第二部:アニメに描かれる狂女
三、アニメに描かれる狂女
日本女性の文化史は、アニメの女性像を理解するための豊かな材料を与えてくれる。同時に、狂女の考察は、病理的な状態に陥った女性だけに焦点を当てるものではないことも、改めて強調しておきたい。見るべきなのは、女性の顔をして現れ、秩序を乱し、規律化を逃れる、道理の通じない身体である。 女性を病理として捉える認識もまた、こうした身体を知と権力によって統治した産物であり、近代医学の言説と密接につながっている1。日本のアニメに数多く登場する狂女像は、明らかに、厳密な科学的言説とは関係なく、人々が社会文化のなかで共有する日常経験から理解されることが多い。黒化やヤンデレといった萌え属性は、いずれもキャラクターの精神の異常を表すために用いられるが、作中で医学の言説によって裏づけられる必要はない。ここでの「狂気」は、もっぱら感覚であり、主体が遭遇する経験である。観客と作品の複雑な相互作用、そして慣習として定着した文化に関わっている。それゆえ、身体経験と結びつく感覚、あるいは知覚の考察も、アニメの狂女像を分析する重要な一環となる。とりわけそれが現れるのは、狂女の「目」と「笑い」である。
(1)ハイライトのない目
狂女像は、まず暗い色調と結びつく。ジェイン・エアがバーサの声を聞く前に、作品は多くの紙幅を費やし、ジェインが屋敷の探索で出会う空間を描く。薄暗く冷たい廊下、奇妙な肖像画、狭い通路、小さな窓、両側に並ぶ、すべて閉じられた黒い小さな扉……2。これらの描写は、屋敷の不穏な空気を読者に想像させる。「小さな窓」「狭い」「薄暗く冷たい」は、光の乏しさと周囲の暗闇を暗示する。暗闇は、可視光が乏しい状態を指すと同時に、豊かな文化的意味を持つ。それは物事や人間性の暗黒面でもあり、キリスト教やゾロアスター教の二元論では悪の力を担う側でもある。暗い場所にはしばしば未知の脅威が潜み、人に恐怖をもたらす。ユングも、主体の無意識の奥深くに潜む暗黒面を指すために、錬金術の「黒化(ニグレド、Nigredo)」という語を用いた3。本来、黒化は錬金術の過程における腐敗と分解を意味する。ユングはこの概念を精神分析に導入し、個人が影に向き合うときの「魂の暗夜」と呼んだ。心が形成される過程では、意識と無意識を区別できない混沌とした一体の状態を表すとともに、個性化の過程で必ず遭遇する絶望の深淵ともされる4。この説明は、萌え文化で流通する「黒化」の意味と非常によく似ている5。どの角度から理解するにせよ、「黒」は原始的で混沌とした衝動と、もがく状態を象徴している。
そのためアニメは、狂女が表す恐ろしい脅威を際立たせるべく、まず画面を「暗く」する。とりわけ女性の身体が制御を失うことに焦点を合わせ、身体に影をまとわせる。その代表的な演出が「ハイライトのない目」である。ときには白目が広がり、黒目や瞳孔が小さくなる険しい顔つきを伴う。この表現には重要な象徴的意味がある。女性の精神的崩壊のイメージを、身体に働きかける知覚装置の社会文化的な問題へと結びつけるのだ。

暗さは光の不足であると同時に、心理や文化の水準では、人を不安や恐怖に陥れる色合いでもある。「ハイライトのない目」は、この二つの意味を視覚的に融合させる。女性のハイライトのないまなざしは、ふつう観客に二つのことを順に示唆する。第一に、キャラクターが想像を絶する精神的な打撃を受けたことだ。それは重要な関係の断絶や信念の破壊であったり、レイプや暴力などの激しい辱めであったりする。『ベルサイユのばら』第19話では、伯爵夫人の幼い娘シャルロットが公爵との結婚を強いられ、思いを寄せるオスカルと一緒になれず、このような精神の崩壊に陥る。風雨のなかに立ち、髪を風になびかせ、両目のハイライトが消え、瞳孔は縮み、白目が広がり、手足を振り回して大声で笑う……。
第二に、激しい精神的打撃の後、キャラクターが催眠にかかったように自分を制御できなくなったことだ。たとえば1996年発売の美少女ゲーム『学園トライアングル』には、光のない目によって、参照記事の言葉でいえば「外界からの刺激に反応を示さない」状態を表す描写がある6。『Fate/Zero』第1話では、幼い間桐桜が刻印虫に数日間苦しめられた後、修練の場に静かに横たわり、両目をぼんやりとさせている。テレビアニメ『School Days』第12話では、精神の崩れた西園寺世界がナイフを手に、倒れた伊藤誠を繰り返し刺す。彼女たちは無反応になり、あるいは機械的な動作を繰り返す。その目にはもはや他者がおらず、自分自身さえいない。
