
無意識、それとも無儀式?1
はじめに――Nova
マッドハウスを離れ、フリーランスとして活動していた岡村天斎は、『カウボーイビバップ』をきっかけに、新しく設立されたボンズとの仕事を続けていた。今世紀の初めのある日、街を歩いていると、傍らの昔ながらの四畳半アパートで不意に窓が開き、黒人男性が顔を出した。それはまさしく、主人公の黒(ヘイ)が李舜生(リ・シェンシュン)を名乗り、海月荘に引っ越してきたときのような光景だった。この出来事から、『DARKER THAN BLACK -黒の契約者-』(以下、DTB)という四畳半SFの着想が生まれたのだ。

――岡村天斎に答えられないことは、ラカンに聞こう!
DTBは、きわめて自由度の高い創作企画であり、岡村天斎の作り手としての集大成である。『カウボーイビバップ』で絵コンテを担当した経験と、そこから学んだことを生かし、岡村は2話で一つのエピソードを構成する形式を選んだ。新たに登場する人物の描写を、より充実させるためだ。だが岡村に着想を与えたのは、『傷だらけの天使』『木枯し紋次郎』『探偵物語』といった1970〜80年代の日本のテレビドラマだけではない。映画『ストーカー』や小説『ストーカー』(原題『路傍のピクニック』)など、ソ連の著名なSF作品もそこにあった。DTBでは、謎と寓意に満ちた世界設定が、人間への温かなまなざしをたたえた物語と密接に結びついている。観客は迷いながら、感じ、探っていく。その核心は、ラカン派精神分析の倫理学――享楽へと向かう倫理学と期せずして重なり合う。本稿では作品の内側から、物語、人物、設定を読み解くという素朴な方法で、その核心を掘り起こしたい。そしてDTBがいかに登場人物と観客を幾重もの幻想の横断へと導き、崇高な、そして不可能な対象へ近づけていくのかを明らかにする。

Ⅰ. 現実界の門による尋問
1.1 都市の病巣
10年前、宇宙から飛来した正体不明の光線が地球を貫き、その両端に門(GATE)と呼ばれる領域を残した。門の近くでは常識も物理法則も通用せず、そこで起こる現象は理解できない。5年前、ブラジルの天国門はヘブンズ・ウォーによって物理的に近づけなくなり、いまや各国の機関は東京の地獄門をめぐって活動している。パンドラもそうした国際機関の一つだ。世界最高峰の科学者を集め、門の近くで研究と調査を進め、その物理的な原理を解き明かそうとしている。しかし、ここでは科学による説明はつねに失敗に終わる。記述することさえ、きわめて難しい。第11話と第12話では、パンドラの科学者たちが門の中に探査車を送り込むが、いつの間にかまた地形が変わっており、地図を描き直さざるをえなくなる。第3話と第4話では、門内調査からただ一人生還した調査員が、花の種を二粒持ち帰っていた。何年も心血を注いで育てても、花は希望をもたらす実を結ぶことなく、ついには枯れてしまう。門を制御できない根本的な理由は、人類の科学技術がまだ十分に発達していないからではない。そもそも理解すること自体が不可能なのだ。門の出現は現実(Reality)を侵し、現実界(the Real)へと通じる傷口を開いた。そこでは、記述も象徴化も、もはや不可能になる。だからこそ、門の中から命からがら逃げ帰った調査員は人々に警告する。「ここは人間が来ていい場所ではない。」
(門は)理解できないものです。私が表現したかったのは、「絶対に理解できない」ということそのものなんです。謎は解き明かされません。観客に感じてほしいのは、理解はできなくても、そこに何かが存在していると感じられる、ということです。
――岡村天斎

門の出現が都市と人々にとって、まぎれもない災厄だったことは疑いようがない。周辺の区域は封鎖され、人類は門を取り囲む高さ数百メートルの壁を築いた。その内側には、死に絶えた無人の街が広がっている。門はいわば、都市全体の病巣なのだ。高い壁は、むなしい絆創膏にすぎず、錯覚を生み出しているだけだ。鏡のように都市と空を映し返すことで、遠目には街並みと空が途切れることなく続いて見える。その偽りの連続性が、都市そのものの不完全さを覆い隠す。壁の内側にある門は、この都市に埋め合わせようのない外傷をもたらした。都市はその傷によって動かされている。科学者、政府、教会、諜報機関、さらには東京で暮らす市井の人々までが、門の出現によって行動し、変わっていく。

