
それ――真理は、語らない。私は、愛を広める、未確認飛行物体。
ACG作品はなぜもっと現実感を持てないのか?1
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まず、この問いで注目すべきなのは、「現実感」というものが自明で普遍的であり、説明の必要もないと考えられている点だと思う。
だが実際には、差異があるのは特殊性の側ではなく、普遍性の側だ。普遍性はつねに非全体である。ラクラウの言い方を借りれば、それぞれの段階の具体的な内容は、普遍的な過程全体の下位区分にとどまらず、その普遍性を支配する。この問いに即して言えば、私たちが一つの現実感を共有しているのではなく、一人ひとりにとって、現実感という概念そのものが違うということだ。AにはAの現実感が、BにはBの現実感が、CにはCの現実感がある。そもそも、あなたにどの現実感がより現実的かを決める資格などない。
共通の「現実感」という一つの集合のなかで、一人ひとりの違いを論じているのではない。一人ひとりにとって、現実感そのものが違うのだ。
フロイトは「神経症と精神病」や「神経症および精神病における現実喪失」などの論文で、神経症の人と精神病の人では「現実喪失」や「妄想世界」への対処の仕方がどう違うのかを論じている。精神病では、現実が妄想の現実に完全に置き換えられる。一方、神経症では、現実との間に妄想世界が介在する。つまり、前者は妄想世界に完全に浸っているのに対し、後者はときおり妄想世界に浸るものの、普段は主に、いわゆる「現実世界」を生きている。2
ところが、ここで話がねじれる。ときおり「妄想世界」へ逃げ込む神経症患者は、かえってそれを足場にして、現実世界によりよく関われるのだ。その人にとって妄想世界は、現実世界と対立するものではない。正反対に、それこそが現実世界の究極の支えなのである。
この神経症患者こそ、初期ラカンのいう、いわゆる「正常人」だ(あるいは、正常人に最も近い構造をもつ)。
精神病の人を、三次元のすべてを否定する筋金入りのオタクにたとえるなら、神経症の人は当然、そこまで筋金入りではないオタクということになる。三次元を認めつつ、二次元を愛してもいる。その人から二次元(妄想)を取り去ってしまえば、三次元(現実)そのものも意味を失ってしまう。

リチャード・ブースビー(Richard Boothby)の言い方を借りれば、幻想を横断することは、幻想を捨て去ることではない。正反対に、幻想を横断することで、私たちは以前にも増して幻想に支配されるようになる。その過程で、私たちと幻想の真の核との結びつきは、想像を超えるほど深まるのである。4
ここで私が言いたいのは、現実感そのものが真実ではないということだ。それは〈現実界〉のトラウマを避けるための、自己愛的な手段にすぎない。5 現実にはつねに、余りとして残る部分がある。つまり、現実を一つの全体として構築(想像)できるようにするには、現実のこの部分を排除しなければならないのだ。「知りすぎた主体」が、知りすぎているために、かえって何も知らなくなってしまうのと同じである。ソクラテスが賢者なのは、すべてを見抜いたつもりでいる詭弁家とは違って、自分は何も知らない――知っているのはそれだけだと認めたからだ。
現実感と現実そのものの問題に戻ろう。質問者は、二次元など「おままごとじみた筋書きで、一部の人たちの考えを現実から切り離している」だけだと考えている。だが、映画やドラマも同じことをしているのではないか。現実の生活では、誰もが大便や小便をする。毎日、自分の排泄物と対面する。私たちの大半は、お世辞にも上品とはいえないやり方で鼻をほじる。ここにいる皆さんも、これが確かに現実だということは認めると思う。では、こんな場面を映画に入れれば、現実感を覚えるだろうか。いや、たいていは気持ち悪くなり、監督は頭がおかしいのではないかと思うだろう(もちろん、大半の監督はわざわざ排泄の細部まで撮ったりはしない)。こうした最も現実的な部分こそ、あなたから現実感を奪うものなのだ。
映画の零度など、一つの妄想にすぎない。ドキュメンタリーは不可能だ。しかし、映画そのものは妄想ではない。多くの映画が、遡及的に現実を構築する。実際、すべての映画には、その構造上、遡及的に現実を作り出す働きがある。あなたが友人と映画について話すとき、二人はすでに、その映画を現実のなかに加えている。もしACGが現実のものではないのなら、日本がACGを通じて得た国際社会からの承認も、見せかけなのだろうか。安倍のアニメ・漫画による国おこしにも、現実感はないのだろうか。現に利益をもたらし、GDPに貢献していても、そうなのか。

