
行け! 王国の記録をすべて焼き払え。1
編者注:これは一般向けに何かを広めたり、解説したりすることを目指した評論ではない。むしろ自由連想に近い文章である。
0. “Wo Es war, soll Ich werden”
――「それがあったところで、私は生成しなければならない――それが私の責任だ。」2
まず、私自身はこの映画の入れ子のからくりが生む、いわゆる「謎」が、それほど巧妙だとは思わない。とはいえ、ひとたび作品について何か言おうとする観客は、いつだって妄想狂である(物語の背後には物語を作った人間がいる。それを認めずにいられるだろうか?)。だから私たちは、自明に思える説明を口にする前に、少し立ち止まらなければならない。真相をあけすけに明かすあの最後の場面からも、いったん目をそらす必要がある。大人の主人公が月面のハイテク基地で目を覚ます――つまり、映画のすべては、治療を受ける彼の脳内で繰り広げられた光景だった、というわけだ。そうであれば、ここでの「意識」は当然、大人の主人公の意識にほかならない。物語は終始、カメラが主人公として捉える少年の側にとどまっているにしても。

この真相開示の瞬間をそのまま受け入れるなら、迫真ラカン勢を大喜びさせる結論が得られる。二人が別々に存在しているのは、まさに言表行為の主体と言表の主体の違いではないか? &で表される大人の主人公は、少年の主人公の世界では実体を持たない。空の論理変数である彼は、「実は病床に横たわっている」からだ。それでも、言表の主体である少年の主人公に比べれば、大人のほうが間違いなく「より本当の」存在である。少年は自分の世界で実体を持つとはいえ、それは幻のような質料、歴史の記録やコンピュータ・プログラムにすぎず、その目的も、&の空所を埋めることにほかならないのだから。
一見すべてがつながるこの結論は、まったくの間違いとは言えない。では、なぜそこへ至る前に立ち止まらなければならないのか? ここにこそ、脚本家や監督たちが手ぐすねを引いて待つ罠が隠れているからだ。物語の内容からすれば、少年の主人公には独自の喜怒哀楽や思考、さらには意志まであると認めざるをえない。つまり、歴史の記録とコンピュータ・プログラムという雑多なものの集まりが、少年の主人公という、それ自体で存在する意識を形作っていることになる(「やさしい」エリア11の男子高校生の顔と性格をしたHAL 9000。問題はここにある。メタフィクションにもよくある手口だ。想像力に乏しい追随者たちによる第四の壁の突破は、あまりに氾濫しているがゆえに、かえってその壁の途方もない堅固さを証明している。私は、本作が「Hello World」という、プログラマー界隈の万年使い回しネタを題名にしているのも、一つにはそのためではないかとさえ思う)。
ラストの仕掛けが明かす真相、すなわち論理上の主体の位置は大人の主人公の側にある、ということに従うなら、少年の主人公は物でありながら思考している、としか言えなくなる。コギト(〈私は考える〉)と実体が一つに総合されるのだ。だが、この総合は、言表行為の主体と言表の主体を区別する契機が必然的に消え去るということと矛盾する。そもそも、二人を二種類の主体に対応させる先ほどの説明に従えば、大人の主人公の自己意識という論理的な構築物を、直観に与えられる経験的現実で満たすことはできない。彼には実体がないからだ(したがって、この説明自体に疑問符が付く)。
