屋頂現視研

黒化とヤンデレ――アニメの「狂女」像を文化から考える01

← 中国語原文15 分で読了編集プレビュー

第一部:「狂女」――ある批評の出発点

フェミニズム文学批評の「狂女」という概念を出発点に、前近代の母親としての規範から、明治期の国家による身体の統制、戦後の消費社会と少女文化へと、日本女性の身体の歴史をたどり、黒化やヤンデレといったアニメの属性にある家父長制的言説と反抗の可能性を問う。

著者: 钟子默翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

第一部:「狂女」――ある批評の出発点

钟子默のプロフィール画像。傘を差す人物
钟子默

関心領域:ACG(アニメ・マンガ・ゲーム)文化研究/ジェンダー/空間/思想史。共感に溺れがちな、周縁からの観察者。

本稿は、2019年第8回オタク文化国際学術シンポジウム・半次元推薦賞を受賞した。

要旨

本稿は「狂女」という概念から出発し、日本のアニメに描かれる狂女の姿と、その背後にある文化を考察する。日本女性の身体文化史が示すのは、「少女」文化が、国家に統制される身体に対する個人の身体の抵抗を体現しているということである。国家の言説の束縛を離れた女性の身体は、消費社会のなかで再びフェティシズム的な欲望の対象となった。この文化は、アニメの女性像にも表れている。

狂女の視覚的な反抗の要素を分析すると、「ハイライトのない目」は、近代的主体の注意が散漫になる仕組みによる、一つの中心に従う視覚秩序への反逆であることがわかる。しかし物語は不可避的に、狂女を元に戻すか、物語のなかで処理することを要求する。また「不気味な笑い」の文化的背景をたどると、「ユーモア」は狂女が秩序から離れることを示すものの、その秩序を逃れる力は、秩序を立て直す「アイロニー」へと回収され、再領土化されてしまう。現実界のトラウマ的な効果をもたらすのは、不気味な笑いの演出そのものだけである。狂女をめぐる視覚文化の批判から、視覚的な反抗の限界が総体として見えてくる。アニメ性は映画性とは異なり、レイヤーの美学をより多く用いる。その知覚装置は、注意を中心から引き離すのではなく、複数の中心をなす各レイヤーへと再び導く。アニメには映画に比べて「超幻想性」があるのだ。

では、アニメの狂女幻想をどう乗り越えられるのか。幻想をふんだんに含む萌え属性のうち、黒化にはヤンデレと違って、やがて陥る暗黒面だけでなく、与えられた価値を否定するヒステリー化の瞬間が含まれている。アニメの「超幻想性」というメディア特性は、狂女がつねに幻想化されることを示す。しかし、ジジェクの「現実の不完結性をめぐる存在論」が強調するのは、幻想を極限まで演じることには、幻想そのものを無効にする可能性があるということだ。ともに男性の欲望を映しながらも異なる幻想同士の衝突には、幻想を横断する可能性が潜んでいる。

キーワード

狂女 身体 超幻想性 ヤンデレ 黒化 幻想の横断

一、「狂女」――ある批評の出発点

男女の愛や生命の再生産は、つねに文化芸術の関心の中心にあり、社会の道徳や倫理を論じるうえでも避けて通れない主題である。文学や芸術は、文明の進展とともに社会に生じる荒廃に不満を表し、想像力によって美しいものを求め、苦痛を表現しようとしてきた。しかしその一方で、意識的にせよ無意識的にせよ、古い観念やイデオロギーを再現し、再生産してもいる。とりわけフェミニストにとって問題なのは、家父長制的イデオロギーの再生産である。20世紀後半、フェミニズム文学批評の「聖書」と称された『屋根裏の狂女』は、19世紀の女性作家と当時の文学的想像力を体系的に考察した。そして、近代性の勃興と歩みをともにした19世紀文学に、家父長制の刻印を見いだし、衝撃的な批判を展開した。当時、創作する能力があるのは男性だけで、女性は創造され、描写されるものだと広く考えられていた。この見方を補強したのが、作者(author)と権威(authority)の語源上のつながりである1。作者になれるのは男性だけであり、作者は自らの作品に権威を持つ。それは、神が自らの被造物を絶対的に支配するのと同じであった。こうして作者中心主義は、家父長制の女性嫌悪の文化と合流する。書くことは男性に本質的に備わる特性とされ、成熟すれば実践できるものと当然のように考えられた。男性が書く行為を性的に語る回想には、ファルス中心主義の言説があふれている。ペンはペニス、書きつける紙は無垢な処女、そして執筆は性行為のように存分に快楽を味わわせるものなのだ2。

