屋頂現視研
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『さよならの朝に約束の花をかざろう』――母親、女、そして女性

マキアとエリアルの関係、そしてレイリアの葛藤を症候的に読み、父の機能、エディプス・コンプレックス、女性の欲望を手がかりに、『さよならの朝に約束の花をかざろう』における母親・女・女性の分裂と転換を考える。

著者: 钟子默翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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钟子默

関心領域:ACG(アニメ・漫画・ゲーム)文化研究/ジェンダー/空間/思想史。つい共感しすぎる、周縁の観察者。

  1. 本稿は物語の核心に触れるネタバレを含みます。ご承知のうえでお読みください。

  2. 本稿では、主体としての女性を「女性」、欲望の対象となる客体としての姿を「女」と呼ぶ。

はじめに

夕空を背景に中国語版の作品名が入った『さよならの朝に約束の花をかざろう』のタイトル画像

岡田麿里は、人物の心理や複雑に絡み合う人間関係を描く巧みさでアニメ脚本界に名を知られ、多くのアニメファンにも親しまれている。その「岡田ママ」が、初めて自ら脚本と監督を手がけた劇場アニメ『さよならの朝に約束の花をかざろう』(以下『さよ朝』)では、自らの作風をいくらか変えた。舞台を幻想世界に置き、家族や戦争を通じて「別れの一族」と「寿命のある人間」を、無限と有限の対立として描く。「成長」「絆」「愛」に焦点を合わせ、学園青春劇に見られた人間関係のもつれは抑えられている。物語の描き方は、岡田ママの過去の作品から一歩踏み出したと言える。

ところが、まさにこの「転換」こそが、精神分析の「唐突な」介入を可能にし、作品の失敗として批判されている箇所に、作品そのものの症状(symptoms)を露呈させた。ネットでは、母子の関係がなぜ生まれるのかわからない、登場人物がわざとらしい、無理やり泣かせようとしている、といった不満が見られる。これらは作品の欠点であると同時に、フェミニズムが欲望をどう扱うかという核心へ私たちを導いてくれる。こうした欠点や否定的な評価がなければ、私たちは自分が認めまいとしているものを見つけられない。岡田ママが「魔女」と呼ばれるのは、胃が痛くなるのに手放せない、そんな魔性のテクストを書いてしまうからなのだ。

本稿では症候的読解を通じて、マキアとエリアルの関係と、レイリアのヒステリーという二つの側面に焦点を当て、物語の矛盾がどう働いているかを考える。精神分析を簡単に紹介しながら、作品の「剰余の領域」を掘り下げる入口を開いてみたい。要点を先に言えば、この作品は、一般に受け止められているような、ただ母の愛を称えるだけの作品ではない。マキアが母親の務めに強迫的に同一化していく姿を通して、私たちは実は「父親」を見いだす。レイリアの最後の信仰の跳躍を通して、母親ではなく女としてのあり方に触れる。そして作品全体の不調和を通して、家族やジェンダーに対する岡田麿里の疑念と、観客の落ち着かない欲望の本質を捉えるのである。

なぜ、こんなことが言えるのか。

一、マキアとエリアル――不在の父の現前

「父が現前する」と言われても、意外に思うだろう。物語全体を通して、「父親」という役柄はほとんど見当たらないからだ。唯一、父親と呼べるのは、成長してディタと結ばれたエリアルである。故郷を守る戦いに、エリアルは「父親」として、また「男」として臨む。だが、その時点でディタは出産したばかりで、エリアルはまだ自分の娘と実際に関わってはいない。

甲冑姿のエリアル。右下に「♪『ウィアートル』rionos」の表示

ここから思い浮かぶのは、岡田自身の生い立ちだ。母子家庭で育った岡田麿里は父の愛を一度も感じることなく、逆に母が次々と「彼氏」から虐待されるのを目にしてきた。父の庇護と社会からの承認を得られなかった幼い岡田麿里は、自分の小さな世界へと退き、引きこもりになった。その背景がもっとも直接的に表れているのが、作品における「父の不在」である。

