
Away! Burn all the records of the realm.(行け! この国の記録をすべて焼き払え。)
『パプリカ』を手短に紹介するなら、千葉敦子医師の夢の中での姿、パプリカを軸にした物語として、次のようにまとめるのが一般的だろう。千葉はパプリカに姿を変え、他人の夢に入っていく。初めは粉川刑事を治療するために、やがては理事長の陰謀によって夢と現実の世界が一つになるのを阻止するために。最後には主人公たちが勝利し、夢と現実はそれぞれの場所に収まって、平穏を取り戻す。
こうしたあらすじは、どうしてもひどく平板に見えてしまう。映画には、明らかに重要な意味を持ちながら、このような語り直しには収まりきらない要素があまりにも多いからだ。たとえば、作中に登場するオイディプスとスフィンクス。余計なもののはずはないのに、私たちには物語のあらすじに組み込むすべがない。そのため、物好きな映画評の書き手たちは、陰謀論めいた解釈を次々に繰り出し、表面上の物語に異を唱えることに熱を上げがちだ。だが問題は、映画も夢も、言語のように構造化されたものだという点にある。映画や夢を分析するとき、観客はシニフィアンとして解釈できる構成要素のうち、どれが純粋性の過程をもたらす部分で、どれがそうでないかを、単純に区別することはできない。あらゆる構成要素が、シニフィアンの網として捉えられるからである。込められた意図がきわめて明白な箇所でさえそうだ。パレードの列で皇帝や神を自称する政治家たち、携帯電話の頭で女子生徒のスカートの下に潜り込む痴漢たち――ここで今敏は、ほとんどあからさまに社会の醜態を風刺している。それでも観客は、こうした意味をいったん括弧に入れ、映画を構成するシニフィアンの範囲にとどまらなければならない。さもなければ、ひどく通俗化されたフロイト流の論理に陥ってしまう。多くの人が信じている、笑うに笑えない説明、つまり夢を見る人が小便をしたくなると、蛇口から水が滴る夢を見る、といった説明である。こうしたフロイト流の本質的な断絶を通じて、映画そのものには原因と結果が互いに作用し合う網があるだけで、シニフィアンの構造はないことが分かる。
この点で、今敏の最後のアニメーション映画である『パプリカ』には、専門・非専門を問わず、あまりにも多くの批評や解釈が次々と寄せられてきた。その息の長い人気は、むしろノーランがこの映画を盗用したのかどうかをめぐる議論に負うところが大きい。決して分析しやすくはないこの映画に、過剰な分析が重ねられ、巧みな解釈も浅い解釈も生み出される。それはまさに、このシニフィアンの連鎖が悪循環として作動していることを示しているのではないか。連鎖は何度も新たな主人のシニフィアンを生み、それによって遡及的に自らを基礎づけ、この循環を閉じようと努める。だから、この映画の主題が評者によって、恋愛にも、近代性にも、技術の危機にも、さらには無意識や精神分析にもなるのは、別に不思議ではない。夢と無意識の中で奔放な奇想の世界を巡り、超現実的な物語を探る。そこに今敏の超現実的な映像と、切れ目なく切り替わる目もくらむような編集が加われば、夢が持つべき論理を完璧に見せてくれているようにも思えるだろう。だが、こうした試みの数々に、私たちはラカン的な意味での、原抑圧された二項シニフィアンの欠如を見るのである。


こうして全体を閉じようとする見方は、まさに作中の理事長が夢に固執するときの見方ではないか。彼は映画の中で何度も、熱に浮かされた口ぶりで説く。いまこそ完全な秩序のためにすべての欠如を埋め、自分は無限の自由を得るのだ、と。言い換えれば、理事長は夢に言語と同じ全体性があり、それ自体で完結し、閉じた世界をなしていると考えている。だから夢は外から来る者を許さないが、その内側ではどんなことでも語れる。これを具体的に体現するのが、最後に理事長が変貌する黒い巨人だ。絶対的な秩序を叫びながら、何のはばかりもなく破壊の限りを尽くす。象徴秩序が原初の完全性を保っているときとは、まさに原父という、完全な象徴秩序を体現する存在が地上を歩いている、あの神話的な時ではないか。象徴秩序が普遍性を持つ一方で、この想像上の父である原父は、自ら定めた秩序そのものを超えているのだ。