この問いで言われているように「二次元が一部の人たちを現実から切り離している」のではない。現実そのものが、すでに自分自身とかみ合っていないのだ。だからこそ私たちは、さまざまなものを使って現実を縫い合わせる必要がある。二次元は、その数多くの材料の一つにすぎない(もちろん、とても特殊な一つではある)。この問いが前提としている幻想は、二次元さえなければ現実が自分自身とずれることはない、あるいは少なくとも、もう少し現実的になるというものだ。だが現実は、つねにすでに自分自身とかみ合っていない。現実味がまったく足りないように見える二次元があるからこそ、無垢な現実という幻想は救われるのである。問題は、二次元(幻想)が現実とどうずれているかではない。この問いそのものが、一つの幻想の上に成り立っていることなのだ。(それは、他者を排除したイデオロギーだ。)
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現実は遡及的に構築される。だからヘーゲルは、あらゆることは二度起こらなければならないと言ったのだ。6 一度目にはその出来事は認識されず、二度目になって初めて、象徴的な記号体系に組み込まれる。現実をなすあらゆる要素は、遡及的に自らの現実を再構築できる。当然、二次元もそこに含まれる。アニメや漫画のイベントは、十分に現実的ではないというのか。大好きな二次元のキャラクターの衣装を身にまとったコスプレイヤーたちは、存在しないというのか。

一方、現実感もまた、流動的な概念にすぎない。それ自体が絶えず変わり続けている。安定した現実感など、そもそも存在しない。今日の高層ビルを数百年前の人が見て、現実感を覚えるだろうか。同じように、数百年後のものを今の私たちが見て、現実感を覚えるだろうか。人間と自然が最も親密だったとされる原始的な部族社会にしても、一連の儀礼や禁忌を見れば、どんな現代人でも現実感を失うだろう。よその部族の人間を見ただけで、敵か王とみなすのが、ごく当たり前のことだとでも思わないかぎりは(これは原始的な部族社会で外来者に向けられる二つの典型的な態度だが、今日のポストコロニアルな言説にも同じことが当てはまる)。
だが、質問者の問いが間違っていると指摘するだけでは足りない。同時に、この問いは完全に正しいとも言える。二次元には確かに現実感がない。ただし、それはあくまで質問者自身の現実感に照らした場合の話だ。幻想を肯定するなら、私たちは回答する人の幻想も、質問する人の幻想も肯定しなければならない。とはいえ、その幻想を他人にまで当てはめてよいわけではない。
精神病(パラノイア)の患者は、もともと外界へ注いでいたリビドーを、自我リビドーとして自分自身へ引き戻す。こうしてリビドーを引き戻すことが、「世界没落体験」、いわゆる世界の崩壊を直接引き起こす。妄想が消えれば、現実も消えてしまう。しかし、妄想は決して消えない。これが、精神病の誇大妄想から得られる、もう一つの示唆である。
他人の妄想を尊重してほしい(他人を傷つけるような妄想まで肯定するという意味ではない)。なぜなら実際、あなたにほかの選択肢はないからだ。

編者注:
これは、ある質問への回答である。私が画像を少し加え、冒頭の二文を削った。私も気の向くままに少し書いておこう。最も直接的な現実、つまり三次元では、人間は自分も他人も現実の個人として捉える。そこにいる人間は現世的な存在であり、真実ならざる現象である。一方、幻想という仮想の次元では、人間は類的存在であり、現実に営む個人としての生活を奪われながら、非現実的な普遍性に満たされている。まさにこの幻想が、分裂した現世の現実を存続させているのだ。7