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メタ・アニメ批評II

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II:「深さ」のさまざまな顔

アニメ批評の言葉そのものをめぐるAustoriaの連続論考。意味の伝達、隠喩、自然主義から、崇高、私的体験、そしてアニメの「深さ」が持つさまざまな顔へ。

著者: Austoria翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

II:「深さ」のさまざまな顔

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Austoria

人を「抜かせる」人間を目指している。

編集者より: 達成しました。

0. はじめに

ある種のアニメを褒めるとき、私たちは決まって「内容が深い」「含蓄がある」「考えさせられる」「高い志を感じる」といった言葉を使う。さらに、その作品がどんな「深い」主題を表しているか、具体的に述べることも多い。「この作品は人間性への賛歌だ」「この作品は手に汗握る物語を通じて、戦争の意味を問い直させる」といった具合だ。似た批評の表現には、ほかにもさまざまな形がある。理論を用いて作品を読み解く、作中の物語が現実や歴史に何を示唆し、どう呼応するかを説明する、作品が生んだ影響を示す、などである。便宜上、こうした家族的類似性を持つ表現を、「深さ」についての表現と捉えることにしよう。

それらのアニメが持つ深さとは何かを、はっきり言うのは難しい。分かるのは、「深い」は「浅い」の反対であり、前者はさまざまな角度や水準からの検討を促すのに対し、後者は、その作品を多様に分析する価値があまりないことを意味しがちだ、という程度だ。幸い、例を挙げるのは簡単である。アニメファンのコミュニティで優れた作品として選ばれるものの多くが、この部類に入る。『攻殻機動隊』シリーズは格好の例だ。ハリウッドの実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』が公開されたとき、アニメのファンの多くが、実写版は1995年版『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の内容を理解していない、と非難した。各種ランキングの常連である『カウボーイビバップ』も例になる。宇宙をさすらう者たちの物語を、実存主義から解釈する書き手もいれば、人生につきものの出会いと別れを的確に映した作品だと考える書き手もいる。

『カウボーイビバップ』のビジュアル

「深い」とされる作品には優秀なものが多いからこそ、この評価カテゴリーを考えることには、とくに意味がある。しかし多くの批評文を見ると、私たちは非常に異なるアニメを、ひとしく深いと捉えている。そこで本稿の主な目的は、私たちが使う「深さ」が、基本的には作品のどんな面を指しているのかを整理することだ。比較的よく知られた典型的な作品を例に用いていく。アニメ批評で言われる深さは、少なくとも、互いに重なり合う四つの面を指していると示したい。意味の多層性、物語の新奇な構造、壮大な主題、特定の種類のイメージである。そのうえで、この評価カテゴリーについて最も論じる価値があるのは、次の問いだと私は考える。なぜ「深さ」はアニメ批評のカテゴリーであり、しかも肯定的な評価カテゴリーなのか?


1. 見えるものがすべてではない――意味の多層性

まずは、最もよくある場合に注目しよう。そこでは、深さは意味を覆い隠すことを指している。これは、もっと一般的な言葉の表現にもよくある。ある文学作品の一節に、作者の「内に秘めた意味」が表れていると言う。芸術作品の批評には、それが「表現するもの」の「解釈」を期待する。他人とのやり取りでは、その言葉には「別の深い意味がある」と考える。アニメでは、意味を覆い隠すことは主に画面によって行われる。ファンが好んで読み解くさまざまな象徴や隠喩に、それは最もはっきり表れる。1

ただし、どんな象徴や隠喩でも、私たちが深さと呼ぶ性質を備えているわけではない。「友よ、アニメ批評の合理化という問題を整理しよう」で述べたように、アニメでは、ごく単純な展開でさえ、象徴や隠喩を使って表されることが多い。だが、そうしたものの大半は、どれほどの深さを持つとも限らない。その記事で挙げた『ゼロの使い魔~双月の騎士~』第12話では、ルイズの手のなかで双子の花が枯れ、才人が戦死したことを象徴する。普通、この展開と象徴を、さらに読み解く必要はない。それは二つの理由による。「双子の花が枯れる」という象徴の意味について、私たちはすでに合意している。そしてその意味は、「見たままに分かる」からだ。

この二つは、ある意味ではつながっている。「pはqを象徴する」という合意があり、それが文化的背景に関わるなら、象徴pの意味は自明になる。だが同時に、この二つは、異なる二種類の可能性を指してもいる。