しかし、夢や映画の言語は、つねに外部の現実に依存しなければならない。映画や夢が独立した世界として成り立つのも、この現実があってこそだからだ。ところが、その外部の現実もまた、しばしばすでに言語によって閉ざされている。つまり、内的な緊張を抱える夢や映画の有限な全体性は、ほかの何かに還元できない限界によってこそ示される。理事長が叫ぶ完全な秩序も、実のところ、つねに自らの中心にある空無を取り囲む秩序であり、抑圧されたこの根底の空無によって定義されている。映画の理事長のように、この空無を埋めようとすれば、夢見た秩序そのものが一貫性を失い、崩壊してしまう。理事長の美しい夢を崩した張本人は、存在論にとってのスキャンダルである、あの「女」ではなかったか。理事長とその秩序を呑み込む女性像は、夢の存在であるパプリカでも、現実の存在である千葉医師でもない。両者が一つになることで露わになった、象徴秩序内部の断裂点なのだ。(小山内は、パプリカは偽りの表皮にすぎず、その内側に隠れている千葉医師こそ真実だと考える。だがパプリカは、作中で何度も、自律した存在として実際に活動している。この点にはあとで戻ろう。)この女性像は象徴秩序に媒介されて姿を現すことを拒み、存在しないという仕方で象徴秩序に加わることを選んだのである――そして映画にも姿を現す。
理事長が、自分を呑み込む少女――空所を占めるその存在――に見いだし、恐れおののいたのは、まさに象徴秩序そのものの不完全さである。だから観客が目撃する父殺しの場面――理事長が苦痛の叫びを上げながら、ゼリーのように吸い取られる場面――は、ファルスが現実界的な仕方で象徴秩序の欠陥を埋めようとし、ついに失敗することを映し出している。理事長にとって、夢は人間性が残る唯一の隠れ家だ。しかし「無限の自由」に憧れるこのカント主義者は、かえって、象徴秩序が超越論的な視野のもとで果たす媒介の働きを見落としている。叡智的なものに惑わされると見えなくなるが、象徴秩序の全体性には、実はつねに連鎖の一環が欠けている。言い換えれば、経験される現象世界と叡智的なものを隔てる隙間はつねに存在し、物自体には近づきがたい。この隙間を飛び越えて物自体に到達しようとすれば、理事長の失敗と同じように、媒介を担う超越論的な領域そのものが、なすすべなく崩れ去ることになりがちだ。だから限界を、存在論的に構成されたものとして理解する必要がある。ファルスが、自らの欠如に対する想像的な補償にすぎないのもこのためだ。原父とは、ファルスが想像のうちに遡及的に前提したものにすぎない。原父が皆に食われて死んだときに初めて、ファルスは象徴秩序の内なる断裂の縫合点として現れることができる。こうして最後に私たちは、夢と現実が互いに侵さない、いわゆる「秩序ある日常」に戻るのである。もっとも、根本的に疑うべきなのは、このきっぱりとした線引きのほうだ。千葉医師と太ったオタク科学者の恋愛は、つねに『パプリカ』をめぐる話題の的になってきた。だが、このときパプリカはもう姿を消していることに注意しなければならない。


理事長の言う人間性とは、ある意味で、言語的な存在である人間の基本的な経験そのものではないか。すなわち、構造上満たされることがなく、つねに妨げられている欲望である。彼がDCミニの開発を敵視するのは、変化や、技術が制御できなくなることを恐れているからだけではない。より具体的には、DCミニによって可能性が失われることを恐れているのだ。この装置は、形のない神秘的な夢を具体的で理解しやすいものにし、実現しやすくする。その結果、抱いた夢はすべて夢の中で現実となり、失ったものも取り戻されてしまう。理事長にとってそれは、夢までもが科学技術に破壊されるということだ。作中の島寅太郎医師も、大学時代を思い出すのが好きで、当時は自分たちの未来や、待ち受けている無限の可能性について語り合った、と振り返る。