屋頂現視研日本語版
中国語原文目次編集プレビュー

複製品からシミュラークルへ――文芸消費の現代的転回

ベンヤミン、スティグレール、ボードリヤールを手がかりに、米岡が複製技術とデジタルメディアがもたらす文化消費様式の現代的転回と、データベース的消費が導く文化の部族化を論じる。

著者: 米岡翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · complete work

本稿は拾荒戦略 Rags Drum 2021前夜祭の受賞作である。

複製品からシミュラークルへ――文芸消費の現代的転回

同名ビデオエッセイ|脚本:米岡/映像:Loliiiico/ナレーション:盖井/制作:屋頂現視研映像チーム

一、はじめに

二〇世紀初頭を生きたベンヤミンは、大規模な工業化が文化と芸術にもたらした巨大な変化をその身で経験した。彼は「複製技術時代の芸術作品」において、工業化による大量複製が、芸術作品に本来備わっていた「アウラ」――真正性、一回限りの唯一無二の地位――を崩壊させたと論じた。芸術創作は文化産業の生産と結びついて社会の肌理の奥深くへ埋め込まれ、政治化された営みとなったのである。

ベンヤミンの時代、新たに現れた文芸メディアは紙の印刷物、写真、映画フィルム、セルロイドなどであった。これらのメディアの上を流通する複製品は、「現実を写し取る」という古い原則の束縛から次第に脱し、自己自身の複製へと向かっていった。この現象がもたらした帰結は虚構の絶えざる拡大であり、資本の論理はすでに文化的な気晴らしによって大衆への「ひそかな支配」を成し遂げたかに見える。要するに、資本であれファシズムであれ共産主義であれ、芸術はある意味で、これらの政治的主体が大衆へ影響を及ぼすための道具となった。ベンヤミンが「政治化された芸術」をもってファシズムに対抗せよと説いたのは、まさにこの意味においてである。

情報時代に入ると、文芸メディアはデジタル化の転回を遂げる。デジタルカメラ、ネットワーク、コンピュータソフトウェア、電子スクリーンが新しい文芸メディアとなった。この転換によって機械複製品は「原型」を完全に失い、コードのかたちで自己増殖する「シミュラークル」となった。同時に、デジタル技術の開放によって大衆は文芸創作の能力を手に入れ、従来の文化消費様式はふたたび根底から覆されることになった。こうして、技術の進歩がもたらす文化メディアの変革が文化生産にどう作用し、それによって文化消費を、ひいては社会の文化形態をどう変えていくのかが、重要な課題として浮かび上がってくる。

二、コード化された複製品

(一)完全なリアリズムの神話

ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、複製技術が芸術にもたらした創作認識、さらには政治にわたる変化を分析したが、スティグレールの技術哲学はこの主題の考察を受け継いでいる。スティグレールは複製を、絶えず拡大していく虚構として規定する。

「テクノサイエンス=フィクション」はそれ自体、伝達の問題、すなわち複製の問題における一大革命である。この「テクノサイエンス」は複製の産業であり、しかも複製とはすなわち虚構であって、これを虚構的複製の産業と規定する者もいる。それは悪魔のように、世界を脅かしているのだ。1

スティグレールは、人間の主観的な受容という角度から技術的複製の虚構性を語っている。正確に言えば、彼が関心を寄せるのは「われわれは何を欲するのか」という問題である。「現実」を認識したいという人々の願望は、技術産業の大量生産のもとで、可能的な事物の「発明」に呑み込まれてしまう。だからこそテクノサイエンスの複製産業は、世界を脅かす悪魔として現れるのだ。素朴な啓蒙の信念からすれば、科学の使命は人々に「自然の真相」を開示し、「現実性」への本質主義的な追求を満たすことにあるはずだった。しかし技術的複製が依拠するのは事物の「可能性」であり、それは現実に縛られない。むしろ可能性を現実へ変える、つまり現実を生産するのである。この倒錯がもたらすのは増殖しつづける虚構であり、それは社会を、文化生産に支配された象徴空間へと引きずり込む。スティグレールはこうした複製を「複製可能性」と名づけた。はじめから複製である生産、すなわち原作なきシリーズ生産である。2

しかしベンヤミンが「写真小史」を書いた時代には、複製技術としての写真術はむしろ、真実性の神話への人々の追求をこそ満たしていたように見える。写真が人々にもたらした「ショック」の体験は、それが即時に、余すところなく自然を「写し取る」ことに由来していた。バザンは自信に満ちてこう書いている。

カメラの眼をなすレンズ群が人間の眼に取って代わった。しかもその名はまさしく「objectif」――フランス語で「撮影レンズ」を意味し、「客観性」と同根の語である。もとの物体とその再現物とのあいだに、もう一つの実物だけが介在して働く。これは実に史上初めてのことだ。外部世界の映像が初めて、厳密な決定論に従って自動的に生成される。人間が干渉し、創造に参与する必要はないのである。3

