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複製品からシミュラークルへ――文化・芸術の消費をめぐる現代的転換

米岡「複製品からシミュラークルへ――文化・芸術の消費をめぐる現代的転換」。ベンヤミン、スティグレール、ボードリヤールを起点に、複製技術、デジタルメディア、文化消費のあり方が現代に至るまでにどう変わったかを論じる。

著者: 米岡翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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米岡

中世紀エヴァンゲリオン。

複製品からシミュラークルへ――文化・芸術の消費をめぐる現代的転換

同名の動画論文|原稿:米岡/映像:Loliiiico/ナレーション:盖井/制作:屋頂現視研映像班

一、はじめに

20世紀初頭に生きたベンヤミンは、大規模な工業化が文化と芸術にもたらす激変を身をもって経験した。「複製技術時代の芸術作品」で彼が指摘したのは、工業化による大量複製が、芸術作品にもともと備わっていた「アウラ」――真正性、唯一無二の地位――を崩壊させたということだ。芸術の創作は文化産業による生産と結びつき、社会の隅々に深く入り込んで、政治的な営みとなった。

ベンヤミンの時代、新たに登場した芸術のメディアには、紙の印刷物、写真、映画フィルム、セルロイドのシートなどがあった。これらのメディアを通じて流通する複製品は、しだいに「現実を写し取る」という古くからの原則の束縛を離れ、自らを複製して増殖するようになる。その結果、仮構されたものが際限なく広がり、資本の論理は文化的な気晴らしによって、大衆へのひそかな統制をすでに成し遂げたかのように見える。つまり、資本であれ、ファシズムであれ、共産主義であれ、芸術はある意味で、こうした政治的主体が大衆に働きかける道具となった。ベンヤミンが芸術の政治化によってファシズムに対抗すべきだと唱えたのは、この意味においてである。

情報時代に入ると、芸術のメディアはデジタルへと転換する。デジタルカメラ、インターネット、コンピュータソフトウェア、ディスプレイが、新たなメディアとなった。この転換によって、機械的な複製品は「原型」を完全に失い、コードのかたちで自己増殖する「シミュラークル」となる。同時に、デジタル技術を広く使えるようになったことで、大衆は芸術を創作する力を手にし、従来の文化消費のあり方は再び根底から覆された。技術の進歩による文化メディアの変革は、文化生産にどう作用し、それを通じて文化消費、さらには社会における文化のかたちをどう変えていくのか。これが重要な課題となったのである。

二、コード化された複製品

(一)完全なリアリズムの神話

ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、複製技術が芸術の創作、認識、さらには政治にもたらす変化を分析した。スティグレールの技術哲学は、この主題の考察を引き継いでいる。スティグレールは複製を、拡大しつづける虚構と位置づける。

「技術科学=フィクション」そのものが、伝達の問題、すなわち複製の問題における一大革命である。この「技術科学」は複製の産業であり、複製とは虚構にほかならない。それを虚構的複製の産業と規定する者もいる。それは悪魔のように世界を脅かしている。1

スティグレールが技術的複製の虚構性を論じるのは、人間が主観的にどう受け取るかという観点からである。正確にいえば、彼が関心を寄せるのは「私たちは何を望むのか」という問題だ。「現実」を知りたいという人々の願望は、技術産業の大規模生産のもとで、可能なものの「発明」に覆い尽くされてしまう。だからこそ、技術科学による複製産業は、世界を脅かす悪魔として現れる。素朴な啓蒙の信念に立てば、科学の使命は、人々に「自然の真相」を明らかにし、「現実性」を追い求める本質主義的な欲求に応えることにあるはずだ。しかし技術的複製が拠りどころにするのは、ものごとの「可能性」である。それは現実に制約されるのではない。むしろ可能性を現実に変える、つまり現実を生産する。この逆転によって虚構は増殖しつづけ、社会は文化生産に支配された象徴空間へと引きずり込まれる。スティグレールはこうした複製を「複製可能性」と名づけた。原作があって後からそれを複製するのではなく、初めから一連の複製を生み出す生産である。2

ところが、ベンヤミンが「写真小史」を書いた時代には、複製技術である写真こそ、真実性を求める人々の神話的な願望に応えていたように見える。写真がもたらす「衝撃」の体験は、まさに自然を即座に、余すところなく「写し取る」ことから生まれた。バザンは確信をもってこう書いている。

カメラの眼である一組のレンズが、人間の眼に取って代わった。その名は「objectif」という(フランス語で「撮影レンズ」を指し、「客観性」と同じ語根をもつ)。写される対象とその再現物のあいだで、もう一つの物体だけが作用する。これはまったく初めてのことだ。外界の映像は初めて、厳密な決定論に従って自動的に生まれるようになり、人間が介入して創造に加わる必要がなくなった。3

