I:批評の言葉を問い直す――白、『氷菓』、団長

人を「抜かせる」人間を目指している。
ご注意:この論考の原文は8300字。読むには少し時間がかかります。
いまの中国語圏のネットコミュニティで、一般向けのアニメ批評には、よく使われる共通の言い回しがある。たとえば、人物造形を褒めたいときには、その作品の人物は「生き生きとしている」と言う。不可解な人物の行動を批判したいときには、その行動は「筋が通らない」と言う。作品に表れた主題や着想を称賛したいときには、「とても深い」「考えさせられる」と言う、といった具合だ。ここまでは、批評の表現を個々の語に限って捉えた場合の話だ。もっと広く捉えれば、アニメ批評の文章の運び方、視点、評価基準なども含まれる。
この広い意味で批評の表現を考えると、ときには本格的な文学理論に近づくことになる。ただ幸いにも、私が注目するのはネットコミュニティの一般向けアニメ批評なので、そこまで大きな問題に深く立ち入る必要は、おそらくまだない。「メタ・アニメ批評」といういかにも深遠そうな題を掲げて、本稿が注目したいのは、そうした批評の文章そのものだ。つまり、そこで使われる表現、とりわけ広く使われている語そのものを、問い直してみたい。
1. 世界には何種類の「生き生き」があるのか?
言語学、人類学、心理学などの研究で、色を表す語は長く注目を集めてきた。簡単な例を挙げれば、色彩語の研究はこんな問いとして表せる。世界には、いったい何種類の「白」があるのか。初期の人類学研究には、エスキモーの言語には「白」を表す語が数十もあるとするものがあった。近年、こうした研究の欠陥は数多く指摘されているが、それでも少なくとも一つの可能性は示している。中国語の「白」と英語の「white」は、RGBカラーモデル上の同じ色を指しているとは限らない。問題は、二つの言語のあいだで翻訳が難しいということにとどまらない。私とあなたが同じ「白」という語を口にしても、RGB上で同じ色を指しているとは限らないのだ。SNSで折に触れて話題になる、口紅の色番号を思い出してほしい。さらに、ある技術を使えば、RGB上の一つの色をもっと細かく分けられると考えてみることもできる。デザイナーの友人が二人いて、二人とも作品に#FFFFFFを使っていたとしても、高度な技術で調べれば、実際には異なる色を使っていた、ということになるかもしれない。

色彩語を例にしたのは、アニメ批評の語にも同じことが言えるからだ。冒頭の「生き生きとしている」を考えてみよう。ある書き手が「この作品は、とても生き生きとした人物像を描いている」と書いたとき、「生き生きとしている」という語について、書き手の理解と読者の理解はどれほど一致しているのか。その書き手は、この語をどう理解しているのか。アニメ批評の書き手たちが緩やかに形成する共同体では、普通どう理解されているのか。その書き手の読者たちは、普通どう理解しているのか。ある一人の読者は、どう理解しているのか。言葉の使い方をきわめて厳密に吟味する文章では、この語はどう理解されるのか。この意味で、私たちは同じように問うことができる。世界には何種類の「生き生き」があるのか。
この問いが正当に成り立つなら、そこから一つの困難が生じる。すべてとは言わずとも、多くの表現にはこうした曖昧さがある。だとすれば、アニメ批評の書き手と読者が、同じ表現を違う意味に受け取る可能性はきわめて高い。書き手が「この作品/展開/ショットは、生き生きとした人物像を描いている」と書いたとき、それ以上の説明がなければ、なぜその「人物像」が「生き生きとしている」のかについて、読者の考えと、書き手が明示せずにいる考えとが違っていても不思議ではない。
ところが実際には、こんな困難は起きていないように見える。少なくとも常識的にはそうだ。アニメ批評に対する常識的な信頼を捨てたくないのであれば、私たちは次の問いに答えなくてはならない。
(P)アニメ批評の書き手が「この作品/展開/ショットは、生き生きとした人物像を描いている」と書いたとき、読者はどうして書き手の意味することを理解できるのか?
2. 批評の目的についての合意
問題Pを扱う前に、アニメ批評への「常識的な信頼」とは何を指すのか、説明しておこう。これはメタ・アニメ批評の水準でよく注目される、批評の目的や価値とは何か、という問題に関わっている。目的をどう考えるかによって、問題Pが本当に存在するのか、存在するとしてどの程度なのかが変わってくる。
ここで言う「常識的な信頼」は、特定の書き手や批評文への信頼ではない。私たちは普段、あの人の批評には偏見があるとか、このアニメ評には書き手の浅薄さや無知が表れているとか考えている。そうした書き手や文章を、まったく信頼しないこともある。ここで言いたいのは、一般に私たちは「アニメ批評」という創作物には価値や働きがあると考えがちだ、ということだ。批評はアニメそのものについて、何をよしとするかに関わる規範的な記述や説明、解釈などを行える。ある作品を「神アニメ」「クソアニメ」と呼ぶ、ある作品の作画は見事だと指摘する、よい物語を語っていると評価する、といった具合だ。最も分かりやすい例は、さまざまなランキングだろう。SNSで好きなアニメを擁護したり、同意を求めたりするとき、人々はしばしばランキングを根拠にする。誰でも登録できる評価サイトのものもあれば、内輪のネットコミュニティのものも、コアな視聴者たちの総意を示すものもある。