これに基づいてバザンは、「写真の美学的特性は真実を開示することにある」と考えた。4この神話に、バザンは別の評論で一つの名を与えている。「完全映画」の神話――外部世界の幻影を何ひとつ欠けることなく複製してみせる映画である。5映画がこの完全なリアリズムの神話をまだ実現できていないとすれば、それは技術がまだ整っていないからにすぎない。

ここでわれわれが目にするのは、「複製」の二つの意味である。他動詞としての、他なるものの複製。そして自動詞としての、自己増殖する複製。ベンヤミンが「写真小史」で語った、まだいくらかアウラをとどめている写真作品は、疑いなく前者の意味での複製であり、「複製技術時代の芸術作品」に登場する、「真正性」を打ち砕かれ、どこででも展示でき、誰にでも所有されうる芸術作品は、後者の意味での複製である。もちろん、この二つの意味は決して切り離されたものではない。自己増殖する複製の前提は、他なるものの複製、すなわち「原型」の複製だと考えることができる。具体的に言えば、原型とは現実であり、ネガであり、映画のオリジナルフィルムであり、文芸作品の原作などである。

しかし、複製の論理は原型に忠実ではない。写真の現実への忠実さは、一見すると何らかの「自動化」された作動によって保証されているようだが、写真が捉えるのはまさに現実ではなく、「視覚的無意識」である。写真が得るのは、志向性がまだ介入していない映像であり、それはわれわれに、見ようと意志したことのないものを見せ、われわれの無意識的な衝動と直接に遭遇させる。「ショック」はこの遭遇から生まれるのだ。言い換えれば、写真映像とは「もう一つの現実」の構築であり、観る者は映像への同一化に導かれてこの夢のなかへ入り込み、映像による無意識の配備を受け入れる。ベンヤミンは「写真小史」にこう書いている。「写真は物質的なかたちで、あらゆる映像の相貌を、そのもっとも微妙な細部――白昼夢の隠れ家にひそむ鮮明な細部――もろとも開示する。しかし、これらの細部が巨大で言い表しやすいものにまで成長したとき、それらは技術と魔術とのあいだに、まったく歴史的変化にほかならない差異を打ち立てることができるのである。」6「白昼夢」としての映像がもたらす「まったく歴史的変化にほかならない差異」とは、まさに技術と魔術の反転である。映像は「再現」ではなく「再造」というかたちで現実を構築する。完全な複製の神話は、最終的に「現実を虚構すること」として暴かれる。映像の内容がどれほど現実に似ていようと、映像は自らの場において自らを完成させる。映像はまず自己自身を虚構するのであって、現実との類似はむしろ派生物にすぎないのだ。

(二)シミュラークルのデータベース

ボードリヤールは『象徴交換と死』において、模造技術の歴史的な発展過程を記述するために、三つの段階の「シミュラークル」概念を提示した。

――模造は、ルネサンスから産業革命にいたる「古典」時代の主要な様式である。

――生産は、産業時代の主要な様式である。

――シミュレーションは、コードに支配された現在の段階の主要な様式である。7

第一段階のシミュラークルは価値の自然法則に、第二段階のシミュラークルは価値の商品法則に、第三段階のシミュラークルは価値の構造法則に依拠する。

産業革命とともに現れたのが、大量生産による産業的シミュラークルである。再生産が従う普遍的な等価法則は、原型への参照を消去することによってはじめて確立される。つまり「生産」は、その論理的本質からして「原型」を斥けるのであり、原型を失った模造はこうして自己自身の模造となる。「真の最後通牒は再生産そのものにあり、生産には意味がない。生産の社会的目的性はシリーズ性のなかに消え去る。シミュラークルが歴史に打ち勝つのである。」8

ある一つの原型の大量反復がついに複製品の大量反復となり、原始的蓄積がついに資本の自己増殖となるとき、われわれは第三段階のシミュラークルの時代に入る。第三段階のシミュラークルの生産はしりとりのようなものだ。一つの文字が次の文字へつながっていくだけで、確たる意味はいっさい必要ない。文字列が続いていくことそのものが生産の目的なのである。

ここにあるのはいくつかのモデルだけであり、あらゆる形式は差異による変調をつうじてこれらのモデルから生じる。モデルに組み込まれることだけが意味を持つ。もはや何ものも自らの目的にしたがって展開することはなく、すべてはモデルから、すなわち「参照のシニフィアン」から生じる。それはいわば先行する目的性であり、唯一の真実らしさなのである。