このことからバザンは、「写真の美的特性は真実を明らかにすることにある」と考えた。4 別の評論で彼は、この神話に「完全映画」の神話という名を与えている。外界のすべてを備えた幻影を複製する映画のことだ。5 映画がこの完全なリアリズムの神話をまだ実現していないとすれば、それは技術がまだ十分に整っていないからにすぎない。

ここに見えてくるのは、「複製」という語の二つの意味である。他のものを複製するという他動詞的な意味と、複製が自己増殖するという自動詞的な意味だ。ベンヤミンが「写真小史」で論じた、いくらかのアウラをなお残している写真作品は、間違いなく前者の意味での複製である。一方、「複製技術時代の芸術作品」に登場する、「真正性」を打ち破り、どこででも展示でき、誰もが所有できる芸術作品は、後者の意味での複製だ。もちろん、この二つの意味は決して切り離されてはいない。自己増殖する複製は、他のものの複製、つまり「原型」の複製を前提とすると考えられる。具体的には、現実、ネガ、映画の原版、芸術作品の原作などが、その原型にあたる。

しかし、複製の論理は原型に忠実ではない。写真が現実に忠実であることは、一見、ある種の「自動的」な働きによって保証されているように思える。だが、写真が捉えるのは現実ではなく、「光学的無意識」なのだ。そこで得られるのは、人間の志向性がまだ介入していない映像である。それは、私たちが見ようとは思っていなかったものを見せ、無意識の衝動と直接出会わせる。「衝撃」はその出会いから生まれる。言い換えれば、写真映像は「もう一つの現実」を構築する。見る者は映像に自分を重ねることでこの夢のなかへと導かれ、無意識の動きを映像に委ねる。

ベンヤミンは「写真小史」にこう書いている。「写真は、あらゆる映像の姿を物質的なかたちで明らかにする。そこには、白昼夢という隠れ家に潜む、最も微細で鮮明な細部も含まれる。しかし、そうした細部が大きく育ち、容易に記述できるほどになると、技術と魔術のあいだに、あくまで歴史とともに変わる差異を打ち立てることができる。」6

「白昼夢」としての映像がもたらす、この「あくまで歴史とともに変わる差異」こそ、技術と魔術の逆転にほかならない。映像は「再現」ではなく「再創造」というかたちで現実を構築するのだ。完全な複製の神話は、最後には「現実を虚構すること」だと明らかになる。映像の内容がどれほど現実に似ていても、映像はあくまで自らの領域のなかで成立する。まず映像それ自体が虚構として形づくられ、現実との類似は、むしろそこから派生するものとなる。

(二)シミュラークルのデータベース

ボードリヤールは『象徴交換と死』で、模造技術の歴史的な発展過程を記述するため、シミュラークルの三つの段階を提示した。

――模造は、ルネサンスから産業革命までの「古典的」時代を支配する形式である。

――生産は、産業時代を支配する形式である。

――シミュレーションは、コードに支配された現在の段階を支配する形式である。7

第一段階のシミュラークルは価値の自然法則に、第二段階のシミュラークルは価値の商品法則に、第三段階のシミュラークルは価値の構造法則に依拠する。

産業革命とともに登場したのが、大量生産される工業的なシミュラークルである。再生産が従う普遍的な等価の法則は、原型への参照を消し去って初めて成立する。つまり、「生産」はその論理の本質において「原型」を排除する。原型を失った模造は、それゆえ自分自身を模造するものへと変わる。「真の最後通牒は再生産そのものにあり、生産には意味がない。生産の社会的な目的性は系列性のなかに失われる。シミュラークルが歴史を圧倒する。」8

ある原型の大量の反復が、ついには複製品の大量の反復となり、本源的蓄積が資本の自己増殖となったとき、私たちは第三段階のシミュラークルの時代に入る。この段階の生産は、言葉をつないでいく遊びのようなものだ。一つの文字に次の文字がつながる。そこに明確な意味は何もいらない。文字列が続いていくこと自体が、生産の目的なのである。

ここにはいくつかのモデルだけがあり、あらゆる形態は、差異を調整することによって、これらのモデルから生み出される。モデルに組み込まれて初めて意味をもち、もはや何ものも自らの目的に従って発展することはない。すべてはモデル、すなわち「参照のシニフィアン」から生じる。それは一種の前目的性、唯一のもっともらしさであるかのようだ。

「シミュラークルの起源」は今日、遺伝コードのうちにその完全なかたちを見いだした。参照と目的性がいっそう徹底して消滅し、類似性と指示が失われていく、その境界で、人々は数字とプログラムの記号を見いだす。その「価値」は純粋に戦術的なもので、他の信号(情報の粒子/テスト)が交差する点に位置する。その構造は、操作と制御のための微分子的なコードの構造である。9