とはいえ、映画の作り手は明らかに、この世界における大人の主人公の現実性を取り消そうとしているわけではない(これも物語が与える条件である。面白いことに、この世界で大人の主人公を認識できるのは少年の主人公だけであり、そこに二人の本当のつながりが示唆されている)。言い換えれば、映画が暗に言おうとしているのは、互いに異なりながら、等しく自分自身に対して透明な二種類の存在がいる、ということなのだ。仮象の世界の背後にある本当の現実から来た、完全に「目覚めている」者が、思考する現象的実体に出会う(皮肉なことに、前者はたしかにいわゆる本当の現実から来ている。ただし、本当の現実の、そのまた本当の現実からであり、しかも実はそれほど目覚めてはいない。さらに意地悪く勘ぐれば、前者は『マトリックス』から、後者は『2001年宇宙の旅』からやって来たのだとも言える)。この平等な関係が想像的なものであることは疑いない。&、つまり超越論的統覚の純粋な自己意識は、まさに可能性としてのみ実体に作用する。その可能性そのものを実体化することはできない。一度実体化すれば、もはや純粋な「一」としての自己意識ではなく、現象の一部をなす経験的意識、すなわち言表の主体になってしまうからだ。
ここにこそ、脚本家や監督たちが打ち出そうとしながら、結局は二重の仮想世界という仕掛けの陰に注意深く隠した逸脱がある。なぜ大人の主人公は、仮想システムから来た少女のヒロインもまた思考する物であるのに、彼女を「本当の現実」にいる大人のヒロインの身体に宿る「魂」にできると考えるのか(これは主人公の認識する間主観性に基づくものだが、その認識自体に問題がある)。しかも、その直前まで、少年の主人公とその世界など「偽物のプログラム」にすぎないと蔑み、倫理的にも軽んじていたのに。これは自己矛盾である。そのうえ、「本当の現実」にいる大人のヒロインは、魂を失っても肉体まで消えたわけではない。ところが少年の主人公の世界では、魂と肉体は一つに総合されている。少女のヒロインの思考を奪い去ると、この世界の彼女の実体も消えてしまう。そして、このようなコギトは、複雑な全体としての現実の一部(フッサールのいう意味での「世界の小さな一片」)なのだから、ヒロインという「小さな一片」の欠落によって、現実全体が完全に崩壊する(つまり、平等とされた二つの世界の存在は、実はまったく異なっているのだ)。
要するに、こうした矛盾がある以上、物語は必然的に、もう一つの「本当の現実」へ進まざるをえない。この想像的な平等を、それが可能になる幻想の領域のなかで保証するためだ(この領域では、二つの世界に属する大きく異なる存在が、ともに完全で自明なS[およびA]として設定される。これこそ想像界の標準的な働きである)。というのも、根本的に言えば、コギトは思考する「物」などではないからだ。ここではむしろ、デカルトのいう思考する「物」をフロイトの〈もの〉に置き換える、一種の言葉遊びによって真理に近づくべきだろう。コギトとは、思考する、叡智的な〈もの〉なのである。したがって、ラストの仕掛けは、真相開示の瞬間というより、むしろ究極の幻想である。少年の主人公は「a-a’(ある種の大他者の身体)」ではなく、まさに失われた〈もの〉が残す空所を埋める「対象a」、S/の幻想対象なのだ(S/は端的に大人の主人公と考えてもよいが、同時に脚本家や監督だと考えてもよいのではないか?)。

中国語字幕の日本語訳:器と中身は統一されていなければならない。
ここから逆に、大人の主人公が初めて登場する場面を見直してみよう。幻想的で不思議な神社の、鳥居が連なる通路。少年の主人公の視点による主観ショットに、今はいつで、ここはどこなのかと、座標を確かめるようにしきりに自問する一人の神経症者が映る。その彼が突然カメラ(少年の主人公)を見つめ、相手が自分と同じ名を持つことを、大声で問いただす。見つめるその瞬間に続くのは、少年が身を翻して逃げ出すこと(&)と、大人が執拗に追いかけることだ。アルチュセール的な呼びかけの典型的な場面は、逆から見ればJ(A/)の場面であったと分かる。言い換えるなら、たしかにこれは象徴的同一化に関わる身振りだが、少年の主人公は、実際には大他者の資格を備えていない(彼は個体ではないからだ。ある種の「主体」として呼びかけられたとはいえ、そもそも、いわゆる呼びかけにおいて呼びかけられるのは、ある象徴的な同一性に支えられた主体の位置[x]ではなかったか?)。