だが、父を持たない人についてこそ、その欠如がどれほどの欲望と行動力をもたらしたかを考えるべきだ。岡田ママは、外界から完全に隔絶した精神病者ではない。むしろ逆である。世の中に認められたいからこそ、彼女の欲望は自分の世界の外へ、夢の空間を包む外側の象徴秩序へと向かう。こうして外の秩序を介して享楽と結びつくとき、「父の亡霊」が呼び戻される。『さよ朝』では、父の不在が弁証法的に、遍在する、制限のない父を呼び戻すのだ。その重要な契機が、マキアによる「母親」という役割への同一化である。岡田ママは、初めから母子の情愛を描こうとしていたわけではない。それでも母子の関係をきわめて強靱だと考えたのは、母親という立場に二重性があるからだ。

幼いエリアルを抱くマキア

母親はいかにして「父親」になるのか。まずは、母親、父親、子どもからなる伝統的な核家族を考えてみよう。旧来の家族のあり方では、父親は一家の主であり、家の掟を定め、威信を示す権限と責任を持つ。父親は能動的で、たくましく、力がある。その一方で秩序を守り、感情をあらわにするのは苦手だ。父親が原始社会でのように力を振るえないのは、社会の法がそれを禁じているからである。弱い立場の人々を尊重し、社会の法規を守ることを覚えて初めて承認を得られ、そのうえで、限られた範囲で権力を行使できる。

左上の「父」と下中央の「主体/子ども」を黒線が、右上の「母」と「主体/子ども」を桃色の線が結ぶ関係図。矢印はない

「本当の男らしさ」は外見上の男性像ではなく、家庭や仕事への責任に表れるべきだと考える人は少なくない。この判断は、文明をよいものとみなす考えから生まれ、人々はそれをジェンダーの本質と結びつけている。こうした文明の神話が確立することで、男性、すなわち父親の気質は広く社会全体へと押し広げられ、理想国家の姿が描き出される。社会が必要とする責任、倫理、規則は、文明の発展全体を支えるリビドーの基盤をなす。男女を問わず、文明に入り、その制度づくりに加わる者は、この「男性社会」が強いる同化を受け入れなければならない(職場では涙は通用しない)。 そして同時に、その強制力が働くなかで一つの位置を得る。これが、象徴的ファルスによる付与と去勢の一段階であり、ここに「父の機能」が現れる。

では、母親を抽象化すると、何が得られるのか。ここには基本的な問題がある。伝統的な家族の父について考えたあと、私たちは自然に、そうした家族における母の女性的な気質を思い浮かべる。受動的で、従順で、優柔不断。しかし、母親という役割には逆説がある。母親は責任を負わず、道徳や倫理からも免れているというのか。もちろん、そうではない。母親も家長として権威を持ち、広く社会の象徴秩序による制約を受けながら、男性的な権能を行使しなければならない。『さよ朝』のマキアには、当初、「母親」とは何かという具体的な理解がない。だが、シングルマザーのミドをまねて学ぶうちに、母親の務めを少しずつ理解し、エリアルをどう「愛する」か、生計を立てるためにどう働いて稼ぐかを身につけていく。ここに描かれるのは、意志の強い母親の姿だ。

赤ん坊を抱く母親

だが、「母になれば強くなる」とは、母親が実はもう一つの父親であることを、まさに言い表してはいないか。父母のそろった家庭では、父の権威が確立されているため、母親はしばしば仮装(masquerade)によって女の位置へ――「優しく善良」な対象 a へ――戻らねばならない。父を愛しているふりをして、嫉妬する子どもをエディプス・コンプレックスへと導くのである。ところが、ひとり親家庭の母は、私たちが見落としていた面を露呈させる。父が不在であるために、母が父として持つ強制力が表に出るのだ。このとき、母は女であるがゆえに、「責任を問われない他者」として、象徴秩序の課す責任をある程度は免れる。「まともな男は女と争わない」「レディーファースト」といった具合に。その一方で、父の権能も握っている。この微妙な空白のなかで、彼女は父の権力を掌握できるのに、父の規則には縛られない。 たとえば中華民国期の大きな屋敷では、当主の父親が亡くなると、当主の母こそが一家の主となった。この母が男に代わって息子の妻に父権の力と規範を押しつけ、しかも男以上に苛烈になれたのである。ここで母親は、父親の仮面――大文字の女――となる。

