「云視聴者」と見なされる可能性は低い。ここでいう基本的信念は、共同体内部での作品に対する主流の意見と同じではない。多くの場合、それは事実に関する信念を指す。たとえば私が「『グラスリップ』のヒロイン、潮留美海はよく造形されたキャラクターだ」と発言すれば、「云視聴者」と見なされる可能性が高い。7しかし「『グラスリップ』は世界一の神アニメだ」という意見なら、むしろ荒らしと見なされる可能性のほうが高いだろう。もちろん、認識論の多くの文献がすでに指摘しているように、事実に関する信念と、意見を表す推論的信念との間には、それほど明確な境界があるわけではない。場合によっては、推論的信念もまた基本的なものであり、それに反する行為をした主体が「云○○」と見なされることもある。たとえば、「云視聴者」の間である推論的信念 pp が広く認められていると、適格な成員の共同体では、pp の否定である非 pp を基本的信念とする場合がある。すると、pp を認める行為はどれも云行為と見なされる。この意味で、基本的信念の範囲を定めるのは難しい。機能の面から、次のように記述するほかない。基本的信念とは、それに反する行為をすると、その行為の関連活動に参加していないと共同体内で見なされるような信念である。

1.5 関連性規則

最後に、まだ解かなければならない問題がある。云行為と、それに関連する活動、そして批評の対象となる作品との関係を、どうすればもっと明確に記述できるだろうか。この関係を明らかにすることは、云行為の概念分析を、より一般的な範囲へ広げる助けにもなる。先に論じた第一の要点は、云行為には、行為主体がある活動に参加していないという状態が伴うことだった。しかし、云行為と関連し、主体が「当然」参加しているべきだとされる活動とは、いったい何なのか。より正確にいえば、準批評性を持つ任意の行為について、その関連活動を一般的にどう定めればよいのか。批評性を分析した際には、関連活動は、云行為による批評の対象作品に関わるものだと簡単に述べた。しかし、存在論的分析には、それではまだ不十分である。そこで、公共的文脈が何を指すかを明らかにした今、適格な成員の共同体に基づいて、この関係がどのように構築されるかを説明しよう。行為 xx、適格な成員からなる共同体 CC、活動 AA、そしてその活動に関わる作品 WAW_A が与えられたとき、AA が xx の関連活動であるための必要十分条件は、次のとおりである。

(RR)(\mathrm{RR}):xx は WAW_A に関して何らかの批評的機能を示しており、かつ、CC は、その行為をするには行為主体が AA に参加している必要があると、集団として受け入れている。

この条件を、関連性規則 RR\mathrm{RR} と呼ぶ。これは、任意の文脈において、少なくとも準批評性を備えた行為に関連する活動が何であるかを記述するものだ。ここでも『グラスリップ』の例を使って、この関係を明らかにしよう。私が「『グラスリップ』は神アニメだ」と発言したとする。すると、その発言行為は『グラスリップ』という作品に関する批評である。ここに、経験豊富で、自分自身の見解を持とうとするアニメ・バラモンたちのフォーラムがある。この共同体は、「『グラスリップ』は神アニメだ」と発言するための必要条件として、発言者が「アニメ作品『グラスリップ』を見る」という活動に実際に参加していることを、集団として受け入れている。こうして、私の発言行為に関連する活動が定まる。

とりわけ注意したいのは、RR\mathrm{RR} によって行為と活動の関連を定めることは、余計な手間ではないという点である。これは主として、さまざまな文脈に現れる異なる場合を、できるかぎり広く捉えるために必要になる。xx の関連活動を、どれも一律に「作品を見る/鑑賞する/プレイする」といった活動にまとめてよいわけではない。ある活動 AA と、その活動に関わる作品 WAW_A は、一対一で対応しているわけではないからだ。次のような状況を想定してみよう。2019年1月、有名俳優の陳坤が、劇場版『Fate/stay night [Heaven’s Feel]』(以下、HF)に関する微博の投稿をシェアし、このアニメを推薦する。陳坤の過去の言動を知らないネットユーザーが、それを見て、掲示板の贴吧(Baidu Tieba)に「こいつ、単に金のためにやってるだけだろ? 云視聴者だろ?」と投稿する。こうして云行為だと決めつけられると、多くの人が、陳坤が数年前に『Fate/Zero』(以下、FZ)を推薦した微博の投稿を引き合いに出して反論する可能性が高い。陳坤の「微博の投稿をシェアし、推薦する」という行為は、劇場版HFに関する批評的機能を示している。しかし、この例での関連活動は、必ずしも「HFを見ること」でなくてよい。過去に「FZを推薦したこと」だけでも、関連活動として十分なのである。このような例は、現実にも珍しくない。著名人による作品の批評が小さなファンの界隈に入り込むと、行為と活動の結びつけ方は、いっそう緩く、その場次第のものになる。そのため私たちは、著名人に対して「云○○」のラベルを使うことに、いっそう慎重になりがちなのである。