家父長制の思想は、男性のペンを通じて女性像の描写を支配した。作品に登場する女性には、初めから男性のまなざしの色が染みついているかのようである。女性が他者にされる過程は、文化のなかで具体的に、あるいは目に見える形で示される。一方では、周縁に置かれた女性という他者は、主体の中心から距離を隔てることで美的対象となり3、その奥にある両性間の政治的な関係が覆い隠される。他方、人類学者シェリー・オートナー(Sherry Ortner)が述べるように、「女性に結びつけられる心的な様式は、人間同士が関係を結ぶさまざまな様式の最下部と最上部を同時に占めているように見える」4。要するに、他者となる過程で、女性像は繰り返し二つの極へと分裂させられる。慈悲深い救済者、聖母、天使のような少女といった超越的な女性の象徴か、邪悪な魔女、狂人、去勢する力を持つ大母か、という具合である。

ただし、そのうち超越的な存在に対する男性の態度は少し複雑だ。聖母、天使、慈悲深い救済者としての抽象的な女性は、生死を超える役割を担い、此岸と彼岸のあいだにいる。それゆえ、この世に生きる人々にとって、女性の優しさや思いやりは崇高な体験をもたらす。だが、生死を超えるという性質は、女性に宿る制御不能な、生命を脅かす力でもある。天使や聖母の登場は、つねに精神の昇天と肉体の死、腐敗に結びついている5。聖なる女性像への崇拝は、逆説的にも、プロテスタンティズムの倫理が強調する現世での実践を重んじる精神と矛盾する。

近代化は、一方では精神世界から肉体の現実へと関心を移す実用主義的な転換をもたらし、他方では伝統的な家庭の分業を解体して、より多くの女性を労働市場と消費市場へと解き放った。女性が語り、創造し、生産し始めると、家父長制文化が区切ってきた安定した境界は揺らぎ始める。男性の側からすれば、書くことの理性が失われ、女性的で詩的なヒステリーがそれに取って代わるのだ。これは間違いなく、女性に対する不安を強めた。書く能力を失った男性は「宦官」とからかわれた6。文学において、この不安は矛盾した態度として現れる。男性主人公を弱い、去勢された位置に置きながら、女性の強大な力を対象化して描く。そして巧みに、その強い女性像を読者が同一化する側とは反対の側へ配置し、悪役でなくとも読者を遠ざけるに足る「光景」に仕立てるのである。

テクストによるイデオロギーの再生産を通じて、誇張された女性像は逆に社会文化の構築にまで影響し、女性作家が女性主体を語る足がかりを見つけることを難しくした。ウルフが女性の書く営みについて下した的確な判断と、やむをえぬ助言は、まさにそれを言い表している。「『家庭の天使』を『殺す』ことは、女性作家の仕事の一部であった」7。女性作家は、男性作家が女性を支配するために創造した架空の女性像を殺すことで、女性を創作の主体として再び確立し、女性の身体経験を書かなくてはならない。

一方、『ジェイン・エア』の「狂女」バーサのような邪悪な女性像は、女性の創作者自身も逃れがたい家父長制文化の犠牲者であると同時に、その文化の逆説をまっすぐに指し示す。狂女は理性と善良さの対極に立ち、後先を考えず、道理の通じない仕方で他人や自分に復讐し、世俗の倫理道徳に逆らい、社会の文明を破壊する。しかし別の角度から見れば、道徳も文明も生命も、それぞれの対極である背徳、野蛮、死によって自らを定義しなくてはならない。人が道徳的な主体となることは、人間社会の発展の残酷な側面とつねに表裏をなしている。原始社会の文明化は、アブジェクシオン(abjection)、すなわち忌まわしいものを排除する過程のうえに成り立つ。自らの境界を正確に定め、自然から来る野蛮な脅威を、その外へと追い出すのだ8。脅威は私たちの視野から消えるのではなく、「拒まれたもの」として私たちと相互に依存し続ける。主体の安定を脅かす狂女は、存在論的にはまさしく「家庭の天使」の裏面なのである。バーバラ・クリードが述べるように、恐怖の本質は女性的なものとの遭遇にある9。これは今日のフェミニズムに、男性の言説へと入っていくのとは異なる文化批評の道を開いている。

『屋根裏の狂女』が広く読まれるにつれ、「狂女」はフェミニズム文学批評で流行する枠組みとなり、さまざまな芸術作品の分析に使われ、宣伝文句にさえなった。ギルバートとグーバーが自嘲気味に述べている。「『屋根裏の狂女』のイメージは、その後かなり広い範囲で修正され、繰り返し使われた……たとえば、トーリ・エイモス(Tori Amos)については『ポピュラー音楽の屋根裏の狂女』……あるいは『屋根裏チャット』なるものもあり、そこには男性に囲われた女性の写真へのリンクが多数並び、同時に『18歳以上の成人向けの、性に関わる大人のおもちゃ』も登場する」10。