「シミュラークルの起源」は今日、まさに遺伝コードのうちに自らの完成形態を見いだした。参照と目的性がますます徹底的に消滅していく瀬戸際、類似と指示が失われていく瀬戸際で、人々はデジタルとプログラムの記号を発見する。その「価値」は純粋に戦術的なものであり、他の信号(情報の粒子/テスト)の交差点に位置し、その構造は、操作と制御を行うミクロ分子的なコードの構造である。9

第一段階のシミュラークルに大理石の彫像、バロック様式や印象派の絵画を、第二段階のシミュラークルに政治プロパガンダのポスターや映画ポスターを見いだせるとすれば、第三段階のシミュラークルにおいてわれわれが見いだせるのは、いくつかの記号の組み合わせだけである。こうしたものは、デジタル時代の典型的な消費様式――オタク的消費のうちに見つけることができる。たとえばゲーム企画『超次元ゲイム ネプテューヌ』である。この企画は当初から、数社の協賛企業の擬人化キャラクターを土台として成立していた。まず「キャラクター」をデザインし、その後に、ゲームの主要な内容をなす他の要素を埋めていったのである。宣伝的な性格を帯びたこの企画は、心躍る物語も、格別に優れたゲームメカニクスも提供しなかったにもかかわらず、オタク層から広く好評を得た。主人公ネプテューヌのデザイン10を見れば、そこで作動している消費のメカニズム――コードの消費――が見て取れる。ゲーム機の擬人化、紫の髪、ロリ系キャラクター、パジャマのような「萌え」系の衣装。これらの要素は、同じオタク文化圏に属するゲーム文化へ通じているか、あるいは、長年のアニメ漫画のキャラクターデザインのなかで繰り返し現れ、ある種の「伝統」を形づくってきた「萌え要素」へ通じている。消費の対象は、ゲームそのものの内容というより、この別のテクスト連鎖へ向かって絶えず延びていく運動なのだ。この例が明らかにするのは、シミュラークル論の背後に一つの生成のモデルが存在するということである。コードの絶えざる転写と複製の過程が残していくテクストの連鎖そのものが、シミュラークルを生成する場となっているのである。

日本の批評家東浩紀は『動物化するポストモダン』において、ボードリヤールのシミュラークル論は原型の消失に言及したものの、シミュラークルの生成を単に無秩序な増殖として描くにとどまり、原型を核とするツリー状の構造が瓦解したのちに、いわゆる「データベース」モデルがそれに取って代わり、ある種の新しい法則と「伝統」が形成されたことを見ていなかった、と論じている。11

シミュラークルの源泉を「データベース」12と形容するのは、なかなか的確である。先のキャラクターを一連のコードの組み合わせへ分解できたように、現代の文化消費財はほとんどすべて、同じように分解できる。断片的な特徴のいくつかが作品のなかで繰り返され、それによってある種の「伝統」の地位を獲得し、のちの作品でも引用されつづける。やがて、似通った文化圏のなかには一連の固定した標識的な記号(チェゲバラのTシャツのような)が生まれ、これらの記号はいつでも組み替えられて、新しい文化消費財を形づくることができる。この意味でわれわれは、『アベンジャーズ』シリーズはアメリカンコミックスとマーベルの文化圏/データベースのなかで生まれた、『超次元ゲイム ネプテューヌ』と同類の作品だと言うことができる。

こうした文化消費の様式とは、データベースから絶えず情報を読み出すことである。ちょうどネット上でリンクをクリックし、関連ページ、関連記事、関連動画を次から次へと閲覧していくように。データベースの構造とは、まさにネットワークの構造だと言ってよい。東浩紀はそれを「超平面的」な構造と呼ぶ。平面はなお存在しながら、同時に、平面を超えるもの(ハイパーリンク)が並存しているのである。13リンクをクリックする行為は、われわれを平面の閲覧から何かより高い境地へ引き上げてくれるわけではなく、ただ次の平面へ跳び移らせるだけだ。大きな非物語(データベース)が小さな物語を生み出すとはいえ、小さな物語を読むことから前者へ遡行することはできない。大きな非物語は、適切に記述することさえできない。それはハイパーリンクによって編み上げられた無数の平面からなり、つねに連続的な変化と新しい連結の形成の過程にある。大きな非物語は「潜在的」なものだと言える。ベルクソン的な意味での「純粋記憶」のように、それは換喩などのメカニズムをつうじて、生産されるあらゆるテクストのなかを流れている(この過程をもっとも的確に映し出すイメージが、「関連のおすすめ/あなたへのおすすめ」である)。そして作品の産出とは、この潜在的な流れの現実化にほかならない。すなわち、漂流する要素(シニフィアン)のあいだに連結を築き直し、読解可能な文へと仕立てることである(データベースのなかに新しい平面を形づくること。二次創作や「ネタ」で遊ぶふるまいは、いずれもこうした平面と見なせる)。「読解できる」ことは「意味がある」ことを含意しない。しりとりが語の意味を知らなくても続けられるように、読解可能性が保証するのは、それが別のテクストへ接続できるということだけであり、「意味」のほうはつねにテクストの外にあるものと結びついている。これはまた、われわれの閲覧行為が、無限に続くしりとりにすぎないことをも意味している。

