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随筆:『もののけ姫』のエボシ御前、その多面性

弱い立場の人々への配慮、人間中心主義、そして男性的・女性的な長所を併せ持つ理想像という観点から、『もののけ姫』のエボシ御前の複雑な姿と、人間と自然が共存する道を考える。

著者: 屋顶现视研翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

以前から『もののけ姫』について何か随筆を書きたいとは思っていた。今回、筆を執るきっかけになったのはテーマ付きの投稿企画だ。というわけで、まずはお題を読み解くところから始めよう。「大人になって初めて理解できた悪役たち」。

そもそも悪役とは何か。具体的な歴史を離れて、誰を完全な悪として「悪役」と呼ぶべきかを判定できる、まったく中立で客観的な善悪の秩序などあるのだろうか。筆者の答えは否だ。また、「大人になって初めて理解できた」といっても、ここでいう成長は、17.9歳から18歳になるという生物学的な成長でなくてもよい。そこで筆者は、このお題をこう受け取った。作中の一部の人物や読者から、悪の一面を持つと見られている人物について、筆者が最初に抱いた印象が後になって大きく変わった、あるいは新たな理解が得られた、ということだ。

お題の読み解きはここまで。これで脱線の心配もなくなったところで、今回の随筆の中心人物に登場してもらおう。

菜園に立つエボシ
エボシ御前。中国語では「黑帽大人」、音訳で「艾西伯」様とも呼ばれる。

画面内の日本語字幕:「ここは皆恐れて近寄らぬ私の庭だ」。

『もののけ姫』のあらすじは、皆さんも少なくとも耳にしたことがあるだろうから、ここでは繰り返さない。エボシ御前に対する筆者の第一印象だけ、簡単に述べておこう。人間の暮らしをよくするために自然を破壊する指導者。 まあ、深く考える前に、見たままに受け取った、それだけの単純な印象だった。この特徴は、隠された細部をあれこれ掘り起こさなければ観客に伝わらないようなものではない。『もののけ姫』は、そうやって何かを隠し立てする作品ではないのだ。だから第一印象もすっきりしているし、大まかな輪郭としてなら、この評価は今も変える必要がない。多くの観客が読み取っている、宮崎御大の伝えようとした「環境保護」という主題からすれば、エボシ御前は確かに一種の「悪役」と呼べる。

——となれば、これから筆者にできるのは、根拠があるかもしれない解釈や推測を重ね、エボシ御前の複雑さをさらに描き出すことくらいだ。

1. 女性と弱い立場の人々への配慮

「人間の暮らしをよくするため」などという大看板は、よく見れば、エボシ御前本人さえ背負いたがらない。彼女がより心を砕いているのは、社会の中で弱い立場にある人々なのだ。

エボシが売られた娘たちを引き取ることを、食卓でアシタカに語る男たち
売られた女性たちを引き取る。

画面内の日本語字幕:「エボシ様ときたら 売られた娘を見るとみんな引きとっちまうんだ」。

病者の言葉を聞くアシタカと、石火矢を持つエボシ
ハンセン病を患う人々を受け入れる。

画面内の日本語字幕:「その人はわしらを人として扱ってくださった たった一人の人だ」。

ここで注目したいのは、彼女が単に慈善を施しているのではないということだ。売られた女性やハンセン病を患う人々は、人々の役割や価値を定める旧来の社会の象徴秩序から排除され、周縁に追いやられていた。エボシはそうした人々に、身を落ち着けて生きていける新たな居場所を用意し、生きる意味と、これから生きていく道を与えたのである。女性たちは製鉄のふいごを動かす主力となる。この作品世界の製鉄は、紡織産業にも似て、女性たちが先進的な生産力を担う営みに見える。ハンセン病を患う人々も、石火矢の研究や製造を通じて、タタラ場という共同体の中に自分たちの居場所を得ている。