この視点から、マキアとエリアルの関係にまつわる不可解さへと入っていこう。まず、二人が象徴的な意味でひとり親家庭となること自体、奇妙である。物語を見ても、なぜマキアが母親になるという方法で「愛」を感じようとしたのか、観客にはまったくわからない。乱暴に読めば、逃走中の偶然の出来事に理由を求めることもできる。だが別の角度から見れば、外部のイデオロギーが「母の愛」の発生にあらかじめ根拠を与えていたのだ。関係が偶然に成立したからこそ、テクストの無意識に父の亡霊がつきまとっていることに気づく。「大文字の母」は、本質的に〈父の名〉(Nom-du-Père)を帯びている。よい母親になろうと努めることは、マキアが社会秩序からの承認を望むことを意味する。しかも、マキアは出産という現実界(the Real)の過程を自ら経験せず、エリアルの「名目上の母親」として関係に入った。だからこそ「血縁」への同一化を進めることができず、普通の母親以上に、父の象徴による承認に頼ることになる。

酒場のマキア。中国語字幕の入った場面

画像内の中国語字幕の意味:エリアルが笑うと、私はうれしい。

こうして物語の前半から中盤にかけて、マキアが二人の関係から得るのは、父、すなわち道徳的責任をまとった愛であり、束縛し、抑圧する愛であり、超自我に支配された強い欲望である。彼女の自己認識が初めて危機に陥るのは、同族から届いた象徴的な印――ヒビオルを目にしたときだ。母子の物語に浸っていたマキアは、幼なじみのレイリアが結婚すると知って衝撃を受ける。すると「別れの一族」に結びつく郷愁と使命感が呼び覚まされる。物語はすぐに、マキアが身を寄せているミドの家の牧羊犬の死へと移る。この編集には、物語の感情の流れをつなぐ巧みさが表れている。犬の死は、マキアに自分の限界を、より説得力をもって突きつける。彼女は結局、愛する人たちが次々と死んでいくのを見届けることになる。それが、彼女を再び「イオルフの民」へと同一化させ、過去から残るわだかまりに向き合わせるのだ。

夜空の下、マキアの肩に手を置くエリアル

画像内の中国語字幕の意味:もう泣かないで!

レイリアを救おうとするなかで、マキアは一緒に逃げようと誘うが、最後にレイリアはそれを断る。すでに身ごもっており、恋人クリムのもとにはもう戻れないからだ。この展開は、脚本の背後に隠れた〈父の名〉をもう一度強める。人間と交わったイオルフのレイリアは、婚約者クリムとの約束をすでに破っている。だからこそ戻れないという彼女の振る舞いも、約束を守るという規範に従うものであり、父権の象徴を強力に補完する。これからは、もはや純潔なイオルフではなく、一つの「例外」なのだ、というわけだ。父の亡霊が再び現れ、法によるスラット・シェイミング(Slut Shaming)、すなわち「ふしだらな女」という辱めを下したのである。

二、マキアとエリアル――エディプスを抜け出す

レイリアの救出に失敗したことで、マキアは過去への執着を呼び覚ます象徴的な印と、ひとまず折り合いをつける。徹底した和解ではないにせよ、それによってマキアとエリアルの関係には安定した時期が訪れる。物語の中盤は、エリアルのエディプス・コンプレックスを集中的に扱う。

すでに述べたように、マキアが演じる母親は、実は父親としての地位を占めている。だが、それを指摘するだけでは足りない。いわば父の姓を冠していても、母は依然として母と呼ばれ、「女」としての次元を捨てることはできない。だから、母が父のイメージに取り込まれると、両者の根本的な違いは、その父のイメージに「汚点」を生む。この「汚点」が、文明に害をなすもの――死、溺愛、女性的な気質などの、棄却されるもの(abject thing)――を排除するための窓となる。このような父は、厳格で至善の聖なる父ではない。肛門的な父(anal father)なのである。