電子スクリーンを見つめる現代人は、ただ強迫症的にこうした「読解」を反復している。意味を剥ぎ取られた情報の読み取り、言い換えれば、読み取りのための読み取り、一連の文字を別の一連の文字へ投げ込むだけの純粋な「再生産」。これこそが機械複製時代、より正確に言えばデジタル複製時代の芸術作品が、われわれにもたらす経験である。とはいえ、これは芸術作品の形式の変化そのものから分析して得られた結論にすぎない。忘れてならないのは、社会構造の変化という大きな背景のもとで、この問題を読み直すことである。以下の二本の映画の例は現代的主体の新しい境遇を素描しており、最後には、この新しい境遇に置かれた文化消費者たちが、上述の芸術形態をめぐってどのような文化的生態を生み出したのかが見えてくるだろう。

三、文化消費者の境遇

(一)「大衆」の二つの形象

再生産の絶えざる拡大は「原型」の支配的地位を覆し、プラトンのイデア論的な「真実」への崇拝は、アウラの消滅とともに瓦解した。芸術作品の形式が変わると同時に、芸術生産/文化生産のパラダイムもまた変化した。そして、神秘的な色彩を帯びたアウラが消え去ったのち、芸術作品の存立基盤は、儀式性を帯びた特定の場から政治の領域へと移された。たとえば「原作」はブルジョワ的な法の保護を受ける「著作権」となり、作品の生産は、私的な委嘱の制度から、市場需要の予測をともなう(それゆえ資本の論理に従う)文化産業の生産へと変わった。

こうした変化はかつてないほど大衆と芸術を結びつけ、芸術を社会の肌理の奥深くへ浸透させた。ベンヤミンは書いている。「大衆は一つの母胎であり、芸術作品への伝統的なふるまいのうち、今日新しい姿で現れつつあるものはすべて、そこから生まれ出てくる。量は質へ転化した。参与する大衆の巨大な増加は、参与の仕方の変化をもたらしたのである。」14彼は、芸術生産に大衆が参与しているからといって、大衆が芸術をつうじて自己を表現する手立てを得たなどと軽率に考えはしなかった。むしろ彼がまず見たのは、芸術的な気晴らしによる大衆への「ひそかな支配」であり、そのうえで大衆を動員する可能性を探ったのである。

大衆は主体としてではなく、つねに表現され、形を与えられる対象として芸術生産に現れる。大衆は芸術生産をつうじて自らの「権能」を手にしたわけではない。以下の二つの例に、大衆の分裂した形象をたやすく見て取ることができる。ロシアの一九〇五年革命を描いたソ連映画『戦艦ポチョムキン』(一九二五年)では、「大衆」の表現が全編を貫き、革命精神を宣揚するもっとも力強い道具となっている。第三部「血には血を」では、エイゼンシュテインの二組のモンタージュがとりわけ典型的である。第一の組は、蜂起を起こして殺された一人の水兵を弔うために港へ向かう人々が、一つの橋の下を通り過ぎる三つのショットである。エイゼンシュテインは頭上の橋、両側の階段、下方の通路を存分に使い、空間的な奥行きに富む、秩序正しく密集した人の流れによって、「大衆」の確固とした統一的な意志を表現した。第二の組のショットが描くのは、殺された水兵の遺体を前に人々が憤激し、帝政ロシアの暴政への抵抗を決意する場面である。第一のカットでは、演説者らしき人物がやや高い場所に立ち、右へ向かって熱弁をふるう。第二のカットの群衆は画面の左を向き、前のカットの向きに呼応する。第三のカットはクローズアップに転じ、たくましい腕が服の裾を固く握りしめる細部によって、長く抑圧されてきた人民の怒りを表現し、第四のカットはふたたび前のカットへの呼応として、その怒りの爆発を表現する。