第一段階のシミュラークルに大理石の彫像やバロック様式、印象派の絵画が見つかり、第二段階に政治宣伝画や映画のポスターが見つかるとすれば、第三段階に見つかるのは記号の組み合わせだけである。こうしたものは、デジタル時代の典型的な消費形態であるオタクの消費にも見いだせる。たとえば『超次元ゲイム ネプテューヌ』というゲーム企画だ。この企画は初めから、いくつかのスポンサー企業を擬人化したイメージをもとに成立していた。まず「キャラクター」をデザインし、その後で、ゲームの主要な内容となる他の要素を埋めていく。宣伝的な性格を帯びたこの企画は、胸が躍るような物語も、格別に優れたゲームシステムも備えてはいなかったが、オタク層から広く好評を得た。主人公ネプテューヌのデザイン(図一)10を見れば、そこで働いている消費の仕組みが分かる。キャラクターを構成するコードの消費である。ゲーム機の擬人化、紫色の髪、ロリキャラ、寝間着のような「萌え系」の服。これらの要素は、同じオタク文化圏にあるゲーム文化へ、あるいは長年のアニメや漫画のキャラクターデザインで繰り返され、一種の「伝統」となった「萌え要素」へとつながっている。消費されるのは、ゲーム自体の内容というより、これらの要素を通じて別のテクストへと連鎖を絶えず延ばしていくことそのものなのだ。この例が明らかにするのは、シミュラークル論の背後に、ある生成モデルが存在するということである。コードが絶えず翻訳され、複製される過程で残すテクストの連鎖そのものが、シミュラークルを生成する場となる。

日本の批評家・東浩紀は『動物化するポストモダン』で、ボードリヤールのシミュラークル論は原型の消失には言及したものの、シミュラークルの生成を無秩序な増殖としてしか描いていないと論じた。原型を中心としたツリー型の構造が崩壊した後、それがいわゆる「データベース」モデルに置き換えられ、新たな法則と「伝統」が形づくられたことを、見落としていたというのである。11

シミュラークルの源を「データベース」と呼ぶのは、じつに的確だ(図二)12。先ほどのキャラクターを一連のコードの組み合わせへと分解できるように、現代の文化消費財は、ほとんどすべて同じように分解できる。断片的な特徴が作品のなかで繰り返されることで、ある種の「伝統」としての地位を得て、その後の作品でも引用されつづける。やがて似通った文化圏には、固定された象徴的な記号の一群ができあがる。Tシャツに刷られたチェ・ゲバラの肖像のようなものだ。そうした記号はいつでも組み替えられ、新しい文化消費財となる。この意味で、『アベンジャーズ』シリーズは、アメコミやマーベルの文化圏をなすデータベースから生まれた、『超次元ゲイム ネプテューヌ』と同類の作品だといえる。

このような文化消費とは、データベースから絶えず情報を読み出すことである。インターネットでリンクをクリックし、関連するページ、記事、動画を次々に見ていくのと同じだ。データベースの構造は、まさにネットワークの構造だといえる。東浩紀はそれを「超平面的な」構造と呼ぶ。平面はなお存在するが、同時に、平面を超えるものが並存している13――ハイパーリンクである。リンクをクリックしても、平面の閲覧から何か高次の領域へと上がれるわけではない。ただ次の平面へ移るだけだ。大きな非物語(データベース)から小さな物語が生まれるとはいえ、小さな物語を読むことで前者にさかのぼることはできない。大きな非物語は、適切に記述することすらできない。それはハイパーリンクで織り合わされた無数の平面からなり、絶えず変化し、新たな結びつきを作りつづけている。

大きな非物語は、いわば「潜在的」なものだ。ベルクソンのいう「純粋記憶」のように、換喩などの仕組みを通じて、生み出されるあらゆるテクストのなかを流れている。この流れを最もよく表すのが、「関連コンテンツ/あなたへのおすすめ」である。そして作品が生まれるとは、この潜在的な流れが現実化することにほかならない。漂う要素(シニフィアン)のあいだに新たなつながりを作り、読める文にするのだ。それによってデータベースには新しい平面ができる。二次創作も、共有されたネタで遊ぶことも、こうした平面とみなせる。

ただし、こうして要素をつなぎ合わせたものが「読める」ことは、「意味がある」ことではない。語の意味を知らなくても言葉つなぎの遊びはできるように、読めるという性質が保証するのは、別のテクストへつなげられることだけである。それに対して「意味」は、つねにテクストの外にあるものと結びついている。つまり、私たちの閲覧行為も、果てしなく続く言葉つなぎの遊びにすぎないのだ。

ディスプレイを見つめる現代人は、ただ強迫的に、この「読む」ことを繰り返す。意味を剥ぎ取られた情報の読み取り。あるいは、読み取るために読み取り、一つの文字列を別の文字列に投じる、純粋な「再生産」。これこそ、機械的複製の時代、より正確にはデジタル複製の時代の芸術作品が、私たちにもたらす経験である。ただし、これは芸術作品そのものの形式の変化から分析して得た結論にすぎない。社会構造の変化という大きな背景のもとで、この問題を読み直すことを忘れてはならない。そこで次に、機械的複製の時代の二本の映画に目を向け、現代の主体が置かれた新たな境遇を見ていこう。そして最後には、この境遇にある文化消費者たちが、先ほどの芸術のかたちをめぐって、どのような文化の生態系を作り出しているかが見えてくるだろう。