後の三例に描かれる状態こそが、主体の内的な分裂を明らかにしている。「外界からの刺激に反応を示さない」とは、注意の喪失であり、意識が完全に散漫になった状態である。ふつう、最も直観的にそこから読み取れるのは、心と身体の二元的な分裂を示すデカルト的主体だ。意識は身体への刺激を感じられず、傷つけられた肉体を制御することもできない。肉体の現実への関心を放棄することは、崩壊を食い止めようとする主体の努力である。
著名な美少女ゲームを原作とする劇場版アニメ『Fate/stay night [Heaven’s Feel]』(以下HF)第二章の終盤で、間桐慎二は間桐桜に肉体関係を強要しようとする。当初の桜の光のない両目と、されるがままの態度は、次の過程を示している。桜は意志の力を使い、身体の制御を自ら放棄し、耐えようと自分に言い聞かせる。辱めに耐え忍ぶことは、精神が身体の上に立つことを前提とし、自意識を主体の一貫性を保つ担い手とみなす。そうすれば意識の純粋さを保てる。あたかも、一貫した知覚のなかで自己の存在を確かめられるかのように。

しかし、光のないまなざしの深い意味は、主体の分裂を示すだけでは捉えられない。意識の自己解体と、その自己解体の再領土化を含む、終わりのない矛盾した運動に根ざしているのだ。自意識の一貫性こそ、知覚に対する近代的な統治の過程が生み出した、虚偽の、構築された意識――幻想――なのである。ジョナサン・クレーリーが示唆するように、視覚の歴史研究は、知覚を通じて自己の存在を直接捉えられるという「現前」の考え方が、歴史的に成り立たなくなったことを示してきた。注意はその現前を模倣するものとなったが、同時に、現前の不可能性を示す代理物でもある7。主体の一貫性という見方はかつてなく揺らいだ。注意は、近代における主体の統治の問題となる。それはまず統治の対象とされるが、知覚がそこから逃れ、統治が機能しなくなる場でもある。
『魔法少女まどか☆マギカ』でソウルジェムと少女の身体が切り離されることは、デカルト的主体を誇張して演じてみせたものだ。心身の二項対立は、その一体性に基づく身体図式を完全に破壊する。美樹さやかが、自分の身体はソウルジェムから離れると動かなくなる空の器にすぎないと知ったとき、意識が散漫になりうることへの恐怖は、身体化された認知を破壊し、主体の位置をも疑わしくする。さやかが直面するのは失恋の危機だけではなく、近代的主体の深い自己懐疑である。光のないまなざしは、身体に向けられていた注意が別の場所へ移ることだけを意味しない。その注意がどこに向かったのかさえ、捉えられなくなることを意味する。
催眠や夢遊に似た状態は、注意の矛盾を極端な形で示唆する。催眠の技術的な過程が示すのは、注意が強く動員され、限られた対象に集中して初めて、主体はそれ以外への注意を失い、自律的な制御の及ばない恍惚状態に入るということだ。催眠状態になることは、他者に制御されることを意味すると同時に、逆説的に、理性で制御できない危機にもなる。
典型的な例が、催眠状態での殺人である。精神が散漫な状態の殺人者は、自律的な理性を持つとみなされないため、「正常に」法的制裁の対象となることができない。狂人の統治と同じく、催眠にかかった者――注意が完全に散漫になった者――を統治しようとする努力は、新しい権力の言説、統治技術、そしてそれに対応する恐怖の文化を生み出した。催眠は、「患者の意識的な参加と意志の力を引き出す合理的な過程ではなく、自動的な過程へ至る実践とみなされた。その過程は、より低次で、より本能的であり、つねに動物性と結びつけられる」8。それが導くのは、動物性というより、まさしく女性の身体性ではないか。催眠にかかることは、国家、社会、家父長制の意識による身体管理の失敗を意味し、運命を身体感覚の自動的な働きに委ねることを意味する。催眠にかかった者はここで、さまよう身体、統制を逃れた狂女と同じ存在になる。そして社会管理の必要にも、意識の一貫性を求める主体にも、深刻な脅威をもたらす。

ハイライトのない目という演出は、黒化した女性やヤンデレ女性の自己の喪失を描く。クレーリーの議論をこの側面に限って捉えるなら、それは秩序から離れる論理を示している。注意が散漫になることは、主体の意識を犠牲にするだけでなく、主体に働く道徳規範をも無効にするからだ。そのため、黒化の原因を振り返ることは重要でなくなる。女性キャラクターの黒化は、身体への暴力以外にも、男性に愛されないことや貞操の喪失といった家父長制的な執念と密接に関わることが多い。それでも肝心なのは、黒化したキャラクターが家父長制に反抗する意識と去勢の力を生み出し、また自分自身に絶えず反対する者にもなることだ。身体に注意を向け、制御しようとすることを手放し、自ら堕落することは、まさにこの終わりなき対抗と妥協の過程であり、父の法の秩序を嘲弄する性的倒錯の方策である。自分の身体が傷つくのも顧みず、狂ったように魔女を虐殺するさやかがその例だ。だが、この「放任」は、放任すること自体への注意も生み出す。この往復する対立は、ハイライトの消失が示す注意の散漫化と、注意を再び捉えようとするテクストの統制とのあいだにはっきり表れる。
