屋頂現視研

メタ・アニメ批評I.i

← 中国語原文11 分で読了編集プレビュー

I.i(番外):『ゾンビランドサガ』とVTuberを例に、崇高の退潮と私的体験を考える

アニメ批評の言葉そのものをめぐるAustoriaの連続論考。意味の伝達、隠喩、自然主義から、崇高、私的体験、そしてアニメの「深さ」が持つさまざまな顔へ。

著者: Austoria翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

I.i(番外):『ゾンビランドサガ』とVTuberを例に、崇高の退潮と私的体験を考える

この番外篇の原文は約10300字。

0. はじめに

先の10月期アニメで、『ゾンビランドサガ』が思いがけない大当たりだったことは、疑いようがない。第6話には、象徴的な一連のショットがある。昭和のアイドルである純子と、平成のアイドルである水野愛が、アイドルの理念をめぐって衝突する。その後、純子が砂浜に書いた「アイドル」の文字は、たちまち波に洗い流されてしまう。第6、7話を見ると、この画面が何を意味するかは明らかだ。能力を磨き上げ、観客との距離を保とうとする昭和のアイドルのあり方は、時代の移り変わりとともに「退潮」してしまったのである。

『ゾンビランドサガ』で砂浜に書かれた「アイドル」。上部の「偶像」は中国語字幕

アイドル戦国時代は、いまや当たり前の時代背景になっている。日常へと近づくアイドルも、すっかり見慣れた存在だ。いま、より新しく面白い話題は、VTuberの戦国時代だろう。VTuberという形の芸能活動には、明らかにアイドルとしての一面がある。「親分」や「四天王」級の有名なVTuberなら、バーチャル時代のアイドルとして、すでに頭角を現している。だが他方で、VTuberと従来のアイドルの差は、平成のアイドルと昭和のアイドルの差をはるかに超える。「インターネットでは、あなたが犬だということは誰にも分からない」という言葉は、ネットが勢いを増しつつあった時期によく使われた。同じように、VTuberの特徴は「VTuberなら、38歳のおっさんなのか、19歳の萌え声美少女なのか、誰にも分からない」と言える。そもそも、かわいい声さえ必須ではない。Overideaの学園長、京華(中国語表記は張京華)は、DD、つまり「誰でも大好き」で有名だが、数百、数千ものシェラ(謝拉)の単推しファンを、わずか数か月で学園長の単推しへと変える方法を見せてくれた。まあ、どうにもならなければ、ボイスチェンジャーだってある。

Overidea Chinaのバナー

アイドルを広く捉えて、自らのパフォーマンスで娯楽と、ある種の心の支えを与え、その娯楽が特定の個人と切り離せない形で結びついた芸能人だとしよう。昭和のアイドルからVTuberへの変化を見ると、アイドルになるための敷居が大幅に下がったことが際立つ。この時代の変化をどう理解すればよいのだろうか。考えるべきことは二つある。一つは、アイドル自身、あるいはアイドルにお金を払う消費者が、何を求めるようになったのかを説明することだ。求めるものが変わったことは、間違いない。もう一つは、その変化を評価することだ。変化を理解しようとすれば、しばしば比較や評価も伴う。昭和のアイドルからVTuberへと、さまざまな欲求や体験が変わっていくことを、私たちはどう評価すればよいのだろうか。

『ゾンビランドサガ』の人物たちの場面

画像内の中国語字幕:あんたの列がいちばん長いんだよ? 分かってるの?

文化的な内容を持つ娯楽は、美学的な考察と切り離せない。まず、何を求めるようになったのかという問いについては、アイドルと観客の欲求を、美的価値への欲求として捉える。そして、「崇高」という美的価値が現代で置かれた状況から、時代の変化を見ていく。その変化をどう評価するかという問いには、セラーズの「所与」(the Given)を手がかりに取り組み、崇高を追求するべきだという常識を説明してみたい。時代が変わるにつれ、崇高という価値はいまや退潮し、私的体験――各人に固有の体験――だけが評価の根拠になったように見える。しかし、それだけでは議論に外的な信頼性、つまり外部の根拠による裏づけは得られない。「メタ・アニメ批評I:批評の言葉を問い直す」で示唆したように、批評は体験を擁護するものであるべきだ。体験から切り離された信頼性を求めても、むなしい願いに終わる。それでも美の所与は、「誰々のほうがよいアイドルだ」「この作品のほうがよいアニメだ」といった議論の根拠となり、実践の目的ともなりうる。