もっとも、規範的な働きの中身となると、私たちの見解はそれぞれ違うだろう。大きく見れば、アニメファンに向けた詳しい鑑賞案内に批評の意味を見いだす人もいれば、作品の魅力により深く気づかせることこそ真の価値だと考える人もいる。意見の違う人を説得することに努めるべきだ、と考える人もいる。もっと具体的に、たとえば「よい作品」をどう定め、見分けるかについても、「高評価ならメディアを信じ、低評価なら自分を信じる」という人、「売れている作品には必ず並外れたところがある」という人、果ては「あの評価サイトで低評価の作品こそよい作品だ」と信じる人までいる。それでも全体として、理想的な状況ではアニメ批評がこうした規範的な働きを果たせることを、私たちは認めている。評価プラットフォームが次々に現れること自体、この暗黙の了解を示している。
アニメ批評に規範的な働きがあると認める書き手は、批評を書くときにも、その働きを果たすことを目的として想定している。もちろん、批評を書くことをただの娯楽とし、自分が楽しむ以外の効果をいっさい求めない人もいる。そうした人にとって、問題Pによる困難は存在しない。そもそも誰かに読んでもらうことさえ期待していないからだ。だが圧倒的多数の書き手のあいだには、アニメ批評の目的についての合意がある。多かれ少なかれ、アニメそのものについて何かを読者に伝え、それによって批評の規範的な働きを実現したいと考えている。最も典型的なのが、アニメ批評を「製品レビュー型の評価」と捉える立場だ。その支持者は、たとえ書き手が中立・客観的ではありえなくても、電子機器をレビューするように、まず作品の全体にわたって掘り下げた説明をし、そのうえでよしあしを判断して、視聴者に有益な助言をする責任と義務がある、と考える。
この目的についての合意が、あまり典型的でない場合にも当てはまることを示すために、鐘子黙(鐘先生!)の知乎コラム、「【挿話】アニメ・漫画批評をめぐる雑感と補足」から一節を引こう。そこで述べられる方法論は、アニメ批評の書き手のあいだで主流とは言えないにせよ、やはり緩やかな合意を前提にしていると思う。