三、文化消費者の置かれた境遇

(一)「大衆」の二つの姿

再生産の拡大は「原型」の支配的な地位を覆し、プラトンのイデア論にも似た「真実」への崇拝は、アウラの消失とともに崩れ去った。芸術作品の形式が変わると同時に、芸術生産/文化生産の枠組みも変わる。さらに、神秘性を帯びたアウラが失われると、芸術作品が存立する根拠は、儀礼性をもつ特定の場から政治の領域へと移った。たとえば「原作」の特別な地位は、ブルジョワジーの法が保護する「著作権」というかたちをとる。作品の生産も、個人による注文制作から、市場需要の予測を織り込んだ、したがって資本の論理に従う文化産業の生産へと変わった。

この変化は、かつてないほど大衆と芸術を結びつけ、芸術を社会の隅々にまで浸透させた。ベンヤミンはこう書いている。「大衆は一つの源泉であり、今日、新たなかたちで現れる芸術作品に向けられる従来の振る舞いは、すべてそこから生まれてくる。量は質へと転化した。大衆の参加が飛躍的に増えたことで、参加の仕方が変化したのである。」14 彼は、芸術生産に大衆が参加しているからといって、大衆が芸術を通じて自己表現する手段を得たとは軽々しく考えなかった。むしろ、ここでベンヤミンの議論から読み取れるのは、まず芸術による気晴らしが大衆をひそかに統制する側面を捉え、そのうえで大衆を動員する可能性を探る姿勢である。

大衆は主体としてではなく、つねに表現され、形づくられる対象として芸術生産に現れる。芸術生産を通じて自らの「力と権限」を得たわけではない。次の二つの例には、大衆の分裂した姿を容易に見て取ることができる。1905年のロシア革命を描くソ連映画『戦艦ポチョムキン』(1925)では、全篇を通して「大衆」が表現され、革命精神を広めるための何よりも力強い道具となっている。第3部15では、エイゼンシュテインによる二組のモンタージュがとりわけ典型的だ。最初の組は、蜂起したために殺された一人の水兵を弔うため、人々が港へ向かう途中、橋の下を通る三つのショットである(末尾の三画面)。エイゼンシュテインは、上の橋、両側の階段、下の通路を存分に使い、奥行きのある空間を秩序正しく埋める人の流れによって、「大衆」の揺るぎない、一つに結ばれた意志を表現した。二組目は、殺された水兵の遺体の前で人々の怒りが高まり、帝政ロシアの暴政に抗う決意をする場面である(末尾の四画面を、左上・右上・左下・右下の順に参照)。最初のショットでは、演説者らしき人物がやや高い場所に立ち、右に向かって熱弁をふるう。次のショットの群衆は画面の左を向き、前のショットの方向に呼応している。三つ目ではクローズアップに切り替わり、たくましい腕と、衣服の裾を固く握りしめる手を通して、長く抑え込まれてきた人民の怒りを表す。四つ目もまた直前のショットに呼応し、その怒りの爆発を表現する。

人々の群れは効果的に組織され、行進する群衆、静止する群衆、叫ぶ群衆、腕を高く掲げる群衆として映し出される。つまり、力強く一つにまとまった、行動主体としての「大衆」である。エイゼンシュテインのモンタージュは、大衆に一つの像を与え、もともとは雑然としていた人々の姿に秩序をもたらした。ショットを特定の仕方でつなぐことで映像の文法を定め、抽象的な「概念」を表現するのだ。ソ連のモンタージュを特徴とする多くの映画には、同様の用法が見られる。当時の観客である大衆と、映画に映し出される大衆は、大きく重なっていたかもしれない。彼らの「自己呈示」とさえ呼べるほどに。だが、映し出された大衆像は、例外なく、すでに映画の文法によって組み立てられ、モンタージュが表現しようとする理念に従っている。先ほどベンヤミンの議論から読み取った、映画という気晴らしによる大衆のひそかな統制と動員も、この意味で理解できる。まずスクリーン上に「大衆」が構築されて初めて、客席の人々はその「大衆」のうちに自分たちの姿を見いだせる。大衆が自己表現する可能性はあるとしても、多くの場合、観客は映像の「大衆像」に自分を重ねることで、形づくられているにすぎない。

もう一つの例が示すのは、これと正反対の姿である。イタリアのネオレアリズモ映画『自転車泥棒』(1948)では、大衆は終始、雑然とした姿で登場する。主人公も特別な存在としての輝きをすべて剥ぎ取られ、大衆の一人へと戻される。ドゥルーズはこう述べている。