1. 崇高と崇高な人

さまざまな文章で、ポストモダンの重要な特徴の一つとして「大きな物語」の解体が挙げられる。これを芸術作品に対する美的な好みの問題として捉えれば、美的価値としての崇高は、現代では退潮したと言えるかもしれない。「崇高」や「崇高の感情」にはさまざまな定義や解釈があるが、典型的な美的イメージには共通するものがある。海の大波、そびえる山々、山頂に広がる雲海。あるいは、古代ローマのパンテオン、ロドス島の巨像、北京の故宮といった名高い建造物だ。優美と崇高という二つの美的価値は、しばしば対比して論じられる。普通、晴れて穏やかな日の湖畔の風景は優美、大河の絶え間ない奔流は崇高、と形容する。この簡単な対比からも、崇高の特徴はいくつか見えてくる。空間の尺度の大きさ、時間の尺度の広がり、動きや変化の激しさ、といったものだ。

ローマのパンテオンのドーム

崇高な対象に接すると、人はつねに、自分を超えるものからの衝撃を受ける。カントの『判断力批判』では、その衝撃は、美的主体である人間が対象を感性と知性で捉えられないことから生じる。崇高な事物は、人間の認識の限界を超え、あらゆる法則や常識を超える。だから実質的には、美的主体そのものを否定するのである。崇高がもたらす美的な快は、この否定が生む対立と衝突から生じる。小さな人間が安全な場所に立ち、遠くから迫る途方もない大波を眺める。まず体験されるのは、捉えきれない大波への恐怖だ。だがその恐怖を乗り越えると、小さな人間は心のなかで大波に立ち向かい、さらにはそれに打ち勝つ。崇高の美的体験は、動的な過程なのである。対象を目にした瞬間に、美の喜びを体験するわけではない。対象との相互作用に身を投じて初めて、崇高の感情が生まれる。

カント『判断力批判』中国語注釈版の書影

芸術作品で崇高は、人物の崇高として現れることが多い。この意味では、崇高な人とは、生活世界にいる普通の人を超える人なのだ、と私は言いたい。その人がなぜそうするのかは、普通の人にも理解できる。だが、同じことを実行するのは容易ではない。プロメテウスが崇高なのは、人類に火と知恵をもたらそうとする意図は理解できても、終わりのない苦痛を前にすれば、普通の人は同じ選択をしないからだ。『ゴッド・オブ・ウォー』シリーズの主人公クレイトスは、崇高ではない。オリュンポスの神々への復讐を渇望することは理解できるし、普通の人でも彼の神の力を得たなら、復讐の旅に出るのは不可能な選択ではない。重い精神疾患のある一部の人も、同じく崇高とは呼べない。数十メートルの高さから飛び降りることはできるかもしれないが、なぜそのような行動を取るのかを、私たちは理解できないからだ。

『銀河英雄伝説』のビジュアル

現代の芸術作品や娯楽メディアでも、崇高はつねに存在する。たとえば『銀河英雄伝説』では、全銀河で最も崇高な二つの魂の衝突とともに、歴史が展開する。ゴールデンバウム王朝への反逆を志し、旧帝国の積弊を一掃する。ローエングラム王朝を築き、ベールゼーデ宮で病に倒れる。そのあいだにラインハルトは、普通の人には到底及ばない意志によって、数百年ぶりの偉業を成し遂げた。ヤン・ウェンリーの崇高は、「魔術師ヤン」の不敗神話にはない。民主主義の信条が新生銀河帝国の輝きの前で色あせると知りながらも、イゼルローン要塞にとどまり、人類にもう一つの選択肢を残そうと意志を貫いたことにある。GAINAXやTRIGGERの、際立って特徴的な作風もそうだ。少なくとも2018年より前には、「始まりは自転車、終わりはスター・デストロイヤー」という気迫が、アニメファンに称賛されていた。天を突き抜けるドリルにせよ、一万二千年にわたる戦いにせよ、現代の神話のようなこれらの物語には、普通の人を超える崇高が表れている。