大人の主人公は、自分の名を聞いてうろたえる少年の反応から、この世界における自分の象徴的な位置を確かめる。これは若いころの私[の歴史的記録]なのだ、と。この確信が揺らぐのは、本当の大他者のもとで「Che vuoi?(お前は何を欲するのか)」という問いに直面したときである。ヒロインが「堅書直実」という名で呼んでいるのは、彼ではないと宣告されるのだ[ついでに言えば、ラストの仕掛けによって、大人のヒロインこそが治療する側であり、病床で夢を見ているのは主人公のほうだと分かる。少女のヒロインと、本編では完全に隠されていた大人のヒロインは、まさにa’/Aというマテームが描く典型である]。
大人の主人公のこの揺らぎは、やがて、ヒロインを治したいという欲望を断念すること(それこそが実は、その欲望を貫くことなのだ)によって極まる。大他者から彼が受け取ったのは「無」だった。彼は「堅書直実」ではない。あるいは、「堅書直実」という名の肯定的な内容は、彼自身の内にはなく、外にあるのだ。「堅書直実」は彼にとって、もう一人の、何者か定まらない対等な主体なのである(ここでの間主観性は、先ほどの主人公の認識にあったような確かなものではない)。この世界において、彼はまさに自己に関係する空の点でしかない。この瞬間になって初めて、病床の主体の自己統一性に、Sから&への変化が生じる。この理解の時に、彼は象徴的構造のなかでの自分の存在の核(もともと持ってはいなかったものだが)を犠牲にして、絶対的な否定を得た。こうした二重の遅延を経て初めて、主人公は、自分が何者なのかという完全な不確かさのなかから、自分の象徴的な同一性についての仮定を本当に撤回し、ラストの仕掛けという結論の時に病床で目覚め、「本当の」主人になる。&はS1へと変わり、あの二つの世界も、そこにいる少年の主人公と少女のヒロイン、大人の主人公も、すべて「私」の南柯の夢にすぎない、と決定的に宣告するのである。
このSから最終的なS1への変化は、まさに(客体としての)主体からシニフィアンへの変化だ。つまり、この世界の大人の主人公という自我(a)こそ、客体としての「私」なのだ。主人公は、この世界で自分がどのような(目に見えない)客体であるのかを、誰よりも知らない。S/とaは、夢を見ることと目覚めることのように、両立しないのである。
(位相幾何学的に言えば、S/こそがメビウスの帯の構造における現実界[二重の輪が最後に露わにする穴]であり、Sとaは、メビウスの帯の非‐一面の両側である。帯のある一点から出発すると、最後にはその点へ帰ってくる[その前に、同じ位置の反対側へ到達し、シニフィアンの結合がもたらす、シニフィエとしての意味効果を得る]。こうして円aが描かれる。これが平面上で自分自身に戻ってくる円なら、位相幾何学的には一点へ縮められる。それは想像的なものに属する。だが、ここは平面ではなく、トーラス[メビウスの帯]の上なのだから、この円は二重の輪を描く軌跡によって自分自身へ戻る。その軌跡は、還元できない穴‐点を取り囲む。ここでその軌跡を縁として描けば、得られるのは対象aとしての円盤であって、自我のaではない。S/とaが位相幾何学的に両立しないのは、このためだ。幻想の式のもう一方の側に対象aがあるのは、両者には縫い合わせることのできる一致した縁があり、それによってクロスキャップ[幻想の主体]を形成できるからである。これに対して自我のaには、その縁を作るための、自己交差を伴うねじれがない。)
この主体と客体の関係こそ、象徴秩序(映画のなかの夢)を操る、いわゆる「非充足理由律」の本当の意味である。客体は、主体がそれを頼りに自らの同一性を確立する外的な限界ではない(そう考えると、初めの主人公のように謎にはまり込んでしまう)。客体は実のところ、主体に対して外密的な関係にあり、まさに主体の内的な限界をなすのだ(ここでこそ、あのおなじみの「精神は骨である」を、また持ち出しておかなければならない。取り消すことのできない媒介なのだ)。

中国語字幕の日本語訳:堅書直実?