(A)アニメの象徴pが何を意味するかについて合意はないが、批評の書き手一人ひとりには、その意味が自明である場合。作品の象徴と、その背後にある意味とのあいだに、論理的に厳密な結びつきがあることは、ほとんどない。象徴の意味を理解することは、多くの場合、体験する者の直観的な把握である。こういうとき、書き手たちは新しい解釈を繰り返し試み、自分の解釈のほうが優れていると示そうとする。一定の知名度があって、絶えず解釈や「深読み」をされる作品をはじめ、多くのアニメがこれに当てはまる。最も有名な例は、おそらく『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズだろう。宗教や心理学のさまざまなイメージに満ち、物語そのものも相当に開かれているため、二十数年にわたって、ファンのあいだで繰り返し論争を生んできた。なかでも最もよく論じられるのは、旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の最後で、碇シンジがアスカを絞め殺そうとする場面だろう。なぜシンジはそうするのか。アスカはなぜ気持ち悪いと言うのか。そう言ったのは、本当にアスカなのか。画面に現れる十字架状のEVAには、どんな深い意味があるのか。この展開は何を伝えようとしているのか。二十数年たっても、とくに強い作者中心主義を取らない限り、この場面の解釈に合意ができたとは、とても言えない。だが、ある解釈を持つ書き手にとっては、場面の象徴的な意味はしばしば自明だ。文章として仕上げるには、作品の内外から証拠を掘り出し続けなくてはならないとしても。

台所で向き合うアニメの登場人物たち

(B)もう一つの可能性は、象徴pの意味について合意があるものの、大半の人にとって、その意味は自明ではない場合だ。批評の書き手が象徴を解釈し、多くの人を納得させたため、それが合意になったのである。多くは作品解釈の文脈、たとえば作中の歴史的背景や、作品自体が生まれた歴史的背景が関わる。ときには、アニメへの注目の仕方の違いも関わるだろう。一般の観客よりアニメの芸術に詳しい人なら、一瞬の画面から、解釈に値する象徴を正確に見つけられるかもしれない。これも『新世紀エヴァンゲリオン』に例がある。2000年より前の中国の観客の大半には、オタク文化の台頭、日本のバブル経済、宮崎勤事件といった具体的な社会背景は、なじみの薄いものだった。そのため、すぐにこうした制作当時の背景と結びつけて、作品の主旨を読み解くことはできなかった。誰かがこれらの文脈を解釈に取り入れると、その見方は容易に受け入れられ、ファンのあいだの合意となる。

AとBは互いに排他的ではなく、同じ事例の違う水準を論じているだけの場合もある。Aでは、深さは異なる書き手の解釈のあいだで構築され、その見解は原則として対等だ。一方Bでは、書き手と一般観客という二項構造のなかで、深さが構築される。書き手は、文脈をよりよく把握し、鑑賞する力を持つ個人である。一般観客は、同じような鑑賞力を持たず、関連する文脈も知らないことが多い。そのため、象徴の解釈については書き手のほうが有利になり、合意が形成されやすくなる。もちろん、Bでの合意が、書き手同士にもあるとは限らない。たとえば「『エヴァンゲリオン』の主旨は、1990年代の日本のこんな社会背景に関係する」という、一見合意のある見方も、書き手のあいだでは賛否の対象になる。

総じて、批評でいうアニメの深さは、非常に多くの場合、意味の多層性を指す。それは隠喩や象徴によって実現され、それらが意味そのものを覆い隠す。ただし、すべての隠喩や象徴を深いと呼べるわけではない。私たちの批評の言葉では、深さにはしばしば次のような要件が伴う。ある象徴の解釈について書き手のあいだで合意しにくいか、ある象徴をどう解釈すべきかが一般観客には自明でないか、あるいはその両方である。深さの一つの顔としての意味の多層性は、その核心で、作品のある面がどれほど豊かな解釈に開かれているかを指す。この意味では、どんな属性の象徴や隠喩なら必ず深さを持つのかは、指摘できないかもしれない。だが少なくとも、解釈が固定して硬直した「死喩」――慣用化した隠喩――には、深さがありえない、と言える。


