2.1:「深さ」に抗する『マクロス7』
0. はじめに――異色の第七の月
37年の歴史を持つ『マクロス』シリーズのなかで、『マクロス7』(以下M7)は、最も異質な作品かもしれない。いわゆる劇場版アニメ『マクロスFB7 オレノウタヲキケ!』を見て、一般の観客が疑問符だらけになるところに、それはよく表れている。確かに『マクロスFB7』は、安っぽい編集だらけのファン向け作品だ。それでもM7本編の展開には、初めて触れる人の多くが、珍妙な行動を集めるSNSアカウント「迷惑行为大赏」に知らせたくなるようなものがあるのかもしれない。

シリーズ全体を貫く「歌声で敵を倒す」という主題は、M7でこれ以上ないほど突き詰められる。あの眼鏡にタンクトップの男が、なぜ第1話から戦闘機に乗って宇宙へ飛び出し、「突撃ラブハート」を歌うのか。バサラ本人以外、観客を含めて誰にも分からない。少なくとも初代『マクロス』なら、リン・ミンメイの歌声が偶然ゼントラーディにカルチャーショックを与えた、と分かる。『マクロスF』のシェリルやランカには、バジュラへ影響を与える能力が関わっている。『マクロスΔ』は第1話から、ワルキューレを「戦術音楽ユニット」と位置づけている。ところがバサラの行動の仕方は、歴代の歌姫とはまったく違う。後半でサウンドフォースが正式に結成されるまで、歌にプロトデビルンを退ける力があると認める人は少ないし、バサラ本人にも、歌を武器にする意志はまるでない。なぜ戦場で歌うのかさえ、彼は作中で直接語ったことがない。私たちの記憶に残るのは、銀河全体を救った伝説の人物にして、『スーパーロボット大戦』の公式チートでもある男の、あの壮絶な叫びだけだ。山に向かって、銀河に向かって――「俺の歌を聞け!!!!!」

普通のアニメ批評の仕方からすれば、これほど曖昧で議論の余地が多く、それでいてコアなファンから一様に称賛される作品は、深い解釈を施す絶好の対象だ。だが気づいた読者もいるだろう。表題の「深さに抗する」は、まさにスーザン・ソンタグの論考「反解釈」に敬意を表したものである。彼女の論考における芸術解釈への批判は、そのままこのアニメ批評へ持ち込むことさえできる。もちろん私は、いまもいたるところで行われるこの芸術上の実践に、ソンタグのような急進的見解を示したいわけではない。解釈はほかの多くの実践とともに、芸術作品の総体的な理解を形作っているからだ。本稿で私が目指すのは、ただ一つ、M7という作品が深さを拒む可能性を示している、と説明するための視点を提示することである。
1. 解釈と深さという双子
導入で述べたとおり、議論の余地と曖昧さの多い作品は、一般に解釈の格好の場になる。最も典型的な例の一つは、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の最後で、シンジがアスカを絞め殺そうとする場面だ。この場面の読み解きは、ファンのあいだにあふれている。作品そのものを論じる文章にも、「エヴァの世界観を完全解読」「エヴァの宗教的隠喩」「オタク文化の時代背景とエヴァ」といった表題が並ぶ。最近見かけたのは、実験的な色彩を帯びた『serial experiments lain』を「どう読み解くか」という議論だ。さまざまなイメージの意味、物語の正しい構造、作品が探究する深い主題などが論じられていた。もっとも、私自身の鑑賞体験では、『lain』の断片的な語り方は、内容を筋道立てて論じようとすること自体を崩しているように思えたのだが。

いずれにせよ、アニメの解釈も、ほかの芸術作品の解釈も、やっていることは同じだ。表面に見える光と影の移ろいの下には、深い意味や本当に訴えたいこと、さらには隠れた物語構造があり、それは解釈を通じて初めて明らかになるのだと、解釈する者は語る。使徒が倒された後の十字形の炎は、単なる爆発の炎ではなく、十字架を象徴する。『機動警察パトレイバー』NEW OVAの「火の七日間」は、表面上は整備班内の争いを描きながら、実は20世紀の日本の政治運動の隠喩であり、さらには「政治という外皮を借りて、アニメ業界のことを語っている」。1大ざっぱに言えば、解釈の基本構造は「表面上のAは、実はBである/Bを意味する」だ。多くの場合、深さと解釈の行為は双子である。深いと認められる要素は、つねに表面の現象を越え、その奥の構造を明らかにする過程を経て姿を現す。