1.2 欲望への問い
門の領域の近くでは、人々はしばしば外傷に近づきすぎてしまう。菅正太郎が脚本を担当した第11話と第12話で、CIAのスパイ、カリーナは壁の内側にあるパンドラの研究施設を訪れる。そこで彼女は、死んだはずの家族が、祖国と家族を裏切った自分を責める姿を繰り返し見る。ついには耐えきれず、心が壊れてしまう。同じく研究所に潜入した黒も、任務中、長く行方の知れなかった妹の姿をふと目にして、激しい混乱と不安に陥る。暗く目に見えないものから届くこのまなざしは、めまいを起こさせるほど耐えがたい。ラカンにとって、このまなざしはまさに対象 a(objet petit a)からやってくる。それは主体を、見るように促し、あらかじめ視野全体を占めている。一方、飼いならされた主体は、意識的にも無意識的にも、それを隠す幻想のスクリーンを張りめぐらせる。見て見ぬふりをすることで、心地よくも脆い現実感を保ち、なんとか耐えられるようにするのだ。だが門は、その偽りの現実感をたやすく砕いてしまう。門に近づく主体は、つねに現実界の侵入にさらされている。

岡村天斎は、門の着想を『路傍のピクニック』の「ゾーン」――宇宙人が地球を訪れたあとに残された領域――から得たと認めている。その中心には、願いをかなえる黄金の球がある。レドリックは幾多の苦難を乗り越え、仲間を犠牲にして、ようやく願望をかなえる装置の前にたどり着く。ところが、そこで自分の願いを言葉にできない。この皮肉な結末が示しているのは、欲望の逆説にほかならない。主体は欲望の対象――対象 a を、けっして完全には捉えられない。それ自体が純粋な欠如だからだ。この欠如こそが主体を駆り立て、欲望し続けさせ、何度でも対象を取り逃がさせる。欲望の対象のこの位置は、主体の内にありながら、その外にもある。ラカンはこれを外密性(エクスティミテ)と呼んだ。

「ゾーン」は、人々が自らの真実に出会う(あるいは、私たちが自らの真実を投影する)、純粋に心的な幻想空間ではない。それは、レムの小説のソラリスと同じく、物質的な現前である。私たちの宇宙の規則や法則とは相容れない、絶対的な他者性の現実界なのだ。
――ジジェク
こうしたゾーンに対して、DTBの門は、不可能な欲望に神話的な修辞を与え、それを「可能」にする。ニックと黒が本当に門の奥の空間に入ったとき、ニックは彼岸にある不可能な対象 a に触れ、願いをかなえる。それは視覚的な隠喩によって示される。ニックは子どもの姿に戻り、本当の星空を取り戻し、妹と再会し、子どもの落書きのようなロケットに乗って宇宙へ飛んでいく。この瞬間、ニックは宙づりになっていた欲望の対象を取り戻し、十全な状態に入った。もはや「斜線を引かれた主体」ではない。だが、完全な主体が存在するのは神話の次元だけだ。だから完全性を手に入れたニックも、その場で消える/主体として消失する(アファニシス)。この意味で、門は究極の尋問室である。主体の現実を支えていた幻想をたやすく砕き、欲望をその眼前にさらして、選択を迫る。欠如と向き合って生きるのか。それとも、自らの存在を代償に、不可能な充足/完全性を抱き締めるのか。