逆に、専門知識のある熱心な愛好家が集まる場では、ある行為の関連活動として何が求められるか、その条件がより厳しく、複雑になることがある。シリーズ作品を批評する場合には、とりわけそうだ。たとえば、作品専門の贴吧やフォーラムで2006年版アニメ『Fate/stay night』を批評するなら、関連活動はそのアニメの視聴だけとは限らない。原作ゲームのプレイも関わることが多く、さらに同じシリーズのほかの作品への理解まで求められることがある。高度に専門的な共同体では、作品を表面的にしか理解していないこと自体が、「云視聴者」という非難を招きうる。こうした文脈ごとの違いを考慮して、私は RR\mathrm{RR} において、行為と活動の関連を、集団によって構築されるものとして記述した。8

1.6 結論

以上の分析によって、云行為の大まかな輪郭が描けた。これをもとに、次のような存在論的説明を与えられる。任意の行為主体 PP と、その主体の行為 P(x)P(x) について、P(x)P(x) が云行為と見なされるための必要十分条件は、次の五つをすべて満たすことである。

(1)(1) P(x)P(x) は、適格な成員からなる共同体 CC のなかで行われる。

(2)(2) P(x)P(x) は、作品 WAW_A に対して、少なくとも準批評性を示す。

(3)(3) 共同体 CC には何らかの形の RR\mathrm{RR} が存在し、それが条件 (2)(2) に基づいて、P(x)P(x) の関連活動 AA を定める。

(4)(4) PP は、P(x)P(x) の関連活動 AA に参加していない。

(5)(5) P(x)P(x) は、共同体 CC が集団として受け入れている基本的信念 JJ に反する。

注意すべきなのは、これらの条件が、現実に「云視聴者」と「云視聴者ではない人」を分ける基準だけを示しているわけではない、ということだ。言語行為によって形作られる社会的対象の多くと同様に、云行為やその派生概念に何が当てはまるかという実際の判定は、変化し続ける言葉の使用習慣に依存している。ここで示した条件は、むしろ「云行為」の形而上学的な根拠として理解されるべきである。問題にしているのは、最も一般的な意味で、云行為の形而上学的本質はいったい何か、ということだ。見てきたように、云行為の本質は、冒頭のミームから受ける印象ほど単純でわかりやすいものではない。存在論的分析では、できるかぎりすべての実例を捉える必要がある。そのため、云行為を把握するには、いささか複雑に見えるこのような一組の条件を示さなければならないのである。

二、語用上の狙いにおける異質性

「云行為とは何か」という問いに答えるもう一つの視点は、こうした言葉を使って何を達成しようとしているのかを問うことにある。ある人を「云○○」と呼ぶことで、話し手が実質的に狙っているのは何だろうか。直観的な答えは、「云視聴者」「云プレイヤー」「云ファン」などはいずれも蔑称なのだから、話し手がしたいのは、その人を貶すことだ、というものだ。では、これらの言葉による非難は、何に向けられているのか。

ほとんどの場合、ある人を「云○○」と呼ぶとき、実際に非難されているのは、その人自身ではなく、その人の行為である。年季の入ったアニメファンの共同体で、私に「云視聴者」のラベルが貼られるのは、「『グラスリップ』のヒロイン、潮留美海はよく造形されたキャラクターだ」という私の言語行為が原因であって、「冻鳗低手」という私自身が原因ではない。9ほかの誰であっても、私と同じようなことを言えば、「云視聴者」と見なされる可能性が高い。したがって、云行為だと認定する際の狙いは明らかである。「云○○」と見なされた人がしたある種の行為を、少なくとも特定の文脈では、合理性を欠くものと見なすよう求めているのだ。云行為にはすべて、少なくとも何らかの準批評性があることを踏まえれば、さらに正確にいえる。ある人の行為を云行為と見なすのは、その行為の批評としての合理性を否認するためなのである。