しかし、狂女像の分析を現代日本文化へと向けるときには、新しい問いを立てなくてはならない。英語圏の文学世界を基盤とし、19世紀の文学を分析し、20世紀後半のアメリカでフェミニズムが隆盛した背景から生まれたこの批評は、はたして現代日本のアニメの狂女像にも適用できるのか。ギルバートとグーバーの家父長制文化に対する洞察を引き継いで、次のように言うことはできるかもしれない。消費主義的な萌え文化も家父長制文化の作用の一部であり、そこでは狂女は、「黒化」(中国語で、いわゆる闇堕ちに近い意味の語)や「ヤンデレ」といった萌え属性にコード化されているのだから、論じたり批判したりする価値はない、と。しかし第一に、文化、歴史、メディアを横断する比較研究が足りない以上、その見方が正しいかは疑わしい。第二に、たとえ結論が正しくても、あまりに還元的な説明である。重視すべきなのは、文化やメディアによって狂女像の現れ方と文化的な意味がどう異なるかを理解することが、日本のオタク文化批評の要点を正確につかみ、その先の批評を促すという点だ。

「狂女」という批評の枠組みを日本文化に導入するには、まずこれが大まかな分析概念であることを強調しておきたい。精神に異常をきたした女性だけでなく、女性の顔をして現れ、秩序を乱し、規律化に抗い、道徳的な説明を離れた像をも指す。また、人物造形に奉仕する「個性」でもなければ、アニメ、マンガ、ゲームなどのメディアで、ある機能をどのように実現するかという技術的な問題でもない。テクストの女性像と女性が生きる社会的現実を結ぶ足がかりであり、個々の作品で家父長制文化が働く仕方の表れなのである。だからこそ、日本に特有の歴史と文化、そしてそれが女性という他者をどのように構築してきたかを考察する必要がある。

二、日本文化から見た「狂女」

明治以前の前近代日本の女性観には、複雑な感情が入り交じっていた。仏教は、一方では出産の可能性を持ち、社会の労働力を再生産する母としての女性を肯定し、称賛した。ところが他方では、出産し、月経を迎えるといった女性の性的な身体の特徴を、穢れたものとみなした11。民間の文学や絵巻にも、怪物のような女性像は数多く描かれている。妖怪と女性のイメージを結びつけ、女性の性的特徴の穢れや脅威を際立たせるものもある。たとえば姑獲鳥(うぶめ)の伝承では、姑獲鳥は死んだ産婦の執念が姿を変えたものとされる。老婆の怨念から生まれ、旅人を狙って殺す山姥の話は、子どもを教え諭すためによく使われる。二口女の伝承は、一つの身体に二つの極端な女性像を生き生きと再現し、長い髪に隠れた、殺傷力を持つ理解不能な怪物こそが女性の本当の姿なのだとほのめかす12。

初期の日本の民俗伝承には濃厚な女性嫌悪があるが、その敵意は実用主義的な戦略でもあった。女性の特徴を醜く描いて非難し、道徳的な身体を称えるのは、ある程度まで、子を育てる責任を強調し、母性の精神を歌い上げるためなのである。肉体に勝る精神性としての母性は、日本美学の議論にも組み込まれている。「もののあはれ」の美学は、肉体を醜い泥、精神の美を泥の上に咲く花とみなし、政治や道徳の判断から完全に切り離された美的空間を作り出し、追求する13。この視点から日本文化の実在または架空の女性像を見ると、この美意識のもとでは、母性の精神を批判することも、女性の肉体に力を認めることもできなくなる。生命を懸命に育み、家族の世話をし、優しく貞淑で、世間の汚れを知らない母性の精神だけが肯定に値する。「母」は明治以前の女性が自らを認める基準であるとともに、家父長制社会のもう一つの形態――妻や母という立場を通じて女性が家庭を支配する「母権社会」――の道徳規範となった14。

明治維新によって日本は西洋型の近代化へと歩み始めた。伝統的なジェンダー規範の変化と女性解放の思想もそれに伴い、従来の基盤をある程度揺るがした。しかし「西洋化」はジェンダーに中立的な改革ではない。日本を、当時やはり女性嫌悪の文化を持っていた西洋へと近づけたのである。旧来の社会道徳が崩れることで生じるジェンダー不安は、明治の日本にも表れた。具体的には、資本主義的な工業の発展、近代国家という概念の誕生、そして国内のナショナリズムの高揚によって、伝統的な小農経済の家族単位が解体された。市民の身体も、政治文化的な分裂にさらされる。一方で身体は、国家が統治する対象であり、国家の一部として、家や国を守る力と、大和民族の振興を求める意識に結びつく。これが「国家の身体」である。他方、身体は近代の「個人の身体」として、個々の感覚がもたらす即時の享楽に関心を向け、目まぐるしい変化に素早く順応し、消費財にいつまでも心を奪われる。自らを律することのできる国家の身体への要請は、その身体を乱し揺さぶる放縦な個人の身体への過敏さをも強めた15。制御できない身体に対する社会の態度も複雑になる。近代化とともに逃れ出た身体は、伝統的規範が定める「正常/異常」の二項対立を弱める。その不確定さから生まれる不安は、恐怖ももたらした16。当時の代表的な例は、日本社会を震撼させた「毒婦」高橋お伝である。