Ⅱ. 三つの主体と症状
2.1 契約の法の奴隷――契約者
契約者は、異能を持つ者たちである。門の作用のもと、彼らは人間とはまったく異なる仕方でイデオロギーの呼びかけを受け、主体となった。契約者としての合理性に従い、感情に乏しい。「選択を前にしてためらわず、目標へまっすぐ進める」者たちなのだ。また岡村天斎が指摘するように、契約者という名は、彼らが「まるで」何かと「契約」を結んだかのようであることに由来する。実際に何らかの実体と取引したわけではない。だから最初に結ばれた「契約」は、空虚な主人のシニフィアンである。それが契約者という主体を、人間社会の価値観とは異なる象徴的秩序へと固くつなぎとめる。「契約」による去勢ゆえに、契約者は人間的な感情や道徳観にリビドーを注ぐことを抑え、むしろ契約者の合理性への同一化に、つまり象徴界への同一化に、多くを注ぐようになる。

行動の論理に一分の隙もないように見える契約者にも、例外はある。契約の去勢が残した、現実界に属する根源的な欠如――対価だ。能力を使ったあと、なぜこれほど不合理で無意味な行動をしなければならないのか、契約者自身にもわからない。それでも無意識は、そうしなければならないと告げる。対価は、契約者の無意識の核にある外傷に由来する反応であって、外傷そのものではない。たとえば第2期『流星の双子』に登場する、複製され記憶を注入された蘇芳(スオウ)の対価は、複製元の蘇芳が死ぬ前に覚えた折り紙である。赤ん坊を煙草による窒息で亡くした女性歌手の対価は、異物を呑み込んで嘔吐することだ。レズビアンの葉月は、男性とキスしなければならない。対価は、契約者が合理性を貫こうとする、その一貫性と完全性を打ち破り、原初の外傷へと強迫的に何度も立ち戻らせる。対価はまさしく、契約者という主体の対象 a の一つの表れなのだ。そしてこれこそが、契約者を単なる殺戮の「機械」と区別する、人間の核なのである。

ここで、一つの特例を考えなければならない。憑依型の能力を持ち、対価を一度で払い終えた契約者だ。彼らにとって元の身体の死は、永久に取り戻せない喪失である。だが、それであとは安泰、対価を一度払ってしまえば「契約の合理性」の完璧な代理人になれる、というわけではない。第7話と第8話に登場する憑依能力の契約者は、身体を失って対価を払い終えているにもかかわらず、なおも儀式のように自分の靴下の匂いを繰り返し嗅ぐ。それだけが、かつての身体の匂いをとどめているからだ。この自発的な強迫行為によって、彼は依然として原初の欠如へ繰り返し戻ることができる。もう一人、一度で対価を払い終えた猫(マオ)には、目立った強迫的な儀式がない。それはまさに、猫という人物が精神の面ではそれほど「契約者」――すなわち契約者の合理性という法則の奴隷ではないことを示しているのではないか? 完全な合理性を追い求めるほど、強迫症状のしっぺ返しは激しくなり、主体の分裂は深まる。そしてその分裂を埋め合わせようと、さらに合理化を求めずにはいられなくなる。この意味で、契約者とは特殊な強迫神経症的主体ではないだろうか?
2.2 契約を拒む精神病――モラトリアム
契約者が神経症に属する強迫神経症的主体だとすれば、モラトリアムはラカンのいう精神病にあたる。モラトリアムは、もとは支払い猶予を意味する語だ。心理学者エリク・エリクソンは、思春期を迎えても、まだ自らのアイデンティティを探し続けている人々を、この言葉で形容した。日本の精神科医・小此木啓吾は「モラトリアム人間」という概念を日本の文脈に持ち込み、すでに成人していても社会に溶け込めない人々を描き出した。そこでは社会性の喪失、つまり象徴界からの離脱が強調される。DTBに戻ると、モラトリアムはこの二人の議論に似た論理で描かれている。すでに契約者となった主体が対価の支払いを拒み、去勢を拒み、享楽(ジュイサンス)の可能性に固執すると、やがて〈父の名〉が脱落する。そうして無意識をむき出しにし、能力を制御できなくなったモラトリアムへと転落する。これがまさに、ラカンのいう精神病の主体である。
この領域での事故、まさにこの領域で起きた事故――すなわち〈他者〉の場所における〈父の名〉の排除――と、父性隠喩の失敗。そこに私たちが認める欠如こそが、精神病にその本質的な条件と、神経症から区別される構造を与えるのである。
――ジャック・ラカン

