1. はじめに
ファイヤアーベントについての紹介文を初めて読んだとき、私にはこんな考えが浮かんだ。おそらく、同じことを考えた人は少なくないだろう。もし人類が文明の始まりからずっと、火の玉をこしらえるような魔法をひたすら追い求めていたら、私たちはいま、本物の魔法の世界に暮らしていたのだろうか。科学の歩みを今日の成功へと至る道筋として見るウィッグ史観に偏りすぎなければ、いま考えても、これはやはり面白い問いだ。トマス・クーンの仕事以来、私たちは科学史上の重要な成果の背後に、今日の目にはそれほど「科学的」とは映らない理論的文脈が数多くあったことを知るようになった。ガリレオの力学原理には、中世のインペトゥス理論に比べて明らかな説明上の優位があったわけではない。コペルニクスの宇宙モデルそのものに、より多くの経験的証拠があったわけでもない。現代の科学研究室でさえ、その研究は科学の理想に背くさまざまな妥協に満ちている。

この意味では、歴史主義的な視点は、多かれ少なかれ反実在論ないし非実在論の科学観を擁護する。科学は真理ではないのかもしれない。科学は真理に近づいているわけでもないのかもしれない。それどころか、科学は自然界を理解する唯一の方法ですらないのかもしれない。とりわけ最後の疑念は、魔法の世界の存在を信じる理由を私たちに与えてくれる。

とはいえ現実の世界では、科学の成功はもう「後戻りできない」ところまで積み重なってしまった。私たちの大半は、冷房やWi-Fiや数々のありがたいものを手放してまで、魔法の世界が可能かどうかを探りにいく気にはなれない。だが、少なくともアニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベルの中なら、それほど苦労せずに魔法の世界を思い描くことができる。一方、近年の作品では「科学と魔法の大戦」もすっかりおなじみになった。こうした作品は、両者を対照させることで、科学と魔法のあいだにあるかもしれない鮮明な違いに、つねに目を向けさせる。そこで、面白い問いが生まれる。アニメやマンガ、ゲームなどの作品において、私たちは科学と魔法の違いをどう理解しているのだろうか。
この問いを考えることが、本稿の論理的な出発点となる。同時に、これはかなり複雑な問いでもある。まず厄介なのは、そもそも何を対象に論じるべきなのか、という点だ。作品の中で科学と魔法には何らかの違いがあると言うとき、私たちは実際には、何と何のあいだに違いがあると言っているのだろう。『王立宇宙軍』で打ち上げられるロケットと、『ロードス島戦記』の精霊魔法を指して、両者には「科学と魔法の違い」があると言うとき、私たちはいったい何を指しているのだろうか。

もちろん、自然界にある何らかの事物そのものを指しているはずはない。作品の中にあるのは、作り上げられた架空の世界だけだ。しかも、自然界の事物は、それ自体では科学や魔法という理解をもたらさない。たとえば石は、ただ石でしかない。その石を「科学的」と形容するか「魔法的」と形容するかは、石そのものとは関係がない。同じ理由から、自然界の事物に関わる対象も、ここで論じる対象からはすべて除くべきだ。現実において、理論としての科学は言明の集合として捉えることもできるが、これも適切な選択肢ではない。言明の集合という対象は、作品を扱うには抽象的すぎる。ほとんどの作品は言明を直接提示するわけではなく、私たちもふつう、何らかの言明を抽象化して取り出すことで作品を理解しているわけではないからだ。
実際に私たちが指している対象は、自然界の事物がもつ具体性と言明の集合の抽象性とのあいだにあるはずだ。さらに、その対象には、私たちが理解できる何らかの意味が備わっていなければならない。この基準に照らせば、最もふさわしい対象は「イメージ」かもしれない。イメージには、ごく広い範囲のものが含まれる。静止した一つの物の姿から、次々に移り変わる情景まで。視覚的な光と影の変化から、耳で聴く旋律まで。さらには、異世界の経済体系のように、作品の中でもかなり抽象的なものまで含みうる。ただ、いずれにせよ、ここでいうイメージとは、作品の中で意味を形にしたものだ。私たちはその形を通して意味を理解できる。ここで論じている「科学と魔法の違い」について言えば、「科学的」「魔法的」といった形容を与えられるのは、作品中のイメージだけなのである。

二つ目に厄介なのは、この問題をどのような視点から検討すべきかということだ。理論的な視点の選び方に、これが最善だと言えるものはほぼない。たとえば、実証的な社会学の視点は、豊かな成果をもたらすだろう。社会学的な調査を行えば、さまざまな作品の受け手が科学と魔法の区別をどう理解しているかを、きわめて詳しく知ることができる。ただし、この視点には弱点もある。「科学的」「魔法的」という形容を理解するとは、そもそも何を意味するのか。それを明らかにしないままでは、わかるのはせいぜい、どの作品やイメージを誰が「科学的」「魔法的」だと考えているか、ということにとどまる。その調査結果自体を理解するのは、ひどく難しい。

本稿では、形而上学と歴史主義を組み合わせた視点を選びたい。一方では、科学と魔法の違いを理解するために、それぞれがそれであるのはなぜかを考える。より具体的に言えば、科学のイメージと魔法のイメージが、私たちにとってそれぞれどのような事実、特徴、属性などに基づいているのかを理解するのである。他方、対象をイメージとした以上、この形而上学的な考察の結果を、もっぱら概念分析によって導くことはできない。現実の歴史におけるさまざまな状況を、できるかぎり分析に織り込まなければならない。ただし、アニメなどの作品は、歴史と現実に厳密に基づいて作られるわけではない。イメージを通じて、科学と魔法の世界観がどう分かれうるかを示すにとどまる。したがって、ここで扱えるのも、おそらく現代の人々が科学と魔法について抱いてきた記憶の歴史までだろう。だからこそ、広い意味での歴史主義が、さまざまなイメージを考察する有効な視点となる。
具体的には、まず次の二つの問いをそれぞれ考えたい。科学のイメージはなぜ科学的なのか。魔法のイメージはなぜ魔法的なのか。どちらも形而上学に関わる問いだ。そこで、それぞれのイメージについて何らかの属性を見いだす、という方針を採る。その属性を備えることで、科学のイメージは科学的になり、魔法のイメージは魔法的になる。こうした属性の違いによって、私たちはあるイメージを科学的、あるいは魔法的なものとして理解できる。二つの問いへの答えを得たあと、最後に「科学と魔法の大戦」にも踏み込みたい。それぞれのイメージを成り立たせるこの二つの属性こそが、科学のイメージと魔法のイメージを次第に交わらせ、その境界を曖昧にしていく大きな原因なのである。
ここで、全体を見通す結論を先に述べておこう。アニメなどの作品における科学と魔法の分かれ目は、多かれ少なかれ、現実の科学史が人々の記憶に投影されたものに基づいて生じる。これは直感的にも得られる結論かもしれない。だが、ここまで詳しく扱ってこなかった現象、すなわち近年のいくつかの作品で科学と魔法の境界が曖昧になっていることも、よく説明してくれる結論なのだ。