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(アニメ)評論はいかにして可能か――「よそ者」の視点を共有する

アニメ評論が直面する理論排斥と言説権力をめぐる論争を出発点に、ジンメルの「よそ者」の視点を導入し、アニメ評論の広がり、深さ、構造的思考を論じる。

著者: 钟子默翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

鐘子默の肖像
鐘子默

関心:ACG文化研究/ジェンダー/空間/思想史。共感過多の周縁の観察者。

編集部より: 鐘先生、好きだなあ。

(これは雑談チャット中の思いつきで、僭越ながら個人的な経験からアニメ評論について語るものです。考えや態度の共有です。)

発端

先ごろ、ある場所で知乎の有名アニメ評論家に対する異議申し立てが起こった。理論を引いた「難しそうに見せているだけ」のアニメ評を、「アニメ・バラモン」の猿に冠をかぶせたような見せかけだと、やたらにこき下ろしていたのである。根拠もなくでたらめを言う者や野次馬も少なくなかったが、もちろん評論界の大物のなかには、冷静に問題を論じる人々もいた。

しかし批判はさておき、私たちのあいだにはなお、お決まりの「共通認識」がある。私たちはいま、「アニメ評論はいったいどう行うべきか」について規範的な結論を持っていないし、これからも持つことはできない。アニメ評論が、書き手の主観が作品という客体に現れる過程であり、強い相対性を持つからでもある。また、二次元が比較的新しい文化現象として、誕生したそのときから「下剋上」という草の根的な発展のかたちを取り、権威を強く退けてきたからでもある。評論も、専門性という観点の排斥から理論そのものの排斥へと進み、ついには断片化した評論の風景を形づくった。直接的で感覚的な経験を文章の根拠にする評論家は、作品の背後にある文化的な基盤を掘り下げることに関心を持たなくなり、作品を鑑賞した経験を理論的に高めることさえ拒むようになった。そこで筆者は、今日のアニメ評論への嘲笑は主に二つの側面をめぐるものだと考える。第一は理論への不信、第二は言説権力の誤読である。

アニメキャラクターのイラスト

一、二種類の排斥と分析

筆者は、排斥現象の背後にある文化社会学的な問題を深く論じるつもりはない。ただ、この現象が生まれた条件のうち二つを指摘したい。第一に、二次元文化はその誕生当初、主流文化に対抗するサブカルチャーとして現れた。その発展を見ると、この周縁的な「サブカルチャー」は、激しい「カウンターカルチャー」へと高まる過程で文化産業に取り込まれ、今日の文化消費主義の源流の一つとなり、実践的な有効性を失った。第二に、消費社会は大きな物語の可能性を解体すると同時に、個人が大きな物語を欲することも解体した。暗黙の抑圧を受けるサブカルチャー集団では、日常の経験がイデオロギーに取って代わり、集団の私生活の中心を占める。その結果、オタクは個人化された欲望の享楽によって消極的主体性を保ち、評論の広がりと深さを避ける。この説明は、こうした現象への批判ではない。一般化して言えば、二次元だけがこのメタ言説を拒んでいるのではなく、日常生活全体がこのメタ言説を拒んでいる。理論を引用すること自体が、難解で晦渋、人をうんざりさせる結果を引き受けることなのだ。そう考えれば、アニメ評論はほかの文芸作品の評論と比べて、それほど大きな特殊性を持つわけではない。理論が好きな人もいれば、理論が嫌いな人もいる。どちらが正しいかを決めるより、対立をつくるのではなく、矛盾の深層原因を追うべきだ。

一方、評論そのものは個人の経験に基づく私的な物語であり、公共的な話題の領域で支配的なパラダイムを築こうとすれば、当然ながら徒労に終わる。だが私たちは、徒労であることは「言説権力の争奪」そのものが無用だという意味ではないことも認めるべきだ。むしろ、誰であれアニメ評を書き上げた時点で、意識的であれ無意識的であれ、言説権力の中心を築いてしまうことは拒めない。なぜなら、評論を書く者はまず、自分が費やした労働の全過程を信じ、完成稿を自分の自惚れと自己満足への見返りにしなければならないからだ。書き手は必然的に、自分自身に対する権力を行使する(自分を説得する)。その中心の影響力が、どれほど大きく、遠くまで及び、深いものであるかは関係ない。書き手が物語を映し、理解する過程に実質的に参加したなら、その人は必ず、個人の内的経験と結びつけて新たな語り方と方法を形づくる。これが、あらゆる議論の前提である。