このとき彼が求めている真実こそ、粉川刑事を悩ませ、理事長が守ろうとしているものだ。過去ではなく、すでに失われた未来なのである。ここには、理事長が経験するヒステリー的な転換が見える。それは妨げをめぐる一種の反転だ。妨げられた欲望が、妨げそのものを求める欲望へと変わる。満たされていない欲望が、満たされないことへの欲望へと変わる。そこで求められているのは、ほかならぬ、私たちの欲望を開かれたままにしておくことなのだ。理事長が望むのは、「陽気な肉屋の妻」の症例で妻が語った、願いがかなわない夢と同じである。この転換によって、欲望はつねに欲望そのものを欲望するものでもあるという、再帰性を示す。理事長が夢を崇高なものだと宣言するとき、このことははっきりと表れている。
カント的な意味での崇高とは、不可能なものを呈示することが、呈示の不可能性を示すことへと転じる逆説である。言い換えれば、理事長は、夢には現象の領域で示すことのできない物自体があると信じている。それに対して私たちにできるのは、この不可能性そのものをさまざまな仕方で示し、物自体の超越論的な次元をいっそう際立たせることだけなのだ。作中でも理事長と小山内は、崇高な夢を汚す「テロリスト」と彼らがみなすパプリカに、攻撃を仕掛けつづけている。むしろその攻撃のほうがテロじみているのだが、彼らの目には冗談としか映らない、夢に入って行う治療を嘲るためである。ある意味で、今敏が意図してか、せずしてか、理事長に身体の障害を与えたことは、これ以上なく明白な手掛かりではないか。不自由な両脚は行き詰まりを具体化したものであり、ラカン的な意味での理事長のヒステリーの核心なのだ。欲望を阻まれるというトラウマの核が、身体症状へと転換され、それによって歪んだ形の身体言語が生まれる。普通の言語では表せない心的な内容が、そこに表されている。つまり、彼の欲望はヒステリー的なのである。理事長は夢を見ることに反対しているのではない。ここは物語を追ううえで戸惑わせるところでもある。夢に入ることにあれほど反対してみせながら、最後には誰よりも夢に溺れている。少なからぬ観客や評者は、これを理事長のわざとらしい振る舞いにすぎないと片づける。それは違う。彼はむしろ、真に倫理的な行為とは、夢を見つづけ、満足を先延ばしにしつづけ、欲望の幻想を支えつづけることだと考えているのだ。そうすることで、欲するという次元にとどまり、欲望の主体でありつづける。だから最後に理事長は、望みどおりラカン的な意味での倫理的な死、すなわち欲望と一致した死を手に入れた、とも言えるのである。




こうして見ると、理事長の夢である大パレードは、実は彼の夢と悪夢が一つになったものだと分かる。日本の伝統文化、現代の科学技術、西洋をはじめ各国の人物像が混ざり合い、ひたすら前へ進む恐ろしい怪物の群れが生まれる。そして揺るぎなく進みながら、ますます膨れ上がっていく。現代的で、多様で、繁栄しているように見えるが、混乱と戸惑いにも満ちている。うかつにその中へ加われば、私たちは一人ひとりが自分であることを失う。ただ、進みつづけるという点では、映画のほとんど全編を走り通す粉川刑事のほうが、間違いなく際立っている。刑事として粘り強く犯人を追う彼は、前へ進みつづけるという点で揺るがない。むしろ全編を貫く筋と呼ぶにふさわしいのは、この追跡のほうかもしれない。映画は彼の追跡から始まり、それが敗勢を覆す転機にもなるのだから。