具体的には、深さにはさまざまな顔があり、それぞれ異なる解釈の実践を呼び求める。単純な象徴や隠喩は、いちばん簡単だ。暗号を解くように、各イメージが何に対応するかを示せばよい。隠れた物語構造の場合は、作品全体の内的なつながりにもっと注意を向けなくてはならない。また、作り手が残したわずかな手がかりから、本当の物語の姿を再構成するだけの想像力も必要だ。場合によっては、特定の種類のイメージそのものが、深さを示す印として解釈される。その種のイメージは、作品全体の調子――あるいは作品がそう思わせている調子――から微妙にずれている。そこにあってもおかしくはないようでいて、どこか場違いに感じられるのだ。『けものフレンズ』第1期には、よい例がいくつもある。エンディングの荒廃した遊園地の画面は、すべて、さまざまな理由で閉園した実在の遊園地をもとにしている、と一部の観客が調べ上げた。「けもフレ学」とでも呼ぶべき中国語圏の「獣学」が興ったのは、子供向けの外見の下に、細部まで考え抜かれた奥深い設定が隠されていることに、人々が気づいた証拠だ。その結果、観客は作品自体をより真剣に見るようになる。台詞の微妙な違い一つひとつに、隠され、解釈を必要とする何かがほのめかされているかのように。2

最も複雑なのは、作品に込められた意味や着想、主旨などを解釈する場合だろう。この水準の深さは、作者を中心に置かない立場を最もよく示す。思想内容に関わる深さは、ほとんど例外なく大きな物語に関わる。そのため、作品そのものをよく把握するだけでなく、関連する文化的背景への理解、さらには正規の学術的訓練まで必要になる。私たちはそれぞれ異なる立場に立ち、異なる理論体系を道具にして、作品の各部分を結ぶ論理的なつながりに、異なる意味を読み込んでいく。ときには、時代背景についての知識も補わなくてはならない。「第二次世界大戦の影」「バブル経済の残照」「宮崎勤事件の影響」といった言葉は、いつもアニメ批評の文脈に加わっている。
現在のアニメ批評では、いまも解釈が圧倒的な地位を占める。この現象によいも悪いもない。多くの作り手が作品に深さを埋め込むことを好み、そうした作品自体が、解釈されるのを待っているように見えるからだ。さらに重要なのは、私たちの時代は、ソンタグが「私たちには芸術のエロティクスが必要だ」と呼びかけた時代より、はるかに寛容だということである。どんな解釈をする者も、自分の解釈が作品の内なる真実を明かしたとは主張しない。この意味で、どれほど真面目で退屈に見える解釈の実践も、それ自体を創作と見なせる。証拠は、今日のアニメ解釈の多様さだ。同じ作品を前に、優劣は別として正反対の読みをいくつも示せるだけではない。どんなアニメでも、解釈によって秘められた深さを浮かび上がらせることができる。政治哲学から『大砲の街』を解釈するのは、もちろん洞察に富む。だが、何か別の視点に立って、『俺が好きなのは妹だけど妹じゃない』の有名な「スフィンクス」を読み解くのも、同じように人を引きつけるかもしれない。あの場面は、作り手による古代エジプト芸術への意図的な「オマージュ」なのかもしれない。美少女の姿が恐ろしく崩れることで、原初的な恐怖を呼び覚まそうとしているのかもしれない。あるいは作品そのものが、劇的な画面表現で、男性のまなざしのもとにあるACG産業を告発しようとしているのかもしれない。