派生的な用法のなかには、ある集団を「云○○」と見なすことで、間接的に作品そのものを批評するものもある。たとえば、「このゲームを好きなのは云プレイヤーだけだ」「一日中このゲームの話に熱中しているのは、たいてい云プレイヤーだ」といった表現を、現実に見かけることがある。これらの実質的な働きは、ある現状を記述することにはない。通常、話し手もそこには関心がない。むしろ、そこで取り上げられている作品そのものに対する、何らかの否定的評価を表している。「云プレイヤー」とは、あるゲームに対して云行為をした人であり、云行為には批評としての合理性がない。ゆえに「云プレイヤー」がそのゲームを好むこと自体にも合理性がない、というわけだ。この場合、あるゲームを「好きなのは云プレイヤーだけだ」という表現は、少なくとも論理上、そのゲームへの好意を表す合理的な批評は存在しない、ということを意味する。したがって、その「好きなのは云プレイヤーだけ」のゲームは、実際には、批評する資格のある誰にとっても、好むに値しない「クソゲー」だ、ということになる。要するに、ある行為を直接云行為と見なす場合も、「云○○」という言葉を使って間接的に作品を評価する場合も、その根底にあるのは、批評そのものを評価する、メタ批評の次元での狙いである。批評としての云行為は、合理性を欠き、さらには取るに足りないものと見なされるべきだ、という狙いだ。

この語用上の狙いは、きわめて直観にかなった推論様式を前提としている。私はこれを、「自らの体験から批評する資格へ」(firsthand experience to qualification for commenting、以下E2C)という推論様式と呼ぶ。これは私たちの常識ともかなりの程度一致している。何かを評価するには、それについての実際の経験が必要だ、という考え方である。「調査なくして発言権なし」。10「書物で得た知は、結局は浅い。真に知るには、自ら実践せねばならない」。11E2Cは、認識論の伝統的な諸問題とも明らかな関係を持っている。少なくともこの推論様式は、知識の獲得と正当化において、経験が不可欠であり、ほかのものでは代えられないということを意味している。本稿の議論で、そうした厄介な哲学論争に立ち入る必要はない。ただし、ここまでに示した存在論的分析において、E2Cの核心が条件(4)を満たすかどうかにあることは、押さえておく必要がある。云行為の批評としての合理性を否認すべきなのは、まさに、云行為をした主体が関連活動に実際には参加していないからだ。つまり、批評している作品を、行為主体自身が実際には体験していないからである。見方を変えれば、E2Cは診断の道具とも見なせる。主体が関連活動に参加しているからといって、批評的行為の合理性が保証されるわけではない。しかし、その参加が欠けていれば、批評的行為の合理性を完全に否認できるのである。

ところが、ある行為が云行為だと認定される多くの実例では、E2Cが一貫して診断の道具として働いているわけではない。先に示した存在論的枠組みでは、条件(5)の存在そのものが、反例の可能性を含んでいる。条件(5)は、次のような場合を許す。行為主体が実際にはアニメを見ておらず、ゲームをプレイしていなくても、その批評的行為が、共同体で自明とされる基本的信念と一致してさえいれば、その行為は事実上、云行為とは見なされない。言い換えれば、ある行為が表す批評内容が十分にありふれていて、目新しくなければ、行為主体が実際に関連活動に参加しているかどうかにかかわらず、その行為の批評としての合理性は否認されないのである。

このような場合の実例は、現在の中国語圏のネットコミュニティで見られる、同じ評言を繰り返す「オウム返し」という現象によく表れている。話題の作品がネットコミュニティに登場するたびに、早い段階で現れた批評内容が、その作品に関する議論のなかで大量に繰り返される。これは肯定的な評価にも否定的な評価にも当てはまる。ここ数年、肯定的な評価の例が多く見られるのは、任天堂のファーストパーティー作品である。『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』であれ、今もなお人気が高い『あつまれ どうぶつの森』であれ、界隈の外にまで広まった任天堂のゲームには、どれも流行に乗った称賛が大量に寄せられる。称賛している人の多くは、そのゲームを実際にはプレイしていない。これはとりわけ、集客目的のアカウントが「話題に便乗する」行為によく表れている。一方、数年前の『少女前線』(日本版名『ドールズフロントライン』)のクローズドテストをめぐる一件では、そこから生まれた否定的評価が広まり、悪評が拡散した。こちらは否定的評価が「オウム返し」された例と見なせる。テストをめぐる一件を実際には経験していない多くの人が、テストでの問題を根拠に否定的評価を下した。それどころか、「第3回テストからの古参プレイヤー」を自称する人が、不釣り合いなほど大勢現れた。肯定・否定の双方の例に共通するのは、少なくともそうした批評が行われた文脈では、多くの人が実際には関連活動に参加していなくても、その行為は云行為と見なされない可能性がきわめて高いという点だ。私が2020年3月25日に『あつ森』の動画のコメント欄に「あつ森を買わない人は全員グループから出ていけ」と書き込んだり、2016年8月に贴吧で誰かに「雲母組の第3回テストの一件には、心底うんざりした」と語ったりしたとしよう。そんな行為は、あまりにありふれていて、何の変わり映えもしないため、共同体の基本的信念とはまったく衝突しない。したがって、私の行為は云行為ではないのである。

