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黒化とヤンデレ――アニメの「狂女」像を文化から考える03

← 中国語原文11 分で読了編集プレビュー

第三部:狂女幻想の文化批判

フェミニズム文学批評の「狂女」という概念を出発点に、前近代の母親としての規範から、明治期の国家による身体の統制、戦後の消費社会と少女文化へと、日本女性の身体の歴史をたどり、黒化やヤンデレといったアニメの属性にある家父長制的言説と反抗の可能性を問う。

著者: 钟子默翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

第三部:狂女幻想の文化批判

五、狂女幻想の文化批判

知覚の統治技術に基づく視覚分析は、アニメの狂女像について、比較的消極的な結論を導いた。しかし、アニメと観客のメディア文化や、注意を規律化する作用に深く踏み込んでも、視覚的イメージの分析だけでは、狂女像の背後に隠れた文化の論理を完全には捉えられない。より正確には、消費者の欲望と幻想の論理を捉えきれないのである。他方、視覚分析は、アニメ制作におけるキャラクター表現の制御と、その失敗に固執するため、批評の枠組みを虚構の映像の内部にある純粋な差異へと限定してしまう。女性像のラディカルさも、その欲望の一義性と完結性に見いだされることになる。さらに、女性の視覚的な像の分析は、彼女たちの置かれた状況があらかじめ設定されていることを、十分に扱えない。そこで最後に、本稿はアニメの幻想をめぐる精神分析を再び議論の軸とし、異なる狂女幻想を分析して、視覚文化批判を補いたい。狂女の黒化とヤンデレ、それぞれの特徴と違いを明らかにするのである。

(1)狂女の「幻想」

アニメの「超幻想性」がすでに示したように、中心のないアニメを前にして、受け手は主体の経験の一貫性を保つため、幻想の構築過程に自ら参加する。これは、送り手である公式側と受け手という二項対立に基づく文化の伝達モデルを揺るがす。一方、新しい注意の集中の様式が、画面に散らばる幻覚的な要素のなかで迷うことは、欲望の装置が制御できないことも示している。

興味深い事実がある。アニメのキャラクターは、明らかに人間とはまったく違う。見る者の肉体と、キャラクターの理想的な容貌、体形、生活様式の違いだけではない。現実と虚構のあいだには、通約できそうにない「次元の壁」がある。アニメのキャラクターに性欲や愛着を抱くことは独特の症候であり、欲望する主体を、奇妙な形で「作品から醒めてしまう」可能性にさらす。大半のオタクは、二次元の人物だけに欲望を向けるわけではない。なお文化的な異性愛のマトリックスに参加し、その影響を受けており、人間への「興味」や、ごく基本的な対人関係の能力を完全に失うわけではない。また、VR技術やそれに対応する道具があっても、オタクは多少なりとも、仮想世界と肉体の現実の違いを認識する。

この分裂がもたらすトラウマと、その縫合は考えるに値する。「人目にさらせない」幻想の要素を収めるために、逆向きの二つの過程が働く。一つは、より深い情熱的な幻想を厳しく追い求め、享楽の虚構に集中することで、快楽の背後にある象徴化できない亀裂を覆い隠すこと。もう一つは、幻想を使って象徴秩序を支えることだ。オタクの趣味や、欲望するアニメのキャラクターを「平凡」で「普通」なもの、生活の美しさの一部と定義する。二つは逆向きに見えても矛盾せず、ともに消費社会のヘゲモニーを維持する。まさにフェザーストーンのいう「日常生活の美的化」と「美的なものの日常化」が、相互に促進される過程である1。日常生活を幻想へと深め、幻想を平凡なものにすることで、主体は現実の消費主義的な文化体験を、絶えず追い求めることができる。