デュシャンの『泉』が、原理的には何でも芸術作品になれると示したように、今日の解釈の実践は、少なくとも解釈できないアニメは存在しないと示している。深さと解釈が双子なら、それはある程度、原理的には深くないアニメなどない、ということでもある。
では、アニメには深さから逃れる次元など存在しえないのだろうか。ソンタグは「反解釈」で、ポップアートは、見たものがそのまますべてであるような内容を使い、それ以上の解釈を不可能にしたと述べる。そのため、解釈による知的な汚染から私たちを救う、一つの方法と考えられた。ところが私たちの時代は、知的な遊戯を、1960年代には想像もできなかったところまで押し進めてしまった。ありふれた、見たままの単純な事物でさえ、解釈するための理論的な道具は十分にそろっている。深さから逃れるために、頭で見分けをつけ、解釈すれば深さの見つかるようなものを避けようとしてもだめなのだ。もっと自然なのは、感じることがもたらす情熱そのものへ戻ることである。
2. 情熱が理知を拒むとき
『マクロス7』へ注意を戻すと、その批評には別の光景が見えてくる。曖昧で議論を呼ぶ事象に満ちているにもかかわらず、中国語圏のネットでは、この作品の「読み解き」はほとんど見つからない。批評の大多数は、音楽と物語が心を動かす力に、ただ感嘆している。もちろん、全編を見ていれば、その理由はいくつも直観的に思いつくだろう。平凡な作品、さらには作りの粗い「クソアニメ」にすぎないからかもしれない。『夜明け前より瑠璃色な』の有名なキャベツの作画崩壊も、原理的には解釈できるだろうが、解釈する必要があるのか。あるいは、『新世紀エヴァンゲリオン』の「パラダイム転換」のような衝撃で、当時のほかのアニメがすべて色あせたからかもしれない。すべてのガンダムを終わらせた『∀ガンダム』もよい作品だが、終わったのはむしろ、ガンダムシリーズそのものの魅力だったようにも見える。
これらの説明には、確かに強い説得力がある。だが、M7について人々が口にする、ある種の称賛を見落としている。「突撃ラブハート」「POWER TO THE DREAM」「TRY AGAIN」に血が沸き立つ。熱気バサラの理屈の通らない行動に、なぜか共鳴してしまう。49話を経て花束の少女がついに花を渡せたことが、心からうれしい……。こうした評価は、ありふれている。通常の意味でのアニメ批評とさえ見なされないかもしれない。そこにこぼれ出る情熱は、ささやかな個人的な感覚を述べたものにすぎないからだ。そして個人的な感覚そのものは、ほかの人に向けて書く批評では無意味である。私たちは、自分の感覚を言葉で他人と共有することはできないのだから。だが、アニメに深さから逃れる次元を求めるとき、個人的な感覚は、絶好の可能性を見せる。
深さのさまざまな顔から考えると、この情熱が、理知による解釈の企てをどう拒むか、よりよく分かる。M7は十分に単純な作品で、ほとんどすべてを表に出し、常識で理解できる。それでも、象徴的なものが何一つないわけではない。花束の少女にも、象徴的な意味を読み取れる。少なくとも48話もすれ違った後、最終話でようやくバサラに花を渡す場面を、バサラの音楽がついに銀河の心を動かした、あの壮絶な道のりと重ねて考えるのは、ごく自然だ。M7は、初めから終わりが見通せる物語を、ただ順番どおりに語った作品でもない。ほとんど明かされない熱気バサラの過去は、わずかな手がかりから物語の別の姿を再構成できる可能性を、示しているようにも見える。壮大な主題について言えば、M7は初代『マクロス』と同じ流れにある。「歌で敵の心を動かす」という中心の設定自体に、掘り下げられる問題が数多くある。芸術には、ある程度、暴力を飼いならす働きがあるのか。美の体験は、文化や人種、さらには種の違いさえ越えられるのか。もっと広げれば、M7は「音楽が銀河を救う」という物語で、逆に、芸術が芸術であること自体の自足的な価値を讃えている、とさえ言える。

明らかにM7には、少なくとも三つの面で解釈の可能性がある。だから、その三つの面で深さがあるとも見なせる。それでも、先ほどの評価――歌に血が沸き立つこと、人物の歩みにただ共鳴すること、ある場面がなぜかうれしいこと――を思い返すと、一つの事実に気づく。作品の何かを解釈して深さを明かそうとするなら、私たちはまず、その個人的な感覚へ、それがもたらした情熱へと立ち戻らなくてはならないのだ。花束の少女の経験とバサラの音楽の道のりが、象徴的につながると考えるとき、その解釈は形式的に厳密な対照から来るのではない。二人の作中での歩みに、同じように沸き上がる情熱を感じたことから来る。同じように、批評を書くとき、M7がどれほど多くの壮大な主題を扱っていると考えようとも、議論の源はつねに、言葉にできない情熱によって、どれほど突き動かされたかにある。たとえ本当に、明かされていない物語構造が潜んでいたとしても、最終話で第7移民船団が「突撃ラブハート」を合唱するなかでは、たいていの理知的な解釈遊びなど、情熱を前にすれば、どうでもよくなってしまう。

