
才能?ないよ!
作者くん、私のスーパーマン。
『戦闘美少女の精神分析』の最も重要な章で、斎藤環は「ヒステリー的なファリック・ガール」という概念を提示している。 斎藤の著書では終わり近くに置かれた章だが、ここではむしろ、これを出発点として議論を進める必要がある。よくあるのは、斎藤を「ファルス中心主義者」と非難する見方だ。この見方によれば、「戦闘美少女」は「ひたすら男性の欲望を満たす存在」である。言い換えれば、彼女は「他者のためにある存在」であり、男性おたくの欲望の対象へと余すところなく還元できるというわけだ。このように通俗化された「社会批評」が完全に的を外していることは、疑う余地がない。斎藤は、このあまりにも単純な非難に、すでに著書のなかで先回りして答えていた。
戦闘美少女がこれほど大きな反響を呼ぶことは、今日の社会、とりわけ今日の社会における女性の境遇を見事に象徴しているのだという。そうなのかもしれない……だが、私にはあまり興味がない。この見方はいささか素朴すぎる。虚構を現実の生活の「忠実な」反映と見なしているが、それこそまさに、事実と虚構を混同する誤りの典型例なのだ。
したがって、斎藤を批判する者が取るべき立場は一つしかない。虚構の地位を十分に認め、虚構そのものの合理性を検討すること。そして、別の直接的な「外的現実」からではなく、虚構そのものから、その内部の矛盾と分裂を暴き、それによって虚構を乗り越えることである。だが、この要求に最もよく応えるのは、まさに精神分析の立場、ほかならぬ斎藤自身の立場ではないか。ここで思い出されるのは、ハイデガーによるヘーゲル評だ。ヘーゲルを乗り越える唯一の道は、彼の体系を出発点として、その内部から乗り越えることだと、ハイデガーもまた指摘していなかったか。つまり、ヘーゲルの歩みに従いながら、一歩ごとにヘーゲルよりも少し先へ進むのである。これは、精神分析を批判する一つの道も示唆しているのかもしれない。精神分析を批判するテクスト自体を、一種の「症候的な記述」として、つまり精神分析そのものの対象として扱う道である。
ここから、戦闘美少女についての斎藤のさらなる分析へ進もう。斎藤によれば、戦闘美少女は高度にヒステリー化されている。この点で斎藤は、ラカンによるヒステリーの定義に厳密に従っている。ラカンにおいてヒステリーとは、あらゆるものを問い直す状態であり、主体が自らは何者かを究極まで問いつめることを示している。斎藤が指摘するように、ヒステリーの問いは存在と意味にかかわる問いである。一方で、ヒステリー者はつねに自らの存在を問いつづける(「あなたは何を望んでいるのか」)。疑えるかぎりのことを疑い、自らに委ねられた象徴的な役割とは、終始一定の距離を保ちつづける。他方で、この問いへの答えとして、幻想としての意味が生まれる。意味はつねに、存在がその根底に抱える喪失を埋めようとするのだ。しかし、この試みは失敗するほかない。斎藤はナシオの言葉を引いて、「ヒステリーは知を生産するが、その問いへの答えはつねに先送りされる」と指摘する。
ここにわれわれは、ヒステリー的主体のある種の生産性を見る。この生産の過程で、快原理は、不可能な享楽の空洞から浮かび上がり、自らを現実化する。斎藤において、この現実化はファリック・ガールの誕生の全過程を明らかにするものだ(ここでいうファルスが想像的ファルスであることは明らかである。斎藤自身の言葉でいえば、「それは戦闘美少女の存在の空虚を覆い隠す」)。この角度から見てはじめて、斎藤の「ヒステリー的主体にはある種の実在性がある」という断言も理解できる。ここで「実在」とは、生産的な実在、享楽が剰余の快感として現実化する過程の実在を意味する。そして斎藤にとって、まさにこの実在性が虚構の地位を保証するのである。

このことを踏まえて、斎藤は「エロティシズム」と「享楽」を区別する。「エロティシズム」をある種の空想、たとえば女性の身体についての性的空想に結びつける一方で、享楽を「現実界の文脈に属する何かであり、それがわれわれにもたらす効果こそが現実である」と捉えるのだ。この点で斎藤の見解が完全に正しいことは、認めざるをえない。この区別に基づいて、斎藤は虚構のなかの戦闘美少女と現実の女性を対置する。現実の女性の身体はつねにエロス化されており、女性たちは、ある種の「性欲の対象となる実体」として存在する。それに対して、アニメの表現において、戦闘美少女の身体はまず脱性化されている(斎藤は自らの観察に基づき、アニメに描かれる少女の像はつねに純潔無垢だと考える)。したがって彼女は、まず「享楽のイメージ」なのであり、そのあとにはじめて、彼女をめぐる性的空想、すなわちエロス化が生じる。これが斎藤による萌えの定義である。
