
それ――真理――は語らない。私は、愛を伝える、未確認飛行物体だ。
美学という言葉の意味は、もちろん文脈によって異なる。彫像、詩、小説、絵画、演劇。これらを美学の名のもとにひとまとめに論じるべきではない。映画美学は新しい領域だ。芸術としての映画の歴史は、二次元の歴史よりずっと長いわけではない。この点には注意しておきたい。私個人としては、映画という媒体で作られた二次元(編注:アニメ映画)を、映画(編注:実写映画)と単純に同列に扱うことなど、絶対にできない。そうした混同は、小説を原作とする映画を小説の延長と見なすようなものだ。
映画美学には理論書が数多くある。たとえばバザンの『映画とは何か』。私が読んだ版の値段の高さとひどい組版には驚かされたが、それ以外ではさほど衝撃を受けなかった。それから、バラージュの『映画美学』(中国語版の題名。邦題『映画の理論』)。私は読んでいないが、題名を見るかぎり、たしかに映画美学を論じていそうだ。ところが二次元は、美学の分野では、その重要性に見合った関心を向けられていない。研究は比較的少なく、議論も乏しい。二次元の美がすでに広く受け入れられている今日、私たちはそれに関わる問題にもっと目を向ける必要がある。本稿はその試みである。

二次元のアウラ
本稿では、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」を、節操なく大量に引用する。まずは一つの概念を、引用を交えて説明しよう。そのあとで、二次元との関わりを述べる。
では、アウラとはいったい何なのか。時間と空間の観点から記述すれば、こうなる。一定の距離を隔てながらも、感覚のうえではこれほど身近なもの――その唯一無二の現れである。(中略)アウラの衰退は二つの事情に由来する……すなわち、現代の大衆には、物をもっと容易に「近づけたい」という欲求がある。1
アウラは、没入を伴う精神的な交感を象徴する。その最も際立った特徴は、ある種の距離だ。崇拝されるものは、必ず近づきがたさを生む。この近づきがたさは、宗教的な感覚でもある。ベンヤミン自身、聖像を例にアウラを説明している。