女性たちとともにタタラを踏むアシタカ
タタラ場という世界では、女性たちはもはや外のしきたりに縛られない。服装も物言いも、のびのびしている。

画面内の日本語字幕:「あら この人 裾を気にしてるよ」。 中国語字幕は、服の裾をそんなに気にしないで、と呼びかける意味。

エボシ御前を女性の権利の向上という面から読む議論は、すでに数多くあるといってよい。新たな社会関係が生まれつつあるタタラ場で、女性たちは社会の公的な領域へと踏み出し、製鉄に携わり、刀や銃を手に砦を守る。比較の対象となる他の土地の女性の状況は、映画では直接描かれていない。それでも、このような進歩が実現するのは、エボシ御前の治める場所だからこそだと、容易に想像できる。タタラ場はすでに一つの小世界をなしており、そこで長く暮らす女性たちは、外の古い世界に天皇という存在があることさえ、もはや知らない。

櫓の上から使者に言い返すタタラ場の女性たち
こうした女性たちの態度には、武士の使者も当然、驚かされる。

画面内の日本語字幕:「こっちは生まれた時からずーっと無礼だい」。

天朝について聞き返す女性たちと、書付を手にしたエボシ

画面内の日本語字幕:「天朝さま」。 中国語字幕では「天皇陛下?」という意味で問い返している。

エボシ御前が代表しているのは、当時の「人類」全体でも、歴史的な文脈から切り離された「人類」全体でもない。人類の歴史の進展の中で、男女平等を掲げ、人間を主体として重んじる、人文主義(ヒューマニズム)の流れなのである。彼女の縄張りを狙う高官の浅野——旧秩序の代表——には断固として抵抗し、しかも優勢に立つ。一方、天皇さまの手先の坊主は利用する(と同時に、利用されてもいる)。エボシ御前の身の上に関する補足設定を思い合わせると、この点はいっそうよく分かる。彼女は貧しい家の娘で、異国の盗賊と結婚したが、その夫があまりに残虐だったため、ついには夫を殺し、財宝を携えて日本へ帰ってきた、という設定である。

タタラ場をめぐって戦う人間たち
浅野様の命を受けた地方の武士たちは、タタラ場を奪おうとする。

『もののけ姫』を論じるとき、私たちはしばしば、早々に「人間対自然」という二元的な対立へ入り込んでしまう。そして、人間が一枚岩ではないこと、人間は多様であり、その認識の水準も暮らし方も歴史の中で発展していくことを忘れてしまう。

人類:どうしていつも、下心のある連中に勝手に代表されるんだろう?

2. 自然を滅ぼすのではなく、人間中心主義

エボシ御前が人類全体を代表するわけではないことを見てきた。では、人文主義を体現する彼女の自然への態度はどうだろう。一般に想像されるように、自然のすべてを敵視しているのだろうか。そうではない。

柵に囲まれたエボシの庭
エボシ御前だけの庭。

冒頭の庭の画像も含め、ここには何が見えるだろう。整然と緑が植えられた庭だ。木も草も野菜もある。人間は宇宙の中で、空気だけを吸って生きているわけではない。そもそも、よく考えれば砂鉄や鉄鉱石だって自然の一部ではないか。エボシ御前はもちろん、自然を滅ぼしたいのではない。彼女が思い描く人間の暮らしをよくするために、自然の一部を選んで破壊し、一部を利用し、(自分の意に沿う)自然を作り直すのだ。それぞれが、樹木の伐採、鉄鉱石の採掘、庭の緑化に対応している。筆者の理解では、これは人文主義・啓蒙の時代に典型的な人間中心主義の考え方である。

生きるためであれ、美を楽しむためであれ、人には自然が必要だ。だがエボシ御前が求めるのは、自分が征服し、足元に踏みつけた自然である。自然は、闘わなければならない敵として扱われている。これが、もう一歩踏み込んで読み解いた彼女の自然観である。ここで一つ、おまけの話を。田中ロミオが物語の主筋を手がけた『Rewrite』も、この問題を論じている。ゲームの文章には、人間に征服され、意図的に作り出された「緑化」への嫌悪が折々に顔を出す。ただし「罰抄」——中国語圏での『Rewrite』の呼び名——では、環境保護が共通認識となった現代社会を踏まえて、それが人間にとって何を意味するかをさらに掘り下げている。『もののけ姫』とは時代背景が違い、問題意識も異なる。

篝を抱く『Rewrite』の天王寺瑚太朗
篝を抱えたら、そのまま1キロ全力疾走だ。この図も、本稿の文脈で眺めれば、また違った深い意味が見えてくる。

3. 両性具有的な性格?