中国語字幕の日本語訳:あなたは堅書さんではない。
したがって、本当の自分を探すSF大冒険のこのハッピーエンドでは、一見解放的な雰囲気に心を弾ませる一方で、この映画のあからさまなエディプス的身振りにも気づくべきなのだ。主人公は初め、昏睡したままのヒロイン(失われた母性的な大他者)の欲望のために夢へ入っていった。ところが、その過程で、治療を受ける者(本当に主体の位置を占める者)という、確かな内容をすべて欠いた立場を引き受ける。つまり、この空のシニフィアンに同一化し、最後にはかえって当初の要求を捨ててしまう。ここで起きているのは、一見すると「『堅書直実』という確定した自己同一性」(父の名)を「確定した自己同一性の欠如」に置き換える過程である。だが、その真理は、むしろ最終的に大他者の欲望を父の名に置き換えたということではないか?
だから映画のなかで、世界が仮想空間であることを露わにする瞬間は、いつも父性隠喩が炸裂する瞬間なのだ(大人と少年の主人公が、相手から少女のヒロインを奪い取る瞬間である)。この瞬間、主人公は自分自身に否定されることで、空無となって自らの象徴的な同一性を超え、象徴秩序に一つの裂け目が開く。登場人物たちはみな、狐面の怪物であふれた電子宇宙という幻想の領域に自分がいることを、突然知る。このとき、大人の主人公が直面するのは怪物のもたらす危険だけではなく、倫理的な責任でもある。この世界を守るか、それとも世界の崩壊にかまわず少年と少女を逃がすか。この倫理的責任もまた、外傷的な超自我の命令のように(怪物は実は秩序を守るウイルス対策ソフトなのだ)、唐突に侵入してくる。そして、全体の均衡を取り戻すという名のもとに、その時点での大人の主人公という主体の内的な均衡を乱し、当初の(快楽を追い求める)要求を放棄するよう迫る。こうして彼は、行為において「快原理を超える」のである。映画に唐突に出てくる戦闘要素も、素朴な見方をすれば、「『私』の対象aが想像を振りかざし、象徴のなかで現実界と戦う」ということではないか?
ついでに言えば、カラスの助けと狐面の包囲攻撃は、明らかに[フロイト的な意味での]エスと超自我による、自我への挟み撃ちである。両者は敵対しているのではない(映画に出てくるあの奇妙な極彩色の空間は、両者が同じ源から来ていることを明示している)。後者は実際には、禁止の名のもとに前者の勝利を推し進めているのだ(カラスは、実は大人のヒロインが仕込んだものだ)。これが先ほどの倫理的責任の真相であり、いわゆるセカイ系作品すべての主題が成立しうる理由でもある。もっと狂った場面を想像してみてもいいのではないか? 目覚めた主人公を待っていたのは、長年見守り続けてくれた優しいヒロインではなく、ある恐ろしい事実だったとしたら。自分は視神経さえつながっていない、培養槽の脳にすぎなかったのだ、と(そうなれば、あまりの前衛ぶりにNetflixが続編の契約を取りに来るかもしれない)。
そもそも大他者は、主体の享楽のためにあらかじめ設定され、実際に倫理的責任を負う必要はないと思わせる言い逃れになっているのではないか? (「実は、もう一つ本当の世界がある」というのが真相なのだから、世界を犠牲にする主人公の選択が正解になる。ここで思い出すのが『天気の子』の結末だ。一部の観客に「残酷」と非難された主人公の選択こそ、むしろ正しいと、私たちは認めるべきなのだ。これは[セカイ系の]アニメ映画であり、その外には「もう一つ、本当の[観客のいる]世界がある」のだから。)こうして私たちは、アニメという「究極の変態(倒錯)芸術」のなかに、フロイトの偉大な逸脱をもう一度見いだす。本当に殺されたのは原父ではない。原父など存在しないという、その事実なのだ。

中国語字幕の日本語訳:幸せになって。

中国語字幕の日本語訳:できました、堅書さん。