HF第二章の終盤にも、それは集中的に現れている。桜が慎二の辱めに耐えようと決めてから、慎二に抵抗するまでのあいだ、実際の注意の働きは複雑になる。桜の意識は、注意を集中するのをやめようとする企てに集中している。何も考えないように、すぐに終わるのだからと自分に言い聞かせるが、それゆえにかえって注意を散らせず、性的暴行を受けているという事実の恐ろしさに集中せざるをえない。ここには、家父長制の意識が注意を再び導く働きが表れている。考えないようにという命令の反復が、注意を生み出すのだ。あるいはフロイト的にいえば、無意識の葛藤――実のところ、士郎が自分の身体を所有することを強く気にかけているという葛藤――を抑圧するのである。この家父長制的言説は、その直後、桜が初めて慎二に抵抗することを通じて示される。この身体的な抵抗に、本格的な堕落、すなわち二度目の注意の散漫化へ向かう動きが先取りされている。黒化による知覚の解体は、身体の抑制に打ち勝つ。慎二が暴力に訴えると、桜は結局抵抗できないと悟って絶望し、ほとんど無意識のうちに慎二を殺してしまう。アニメは、この身体と統治技術の関係の論理を、確かに可視化している。黒い聖杯に隠れているのは桜の意識ではなく、アンリマユの意識である。しかし両者の関係は、思いがけず意識と無意識の関係、知覚の偽りの現前と、知覚の宙吊りとの関係を再現している。
しかし、桜の知覚の宙吊りはここで終点に達する。身体性の放縦が終わるのは、結末で衛宮士郎が桜を救ったときではない。桜が「この世全ての悪」と同一化した時点で、すでに終わっている。夢を見ていて自分の身体の状態をまったく知らない場合とは違い、悪と自己を同一化することで、桜は意識の中心を再構築する。理性は再び桜の意識に戻ってくる。愛する男性を守るという執念は残り、遠坂凛に、士郎を連れて一刻も早く冬木市を離れるよう提案することもできる。私たちの前に現れるのは、意識がさまよい、ヒステリー性の麻痺に陥った人物ではない。社会の「善」を破壊することを喜ぶ性的倒錯者である。桜は悪になる可能性をはっきりと知り、受け入れている。
ここで明らかなのは、ハイライトのない目という演出と、かつてそれが示していた意識の解体とのつながりが切れたことだ。光のないまなざしは、もはや注意の散漫化を意味せず、ただ純粋な暗黒面を示す視覚効果となる。主体が黒化した自己に同一化し始め、それを安定した人格障害――ヤンデレ――として固めるとき、主体は再び自分を律し、制御するようになる。それに対応するのは、家父長制の意識による身体の再管理である。
ゲームのHFルートの結末では、士郎が桜と黒い影、すなわちアンリマユとのつながりを断ち切る武器を投影し、桜の黒化も終わらせる。桜の善良な本質に結びついた、癒やされた哀れな魂は称えられる。一方、黒い影をまとい、刻印虫に内側を食い尽くされた穢れた「身体」は、物語が処理すべき汚点とされる。この展開はいっそうはっきりと、デカルト的な心身二元論の主体が不在だったのではなく、黒化の病理的な設定に、初めから組み込まれていたことを示す。黒化したキャラクターが悪役としての自分に同一化すると、筋書きの曖昧で不確定な、主筋を逃れる要素も十分に動員され、物語と視覚的な中心――暗い顔や奇妙な装い――に奉仕するようになる。ここに表れているのは、家父長制的幻想による汚点の象徴的な解決だけではない。他者に向けられた目的的なまなざしであり、注意の散漫化への抵抗でもある。
ハイライトのない目は知覚の解体を意味し、狂女が、意識と理性ではまったく制御できない領域へ堕ち、身体を当てもなくさまようままにしたことを示す。そして観客にも不安を生み出す。身体を制御できないこと、理性的な意思疎通ができないことに結びついた不安である。同時に、この作画表現は、家父長制的言説による身体統治の全体的な論理の変化も示す。光のないまなざしは、必ずしも注意の完全な喪失を意味しない。キャラクターが暗黒面に同一化した後の、視覚的な美的効果にすぎない場合もある。この脱中心化から再中心化へという視覚的な過程は、目だけでなく、狂女の笑いにも現れている。
(2)不気味な笑い