2. 予想どおりのものではない――物語の新奇な構造

少数ながら、語り方そのものによって「このアニメにはとても深みがある」と書かせる作品もある。そうした作品の物語を、大づかみに説明するのは難しい。だが、形容する言葉ならいくつもある。「頭を使わされる」「どんでん返しがある」「予想外だ」「謎に満ちている」といった言葉だ。ここではひとまず、この特徴を物語の新奇な構造と呼ぶ。意味の多層性の場合と同じく、どんな新奇な構造でも、普通言うところの深さを生むわけではない。たいてい、頭を使わせる展開やどんでん返し、謎、予想外の出来事といった特徴は、驚きを与えるにとどまる。多くの推理アニメやサスペンスアニメがそうだ。だが少数の作品では、ある壮大な主題に関わるとき――これについては次節で扱う――、物語の新奇な構造そのものが深さを示す。確かに、構造そのものに深さが現れるには、特定の物語内容との組み合わせが必要だ。とはいえ、アニメ史で繰り返し描かれてきた主題のなかには、順を追ってそのまま語るだけでは「深みがある」と評価されないものも多い。だから、物語の新奇な構造は、深さの一つの顔として独立に論じる必要がある。

この意味での深さを示す作品は多くない。だが、謎やどんでん返しを物語に仕込むことは、今日のアニメではありふれている。そのため、肯定的な例も否定的な例も挙げられる。先の2018年、最も話題を集めた作品――「の一つ」と断る必要はないかもしれない――『DARLING in the FRANXX』は、否定的な例だろう。確かに、いまのファンのあいだでは、どこか滑稽な作品になっている。だが昨年は、作中でも作品の外でも、実に大きな議論を巻き起こした。動画サイトやSNSで起きた現実の論争を別にしても、作品に満ちた謎やどんでん返しは、議論を呼ぶ重要な要因だった。アニメ・バラモン――通ぶった選民的なファンを揶揄する呼び名だ――の集まるコミュニティには、当時の熱心な細部の発掘や物語の解釈が、いまも見て取れる。機体を操縦する姿勢には、フェミニズムの視点からの告発が含まれているのか。荒れた大地と緑豊かな植物園の差には、どんな寓話的な意味があるのか。その場にいないのに何度も言及される「パパたち」は、いたるところに及ぶ父権的な抑圧の隠喩ではないか。アニメ本編よりも見事なこうした見解や想像は、「オリジナルアニメの魅力は予測できないことにある」を十分に示していた。ところが、一部の観客が「始まりは自転車、終わりはスター・デストロイヤー」というほのめかしで、「神回」が作品を救ってくれるという信念を何度も固め直したにもかかわらず、作品は結局、大多数の笑い声のなかで、いささか見ているほうが恥ずかしくなる結末を迎えた。

『DARLING in the FRANXX』の主要人物たち

公平に言えば、本作は救いようもなくひどい作品ではない。少なくとも独特の世界設定は序盤で強く引きつけるものがあり、美少女と巨大ロボットを組み合わせた姿は個性的で、単独の回には光るものもあった。それでも、当初多くの観客が抱いた深さへの期待を裏切ったことは変わらない。本作は初めから、無視できない大きな謎をいくつも残していた。さらに重要なのは、その大半が、それ自体で根本的に常識とは異なる世界像を示していたことだ。現実の重要な問題と、かすかに響き合うものさえあった。フランクスという巨大ロボットを、なぜ少年少女があんな恥ずかしい姿勢で操縦しなくてはならないのか。これは、推理ものの「誰が殺したのか」という謎とは根本的に違う。後者で気になるのは、犯人が誰かだけではない。むしろ、見事な推理からその答えがどう導かれるかだ。一方、前者では答えそのものがすべてを意味する。あの操縦方法が本当にフェミニズムの思潮への潜在的な呼応であれば、少なくとも謎自体に深さが現れる。だが、最終的に私たちが見たとおり、本作のさまざまな謎やどんでん返しは、大きな物語のなかの深さへの期待と、かみ合わなかった。

もちろん、物語の新奇な構造から立ち上がる深さは、優れた作品で確かに実現されてもいる。今敏の作品には、それがよく表れる。『千年女優』『パプリカ』といった新世紀の作品が、人間のあり方に深く関わるさまざまな主題へ踏み込む一方、『PERFECT BLUE』が語るのは、もっと平凡な、人物の成長の物語である。国民的な人気を持つ王道の熱血アニメから、オタク色の濃い、一部で支持される佳作まで、未熟な人物が成熟する過程は、商業アニメでは見慣れた題材だ。「うずまきナルトが数百話の冒険を経て七代目火影になる」というような物語に、際立った深さがあるとは、あまり言わない。だが『PERFECT BLUE』では、驚きに満ちた語り方によって、「このアニメにはとても深みがある」と十分に評価できる。私には、その深さがどう生まれるのかを細部まで分析する力はない。詳しい解釈なら、各種のアニメ批評サイトや個人メディアで数多く見つかるだろう。だが否定的な例である『DARLING in the FRANXX』との違いから、物語の新奇な構造に、読み解くに値する深さが確かに現れることを、大づかみには見て取れると思う。

