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「ヒステリー化するポストモダン」——東浩紀に対する一つの精神分析的批評

ラカンの欲求・要求・欲望の三項関係で東浩紀の「動物化」を捉え直し、消費社会の政治経済学の観点から、オタク文化がなぜ新たな欲望の対象を生産し続けるのかを説明する。

著者: 鱼板翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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魚板

ENOUGH IS ENOUGH!

『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』という本は、後の世代のオタクたちが盛んに語る二つの概念、「データベース」と「動物化」を提起した。しかし、コジェーヴの欲望理論を流用して提示された「動物化」という概念は、ACG文化の現実を説明する力に乏しく、「データベース」という概念にははるかに及ばない。東浩紀は動物化をどのように理解しているのか。

動物化とは何か。コジェーヴは『ヘーゲル読解入門』において、独特な方法で人間と動物の差異を定義した。鍵となるのは、欲望と欲求の違いである。コジェーヴによれば、人間は欲望を持つのに対し、動物にあるのは欲求だけである。ここでいう「欲求」とは、特定の対象に向けられた単純な渇望であり、その対象を得れば満たされて終わるものを意味する。たとえば、腹を空かせた動物は食べ物を食べさえすれば完全に満たされる。不足から満足へというこの経路が欲求の特徴であり、人間も多くの場合、欲求を満たすために行動する。

正確に言えば、コジェーヴが用いているのは「人間の欲望」と「動物の欲望」という二つの表現である。しかし、両者の区別はかなり込み入っているため、本稿では意図的に別の呼び方をする。ラカン派精神分析の用語を使うのである。ラカン派では、「欲望」(désir)という語は人間の欲望にのみ適用される。そこで、コジェーヴが「動物の欲望」と呼ぶものを「欲求」(besoin)と呼ぶことにする。しかし人間には、さらに別の渇望、すなわち「欲望」もある。欲望は欲求とは異なり、欲望の対象を与えられても、不足は満たされて消えることがない。この渇望の例として、コジェーヴ以降、彼の影響を受けたフランスの思想家たちがとりわけ好んで挙げるのが、男性の女性に対する性欲である。男性の女性に対する欲望は、相手の身体を手に入れても終わらず、むしろいっそう膨らむ(彼らはそのように記述する)。この性的欲望は、生理的な絶頂による単純な満足ではない。そこには、他者が欲望することを欲望するという複雑な構造も含まれている。簡単に言えば、男性は女性を手に入れると、その事実を他者が欲望すること(つまり、他者から嫉妬されること)を望み、同時に、他者が欲望する対象も手に入れたいと思う(嫉妬する)。だから欲望は永遠に終わらない。人間と動物の違いは、自己意識を持ち、社会関係を創出できることにある。そして、自己意識と社会関係の創出を可能にするのが、まさにこの主体間の欲望の存在である。動物の欲求は他者がいなくても満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする――ここでは詳述できないが、この差異こそ、ヘーゲルからラカンに至る近代哲学・思想の基軸であり、その最大の前提でもある。コジェーヴが従うのも同じ道筋である。

したがって、ここでいう「動物になる」とは、間主観的な構造が消失し、各人の「欠如―満足」という経路が閉ざされた状態になることを意味する。コジェーヴが「動物」と呼んだのは戦後アメリカ型の消費社会であり、この文脈に立てば、この語が単なる印象に基づくものではなく、鋭い洞察を含んでいることがはっきり分かる。

東浩紀は、「欲望」という概念がヘーゲルからコジェーヴ、ラカンへと受け継がれていく系譜に気づいていた。しかし彼が気づかなかったのは、ラカンによるコジェーヴの流用にはかなりの独創性があり、コジェーヴの用法から部分的に離反しているということだ。東浩紀はなおコジェーヴの視点に立ち、ラカンを誤解している。この誤解こそが、東浩紀をラカン理論に潜む歴史唯物論的な潜在力から遠ざけたのであり、その潜在力こそ、ラカン自身が一九七〇年代に「四つの言説」を通して繰り返し解明した理論の重心でもある。

ラカンの欲望理論は、東浩紀が述べるような、人間の欲望と動物の欲求という単純な二項から成るのではない。それは、欲求(besoin)――要求(demande)――欲望(désir)という三項関係である。欲望の結び目を捉える論理的な出発点である要求を、東浩紀はまさに見落としている。

ラカンの欲望についての最良の説明、「人間の欲望は他者の欲望である」が伝えようとしているのは、人間の欲望がつねに主体の外部にあり、言語が主体に作用することで生じる効果だということである。この説明を「人間の欲望は言語によって構造化されている」と置き換えることはできない。言語によって直接構造化されるのは欲望ではなく、要求だからである。人間が外的な対象によって満足を実現する過程が動物と異なるのは、単に間主観性を構築するからだけではない。言語活動を通して間主観性を構築するからでもある。人間の要求は言語を通して表明されるため、必然的に言語が構成するシニフィアンの秩序の枠内に制限される。しかし、デリダが「差延(différance)」という概念によって示したように、要求のシニフィアンは満足というシニフィエを直接指し示すのではなく、次のシニフィエを指し示し続ける換喩的な関係のなかで、無限に先送りされる。こうして、言語によって表明された要求は、決して満足を実現できない要求となる。この行き詰まりは二つの結果を生む。第一に、シニフィアン連鎖は遡及的に、原初的な満足を表象する主人のシニフィアン/欲求を生み出す。主人のシニフィアン/欲求は、シニフィアン連鎖の悪無限を阻止する空洞の論理形式としてのみ存在する。第二に、主人のシニフィアン/欲求と、凡庸なシニフィアン/要求とのあいだに差が生じる――その差こそが対象a(objet petit a)/欲望である。それは、主人のシニフィアン/原初的欲求の完全性を論理的に保証する。