同一化は覆され、登場人物は観客になった。彼はむなしく移動し、走り、行動する。置かれた状況は、あらゆる点で彼の運動能力を超えており、もはや何らかの応答や行為だけでは解決できない事柄を、彼に見せ、聞かせる。彼は反応するよりも、むしろ記録する。あるヴィジョンの虜となり、それにつきまとわれ、あるいはその後を追うのである。16

この記述は、主人公が映画の全篇を通して示す喪失感にぴたりと重なる。従来の映画の物語は、もはや彼の行動を支えてくれない。彼は状況を掌握する力を失っている。「人物が行動し、状況がそれに反応する」という従来の型は機能しなくなり、人物と状況の均衡が崩れる。「純粋に視覚的・音声的な状況」に置かれた主人公は、なすすべもなく見守るしかない自分に気づき、人波に埋もれていく。たとえば、失った自転車を探す主人公を捉えた末尾の四画面を、左上・右上・左下・右下の順に見よう。一つ目から二つ目への切り替えでは主人公の主観ショットとなり、雑然とした人混みが見える。ところが、三つ目の客観ショットでは、主人公はたちまち人混みに消えてしまったかのようだ。真ん中に、土砂降りのなかでその場を動けずにいる人物を見つけて初めて、私たちは彼を見分けられる。四つ目の俯瞰ショットは、この無力感をいっそう強める。そしてついに、主人公も人混みのなかの一人にすぎず、ただ自転車を盗まれたために、こうして駆けずり回ることになったのだと気づかされる。

『自転車泥棒』で人々の群れが画面に現れる割合は、先ほどの『戦艦ポチョムキン』よりもさらに高い。だが、歩き回り、騒ぎ立てる人々は、「秩序」や「統一」とはまったく無縁である。この映画は、いかなる「群衆像」も示さない。「群衆」という語がそもそも何を指すのかさえ、見いだせないからだ。映し出されるのは、耐えがたく、あまりにも現実的で惰性的な日常生活にすぎない。物や人物は、それ自身を超える意味を差し出そうとしない。『自転車泥棒』は長回しを多用するが、そこで撮られるのは、主人公が道のこちらからあちらへ歩く姿や、取るに足りない日常のこまごました事柄であることが多い。こうした長回しによって、映画の時間の流れは緩み、定まった主題を失い、観客は途方に暮れる。観客の常識からすれば、映画の編集には、「この場面は何を表しているのか」を示し、理解を導く義務があるように思える。だが、ネオレアリズモの長回しは、まさにこの義務を取り消す。それによって、より「現実的」で、操作されていないものを表そうとするのだ。

そして観客の戸惑いは、そのまま主人公の戸惑いである。「群衆」の主体性という約束を失った、無力な個人の戸惑いだ。映画の文法は、もはや主人公を包み込み、一挙手一投足に意味を与えてはくれない。そのため主人公は、自分がなすすべのない状態に置かれていると気づく。ただ見ること、記録することを強いられ、何一つ有効な応答ができない。これは、先ほどのモンタージュとは正反対である。モンタージュでは、中心となる人物の言葉が編集の「魔法」によって概念の水準で表現される。あるいは、その人物像そのものが表現の装置となり、人々が自分を重ねるよう促す。こう見れば、ネオレアリズモにおける純粋に視覚的・音声的な状況と長回しは、まさしくモンタージュの魔法を解くものなのだ。

ここから分かるように、機械的複製の時代の個人には、分裂した「大衆」像が宿っている。一方では、社会的/政治的な組織体が個人に主権を約束し、一人ひとりの市民を、力強く一つにまとまった大衆の神話へと組み込む。他方で個人は、見知らぬ雑然とした人波/大衆のなかにいることに気づく。なすすべもなく、眼前のすべてを見て記録するよう強いられるばかりで、何ら有効な応答ができない。新たな芸術生産の論理のもとで、文化生産は政治権力の支配下に取り込まれる。そのとき、個人はなお自らの発言権を確保できないというより、文化生産そのものの虜になっている。力強く統一された前者の「大衆」に自分を重ね、その一員となってこそ、なすすべもない恐ろしい境遇を避けられるのだから。

(二)ポストモダンの文化的部族

スティグレールは「感性のプロレタリアート」と題する講義で、文化産業の発展とともに、消費者の感性がプロレタリア化したと指摘する。この「プロレタリア化」が指すのは、知の喪失である。17 ラジオで音楽を聴く人は演奏するための知や技を失い、紙の印刷物で絵を鑑賞する人は、絵画の技法について何も知らない。このような技術の発展は、アマチュア(愛好家)の知を貧しくし、彼らを単なる文化消費者へと後退させた。

しかし、工業技術がデジタル技術に置き換わるにつれて、先の知の喪失とは異なる、感性の第二の機械的転換が起きた。それまで資本のマーケティングと文化産業が握っていた文化生産の道具がデジタル化され、広く人々に開放されたのである。誰もがコンピュータソフトウェアを学ぶことで、映像編集、ポストプロダクション、デジタル作画といった技術を身につけられるようになった。この転換はアマチュアの復活をもたらし、文化消費者はついに、愛着や欲望の働きをめぐるリビドー経済を、自ら動かす力の一部を取り戻した。