まとめれば、『DARLING in the FRANXX』は壮大な主題に関わりそうな謎を数多く築きながら、その主題への期待を裏切った。これに対し『PERFECT BLUE』は、表面上は筋道の明瞭なサスペンスを目まぐるしい手法で語る一方、観客が分析し、解釈するための論理的な余地を、その語りのなかに残している。それによって、現実の壮大な主題とさまざまな角度から結びつけることもできる。ひとまず、こうした可能性に満ちた論理的な余地があってこそ、物語の新奇な構造は、批評でいう深さの一つの顔となるのだと言えそうだ。


3. 形而上学に向き合う――壮大な主題

深さの第三の顔は、前の二つより分かりやすい。日常会話でも芸術批評でも、深さの標準的な表れは、いつも話題そのものにある。「今日は青菜が一斤7元に値上がりした」という話を、大半の人は内容が深いとは思わないだろう。少なくとも「青菜の値段は国際貿易情勢の連鎖反応だ」と言えば、洞察があると言える。もちろん「青菜の価格変動の背後には、近代性に普遍的な不安が映し出されている」とまで言えば、「考えさせられる」の札を貼れる。この少しふざけた例は、アニメの深さの標準形にもよく対応する。「巨大ロボットが敵の未知生命体を倒す」という物語に、深さはない。「巨大ロボットは先史文明の自己破壊の象徴であり、敵の未知生命体は先史文明の末裔だ」となれば、現代文明の省察という、深さのある主題に多少は関わってくる。

ここでは、こうした深さの標準形が扱う主題を、壮大な主題と呼ぶ。壮大な主題は、例外なく現実世界についての思考から来る。そのため、時代背景が変われば、そこに含まれるものも変わる。それでも大まかな整理はできる。少なくともアニメでの共通の特徴は、日常生活から少し離れていること、言い換えれば、通俗的な意味での「形而上学的」な性格だと私は考える。具体的な状況を離れ、人間そのものに関わる問題を掘り下げる。自由、解放、社会的平等、産業文明への反省、人間と自然の関係、主体性、疎外、心などがそうだ。2私たちは、こうした主題をうまく扱えばアニメの文化的な内容が豊かになると認める。そればかりか、ときには、あえて挑むこと自体が、作り手の芸術的な志向や能力の優れた表れだと考える。

もちろん、壮大な主題に何が含まれるかも、その概念自体と同じくらい抽象的だ。アニメは抽象的な主題そのものを見せることはできず、物語と画面を通じて描かなくてはならない。この顔については、あまり説明を重ねなくても、広く認められた例を挙げれば十分だろう。最もよい例は『攻殻機動隊』シリーズだ。シリーズの作品の多くは、思想的な深さの模範とされる。そのため実写版は、比べるとアニメの精神的な核をほとんどすべて失った、と考えられている。1995年版を例にすれば、英語題のGHOST IN THE SHELLにある神秘的な「魂」ではなく、もっと自然主義的な「心」というキーワードのほうが、作品が向き合う壮大な主題を捉えるには適していると思う。科学技術が十分に発達した時代、肉体はもはや、生まれてから死ぬまで捨てられない容器ではない。感覚は外界をそのまま示すだけではなく、記憶も、誰にも書き換えられない自分だけのものではない。そんな時代に、行為主体としての自己をどう理解すればよいのか。この戸惑いは、人類の思想史にある心への過剰な尊崇と、人間性が退場することへの不安に根ざしている。とくに科学革命以後、人は、人間と人工物のあいだに天と地ほどの違いはないようだと、たびたび気づいてきた。だからこそ、「人間が人間である」本質を探そうとする。最近、コンピュータのプログラムに「本当の感情」は決して持てない、と主張する声と同じだ。長い探究の歴史のなかで、結論はしばしば心への尊崇へ戻る。自然の仕組みでは永遠に説明できそうにない心が、人間と人工物を分ける決定的な違いになるのである。ところが1995年版『攻殻機動隊』は、その願いに反する未来を見せる。一方では、生身の人間の感覚と記憶という、心の最も基本的な二つの働きが、人為的に操作される。他方では、すべてプログラムコードから作られた人工物である人形使いに、殻のなかの心が生じる。そのすべてが、人間と人工物の境界が消えていくことを、強く示唆するのだ。