2. アイドルとVTuber――崇高の現代的な状況

人類は古くから、崇高という性質を愛してきた。崇高な人の身体をかたどって神殿の像を造り、その人を記憶し、想像することで、後世へ語り継ぐ文章を生み、その生涯をもとに悲喜劇を演じてきた。前近代の意味では、人々が彫像として崇拝する「偶像」は、しばしば崇高な人と同じものだった。だが現代の、文化的な内容を持つ娯楽のなかでは、アイドルという語を崇高へ直接結びつけるのは難しい。私たちが思い浮かべるアイドルは、だいたいこんな人たちだ。人々に娯楽や喜びを与えることを職業とし、主に歌や踊りを披露し、多くはその歌や踊りを収めた音源や映像を売っている。容姿はたいてい美男美女で、そうでなくても、人に嫌悪感を与えない個性がある。公の場では比較的定まった人物像を持つが、それは多かれ少なかれ事務所が作ったものだ。演じる内容は、アイドルである個人と強く結びついている。人々がお金を払うのは、内容そのものより、その個人がそれを演じる行為に対してである。熱心なファンの集団を持つことが多く、その集団のなかには独自の決まりや規範がある、などなど。

現代社会で、娯楽の提供者を崇高と呼ぶことは、普通はない。その娯楽に、かけがえのない芸術的な影響力があると考える場合は別だ。歌手としてのアイドルを例にしよう。エルヴィス・プレスリーは私生活の品行を褒められた人ではなくても、作品の先駆性と影響力には疑いがない。そのため現代社会は、いまも彼にさまざまな栄誉を与えている。そうした栄誉は、ある程度、アイドルの崇高な性質を象徴する。エルヴィス・プレスリーの崇高は、音楽作品に表れる。普通の人である私たちは、数十年にわたり作品を楽しめるが、その数十年のあいだに、彼に匹敵する音楽的才能を持つ人は、ほとんど現れなかった。この意味で、娯楽の提供者であるアイドルにも崇高な性質はある。彼らが立ち向かうのは、形のある実体ではなく、ある分野における人間の才能の限界だ。すべてのアイドルが、その限界に触れられるわけではない。それでもアイドルという職業は、少なくともある程度は、その限界を目指して努力するものである。1したがって、アイドルの崇高には異なる二つの水準があり、両方が同時に存在するとは限らない。一つは、提供されるパフォーマンスの内容に宿る崇高で、これは従来の芸術作品における崇高に似ている。もう一つは、アイドルの行動に表れる崇高、つまりさまざまな面で普通の人を超えることと、その超越を追求することである。

もちろん、こうしたアイドルの崇高な性質は、ある程度、私たちのいまの時代には属さなくなっている。だからこそ、『ゾンビランドサガ』第6話の、昭和と平成のアイドルの理念の衝突は、崇高の現代的な状況をそれとなく論じている。2昭和のアイドルである純子は、序盤で、それで客を満足させられるのか、と繰り返し問う。この言葉は、二つの時代の根本的な違いを示す。純子にとってアイドルは、精進を重ね、少なくとも自分の能力の限りでは、完璧なパフォーマンスを観客に届けるべき存在だ。一方、アイドル戦国時代に育った水野愛にとって、舞台の一分のために舞台裏で十年修練する、という理想は、ほとんど時代遅れだ。機会を逃すアイドルグループに、成功の可能性はない。現実的な意味では、水野愛が正しい。2010年代の観客は、完璧でないパフォーマンスを見ても気にしない。むしろ、そのほうを見たがっているとさえ言える。不完全さは、アイドルと観客に根本的な違いがないことを示すように見える。どちらも平凡で、とくに並外れたところはないのだ。ならば、「舞台の真ん中に立つアイドル」という人生の晴れ舞台も、誰もが目指してよい。同時に、不完全だからこそ、アイドルには成長の余地がある。観客は、自分をサービスにお金を払う消費者としてだけでなく、その芸能人生をともに歩む者として感じられるのである。

『ゾンビランドサガ』の純子
純子の言い分だと、アイドルは、やっぱり実力十分の天才であるべき、ということらしい。

画像内の中国語字幕:自分の実力が足りなくても、かまわないということですか?