第3話と第4話の物語では、幼い舞が突然、契約者になる。父親は娘の契約を封じるため、門の中から持ち帰った種を舞の手首に埋め込んだ。それ以来、舞は契約者の法則に同一化できなくなり、当然ながら、対価が何かもわからない。種の封印が弱まると、もはや契約者には戻れず、制御を失ったモラトリアムとなる。街を暴走する怪物になってしまうのだ。ここで最も巧みなのは、脚本の野村祐一が、舞の立場の変化を家族関係へと結び戻したことである。父は娘の契約を封じ続けるための種を育てようと、長年、研究室に閉じこもっていた。そのため、舞の幼年期から思春期にかけて父親像はずっと不在だった。その影響もあって、舞は父の法に安定して同一化できなかった。能力の暴走と友人の死によって、舞は現実を組み立てる象徴的秩序から、完全に離れてしまう。
一方で舞は、父に対する幻想を抱き続けていた。父は理想的で完璧な存在で、自分を気にかけ、そばにいてくれる。心から望む願いをかなえてくれるはずだ、と。だが現実に、そのような父は存在しない。最後に父が、自分はひどい父親だと認め、舞の目の前で殺されたとき、舞は「原父/享楽」の「死/不在」を本当に知る。そして不可能な享楽を断念し、ふたたび契約の呼びかけを受け入れることで、精神病から契約者へと戻ったのだ。
2.3 人形から人間へ――ドール
門の出現によって異質なものへと変えられたもう一つの集団、ドール(Doll)は、特定の媒介を通じて観測霊を送り出すことができる。契約者と同じく、彼らも元は人間だった。ただしドールは、物質的な欠如を抱えた存在である。欲望を失い、記憶を失い、能動性を失っている。言い換えれば、「失うこと」そのものを失ったのだ。設定では、プログラムを埋め込めば基本的な命令を実行できる。操られる人形のように、機械に最も近い存在なのである。だが、プログラムを埋め込まれたドールは、停止したままなのではない。ゆっくりと移り変わりつつある。ドールから人間への、緩やかな移行だ。ただし、本当に人間の主体性を取り戻すには、ある臨界点を越えなければならない。その臨界点こそが欲望である。
本編は、ドールが人間の主体へ戻るための明確な道筋を示している。言語の場に入ることだ。プログラミング言語の助けを借りながら人間と関わり、少しずつ象徴界へと入っていく。ラカンの有名な定式にあるとおり、「無意識は一つのランガージュとして構造化されている」。このランガージュ、すなわち言語の働きによってこそ、ドールの無意識は目覚める。隠喩と換喩は、ドールが人間としての核にある外傷/対象 a を取り戻すことを可能にするのだ。

大西信介が脚本を担当した第13話と第14話では、聞き覚えのあるピアノ曲の旋律が繰り返し流れ、銀(イン)の眠っていた記憶を呼び覚ます。自らの生い立ちとともによみがえったのは、幼い日の事故――両親の死だった。記憶の目覚めによって、銀は外傷を取り戻し、欲望はふたたび彼岸の対象 a へ向かう。死の欲動が働くなかで、銀は人間の主体としての能動性を取り戻した。ピアニストの求めを断り、自ら黒の仲間として残ることを選ぶ。物語の最後、両腕を広げて自分の観測霊を迎える銀は、まるで目覚めた自らの無意識を抱き締めているようだ。悲痛な記憶を受け入れ、その目に残ったのは、人間の涙だった。
Ⅲ. 偽りの星空を越えて
3.1 崇高な星の在り処
星空はDTBの全篇を貫く、重要なイメージの一つである。本当の星空はすでに失われ、それに代わって契約者の星空がある。契約者は誕生した瞬間、観測可能な視覚の場に入り、メシエコード(たとえばBK201)を与えられ、契約の星空に象徴的な「身分」を得る。それは社会の一員であることが、法律と契約によって組み立てられた社会のなかに、記号としての地位を占めることを意味するのと同じだ。ルーマニアの民間伝承では、一つ一つの星が人の魂を表し、流星が落ちることは、一つの命が失われることを意味する。DTBでも同じように、契約の星が落ちることが契約者の死を象徴している。さらに言えば、星は契約者のもう一つの身体、天にある象徴的な身体なのだ。