黒化やヤンデレという比較的極端な属性への愛着や不安は、この二つの道の「縫合」を試す。病的な人格や感情の属性を、どう「日常化」し、「美的なもの」にするかが問題になる。文化の媒介者たちは、このために多くの努力を重ねてきた。アニメのレイヤーの美学が、病的な像までも徹底して美的な対象に変えることや、男性キャラクターを中心にほどよく組み立てられた受虐的欲望は、いうまでもない。同人マンガでは、官能的な絵を描く伊倉ナギサの、十二星座のヤンデレ少女を描くシリーズが、十二星座の分類法によってヤンデレ属性を分け、それぞれの星座の特徴と対応させる。美少女の平面的で傷ひとつない顔と、デカルト的な美学に沿った身体構造によって、感覚的経験に訴えるエロティックな意味を強調し、ヤンデレ女性の背後にある去勢の能力を覆い隠す。そしてその一部を、淫らな補足として用いるのである。また、マンガ『怨霊奥様』は、血や髪といったアブジェクトの視覚的衝撃を残しながら、怨霊を男性主人公に依存する妻の立場に限定し、そのたびにもたらされる「恐怖」を夫婦の日常の一部にする。

しかし、こうした処理は、その属性の「病」や「怨み」の側面を完全に解決したわけではない。覆い隠しただけともいえる。それでは、病的なキャラクターに注意を向け続けるすべての人を満足させられない。極端な像のもたらす楽しみを体面を保ったまま味わうには、消費者は幻想へいっそう深く没入し、既存の社会の象徴秩序を否定し、社会の文化的な寛容さに厳しい要求を突きつけることになる。それは「幻想」と「現実」が互いを構築する均衡を破る。しかし、さらに踏み込める可能性がある。性的倒錯者として病的な幻想の正当性を弁護するのではなく、その属性のなかに、主体を支える幻想同士の不整合を見いだす場合である。

ジジェクの文脈で幻想が与えるものは、主体を引きずり込む、完全な虚構によって現実を見えなくする空間ではない。むしろ幻想は、現実の一貫性が幻想によって支えられていることを暴く。没入型の「サイバースペース」には、主体の心の奥にある、一致しない幻想を具体化する力があるのだ2。

この議論を延ばせば、斎藤環による戦闘美少女像の精神分析は、アニメやマンガといった新しいメディアの側から、ジジェクのいう「現実の不完結性をめぐる存在論」としての映画を、さらに掘り下げたものかもしれない。斎藤は、とりわけ二次元空間の戦闘美少女の「超幻想性」のもう一つの側面を強調する。「戦闘」は、現実の論理で説明できる、美少女の曖昧な願いをかなえるためにやむなく下される決断ではない。戦闘そのものが戦闘美少女のアイデンティティを決めている。それは享楽の行き詰まりが作る症候なのだ3。この結論は、二次元の美少女に向けられる男性の欲望が、まずは脱ジェンダー化された享楽から派生することを明らかにし、男性オタクはみなフェティシストだというフェミニストの非難に応える。

アニメの狂女の「病」と「怨み」も、同じく超幻想性の特徴を再現している。病理的な「症候」には、当然と思われる幻想性があるのか。そして、その幻想性を横断することもできるのか。「萌え属性」が日本アニメの文脈によりよく合う分類法だと認めるなら、見る主体の欲望の戯れを深く暴くという観点から、ヤンデレ女性と黒化した女性の症状には違いがあると指摘すべきだろう。

(2)ヤンデレ

『SHUFFLE!』の芙蓉楓の描かれ方をきっかけに、ヤンデレ女性はACG文化の消費者のあいだで広く論争を呼んだ。それを経た今、警戒を伴いながらもヤンデレへの関心と受容が広がることは、もはや避けられない歴史の流れとなっている。この属性がどのような特徴を持ち、どのような行動を引き起こすかについては、説明に違いがある。それでも広義には、ヤンデレは個人の成長史のなかで固定された病的な人格構造とされ、同時に、恋愛関係のなかで理解する必要がある4。言い換えれば、ヤンデレとは、精神に異常をきたす経験、あるいはペルソナ(人格の仮面)が、その人物のなかに定着したものである。さらに「デレ」の側面を示すために、特定のキャラクター――多くは観客が自己を投影し、同一化する相手――と、性的幻想に関わるやり取りをしなくてはならない。一般に、この二つの特徴は、ヤンデレ属性が文化産業に内側からどう取り込まれるかをも示している。

『SHUFFLE!』のリシアンサスがヒマワリ畑に立つ。作品ロゴと「Lisianthus」の文字がある
『SHUFFLE!』のリシアンサス。本文で論じた芙蓉楓とは別のキャラクター。