実際、この二つの時代の理念の衝突は、より深い問いへの答えが違うことから生じている。アイドルは崇高を追求するべきなのか。純子の考えには、肯定の答えが含まれている。客である観客がお金を払ってパフォーマンスを買った以上、アイドルは、自分にできる限りで最善のものを見せなくてはならない。したがって職業としてのアイドルは、普通の人との違いを示す必要がある。提供するパフォーマンスが、普通の人にもできるものばかりなら、なぜ観客はお金を払わなければならないのか。純子がつねに観客との距離を保つのも、一つにはこのためかもしれない。アイドルとしての純子自身を、崇高だとはおそらく言えない。だが、その理念には崇高を追求する姿勢が含まれており、追求そのものがアイドルの生命であるとさえ言える。平成の水野愛も、純子の理念をまったく否定するとは限らない。それでも、崇高を求めることは明らかに時代に合わない――善悪を言っているのではない――し、現代のアイドルに不可欠でもない。愛にとって、平成のアイドルは、昔のようにパフォーマンスの完璧さを求めなくても、舞台で一生懸命に演じ、観客へ情熱や夢を届けられる。その点では昭和のアイドルと何も違わないのだ。

昭和と平成のアイドルの違いが、前者は自ら崇高を追い求め、後者はその美的価値にあまり関心を払わないことにあるとすれば、この二、三年に現れたVTuberは、文化的な内容を持つ娯楽に、普通の人がさらに深く入り込めるようにした。平成のアイドルが、どれだけ自分も普通の人だと謳っても、少なくとも容姿は、それほど普通ではないことが多い。だが物理的な身体のないVTuberは、まったく違う(二次元キャラなのだ)。中国では「美しい外見」より「面白い魂」のほうが大切だとよく言う。十分に面白い内容があれば、熱烈なファンを得られるのは確かかもしれない。それでも、最初にアイドルへ注目するかどうかには、容姿のよさがしばしば影響する。人は、自分がどれほど見た目を重視しているかを、過小評価しがちなのだ。

シェラの動画のサムネイル
Bilibiliの動画 av38967964 より。シェラは本当にかわいいし、しかも才能がある。

VTuberという形は、原理的には容姿による参入の壁をすべて取り払う。その仮想の姿は、まるごと人の手で作られるからだ。しかも、いまでは成熟した技術的な手段が数多くあり、大半の人にとってVTuberになることは、それほど難しくない。ある意味では、VTuberブームのわずか二年間にも、崇高の追求がさらに枝分かれする様子が表れている。神楽めあは、VTuber界の頂点にいるのは頭のよい人ばかりだ、という趣旨のことを語っている。「美しい外見」が全員にそろっているなら、より面白い配信や動画をどう届けるかという競争は、いっそう激しくなる。内容の改善に力を注ぐのは、実は昭和のアイドルのような努力だ。違うのは、頂点にいるVTuberの多くが届ける面白い内容は、個人が普通の人を超えようとする成果ではなく、チームの協働の成果だということである。企業が運営するVTuberでも、「中の人」はもちろん、欠かせない魂を与えている。だが、普通の人を超える「面白さ」という崇高の価値を追求することは、チーム全体の共同作業になる。この意味で、成功したVTuberの多くは、チームの協働を擬人化した存在だ。ここではマーガレット・ギルバートの議論が役立つかもしれない。VTuberは本質的に「複数主体」(plural subject)であり、個人を超えたこの行為主体が、「面白さ」の水準で崇高を追求しているのである。

もちろん、中国のACGコミュニティで神楽めあ(以下mea)のような「清楚系」VTuberが人気を得たことは、崇高の追求に対するもう一つの応答を意味する。meaのファンである「天狗」なら、誰でも彼女の「悪行」を、まるで自慢話のようにすらすら挙げられる。初配信でキャラ設定を放り出し、「手コキ芸」は伝説にまでなった。下半身ネタの下品な言葉を頻繁に口にし、配信では年中叫んで観客を罵倒し、臆面もなく金をせびる……。もちろん、どの「天狗」も、本当に清楚だった瞬間をいくつも挙げられる。「病名は愛だった」以外の歌の時間。『タイタニック』を一緒に見ながら漏らしたすすり泣き。お金と特別扱いの関係について語ったこと。雑談で語る日々の悩みについての考え、などなど。