マキアとエリアルのシルエット

マキアは言説によって母親となり、「血縁の想像」による縫合を欠いている。そのことは、エリアルへの感情が揺れ動く一因でもある。そして、この揺らぎによってこそ、父の汚点も露呈する。マキアがエリアルに母の愛を示すとき、その振る舞いは感覚と感情に根ざしている。彼女はエリアルの享楽を許し、それが強すぎる「超自我」を困惑させるのだ。 たとえば、おなかをくすぐる行為は享楽(jouissance)につながる。くすぐったさは痛覚と触覚の交錯であり、言葉や意味を示す記号を通じてではなく、無条件反射によって、前触れもなく主体を「笑わせる」。それがここでは、理性的な観客に「気まずさ」をもたらす。社会文明のなかですでに位置を得て、父の法に承認されている観客にとって、母子の「幼稚な」やり取りを再び思い描くことは、恥ずかしいことなのだ。父性的な他者は、私たちの無意識のなかで絶えず言い聞かせる。「そのような享楽を受け入れてはならない。許されるとしても、条件付きだ」と。だから、一部の観客が「マザコン」描写に不快感を覚えるのも無理はない。たとえて言えば、母の愛とは「蜜の中で溺れ死ぬ」ことだ。母は決して満たされず、主体のすべてを「丸呑み」にしてしまう。

幼いエリアルをくすぐるマキア

画像内の中国語字幕の意味:私のためなら何も惜しまない。

だが、観客のこの「甘ったるさへのいら立ち」は、エリアルが成長するにつれていくらか和らぐ。数多くの成長物語と同じように、エリアルは反抗期に入り、自分と母の関係を考え始め、自らの欲望の構造を組み直す。一方のマキアも、自己認識をめぐる二度目の難局に直面する。欲望の対象、すなわち女になるのか。それとも母親、すなわち父親であり続けるのか。

父親の役割がマキアから切り離されていないため、エリアルには、母の欲望がどこへ向かっているのか、いつまでもわからない。エディプス・コンプレックスは、事実上引き延ばされている。ある日、酔ったエリアルが母に「近親相姦」の欲求を示し、それを拒まれる。明らかに、このとき初めてコンプレックスに決着がつくのである。 マキアはエリアルに母の愛を惜しみなく示す。だが、母親の超自我――父の倫理を保った、あの溺愛――を守り抜くからこそ、ラングから向けられた好意を断って母親の立場を守り、それを通じてエリアルの欲望の対象になることも拒むのである。

マキアを抱きしめる成長したエリアル

画像内の中国語字幕の意味:それが母親というものだと、ずっと思っていた。

母親と女のイメージを切り離すうえでは、この「近親相姦の失敗」に加え、マキアが別れの一族という「他者」であることも一定の役割を果たした。その「他者」としてのあり方を呼び覚ますのは、隠れた象徴的な印――マキアの身体である。「別れの一族」の少女であるマキアの身体の最大の特徴は、老いないことだ。十数年、苦労を重ねて暮らしても、彼女は十五歳の少女の姿を保ち続ける。周囲の友人は、エリアルとマキアを恋人同士だと見たことさえあった。ここで、女性的なもののすべてを代表する「女」が、亡霊のように二人の関係へ舞い戻り、肛門的な父を脅かす。マキア自身の「女」と「母親」という役割の内側に分裂が生じ、それが今度は、欲望するエリアルの内なる分裂に転じる。欲望をめぐって、いったい「なる」のか、それとも「持つ」のか。母が「父の禁止」を行使し、そこにエリアル自身のイオルフの民に対する理性的な理解が重なって初めて、彼はマキアの「母親」としての身体から「女」を切り離し、父の秩序からの承認と、自分の欲望を求めるようになる。

戸口付近で振り返るエリアル

画像内の中国語字幕の意味:気をつけてね、エリアル。

エディプス・コンプレックスの決着は、テクストの重要な転換点であり、その後の人物の変化を大きく左右する。 この衝突が終わると、エリアルは母を避けるように駆け去り、母の愛の宇宙を離れて、もっと広い世界、すなわち象徴界からの承認を追い求める。これは、幼い岡田麿里の願いとそっくりだ。エリアルが去ったあと、マキアは声を上げて泣き崩れる。そこに、女と母親という役割の衝突が引き起こすヒステリー(hysteria)が姿を現す。まなざし(gaze)にさらされる女の身体は、彼女が人間に対して外密的な「他者」であることをあらわにする。なのに、母になりたいという欲望は、人間の子を抱くことを彼女に求める! 落ち着きどころのない感情は、胸の奥を何度もたたき、ぶつかり、重なり合い、ついには抑えが利かなくなる。マキアが二つの役割のあいだで揺れ続けるという「恥辱」から解き放たれるのは、最後にディタの出産を目にしたときだ。