ここで、斎藤による第二の区別を導入する必要がある。「エロティシズム」と「享楽」の対立と同様、斎藤は「外傷」と「症状」の対立も導入する。斎藤が外傷と呼ぶのは、外傷をめぐる幻想のことである。臨床では、ヒステリー者が自分の「外傷」について語る主観的な内容に、分析家は過度にこだわる必要はない、と彼は指摘する。だが他方で、「症状」は決定的に重要である。斎藤自身の言葉でいえば、「それはヒステリー的主体の存在の基盤を支えている」。こうした区別に問題はない。ただし、斎藤のいう「症状」の本当の意味に対応するのは、むしろ後期ラカンの理論におけるサントームなのかもしれない、という点は指摘しておくべきだ(ここには、構造主義的な中期ラカンの理論に、斎藤がほとんど偏執的なまでに固執するという、きわめて明瞭な傾向が見て取れる)。
斎藤において、戦う美少女たちには外傷がない。彼女たちの外傷は、虚構の物語的文脈によって人為的に排除されている。そのため、彼女たちの存在は基本幻想による支えを欠き、極端に非物質化されている。こうした状況で自らの存在を保つために、戦闘美少女たちは症状へと向かわなければならない。では、戦う美少女たちにとって、その症状とは何か。斎藤がここで指摘するのは、彼女たちの症状こそ彼女たちの戦闘なのだ、ということである。自らの存在を保つために、彼女たちは戦いつづけなければならず、まさにそのために、おたくたちは彼女たちの姿に魅了される。おたくがこうして魅了されることによってはじめて、戦闘美少女の身体はエロス化されるのだ。
斎藤は、身体像の非物質化がもたらすこのエロス化に強い関心を寄せ、まさにこの性的緊張こそが虚構世界に自律性を与えるのだと主張する。だが、ここでいう「自律性」とはいったい何か。斎藤自身はこう説明する。
私が自律性という言葉で指したいのは、表象空間における欲望のエコノミーが、それ自体として存在しているということだ。その存在は、もはや観客の欲望の単なる投影ではない。
言い換えれば、虚構空間における欲望のエコノミーは、それ自身のために存在する、対自的なものなのである。もう一度言おう。これが、先に述べた性的緊張だ。斎藤において、この現実界の緊張は虚構の物語の核心をなしている。そして、この次元でこそ、斎藤はおたくのなかに、ある種の「通常の異性愛的欲望を超える可能性」を見いだすのである。

だが、彼の批判者として、われわれはここで斎藤よりも少し先へ進まなければならない。この問題についての斎藤の議論には、明らかな曖昧さがあると指摘しなければならない。われわれが見るところ、一方では、「戦闘美少女」の実在、その純粋性――あるいは斎藤の用語でいえば、存在の非物質性――を可能にする条件は、いわゆる「現実の多重性」であり、「日本的空間に本来備わる高文脈性」である。他方で、この「高文脈性」もまた、戦闘美少女の自律的な欲望のエコノミーに基づいているのではないか。しかも斎藤においては、まさにこの欲望のエコノミーが、戦闘美少女の実在性に最終的な保証を与えるのである。この宙づりの循環を避けるため、斎藤はその先で、ある種の蒙昧主義へと向かわざるをえなくなる。著書の最後から二番目の節で、ダーガーの問題に立ち返ろうとする試みは、根本的な失敗を露呈しているのではないか。まさにここで斎藤は、理論の次元にいわゆる「去勢されていない想像」という概念を導入し(彼の提起する「日本的空間」も同じように疑わしい。これは、晩年のマルクスによる、いわゆる「アジア的生産様式」の記述を連想させる……)、そのために精神分析的唯物論のラディカルな可能性を取り逃がしたのである。ラマールはかつて、斎藤はラカン派というよりユング主義者に近いと批判した。この批判はまったく的を射ている。どうやら、この点でわれわれの見解はラマールと同じである。斎藤の失敗は、表象の過程における「物質的な基盤」を見落としたことにあると、われわれも認める。ただし、一つ付け加えなければならない。われわれのいう「物質性」とラマールのいう「物質性」は、まったく意味が異なる。精神分析の立場からすれば、唯一の物質性とは不可能な享楽の物質性、存在の現実界的な核心の物質性なのである。