二人の人物の横顔を重ねた画面

画像内の英語字幕:最後にもう一つ質問を。

私にとって、この作品で最も興味深い細部は、アニメの外の現実世界にある。素子と人形使いが融合する展開は、従来は人間そのものと同一視されていた心が、機械に代表される外部世界へ向かうことを示しているようだ。現実には、素子がスクリーン上で心をネットワークへ広げてから三年後の1998年になって、アンディ・クラークとデイヴィッド・チャーマーズが「拡張された心」を発表した。現代の心の哲学で、最も影響力のある論文の一つである。商業アニメの深さは、厳密な論証を備える学術論文には及ばない、と私たちは考えるかもしれない。それでも1995年版『攻殻機動隊』が、「心」という壮大な主題で見せた創意は、1990年代の最も創造的な学術研究と、十分に響き合うものだ。3

もちろん、「内容が深い」アニメは、必ずしも学術的な問題に踏み込むほど深くある必要はない。だが、壮大な主題に向き合うアニメが、称賛される深さを持つには、多かれ少なかれ創造的な掘り下げが必要だ。一方では、一般観客の大半がその主題について持つ考えを超えなくてはならない。他方で、常識をあまりに超えた掘り下げは、学術的には厳密でも、観客に深さを認めてもらえるとは限らない。「クソを食わされた」「作り手が好き勝手やっている」といった否定的な言葉で評されることさえある。


4. 大人と子供――特定の種類のイメージ

最後の顔は、最も議論を呼ぶかもしれない。古参のアニメファンの多くは、これを本当の深さとは認めないだろう。それでも、少なからぬ批評で同じようなものが「深い」と呼ばれている以上、私は議論に含めるべきだと考える。ここでの深さは、アニメに現れる特定の種類のイメージを指す。それが登場するだけで、作品は深いと見なされやすくなる。相異なる下位区分が多く含まれうるので、一面的になりすぎないよう、「特定の種類」という曖昧な言葉でまとめた。ただし、これまでと同じように、典型的な例で説明していく。その例を、大人向けのイメージと呼ぶ。

大人向けのイメージとは、文字どおり、アニメに現れる、子供が触れるにはふさわしくない事物だ。性や裸の提示、過激な流血や暴力、見せるには不適切な恐怖の要素などがある。そうした作品はすぐに思いつく。大半は深夜に放送される。たとえば『To LOVEる』シリーズの趣向を凝らしたお色気場面、『デビルマン』で美樹が――される展開、『機動戦士Vガンダム』のさまざまな人物の凄惨すぎる死に方――主に低年齢層向けだったそうだが――などだ。もちろん、大人向けのイメージは、具体的な展開や設定に限らない。簡潔で洗練された美術様式は、子供にはあまり魅力的でないことが多い。したがって、そのような美術様式を持つものも、大人向けのイメージと見なせる。

室内で驚いた表情を見せるアニメの人物

こうしたイメージそのものに深さがある、と同意する人は少ない。だが実際の批評では、それによってアニメの思想的な深みが広がった、と称賛する言い方が数多くある。よく使われるのは、大人向けと子供向けを対比する修辞だ。富野由悠季の初期作品の批評では、とくに目立つ。ロボットアニメのファンは、『伝説巨神イデオン 発動篇』の結末を、よく冗談めかして褒める。「とても心温まる結末で、みんなが分かり合えた。当時の日本の子供たちは、映画館で見て感激の涙を浮かべていた」と。この褒め方は、凄惨な結末と、主な観客が子供だったことを対比させ、作品の大人向けの深さをほのめかしている。特撮でも、子供向けになることは年長の観客からよく非難される。『ウルトラマン』シリーズの論争には、それがとくにはっきり表れる。多くの観客は、シリーズの「暗い」エピソードや作品を好んで論じ、それらの「大人向け」の作品に独自の深さを認める。その一方で、軽快で活発な物語の作品を、「子供向け」、さらには平凡と見なしがちだ。