したがって私が目指すのは、文化的生産物と、その外部にある環境との相互作用を理解することだ。観客や読者に対する私の見方は、それほど悲観的ではない。構造主義的な分析を云々するより、私たちがどう応答できるのかを明らかにしたい。……しかも私たちの議論には、隠れた一致点がある。私たちは皆、文化の解放をたゆまず追い求めている。「ごみのような観客」を見下しながら、もう一方で「理想の観客」を想定しているのだ。人々にこうした権力を意識させ、自分の置かれた環境を省み、主体的に行動するよう促すことは、とても重要だ。そのためには、批判理論に沿って議論を進めることをひとまず控え、ウェーバーの「理解」と、二次元の共同体の「エスノメソドロジー」へ立ち返る必要があるのかもしれない。大衆の「理想的なアニメ・漫画批評」をただ迎合的に受け入れるのではなく、共同体のなかからアニメ・漫画批評を定義し直し、新たな範型を築くのである。
――鐘子黙「【挿話】アニメ・漫画批評をめぐる雑感と補足」(画像内の引用文)
この一節で鐘子黙は、アニメ批評において規範的な働きの実現を目指すことは可能だと考えている。その主張が典型的でないのは、「製品レビュー型の評価」と違って、ある視点からアニメそのものを説明することに、さほど関心を向けていないからだ。むしろ、観客の置かれた状況とアニメ作品との関係を省みることに重点を置いている。それでも、この議論には目的についての合意がはっきりと認められる。アニメ批評は「人々にこうした権力を意識させ、自分の置かれた環境を省み、主体的に行動するよう促す」べきだ、というのである。
3. 批評の言葉における隠喩の難問
アニメ批評の目的について合意できれば、問題Pが存在することについても合意できる。つまり、批評は何かを読者に伝えることで規範的な働きを果たすべきだと認めるなら、意味の伝達をめぐるこの問いに向き合わなくてはならない。P:批評の読者は、書き手が言葉で表した意味を、どうして理解できるのか?
もちろん、意味の伝達を論じるとなれば、過去数十年にわたる言語学上の論争に触れることは避けられない。だが、そうした論争で頭を悩ませるのは、理論家に任せておくほうがよい。ここではアニメ批評そのものに即して問題を明らかにし、説明したい。そして、これらの問題が批評を書くことと密接に関わっていると示したい。そこで重要になるのは、この問題を扱う際に、どこまでの説明を求めるのか、という点だ。
考えられる基準は、いくつかある。
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認知科学に基づく基準。説明に求める水準を高くしすぎると、問題そのものが成り立たなくなってしまう。たとえば、読者が「このキャラクターは生き生きとしている」という文を理解したときには、その一つひとつについて、認知神経科学の理論に基づく相関関係の説明まで求める、としよう。そうなれば、実際には問題を扱うこと自体が不可能だ。自然界のなかに心をどう位置づけるかについて、私たちはいまだに合意を持っていないからである。
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人文・社会科学の理論に基づいて解釈することを求める基準。こちらはかなり緩やかだが、それでもやはり高すぎる。本稿で扱うアニメ批評の大半は、ネット上のプラットフォームで個人が書いた、比較的非公式な文章だ。本格的な理論の視野から見れば、論じる価値がさほどないか、さもなければ、あまりにこじつけの多い扱いに向かってしまうかもしれない。
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統計やアンケートなど、具体的な手法を用いる実証的な基準。ただ、社会科学における自然化の方法論が抱える難しさと同様、この方法それ自体では、多くの場合、「理解」そのものを有効に理解することはできない。しかも、これも基準としては高すぎる。アニメ批評も、その理解もきわめて多様だ。この基準に合わせるために、その一部を切り捨てる必要はない。

注1:本稿でこれらの視点を採用しないことは、メタ・アニメ批評の水準でそれらが不要だという意味ではない。いずれもきわめて有益で重要な視点だ。とくに認知科学からの考察は、アニメ批評、ひいてはアニメの創作そのものにも、自然化の基礎を提供できる可能性がある。
そこでここでは、隠喩(メタファー)という理論的な道具を導入する。隠喩とアニメ批評には、いくつかの重要な特徴に共通点がある。そもそも人間の言語は、非常に多くの面で隠喩的だ。隠喩を離れると、どう語ればよいか分からなくなることさえ多い。エルンスト・カッシーラーも『人間――シンボルを操るもの』で、言語は本性上隠喩的であり、事物を直接記述することはできず、間接的な記述や曖昧で多義的な語に頼る、と述べている。現代では、隠喩は単なる修辞の一種ではなく、日常の言葉遣いに切り離せないほど浸透し、代えの利かない認知的な働きを担っているという理解が共有されている。正確な記述を目指す科学の言語でさえ、隠喩は広く使われる。アニメ批評も、その圧倒的大部分が言葉によって表現される以上、根本的にこの隠喩性を持っている。
もちろん、隠喩をどう見分け、どう定義するかには、さまざまな難しさがある。それでも少なくとも、アニメ批評の多くは、あるものを文字どおりではない表現で語っており、そこには「~のようだ」「まるで」「~に似ている」といった比喩をつなぐ語がない、と言える。隠喩は事物へ直接届かず、アニメ批評もアニメそのものを直接説明しない。どちらにも、表現と事物のあいだに飛躍が隠れている。だからこそ、意味の伝達が難問になるのである。