ここでいう「不気味な笑い」とは、見る者を怖がらせる笑いである。この演出はアニメの至るところに見られる。『Angel Beats!』のユイが世界の残酷な真実を知り、抑えきれずに感情を吐き出す笑い。HF第二章の終盤で、黒化した桜の口元に浮かぶ微かな笑み。『School Days』で、伊藤誠の頭を抱える桂言葉が見せる、安堵に満ちた、身のすくむような微笑み。笑いの大きさには、天を仰いで制御を失う大笑いから、ほとんど声を立てずに口元を緩める笑みまで違いがある。しかしどの不気味な笑いにも、笑筋が奇妙に張り詰める効果がよく見られ、それにふさわしい場面の演出が伴う。不気味な笑いは、視覚と聴覚の二重の表現であるだけではない。見る主体に与えられる、一つに統合された知覚経験でもある。観客はその一体的な経験を通じて、笑いが伝える感情を感じ取り、受け止める。
「見る者を怖がらせる笑い」という説明のうち、「怖がらせる」は、その笑いがもたらす感情的効果を指している。一方、修飾される「笑い」は、豊かな意味を持つ。ここでまず問われるのは、笑いにどのような思想が表れるかという、形而上学と解釈学の問題である。笑いは、その背後にあるユーモアやアイロニーにしばしば結びつき、また、それらを声や表情で具体的に表す手段でもある。ドゥルーズはユーモアとアイロニーを、笑いの背後に隠れた、規範から逃れ出る二つの道とみなす。それぞれに、異なる出発点と行動の帰結がある。「アイロニー」が、キルケゴールの「信仰の騎士」のように、神聖な法への信仰を明確にすることで世俗の法や規範を超え、捨て去るものだとすれば、ユーモアは正反対だ。世俗の法や規範の規定に完全に同一化し、それを引き受けることで、逆説的に法の欠陥を指し示す。「アイロニー」の側は、法律を二次的な原理とみなし、その上に立つ善という原理に望みを託す。しかしその善は、法の暴力という形で自らを示さざるをえない。いずれにせよ、法の代弁者たる暴君が場違いにも作り出され、秩序を定める権威が立て直される。それに対して「ユーモア」は、法の支配を無条件に引き受けること、法の「善」を絶えず確立する絶対的な「悪」である。ドゥルーズはこう述べる。
「サド的な主人公たちが法を転覆しようと奔走しているからといって、その対比から、マゾヒストは喜んで法に服従していると考えてはならない。マゾヒストの服従では、しばしば侮蔑の要素が強調される。表面上明白な服従が、批判と挑発を覆い隠しているのだ。彼はただ、もう一方の側から法を攻撃する。これが私たちのいうユーモアである。超越的な、より高い原理へ上昇するアイロニーの運動に対し、それは法からその帰結へと下降する運動なのだ。過剰な熱意によって法をねじ曲げる(twisting)やり方を、私たちはみな知っている。法を注意深く適用することで、その不条理を示し、法がつねに阻止し、追い払おうとしてきた混乱を引き起こすことができる」9
ドゥルーズは、アイロニーとユーモアの区別をサディズムとマゾヒズムの関係に導入した。それを踏まえれば、私たちは議論を異性愛のマトリックスのもとのジェンダー関係へと広げ、狂女の不気味な笑いと、邪悪な悪役の「男性化された」不気味な笑いを、細やかに区別できる。悪役の笑いは、一方で秩序を嘲弄し、他方で個人の信念と身体を守り抜く。それは、弱い個人の身体と暴力的な国家の身体との不平等な関係を変えようとし、逸脱によって法を踏みにじりながら、自分の法を作り上げる。この「アイロニー」を帯びた笑いは外へ向けられ、しばしば奔放な笑い声となる。その声は、法と秩序の〈大他者〉に対して、同一化しないという態度をはっきり告げる。
ところが黒化した女性やヤンデレ女性が、笑いによってその状態での力と加虐性を示すときには、マゾヒズムの次元が含まれている。非人間的な扱いを受けた桜は、歪んだ間桐家への復讐を考えるのではなく、士郎に依存する所有欲と、ほかの女性への嫉妬へと向かう。黒化した桂言葉も、何らかの力を示そうとしているわけではない。ただ伊藤誠と永遠に一緒にいたいのだ――死者への性的な愛着という倒錯の意味で。「ユーモア」を帯びた不気味な笑いは、つねに自分を笑いの対象にして、自分に向けられる。法に従おうと努め、逆に、法が引き続き自分を完全に支配することを求める。そのことがかえって、法の作用がまだ不十分であることを暴く。
たとえば鏡に向かう桜は、突然恐ろしい笑みを浮かべ、自らの意識を離れた言葉を口にする。先輩、すなわち士郎を外に出さなければよい、というのだ。これは士郎の安全を守るために外出を制限したいというより、病的な受虐の態度で、士郎に不可能な要求を突きつけているのである。永遠にそばにいて、一瞬たりとも目を離さず自分を見てほしいのだ。絶対的な欲望の対象になろうとするこの受虐の論理は、HF第二章のエンディング曲「I beg you」の歌詞に、さらに露骨に表れている。