斎藤の問題は、一般に誤解されているものとは正反対だ。享楽をめぐって斎藤が誤ったのは、けっして「あまりにラディカルだった」からではない(この退屈な紋切り型の議論によれば、戦闘美少女は日本のアニメ・マンガ市場の「市場需要」にすべて還元でき、斎藤の理論など奇想天外な思いつきの産物にすぎない……)。むしろ、まだ十分にラディカルではなかったからこそ誤ったのだ。彼は現実界の位置を取り違え、実際には、ある種の偽りの身振りによって、本当の断裂と不可能性を避けている。この断裂と不可能性は、剰余享楽が再生産される過程での、ある種の障害として現れる。それは、斎藤が指摘するような存在論的なものにとどまらず、存在者的なものでもある。(ここで触れておきたいのは、英語版『戦闘美少女の精神分析』では、戦闘美少女が “beings in a state of lack”、つまり「欠如の状態にある存在者たち」と記述されていることだ。私にいわせれば、この訳し方はある意味で斎藤の理論の「真相」を言い当てている。戦闘美少女に対する彼の考察はまだ徹底しておらず、小文字の being、すなわち存在者の次元にとどまっているのである。)
ここでフロイトへと迂回し、彼に対する最もありふれた批判の一つを、もう一度取り上げる必要があるかもしれない。フロイトは「汎性論者」だという批判である。何をしていても、われわれはあのことばかり考えている、というわけだ。だが、それが本当に、性的空想に対するフロイト御大の態度なのか。この批判に対し、ジジェクは次のように反論する。フロイトが本当に関心を寄せたのは、ほかのことをしているときにもあのことばかり考えている、ということではなく、あのことをしているときに何を考えているのか、ということだ。あのこと、つまり不可能な性関係だけが、本当に耐えがたいのである。ほかのことは、この不可能性を覆い隠す幻想のスクリーンの材料にすぎない。では、不可能な性関係とは、正確には何を意味するのか。性関係が不可能だというのは、われわれが普通にセックスできないという意味ではないことは明らかだ。「普通に」セックスしているつもりのときにも、実は「本当に」セックスしているわけではない、という意味なのである。つまり、ゼロの次元では、世界は「非宇宙論的」に開かれており、そもそも存在していない。これを「性化」しようとする、すなわち差異化し、秩序化しようとする試みは、いずれも必ず割り切れない余りを残す。そのため性別は偶然的なものとなり、両性それぞれの存在の論理のあいだには、いかなる共通点も存在しない。
ここからわれわれは、次の結論へと導かれる。性化をめぐる問題において、性の内部における欲望のエコノミーよりも重要なのは、「性化」という外傷的な身振りそのものではないか(ここでいう外傷は、斎藤のいう意味での外傷ではない)。性別そのものを動かす論理は、性別の外部にある不可能な対立――差異化というラディカルな身振り――を、何らかの形で内に取り込もうとする試みから生まれる。これは、斎藤のいう「虚構」にも当てはまる(強調しておくが、この点を見落としたからこそ、斎藤は想像の完全さに過剰な幻想を抱き、現実界の対立を取り逃がしたのだ)。斎藤はラカンを引き、「〈女〉は存在しない」と指摘しているが、それでも核心をつかめていない(彼はそれを、現象としてのヒステリー化という観点からしか考えていない)。ここでの非存在は、まさにある種の前存在論的な状態に対応するのではないか。むしろ、斎藤の戦闘美少女は、ある種の男性的な論理に従っている。典型的なイデオロギー批判の手順に沿っていえば、斎藤において、虚構の内的な分裂は、虚構が戦闘美少女の身体像に加える構造的な原抑圧へと転換される。その結果、戦闘美少女そのものもまた、近づきすぎてはならない欲望の〈物〉として、遡及的に設定されるのである。この意味で、斎藤は典型的な構造主義者だ。彼がこれほどまでに虚構とメディアの作用を強調する理由も、ここにある。シニフィアンによる戦闘美少女の表象が「空虚」という名の剰余を生むことには気づいた。だが、この剰余は単に構造内部の効果なのではない。それは、実体化した享楽の染みとも、欲動の愚かな反復とも、前主体的な混沌と主体化の収縮とも、構造のなかに入るという「強いられた選択」が残す消しがたい痕跡とも、深くかかわっている。斎藤にはそれが見えていなかった。こうした剰余の亡霊が、世界の夜から、自由の深淵からやってきて、至るところをさまよっている。それは想像的な虚構の均衡を破り、斎藤のイデオロギー的な循環が紡ぐ甘い夢を終わらせるのだ。