神楽めあの動画のサムネイル
Bilibiliの動画 av38378723。

サムネイルの中国語:『タイタニック』を見てよ。お願い。人生観が変わるから。

いまのVTuberには十分に多様な展開が見られるが、それでもmeaのパフォーマンスのあり方は、ほかと比べてきわめて特殊だ。この「クズメイド」が、そもそも何かを演じようとしているのかさえ、よく分からない。金を受け取ったときのぶりっ子は別として。人気VTuberの多くは、配信や動画の内容を舞台のパフォーマンスほど型にはめる必要はない。それでも、一定の枠組みのなかでは演じている。分かりやすい例はいくらでもある。配信用にある程度声を作ったり、一定の範囲で内容を企画・準備したりするVTuberは多い。それと比べると、meaの配信はほとんど、気の向くままと、その場の思いつきでできているように見える。頂点にいるVTuberたちは、面白い内容を提供しようとする以上、必然的に「面白さ」の面で普通の人を超える崇高を追うことになる。だがmeaや、おそらく同じような少数派のVTuberは、「面白さ」の崇高まで放棄している。彼らは本当に普通の人で、パフォーマンスを面白くするための、人並み外れた何かを持っているわけではない。少なくとも、そう見える。普通の人が従来のアイドルになるには、人並み外れた容姿という壁があった。VTuberがそれを取り除いたのだとすれば、meaのようなVTuberは、面白いものを届けようと工夫を重ねる「面白い魂」さえ必要ではないことを象徴しているようだ。神楽めあのアンチスレの存在も、なかなか増えないYouTubeの登録者数も、このことを傍証しているように見える。少なくとも、通りすがりの視聴者の多くには、彼女のパフォーマンスはさほど面白くなく、嫌悪感さえ与える。mea自身が、自分の人気は運がよかっただけだと考えているように、「天狗」たちは、もともとある面で趣味の合う人々であり、運命の巡り合わせで、自分たちにいちばん合うVTuberであるmeaに出会っただけなのかもしれない。

ここまで私は、「普通の人を超えようとすること」を軸に、昭和と平成のアイドル、従来のアイドルとVTuber、ほかの人気VTuberと神楽めあを比べ、厳密とは言いがたいながら、崇高という美的価値の現代的な状況を論じてきた。総じて言えば、VTuberをバーチャルな世界でのアイドルの延長と捉えるなら、崇高という美的価値は、現代のアイドルの変遷のなかで、その地位を失い続けている。分かりやすくするため、下の図では、プラトンの「線分の比喩」にならって、崇高の価値の位置づけを軸に、昭和のアイドル、平成のアイドル、人気VTuber、神楽めあなどの少数派VTuberの関係を示した。右へ行くほど、崇高の美的価値は重視されなくなる。また、従来のアイドルとVTuberという二つの区分それぞれのなかで、右側に置いた者は、左側の者が追求する崇高のうち、ある水準のものを放棄している。

崇高の価値の位置づけを示す図

昭和のアイドル平成のアイドル人気VTuber神楽めあ、および同様の少数派VTuber
従来のアイドルVTuber

もちろん、こんなもっともな疑問は予想できる。meaが中国のACGコミュニティで急速に人気を得たのなら、その成功自体が、彼女に並外れたところがある証拠ではないか。それは、ある文脈では崇高と呼べるのではないか。この、原因を求める疑問は、「物事には必ず原因がある」という常識から生まれる。ここではその常識的な信念自体を論じるつもりはない。むしろ次の問いを引き出したい。meaの中国での成功が、彼女に並外れたところがあることを本当に示すとして、それは誰にとっての「並外れたところ」なのだろうか。

美的体験の視点からの「並外れたところ」は、「ダイヤモンドは黒鉛より硬い」といった事実とは違う。前者は必然的に、美的主体による評価を伴う。meaの「並外れたところ」が、ファンにとってのものだというのは明らかだ。こうした答えには長く、ある哲学的な不安が付きまとってきた。美的な尺度での「よりよい」は、外的な信頼性を持ちうるのか?この不安はまた、私たちを実践に関わる問いへ導く。文化的な内容を持つ娯楽について、崇高を追求すること、あるいは放棄することを、共通の枠組みでどう評価すればよいのか?