子供向けアニメと深夜アニメの違いから、大人向けのイメージが深さの一つの顔になりうる理由を、ひとまず論証できるかもしれない。いまでは『プリキュア』のような作品に夢中になる「大きなお友達」も増えたが、それでも子供向けアニメには、血なまぐささ、暴力、恐怖、性的な展開を表すイメージは、ほとんど出てこない。他方、こうした「深黒残」――深い・暗い・残酷をまとめた中国語圏の言い方だ――の展開は、深夜アニメでは見慣れたものだ。もちろん、子供向けか深夜向けかは、作品の優秀さとは何の関係もない。ただ、この広く行き渡った区別の背後には、露骨な流血、暴力、恐怖、性的な展開は、子供に見せるのに適さず、大人(少なくとも青少年以上)にだけ許されるものだ、という前提がある。さらにその前提は、常識に深く根を下ろした一つの観念から来る。子供の知的な能力は大人ほど十分ではないため、露骨な流血や暴力などから悪影響を受けやすい。だから触れさせてはいけない、という観念だ。本稿の主題である深さにとって重要なのは、これが大人と子供のあいだに明確な知的境界を認めていることだ。一般には大人の知的な能力のほうが高いと認めるなら、一般に子供向けと深夜向けのアニメで、深さが違うことも可能になる。形式的に厳密ではないが、その論証を次のように書いてみる。

  • (1)アニメの深い内容を理解するには、十分な知的能力が必要である。

  • (2)子供には十分な知的能力がなく、大人にはある。

  • (3)子供向けアニメの主な観客は子供であるため、内容は子供の知的能力に合うべきである。

  • (4)(1)と(2)より、子供はアニメの深い内容を理解できない。

  • (5)(3)と(4)より、子供向けアニメに深い内容があってはならない。

子供向けアニメの制作者の大半が、(5)の要請に従っていると仮定すれば、確かに子供向けアニメは「深さがない」と同一視できる。同じように、大人を主な観客とする深夜アニメには、深さがありうる。この結論から分かるのは、大人向けのイメージ自体が深さの一つの顔になるのは、素朴な帰納的推論によるということだ。流血、暴力、性、恐怖などの要素を持つ大人向けのイメージは、子供向けアニメと深夜アニメの最も目立つ違いである。ならば、一般に深夜アニメが、子供向けには持ちえない深さを持つ以上、その深さは当然、大人向けのイメージから来るのだ、というわけである。4

もちろん、これは、大人向けのイメージがなぜ深さの一つの顔になるかについて、推測を試みたにすぎない。実際には、人々がこの帰納の過程を意識しているというより、イメージを深さの印と見なし、大人と子供――あるいは「私たち」と「他者」――を分けて、批評する自分たちのほうが優れているかのように線を引いているだけなのだろう。


5. 挿話――本稿の自己弁護

ここまで、深さの四つの顔を詳しく説明した。ただ、読者に誤解を与えるかもしれないので、さらに進む前に、いくつかの重要な問題について、手短に弁明しておきたい。

こちらを振り向くアニメの人物

第一の問題は、「深さのさまざまな顔」という主題は、実際には何を論じているのか?ということだ。ここまでの文章は、「深さは本来どうあるべきか」という問いには、まったく触れていない。そのことを分かってほしい。私が一貫して論じているのは、中国語圏のネットで、最も通俗的で、日常的で、ごく一般的なアニメ批評において、「深さ」という評価カテゴリーは、実際にはどの側面を指しているのか、という問いである。前者は、こうしたカテゴリーの正しい使い方を導く問題だ――語の使い方に正誤があるとすれば、だが。後者は、実在する批評での深さを調べ、分類するだけの問題である。せいぜい「なぜこの顔が深さの一種になりうるのか」という副次的な問いへの応答が加わる程度だ。後者を論じるにあたって、このカテゴリーをどう使うべきか、私は何も提案しようとしていない。

第二の問題は、深さを四つの顔に分ける分類そのものは、信頼できるのか?ということだ。必要な論理的要件のいくつかから見れば、信頼できないと私は考える。適切な分類では、下位区分は互いに排他的でなくてはならない。だが私の分類には、明らかに重なりがありうる。また、適切な分類は上位の区分を尽くすべきだが、私の分類は、「深さ」のあらゆる使われ方を明らかに尽くしていない。そこで、四つの顔を次のように捉えてもらいたい。それぞれの顔は、典型的な例を中心に、家族的類似性によって結びつく事例の集まりなのである。この見方には、四つの顔の構造的なつながりを分析できる利点もある。たとえば意味の多層性は、深い意味を覆い隠すことを可能にし、それによって深さを現す。一方、物語の新奇な構造も、時間と空間の連続を乱して真相を隠すことが多いので、意味を覆い隠す一つの形なのである。