アマチュアとは、リビドー経済の象徴でなくて何だろうか。アマチュアは「愛する」(amatはラテン語の動詞amare、つまり「愛する」に由来する)。これこそが、アマチュアをアマチュアたらしめるものだ。芸術のアマチュアが愛するのは芸術作品である。そして彼らが芸術作品を愛するかぎり、その作品も彼らに働きかける。

どの芸術作品も、ある意味で、それ自体を明かすものである。作品は一つの啓示として現れて初めて、その姿を真に示すことができ、そこからある種の教義が生まれる。場合によっては、そこから学派や小集団、教派が生まれ、ときには派閥の分裂にまで至る。カントによれば、私がある芸術作品を美しいとみなすとき、誰もがそれを美しいと思うべきだと必然的に考える。けれども心の奥底では、事態が自分の望むとおりにはならず、決してそうはなりえないと知っているのだ。18

このスティグレールの議論からまず見えてくるのは、デジタル時代に芸術作品が成立するための政治的条件である。アマチュアが愛するからこそ、芸術は芸術になる。その過程で、文化と、その文化を支持する人々が同時に形づくられる。さらにこの一節は、デジタル時代の文化における部族主義の現状をも明らかにしている。アマチュアの物神崇拝によって文化が生まれるからこそ、文化という「神像」のもとに、それぞれの「教団」ができるのだ。教団は内部ではある教義を繰り返し、外部に対しては他の教団に反対する。先ほどの「データベース」という文化のかたちの分析と合わせれば、それぞれの教団は内部で小さなデータベースを共有しているといえる。それぞれの小さなデータベースは、さらに大きなデータベースに含まれ、その内部にある他の小さなデータベースと対立する。こうして異なる言説体系が幾重にも入れ子になる、集合論的な構造ができあがる。

先ほどの分析で得られた「無力な主体」は、何らかの「大衆」に同一化せざるをえない。だがポストモダンの状況では、その「大衆」は必ずしも大文字の「人民全体」である必要はなく、無数の小文字の「大衆」へと分解できる。この無力な主体が文化の懐に飛び込み、ある文化のアマチュアになったとすれば、彼が自らを重ねる「大衆」は、ある種の「同好会」や「文化圏」になる。そこで他者とつながり、同じ言説の枠組みを使い、文化消費財を共有し、さらにはともに創作することもできる。

しかし、こうした文化消費のあり方がもたらすのは、文化の部族化である。主権者が定める「公共的基準」を欠く小さな物語について、宇野常寛はこう述べる。

歴史に代表される「大きな物語」ではなく、データベースから生成される「小さな物語」は、その根拠を持たない。そこでは、小さな物語たちはその正当性と棲み分けを守るため──その共同性から誤配とノイズを排除するため、より厳密に敵と味方、内部と外部を区別するために、他の物語を排撃する。データベースから生成される小さな物語の共同性は、排他的な性格を帯びるのだ。19

日本の批評家・宇野常寛は、東浩紀のデータベース文化論を引き継ぎ、そこから生じる排他的な社会の問題を明らかにした。異なる文化圏/小さな物語に属する人々は、どう交流できるのかという問題である。東浩紀はデータベース論の延長上で、データベースから生まれる産物(「キャラクター」)どうしにはつながりがあり、コードどうしのつながりが、異なる小さな物語のあいだの交流の可能性を開くと考えた。これに対して宇野常寛は、キャラクターをある程度共有される記号へと還元できるとしても、キャラクターが成立する過程は、まさにその構成要素を否定する過程なのだと批判する。自らがそもそも何かを組み合わせてできたものだということを否定してこそ、排他的な物語が成立し、その物語を崇拝し、そこに自分を重ねることが可能になるのだ。

宇野によれば、厳密にはキャラクター(character)は記号ではない。キャラクターが成立するには、その設定を承認する共同性が必要になる。そして、その共同性は物語(ナラティブ)によって規定されている。キャラクターが原作から独立し、二次創作のなかで改変され、消費される過程は、こうした設定を承認する共同性と、その共同性を規定する物語を、メタレベルでさらに強化するのである。

この点を東浩紀の議論は捉えていない、と宇野は批判する。東は、データベース消費におけるキャラクターという概念を、ある種の物語批判として提示した。しかしキャラクターは、しばしば共同性を供給し、補うものであり、小さな物語の源泉と呼んでもよい。

技術的には、たしかに全世界をつなぐコミュニティが可能かもしれない。しかし物語の水準では不可能だ、と宇野はいう。そこでつながれるのは、キャラクターの設定を承認する者だけだ。そのつながりは、内部にずれを含まない小さな物語にとどまる。キャラクターを小さな物語を超えられる自由な存在、あるいはそのような存在を代表する記号的要素とみなす東の主張は、この点を見落としているのである。20