しかし、光のないまなざしのうちに狂女像の統治があるように、黒化やヤンデレの「ユーモア」を帯びた笑いにも、ある種の「アイロニー」が組み込まれている。あるいは、両者は言葉で説明するほど簡単に二分できない。注意の喪失自体が再集中の可能性を含むように、受虐的欲望の果てしない運動も、内側に自らの反対物を含んでいる。無限に引き受ける欲望は、それ自体、引き受けるものを無限に要求することにつながる。桜の黒化は、受虐的欲望の永遠の運動にはとどまらなかった。逆に、アンリマユの影響で「暗黒」の側を受け入れたとき、桜は最終的に「男性化された」目的論的な態度も受け入れた。ここで逆説的にも加虐的主体の欲望が桜に現れ、復讐の力を用いて間桐臓硯を殺すに至る。法の「父」であり、桜の身体への虐待を始めた者を殺すことで、かつての主従関係の失効を告げるのだ。
無限に耐える者としての桜は、黒化の過程で生まれると同時に消えてしまった。その手がかりは、後の展開で明かされる、この世の悪が桜の意識を操っていたということだけではない。すでに、慎二に襲われ、黒い影に取りつかれる直前の最後のつぶやきにある。桜は慎二のような人間に死んでほしいと思ったのだ。黒化の不気味な笑いは、辱めに耐える逃走線に沿って法を嘲り続けるものではなく、外へ向けられた秩序へのアイロニーを、そして「男性化された」攻撃の論理を含んでいる。
不気味な笑いに現れるユーモアとアイロニーの区別は、その背後の形而上学的な意味を理解する道を与える。また、笑いが「女性的なもの」の現前として「男性的なもの」の現前とどう関わるかを考えさせ、その背後のジェンダー文化を深く問い直すことへとつながる。しかし見る主体とアニメのイメージにとって、探るべきものは笑いの解釈学だけではない。視聴覚の仕組みに根ざす文化の論理も同じように重要である。不気味な笑いはまず視覚効果であり、見る主体に刻まれた知識と文化の文脈を呼び起こし、そこにもジェンダー化された要素が含まれている。
笑いの背後の意味を読み解く解釈学とは異なり、その視覚的な衝撃は、解釈も象徴化もできない主体の欲動の要素を残している。アニメが狂女の不気味な笑いを表す手段には、場面全体の演出だけでなく、笑っている口元とその周囲の要素のコントラストを調節して、「笑って開いた口」を際立たせることもある。十分に細かく描かれていれば、不気味な笑いはまず、笑筋の異様な緊張として現れる。筋肉が最も張るのは、しばしば口角である。アニメは不気味な笑いを見せるとき、この位置の作画を巧みに調整する。視覚表現の論理では、口角の移動が口全体の開き方を決めるからだ。また口角の光と影の対比は、笑筋の作用を強調し、口が緩んでいる、あるいは異様に歪んでいるという錯覚を生む。そして唇のあいだに開いた口を、奇妙な曲線で縁取って見せる。不気味さはまさに、笑いの担い手である唇や口腔の、不穏な動きに表れる。
HF第二章の終盤で桜が黒化し、不気味に笑うとき、口角では、笑筋が口を閉じる方向へ異様に押し縮められているように描かれ、そこに濃淡のある影がつく。一見すると、桜が口を大きく開けているような錯覚を覚える。同じ手法は、桜がギルガメッシュを呑み込む場面でも使われる。口元のアップに焦点を合わせ、何かを食べているかのような様子を映すのだ。このときカメラは、「食べる」という行為への欲動の投影となり、桜が呑み込む恐ろしい姿を観客の前に差し出す。

この視覚効果は、精神分析的な文化の隠喩を形作り、観客を不穏な欲動の対象へと結びつける。クリステヴァのアブジェクシオンの理論は、不気味な笑いの視覚的記号に隠れた文化的隠喩の説明を与える。この理論では、進歩と秩序の成立は、原始的なものや混沌の排除と切り離せない。そして原始的なものは、まさに排除されたものとして、社会の全体的な秩序に組み込まれる。女性に併存する「生命」と「死」の性質は、対立物の合流を暗示し、最も根源的な原初の混沌が、象徴秩序の構築した無限の境界を踏み荒らすことを引き起こす10。父の隠喩、すなわち支配的な家父長制の意識が、主体の構築過程に先験的に入り込むとき、主体は、そこにあった女性的なものが排除されるという原初の喪失を経験する。それを通じて、文明社会が課す欲望とその欠如を受け入れる。排除された、原始的な「女性」を意味する部分は、慎重に処理される。主体の欠如を際限なく埋め合わせながら、なお欲望の対象であり、本質的な欠如を構成する他者でもあり続けるのだ。他者と主体の関係が侵犯され、曖昧になると、主体は意味の崩壊への恐怖に陥る。この他者こそが、「アイデンティティを混乱させ、体系を妨げ、秩序を破壊する……両者のあいだにあり、どちらともつかず、混じり合ったもの」なのである11。