3. 美の所与と外的な信頼性

もっと身近な例へ戻ろう。たとえば、この二年ほどの中国の映画・テレビ市場は成熟へ向かい始めた、という見方がある。観客の趣味が向上し、話題性を稼ぐ若手イケメンが、商業的成功を保証しなくなったからだ。観客は、演技に秀でたベテランを画面で見たがり、各方面で丁寧に作られた作品を好むようになった、とされる。中国語には「実力派」と「アイドル派」という区別さえある。人々は、アイドルと呼ばれる歌手や俳優には、並外れた歌唱力や演技力がないと考えがちだ。芸能活動に野心を持つ歌手や俳優自身も、かつてアイドルとしてデビューしていたとしても、そう見られるのをできるだけ避けようとする。少なくとも私たちの文化では、「実力派」のほうが肯定される。人々は、芸のさまざまな面で卓越を目指す人に、高い敬意を払う。その敬意には、ときに道徳的な価値も含まれる。たとえば「徳芸双馨」――人徳も芸も優れている――は、芸術家への最大級の賛辞の一つだ。だがそこでの道徳的な高潔さは、一般的な道徳的行為ではなく、芸に打ち込む姿勢や向上心、卓越を目指す努力だけを指すことが多い。芸能活動以外では控えめに振る舞う、ということもよく伴う。こうした例は、崇高という価値と、その追求を私たちが肯定していることを、はっきりと示す。これは多くの社会にあることだと思う。「職人気質」の称揚、代々受け継がれる手仕事の工房への人気、あるいは単に、何かを極めた人への賛辞にも、それは表れる。

人徳と芸の双方で称賛される年配の芸術家たち
人々が「徳芸双馨」と仰ぐ、年配の芸術家たち。

確かに、「ある人は崇高だ」は、構築される社会的事実である。だが少なくとも公の言説で、それが恣意的に構築されるわけではない。私たちはつねに、比較的主観的でなく、個人だけのものでもない事実を用いて、ある人と崇高との関係を築く。たとえば俳優Zが、生涯にわたって猿役を演じ、その演技が神業の域に達し、普通の人の想像をはるかに超えているとする。すると関係する共同体は、Zは演技の面で崇高だと認めるだろう。こうして「Zは崇高だ」という社会的事実が構築される。鍵となるのは、崇高についての言明が外部の事実を指すこと、すなわちZの演技についての事実――もっと具体的には、さまざまな場での実際の演技――を指すことだ。この構築の過程は、「美は実在するのか」というお決まりの議論とは関係がない。崇高について判断を下す際、外部からの根拠があるのかどうか、それだけの問題である。

だが、前節のmeaについての議論には、この文化的な合意とは別の面が表れている。「天狗」であれば、meaの崇高へとつながる並外れたところを、きわめて直観的に体験できる。ファンでない人には、それが感じられないかもしれない。よくある現象だが、それでも崇高を肯定することは共有されている。だから、前節末尾で挙げた疑問のように、「天狗」は因果関係を求める常識から、これほど多くの人を忠実な観客にするのは、mea自身に崇高へつながる並外れたところがあるからに違いない、と主張する。問題は、「Zは崇高だ」と同じように、外部の事実を根拠に「meaは崇高だ」という事実を構築できるか、ということだ。もっとはっきり言おう。meaには崇高へとつながる並外れたところがある、と言うとき、その言明には外的な信頼性があるのか?

セラーズ『経験論と心の哲学』中国語版の書影

ここで哲学者セラーズの議論を援用すると、問題を考える助けになる。セラーズは、伝統的な経験論には「所与の神話」という欠陥があるとした。伝統的な経験論では、少なくとも最も単純な経験的観察の一部は、それ自体で確かさが保証され、外界を信頼できる形で映し出すものであり、言語に先立つと考える。言葉を正しい規則で使えば、観察は知識としての言語的な命題へ正確に変換される。その命題は観察自体の信頼性を受け継ぐ。この意味で、経験的観察が知識を正当化するのである。だがセラーズは、こうした見方は神話だと指摘する。経験的観察そのものに、私たちの言語は染み込んでいる。「ここに赤い花がある」と観察を報告するとき、それは少なくとも、私たちの言語を通じて、世界から「赤い花」という対象がすでに区切り出されているからだ。また、言語と世界の関係は、単純な対応関係でもない。赤い花を指さして「これが赤だ」と言えば、それだけで赤を本当に理解してもらえるわけではない。実際の言語習得では、このことはとくに明らかだ。Bilibiliの弾幕コメントに独特の文化的な言い回しを見かけても、通りすがりの人には、すぐには意味が分からない。だが弾幕文化用語の試験勉強をしなくても、弾幕付きの動画を大量に見ていれば、その意味は分かるようになる。