作品を生産する側から見れば、ポストモダンのデジタル技術がもたらすのは、つながりと共有のための広大な文化空間のように思える。人々はさまざまなデータベースから自由にコードを取り出し、自分の着想を加えて、新しいイメージ、キャラクター、作品を作れる。このように見ると、多様なコードの集積であるキャラクター(character)は、ある程度の普遍性を備えることで、異なる文化圏をつなぐ「記号」になれるように思える。だが宇野が指摘するのは、それこそが逆立ちした論理だということだ。コードの断片を継ぎ合わせた作品/キャラクター像は、生まれた瞬間に「自分は継ぎ合わせてできたものだ」という事実を否定し、自らに固有の本質があるかのような姿を作り上げ、唯一無二のものとして自らを示す。そうして排他的な物語の源泉、「神像」となる。キャラクターを小さな物語から独立した存在とみなすのは、データベースによる文化消費の論理をまったく取り違えている。メタレベルで見えるキャラクターどうしの共通性は、「信徒」たちにとって交流の経路にはなりえない。むしろキャラクターが似ていることは、自分たちの信じるキャラクターだけがその記号を独占する資格をもつという、護教的な排斥さえ引き起こす。似ているためにキャラクターを取り違えでもすれば、「分かっていない」と笑われるだけだ。そこに映し出されているのは、まさに部族の排外主義である。

ポストモダンのデータベースによる文化消費は、それ自体としては言説体系への批判性をもたない。つまり、小さな物語に耽溺する「文化的部族の人々」は、そのなかに、他者と「交流」する可能性を見いだせない。じつのところ、文化的部族は、まさにその可能性を排除することで成立している。真の「交流」は、この時代の神話にすぎない。文化の大きな物語が衰えたポストモダンの状況では、人々は『戦艦ポチョムキン』に示されるような大文字の政治美学に同一化する必要はない。だが、その義務から解放された現代人は、閉ざされた文化的部族のなかでしか生きられないのだ。

したがって、「資本の支配下にある文化産業が個人の美意識を操作する」という大づかみな対立の図式から文化消費を批判するだけでは、なお核心には届かない。より切実なのは、文化の生態系そのものが、孤立と排外性を強める部族主義へと向かいつつあることだ。これは生産の問題、「外部」の問題であるだけではない。まず文化受容の問題、すなわち「内部」の問題なのである。陰謀論に出てくるような資本主義の巨大な機械が、人々を切り離したのではない。部族の人々のほうが、交流を拒まなければならないのだ。言い換えれば、文化の受容こそが交流の拒絶のうえに成り立っており、文化のかたちがその排外的な性格を促している。

さらに悪いことに、次のような可能性もある。文化産業が作り上げる芸術のイメージと言説体系が、ばらばらに戦う弱小の部族を覆い尽くし、「感性の第三の機械的転換」を引き起こすのだ。巨大な文化機構がアマチュアの創造力を支配下に取り込み、社会の美的基準と文化的基準を「統一」する。美的基準が真に統一されることは決してありえないが、「主権的」であることはできる。それは「社会全体」という巨大な姿をもって、自らの外にあるあらゆる物語を押さえつけるだろう。芸術作品には、再び政治の刻印が押される。ただし今度は、政治イデオロギーの名においてではなく、「大衆の美意識」の名において。

四、おわりに

現代において、芸術の美的経験と文化消費は、いっそう緊密に結びついている。両者の結びつきが帯びる政治性は、ベンヤミンの時代に比べて少しも弱まっていない。文化を消費し、芸術を享受する営みは、従来の人間どうしの絆がほどけた後の、新たな社会的つながりのかたちとなり、人々に「信仰」の対象を与える機能も兼ね備えている。その機能が、かつての神聖な意味を失っているとしても。文化消費者は依然として無力で、映像の虜となり、強迫的に見ることを繰り返す存在である。だがデータベースのモデルは、文化創造の新たな可能性をももたらした。ドゥルーズのように、文化的なコードの差異を伴う反復が逃走線を描き出し、私たちが支配的な言説による捕獲を逃れられると期待できるかもしれない。しかし同時に、この差異化の過程そのものが保守的な性格を帯びていること、現代の文脈で「美的経験」という語が閉鎖性と排他性を含意していることも、認めざるをえない。

この閉鎖的な性格は、美を感じることが主観的だから生まれるのではない。人々は、同じ作品への感じ方が違うために排斥しあうわけではないのだ。ベンヤミンが描いた「衝撃の体験」において、人々が次々に訪れる新奇な刺激を感性で受け止めていたとすれば、現代のシミュラークルの美的経験において、感性の機能はほとんど舞台裏に退いている。それに代わるのが「読む」機能だ。作品を構成する要素は文字へと翻訳され、データベースのなかにテクストの連鎖を伸ばしていく。あらゆる表現の仕組みが「引用可能な」ものになる。ここで排他性を育むのは、「読む」という能力そのものではなく、読むときの文脈と対象、すなわち特定のデータベースと文化圏である。つまり閉鎖性をもたらすのは、美的経験そのものではなく、その主体が置かれた境遇なのだ。この美的経験の主体は、なお作品に捕らわれている。ただし今度は、受動的に感覚を圧倒されるだけではない。能動的に……