この恐怖や不安は、当時の文芸にもはっきりと現れている。夏目漱石の『三四郎』は、当時の風俗と男女関係を丹念に描いた作品といえそうだ。近代都市に浮き沈みする美禰子は、まさしく近代の個人主義的身体の代弁者である。三四郎をからかい、挑発し、権威や旧秩序に反抗する姿は、近代に解放された女性の力を表すとともに、個人の身体が国家の身体を揺るがすことを十分に示す。最後に美禰子が不自由な結婚を選ぶのは、去勢不安の鎮静をほのめかしているように見える。ここで女性像は、伝統的な束縛を逃れる文化的な身体に結びつけられ、恐怖や不安を投影する「場所」と、それを解決する道をしばしば与えている。

個人の身体と国家の身体は、互いに依存しながら対立している。そしてその関係には、明瞭なジェンダーの二分法がある。「国家の身体」は統制される身体であり、「個人の身体」は放縦に振る舞う身体なのだ。上野千鶴子が、男女の身体感覚の違いに関する森岡正博の議論を説明するように、女性の「身体度」はつねに男性より高いとされ、「女性は身体に従属し、男性は身体を支配する」17。

第二次世界大戦での日本の敗戦は、この対立関係の力の変化を示した。集権的な国家の身体は敗れたのである。敗戦国となった日本は、政治と経済を勝者であるアメリカに長期にわたって統制され、精神も占領者によって去勢された。占領者の目には、日本男性は弱々しく女性的な男性(effeminate)と映った。権勢を失った日本男性は、横暴な支配者に向き合うなかで、日本女性が長く味わってきたことを身をもって知った18。

この時期の男性の去勢不安は、第二次世界大戦の敗戦のトラウマにも根を持つ。被爆者の身体は、きわめて豊富で、心をかき乱す素材を提供した。核爆発によって傷つき、変形し、さらには腐敗した身体は、日本の731部隊が中国で犯した罪を皮肉に照らし返す、抑圧されたものの回帰であり、日本男性が従属的な位置にあることを感覚に訴える証拠でもあった。ジェンダー文化の面では、こうした身体が与える衝撃もまた精神的なトラウマとなり、男性たちに自らの「去勢」を連想させた。自分自身が、文明と清潔さから遠く離れた、女性的で穢れた怪物となったように映ったのである。この恐怖を鎮めようとする動きが、弁証法的に、文化商品のなかにさらに多くの狂女像を生み出した。近代日本社会に伴う不穏な変化を表し、想像上で解決するためである。スーザン・ネイピアが述べるように、美的な想像力のなかで、女性はますます他者化され、触れえないもの、さらには邪悪なものになっていった19。

とはいえ、戦後日本は敗戦の影に覆われたまま、変わらずにいたわけではない。1950年代以降、社会文化には絶えず変化が起こった。社会階層の面では、核家族を単位とする新中間層が生まれた。彼らの多くは高い知的専門性を持ち、経済成長の必要から広められた年功序列型の賃金制度の恩恵を受け、安定した高収入を得て、豊かな消費生活を送った。文化の面では、日本映画とアニメが急速に発展した。1945年から1952年までの米軍占領期にさえ、言論の自由や封建思想の否定は肯定され、奨励された。権力者は、残存する日本軍国主義の思想を一刻も早く取り除くため、さまざまな形で文化を革新するよう文芸に携わる者を促した20。米軍占領が終わる1952年までに、日本の映画輸出は世界全体のほぼ4分の1を占め、西側諸国とソ連を合わせても約60%にとどまっていた。この二つの変化は、戦後復興から高度成長へと向かう過程で、日本が消費社会へ転じたことをある程度示している。消費文化はまず、新中間層の物欲と文化商品の消費に表れた。

そのなかで女性は重要な役割を担った。一方には、明治維新以来の女性解放の歩みの継続があり、他方には、資本蓄積を加速させるため、さらに多くの労働力と消費者を市場へ取り込む必要があった。女性は潜在的な労働力として、労働市場に入るよう促された。しかし、フェミニストの期待とは明らかに裏腹に、戦後の一定期間はなお、宮台真司のいう「理想の時代」であった。「人々は『理想の秩序』を参照して現実を評価した。男性が参照したのは国家の水準の秩序――大東亜共栄圏の『理想の秩序』であり、女性が参照したのは家族と呼ばれる『良妻賢母』の家庭秩序であった」21。それに続く雇用の性差別は、家庭か仕事かという二項対立を女性の前に突きつけた。そして当時、実際に一定の発言力を得たのは、しばしば職業を持つ女性ではなく主婦だった。1981年創業の京都アニメーションも、数人の主婦の協働から始まっている。1965年に結成された「生活クラブ」は典型的な例だ。女性たちが連帯し、企業の過度な発展による環境汚染に反対して、誰もが愛し合い助け合う社会を求めたのである22。