この抽象的なジェンダー化の過程は、個々の社会が事物に向ける文化的な態度と密接につながっている。ここからクリステヴァは、食物、廃物、性差という三種のアブジェクトを挙げている12。そのうち食物は、主体の摂食行為と結びつき、口唇期の性的欲動の隠喩であり、生命力の表れでもある。人は生きるためにつねに食べなくてはならないため、食物はいつでも魅力的なものに見える。しかし食物が「過剰」な形、すなわち黴、腐敗、排泄物といった、食物としての「死」の形で現れ、食物と廃物の境界を曖昧にすると、吐き気を催すアブジェクトへと変わる。過剰な摂食、つまり過食症は、「口腔の衝動が、対象を呑み込む原始的な衝動へと退行すること」であり、生命の必要を超えて、死の欲動を表すものでもある13。
唇は、食物が変化するこの過程で、一時的な欲動の対象となる。それを視覚文化は敏感に見分け、印づける。口紅や唇の整形は、この性感帯を美しくするものであると同時に、原始的で醜い唇を統治する技術でもある。口紅を塗った口は、食べる口ではなく、見せる口になる。こうして、原始的で制御できない口腔の欲動とのつながりは、一時的に断たれる。しかし唇に適用された「原始/文明」という分類がずれると、恐怖が生まれる。都市伝説の口裂け女がその例だ。メスで耳元まで切られた唇は、唇の統治技術を乱すだけでなく、口裂け女に残っているかもしれない原始的な脅威の力を暗示し、母の超自我が主体を呑み込む作用を体現する。ここでは「他者」としての女性が、内にある原始性に結びついた死の欲動を、パラノイア的な征服として外へ向けることで、アブジェクトとしての主体を再び確立するのである14。
こうして不気味な笑いは、「唇の暴走」となる。その笑いがもたらす笑筋の不自然な緊張は、「喜び」と一連の否定的感情との明瞭な境界を壊す。「笑い」の意味を無効にし、捉えどころのない、曖昧な意味の回路へ入っていく。さらに重要なのは、「笑い」の意味を宙吊りにすることで、唇の原始的な力が現れることだ。それは感情の崩壊に続く過食と結びつき、主体を食べすぎによる死へと追いやる死の欲動に結びつく。狂女の「ユーモア」も結局「アイロニー」として表れてしまうと残念ながら指摘せざるをえないとき、不気味な笑い自体がもたらす感覚の震えだけが、比較的ラディカルな意味を持つように思われる。黒化した女性やヤンデレ女性の表現において、それは分析の突破口となる。しかし同時に、視覚文化が狂女像を丸ごと取り込むこと、とりわけ映画とは異なるアニメの美的対象化の過程に、不可避的に囚われてもいる。
四、狂女と視覚文化
ハイライトのない目と不気味な笑いは、黒化やヤンデレといった属性の際立った視聴覚的な特徴であり、アニメの狂女像を理解する基礎と分析の道筋を与える。しかし、キャラクターの視覚的な分析だけでは、その像を生み出す文化の論理とのつながりを、まだ説明しきれていない。HFに注意を調節する仕組みがあらかじめ設定されていたように、黒化するキャラクターの登場には、テクストに隠れた目的論との必然的な関係があるように見える。では、画面の感覚的な効果は、近代文化による主体の知覚の統治と、内在的につながっているのだろうか。この問いは、私たちを再びクレーリーの関心へと連れ戻す。彼の研究は、19世紀の近代絵画に現れる注意の配分と散漫化を探るというより、根本では、見る者と見られるものの背後にある対立を問うている。「資本の動的な論理は、人々に注意の規律化の王国を押しつけようとする……同時に、主体がその規律化の命令に従いきれないことも明らかにする」15。
したがって狂女像の考察を、画面に現れるキャラクターが示す知覚の様式だけに限定してはならない。文化研究の姿勢から、その像の誕生の背後で、アニメが観客の「目」をどう管理するかを見いだす必要がある。アニメという芸術の登場は、虚偽意識(false consciousness)についての新しい批判領域を開いた。これはアニメが映画よりもアニメ性(アニメティズム、animetism)に依存することと、切り離せない。
カナダのアニメ研究者トーマス・ラマールによれば、映画性(シネマティズム、cinematism)は奥行きの方向への運動を通じ、世界を一つの目標を持つ連続した全体として経験させる。それに対してアニメ性は、異なる平面のレイヤーを重ね、世界をそれぞれ独立した次元として示す16。純粋な映画性は、カメラによる表現の一形式であり、近代的主体の視覚様式と密接につながる。デカルトの屈折光学の原理に従い、画面の世界を観客が正確に捉え、再発見できるようにする。そして見る主体は、視覚の中心に位置する17。同時に映画性は、観客が同一化できる視点と、そこから世界を見るための窓を与える。純粋な映画性のもとで、観客はカメラを通じ、奥行き豊かな映画の世界が作り出す「速度の政治」へと入っていく。この政治は、「世界の上に立ち、それを支配する感覚を観客に与え、観客と目標との距離感を崩す」18。