さらに面白いのは、今敏の目まぐるしいモンタージュの手品に目を凝らしていると、理事長の陰謀、すなわち夢による現実への侵入が始まる前から、粉川が何気なく、信じがたい超能力を発揮しつづけていると気づくことだ。たとえば治療が終わったあとに会う治療者は、千葉ではなくパプリカである。あるいは、コンピューターの画面に潜り込んで夢に入ることもできる……。もちろん観客は、これらを夢に現実感を与えるための映像表現にすぎないと受け取ることもできる。だが見方を変えれば、いわゆる日常の現実そのものが、もともと夢のような魔術的な次元を備えていることを示しているのではないか。粉川をめぐって尽きることのない議論の中で、重要な話題の一つとなっているのが、映画の終わりに映る『夢見る子供たち』のポスターだ。初めはそこにいなかった少女が描かれているため、これを根拠に、夢はまだ終わっていないという誤った推測をした評者もいる。しかし、このポスターが最初に現れる場面に戻ってみると、まさにそこが魔術的な場面だったことに驚かされる。運転中の粉川は、昔のある苦痛を思い出し――のちにそれが、若いころに抱いた映画作りの夢に関わるものだったと明かされる――、汗だくになって胸を強く押さえる。すると画面が歪み、揺れ始める。その幻惑の中に、問い詰める言葉が書かれたナンバープレートや、少女のいない『夢見る子供たち』のポスターが現れる。この緊張感が、彼の不安な主体性を浮き彫りにするのだ。歪んで揺れるこれらの光景、あるいは現実界から突き出した、歪んだ染みは、ドゥルーズ的な意味で主体に対応する襞(ひだ)のように見える。主体の客観的な対応物であるこの染みの働きによって、それまで明瞭だった視野が変形し、損なわれる。このときの少女のいないポスターと、あとに出てくる少女のいるポスターでは、いったいどちらがいわゆる現実で、どちらがいわゆる妄想なのか。観客が戸惑ううちに、変形をもたらす染みと現実の関係も、観客の目にはひそかに逆転していく。こうして、ここではポスターの少女が対象aの機能を担っていることが見えてくる。主体の客体的な身代わりである少女を取り巻いて、現実を表す画面の枠とその外の風景が染みへと溶け崩れる一方で、主体はこの少女に夢のような魔術性を見るのである。ある意味で、対象aはファルス的な主人のシニフィアンと対をなすと言えるだろう。前者は、私たちの現実像を絶えず曇らせる厄介な染み、いわば「喉に刺さった骨」である。その存在によって、主体はいつまでも、いわゆる客観的な真実に近づけない。つまり、主体なき客観的秩序に抗うものだ。対して後者は、客観的秩序を維持する、ある種の主観的な補足なのである。
そう考えれば、会議室に掛かるスフィンクスとオイディプスの油絵の下で、オイディプスに対応するのが粉川であることも理解しやすい。スフィンクスに対応するのは千葉医師であり、これは最後の決戦で成長していく女性像を暗示している。幻想的な場面で、粉川の姿と周囲の背景が絶えず分裂していること――夢幻的な風景は粉川の姿ほど現実らしくは見えないのに、魔術的な次元では、彼の薄っぺらな姿以上に、何か深い真実を明かしているように見えること――は、今敏が映像表現によって意図的に際立たせた、主体性の構成的な亀裂である。それは粉川がある種の「未成熟さ」を抱えつづけ、そのため周囲の環境と一体になれないことを暗示している。もちろん、あとになれば、心から離れない映画作りの夢のことだと分かる。言い換えれば、粉川はヘーゲル的な意味での遅延された否定を経ていない、いまだ客体に依存する未成熟な主体であり、あの少女の姿は、粉川と現実との幻想的な結びつきを保証する客体なのである。映画の最後に粉川の心のわだかまりが解けると、この少女もポスターのあるべき場所へ戻る。ついでに言えば、粉川にとってのこの少女は、厳密にはパプリカと対応しないのかもしれない。それはある意味で、最後にパプリカが消えることの説明にもなる。





主体と客体のこの関係をさらによく示しているのが、粉川が強迫的に繰り返す十七階の場面だ。追跡の終点で、扉から飛び出そうとする逃走犯と、銃を構えながらためらう警官。その一瞬の対峙が引き延ばされ、宙づりになり、時間まで凍りついたようになる。この場面には、明らかに過剰なリビドーが備給されている。この瞬間の演出は、呼吸が途切れ、音が突然消えるといった、部分対象の喪失によって成り立っている。先に述べたように、これらの小さな部分対象は、客観的な秩序を支える主観的な染みであると同時に、主体性を支える客体的な「喉に刺さった骨」でもある。まさに主体と客体の短絡なのだ。