群衆は効果的に組織され、行進する群衆、静止する群衆、叫ぶ群衆、腕を高く振り上げる群衆として表現される。すなわち、力強い、統一された、行動主体としての「大衆」である。エイゼンシュテインのモンタージュは大衆のために形象を構築し、本来は雑然とした群像に秩序を与え、特定のつなぎ方によって映像の文法を設定し、それによって抽象的な「概念」を表現した。ソヴィエトモンタージュを特徴とする多くの映画に、同様の運用を見ることができる。当時、映画を観ていた大衆と、映画のなかで展示される大衆とは高度に重なり合っていたかもしれず、それゆえ彼らは「自己を展示していた」とさえ言える。しかし、展示される大衆の形象は必然的に、すでに映画の文法によって配備されており、モンタージュが表現しようとする理念に服している。ベンヤミンが、映画の気晴らしは「ひそかに大衆を支配する」と考え、しかも大衆を動員する可能性があると考えたのも、この意味においてである。「大衆」はまずスクリーン上で構築されねばならず、そのうえではじめて、客席で観ている人々は、この「大衆」のうちに自らの姿を見いだすことができる。大衆の自己表現の可能性は存在するとはいえ、多くの場合、観客は映像の示す「大衆の形象」への同一化のなかで、形を与えられているにすぎないのである。

もう一つの例が表現するのは、ちょうどその逆である。イタリアネオレアリズモ映画『自転車泥棒』(一九四八年)では、大衆は終始、雑然とした無秩序な姿で現れ、主人公もあらゆる後光を剥ぎ取られて、大衆の一員へと還元される。ドゥルーズは評している。

同一化は覆され、登場人物は観客と化した。彼はいたずらに移動し、走り、行動するが、彼の置かれた状況はあらゆる面で彼の運動能力を超え出ており、何らかの応答や行動ではもはや解決できないものを、彼に見せ、聞かせる。彼は反応しているというより、むしろ記録している。彼はある視像の虜となり、それに追われるか、あるいはそれを追いかけていくのである。15

この一節は、映画全体をつうじて主人公が示す喪失感にきわめてよく合致している。彼の行動はもはや伝統的な映画の物語法によって保証されず、状況への掌握力を失っている。従来の「人物が動作を起こし、状況が反応する」という図式は失効し、人物と状況の均衡は破られ、「純粋に光学的音声的な状況」に置かれた主人公は、なすすべもなく眺めることしかできず、人波に呑み込まれていく自分を発見する。たとえば、盗まれた自転車を探す主人公を描いた次の一連のショットでは、第一のカットから第二のカットへ移ると主人公の主観ショットに転じ、雑然とした人混みが見える。続く第三のカットの客観ショットでは、主人公はまるで一瞬にして人混みのなかへ消えてしまったかのようで、真ん中に、大雨のなか立ちすくむ一人の男を認めてはじめて、われわれは彼を見分けることができる。第四のカットの俯瞰ショットはこの無力感をさらに強め、主人公もまた群衆のなかの一人にすぎず、ただ自転車を盗まれたからこそ、この方々を駆けまわる経験を持つことになったのだと、われわれに最終的に認識させるのである。

『自転車泥棒』では、群衆の現れる割合は、先に挙げた『戦艦ポチョムキン』よりもむしろ高い。しかし、そこかしこを歩きまわり、ざわめくこれらの人々は、「秩序」や「統一」といった言葉とはまったく無縁である。この映画はいかなる「群衆の形象」も表現していない。そもそも「群衆」という言葉がいったい何を指すのかさえ見つからず、映し出されるのは、耐えがたいほど現実的で惰性的な日常生活にすぎない。物や人物は、それ自身の外により多くの意味を差し出すことを拒んでいる。『自転車泥棒』は長回しを多用するが、その多くは、主人公が道のこちら側からあちら側へ歩いていく姿や、取るに足らない生活の些事を撮っているだけである。これらの長回しは映画の時間を弛緩させ、特定の主題を失わせ、観客を当惑させる。観客の常識では、映画の編集には、「この場面は何を表現しているのか」を導き、示唆する義務があるはずだ。しかしネオレアリズモの長回しは、まさにこの義務の取り消しであり、それによって、より「現実的」な、操作されないものを表現しようとする。そして観客の当惑はそのまま主人公の当惑であり、無力な、「群衆」という主体性の約束を失った個人の当惑である。映画の文法はもはや主人公を包み込み、その一挙一動に意味を与えてはくれない。それゆえ主人公は、自分が寄る辺ない状態にあることを発見し、ただ見ること、記録することを強いられるだけで、有効な応答を何ひとつ返すことができない。これは前述のモンタージュとちょうど正反対である。そこでは、主人公の言葉は編集の「魔術」によって概念のレベルで表現されていた。あるいは、主人公の形象そのものが表現の装置となり、人々の同一化を呼び起こしていた。こうして見れば、ネオレアリズモの純粋に光学的音声的な状況と長回しは、まさにモンタージュの魔術に対する脱魔術化なのである。