注2:個々の批評語がどのように隠喩なのかは、ここでは扱わない。大量の語源調査が必要になるが、私にはその仕事をやり遂げる能力がないからだ。ただ、既知のさまざまな例から、中国語の「生动」(生き生きとしている)も隠喩ではないかと推測することはできる。この語は、もとは生き物の姿だけを表し、後に生き物のようなさまざまな事物を表すようになったのかもしれない。だとすれば、その内部にも隠喩が含まれている。
こう考えれば、問題を扱う基準をきわめて低く置ける。すべてのアニメ批評は、実際にはすでにその目的を果たしている、とひとまず認めるのだ。つまり、一方では言葉を使ってアニメそのものを何らかの形で説明することに成功し、他方ではその説明を言葉によって読者に伝えることにも成功している、とする。ただし、その批評では説明の途中が省かれているかもしれない。確かめられるのは、この二つの面で成功していることだけだ。幾何の証明問題で「模範解答は省略」とされているのに似ている。証明が可能であることは分かっても、具体的な過程は自分で考えなくてはならない。同じように、アニメ批評がどうやって意味を伝えているのかを知るには、文章で「省略された」説明を「補完」してみなくてはならない。隠喩を解釈するという、ずいぶん古くからある方法を使うわけだ。
話を進めやすくするため、最も典型的な例に注目しよう。書き手が、筋道立った議論によって読者をある意見に賛同させたい、とりわけ作品やその一部分のよしあしに同意してもらいたいと考えている場合だ。
4. 批評の言葉を補完する――事例分析
著者注:書き手の方々に不要な迷惑をかけないよう、以下では実在するアニメ批評を改変し、出典も示していない。例として用いる文章そのものに、褒貶の意図はない。特定の批評について肯定も否定もしていない。書き手の方々に敬意を表するとともに、何か問題が生じることがあれば、お詫びしたい。
問題Pを扱う基準がはっきりしたところで、まずは広く佳作と認められている作品の批評を見てみよう。『氷菓』は、まさにそうした作品だ。ただ、その優れた点にはさまざまな読み方がある。ここでは、いくつかの批評について、大筋を示す形で「補完」を試みたい。

R1:『氷菓』は、「日常生活」だけを土台にした推理の物語をどう描くか、ほぼ完璧に示した作品だ。作中で目にするのは、何気なく耳にした校内放送、古い書物や雑誌に記された過去の出来事、あるいは小さな仲間内での人間関係の変化といった、ごく普通の学校生活のささいな出来事ばかりである。誰の目にも取るに足りないはずのそれらが、『氷菓』では巧みに推理の枠組みへ組み込まれ、日常生活ならではの魅力を見せる。
R2:『氷菓』は、深い思考によって観客の心をつかんだ。作中が見つめるのは小さな出来事ばかりだが、主人公たちの境遇を追って考えを深めると、一見平凡に見える物語が、どれも単純ではないことに気づく。学生運動の時代の挽歌、才能と努力をめぐる不公平、青春のさまざまな思い。どの主題のもとでも、登場人物と同じ痛切な感覚を覚える。『氷菓』の最大の見どころは、千反田や折木といった人物たちだ。一見どこにでもいそうな人物に見えるほど、それだけ生身の人間として感じられる。
この二つの批評は、どちらも『氷菓』の日常描写の優秀さを論じている。違いは、R1が日常生活の魅力を掘り起こすことを重視するのに対し、R2は人物の魅力に、つまり日常生活を描くことで生まれる「生身の人間」のような人物像に重点を置く点だ。いずれも元の批評のほんの一節だが、事例分析には十分である。
まず、R1はどう補完すればよいだろう。中心にあるのは、『氷菓』が描く「日常の魅力」だ。その魅力をよりよく解釈するには、カットごとの詳細な映像分析を通じて、作品のどの部分に、どのように魅力が表れているのかを説明するのが、いちばん適しているかもしれない。たとえば第19話「心あたりのある者は」は、比較的独立した一話完結の物語なので、こうした分析に向いている。この回の優れた日常描写を一つずつ列挙し、それらがどうやって、まとまりのある推理の物語へ組み込まれるのかを論じる。そして最後に、それらの要素がどうして作品の魅力を感じさせるのか、明らかにすればよい。