E2Cという推論様式に対する、これらの反例をどう理解すればよいのだろうか。私の考えでは、E2Cを全面的に捨てるつもりがないなら――何しろ、自分たちの常識を簡単に捨てるべきではない――、これらの反例が示しているのは、云行為という概念の内在的異質性である。この異質性は、「云○○」といった言葉を実際に適用する際に、私たちが暗黙のうちに、強さの異なる二つのバージョンのE2Cを認めていることから生じる。強いバージョンのE2Cは、「自らの体験」を批評の合理性の必要条件とする。すなわち、ある行為が批評として合理的でありうるのは、その主体があるアニメを本当に見たり、あるゲームを本当にプレイしたりした場合に限られる。言い換えれば、合理的な批評を行う資格を持つには、主体自身の体験が必要なのだ。先の反例で問題にしたのは、まさにこの強いバージョンのE2Cであり、この推論様式が原則として要求しているのも、この強いバージョンである。

実際の言葉の使用場面では、より弱いバージョンもよく見られる。弱いバージョンのE2Cは、「自らの体験」が伝達可能であることを認める。ある行為主体が、ほかの主体の体験を、さらには何度も人から人へ伝えられた体験を援用し、批評の合理性の必要条件を満たすものとするのである。この場合、ほかの主体が確かに関連活動に参加したと確信できれば、批評的行為をする主体は、合理的な批評を行う資格を自動的に得る。もちろん、この伝達には、さらにいくつもの制約があるはずだ。すぐに思いつくのは、体験を援用される側の主体が、特定の共同体で相当程度信頼できる存在である必要がある、ということだ。また、あらゆる批評内容が、体験の伝達によって合理性の必要条件を満たせるわけでもない。最も重要な制約は、条件(5)が示すとおりである。行為主体が実際に関連活動に参加していない場合、体験の伝達可能性によって支えられるのは、ありふれていて、何の変わり映えもしない批評内容だけなのだ。共同体の基本的信念を超える批評内容は、どれも、さらなる「追及」を招きうる。行為主体が、実際に関連活動に参加したことを確証できなければ、その行為は当然、云行為と見なされる。この「批評内容はありふれていて、目新しくないものであるべきだ」という制約は、弱いバージョンのE2Cが、最初に示した存在論的枠組みと衝突しない理由も説明している。弱いバージョンのE2Cが認める批評内容は、いずれも条件(5)を満たさない。したがって、条件(4)を満たしていても、その行為は云行為とは見なされないのである。

E2Cに強弱二つのバージョンがある以上、云行為の概念には、必然的に異質性が潜むことになる。ある行為を云行為だというとき、私たちは何を言っているのか。強いバージョンのE2Cに従えば、私たちが言おうとするのは、その主体は関連活動に実際には参加していないため、その行為には批評としての合理性がない、ということである。一方、弱いバージョンのE2Cに従えば、私たちが言おうとするのは、次のいずれかである。(i)その主体は信頼できる体験を援用していない。(ii)援用した体験では、その批評内容を支えられない。(iii)その行為が表す批評内容は共同体の基本的信念に反しており、しかも主体が関連活動に実際に参加したことを確証できない。根拠となるE2Cの強さに応じて、前者を強いバージョンの云行為、後者を弱いバージョンの云行為と呼ぼう。明らかに、強いバージョンの云行為と弱いバージョンの云行為は同値ではない。云行為という概念は、実際の適用において、しばしばこの異質性を示すのである。