「天使」であれ「狂女」であれ、ここで女性像は、たいていカメラの「窃視欲」の対象として現れるにすぎない。その論理は、「決定的な男性のまなざしが、その必要に応じて類型化された女性像へ、自らの幻想を投影する」19というものだ。黒化、ヤンデレなどに類型化された狂女は、それゆえまなざしの犠牲者となる。主体とカメラを同一視し、主体の欲望の対象とカメラのまなざしの対象を同一視するこの論理は、映画の装置論がいう虚構効果を示す。虚構効果は主流社会のイデオロギーを複製し、再生産する。観客は、そのイデオロギーの呼びかけを受ける主体となる20。
しかしこの結論では、観客とカメラの分裂、すなわち目とまなざしの分裂が捉えられていない。クレーリーの知覚論では、それは意図的に統制された視覚の中心から観客が離れることとして現れる。注意は自らの解体の条件でもあり、観客の気がそれる可能性は、映画的なカメラが注意を動員し、統制する過程に、初めから組み込まれている。
一方、ジジェクの文脈では、まなざしは客体から来るものであり、その視線は〈大他者〉の視線である21。カメラに従って、露骨な性描写や、深淵、怪物としての極端な女性像に遭遇するとき、観客にまず起こるのは、男性的な窃視欲やフェティシズム的欲望の充足ではない。〈大他者〉に見られているかもしれないという、気まずさや恐怖である。カメラは、距離を取ることのできる中心を与え、観客はそこでカメラから疎外される。
逆に、カメラが幻想に正面から向き合う目的性を失い、肝心な場面を映さずよそへ目をそらし始めると、見る主体は、超自我による淫らな補足を存分に享楽し始める。実写映画『カサブランカ』で、3.5秒の省略によって覆い隠される男女の交わりがその例である。重要なのは、その3.5秒に二人が本当に行為に及んだかどうかではない。交わりへの享楽は、すでに見る主体の幻想のなかで起きている。交わりの直接的な描写の「欠如」こそが、見る主体への〈大他者〉のまなざしを遮っているのだ。〈大他者〉の課す父の法の命令は、一時的に観客への監視を緩めることで自らの作用を示す。表向きには罪悪感から解放されるからこそ、その罪悪感自体の淫らさを思う存分楽しむことが黙認されるのである22。
映画性に対し、アニメ性は合成の芸術である。互いに独立した異なる平面を、さまざまな合成技法によって組み合わせることで生まれる性質だ。その最大の特徴は、視覚の中心をずらすことにある。カメラの物語上の中心を解消し、近代的主体が「窓」から出発して、屈折光学の示す奥行きの関係を通じ、注視する対象を捉えるという、前近代的な視覚様式をも壊す。同じく重要なのは、アニメ性が「立体と連続」ではなく、「平面と断裂」の美学を与えることだ。アニメも、前景の人物と背景の環境が一続きの奥行きを持つように重ね合わせる「閉じた合成」によって、映画性を再現できる。しかしキャラクターの身体は、しばしばアニメ性をそのまま残しており、身体の各要素は依然として、平面的なレイヤーの美学を構成する。言い換えれば、キャラクターの身体の諸要素は、同じ平面上で二次元の位置関係を保っている。実写のカメラは鼻筋や額のにきびの立体感を再現できるが、アニメはその顔の細部を平面化する。その結果、観客は各レイヤーの表面だけで注視する点を素早く切り替え、複数の参照枠を持つようになる23。
一方で、主体の中心をずらすこの装置は、イデオロギーがアニメを通じて主体に呼びかける道筋を完全に逆転させる。注視点が欠けるか、あるいは大量に増えるため、見る主体はもはや欲望の対象を直接には見つけられない。しかし他方では、社会文化によって規律化され、観客の主体性に刻まれた注意の管理様式も、それに応じて働く。中心のないものを前にすると、見る主体はかえって注意を積極的に、緊張を伴って配分するようになる。観客は、欲望の対象を押しつけられるのではなく、「卑怯にも」何気ないそぶりで、自らそれを手に入れるのである。
同じく、カメラの不在は、注視点と見る主体の解体を意味し、〈大他者〉のまなざしの喪失ももたらす。見る主体は、アニメの幻想性に入る際、罪悪感の重荷をいっそう下ろしやすくなる。この「重荷を下ろす」ことは、二次元と三次元の現実の違いを全面的に肯定する態度にも、しばしば表れる。映画性は、観客が抵抗できるまなざしの中心を与える。だが中心に注意を集めようとするその働き自体が、授業中の生徒がよそに気を取られるように、観客の気をそらすことにもなる。それに対してアニメ性は、没頭させる「中心のなさ」を与え、導かないという形で、観客をアニメの虚構の幻想世界へと誘い込む。