ここから見えてくるのは、機械複製時代の個人のうちに宿る、分裂した「大衆」の形象である。一方で、社会的/政治的実体は個人に主権の約束を与え、すべての公民を、あの力強く統一された大衆の神話のうちへ回収する。他方で、個人は、自分が見知らぬ雑然とした人波/大衆のなかにいることに気づく。なすすべもなく、目の前のすべてを見つめ、記録することを強いられるだけで、有効な応答を返すことはできない。新しい芸術生産の論理のもとで、文化生産は政治権力に編入された。この状況において、個人は依然として自らの発言権を保証できずにいるというより、むしろ文化生産そのものの虜になっているのだ。前者の「大衆」の一員として自己を同一化することによってしか、個人は寄る辺なき恐ろしい境遇を避けられないのである。

(二)ポストモダンの文化的部族民

スティグレールは「感性のプロレタリアート」と題された講義のなかで、文化産業の発展にともなって消費者の感性がプロレタリア化したと指摘する。この「プロレタリア化」が指すのは、知の喪失である。16ラジオで音楽を聴く人は演奏についての知を失い、紙の印刷物で絵画を鑑賞する人は絵画の技芸について何ひとつ知らない。こうした技術の発展はアマチュアの知を赤貧化させ、彼らを文化消費者へと退化させたのである。

しかし、デジタル技術が工業技術に取って代わるにつれて、感性の第二の機械的転回が起こった。かつて資本のマーケティングと文化産業に掌握されていた文化生産の道具がデジタル化され、公衆へ開かれたのである。誰もが、コンピュータソフトウェアを学ぶことをつうじて、動画編集、ポストプロダクション、デジタル作画といった技術を身につけられるようになった。この転換はアマチュアの復興をもたらし、文化消費者はついに、リビドー経済の統御権の一部を奪い返した。

アマチュアとは何か。リビドー経済の一つの象徴でないとしたら、何だというのか。アマチュアは「愛する」(amatはラテン語の動詞amare、すなわち「愛する」に由来する)。これこそが、アマチュアをアマチュアたらしめるものである。芸術のアマチュアが愛するのは芸術作品である。そして、彼らが芸術作品を愛するかぎりにおいて、芸術作品もまた彼らに働きかけるのだ。

どの芸術作品も、ある程度まで、それ自身についての開示である。自らを一つの啓示として露わにすることによってのみ、真に自らを露わにすることができ、そこからある種の教義が形づくられる。これがある場合には、学派、小さな集団、いくつかの教派を生み、ときには分派の分裂にまで行き着く。カントは言う。私がある芸術作品を美しいと見なすとき、私は必然的に、誰もがそれを美しいと感じるべきだと考える。しかし心の底では、私は知っているのだ。事態は私の望むようにはならないし、永遠にそうなりえないということを。17

スティグレールがここでまず明らかにしているのは、デジタル時代に芸術作品が成立するための政治的条件である。アマチュアの愛があってこそ芸術は芸術となるのであり、この過程で、文化と文化の擁護者が同時に構築される。さらにこの一節は、デジタル時代の文化の部族主義的な現状をも明らかにしている。文化がアマチュアのフェティッシュな愛から生まれるからこそ、文化という「神像」のもとには、対応する「教団」が生まれる。これらの教団は、内へ向かってはある種の教義を反復し、外へ向かっては他の教団に反対する。先の「データベース」的文化形態の分析と考え合わせれば、こう言うことができる。どの教団も内部で一つの比較的小さなデータベースを共有しており、このデータベースはより大きなデータベースのなかに位置し、そのデータベースの下にある他のデータベースと対立の関係を形づくる。これは、異なる言説体系が互いに入れ子になった、集合論的な構造である。

こうして、先の分析で得られた「寄る辺なき主体」は、何らかの「大衆」に同一化しなければならないとはいえ、ポストモダンの状況下では、この「大衆」は必ずしも大文字の「全人民」ではなく、無数の小文字の「大衆」へと分解されうる。この寄る辺なき主体が文化の懐へ身を投じ、ある文化のアマチュアになったとすれば、彼が同一化する「大衆」は、何らかの「同好会」や「文化圏」となるだろう。彼はそのなかで他者とつながりを結び、同じ言説体系を使い、文化消費財を共有し、さらには共同で創作することもできる。

しかし、こうした文化消費の様式がもたらすのは、文化の部族化である。

歴史に代表される「大きな物語」ではなく、データベースから生成される「小さな物語」は、その根拠を持たない。そこで、小さな物語たちはその正当性と棲み分けを守るため――その共同性から誤配とノイズを排除するため、より厳密に敵と味方、内部と外部を区別するために、他の物語を排撃する。データベースから生成される小さな物語の共同性は、排他的な性格を帯びるのだ。18