第三の問題は、深さに関するアニメ批評を、選り分けずに分析することは適切なのか?ということだ。ネットコミュニティの批評の大半は「質が低く」、それ以上検討する価値がない。だから、一般の批評を選別せずに四つの顔を取り出す方法自体が不適切だ、と主張する人もいるだろう。これに対する私の弁明は、少なくとも深さというカテゴリーを扱う限り、「よい批評」と「悪い批評」の区別があるのか、確信が持てない、というものだ。本稿で唯一論じているのは、「内容が深い」のような語を使うとき、アニメのどんな側面を指しているのかである。この問い自体に、規範的な次元はない。「内容が深い」の具体的な意味を確定して初めて、作品がどのようにその意味に当てはまるのかを、批評文が各方面から適切に論じているかどうか検討できる。そこで初めて、「よい批評」「悪い批評」を見分けられる。私は本稿で、その具体的な意味を固定しようとはしていない。だから、「何度でも言う、小学生は黙れ。『東京喰種』を十回見てから反論しろ。お前らにカネキの痛みが分かるのか?」という、一見ばかげた批評でさえ、可能な限り考察に含めたいのである。


6. おわりに――深さの謎

本稿の中心的な仕事は、深さに関わる批評文を集めて整理し、読者に見せることにすぎない。実際、この評価カテゴリーについて、何かを切り開くような見解はほとんど示していない。深さは実際に何を意味し、何を意味するべきなのか。私には、それほど難しい問題とは思えない。前者には、もっと精緻な文章の調査と分析が必要だ。後者は、共同体のなかで合意すればよい。だが、それは目の前に、登るに値する険しい峰がないという意味ではない。最後に、少し大げさな「深さの謎」という名のもと、深さについて考えを進めるための、重要な問いを一つ立てよう。

都市を強い光が包み込むアニメの画面

問いは、なぜ深さは批評のカテゴリーであり、さらには肯定的な評価カテゴリーなのか?というものだ。問いそのものが、少し分かりにくいかもしれない。こう説明できる。壮大な主題に向き合う場合を例にすれば、大半のアニメが見せる主題の深みは、その主題の学術研究に遠く及ばない。だとすれば、アニメで深さを追求することが称賛に値すると思うのなら、なぜ直接、学術書を読まないのか。光と影の芸術を通じて、アニメは学術研究にはない魅力を示すのだとすれば、なぜ深さそれ自体を追求する価値があるのか。言い換えれば、私たちがアニメで肯定的に評価する「深さ」は、主題についての確かな洞察なのか、それとも深さにまつわる自己満足にすぎないのか。さらに言えば、観客である私たちにとって、深みのあるアニメは純粋な芸術的遊戯なのか、それとも現実世界への関心を含むものなのか。

いまのところ、私には確かな見解がない。ただ、答えの輪郭は、少しずつ見えてきているように思う。虚構のアニメ作品そのものが、私たちに何を意味するのかを問うべきなのだ。深さが追求に値する評価カテゴリーかどうかは、私たちと虚構世界との関係に、大きく左右される。

本文終わり
注04

注釈

  1. 「アニメにおける隠喩」という言い方には、まだいくつか問題がある。とりわけ重要なのは、言語学における隠喩と視聴覚芸術における隠喩のあいだに違いがあり、それでも言語学の扱い方をそのまま当てはめてよいのか、疑問が残ることだ。そのため以下では、少し違うが、より日常的な「象徴」という言い方を多く使う。 ↑

  2. 面白いことに、深いとされるのは、人間についてのこうした関心だけであるようにも見える。数学や論理の形式的な論証、さらには現代社会科学の実証的な見解さえ、「内容が深い」とは呼べないようだ。これは現代文化の一つの特徴と言わざるをえない。 ↑

  3. 本稿の1995年版『攻殻機動隊』の解釈は、あくまで一つの見方にすぎない。主な目的は、壮大な主題に向き合うことで、作品がどう深さを示すかを説明することだ。作品の解釈については、読者が別の意見を持っていて、まったくかまわない。 ↑

  4. 明らかに、この素朴な帰納的推論は、論理的にさらに吟味すると持ちこたえられない。 ↑

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