5年前、白(パイ)は、すべての契約者を消そうとする組織の陰謀を知り、反抗を決意した。ただ一人、兄の黒だけは巻き込みたくなかった。そこで黒を戦場から遠ざけ、自らは天国門の中に消えた。肉体はもはや存在しない。それでも、白の星は落ちなかった。この象徴的な身体の死と、生物学的な肉体の死――ラカンのいう二つの死――のあいだに、私たちは崇高の位置を見いだす。そこにこそ、黒が必死に探し続ける妹、「星」(妹・白の本名)がいる。「兄さんは兄さん」。黒を守るために組織に抗い、二つの死のあいだに存在する妹は、そう語る。この姿から思い起こさずにはいられないのが、古代ギリシア悲劇のアンティゴネーだ。兄を埋葬するためにクレオンに抗い、墓に閉じ込められた彼女もまた、二つの死のあいだに身を置いた。

「よくも私に、そんな命令を持ち出せたものだ。私にとって、その命令に何の意味もない。私にとって、兄は兄なのだから。」
ジジェクは、この二つの死のあいだをこう説明している。
二つの死のあいだの位置、崇高な美あるいは恐るべき怪物の位置こそ、〈もの〉の位置であり、象徴的秩序のただなかにある真の外傷的な核の位置である。この位置は、象徴化/歴史化によって開かれる。歴史化の過程は、一つの空所、非歴史的な核が存在することを意味する。象徴の網は、その周りに織り上げられるのだ。
――ジジェク
3.2 幻想を横断する星見人
5年前のヘブンズ・ウォーで、黒は唯一の肉親である白を失った。黒はその場におらず、妹が姿を消した本当の意図も知らない。彼にとって、それは説明のつかない現実界の喪失、主体にとって向き合いがたい外傷だった。だから黒は、幻想を張りめぐらせた。白を失ったのは、アンバーが自分を裏切ったからだ、と。それゆえに契約者を憎み、裏切り者を憎んだ。第1話の冒頭から、主体の「症状」はむき出しに描かれる。命惜しさに仲間を売った契約者を、まだ生かしておく価値があったにもかかわらず、黒は怒りに我を忘れて処刑する。しかし第11話と第12話でのニックとの出会いは、黒の信念、すなわち幻想を揺るがした。契約者であるニックの願いを目の当たりにして、黒は疑わずにはいられなくなる。契約者がみな嘘つき/裏切り者とは限らないのかもしれない。契約者も夢を見るのかもしれない。契約者も本質的には人間と変わらないのかもしれない。

任務のなかでさまざまな人々と関わり続けるうちに、黒の契約者を見る目も変わっていく。そして自分はただ、あの喪失を受け入れられずにいるのだと気づく。すべてをなげうつアンバーの努力を前に、黒はもう一度彼女を信じることを選び、南米で起きたことの真実を知った。アンバーも白も、ずっと自分を守るために戦っていたのだ。黒にとって妹は、探し続ける自分を駆り立てる崇高な対象である。憎しみの幻想を横断し、あの偽りの星空を越えて、第25話でついに妹との束の間の再会を果たしたとき、黒もまた本当の星空の下にいた。最後の選択において妹に別れを告げたことは、彼がこの喪失を受け入れたことを示している。黒はほかの契約者のように、「契約」の呼びかけを受け入れたのではない。初めから終わりまで、彼は人間だった。あの喪失こそが、黒を変えてきたのだ。彼は幻想のなかで迷い、探し求めながら、また失っていく。
(黒という人物は)一見すると冷酷で、近寄りがたい。でも心の中には、優しく高潔なものを持っている。結局はどうにもならず、状況に押し流されてしまうけれど、それでも怒りを失わない。たぶん、私はこういうヒーローが好きなのだと思います。
――岡村天斎
3.3 本当の星空
大西信介は第23話で、かつての星空について登場人物たちにインタビューしている。その夜には本当の星空が見えるという都市伝説が、世間に流れていた。誰もが信じていないような顔をしていたのに、夜になると、そろって空を見上げる。心の底にある、本当の星空を探して。けれど、あいにくその夜は雨になり、何も見えなかった。まるで天が仕掛けた優しい冗談のようだ。そこには何もないという事実を覆い隠し、雨という口実で、人々の美しい願いを守ってくれたかのように。