ジェンダー文化の視点から見ると、その主張や行動には、広く認められたジェンダーの色彩が刻まれているように見える。自然に親しみ、助け合いと友愛、家庭の調和を求める姿は、伝統文化が女性、とりわけ母親に抱く肯定的なイメージにぴったり重なる。しかし母としての役割を強調するこの像は、ある種の男性の期待に応える一方で、自分の仕事を持つ女性を包み込んではいないように見える。主婦という立場は、女性の政治的な力であるというより、古くから女性を縛ってきた制限でもある。そして戦後日本に、明治期の国家の身体――家庭、社会、国家の調和を重んじる身体――と、個人の身体――個人の自由と解放を主張する身体――の矛盾を再現した。家庭の統制力から逃れようとする女性は「道理が通じない」とされ、社会が母親として彼女たちに寄せる期待から切り離された。茂呂美耶は、日本でフェミニズムが発展できないのは母権文化の歴史があまりに長いからだと考えている14。

1970年代末には、口裂け女の都市伝説が日本中に広まった。人々は一般に、口裂け女の復讐欲は整形手術の失敗による「狂気」に由来すると考えた。整形の失敗という背景には、次のような文化的過程の可能性が潜んでいる。多額の金を費やして身体の改造に執着し、自分を男性の欲望の対象にしようとすること自体が、妻の貞節と母性に背くのだ。改造に失敗した身体は、731部隊の実験対象となった身体と被爆者の身体を、異なる形で再現する。身体を改造するこの行為は、戦後の荒廃した国民の身体と旧秩序の崩壊が残したトラウマを呼び覚まし、さらに、権力を得て自分の身体を管理し、改造さえする女性の自己決定に結びつけられた。彼女たちは、繁栄する都市文明の対極とみなされたのである。

都市伝説の「女の怪物」は、現代日本のポピュラー文化における「制御不能な女性」の兆しの一つである。1990年代にバブル経済が崩壊すると、ある事実がさらに露わになった。敗戦以来の男性の去勢のトラウマは、高度成長によって和らいだのではなく、華やかな物欲の社会に覆い隠されていただけだったのだ。経済の崩壊は大量の失業を生み、「日本の家族にいっそう深い圧力をかけ、さらに多くの女性を労働力となるよう強いるとともに、日本男性のアイデンティティにも不安を生み出した」23。家族という組織の解体に雇用不振が重なり、若い女性は、もともと差別に満ちた労働環境で、さらに悪い将来を予期することになった。理想の家庭にも入れず、十分に満足できる仕事も得られないのである。このはざまで、女性の身体は家庭や企業といった組織の統制を離れ、独特の文化的な姿をとって都市の広い公共空間に現れた。

大塚英志は、この時代の精神文化について的確な判断をいくつか示している。近代日本は、生産主導の文化から物語消費主導の文化へと転じた。そこでとりわけ重要なのは、「少女」という文化的な像の誕生である。この像は、萌え(kawaii)文化における消費の一部をなす。かわいいものに抗えない少女は、際限のない消費欲望に駆動される、日本の新しい主体性を形作った24。「少女」は、一方では女性主体の内的分裂への応答である。永遠の「少女」でいることは、「母」の役割の拒否であると同時に、秩序への回帰といった中心的な言説への疑いでもある。他方では、隠れたジェンダーの言説が、もはや家庭、学校、企業などの中心化された空間で明確な規則や禁止として表されるのではなく、都市空間のポストモダンな文化表象へ溶け込んだことを意味する。

1990年代半ばに現れた〔原文伏字〕の少女は、この過程を集中的に示す。彼女たちは家庭と学校の管理を逃れ、女性の職業上の理想に疑問を表し、個人の快楽に基づく新たな欲望を示した。彼女たちはまた、制御できない狂った少女の姿を社会に見せた。この段階は、宮台真司のいう「自己の時代」の前期と後期、二つの局面を経ている25。それは文化の消極的な変動と中心の解体を映している。理想が退くと、その後には、ポストモダンな文脈で一瞬の感覚的体験を求める姿勢が現れた。ドゥルーズ的な意味での身体は、家庭、企業、学校など、伝統的なイデオロギー的国家装置の統制力を試すことになった。

母親という役割を重んじる文化に対抗する少女サブカルチャーは、もう一つのジェンダー言説の道を示唆する。束縛に満ちた役割の文化を離れた少女が、新しい家父長制的な美意識を受け入れる道である。大塚英志は、フェミニズムとオウム真理教の関係を振り返り、女性信者の多くが確信を持つフェミニストだったと述べている。従来のフェミニズムの文脈では、自分の求める「フェミニズム的なもの」を見つけられず、オウムの信仰へ向かったのだ。大塚によれば、そのフェミニズム的なものは、まさしく「近代以来の身体の不調和」に根ざしている26。