フェミニズムの思想には、女性の思いやりや優しさと、男性の勇敢さを兼ね備え、同時に好戦性や虚栄心といった悪い特質を捨てた、新しい人間を育てるべきだと考える一派がある。こうした理想の性格は、心理的な意味での「両性具有(アンドロジニー)」と呼べるだろう(もちろん、ここでの性格の分類は、ある文化の主流となっている「男性はこういう性格、女性はこういう性格」という社会的な前提に基づいている。論者たちが目指すのは、公の議論で理由を吟味しながら、その中からよい特質を選び、悪い特質を捨てることである)。

筆者は、エボシ御前はある面で、この「両性具有的」な理想の性格を体現していると考える。弱い者を気にかけ、強い者を恐れず、勇敢で、機転が利き、冷静でもある。人間に向き合う彼女だけを考えるなら、この形容はふさわしく思える。しかし本作で彼女が担う役割は、やはり好戦的な側に傾いているし、男性文化の中でも自然を征服しようとする側面を体現している、と筆者は考える。

柵の上から、エボシたちがシシ神退治に出たと伝える女性たち
男たちを率いてシシ神退治に出るエボシ御前。ここで彼女が担うのは、「男性」の社会的役割である。

画面内の日本語字幕:「動ける男はみんなつれてシシ神退治に行っちまってる」。

本作で比較的分かりやすいのは、主人公のアシタカの態度と言葉が、作り手の態度と希望を代弁しているという点だ。アシタカは何度も声を上げ、エボシ御前による自然の蹂躙やシシ神の殺害を止めようとする。だが彼女はほとんど耳を貸さず、自分の道を進もうとする。最初の印象に立ち返れば、アシタカが介入せず、エボシ御前の単純な考えのままに事が進むのを、宮崎御大がよしとしていないことは明らかだろう。ここに来て、彼女をどう捉えるかは再び曖昧になる。「両性具有的」な理想像には、十分に当てはまらないのだ(女性を自然や自然保護と結びつけるフェミニズムの論者も一部にいることを考えれば、なおさらである)。

曇りのない眼で見定めて決めると語るアシタカ
文明社会の外から来たアシタカは、双方の立場と苦しい事情を見たうえで、どう行動するかを決めようとする。

画面内の日本語字幕:「曇りの無き眼で見定め 決める」。 中国語字幕は、澄んだ両眼で真相を見きわめる、という意味。

むしろ、東方の部族から来た、澄んだ瞳を持つアシタカのほうが、勇猛で戦いに長けていながら、随所で自然や人間への思いやりを示し、利益よりも感情を大切にしている。筆者には多くの女性的な特質を持つように感じられる彼もまた、「両性具有」の体現者なのだ。ただ、こうした性格は、結局のところ、議論の中で思い描く理想にとどまるのかもしれない。

4. 道はあるか?