最後に、考えられる反論を一つ検討しよう。それによれば、いわゆる弱いバージョンの云行為はでっち上げにすぎない。これは単に、見落としに乗じて成立した欺瞞である。あらゆる批評的行為について、その主体が関連活動に参加したかどうかを一律に問い詰めれば、残りうるのは強いバージョンの云行為だけだ、という反論である。ここで想定されているのは、原理上は可能だというだけの状況だ。たとえ私が3月25日に『あつ森』の動画のコメント欄に「あつ森を買わない人は全員グループから出ていけ」と一言書き込んだだけでも、職務熱心な監視役が現れて、私の人生のあらゆる行動履歴を詳しく調べ上げる。そして、私が実際には『あつ森』をプレイしていないという事実に基づき、「云プレイヤー」のラベルを貼るのである。

この反論は、云行為が社会種(social kind)であることの核心、すなわち、社会的に構築されているという性格を見落としている、と私は考える。理想的な状況では云行為には一つの形しかありえないというのは、理想的な状況では貨幣は一般的等価物としての機能を持たない、というようなものである。規模がきわめて小さく、情報が完全に開示され、商品の種類がきわめて少ない状況であれば、確かに、一般的等価物として貨幣を使う必要はない。云行為のような社会種とその実例は、もちろん「でっち上げ」られたものだ。その「でっち上げ」の源は、それらが置かれている社会的現実にある。そして、人々が参加の有無をしばしば確かめずに済ませること自体も、社会的現実の一部なのだ。社会種を探究する意味は、まさに、それがさまざまな現実の状況で示す特徴を考えることにある。そして云行為をめぐる現実では、さまざまな状況で、私たちが他人に弱いバージョンの云行為を帰属させることは決して珍しくないのである。

三、結語――云行為の可能性と限界へ

云行為の内在的異質性が示すのは、存在論上の自己矛盾ではない。それは、メタ批評的な見方に対する、認識論上の挑戦である。今日の中国語圏のネットコミュニティでは、「云視聴者」「云プレイヤー」という呼称は、ほとんど何も考えずに蔑称と受け取られ、それに対応する云行為もまた、何も考えずに取るに足りないものと見なされる。しかし、云行為の内在的異質性は、私たちが何を言おうとしているのか、もう少し明確にするよう求めている。「云視聴者」を単に「あのアニメを見てもいないのに、偉そうに語っている人」と捉えるなら、少なくとも事実として、ほとんどの人は人生のどこかで「云○○」だったことがあるだろう。あるいは、云行為を「あのアニメを見ずに述べた批評」と捉えるなら、少なくとも事実として、私たちは自分で思っているほど云行為を排斥してはいない。受け入れているだけでなく、さらなる推論の根拠にさえしている。

肝心なのは、習慣的に云行為を非難するとき、二つのバージョンの違いを意識することである。弱いバージョンの云行為は、確かに全面的に否定すべきなのかもしれない。しかし、強いバージョンの云行為を一律に非難することは、それが批評として持つ可能性を無視することになる。ここ数十年で人類が蓄積してきたACG作品は、数えきれないほど膨大である。ほとんどの人が実際に体験できるのは、そのほんの一部、氷山の一角にすぎない。それでも私たちは、場合によっては実際の体験を超えて批評を述べられる。たとえ私が『マブラヴ オルタネイティヴ』と『ネコぱら vol.1』を実際にはプレイしていなくても、bangumiの評点を通じて、ギャルゲーとしては前者のほうが後者より優れていると、かなり合理的に考えることができる。もちろん、この可能性に際限がないわけではない。体験の伝達可能性を論じた際、私は制約条件をいくつか大まかに示したが、まだ分析は加えていない。それだけでは、云行為が批評として持つ限界を本当に示したことにはならない。云行為の可能性と限界を論じるには、もっと多くの理論的資源を導入する必要がある。面識による知識、集団の行為者性、知識に関する外在主義などをめぐる、既存のさまざまな「厄介な」哲学論争も、そのなかに含まれる。そうした議論を通じて、この問題をできるかぎり明確に捉え、批評そのものの改善につなげていけるだろう。

補足説明

  1. 概念についての整理。本稿が主に扱う概念は、云行為である。厳密な意味での「云行為」は、一つの行為の種類を指す。したがって、誰かのある行為が云行為である、あるいは、その行為が云行為という種類に属する、としかいえない。しかし本文では、「行為主体に云行為を帰属させる」といった表現を使っている。実際には、「云行為性という属性を、行為主体の行為に帰属させる」というほうが正確である。文章を簡潔にするために特に強調しなかったが、より厳密な分析では、云行為と、云行為性/云行為-nessを区別する必要がある。