狭義のフェミニズムと新左翼の大きな物語への批判、また応答として、1980年代以降、日本の女性は、感情の表れる場である身体そのものに、解放の焦点を絞るようになった。同時に、過去を反省するフェミニストも、「母性の崩壊」を急いで促そうとし、近代の感覚的体験を受け入れた。消費主義に根ざす身体の戦略が肯定されたのである。大塚は疑いを込めながら、「女性の欲望と自己実現の手段として、そうしたこと〔女性の身体が消費社会化されること〕があるなら、それは否定できない」と述べている27。

この信念を引き継ぐように、少女を主役とし、女性の力を示すアニメが次々と現れ、フェミニズムの大きな言説を成り立たせる諸要素への反逆を明確に示した28。少女は、日本文化を対外的に代表する独特のイメージとなり、無邪気さ、かわいらしさ、明るさ、人を励ます精神性を示して、世界中で日本の萌え文化の消費を促した29。自国の文化の悪弊に対する過敏さは、日本のフェミニズムと西洋のフェミニズムの分裂をも強めた。1994年刊の『日本のフェミニズム』は、西洋のフェミニズムが日本に与えた影響を総括して問い直し、日本のフェミニズムは日本女性が自らの言葉で固有の経験を表すものであり、フェミニズム思想全体の形成への独自の貢献だとした30。これはある程度、近年の欧米のフェミニズムの論点が日本でさらに広まることにも影響している。

「少女」、さらには力を直接に示す「戦闘美少女」は、日本独自のフェミニズムの実践を表す文化的な像である。しかしそれは、不可避的に消費社会の美的な客体にもなってしまう。少女の身体は、規則を乱す身体であると同時に、消費文化に応える身体なのだ。女性の自律的な力は、消費でき、理解できる「萌えポイント」として構築され、オタク文化の消費者の心に、巨大なデータベース消費の図式を形作る。旧秩序の美意識に反抗するさまざまな新しい流行が、同人マンガ界に独特のニッチ市場を築いたように、「狂女」という古典的な像も、画面に現れると、黒化、ヤンデレ、悪堕ちといった萌え属性へと統合された。否定的でありながら、ある程度まで消費者の欲望を満たす属性である。大きな歴史の振り返りからは、新思潮のもとで生まれ、伝統的な束縛を逃れた狂女像が、また新たな家父長制の言説に陥ったようにも見える。それでも、現代アニメの「極端な」女性像とその背後の文化を分析すれば、オタクのサブカルチャーが家父長制文化をどのように表し、そこに矛盾が潜んでいないかを理解できる。黒化やヤンデレのような暗く脅威的な萌え属性に対する評価は、かなり両極端に分かれている。その登場にはしばしば、残酷で観客を不安にさせる筋書きが伴う。この周縁的な領域に批判の目を向けることは、フェミニズム文化批評にとって有意義な試みとなるかもしれない。

白い髪と赤い目のアニメの女性。顔と上体を上から捉えた画面

本文終わり
注30

注釈

  1. S・M・ギルバート、スーザン・グーバー『阁楼上的疯女人』(『屋根裏の狂女』中国語版)、杨莉馨訳、上海:世纪文景、2015年、第1部第1章第1節を参照。 ↑

  2. 注1に同じ。同節の中盤から後半では、17世紀のロチェスター伯爵(Earl of Rochester)と19世紀のオーギュスト・ルノワール(Auguste Renoir)が、ともに美を「男性の性的快楽に基づく何か」と公言していたことに触れている。ジョン・アーウィン(John Irwin)は、「ペニスをペンに、紙を処女に」たとえた。 ↑

  3. マイク・フェザーストーン『消费文化与后现代主义』、刘精明訳、南京:译林出版社、2000年、103–105頁を参照。ポストモダン社会では、距離を取る美的経験から没入する美的経験への転換が起こった。しかし、近代の距離化された、没入しない美意識には長い歴史がある。19世紀の古典的な文学作品には性差別的な色彩が濃く、男性が女性像を距離を置いて美的に捉えることは、その典型である。 ↑

  4. Ortner, “Is Female to Male as Nature Is to Culture?” in Woman, Culture, and Society, ed. Michelle Zimbalist Rosaldo and Louise Lamphère(Stanford: Stanford University Press, 1974), p.86. ↑

  5. 注1に同じ、第1部第1章第5節。たとえば看護師、慰める者、精神の導き手といった典型的に女性化された像は、俗世を超えて「この世」と「あの世」のあいだにあり、死を操る力を持つと考えられた。だからこそ恐ろしい。その力が死に抗えるのなら、死をもたらすこともできるのではないか。 ↑