この視点から見れば、M7は解釈の可能性や深さに欠けているのではない。むしろ徹頭徹尾、解釈を拒み、そのため自分に深さを押しつけられることにも抗しているのだ。M7がどう深さに抗するのかは、どこまでも率直で自然な、何の変哲もない言葉で説明できる。『マクロス7』は、私たちに訴えかけ、心を動かし、血を沸き立たせようとはするが、ただ一つ、私たちを説得しようとはしないからだ。実際、プロトデビルンという銀河規模の脅威が、なぜ歌声で解消できるのか、私たちは気にしない。どんな過去が熱気バサラに、戦闘機に乗って歌いに行くという発想を与えたのかも、気にしない。M7が、そんな細かな事柄を示さなかったのは賢明だ。虚構の物語に筋が通っていても、たいていはそれだけで快感が生まれるわけではない。内容がはっきりしていることは、多くの場合、情熱を体験する際の重荷にすぎないのである。
この視点は、広く「クソアニメ」とされる作品についても、別の理解を与えてくれる。昨年最大の話題作『DARLING in the FRANXX』は、つねに意図的に解釈の余地を作っていた。まるで世界中のアニメ・バラモンたちが、議論のネタや、褒めちぎって失敗のフラグを立てるネタに困らないかと、心配しているかのようだった。ところが、人々が細部の一つひとつに意味を与えるほど、作品には失望させられた。多くのACGコミュニティで笑いものになって初めて、人々は最初に何を期待していたかを思い出した。始まりは自転車、終わりはスター・デストロイヤー。確かに最後の展開も、この短い言い回しの枠内には収まっていた。だが、あまりに多くの解釈と、あまりに多くの深さの主張を背負った物語は、それ自体が、宇宙決戦を楽しむ気分を失わせてしまっていた。