著者が引用するラカン『エクリ』の言葉を訳せば、次のようになる。

単純な否定の否定ではない逆転によって、純粋な喪失の力が消滅の残余から浮かび上がる。要求の無条件性に代わって、欲望は「絶対的な」条件となる。この条件は実際、愛の証明と欲求の満足という相反する要素を解決しうるものなのだ。だからこそ、欲望は満足への渇望でも、愛への要求でもない。それは後者から前者を差し引いた差であり、それらが分裂しているという現象そのものなのだ。

欲望の簡単な公式は次のとおりである。

[ \text{欲望}=\text{欲求}-\text{要求} ]

ただし、論理的に先に存在するのは要求であり、欲求は要求に内在する欠如を反射的に補償するものである。欲望は、要求の欠如を補う場所を見つけられない残余である。したがって、欲望の主体である主体は、言語によって去勢された残余にほかならない。この水準に立って初めて、ラカン派にとって「クズ」がまぎれもない称賛である理由が理解できる――それは、あなたが正真正銘「人間である」という意味なのだ。

いったんラカンの欲望理論から目を離し、再び『動物化するポストモダン』に戻ろう。東浩紀は、間主観的構造の消失と欲望の消滅を消費社会の特徴として指摘する。しかしここで彼は、「消費社会」を政治経済学的に検討することを怠っている。消費社会が戦後の先進資本主義社会に共通して選ばれた社会モデルとなったのは、消費によって大量の過剰生産物を浪費し、資本が生産を絶えず拡大して利潤を蓄積し、持続的に発展できるようにするためであり、消費不足による経済危機のなかで自壊しないためである。消費社会における消費財の購入と使用は、コジェーヴのいう「最後の人間」が労働生産物を遊戯的に自由使用することとは、決して同一ではない。そこには見過ごせない強制性がある。東浩紀の「動物化」理論では、欲望が消滅したという前提のもとでも、なぜオタク文化が消費文化として絶え間ない再生産を維持しなければならないのかを説明できない。また、なぜ近代性の大きな物語がオタクの動物化した欲求を満たせず、「大きな非物語」のデータベース・モデルへと転換したのかも説明できない。

ここでラカンの欲望理論に戻れば、東浩紀が答えられなかったオタク文化の政治経済学的難問は、たちどころに解けるのではないか。欲望の原因としての対象aは、表現可能な要求を超え、原初的満足を表す欲求を暗示している。主体は対象aを追い求めるなかで、凡庸なシニフィアン/要求を次々と作り出す。凡庸なシニフィアンが凡庸であるのは、欲求に比べてつねに欠けており、十分によいものではないからだ。だから主体はヒステリー症状に陥り、欲望を満たそうとして、さらに多くの凡庸なシニフィアン/要求を作り出す。しかし欲望が欲望であるのは、それが決して満たされないからである。対象aは、シニフィアンの欠如という事実そのものを実体化したものにすぎない。主人のシニフィアン/欲求は、原初的満足を真に指し示すことが永遠にできない。それはまるで「無限の部屋を持つホテル」のようであり、多数の凡庸なシニフィアンに満たされてはいても、満杯になることのない空虚なシニフィアンでしかない。しかし、欲望を追い続ける尽きることのない駆動力こそが、資本社会における果てしない消費、利潤、資本蓄積、再生産を動かしている。「偽ドゥルーズ」的なポストモダン社会は、まさに動物化した社会ではない。それは名目上、欲望に対するあらゆる禁忌を解除し、「主体が無限の流動性を獲得した」ことを祝う社会である。それは人を疲弊させる強制的な享楽であり、貴族的美学の大衆化であり、値が付くのを待つアイデンティティ政治であり、スペクタクルの堆積の上に築かれた「人と違うこと」であり、趣味のよい(もちろん安くはない)消費財によって主体性を自由に構築する「自己の技法」である。要するに、オタクが生きるポストモダンにおいて、欲望は消滅したのではなく、資本の運用というボイラーのなかで激しく噴出しているのだ。

オタクは絶えず消費することで欲望を満たそうとするが、直面するのは欲望の無限と消費の無限だけである。したがって、オタク文化をなお消費文化とみなすかぎり、欲望の次元がオタクから本当に消滅することはない。そこにこそ、消費し続ける動力があるからだ。同時に、大きな物語も必然的に衰退し、「大きな非物語」に道を譲る。後者には前者にない開放性がある。欲望を消費主義的に代替して満たすための新たな要求を、つねに連続して生産できるからである。オタクは動物ではない。彼らは「クズ」であり、主体である。欲望を極限まで放縦に追い求めながら、享楽にたどり着けない主体であり、ヒステリー主体なのだ。だから、オタク文化を論じる著作に最もふさわしい題名は、当然『動物化するポストモダン』ではなく、『ヒステリー化するポストモダン』なのである。

編者注:『クズの本懐』。(?)魚板が水群に触発されて筆を執った初期の文章なので、本文にはやや性急なところがある。

本文終わり

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