R2も、同じように補完できる。たとえば折木奉太郎を分析の対象にしてみよう。本作の冒頭から「省エネ主義」は彼の最も重要なキーワードだ。『氷菓』全体を踏まえたうえで、自分の「省エネ主義」を何度も破る折木が、どのように「生身の人間」のように描かれ、魅力を見せるのかを論じることが目標となる。個々の動作や表情、台詞から、周囲の環境を構成する要素、人物と環境の関わり方まで、さまざまな点に注目できる。それらを一つずつ分析し、解釈することで、どんな人物の特徴を取り出せるのかを説明する。最後に明らかにすべきなのは、こうした特徴を備えた折木奉太郎の人物像が、どう「生身の人間」という語の定義に当てはまり、どんな魅力を示すのか、ということだ。

この補完という方法は、評価の分かれる作品の批評にも使える。『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』の有名なオルガ団長の死を例にしよう。

R3:オルガ団長の死は、物語のなかでひどく唐突に見える。端役のような死に方を主人公にさせてはいけない、というのではない。『機動戦艦ナデシコ』のダイゴウジ・ガイも、端役のようにあっけなく死んだが、その場面は命の脆さと不条理を際立たせていた。ところがオルガの場合は、同じようにあっけなく死ぬかと思えば、いまわの際に妙に長々としゃべる。もともと頭の悪い展開ばかりの第2期の物語と相まって、その演出には腹を抱えて笑ってしまう。
R3が論じているのは、オルガの死が全体として悲劇の効果から外れたために生まれる滑稽さだ。したがって私たちが補完するには、この場面の人物、環境、出来事、それらの関係を具体的に分析し、第2期の物語の不満が残る部分も併せて検討すればよい。それによって、この「腹を抱えて笑う」滑稽さとは何なのか、どのような仕組みで生み出されているのかを、はっきりさせるのである。