ソンタグが重んじたように、私たちがアニメに求めるのは、もっと「透明」なものだ。私たちに必要なのは、アニメの「エロティクス」だ。私たちに必要なのは、美少女と巨大ロボット、あるいは巨大な美少女ロボットだ。私たちには情熱が必要なのだ。情熱は、理知が果てしなく解釈遊びを続けることを拒む。作品をひたすら深さの渦に沈めることを拒む。深さはなお、芸術作品の評価に欠かせないカテゴリーなのかもしれない。それでも『マクロス7』は、解釈に抗し、深さに抗する可能性を、多少なりとも見せている。
3. 示唆――ロックバンドからバスケットボールへ
最後に、二年前のある騒動を見直すと、考える手がかりが得られる。覚えている読者もいるだろう。二年前、アカデミー短編アニメ映画賞は『Dear Basketball』に贈られた。アニメファンのあいだでは大きな論争となり、アニメファンとバスケットボールファンのあいだにも、それなりの騒動を引き起こした。3この作品が物議を醸した理由は分かりやすい。そもそもアカデミー賞は、米国の「映画芸術科学アカデミー」が授与する賞なのだ。コアなアニメファンにとって、その賞は、受賞作がアニメの芸術または科学に、独創的で探究的な貢献をしたことを、ある程度意味する。そして、できる限りアニメそのものの出来栄えによって、優れた作品だと認められるべきだ。あの年の審査員が実際に何を考慮したのか、私たちは知らない。ただ、『Dear Basketball』が称賛されるのは、コービーという名前と結びついているから、というところが大きい。短編から受ける感動も、偉大な選手であるコービーが、現実に人々へ与えた情熱から来るところが大きい。要するに、バスケットボールに詳しくないアニメファンにとって、作品外の要因が、短編の評価に干渉しすぎていたのである。
だが二年後にこの出来事を振り返るいま、何が「アニメの内部」で、何が「アニメそのもの」なのかを、考えてみるべきかもしれない。コービーの人生が、アニメの外の事柄であることは明らかだ。では、音楽はアニメそのものの事柄だろうか。M7なら、確かにそうだろう。普通、アニメ作品には音楽が含まれるし、FIRE BOMBERという架空のバンドの音楽は、M7という作品からだけ生まれている。だが、すでに存在する名曲をアニメに挿入し、全体として優れた鑑賞体験をもたらした場合、その曲はアニメそのものに由来するものと言えるのか。
この問いには、音楽とコービーの違いは、音楽がアニメの一部を構成することにある、と答えられる。音楽を組み合わせた最終的な効果が優れているなら、既存の名曲を使っていても、少なくとも作り手の選曲の才能を示す。だから音楽は、どんな場合でもアニメの内側にある。逆に『Dear Basketball』では、ファンを感動させる核心であるコービーのNBAでの伝説的な歩みは、数分の短編にはさほど描かれない。したがって、短編が見せた内容以外は、コービー本人がどれほど伝説的であろうとも、アニメの外の要因だ、というわけだ。
しかしこの答えでは、もっと複雑な例を説明できない。中国語圏のネットでは、特撮ファンはアニメファンでもあることが多いので、庵野秀明の『シン・ゴジラ』を例にしてもよいだろう。この特撮映画は、日本とそれ以外の世界とで、評価が鮮明に分かれた。日本の観客は高く評価した一方、ほかのほとんどの国では、観客は総じて退屈でつまらないと感じた。もちろん、日本文化に詳しい批評の書き手の多くは、これは完全に日本の観客へ向けた映画だ、と教えてくれる。ゴジラは日本人の心にある核災害を象徴し、物語全体には、日本人なら一目で分かる政治的隠喩が満ちている。だから外国の観客が、同じように実感をもって受け止めるのは、明らかに難しい。では、中国にいる私たちのような外国の観客が、自分の文化的背景のために、この映画を同じ実感で受け止められないなら、どう評価すべきなのか。『Dear Basketball』の例で使った基準に従うなら、『シン・ゴジラ』を優れた作品と認めるべきではないことになる。作品外の要因を、もっと多く含んでいるからだ。私たちは、生きているうちにバスケットボールのファンにはなれるかもしれない。だが、自分の文化的背景を選ぶことは、ほとんどできない。
ところが実際の批評では、鑑賞に特定の文脈が必要なことは、欠点ではないと考えられがちだ。この基準に従うなら、『Dear Basketball』にも、それほどの論争は起きないはずだ。たとえばこう考えられる。コービー・ブライアントという人物は、米国社会で何らかの大きな影響力を持ち、同時代の文化を象徴し、人々が共有する記憶となっているのかもしれない。それゆえ審査員は、彼の競技人生そのものに芸術的な価値を認めた。ならば、この短編の受賞はふさわしい、と。もちろん、私が扱いたいのは『Dear Basketball』をめぐる論争ではない。アニメの内と外の区別は、私たちが思うほど明瞭ではない、と言いたいだけである。

アニメ批評は、立場によって見え方が異なることを認めるパースペクティヴィズムを、許容するべきだ。そんなことは、お決まりの話にすぎない。だが、それが実は、解釈と深さに抗する可能性を意味することには、私たちはあまり気づかない。その可能性はM7だけでなく、『Dear Basketball』や『シン・ゴジラ』にもある。いくら正確で深い解釈を示されても、それだけではバスケットボールファンや日本人の立場に身を置き、同じ実感を味わえるようにはならないのだから。
この意味で、ロックからバスケットボールまで、共通して得られる示唆がある。解釈や深さに抗するとは、内容を捨てて形式を受け入れることではなく、むしろ作品そのものがもたらす個人的な感覚へ注意を移すことなのだ。どれほど浅薄で粗雑なアニメも、解釈を通じて深さを得る可能性がある。深さに抗することは、今後その評価カテゴリーを使うのを拒むことではない。どんな深さも、個人的な感覚に突き動かされた理知が組み立てるものであり、ひいては、その感覚を不必要に擁護しているにすぎない、と気づくことなのだ。『マクロス7』は、このことをきわめて明確に意識させる作品だからこそ、深さにどう抗すればよいかを、的確に示してくれるのである。