    「云○○」は、「云プレイヤー」「云視聴者」などの具体的な用法の総称である。ただし、論証上の必要から、本文での「云○○」の用法には、次の定義が反映されている。任意の行為主体 SS が云○○であるための必要十分条件は、SS が行為 xx を行い、かつ xx が云行為であることだ。あるいは、任意の行為主体 SS が云○○であるための必要十分条件は、SS が行為 xx を行い、かつ xx が云行為性を持つことだ。この二つの定義は、本稿では同値である。しかし、どんな場合にも相互に置き換えられるわけではない。主な理由は、前者では社会的に構築されるという側面がより大きく関わっているように見えるのに対し、後者は、云行為性という属性が「xx は云行為である」という事実の形而上学的な根拠をなすことを、より強調しているからである。

  2. 最近では、「云○○」は、たわいない自嘲の手段にもなっている。たとえば、あるゲームを「云クリア」したと率直に認める人は多い。12このような自嘲的用法は、通常、批評的な意見を何も含んでおらず、本稿で論じる云行為とは関係がない。したがって、現実の言葉の使用習慣を尊重するため、該当する段落では、云行為の「典型的な帰属」を太字で強調した。本稿の議論では、このような非典型的で自嘲的な用法を考慮に入れない、という意味である。

  3. 任意の批評的行為 xx が与えられれば、その潜在的な関連活動 a1,a2,a3,…,ana_1, a_2, a_3, \dots, a_n が存在する。これらの潜在的な関連活動は、次の条件を満たす。任意の活動 axa_x について、axa_x が関連活動となるような可能な文脈が存在するなら、axa_x は潜在的な関連活動である。

    ここで、すべての潜在的な関連活動を要素とする集合を SS とすると、S={a1,a2,a3,…,an}S = \{a_1, a_2, a_3, \dots, a_n\} となる。また、A1A_1 を文脈 C1C_1 における xx の関連活動の集合、A2A_2 を文脈 C2C_2 における xx の関連活動の集合とする。A1A_1 と A2A_2 に文脈に応じた差異があるなら、A1⊊SA_1 \subsetneq S かつ A2⊊SA_2 \subsetneq S である一方、A1≠A2A_1 \neq A_2 である。

本文終わり
注12

注釈

  1. 訳注:「云(ユン)」は、自分では直接体験していないことを示す中国語の接頭語。日本語の「エアプ」に近いが、ゲームに限らず、視聴者、読者、ファンなどを指す語にも付く。中国語では「云观众」「云玩家」などという。 ↑

  2. 訳注:英語題は How to Talk About Books You Haven’t Read。日本語版は大浦康介訳。筑摩書房の書誌情報。 ↑

  3. 云行為と「云○○」の概念については、簡単な整理が必要である。補足説明1を参照。 ↑

  4. 最近の用法を踏まえると、云行為に公共的文脈が必要なのか、言い換えれば、「云視聴者」「云プレイヤー」といった記述は必ず他人から与えられなければならないのか、という点には議論の余地がある。補足説明2を参照。 ↑

  5. ここでは、もう一つの興味深い極端な場合を省略した。云行為を帰属させられる主体と、帰属させる側の主体との間に衝突が生じる場合である。補足説明3を参照。 ↑

  6. 訳注:「アニメ・バラモン」は、アニメ通を自任し、作品やほかのファンを格付けする古参層を皮肉る、中国語圏の俗称。 ↑

  7. 訳注:潮留美海は『凪のあすから』の登場人物。ここでは、作品を取り違えた発言の例として挙げられている。インフィニット『凪のあすから』作品紹介・キャスト欄。 ↑

  8. 文脈ごとの関連の違いについては、より正確な説明を与えられる。補足説明3を参照。 ↑

  9. 訳注:「冻鳗低手」はハンドルネーム風の表現。「冻鳗」はアニメ・マンガを指す「动漫」と発音が近い。「低手」は名人・達人を意味する「高手」をもじり、へたっぴを自称したものと読める。 ↑

  10. 訳注:毛沢東に由来する標語。「反对本本主义」の第一節見出しに「没有调查,没有发言权」(調査なくして発言権なし)とある。「反对本本主义」本文。 ↑

  11. 訳注:陸游『剣南詩稿』巻42、「冬夜読書示子聿」の一首から。原句は「紙上得來終覺淺,絶知此事要躬行」。『剣南詩稿』巻42。 ↑

  12. 訳注:「云クリア」は、自分ではプレイせず、たとえば動画でクリアまで見たことをいう。 ↑

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