以上のように考えれば、アニメから具体的な細部を拾って議論を充実させることで、書き手と読者のあいだにある意味の伝達の隔たりを、ある程度は埋められる。批評そのものをより明瞭に解釈し、問題Pにも答えられる。読者が「この作品/展開/ショットは、生き生きとした人物像を描いている」という批評の意味を理解できるのは、具体的な説明を補う過程を通じてなのだ。その補完を読者が頭のなかで行うのか、書き手が自ら示すのかは問わない。振り返ってはっきりと文章にするのか、直観として体験するのかも問わない。
ただし、補完に基づくこの方法には、二つの問題がある。一つ目は、作品を分解して分析することについてだ。一話のアニメ全体が示す魅力は、個々のカットと、その相互関係の理解に還元できるのだろうか。より一般的に言えば、(p1)原子的な基本単位というものがあって、それらの単位と関係を論じることが、批評に表された見解を明らかにする助けになるのだろうか?詳細な映像分析を通じて、各カットの処理、情報の提示、制作意図といった技術的な細部を理解したとする。だが、それだけで批評が言う「佳作」と「クソアニメ」を理解するには十分なのだろうか。
もう一つの問題は、(p2)批評の読者にとって、「魅力」とはいったい何を意味するのか?ということだ。間違いなく、この問いは文脈に大きく依存する。内輪で名の通った書き手から、アニメの魅力は華麗で驚きに満ちた演出効果にも、引き込まれる物語にもある、という意見をよく聞く。これはすでに「魅力」という概念の多様性を認めている。だが、たった二種類に分けるだけでは、まだ大ざっぱだ。演出の魅力も物語の魅力も、さらに数えきれないほどの種類へ分けられる。一撃一撃の手応えが伝わる格闘作画が好きな人もいれば、「光害」と呼びたくなるようなエフェクトが好きな人もいる。巧妙に組み立てられたサスペンスを好む人もいれば、世界全体に関わる壮大な主題を好む人もいる。しかも、この二つで観客にとっての「魅力」が尽くされるわけではない。ジャンルごとのアニメが次々に現れることが、その証拠だ。『スーパーロボット大戦』のプレイヤーなら、昔ながらのロボットアニメを見て、いい年をして涙を流すこともある。もっと普通の場面でも、『アクセル・ワールド』の主人公が好きになれず、視聴をやめたという話を聞く。

5. アニメ批評は自然主義的でありうるか?
事例分析を踏まえると、アニメ批評という文章のジャンルを、より深いところで支える基礎についても考える必要がありそうだ。最初の問題p1は、実は構成関係をめぐる問いである。微視的な粒子と巨視的な物体、細胞と有機体、個人と社会など、異なる水準をまたぐ議論には、同じような問いが広く存在する。ただ、科学の場合と違って、p1の「基本単位」は、批評の書き手の視点から見たものにすぎない。見解の説明を助けるこの基本単位は、あくまで分析のために設けたものだ。アニメのような映像作品で、微視的な粒子のように全体に先立って存在する「基本単位」に近いものがあるとすれば、制作過程における個々のカットだろう。
二つ目の問題p2は、批評の文脈依存性を指している。これは本来、常識であるはずなのに、しばしば無視される。ある種の書き手にとって、作品の「よさ」「悪さ」は自明であり、自分の批評は、その事実を明確に指摘するためにある。その事実が見えない観客は、アニメの鑑賞経験が足りないか、判断力が低いのだ、というわけだ。異論にもっと寛容な書き手であっても、意識的であれ無意識にであれ、自分の批評でこの点を見落としている。「この作品/展開/ショットは、生き生きとした人物像を描いている」という批評は、どんな文脈のもとで、よりよく説明できるのか、という点だ。
残念なことに、ある種の書き手にとって、この二つの問いは、問うこと自体が認められない。評価が比較的そろっている作品について異論が出ると、その人は単に「その作品が好き/嫌い」なのであって、作品が「実際に」よいか悪いかとは関係がない、と応じる。こうした書き手は、「この作品/展開/ショットは、生き生きとした人物像を描いている」を、「今日の気温は摂氏15度だ」と同じような事実として、暗黙のうちに扱っているようだ。例外はすべて「個人の好み」に帰せられる。自分自身に起きた例外ですら同じだ。「このアニメは大好きだけれど、公平に言えば、本当に平凡な作品だ」といった発言がそうである。これは、ひどく奇妙な言い方だ。批評を支える評価の枠組みが、作品にある魅力、あるいはない魅力を解釈するためのものなら、その人はすでに作品の魅力を感じているのに、なぜその魅力の説明に役立たない枠組みを、なおも使い続けなければならないのだろう?