日本の批評家宇野常寛は、東浩紀のデータベース文化をめぐる議論を引き継ぎながら、そこから生じる排他的社会の問題、すなわち、異なる文化圏/小さな物語に属する人々はいかに交流するのかという問題をあぶり出した。東浩紀はデータベース理論の思考を延長して、データベースのなかで生成される産物(「キャラクター」)のあいだには相互のつながりがあり、コード間の関係の網が、異なる小さな物語のあいだの交流の可能性を開くと考えた。これに対して宇野常寛は批判する。キャラクターは何らかの共有性を持つ記号へ還元できるとはいえ、キャラクターが成立するという過程こそが、まさにその構築要因の否定にほかならない。起源における構成性を否定することによってのみ、排他的な物語は成立しうるのであり、その物語への崇拝的な同一化が可能になるのだ、と。

キャラクターは厳密には記号とはいえない。その成立のためにはキャラクター設定を承認する共同性が必要であり、共同性は物語によって規定されるからだ。キャラクターは一次著作から独立し、二次創作で改変され消費されることで、その設定をより徹底して承認させる共同性と、その共同性を規定する物語をメタレベルで再強化する。

東浩紀の議論は、この点を見落としている。データベース消費におけるキャラクターという概念を、東はある種の物語批判として提示した。だが、キャラクターは常に共同性を読み込むものなのだ。キャラクターこそが「小さな物語」の源泉だと言ってもいい。

たしかにそこは、技術的には全世界から接続し得るコミュニティかもしれない。しかし、物語レベルではまったく開かれていない。そのキャラクターの持つ設定を承認する者だけが接続できる、誤配のない小さな物語なのだ。「小さな物語」を越境する自由な存在としてキャラクター(に代表される記号的要素)を規定する東の主張は、ここを見逃している。19

作品生産の角度から見れば、ポストモダンのデジタル技術がわれわれにもたらしたのは、つながりと共有の広大な文化空間であるかに見える。人々はさまざまなデータベースから自由にコードを取り出し、自らの創意を加えて、新しい形象=キャラクター=作品を作り出すことができる。そう考えると、多様なコードの集成としてのキャラクター(character)は、その一定の普遍性によって、異なる文化圏を結ぶ「記号」になりうるように見える。しかし宇野が指摘するのは、これこそが転倒した論理だということである。コードの断片を寄せ集めて作られた作品/キャラクターの形象は、誕生の瞬間に、「自分は寄せ集めである」というその事実を否定し、自らのために本質的な形象を仕立て上げ、自らを唯一無二のものとして提示し、排他的な物語の源泉、「神像」となる。キャラクターを小さな物語から独立した存在と見なすことは、データベース的な文化消費の論理をまったく誤解している。メタレベルで見えるキャラクターどうしの共同性は、「信徒」たちにとって疎通の回路にはなりえない。むしろキャラクターの類似は、護教的な排斥さえ引き起こす。すなわち、自分の同一化するキャラクターだけがこれらの記号を占有できる、という考えである。この類似性のせいでキャラクターを見誤ろうものなら、「わかっていない」という嘲笑を招くだけだ。そこに映し出される性格こそ、部族の排外主義である。

ポストモダンのデータベース的文化消費様式は、それ自体としては、言説体系への批判性を持たない。つまり、小さな物語に耽溺する「文化的部族民」は、そのなかに(他者との)「交流」の可能性を見いだすことができない。実のところ、文化的部族はまさにこの可能性の排除の上に成立しているのであり、真の「交流」なるものは、この時代の神話にすぎない。文化の大きな物語が衰退したポストモダンの状況下で、人々はもはや、『戦艦ポチョムキン』が示したような大文字の政治的美学に同一化する必要はない。しかし、その義務から解放された現代人は、閉ざされた文化的部族のなかでしか生きられないのである。

したがって、「資本の支配する文化産業が個人の審美を操作するだろう」という漠然とした対立の視角から文化消費を批判するだけでは、依然として的を外している。より切実な問題は、文化的生態そのものが、ますます孤立し排外的な部族主義へ向かっているところにある。これは生産だけの問題、「外部」の問題ではなく、まず何よりも文化の受容の問題、すなわち「内部」の問題である。陰謀論めいた資本主義の巨大機械が人々を隔てているのではなく、部族民たち自身が交流を拒まねばならないのだ。あるいはこう言ってもよい。文化の受容はまさに交流の拒絶の上に築かれており、文化の形態がこの排外的な性格を助長しているのである。さらに悪いことに、次のような可能性が存在する。文化産業の作り上げる芸術的形象と言説体系が、各自ばらばらに戦う弱小の部族を呑み込み、「感性の第三の機械的転回」を引き起こすという可能性である。巨大な文化機械はアマチュアの創造力を編入し、「統一された」社会的審美と文化的基準を打ち立てる。審美の基準は決して真に統一されることはありえないが、しかし「主権的」ではありうる。それは「社会全体」という巨大な形象をもって、自らの外にあるすべての物語を圧殺するだろう。文芸作品はふたたび政治の刻印を押されることになる。ただし今度は、政治イデオロギーの名においてではなく、「大衆の審美」の名においてである。