たとえば終盤、粉川が小山内を撃ち殺す瞬間も、ふいに遠景に切り替わり、音が消える場面である。ここでは現実感をもたらす部分が、ある種の現実喪失の要素に侵され、「真の現実」らしさをいくらか奪われている。この虚構化する要素こそ、トラウマ的な現実界だ。それゆえ物語上のトラウマ的な暴力は、夢幻的な性質を帯びる。カンフー映画で黄飛鴻やイップ・マンが人の頭を叩き潰すのだって、本来ならこのうえなく恐ろしい光景のはずではないか。それなのに私たちは、「頭を叩き潰された」はずの人物が、血を流して気絶するだけで済む描写を、喜んで受け入れるのである。つまり、この瞬間、現実界は夢の中で、夢の中の夢に姿を偽って現れている。この見方をさらに広げれば、映画の中の夢はすべて、夢の中の夢だということになる。同じ理由で、登場人物が鏡の前で思いもよらない姿を映す瞬間にも、この内的な緊張が含まれている。千葉医師が鏡の前でパプリカの姿を映すとき、あるいは粉川がガラスの前で、追いつづけてきた逃走犯の姿を映すとき。鏡を見るという日常的な出来事が、映像によって、現実界が姿を現し、秘密の明かされる瞬間になるのである。

ただし、構造の似た二つの像、あるいは人物であるパプリカと逃走犯を、同じように論じることはできない。どちらもある意味では、リビドーを備給された象徴的なアイデンティティとして物語に加わっているとはいえ、現実の人物がまとう幻のアイデンティティなのではない。映画全体で最もエロティックな場面は、間違いなく、小山内がパプリカの体内から千葉医師を取り出すくだりである。そこでパプリカは、脱皮したあとの皮のように脇へ放り出される。これは千葉医師とパプリカの関係についての、小山内の偏った見方の帰結だ。彼はパプリカを、千葉医師の幻の姿にすぎないと考えている。だが皮肉なことに、そのあとも独立したパプリカが、何事もなかったかのように皆の前に、いわゆる本体である千葉医師の前にさえ現れる。この場面が示すのは、逆説的な同語反復の判断だ。パプリカはパプリカなのだ。言い換えれば、私たちは幻像そのものが持つ幻像としてのアイデンティティを認めざるをえない。パプリカは、捉えどころなく漂う幽霊めいた幻覚であると同時に――映画の冒頭から彼女はさまよっている――、ある種の超感覚的な実体でもある。これはある意味で、いわゆる現実の全体を把握することの不可能性を暗示している。現実と出会うためには、逆にその一部が現実性を失い、「幽霊」として経験されなければならないのだ。
一方、逃走犯については、粉川を離れて論じることはできない。ここで幽霊のような人物なのは、むしろ粉川自身だと言ってもよい。逃走犯を追う道のりで、彼が徐々に知っていく隠された真実は、追っている相手や追跡の舞台など、周囲のものが偽物だということではない。彼自身がこの夢の中に存在しないということなのだ。つまり、夢の中には粉川の分身などいない。粉川がその人物を通じて夢を体験し、映画を観ることのできる、そんな語り手はいないのである。これは、ラカンがよく引く子供のとんちんかんな受け答えに似ている。兄弟は何人いるのかと聞かれると、三人いる、エルンストとパウルと自分だ、と答えてしまう。粉川も最後には、警官は逃走犯を追っているが、自分が追っているのは自分自身なのだと気づく。ここで言表行為の主体と言表内容の主体との裂け目を支えているのは、ある種の再帰性である。これは、息子の前に現れた父が自分の死を知らないという、フロイトのあの有名な夢と同じだ。ここで「私を除外する」という例外を設けないなら、驚くべき反デカルト的な発見に至る。虚構なのは私の周りの世界ではない。私自身が虚構なのだ。粉川が逃走犯を取り逃がした瞬間、自分の体が透明になって急降下し、その直後に目を覚ますのは、そのためである。