  6. 注1に同じ、第1部第1章第2節。ジャーメイン・グリア(Germaine Greer)は、家父長制社会ではすべての女性が宦官だと述べた。ペニス中心主義の思想のもとでは、主体は「去勢されていない者」と「去勢された者」にしか分けられないからである。ペニスの力を象徴する文学的な創作能力を失うことは、去勢を意味する。創作の袋小路に陥ったサド侯爵(Marquis de Sade)に対するロラン・バルトの評言がその例である。 ↑

  7. Woolf, Virginia. “Professions for Women,” The Death of the Moth and Other Essays(New York: Harcourt, Brace, 1942), pp.236–238. ↑

  8. Kristeva, Julia, Powers of Horror: An Essay on Abjection. Translated by Leon S. Roudiez.(New York: Columbia University Press, 1982), pp.12–13. ↑

  9. Creed, Barbara. “Dark desires: male masochism in the horror film.” In Cohan, S. and Hark, I. R.(eds), Screening the Male: Exploring Masculinities in Hollywood Cinema.(London and New York: Routledge), p.121. ↑

  10. 注1に同じ、第2版序文。 ↑

  11. Dumas, Raechel. The Monstrous Feminine in Contemporary Japanese Popular Culture(London: Palgrave Macmillan, 2018), p.3を参照。仏教の女性に対する矛盾した態度は、「家父長制を形成し、強化するかどうか」を軸に構築されている。説話文学は、しばしば異形の身体を持つ女性を描く一方で、「女性の性的な慎み、母としての献身、精神生活の美徳をいっそう強く説く」。ここには、家父長制が女性の肉体と精神を分けて扱うことが明確に示唆されている。 ↑

  12. 妖怪については、Yokai.com, the online database of Japanese ghosts and monsters[EB/OL]、yokai.comを参照した。上記のほかにも、雪女や絡新婦など、有名な女性の妖怪は数多い。興味深いことに、中国語版ウィキペディアの「日本妖怪列表(日本の妖怪一覧)」で、「男」「夫」「爷爷(祖父)」を検索すると、該当する妖怪は合計9種、「天狗」を加えても26種なのに、「女」だけで40種が見つかる。女性の妖怪がいかに広く見られるかがわかる。 ↑

  13. 万柳「百合现象与“物哀”文化」『北京社会科学』2014年6号、38–42頁を参照。「もののあはれ」の花の比喩は本居宣長に由来する。同論文が本居の比喩として紹介するところでは、花は泥や濁水なしには生きられないが、「精神の側からだけ見れば、その『泥や濁水』を忘れ、水面に咲く魂の花だけを愛でてもよい」のである。 ↑

  14. 吳汶諾「論日本主婦──性別二元分化下的危機」[J/OL]、ln.edu.hk、2019年10月13日閲覧を参照。日本の母権社会とは、初期の人類学が採集時代について唱えた母系社会の仮説に由来するものではない。夫の妻、子の母、さらには祖母にあたる人物になって初めて家庭の資源を支配できるという、男性に依存するいびつな社会を指す。近代日本のフェミニズム思想は、長いあいだ母権と、それが担う支配的な精神文化を批判してきた。 ↑ ↑

  15. 注11に同じ、4頁。 ↑

  16. Nakamura, Miri. Monstrous Bodies: The Rise of the Uncanny in Modern Japan(Cambridge: Harvard University Asia Center, 2015), p.6。ナカムラによれば、20世紀初頭の日本で、女性の身体は近代帝国の「異常な身体」を解釈する、豊かな意味を持つ場となった(p.9)。 ↑

  17. 上野千鶴子『厌女:日本的女性厌恶』(『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』中国語版)、王兰訳、上海:三联出版社、2015年、234頁を参照。この節では、女性嫌悪を克服するには「精神=主体」という心身二元論の図式を否定し、女性の身体性に立ち返る必要があるとも述べられている。ここでも、日本のフェミニズム研究者の身体(body)への関心が強調されている。 ↑

  18. Slaymaker, Douglas. The Body in Postwar Japanese Fiction.(London: Routledge, 2004), p.19. ↑

  19. Napier, Susan. The Fantastic in Modern Japanese Literature: The Subversion of Modernity.(London: Routledge, 1996), p.53. ↑

  20. TZE-YUE G. HU. Frames of Anime: Culture and Image-Building.(Hong Kong University Press, 2010), p.78. ↑

  21. 王晗による中国語訳稿「宫台真司:1992年以来日本亚文化史在语义学上的变迁」[DB/OL]、douban.comから引用。原文は Miyadai, Shinji & Kono, Shion & Lamarre, Thomas. “Transformation of Semantics in the History of Japanese Subcultures since 1992.”(Mechademia, 2011), p.234. ↑