私が関心を持つのは、「所与」(the Given)という概念そのものが、本稿の議論に役立つ道具になる点だ。3私の考えでは、所与は、言明を擁護するために使える経験、観察、根拠といったものとは異なる。本稿の問題でも、そこは同じだ。所与とは、心の外の世界から来て、言語表現そのものと因果的なつながりを持つものだ。だが、そのつながりを言語そのもので論じるのは難しい。先ほどの議論で、「天狗」がmeaに対して持つ美的体験も、少なくとも外的な信頼性という意味では、言い表しにくい。しかし、meaの持つ並外れたところと、確かに因果的な関係を持っている。この意味で、「誰々は崇高だ」という言明の外的な信頼性を論じることは、実際には、その言明を外部世界の関連する所与にどう結びつけ、それによって社会的事実としてどう構築するかを論じることにほかならない。この構築の過程で頼りにする所与を、とくに「美の所与」と呼ぶことにする。経験論や認識論の主題との違いを示すためだ。本稿で扱う問題では、「所与の神話」を部分的には受け入れてもよい。多少曖昧な経験でも命題に信頼性を与える、というのは常識的な信念だからである。

神楽めあの動画のサムネイル

サムネイルの中国語:私は別に、あんたたちを神様として扱ってないからね。

美の所与という概念から、「Zは崇高だ」という異論のない社会的事実と、原因を推測して得られた「meaは崇高だ」という言明の違いを、さらに考えられる。前者では、Zが具体的な場で見せた具体的な演技が、美の所与となる。それらは主観的な体験ではない。既存のある評価体系で、優秀で、非凡で、神業の域に達していると認められるため、Zは演技の面で本当に崇高なのである。一方、後者では、「天狗」は実際には、そのような美の所与を示すことを拒んでいる。meaのパフォーマンスの大半が、「天狗」の外の評価体系では面白いと認められないことを、私たちは知っているからだ。したがって、meaに並外れたところがあると考えるなら、私的体験へ戻るしかない。しかし私的体験それ自体は、外的な信頼性を与えてくれない。

4. 結論――先行する私的体験

本稿の分析が論証してきたのは、さまざまな批評の表現において、美の所与に訴えることを放棄すれば、議論の外的な信頼性も放棄することになる、という点だ。したがって、meaのようなVTuberに救いようもなく惹かれているとしても、私的体験だけを根拠に「meaは崇高だ」とは言えない。それどころか、体験だけから外的な信頼性のある言明を導くことは、どんなものであれ難しい。

同じ不安は、昭和のアイドルからVTuber戦国時代へ至る変化全体にも存在する。崇高という価値の追求を放棄した結果、「誰々は誰々よりよい」「誰々はとても面白い」「誰々はとても魅力的だ」といった批評の言葉は、多かれ少なかれ、私的体験を別の言葉で繰り返すだけになってしまう。ここから、一つの可能性が浮かび上がる。いまの時代、芸術作品は、何かの面で平凡を超えようとするよりも、運よく一部の人の私的体験に根ざした好みに合うことを目指すほうがよいのではないか。結局、批評の言葉はすべて、直接の私的体験だけに基づくのだから、卓越を追求しても、より肯定的な評価を必ず得られるわけではない。

それでも、崇高の追求は肯定に値するという文化的な合意が、現実には存在する。この矛盾をどう説明すればよいだろう。日常的によく見られる説明では、たとえば俳優には「実力派」と「アイドル派」という二つの種類があり、種類が違えば期待も違うのだ、とされる。実力派には、演技で普通の人を超えようとすること、芸能活動への情熱や専心が必要であり、崇高を追求するべきだ。しかしアイドル派には、必ずしもその必要はない。そのうえで人々は言う。実力派は尊敬に値し、芸能生活も長く、人々が長年、一貫してよい俳優を求めてきたことの表れでもある。一方、アイドル派は「若さで食べている」だけだ。公の場で脚光を浴びても、外見だけの量産型イケメンには、人々はすぐ飽きる。そのため芸能生活も、すぐ終わるのだ、と。

私はどのアイドルのファンでもないが、この説明にはまったく満足できない。そこには、美的な実在論が隠れているように思える。よい俳優が数十年にわたり活動し、そのあいだに社会のあらゆる面が変わっても、演技のよしあしを測る基準は変わらずにある。そして多くの普通の観客が、その基準を自明のものとして知っている。だから、よい俳優やよい演技を一貫して期待できる。対照的に、アイドル派の利点は容姿だけで、それに飽きると、演技は優れていないという事実に気づき、興味を失う。この説明は、社会的に構築されるのではなく、私たちの評価に先立って実在する価値体系があり、それだけが評価の準拠枠だ、と示唆するように見える。