こう考えると、「汎性論」という批判は、フロイト御大よりも斎藤にこそふさわしい。斎藤の態度は、まさにこういうものではないか。ほかのこと――おたくの欲望や戦闘美少女のヒステリー化など――を考えているときにも、彼はつねに「あのこと」を考えている。メディア、文脈、あるいは「日本的空間」といったものに備わる何らかの特性と、それが表象にもたらす構造的な抑圧のことを。
ここで、もう一度斎藤のテクストへ戻ろう。斎藤によれば、戦闘美少女は「戦闘ゆえに愛され」、「外傷の不在ゆえに」愛される。だが、すでにわれわれが見たように、この不在は同時に剰余でもあり、戦闘美少女への愛は、まさにこの剰余への愛なのである。斎藤の読者として、われわれはここで自らに問う必要がある。これはいったい、どのような愛なのか。存在の秩序に症候的なねじれをもたらし、真の不可能性を追い求める愛なのか。それとも、別のヴェールをかぶった、後期資本主義の典型的な恋愛幻想なのか。斎藤自身が回避しているのは、まさにこの問いである。要するに、斎藤は解釈がもつ遂行的な効力にすべてを賭けながらも、その遂行を支える現実界の硬い核を取り逃がしているのだ。斎藤は、「真に批判されるべきなのは、アニメを受け入れながら、その性的な成分を拒む人々だ」と指摘し、おたくは「ファリック・ガールに恋することで自己意識を獲得する」としている。だが、おたくに本当にそのようなラディカルな可能性があるのか、われわれには疑うだけの十分な理由がある。少なくともいまや、斎藤のいう戦闘美少女の「性」とラカンの性別化のあいだに、還元しがたい隔たりがあることはわかる。ならば、真のラカン派から見れば、この「自己意識」はむしろ、一種の偽装、欺瞞に見えるのではないか。
次の例は、われわれの見解を見事に示している。第11セミネールで、ミレールはラカンに、精神分析は反ヘーゲル的なのかと問い、ラカンは肯定の答えを返した。ここでミレールは、精神分析が現実界の硬い核に固執することと、古典的なヘーゲル的自己意識、すなわち「自らの存在の本質についての意識」との違いを鋭く捉えていた。この違いこそ、唯物論的なラカン派と斎藤との違いでもある。精神分析に何らかの自己意識があるとすれば、それはまさに無意識の別名ではないか。興味深いことに、斎藤自身もこの点に気づいているようだ。彼はひどく確信のない口調で、こう書いている。「ジジェクのいうとおり、幻想の仕組みを知った人々は、かえってそのなかにいっそう深くはまり込むのだろうか。そうかもしれない。だが、それだけが理由ではない。」

斎藤は著書のなかで、おたくは倒錯者ではないと証明するために多くの紙幅を費やしている。しかし、われわれからすれば、この態度はむしろ、彼の理論に潜むある「真理」を自明のものにしている。これは、精神分析の実践における最も明白な事実の一つに、まさに対応しているのではないか。分析を受ける者が、自分のいっているのは「これではない」と強調するとき、分析家は、彼が望んでいるのは「まさにこれ」なのだと理解すべきなのである。この次元から見れば、斎藤が固執するおたくの「自己意識」は、いかにも客観的であるかのように装った、幻想のスクリーンではないか。皮肉なことに、主体としてのおたくの自己意識についての斎藤の論証は、終始「客体中心」である。言い換えれば、つねにおたくの欲望の対象である戦闘美少女を中心に展開している。この論証のなかでは、おたく自身がかえって締め出されてしまう。欲望しているそのおたくが、まるで同時に、自分の欲望を観察する者にもなれるかのように。ラカンにとって、これは紛れもなく倒錯者の態度である。まさにこの身振りが、斎藤の理論の「究極の秘密」を暴く。虚構のなかの欲望のエコノミー/表象の過程を「完全なもの」に見せるために、彼はおたく自身を、構造にある存在論的な空洞の位置、すなわち対象 a の位置に置かざるをえないのだ。要するに、「自己意識」が覆い隠しているのは、まさにある種の倒錯性である。そしてこの倒錯性が、斎藤が戦闘美少女にこれほどまでに魅了される、その背後にある真理を示している。
ここで、虚構の多重性についての斎藤の議論に戻ることができる。斎藤はここで「解離性」という概念を提示する。ドゥルーズの用語でいえば、それは、同じ空間に多くの平面が共存する、典型的なポストモダンの状態を指す。そこでは、虚構と現実が互いに干渉しないことを前提に、それぞれの場所を占めている。(つまり虚構が終着点なのではない。虚構の上に、おたくたちはさらに新たな「虚構の虚構」を生み出すことができる。)斎藤にとって、これがおたくに虚構を享楽する空間を開くのである。