ここで私たちは、スチュアート・ホールのテクストとの交渉という議論が、アルチュセールの重層的決定論に向ける批判だけでなく、テクストとの交渉そのものの行き詰まりにも出会う。イデオロギー的幻想が表に出ているとき、受け手は条件付きで一部を選び、全面的に否定し、あるいはテクストが伝えようとする幻想を根本から読み違えることもできる。だが、その幻想の直接性が覆い隠されると、受け手は自ら幻想の構築に参加するのだ。
アニメ性と映画性の巧妙な組み合わせは、狂女像を管理している。一部のアニメは、レイヤーの美学を極端な形で示すことで、身体が制御不能なものへ堕ちることを具体化し、それを別の制約へ結びつける。『魔法少女まどか☆マギカ』では、魔女の結界と外の現実が、まさに二つに分かれている。外の現実は、しばしば閉じた合成による擬似的なカメラで、キャラクターの日常を描く。それに対し結界の内部では、レイヤーの美学を示すコラージュが多用される。視覚的な快楽を導くため、魔法少女の力を見せる場面の一部では、カメラの奥行きを模して、アクション場面で遠近感がもたらす快感を再現することもある。それでも、魔女、使い魔、背景の動的な関係にはコラージュが典型的に用いられ、魔女の極度に混乱した心境が表される。
一方では、結界のなかで魔法少女の姿は背景と同化する傾向にあり、とりわけ人物の変形によってデカルト的な身体が解体される。そこに見られるアメリカのアニメーションの演出様式は、大塚英志のいう武器リアリズム(weapon realism)に含まれるフェティシズム的要素への対抗である24。流動し変形する女性の身体は、管理を逃れた不穏な文化的対象であるだけでなく、注意を散漫にする仕組みでもある。人の顔は見慣れぬものとなり、参照枠となる重要な器官や部位が流動して、曖昧になる。フェティシズムの対象が定まらないことで、そこに投影されるまなざしも疑わしくなる。
他方では、象徴的な記号や隠喩が大量にコラージュのレイヤーへ埋め込まれる。これは観客の注意に大きな圧力をかけ、目もくらむほどのレイヤー上の記号のなかで、視覚を解体の危機にさらす。

しかし、変形した女性の身体は一時的に作られるにすぎず、矛盾が解決すると、すぐに比較的厳格な構造を持つ元の身体へ戻る。それだけでなく、注意の弁証法が意味するのは、魔女の結界をなすレイヤー映像全体が、注意の動員と散漫化の中心になるということでもある。コラージュを見る主体は、豊富な商品を幾層にも並べた百貨店を歩き回るかのように、目に入る画面の各要素へ、注意を比較的均等に配分し続ける。これは、カーニヴァルや博覧会の来場者の、矛盾した放縦に似ている。一瞬で過ぎ去るポストモダンな体験に没入し、あるいは注意を散らすために、主体はつねに自分を統制し、最低限の道徳を守らなくてはならない。さらに、いつでも注意を散らせるだけの制御力も必要になる25。
さらに、観客が画面の各要素への注意の切り替えにすっかり没入しているとき、実際にはすべての注意を画面の要素に集中させることで、すでに「白昼夢」という催眠に似た状態へ入っている。純粋な映画性のもとで、見る主体の注意は、スクリーンそのものと、スクリーンに同一化する肉体のあいだを揺れ動く。ところが純粋なアニメ性では、注意は画面の一つの要素と別の要素のあいだを揺れる。ある幻想と、別の幻想のあいだを揺れるのだ。
『魔法少女まどか☆マギカ』自体は、なお映画性の要素も大量に用いている。それでも、その典型的なアニメ性は、アニメの女性像、とりわけ様式化された極端な「魔女」の像が、主体や秩序への脅威をもたらす「恐怖感」と、内的には無関係かもしれないことを示唆する。少なくとも、視覚の水準ではそうなのだ。魔女の憎悪と執念、流動して落ち着かない身体、絶望の力を際立たせる結界は、純粋な視覚的快楽の装置に組み込まれている。
むしろ、映画のカメラの模倣で知られるufotable制作のHFに登場する黒い影のほうが、強い恐怖をもたらす。閉じた合成による擬似的なカメラは、黒い影、すなわち桜を画面中央に据える。周囲の壁は遠近法の線に従って視覚の窓から奥へ延び、光が急速に弱まりながら、暗い中心へと達する。私たちは真っ暗な路地の突き当たりへ視線を投げるが、その路地はまなざしをこちらへ返してくる。見る主体はここで、キャラクターの論理と、その背後の作者の意識に関わる空白のまなざしに遭遇し、説明のつかない恐怖と緊張に陥る。ただしそれでも、桜という狂女像にはアニメ性が残っている。つまり、見る主体は桜の姿において、「散漫から集中へ」という規律化の過程を経験するのである。欲動の対象を直接見せる実写ホラーの恐怖と比べると、アニメの恐怖は、美的な快楽として味わうことと、より近いところにある。さらにいえば、アニメは実写映画以上に奇矯な仕方で狂女への幻想性を示し、「超幻想性」へと向かうのだ。