演技が本当に美学の範疇に属する社会的対象なら、こうした実在論には賛成しにくい。同時代の社会文化の違いも、時代をまたぐ社会文化の変化も、文脈によって美の概念には多様で異なる内容があることを示している。では、演技を評価する体系だけは変わらないと、何を根拠に言えるのだろう。

崇高を追求するとはどういうことかを理解するには、私的体験へ戻らなくてはならない。時代や文化の文脈とともに変わるのは、私的体験だけだからだ。ただし、すでに述べたとおり、私的体験そのものは批評の外的な信頼性を与えてくれない。だから妥当な説明をするには、崇高を社会的に構築していくなかで、私的体験がどんな位置を占めるのかを考える必要がある。ここでは、次のことをはっきり区別しなくてはならない。私的体験は、それ自体で確かさが保証され、それ以上は言葉で説明できない。だが同時に、外部世界のどの事物を、外的な信頼性の根拠となる「美の所与」と見なすかを、因果的に左右している。「Zは崇高だ」という社会的事実を構築するには、外部からの保証として美の所与が必要だ。しかし、その事実が私的体験と無関係なわけではない。私たちは、美の所与を何らかの評価体系に当てはめて、外的に信頼できる事実を構築しているのではない。先に私的体験があり、そこから出発して対応する美の所与を集め、それらを一つの体系に組み込むことで、社会的事実を構築する過程を支えているのだ。この結論は、もっと一般的な批評の表現にも広げられる。つまり、私たちの批評の言葉は、実際にはどんな評価体系にも従っていない。ただ、自分の私的体験を擁護するために、あらゆる可能な根拠を探しているだけなのである。

私的体験を擁護するという観点に立てば、崇高の退潮と、崇高を追求するべきだという文化的合意との、見かけの食い違いは解消される。少なくとも芸術作品の領域では、どんな水準で普通の人を超えていると言うにも、私的体験による確認がよりどころになる。私的体験自体は、何かの面で普通の人を超えることの根拠にはならない。だがそれがあるからこそ、私たちは評価体系を援用し、改良し、ときには創り出す。そして評価体系もまた、より広い相互作用の網の目に加わる。昭和のアイドルからVTuberへ、崇高は退潮した。しかし崇高は決して退場しない。断片化した私的体験をもとに、崇高は新たに擁護されている。この意味で、誰もが崇高なのである。

編集者より:

私なりの理解として一言補えば、私的体験は、異なる時代や文化の文脈とともに変わる。私的体験は、不変の本質でも、それ以上分けられない原子でもない。私的体験を論じるのは、崇高を否定するためでもない。最後に、個人的に好きなバーチャルアイドルを一人おすすめしておく。

アカペラ版【恋愛サーキュレーション】

その他の関連記事:

視差からの眺め|二次元の存在論的美学試論――聖なるものの回帰

新番新語|『ゾンビランドサガ』から考えた雑感――アイドルは伝説になれるか?

本文終わり
注03

注釈

  1. この段落と以下で論じる「崇高」には、論理的にやや自己言及的なところがあり、通常の文脈で使う「崇高」とは違ってきているように思う。普通は、芸術作品に「崇高の美」が表れているとは言っても、卓越した芸術創作そのものが崇高だとは、あまり言わない。しかし私は、創作やパフォーマンスそのものに崇高という概念を使ってはいけない理由は、特にないと考える。 ↑

  2. 本稿で言う「昭和のアイドル」「平成のアイドル」は、あくまでアニメ『ゾンビランドサガ』に描かれたアイドル像を指す。現実のアイドルについての事実とは、必然的な関係を持たない。 ↑

  3. 私の「所与」という語の理解は、どうしても、本稿で論じたい問題に全面的に合わせたものになる。そのため、多くの誤読があるかもしれない。 ↑

特記のない限り、当サイトのコンテンツは CC BY-NC-SA 4.0 で提供します。ライセンスに沿った転載を歓迎します。もし皆さまのブルジョア法権を侵害していたら、ご一報ください。管理人に、ただちに記事を消してずらかる「遊士の倫理」を実践せよ、と釘を刺していただければ幸いです。

SEARCH / サイト内検索

屋頂現視研を検索

よく使われるタグ

08
#女性主义76#精神分析38#动画制作36#动画评论34#性别研究32#拉康26#世界系25#动画演出22

本文の検索結果

—

語句を入力すると、公開中の記事と連載章を検索します。