出産とは、何を意味するのか。それは痛みを生み出すことで、母親と女のあいだにある、越えられない裂け目を最終的にあらわにする。妊娠が、母親の務めによる女性への最初の呼びかけだとすれば、子を産む過程は現実界の侵入である。出産の苦しい過程が女性にもたらす精神的な圧力は、計り知れない。自分や子どもが死ぬのが怖い。自分の立場を決定づける新しい命と、これから向き合うのが怖い。その命によって立場を決定づけられた自分自身が怖い。事前にどれほど心の準備をしても、この過程はなお、解読できない「原質」を生み、トラウマをもたらす。岡田ママの生活へのまなざしは鋭い。「母親」は女性の天職ではなく、トラウマを縫合したあとに生じる象徴的な結果なのだ。

ディタの出産の場面

出産を目にしたマキアは、自らの欲望を組み直し、ついに一つの説明を受け入れる。自分は産んでいないのだから、「本当の母親」ではないのだ、と。これは、「出産は母親の役目である」という父権的な言説を、もう一度強化するようにも見える。だが別の角度から見れば、マキアはこの言説を受け入れたからこそ、母子の関係を築くうえで「血縁の想像」が果たす重要な役割をようやく理解した。それは、父の法を経由するのとは別のやり方で、享楽と結びつく方法である。ここでは、彼女が母として息子を愛するのをやめたのではない。「母の愛」の意味が変わったのだ。 もはやそれは、重い倫理的戒律を背負う強迫的な愛ではなく、戒律から解き放たれた欠如の愛である。最後にマキアが立ち去り、そして結末の再会のあとで慟哭する姿。そこに胸を打たれるのは、無限の生を持つ自分にも、愛する者が抱える欠如を埋めることはできないと、彼女が気づいたからではないか。この愛はむしろ、私たちがふつうに言う「家族の情愛」では捉えきれない。

エリアルをいたわるマキア

岡田ママは本作で、愛すること、泣くことといった女性性(femininity)を繰り返し描き、「女」と「父」の矛盾を通して、女性ならではの現前を導き出す。先に述べたように、象徴界で父の法に承認された観客のなかには、「女性」の「原質」が侵入して引き起こす登場人物の「解離性・転換性障害」、すなわちヒステリーを、受け入れがたいと感じる人がいる。それは必ずしも共感する力の不足ではなく、一種の自己防衛かもしれない。女性性は「致命的な誘惑」であり、私たちの死の欲動を導く。人が負の心理状態からなかなか抜け出せないように、この欲動は私たちを否応なく空洞に、あの女性的な存在に触れさせるのである。

ここまでたどって、物語全体の症状の名がようやくわかった。女は母親に抗う。 それはレイリアにも表れている。

三、レイリア――母親・女・大他者の欠如

レイリアという人物を分析すれば、マキアと対比できる別の道筋が見えてくる。マキアが「誤認された母親」から「欠如を抱える母親」へと向かうのだとすれば、レイリアは「現実の母親」から「真の女」へと向かう。「真の女」は、女性の欲望にかかわる「大他者の欠如」につながり、観客の素朴な期待を突き破る。だが、映画という装置に制約されるため、作品内では「内在的侵犯」の効果を得るにとどまり、岡田麿里の「女性をめぐる想像」と複雑に結びつく。

今の見取り図はわかりにくい。心配はいらない。まずは、レイリアがどう「現実の母親」に抗い、「真の女」へ向かったのかを話そう。

レイリア

明らかに、レイリアがマキアの救いを拒んだのは、人間の子を身ごもり、「本当の母親」になったからだ。先ほど論じたように、本当の母親であっても、その本質は「父親」である。ただし、母親には女性的な気質がより多く残されているため、この父の行き詰まりを破る裂け目を内側から生み出し、一つの視差を作り出せる。その裂け目を再び象徴化する側から見れば、母親は肛門的な父となる。裂け目を露呈させる力、すなわち実体を持たない脅威の側から見れば、母親は女性としての破壊的な享楽をもたらす。