アニメ台詞のスクリーンショット

台詞:「これがリアル系だ。」

したがって、アニメ評論やアニメ評論の方法論について、自分の語る内容こそこの領域の権威であり、自分の作品理解が他人より優れている、あるいは深いと、自信をもって言える人はいない。しかし、その人にでき、またすべきなのは、「個人の経験」と「作品の内容」のあいだの関係モデルを築き、そのモデルをめぐって一つの言説の中心を定めることである。この中心が広く認められれば、それは当然、界隈のなかに広がる暗黙の権力の言説となる。アニメ評論の領域に、いわゆる「言説権力」は存在しないと言うのは、正しくもあり、正しくもない。正しいのは、固定された言説権力の実体が確かに存在しないという点だ。その意味は絶えず流動し、誰も権威にはなれないからである。正しくないのは、この言説権力の連なりがいたるところに見られ、誰もが語られる者であると同時に語る者でもあるという点だ。語る者の語りが評論のなかで果たす役割(言説権力)を乱暴に否定するなら、フーコーを完全に誤読するだけでなく、アニメ評論界の百花繚乱、百家争鳴に大きな損害を与えることになる。

二、アニメ評論の方法論

(一)アニメ評論の広がり――よそ者の視点と残余カテゴリーの掘り下げ

ゲオルク・ジンメルの肖像

筆者は決して専門家ではなく、評論の門前にさえまだ立てていない。だから、僭越にも「文学批評」について意見を述べることはできない。だが、個人の経験と専門的な背景を作品分析に持ち込み、作品から専門的な知見を掘り出すと同時に、その知見を作品の解釈に役立てることならできる。そうして評論に異質性を生み出すのである。ここで、社会学者ゲオルク・ジンメルの「よそ者」を評論に導入することを許してほしい。「よそ者」は文化社会学思想の重要な概念であり、外部の視点から集団の本質を捉え、集団に対する「反省」あるいは「距離化」を示しながら、その集団とひとつの完結した全体をなす人々を指す。この概念を理解するには、二点を押さえればよい。

  1. よそ者は集団の外にいるのではなく、集団の内にいる。それは集団内の概念である。
  2. よそ者は集団の内部から生じた者かもしれないし、外部から来た者かもしれない。重要なのは、固有の個人的経験を携え、集団の内部に根を張りながら、集団文化に対して一定の慎重な距離を保つことだ。

誰もが異なる記憶、文化、社会的背景、知識の背景を携え、異なる文化が交わるなかで固有の場とハビトゥスを形づくる。それは「よそ者」によるその土地の文化の主体的な解釈を示すだけでなく、その文化の視野、活力、創造性を大いに豊かにする。オタクは主流の人々に対して、まさにこのようなよそ者の集団をなしていると言ってもよい。こうした人々は主流の人々から離れて生きることはできず、主流の人々と関わらなければならない。それでも、つねに主流文化とのあいだに慎重な距離を保つ。そして、その距離感こそが、オタクに新たな文化カテゴリーと解釈を生み出させる。主流の疑念と歪曲、そしてその疑念と歪曲への反撃がなければ、サブカルチャー集団は自分たちの「指標的表現」(「哲♂学」など)を内部から生み出すこともなかっただろう。もしアニメ評論家の批判者たちが、さらに一つの「正統」を主張するのなら、彼らが批判する「アニメ・バラモン」の評論家はどのような位置にいるのか。いったい誰が「バラモン」なのか。