前の三節では、エボシ御前について筆者なりの考えを述べた。それを踏まえ、今度は作品全体について考えてみたい。もののけ姫であるサンは、人間に反抗し、罰を与える自然の化身だ。もちろん、人間の中でより急進的に自然保護を求める立場を体現しているとも読める。一方のエボシ御前は、人間の進歩のために、ただ自然を征服しようとする指導者である。ここでいう人間とは、繰り返すが、歴史的な文脈を離れた人類全体のことではない。アシタカは、人間の中でも自然とともに生きようとし、単純な自然征服に反対する者の代表だ(彼の故郷が、文明から遠く離れたエミシの部族であることも考えてみてほしい)。彼は作り手の声を代弁し、両者が「対話」し、ともに生きていけることを願っている。

二本の刃の間に立ち、エボシとサンを制止するアシタカ
当初、両者はそれぞれの立場に固執して争いに陥る。アシタカは、第三の道があると考える。

画面内の日本語字幕:「そなたの中には夜叉がいる この娘の中にもだ」。 中国語字幕は、あなたにもこの少女にも心の魔がある、という意味。

作中でアシタカは、人間と自然、タタラ場と森とが共存する道を見つけ、必ずともに生きていかなければならないと、繰り返し訴える。その訴えは、作中では、タタラ場という共同体のあり方を何らかの形で改め、エボシ御前を説得して、その行動を正していくことへと結びついている。

サンは森、自分はタタラ場で暮らし、ともに生きようと語りかけるアシタカ
それでも、ともに生きていくことはできる。

画面内の日本語字幕:「サンは森で私はタタラ場で暮らそう 共に生きよう」。

シシ神の首を人の手で返したいとジコ坊に語るアシタカ
人間と自然の和解と共存。この直前、サンは人間とは話が通じないと述べている。それでもアシタカはあの坊主、ジコ坊と話し合い、交渉を成功させる。人間同士の和解と合意こそ、人間と自然の和解の前提なのだ。

画面内の日本語字幕:「人の手で返したい」。 中国語字幕は、人の手で首を返したい、という意味。

シシ神という存在についても、もう一度見てみよう。

シシ神は命そのものだと語るアシタカ

画面内の日本語字幕:「シシ神様は死にはしないよ 命そのものだから」。

シシ神は生態環境そのものであり、人間も、森の動植物も、その中で生きている。この点は、このアカウントの別の記事で述べたことにも通じる。

『ウルトラマンガイア』では、藤宮博也を通じて生態系中心主義の視点が持ち込まれる。怪獣は地球の一部であり、災厄の根源はむしろ人間の活動にある、という視点だ。藤宮博也の考えは、根源的破滅招来体によって改ざんされた情報に基づいていた(その考えが客観性を欠き、反人類的であることを示唆している)。とはいえ、生態系中心主義が、それまでのウルトラシリーズの怪獣像——理性を持たない破壊者——を問い直すものであることは疑いない。さらにそれは、最終的な人間中心と生態系中心の視点の統合に道を開くものでもある。最後の局面で、地球の怪獣たちは人類とともに根源的破滅招来体の侵略に立ち向かう。この光景が示すのは、人間以外の生物も同じように、道徳的な判断を下す主体となりうるということだけではない。人間と自然の、最終的な大いなる和解でもある。

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最後に、筆者はエボシ御前の言葉にも、希望を見いだした。自然はただ征服すればよいという考え方から、自然と和解し、共存しようという考え方へと、人間の認識が進歩していく希望である。

村を初めから作り直そうと語るエボシ
新しい村、自然との新しい付き合い方。

画面内の日本語字幕:「みんな初めからやり直しだ ここをいいむらにしよう」。

新しい村が向き合うのは、自然との新たな付き合い方だけではない。外部の人間勢力とどう共存していくかという課題も、作中ではすでに示唆されている。ここでもう一度、人類は神話さながらに一つのまとまりとなって自然と対立しているのではなく、その内側にはそれぞれの立場や利益があるのだと実感する。エボシ御前はタタラ場を守るために、声なき自然よりも、人間の側で暗躍する者たちを警戒しなければならないのだ。

水につかり、エボシに敵はほかにいるはずだと告げるアシタカ

画面内の日本語字幕:「エボシ そなたの敵はほかにいるはずだ」。

それでは、ひとまずここで筆を置こう。拙い走り書きだが、この先の思索は読者の皆さんに委ねたい。本文中のアニメの画像は、諸神字幕組による二言語字幕版からお借りした。感謝申し上げる。

本文終わり

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