レイリアは父の威信に厳格に従うため、当然のようにクリムへの「不貞」の罪責感にとらわれる。このとき、彼女が崩壊するのを三つの要素が食い止める。第一に、レイリアは自分の娘へと愛情を移し、メザーテの父の法による承認を再び得る。第二に、同胞たちは殺されたと思い込み、過去へ帰る望みを断つ。第三に、自分は飛べるという想像を保ち続け、自分には限界がないと思い描くことで、実際には制限だらけの宮廷生活に対処する。この想像は、かつての何の憂いもない日々にもつながっている。この欲望は「前エディプス的」だから、「子どもの喜び」と呼ぶことができる。

空へ身を躍らせるレイリア

しかし、ことは思いどおりには運ばない。レイリアは本当の母親であるにもかかわらず、子を産んだあと、再び追放される。娘には「別れの一族」の生命力がなく、王子も彼女に飽きてしまう。失望した国王は、法のもとで一人の人間として扱われる資格をレイリアから奪い、彼女を「統治」の対象から「排泄」の対象へと変える。 つまりマキアとは違って、レイリアは過去の欲望によって、自分が「他者」であると思い出したのではない。象徴秩序の「存在論的な恥辱」として、法によって棄却されるのである。拒絶されるなかで、否応なく自分の「他者」性に向き合わされるのだ。

顔を伏せるレイリア

画像内の中国語字幕の意味:冗談じゃない!

自分の娘に会えなければ、母親の責任を果たせない。法を崇拝するあの「母親の超自我」が、レイリアを苦しめ始める。一方、彼女は恋人クリムがすでに死んだと思っており、王子からも、もはや愛されていない。女としての特質、すなわち欲望の対象であることも失われてしまう。こうして彼女は、いわば父の姓を冠して母親になることも、女の特質を保って対象 a になることもできず、マキアと同じく、二つの役割のあいだで揺れ動き、ヒステリーに陥る。感情の制御を失った彼女は、栄華を示し、女としての気質を表す宝飾品をすべて投げ捨て、娘に会わせてほしいとイゾル将軍に懇願する。

この段階では、レイリアのなかで強く働く母親の超自我が、彼女の目を曇らせて大他者の欠如を見抜けなくさせるだけでなく、主体が経験する「生活史」に深く食い込み、強固な「日常」を形づくっている。そのため、かつての恋人クリムと再会したとき、衝撃を受けながらも、レイリアは彼の求めを受け入れない。彼のもとへ戻り、故郷へ帰り、自由を取り戻すことを拒むのだ。彼女には母親という立場が、あまりにも大切なのだ。レイリアのもがく姿には、何にも縛られない亡霊としての「父」が見える。秩序が崩れ果てた局面に至ってもなお、この父は、レイリアが自分の欲望を追うことを妨げている。

涙を流すレイリアのクローズアップ

画像内の中国語字幕の意味:あなたたちは、私からいったいどれだけ奪うつもりなの!

この悲劇の描写、クリムが最後まで解けなかったこの謎は、現実の女性が抱える困難の象徴でもある。長く父権の影で生きてきた女性にとって、この日常を、この居心地の悪い「小確幸」を守ることは、自分自身の存在の一部となっている。主体のこの歴史を否定することは、主体そのものを否定すること、過去から現在までに形づくられた「私」を殺すことを意味する。それは主体の「危うい跳躍」だ。幸い、そのあとの展開は映像ならではのロマンティックな手法によって、この「危うい跳躍」を実現させる。戦争が終わった翌日、レイリアは突然、自分の欲望を悟り、自由で何ものにも縛られなかった過去を実の娘に打ち明けて、フェミニズムによる救済へと向かう。惜しいのは、岡田ママが、レイリアの「女性」へのこの転換をうまく描けていないことだ。態度の変化には、論理的なつながりが欠けているように見える。