それが最もはっきりするのは、彼が三度目に夢へ入るときだ。エレベーターの中で、彼は「自分」が出演するサーカス、列車、ターザンの場面を満足げに眺める。どれも、かつて自分の映画のために構想していた場面である。ところが十七階に着くと、最後の逃走犯との対峙をどう撮ればよいのか、どうしても思いつけないため、観客の位置から焦る主人公の位置へと一瞬で引き戻される。そして、この追跡の場面に閉じ込められ、何度も繰り返すことになる。この「私を除外する」という論理は、強迫神経症的な主体である粉川の奇妙な目論見をそのまま表している。象徴秩序に排除されることと、そこに含まれることの間に、身を置こうとするのだ。実際、私たちが見ているのも、映画作りの夢を諦めきれない、そんな警官ではないか。この追跡の夢では、追う者を表すシニフィアンは、実はシニフィエを持たない空のシニフィアンである。この空のシニフィアンによってこそ、粉川自身はある種の非‐主体として夢の中に置かれる。逆説的に言うなら、このシニフィアンにおいて、その網は主体を含むというより、主体の排除を含んでいるのだ。物語が進むにつれて、この追跡の場面が、若いころに抱いた映画作りの夢にまつわる心のしこりだと分かってくる。その出どころは、最初から最後まで走ってばかりいる、ひどく退屈な「前衛的な映画」だった。そして、いわゆる少年時代の友人、あの逃走犯は、実は若いころの粉川本人なのである。だとすれば、この映画は構想がまとまらなかっただけでなく、当時の条件では、一人きりで撮影することすらできなかったのかもしれない。あらためて、構想済みだという場面を振り返ってみても、たいていは名作映画のおなじみの場面ばかりである。
言い換えれば、粉川は〈無〉そのものを食べる拒食者のようなものだ。これらの映画から得られる感覚は、もとの映画に属していてこそ価値があり、自分のものではない、と彼は考えている。ここに隠された快感は、この事実から、真に「彼自身のもの」と呼べるものを何一つ持つことはないという結論を引き出すことにある。欲望はつねに〈他者〉の欲望であって、「私の」欲望ではない。私は〈他者〉が欲望する対象の範囲内でしか、何かを欲望できない。だから、欲望の具体的な対象をすべて放棄し、〈無〉そのものを欲望することが、拒食の選択となる。しかし、より重要なのは、この論理の中で、象徴的な形式そのものも、再帰的な転回を通じて、これらの要素の中に組み込まれるという点だ。粉川がこだわるものは、あの「泥棒が盗んでいたのは、中身ではなく手押し車そのものだった」という小話の種明かしに似ている。映画を撮ること、つまり「おなじみの名場面」を収める形式を得るとは、そうした名場面を潜在的に収めうる、ある空無を手に入れることなのだ。拒食者が食べるもののように、シニフィエを持たず、ついには主体そのものに取って代わるこの空のシニフィアンこそ、映画に取り憑かれた若き粉川が、ひたすら思い焦がれていたものではないか。だが、映画作りのアマチュアである彼に、ゴダールたちの才気がないのは明らかだ。自分の手で時代を画する前衛の名作を生み出すことはできず、残されたのは、この先をどう撮ればいいのかという、夢の挫折そのもののような叫びだけだった。ある角度から見れば、監督は映画の中の主体間の関係を動かすが、自身はその影響の外にいる。それはまさに、純粋で、目に見えない媒介者という、強迫神経症的な位置ではないか。強迫神経症が切望する理想は、ある状況に「含まれ」ながら、同時にそこから「離れた」、見えない介入者という形でしか含まれないことである。この介入者は、状況を構成する要素の中に、正しく数え入れられたためしがない。だから粉川が夢の中で、無意識に黒澤明をまねた自分の姿を選んでいるのは、目ざとい観客なら思わずにやりとする場面なのだ。




ついでに言えば、走りつづける粉川と、進みつづける理事長のパレードの違いは、まさにここにある。理事長において、抑圧はまず欲望を規制する試みとして現れる。他の欲望を不当だと宣告すること自体が、リビドー経済のなかで、おのずと満足を生む源泉になるのだ。生には避けがたい隙間があるが、ヒステリー的主体は想像のうちに去勢を拒み、その隙間を塞いでしまうからである。そのためヒステリー的主体は、大他者の欠けたところゆえに、絶え間ない不満足へと陥り、大他者の要求に戸惑う。(ヒステリー的な同一化では、主体は大他者の欲望に自らを同一化し、そこからシニフィアンへの同一化が生まれ、さらに身体症状への転換が生じうる。P.S. )