  22. 胡彭「家庭主妇:推动日本社会变革的重要力量」『博览群书』2008年12号、46頁。 ↑

  23. 注11に同じ、8頁。 ↑

  24. Ōtsuka, Eiji. Shōjo minzokugaku(『少女民俗学』).(Tokyo: Kobunsha, 1989), p.18を参照。消費社会の到来とともに、日本の伝統的な価値を共有する仕組みは衰え、消費資本主義のもとの集合意識に取って代わられた。大塚英志はこの特徴を踏まえ、民族誌の考察対象として、民俗学者・柳田國男の「常民(jōmin)」に代えて「少女(Shōjo)」という範疇を用いることを主張した。消費文化の文脈では、社会の成員は、美少女がかわいいものに向ける無限の欲望を自分の欲望として内面化することで主体性を構築する、と指摘している。kawaiiの美学の支配下で、少女の活力ある、絶えず変動する身体は、再び欲望をかき立てるものとなる。 ↑

  25. 注21に同じ、235–237頁。奔放な個人主義的身体が大きな言説に対抗することも、日本の消費社会の特徴である。宮台真司は東京の地下鉄サリン事件を境に、1990年代以降の「自己の時代」を前期と後期に分ける。前期には、虚構は現実に劣るという見方が広く、サブカルチャー集団の内部にも明瞭な文化的区分があった。外に向かって交流する「ナンパ系」は、自己完結するオタクより上とされた。オタクは、歴史を超える革命と、極端なマゾヒズム的な自己搾取――自殺や薬物使用――に望みを託し、社会構造の不公正に抗議した。この姿勢は、オウム真理教の破綻まで続いた。後期には、集団間の文化的区分が「内破」し、オタクはもはや、特別に注目される「被抑圧者」として括られなくなった。革命への信仰に萌え文化が取って代わり、趣味を維持することは終わりなき日常の一部となった。この時期、〔原文伏字〕の少女に代わってガングロギャルが現れ、絶えず個性化できる身体に依拠して、男性の美的秩序から離れ続けた。 ↑

  26. 大塚英志『“御宅族”的精神史:1980年代论』(『「おたく」の精神史――一九八〇年代論』中国語版)、周以量訳、北京:北京大学出版社、2015年、128頁を参照。大塚は、「思想としてのフェミニズム」と「フェミニズム的なもの」に矛盾があると見いだした。オウムの女性信者や多くの一般女性が本当に求めていたのは後者だった。フェミニズムの大きな言説は、その「もの」に、女性が満足できる答えを与えていない。江藤淳は上野千鶴子を「男のフェミニスト」と呼んだ。また、日本の新左翼には女性を従軍慰安婦のように扱う悪名高い傾向があり、女性は自らの身体で直接得られる経験のほうを信頼しようとした。与那原恵は次のように書いている。「私はあの〔フェミニズム集会の〕雰囲気になじめなかった……『男に支配された性』などという言い方にも違和感があったからだ……『男社会の制度』のもとで性行為をしている、というのはおかしな話だと思った」(125–126頁)。 ↑

  27. 注26に同じ、130頁。 ↑

  28. 费勇、辛暨梅「日本动漫作品中的女性“萌”系形象」『华南师范大学学报(社会科学版)』2013年6号、102–106頁を参照。同論文は、アニメの女性が、他者を守る役割から、生き生きした性格を持つ美的なキャラクターへ変化していると論じる。その変化は反省的な営みとされる。「〔同人は〕原作の女性が占める主体の位置を借り受け、性格的特徴を脱構築し、従順、自立などの美的要素を改変し、『かわいさ』を母体とする萌え属性を加える。こうして『戦闘型美少女』の伝統的な像は次第に『萌え系少女』に置き換えられ、従来のアニメ・マンガの美的体系への抵抗が実現する」(104頁)。 ↑

  29. Jones, Norma & Bajac-Carter, Maja & Batchelor, Bob. Heroines of Film and Television Portrayals in Popular Culture(Plymouth: Rowman & Littlefield, 2014), p.178. ↑

  30. 甘霖「穿着高跟鞋拯救世界的少女——从〈美少女战士〉看20世纪90年代的日本女性主义」『中国民族博览』2017年8号、202頁。 ↑

特記のない限り、当サイトのコンテンツは CC BY-NC-SA 4.0 で提供します。ライセンスに沿った転載を歓迎します。もし皆さまのブルジョア法権を侵害していたら、ご一報ください。管理人に、ただちに記事を消してずらかる「遊士の倫理」を実践せよ、と釘を刺していただければ幸いです。

SEARCH / サイト内検索

屋頂現視研を検索

よく使われるタグ

08
#女性主义76#精神分析38#动画制作36#动画评论34#性别研究32#拉康26#世界系25#动画演出22

本文の検索結果

—

語句を入力すると、公開中の記事と連載章を検索します。