だが一方で、精神分析の視点からなら、レイリアの唐突な行動を擁護できる。女性の謎には、ゆっくり近づこう。説明してしまおうとはしないことだ。大切なものは別のところにある。自分は飛べるという、あのフェミニズムの象徴的な印にこそある。「飛ぶこと」への渇望は、一方では「子どもの喜び」への回帰であり、他方では抑圧されたものの回帰でもある。レイリアは本当に飛べるわけではないから、「危うい跳躍」は実のところ、死と向き合い、生の秩序に抗うことなのだ。高い場所に立つと、思わず飛び降りたくなる欲望と同じように、「空を抱く」ことは「女性的な存在」と密接に結びついている。それは父の機能でも母の溺愛でもなく、「女性の原質」と呼ばれる空洞である。言葉の及ばないこの跳躍においてのみ、レイリアは自分が何一つ持っていないと認める。自己に別れを告げるだけではない。娘を手放したとき、母親の役目を果たせと彼女に厳しく迫っていた心のなかの父も、神の力を失い、大他者の欠如を露呈する。

空を見上げるレイリア

画像内の中国語字幕の意味:早く行って! 私、飛べるじゃない。

ここまで、レイリアが「現実の母親」からフェミニズムによる救済へと向かう姿を見てきた。この跳躍だけを見れば、彼女は母親から「真の女」になったわけではなさそうだ。「女」であれば、必ず男性の位置からの欲望の対象となるはずだからだ。では、このまま秩序をかき乱す女性の革命主体になるのか。結末を見れば、明らかに違う。観客が目にするように、レイリアは死なず、マキアに救われる。彼女は宮廷で起きたすべてを、自分の生の汚点とみなす。そこを渡りきり、さらに先へ進み、純潔な秩序へ帰っていく。最後に娘が思わず母の美しさを口にする。それは、初めて会った母への痛切な思いと敬愛を表すだけでなく、レイリアがあの想像的な(imaginary)欲望の対象の位置に戻ったことをも示している。崇高な対象――「真の女」が、ここに現れたのだ。 この作品は、女性の革命へと向かいながらも、結局ここで歩みを止めたのである。

母レイリアの美しさを口にする娘メドメル

画像内の中国語字幕の意味:私のお母さんは、本当にきれいな人。

まとめ――岡田麿里の「想像」

要するに、一つの完結した、閉じた物語として見るかぎり、マキアがエリアルとの永遠の別れに向き合うことと、レイリアの救済が、この作品の到達点を示している。ここまでマキアとエリアルの関係を分析し、マキアの母になりたいという願いが、実は、汚名を帯びた「父の機能」の働きであることを指摘した。続いて、作品がエディプス・コンプレックスを解決する過程と、マキアが最後に欠如の愛へと向かう変化を説明した。レイリアもまた同じように、「父の名」を帯びることで母になり、最後には母という立場を脱することで、自分の本当の欲望を見いだした。人物を成長させる論理に穴があり、戦争や政治の描き方があまりにも子どもじみていることは否めない。それでも、人間関係を深く掘り下げる岡田ママの力量は、業界の模範と言ってよい。

戦争の一場面

だが、作品の外へ目を向け、作者と観客のイデオロギーまで問い直すなら、もっと厳しい総括もできる。『さよ朝』の核心は、物語の内側だけで完結している。すべてが架空の幻想世界に立脚し、種族やジェンダーにかかわる衝突が組み立てられている。その衝突のなかで、もっとも目を引くのは、「イオルフの民」の帰郷への願いだ。 彼らはずっと外界から隔絶された村に住み、純潔で幸せな暮らしを営んできた。この設定のロマンティックさは、政治描写の幼稚さと呼応している。作品には至るところに父がいる。だが明らかに、岡田麿里が呼び出すのは想像上の父ばかりであり、欲望を許す肛門的な父である。それは岡田ママが父の愛について抱く想像、ある種の希求に対応している。他方で、幼少期の影に復讐しようとしているのかもしれないが、彼女は「たくましい男」を拒み、物語の本当の父、メザーテ国王を辱められる父として描く。政治、法、戦争といった男性性の象徴については、大ざっぱな描写で済ませてしまう。これは、現実で出会った強力な父に対する、岡田ママの皮肉に対応している。