アニメキャラクターの関係図

筆者は、アニメ評論にはある程度の「正統性」が必要だという考えに反対したいわけではない。ただ、「二次元」という、境界がきわめて不安定な集団が、自らを確立するために「正統」に頼ることは信頼できない、と指摘したい。「正統」という概念のなかで駆け引きするより、開かれた姿勢でより多くの可能性を受け入れるべきだ。第一に、アニメ評論家の【中立的な評価は不可能】である。人物の感情のもつれを重視する心情派と、セカイ系の分析に忠実なハードコア・ギークとでは、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』(ditf)への評価は当然異なる。第二に、アニメ評論家の【絶対中立の評論は「不合理」】である。アニメ評論には自分のスタイルが必要で、文章はお札のような、判読不能なでたらめであってはならないと強調することはできる。だが、アニメ評論家の感覚的な経験は、型にはまった執筆手順よりはるかに重要であり、これは評論家の個人的経験とも結びついている。第三に、アニメ評論家の【目的の不可能性】である。読者による文章理解の多様性は避けられない。文章が読者に害を与えず、考えるきっかけをもたらすことを漠然と望むことはできても、どのような考えを、どれだけもたらすかを決めることはできない。もしアニメ評論家が文章を書く目的を自分を楽しませることに置くなら、アニメ評論には相対性があることを認めなければならない。では、他のアニメ評論の形式を批判する根拠は、いったいどこにあるのか。

アニメキャラクターの茶会場面

アニメ評論は、ある作品の一つまたは複数の特徴をめぐって展開される、評論家個人の理解である。だからアニメ評論には広がりが必要だ。一人のアニメ評論家がすべてを網羅することは不可能であり、つねに掘り下げるべき残余カテゴリーがある。筋の通ったことを言っているかぎり、ひねった角度の評論を拒むべきではない。むしろ開かれた姿勢で受け入れ、妥当に批判し、ともに作品、さらにはその背後にある文化の含意を掘り下げるべきなのだ。

(二)アニメ評論の深さ――「構造的思考」

(ここからは少し私情を)

オタクが文化研究の理論、とりわけ批判理論に触れたとき、最初に浮かぶのは反論である。そう、大きな物語そのものに問題はある。第一に、オタク集団への共感が欠けている。オタク文化を主流文化の他者として捉え、オタク文化は異化されているからオタク集団は排斥されるのだと、当然のように考える。このような考え方は社会福祉の領域で「抑圧者モデル」と呼ばれている。だが、このモデルの問題は、オタクには救われたいという欲求があるとあらかじめ想定していることだ。彼らの生活は本当にそれほど悲惨なのか。二次元をオタクがどう見ているのかを、誰か知っているのか。第二に、根本原因を唯一の原因とみなしてしまうことである。市場はいたるところで文化のごみを生産し、審美眼の乏しい観客がいたるところにいる、すべては結局、資本―消費の論理のもとでの異化の結果だと考える論者もいる。だが、二次元に具体的な影響を与える要因は資本だけではない。そうでなければ、(創作者の)個人の能動性は何の意味もなくなり、自分が好きな商業作品さえ何の価値もなくなる。そんなことは、もちろん筋が通らない。

私たちは、二次元への思いは単なる「好き」という気持ちにすぎず、中国の恋愛ゲーム『恋与』のある広告が描いたように、現実と虚構の区別がつかなくなっているわけではないことをよく分かっている。それでも筆者はかつて、しばしばこんな行き詰まりを覚えた。なぜ自分の好きなものは現実にならないのか。なぜ自分の好きなものは、もっと大きな影響力を生み出せないのか。この矛盾は私だけのものではない。私たちは一方で、二次元は私たちの欲望を置く場所にすぎず、俗悪さの侵入を拒むものだと認めている。他方では、集団の外部で一種の承認を得ることを渇望している。この弁証法的な緊張は、文化を追い求める私たちがつねに現実を止揚する側にいることに現れる。ジンメルが文化的近代性の光景として描いたように、文化とはつねに現実を超えるものなのだ。