ヴァルター・ベンヤミン著。
ベンヤミンによれば、複製技術時代の芸術作品は、すでにアウラを失っている。簡単に言えば、距離感を失ったということだ。もちろん、アウラを一種の対象a(①欲望の原因、②想像的な欲望の対象)と見なすこともできる。そして、現代における〈父の名〉(おおよそ伝統的な法秩序に相当する)の崩壊が連鎖反応を引き起こし、対象aはうまく取り出されないままになった。これこそ、未来主義やシュルレアリスムに見られる、あの精神病的な書き方の根本原因でもある。
映画や写真が大量に複製されることで、芸術作品がどこに置かれるかは重要でなくなった。いまや、そうした作品は至るところにあり、手を伸ばせば届くからだ。チャック・パラニュークは、その傑作『チョーク!』で、芸術作品を置く場所と角度は、作品そのものよりも重要だと指摘している。2 これは、アウラが失われる以前の美学的イデオロギーがどう働いていたかを、よく説明している。しかし、ひとたびその仕組みが見抜かれれば、芸術作品が取り替え可能であることは、すっかり露わになる。アウラは一つの言説であり、知の様式なのだ。アウラが正常に働くには、〈父の名〉の監督が欠かせない。
ベンヤミンは、映画が集団で享受するものであり、ファシストの大のお気に入りでもあることを強調している。そして映画の登場によって、ほかの芸術も次第に映画的になっていく。ここで注目すべきなのは、ダダイストたちが自ら攻勢に出たことだ。彼らは絵にボタンや乗車券を貼り付け、すでにわずかしか残っていなかったアウラを徹底的に破壊しようとした。また、カルヴィーノやヴォネガットのような作家たちは、待ちきれないとばかりに読者との距離を縮め、「自分で読む」式の言葉遊びにますますのめり込んでいく。
映画は人の注意を散らす。これがベンヤミンの見方だ。彼によれば、映画では一つの画面のあとにまた次の画面が続き、人は思考に没入できない。これは近代性の定義と完全に一致している。ベンヤミンの見方に従えば、映画は触手の怪物のように人の触覚を刺激し、注意を集中できなくさせる。この点は、マクルーハンのいう耳で聞こえる触覚とも似ている。サイレント映画からトーキーへの急速な移行を、私たちは見逃してはならない。当時の観客は、アウラとしての距離感がさらに縮まることを、待ち焦がれていたのだ。
崇拝の対象は、聖母マリアから映画俳優へと変わった。確かに言えるのは、聖像と関係を持つより、俳優と関係を持つほうがはるかに容易だということだ。俳優には近づける。写真は舐められる。映画はどこでも見られる。
しかし、二次元となると事情はまったく違う。結論から言おう。二次元はアウラを回復した。つまり、二次元は距離感を生み出したのだ。この距離感は構造に由来するものであり、ラカンのいう「第三の排除」(構造的排除)である。
二次元との距離感は、キャラクターを「紙の嫁」と呼ぶ、なんとも皮肉な言い方からも分かる。私たちは三次元の人間であり、現在の技術では、二次元と接触するのはまだ非常に難しい。
まさにこの接触の難しさ、接触の不可能性とさえ言えるものが、聖像を崇めるような二次元崇拝を生む。二次元の美少女は、煙草も吸わず、薬物にも手を出さず、酒も飲まず、夜な夜なクラブに入り浸ることもない。彼女たちは永遠に完璧だ。薄い本で彼女たちを「汚そう」としても、無駄なことである。二次元の信奉者たちは、異なるシミュラークルを区別できるからだ(オタクたちは会話のなかで、薄い本のストーリーと本編のストーリーを混同したりはしない)。作品本編には主要なシミュラークルがあり、派生作品や同人作品には二次的なシミュラークルがある。この点で、二次元の「ハイパーリアル」は未完成なのだ。3 ボードリヤールの理論を公式扱いして、何でもかんでも当てはめればいいというものではない。

この観点から言えば、「萌二」は、いわゆる「婆羅門」よりよほど分かっている。4 「二次元は私の信仰だ」など、とうに耳にたこができるほど聞かされてきた言葉だ。実のところ、この言い方はとても「自然」なのである。そう思わないなら、ここの二次元を映画に置き換えてみればいい。「映画は私の信仰だ」。少し変に聞こえないだろうか。もちろん変だ。映画と一人ひとりの生活とのあいだには、距離がないからだ。ところが二次元と一人ひとりの生活とのあいだには、構造上の絶対的な(次元上の)差異がある。 礼拝価値と展示価値を併せ持つのは二次元だけだ。同時に、二次元は大衆の妄想の上に成り立っている(宗教における聖像と同じだ)。
「二次元は私の信仰だ」――この遂行的な発話の瞬間こそ、本当に変化が起こる瞬間である。「婆羅門」にはここで、「よく分かっている……それでも、やる」というフェティシズム的否認がはっきりと見られる。つまり、彼らは一方では数々の儀式に参加しながら、他方では自分に信仰などないと言い張る。アルチュセール式の(あるいはパスカル式の)唯物論者というわけだ。だが、彼らは忘れている。信仰は物質だ。信仰とは儀式そのものにすぎず、自分が信じているかどうかとは大した関係がない。
ここまで来れば、『ラブライブ!』(LL)の痛車の前で跪くキモオタと、聖像の前で跪く信徒には、大した違いがないことが分かる。『ラブライブ!』の主要なシミュラークルはそのアニメに由来し、聖像のほうは明らかに宗教の経典に由来する。彼女たち(聖像であれ、矢澤にこであれ)には、まず(想像的な)イメージがある。そのイメージが巨大なものとして(カントの力学的崇高)象徴界で実体を与えられるとき、アウラは抑圧されたものとして回帰するのだ。
編集部より
よく言った。