暗い画面のなかのイゾルたち

画像内の中国語字幕の意味:もう終わりだ。お別れをしなくては。

ここに一つの裂け目が浮かび上がる。「成長」への要求に直面し、「憧れ」と「恐れ」のあいだを揺れ動くこと。 岡田ママはしばしば懐かしいものを描いて、この不安を表す。懐かしさから思い浮かぶのは、穏やかで安らかな空間、心がもう帰ることのできない原初の故郷だ。そして、この「帰りたい」という思いは、家族を頼り、母の愛に身を寄せたいという欲望に深くつながっている。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』には、それがはっきり表れている。幽霊のめんまは、「子どもの宇宙」への想像が託された、あの象徴的な印ではないか。 こう考えると、連想が広がっていく。超平和バスターズの秘密基地、外界から隔絶されたイオルフの故郷、そして子ども時代の岡田ママが安心できた家と部屋。そこには共通する核がある。これらの作品はむしろ、その核と成長、すなわち父の法から承認を得ることとの矛盾が生んだものと言うべきだろう。

そればかりではない。彼女は、成長をめぐるこの揺らぎを、驚くほど巧みに性別化と結びつける。並の同業者より、よほど精神分析家らしい。『シムーン』や『放浪息子』などで脚本を手がけた際の自在な筆さばきにも、そのことは表れている。自ら脚本と監督を担った『さよ朝』では、ついに幽霊の隠喩を借りずとも、ジェンダーをめぐる岡田ママの思考が見えるようになった。父の不在こそが、遍在する全能の父を呼び寄せる。だが、遍在する父はまた、辱められた、汚点のある父へと転じる。この矛盾の反復が生む裂け目に、前エディプス的な隠喩が呼び出されるのである。

岡田麿里が参加したアニメ作品の女性キャラクターたち

前エディプス的とは、何を意味するのか。先に述べたように、エディプス以後の父が「法」(Laws)を象徴し、男らしさの神話と制度的な強制力を大量生産するのだとすれば、前エディプスとは、絶対的な女性性の現前である。繊細で、感情が激しく、まったく理屈が通じない。それこそが女性なのだ。それはメアリー・スー的なテクストに隠されたラディカルな次元であり、観客を居心地悪くさせるさまざまな感傷的展開の背後に捉えられる汚点である。岡田ママの多くの作品は、まさにこの不調和によって観客を徹底して突き放し、つらくさせながらも、「怖いもの見たさ」で引きつける。それが冒頭で述べた、岡田ママの作品の魔力だ。

少なくとも作品の完成度と、女性の欲望をあらわにする点で、岡田ママは私たちに手本を示してくれた。ここ数年の劇場アニメでは、岡田麿里が家族の情愛で心を温めたかと思えば、山田尚子が百合で心を揺さぶった。アニメ界は、女性の権力、視点、経験を重く見ないわけにはいかない。もちろん私情を言えば、岡田麿里のヒステリックな「不安」と「流動」は、シクスーの「女性的エクリチュール」により近く、百合営業の「継ぎはぎ怪物」よりも期待できる。作品が現実にもたらす影響は限られ、「儀礼的な抵抗」や「内在的侵犯」にとどまるとしても、私はなお、フェミニズムの視点から岡田麿里を読むことを楽しみたい。しかも、この読みは的を射ている。胃が痛くなっても岡田ママの作品を楽しむ人、嫌いでも認めざるをえない人が大勢いる。その姿を見ると、この文化的な過程を大切にするだけの価値があると思う。残る問いは、こうした作品をどうすればもっと先へ進められるか、だ。

イオルフの民の故郷の風景

主な参考資料

  • マルコス・ザフィロプーロス『女人与母亲——从弗洛伊德至拉康的女性难题』(題名仮訳:女と母親――フロイトからラカンへ、女性をめぐる難問)、李锋訳、福建教育出版社、2015年

  • douban.com

  • 「フェミニズムはラカンの『象徴秩序』をどう理解するか?」

  • 「アニメ考察――公開ページ」

  • AnimeTamashii「『さよ朝』は『孤独な者たちの物語』」

編者より

钟先生、いい文章です。

本文終わり

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