では、本当の星空は何を意味しているのだろう? 答えを表す言葉はいくらでも見つかる。ある記憶、ある憧れ、大切な誰か、あるいは何か美しいものの別名。けれど、どれでもかまわない。登場人物ごとに、観客ごとに答えは違う。それは一つの視差(パララックス)なのだ。何を表すにせよ、より重要なのは、それが失われた〈もの〉(das Ding)であり、星を見上げる者の対象 a だということだ。偽りの星空という幻想のスクリーンに覆い隠され、目には見えない。だが主体は、それに駆り立てられて欲望し、追い求め続ける。それは崇高な対象なのである。この偽りの星空を横断し、幻想を越え、記号を越え、言葉を越えてこそ、無意識の奥でほのかに瞬く本当の星空が見える。だが、その星空の下でとうに主体を待ち受けていた真実は、不条理で滑稽な、それでも引き受けなければならない欠如でしかない。
――不可能な仕事
ただ、たやすく星空を仰ぐことのできた時代は、とうに盛りを過ぎている。いまや大学の言説のなかで、目をくらませるまばゆい灯りが一つずつ消えてこそ、空の果てのかすかな星明かりが、やはり確かな導きであるとわかるのだ。2
――『永夜微光』
DTBは「喪失」をめぐる作品である。幾度もの任務のなかで、黒は登場人物たちのさまざまな悲劇を見届ける。ハヴォックは過去を失い、霧原未咲はかつての友人を守れず、一橋は命よりも大切なものを失った。そして観客は黒の悲劇を見届ける。妹を失い、さらに銀をも失う。その意味は、竹田青滋がつけた作品名からも、ラディカルに読み取れる。ラカンがフロイトの「遺言」をラディカルに読んだように。黒とは光の欠如であり、「無」のシニフィアンだ。ならばDARKER THAN BLACKは、無よりも少ないこと、現実界における欠如(Lack in Real)を意味する。作品に導かれて幾重もの幻想を越え、ついにあの失われたものの前へたどり着いたとき、すべては終わるのだろうか? 答えは、断じて否である。
「喪失」があるからこそ、DTBは「探すこと」をめぐる作品でもある。未咲は自らの正義を探し、蘇芳は家族の真実を探す。黒もまた、妹と銀を、そしてあの失われた星空を探している。主体は探し続けるなかで、自らの不完全さを受け入れ、欠如を引き受ける。症状を取り除き、新しい現実の秩序を組み立て続けながら、同時にまた、失うことで新たな症状を得てしまう。第2期『流星の双子』の結末で、未咲が小林に語ったように。「これは終わりではなく、始まりなのだ。」主体はけっして完全にはなれない。これは不可能な仕事だ。だがラカン派精神分析にとっては、この不可能性から出発してこそ、本当の可能性を開くことができるのである。

注
参考文献
- Slavoj Žižek, “The Thing from Inner Space”
- 馬元龍「安提戈涅与精神分析的伦理学」
- 呉瓊「他者的凝视——拉康的“凝视”理论」
- 李西祥「从卑俗到崇高——论拉康之“对象 a”到齐泽克之“崇高对象”的嬗变逻辑」
- 呉瓊『雅克·拉康:阅读你的症状』
- 沈志中『永夜微光:拉岡與未竟之精神分析革命』
- 『DARKER THAN BLACK OFFICIAL FANBOOK――トーキョーエクスプロージョン調査報告』
- 日経ビジネスオンライン「70年代の“だめなヒーロー”にこそ、人生を重ねられるんだ」
- 日経ビジネスオンライン「『迷い道くねくね』がロングランへの“近道”かも」