この二つの問いを通じて浮かぶ批評上の前提は、奇しくも、現代の自然主義のある側面に似ている。きわめて広い意味で言えば、自然主義の綱領とは、人文・社会科学を含む実証科学の体系が認めるものだけが、この世界に本当に存在するものであり、その体系が与える答えこそ、世界のあらゆる問いへの最良の答えだ、というものである。個々の問題を説明する際にも、自然主義はしばしば構成関係に訴える。たとえば、巨視的な世界は原理的には微視的な粒子に基づいて説明されるべきだ、とする。また、事物を記述するときには、その記述の普遍性に訴える。「今日の気温は摂氏15度だ」は、原理的には誰にとっても同じ、という具合だ。この二つの特徴は、p1とp2で問題にした暗黙の前提と似ている。もちろん、この類似が純粋な偶然なのか、内的なつながりを持つのかは、いまのところ分からない。
アニメ批評の深い基礎が典型的な自然主義だとしたら、それはきわめて奇妙なことになる。目的についての合意のところで論じたとおり、アニメ批評という営みには、何らかの規範的価値を実現しようとする目的が内在している。しかし自然主義の視野では、規範的な事実はしばしば一種の幻として扱われる。実証科学の体系は「今日の気温はなぜ15度なのか」を説明できても、「なぜ『氷菓』はよい作品なのか」は説明できない。「よい作品」に適切な定義を与えること自体、実証科学の体系のなかでは難しい。こう見ると、アニメ批評を自然主義化するのは困難に思える。

だが、それはアニメ批評と自然主義が両立しないという意味でもない。一つの道は、批評の側を作り替えることだ。実証研究の観点からは、「よい作品」を「圧倒的多数が認める作品」と定義できる。そうすれば、「圧倒的多数が『氷菓』をよい作品と認めている」ことによって、「『氷菓』はよい作品だ」と説明できる。ただし、この場合、「よい作品」の意味は、私たちがいま考えるものとは違ってしまう。「圧倒的多数の承認」と「人を動かす魅力があること」には関係があるかもしれない。それでも「よい作品」という語は、それ自体では、私たちを動かす魅力があることを必ずしも意味しなくなる。もう一つの道は、構築という次元を自然主義の枠組みに取り込むことだ。「よい作品」という語を、普遍化できる基準につなぎ留めることは、確かにできる。ただしその基準は、自然物が備える数値的なパラメータではなく、観客もその形成に関わって構築されるものである。ジョン・サールの社会的構築の理論は、この道を実践するうえで優れた理論的資源を提供してくれる。この意味で「よい作品」は、むしろこう理解するべきだ。批評の書き手Rが、ある特定の文脈Cにおいて、あるアニメ作品Aをよい作品と見なす。そうであれば、自然主義化されたアニメ批評が目指すべきなのは、この「よい作品」を、多様な仕方で、文脈に即して解釈し、再構成することである。
6. 小結
本稿は、何か結論を出したというより、ずっと問いを立て続けてきたと言うほうがよい。問いは一つの体系をなすわけでもない。メタ・アニメ批評の水準で見ると、批評の言葉そのものが、論じうる主題に満ちていることを示したにすぎない。それでも、ここで本稿の道筋を整理しておく必要はあるだろう。
議論の流れとしては、第1節で、批評に用いる語が持ちうる多義性と曖昧さを論じ、問題Pを立てた。アニメ批評の書き手が「この作品/展開/ショットは、生き生きとした人物像を描いている」と書いたとき、読者はどうしてその意味を理解できるのか。第2節では、批評の書き手のあいだにある目的についての合意を論じた。批評は、アニメそのものについて何かを読者に伝え、規範的な働きを果たすべきだ、という合意である。これがあるために、圧倒的多数の書き手にとって問題Pは存在する。第3節では、問題Pを扱うために考えられる基準を検討し、隠喩と、その「補完」という方法を導入した。第4節では、二種類の批評の事例を「補完」することで、問題Pへの応答を試みた。また事例分析から、補完の過程に潜みうる二つの問題を提示した。この二つは、多くのアニメ批評に存在する。最後に第5節では、アニメ批評と自然主義的な見方を簡単に比較し、批評の自然化に向けた理論的な可能性を提案してみた。
著者付記:紙幅の都合で、アニメ批評と自然主義の関係は簡単にしか論じられなかった。だが、これはかなり面白い問題なので、機会を見て、別の文章で詳しく論じたい。
編集者より
知乎版の誤字や不自然な文を訂正した。一見難しそうな文章だが、内容はそれほど理解しにくくない。