四、結び

現代の文脈において、芸術的審美と文化消費はいっそう緊密に結びついており、その政治性は、ベンヤミンの時代に比べていささかも弱まっていない。それは、伝統的な人間どうしの紐帯が解体したのちの、新しい社会的つながりの形式となり、あわせて、人々の「信仰」の対象となる機能をも兼ねている。たとえこの機能が、かつての神聖な意味をすでに失っているとしても。文化消費者は相変わらず、あの無力な、映像に囚われ、強迫症のように観るという行為を反復する形象のままである。しかしデータベースのモデルは、文化創作の新しい可能性をももたらした。われわれはドゥルーズのように、文化のコードの差異化する反復が逃走線を描き出し、支配的言説の捕獲から逃れることを期待してもよいのかもしれない。だが同時に、この差異化の過程そのものが持つ保守的な性格と、現代の文脈で「審美」という言葉が暗示する閉鎖性排他性をも、認めざるをえない。

この閉鎖的な性格は、感性的な審美の主観性から生じたものではない。人々は、同じ作品への感じ方が違うから互いに排斥し合うのではない。ベンヤミンの記述した「ショック体験」において、人々が感性によって、次々と押し寄せる新奇な刺激を受けとめていたとすれば、現代のシミュラークルの審美においては、感性の機能はほとんど舞台裏へ退き、それに代わって「読解」の機能が前面に出ている。作品を構成する要素は文字へと転写され、データベースのなかにテクストの連鎖を延ばしていく。あらゆる表現の機構が「引用可能」になったのだ。ここで排他性を育むのは、普遍的な読解能力ではなく、読解の文脈と対象、すなわち特定のデータベースと文化圏である。つまり、審美そのものではなく、審美的主体の置かれた境遇が、閉鎖性をもたらしている。この審美的主体は、相変わらず作品に囚われている。ただし今度は、受動的に、感官のうえで圧倒されるだけではなく、能動的に

文芸消費論の図版 1

文芸消費論の図版 2

文芸消費論の図版 3

文芸消費論の図版 4

中国語のラベルは、ネプテューヌのデザインを「萌え要素」へ分解している。幼く見える年齢設定、紫の髪と同系色の瞳、誇張された身体比率、ゲーム機を擬人化するコントローラーのボタン型髪飾り、衣服に大きく記された名前が挙げられている。

文芸消費論の図版 5

中国語のラベルが示す東浩紀のデータベースモデルでは、「大きな非物語」としてのデータベースから、共通する情報の表現型を組み合わせてシミュラークルが生成され、別種のデータベースからは別種のシミュラークルが生成される。

文芸消費論の図版 6

文芸消費論の図版 7

文芸消費論の図版 8

本文終わり
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注釈

  1. [法]斯蒂格勒:《技术与时间3:电影的时间与存在之痛的问题》,方尔平译,南京:译林出版社,2012年,第266页。

  2. 《技术与时间3》,第283页。

  3. [法]巴赞:《电影是什么?》,崔君衍译,北京:中国电影出版社,1987年,第11页。

  4. 同上,第13页。

  5. 同上,第21页。

  6. [法]本雅明:《摄影小史》,许崎玲 林志明译,桂林:广西师范大学出版社,2017年,第27页。

  7. [法]波德里亚:《象征交换与死亡》,车槿山译,南京:译林出版社,2009年,第61页。

  8. 同上,第70

  9. 同上,第71-72

  10. 図一は https://www.compileheart.com/neptune/chara/ より。

  11. [日]东浩纪:《动物化的后现代——御宅族如何影响日本社会》,褚炫初译,台北:高宝书版集团,第93页。

  12. 図二は《动物化的后现代》94頁より。

  13. 同上,第160页。

  14. 汉娜·阿伦特编《启迪:本雅明文选》,张旭东,王斑译,北京:生活·读书·新知三联书店,2008年,第260页。

  15. 吴琼编《凝视的快感:电影文本的精神分析》,北京:中国人民大学出版社,2005年,第185页。

  16. [法]斯蒂格勒:《人类纪里的艺术:斯蒂格勒中国美院讲座》,陆兴华 许煜译,重庆:重庆大学出版社,2016年,第37页。

  17. 同上,第40-41页。

  18. 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』東京:早川書房、2013年、30頁。

  19. 同書、34頁。