それに対して粉川は、規制しようとする欲望そのものをも「除外」している。強迫神経症は、自らの欲望を絶えず犠牲にして、満たさずにはいられない大他者の要求を満たし、大他者を完全なものにしようとする。(強迫神経症が試みるのは、大他者の欲望につながるシニフィアンを制御し、その制御を通じて大他者の欠如を埋めることだ。P.S. )
だが、ここで指摘すべきなのは、大他者はそれ自体が欠如を抱えた空集合であり、主体が参照する論理的な位置にすぎないということだ。それなのに主体は、自己愛的な想像の中で、大他者の完全さを信じつづけることで去勢と死を拒もうとし、想像的な**1によってその不完全さを埋めようとする。すでに欠けている大他者に対して、もちろんそんな試みは無駄である。だからヒステリーはいつまでも満たされず、強迫神経症はいつまでも大他者に隷属するのだ。


要するに、『パプリカ』は現実と夢の間を行き来することを描いた映画ではないし、無意識を通して夢の謎を解く鍵でもない。今敏の映画は、たいていそうだ。だが、だからといって凡庸な映画だというわけではない。まだ分析していないところはいくらでもある。映画全体には、過去と現在、静止と移動、青さと老練さという、いくつもの緊張関係があり、それらが現実と夢、虚構と真実を指し示している。それこそがこの映画の中心的な主題なのだ。それを最もよく表すのが、終わり近くに現れる、すべてを結び合わせて重要なことを伝えてくれる場面だ。鏡の中の逃走犯、すなわち警官と犯罪者の物語を撮ることに熱中していた若い粉川は、未来の自分に語りかける。自分が撮った映画は現実になり、君は本当に警官になった。それは想像から生まれた現実なのだから、大切にしてほしい、と。このとき私たちはようやく分かる。パプリカは一種の媒介であり、現実と虚構の間に、異なるアイデンティティの間に、異なる個人の間に、異なる集団の間に存在するのだ。彼女は問題を解決し、反対意見を黙らせるために現れるのではない。そうした人々と和解し、人と人との共通性を理解するために現れるのである。これは今敏がアニメーションという芸術に抱いていた考えであり、彼がずっと試みつづけてきたことなのかもしれない。
平沢進は『パプリカ』に、後世に名を残すに足る二曲をもたらした。だが、絶望的な狂騒に満ちた「パレード」よりも、高らかで明るい「白虎野の娘」のほうが、この映画を通じて今敏が伝えようとした思いに、いっそうよく重なるだろう。




「白虎野の娘」より(原記事の抜粋順)
遠くの空 回る花の 円陣の喧しさに
あの日や あの日に
超えてきた分岐が目を覚ます
かげろうに身を借りて
道を指す娘を追い
高台に現れた
名も知らぬ広野は懐かしく
あー静かな静かな娘の視野で
あー見知らぬ都に灯が灯りだす
あーマントルが饒舌に火を吹き上げて
捨てられた野に立つ人を祝うよ
あー静かな静かな娘の視野で
あー見知らぬ都に灯が灯りだす
原記事に添えられた中国語訳の和訳:
高く遠い空 輪をなして巡る花々 そのにぎやかさ
あの日 まさにあの日に
分かれ道を越えて ふいに夢から目覚める
カゲロウに体を借りて
道の彼方を指す少女を追いかけ
高台に登って見えたのは
名も知らないのに懐かしい原野
静かな、もの言わぬ少女の視野の中で
見たこともない街に ぽつぽつと灯がともる
おしゃべりな灯油ランプの覆いの中で 炎が吹き上がる
打ち捨てられた原野に立つ人々に祝福を
静かな、もの言わぬ少女の視野の中で
見たこともない街に ぽつぽつと灯がともる

原記事掲載のベトナム語と、併記された中国語訳の和訳:
Xin chào các bạn.(ようこそ)
Đây là Quê Hương của chúng tôi(これが私たちのふるさと)
Đây là tương lai của chúng tôi(これが私たちの未来)