前述のように、この矛盾の奥にある外的要因は、次のように理解できるかもしれない。文化産業は二次元のサブカルチャーを生産―消費の論理に取り込み、サブカルチャーと主流の境界に「内爆(インプロージョン)」を起こさせ、二次元集団の矛盾する側面を露出させた。一方で、私たちが守ってきた界隈はもはや存在せず、大量の主流コンテンツが私たちの「表現空間」に侵入し、私たちの「こだわり」を置く場所はほとんどどこにもない。主流との距離を保ち続けるため、私たちは「ハードコア」を追求し、市場に染められていない領域へと退く。見た映画の本数、遊んだゲーム、見たアニメのマイナーさや理解の難しさによって、自分の位置を改めて固定するのである。他方で、私たちの生活空間は、現実の生産―消費の論理にいっそうさらされる。主流の規訓を受け入れ、三次元の社会関係に直面すると、「二次元属性」について態度を決められず、それを自分で証明することも難しくなる。この過程の最終的な帰結は、主体がサブカルチャーと主流文化を区別する力がとうてい足りなくなることだ。最も安全な方法は、サブカルチャーそのものへの自覚を完全に放棄すること、つまりサブカルチャーの自覚を捨てることである。頭のなかで「サブカルチャー」「オタク」「二次元」という概念を掘り下げることも、自分を一人の「オタク」として位置づけることもせず、愚痴と悪態のなかで、主体の断片化した生存哲学(「俺はただアニメを見てるだけの……」)を実践する。そうして、二次元の人間と非二次元の人間との重ね合わせ状態をつくり、美しいものを求める気持ちと、退屈な三次元の現実で頭と手が切り離されてしまう矛盾に対処するのである。

青い舞台の場面

したがって、「ごみの観客とごみの制作が互いをつくる」という思い込みに陥ったとき、筆者の考えでは、突破口は観客に審美眼を高めよと単純に要求することでも、作り手に自分が優れていると思うアニメを作れと呼びかけることでもなく、アニメ評論を通じて審美の「構造的思考(Structured thinking)」を築くことにある。作品を全体的・多元的・共時的な視点から捉え、作品の各要素を関係的・発展的な眼差しで総合的に見ること。単なる要素の機能分析や人物の感情分析を超えること。作品が他の作品に対して持つ同質性と異質性に目を配るだけでなく、作品を読むことを通じて再帰的な実践を行い、自分が愛するサブカルチャーと主流文化がつかず離れずにあるという事実や関係、そしてその関係がもたらす問題に、改めて目を向けられるようにすることだ。筆者は僭越ながら、これを「オタクの自覚」と呼び、スチュアート・ホールが提起した「サブカルチャーの自覚」に対応させることで、サブカルチャーの共通性とオタク文化の特殊性を浮かび上がらせたい。こうした評論家は、理想的なアニメ評論家ではなく、筆者の心のなかの「理想家」である。もちろん、個人がこの道を選ぶかどうかについて、筆者はここで一方的な要求や助言を持ち出すつもりはない。結局のところ自分はこの文化が好きなのだから、真面目に取り組む評論家も、細部まで調べる探索者も、古典や理論を引く理論家も、みな評価している。

最後に、筆者は自分の浅薄な知識と理解にもとづき、勝手に「カテゴリーの概念図」と「アニメ評論の次元軸」という二つの「妙な代物」を組み立てた。アニメ評論の多元性と相対性を表すためである。次元軸では四つの「理想型」だけをまとめた。優れた評論家が四タイプすべてをまんべんなく兼ね備えることもありうるし、一つの文章で四つの次元すべてを扱うこともある。もちろん、この次元の範囲を超える評論が存在することも排除しない。

アニメ批評の広さと深さを示す模式図

アニメ批評の四つの重心を示す次元軸

「アニメ評論」には、批判よりも寛容さを大きくしたい。同時に経験を踏まえながら理論をまとめ、作品論に目を配りながら、その背後にある文化にも目を向けたい。そして、私たちがこのアイデンティティについて持つ、ある種の自覚も大切にしたい。

思うところがあって書いた。力には限界があるので、ここまでにする。読んでくれてありがとう。お疲れさま。ご指摘は歓迎する。ここでお礼を言っておく。

「99号台车炉 燃料投下」と表示された締めくくりの画像

本文終わり

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