NERVの紋章とキリル文字を円状に配し、手前に黒い機体のシルエットを重ねた赤い装飾画像

「拾荒戦略/RAGS DRUM」の文字を配した催事バナー

ネプテューヌを中央に大きく置き、背後の人物を暗く見せ、髪色や衣装などを指摘する五つの中国語注釈を重ねた分析図
図一 ネプテューヌのデザイン。図中の中国語注釈の訳:
  • 左上:幼さを強調したデザイン。
  • 左中央上:髪も瞳も基調色も紫。
  • 左中央下:デフォルメされた体のバランス。
  • 右上:コントローラーのボタン型の髪飾りが、このキャラクターがゲーム機の擬人化であることを示す。
  • 右中央:名前を衣装のデザインに取り入れ、キャラクターを印象づける。

左の横縞入りのデータベースから、中央の縦破線をまたいで、右の濃淡の異なる丸へ線が交差して伸びる模式図。下には白抜きの丸と左下を向く太い矢印がある
図二 データベースとシミュラークル。図中の中国語ラベルの訳:
  • 左の縦書き:大きな非物語。
  • 左下:データベース。
  • 上部:組み合わせ。
  • 右中央の二行:シミュラークル/同じ情報が形をとって現れたもの。
  • 右下:別種のシミュラークル。
  • 下の矢印沿い:別種のデータベースへ。

『戦艦ポチョムキン』で港へ向かう群衆を捉えた横並びの三画面。橋、階段、その下の通路に人々が連なる
『戦艦ポチョムキン』――港へ向かう群衆。

『戦艦ポチョムキン』の四画面。左上は右へ向かって演説する人物、右上はそれに応じる群衆、左下は衣服を握る手、右下は腕を掲げる群衆
『戦艦ポチョムキン』――群衆の怒り。右下の中国語字幕「打倒暴政」と英語字幕 “Down with tyranny!” は、ともに「暴政を倒せ!」の意。

『自転車泥棒』の雨の市場を捉えた四画面。左上は立ち止まる主人公、右上は市場の人々、左下は人混みに紛れる主人公、右下は俯瞰で捉えた主人公と少年
『自転車泥棒』――雨の市場で自転車を探す主人公。
本文終わり
注20

注釈

  1. ベルナール・スティグレール『技术与时间3:电影的时间与存在之痛的问题』(『技術と時間3』中国語版)、方尔平訳、南京:译林出版社、2012年、266頁。 ↑

  2. 『技术与时间3』、283頁。 ↑

  3. アンドレ・バザン『电影是什么?』(『映画とは何か』中国語版)、崔君衍訳、北京:中国电影出版社、1987年、11頁。 ↑

  4. 同上、13頁。 ↑

  5. 同上、21頁。 ↑

  6. ヴァルター・ベンヤミン『摄影小史』(『写真小史』中国語版)、许崎玲・林志明訳、桂林:广西师范大学出版社、2017年、27頁。 ↑

  7. ジャン・ボードリヤール『象征交换与死亡』(『象徴交換と死』中国語版)、车槿山訳、南京:译林出版社、2009年、61頁。 ↑

  8. 同上、70頁。 ↑

  9. 同上、71–72頁。 ↑

  10. 図一の出典:『超次元ゲイム ネプテューヌ』キャラクター紹介。 ↑

  11. 東浩紀『动物化的后现代——御宅族如何影响日本社会』(『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』中国語版)、褚炫初訳、台北:高宝书版集团、93頁。 ↑

  12. 図二は『动物化的后现代』94頁より。 ↑

  13. 同上、160頁。 ↑

  14. ハンナ・アーレント編『启迪:本雅明文选』(ベンヤミン選集)、张旭东・王斑訳、北京:生活·读书·新知三联书店、2008年、260頁。 ↑

  15. 中国語原稿での部題は「以血还血」(血には血を)。 ↑

  16. 吴琼編『凝视的快感:电影文本的精神分析』(映画テクストの精神分析を扱う論集)、北京:中国人民大学出版社、2005年、185頁。 ↑

  17. ベルナール・スティグレール『人类纪里的艺术:斯蒂格勒中国美院讲座』(中国美術学院での講義録)、陆兴华・许煜訳、重慶:重庆大学出版社、2016年、37頁。 ↑

  18. 同上、40–41頁。 ↑

  19. 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』、東京:早川書房、2013年、30頁。引用中の「その根拠」への説明は、中国語原稿による補足。 ↑

  20. 同上、34頁。本文の三段落は、中国語原稿に掲げられた引用に基づく宇野の議論の紹介。 ↑

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