おたくの欲望は、戦闘美少女の非存在をさらに強調し、露わにすることから生まれる。それは虚構の模倣とパロディによってなされる。
しかし、この傾向は次のことを示唆している。虚構そのものは完全に閉じているわけではない。その境界は曖昧であり、つねに運動し、おたくの二次創作と相互に作用しつづけている。斎藤は欲望のエコノミーの独立性を通じて、虚構の自律性を繰り返し強調するが、この独立したエコノミーに過剰があることも明らかではないか。同時にわれわれは、現実界の断片としてのこの過剰を、戦闘美少女だけに帰するのではまったく足りないことも、すでに知っている。それに対してわれわれが指摘しなければならないのは、この過剰は究極的な曖昧さを備え、それ自体が絶対的な運動なのだ、ということである。新たな虚構はつねに現れつづけ、おたくとの出会いのなかで、生成変化する虚構へと転じる。過剰は、この過程における還元不可能な差異を示す。この過剰は、虚構の全体に捉えられるのを逃れようと、たえず変化する。それは潜在的で前主体的な、匿名の平面として、やむことなく繰り返される無数の脱領土化、再領土化、逃走、生成変化を見届けるのである。虚構のこの過剰こそが、「解離性」という概念の最もラディカルな側面を示している。したがって、斎藤の批判者として、われわれはそれに忠実でありつづけなければならない。これはすなわち、ラカンが貫こうとした現実界への忠実さ、存在の不可能性という硬い核への忠実さなのである。
忘れてはならない。ラカンにとって、小対象 a としての過剰は、欲望の対象であるばかりか、欲動の対象でもある。そして精神分析の究極の立場は、欲動との同一化を基礎としている。この同一化は、われわれを客体から主体へと向かわせる。正確にいえば、客体の剰余(対象 a)から、欲動の次元における主体の欠如へと向かわせるのである。そしてこの欠如――斎藤のいう欠如とはまったく異なるものだ――が、おたくの欲望について、ある種の「ゼロの次元」で、前存在論的に考え直すことをわれわれに促すのだ。
最後に、もう一度ドゥルーズに触れて、この文章を結びたい。ドゥルーズは、主体の知覚世界を離れることのできる視点を、一貫して探し求めていた。その視点から、主体自身をも含む世界全体を考えるためである。ドゥルーズを通して見れば、おたくが戦闘美少女に向ける欲望は、ある全体への欲望であることがわかる。では、おたく自身はどうなのか。彼らもまた、つねにすでにこの全体のなかに存在しているのではないか。だが、だからこそ、おたくにはこのような超越的な視点が必要なのである。ドゥルーズ自身は精神分析に反対していたが、私の考えでは、ラカン派精神分析の試みは、まさに主体にこのような視点を与えようとする試みである。一部の人々が考えるのとは逆に、精神分析はこう考える。われわれはつねに「世界のなかに存在する」存在であるからこそ、あるラディカルな責任を免れることができない。それは、自らの存在の重みを引き受ける責任なのである。
編者注
斎藤環本人がもはや言及されなくなった今日、斎藤を考え直すことは必要なのかもしれない。彼はその後のおたく文化研究の方向に、どのような影響を与えたのか。あるいは、彼の研究に内在する臆病さは、どのような形で現れているのか。斎藤が『戦闘美少女の精神分析』で取り組もうとしたのは、「おたくは倒錯者なのか」という問いだった。おたくを弁護したすえに、斎藤はユング主義の誘惑に陥ってしまう。そして今日、われわれは彼によるラカンの(誤)読を批判するだけでなく、政治の側からも彼の立場を問うべきである。そう、アニメ・マシーンに捕らえられたおたくは正常なのだ。そのことを認めるほうが、ある種の「異常」や「秩序の乱れ」を認めることよりも、はるかに重要なのである。
最後に、ジョナサン・クレーリー(Jonathan Crary)が指摘したように、今日の視覚の政治は、一般にいう「カメラ・オブスクラ」のモデルとはすでに大きく異なっている。比較的新しい産物であるアニメは、どのように観客を誘惑し、形づくるのか。とりわけ「映画館」が著しく衰退したいま、観察者の身体は「いかにして新たな機械、新たな経済、新たな装置の構成要素となるのか――社会的、リビドー的、技術的な構成要素として」。これは、われわれが思うよりもはるかに複雑な問題だ。斎藤環が与えてくれたのは、一つの出発点にすぎない。その先の領域は、まるごと……空白なのである。