典型的なヤンデレ幻想は、次のような逆説的な光景を見せる。「デレ」の場面では、ヤンデレは受虐的な位置を占め、男性に依存している。ところが、留保のない「デレ」こそが、男性には直視できない性差となる。 ジジェクによる新しいファム・ファタールの精神分析的読解と同様に、ヤンデレはほぼ完全に規則へ服従して幻想性を示すことで、象徴化できない余剰を作る。男性が設計した欲望の規則のなかで男性を打ち負かし、その幻想を覆すのだ。ここに私たちは、ドゥルーズ的なマゾヒズムの主体を見る。欲望の力が、父の法の規則を逃れ出るのである。

ヤンデレ属性は、「少女」サブカルチャーの文脈に根ざした特殊な産物だ。日本文化史の振り返りで強調した「女性の身体の不調和」が、彼女たちを大きな言説から遠ざけ、身体に根ざした経験へと集中させる。彼女たちは、ある言説の支配に従属する者(subject)としての主体(subject)になることを拒み、制御から絶えず逃れる欲望の対象(object)と、自分を一体にする。『偽物語』で阿良々木姉妹が阿良々木暦に示す態度は、この文化的背景をほのめかしているように見える。姉妹の宣言にこの議論を重ねるなら、目指すのは正義の味方ではなく、正義そのものになることだ。ここで正義をファルス、その味方をファルスの主人と読めば、その違いが見えてくる。斎藤環が、日本の戦闘少女の力と、アメリカのワンダーウーマンの力を区別するのも不思議ではない5。後者は、ラカンの性別化の式でいう男性の論理の産物に対応し、ファルスを手に入れることで男性に勝つ。前者に対応するのは、精神分析でいう「真の女性」、すなわち欲望の原因となる対象aそのものになることであり、そこには現実界の恐ろしい顔が含まれている。

『偽物語』の阿良々木月火。花柄の着物を着て、バナナ形のソファで両腕を広げている
『偽物語』の阿良々木月火。

しかし、ヤンデレには「転覆性」があるという錯覚は、まさに、直接示された幻想性の背後に潜む余剰を、観客の無意識が再処理することを見落としている。ときには、完全な自己暴露や自己の透明性が、かえって主体をいっそう謎めいたものにし6、観念のうえでその謎を征服する可能性を開いてしまう。「デレ」の背後に隠された女性の秘密は、幻想を突き破りながら、その幻想を埋め直すことも支え、カントのいう崇高の錯覚を形作る。したがって女性は、なお幻想を支える崇高な対象(Sublime Object)であり続ける。

さらに手が加わるのは、ヤンデレ女性が、観客の同一化するキャラクターに恐ろしい所有欲を示し、観客を、マゾヒズムか、同一化から離れるかの選択に追い込むことだ。アニメは病的で誇張された手法によって、ファム・ファタールの冷淡さと計算高さを見せる。すると私たちは、この「他者」の「本当の姿」を把握できたかのように思う。「病み」こそが「デレ」の背後にある、理解不能な女性の秘密であり、男性への無条件の愛の背後にある欠如の可視化なのだ、と。そしてその理解は、「病み」と「デレ」を結びつける構造的な要素、すなわち萌えポイントへ還元される。直接には示されない「病」が「デレ」の本質の説明となり、女性の身体への幻想の横断にはならないのである。

ここで再び、ヤンデレと、ジジェクの論じる「新しいファム・ファタール」の違いが見える。ヤンデレは、新しいファム・ファタールに、男性の幻想についての注釈を付け加えたもののようだ。ヤンデレを受け入れた結果は、画面に映る狂気と同じく、見る者を震え上がらせるものにすぎない。同時に、固定した異常な人格構造としてのヤンデレにも、ジジェクが新しいファム・ファタールに向けた評言が当てはまる。「自分が何をしているかをはっきり自覚する、悪魔的な意志を持った主体」であり、「彼女の振る舞いは、真に倫理的な行為とは何かという説明には、完全には合致しない」のである7。そして倒錯した自己への同一化が、ますます肥大していく。

ただし、同時に次のことも見る必要があるかもしれない。ヤンデレ属性は、病みをデレの説明とすることで、全体としてオタクの萌え属性の構築に奉仕するが、病を直接見せることは、なお欲動の対象の恐怖をもたらす。ただその恐怖は、アニメの「超幻想性」によって弱められてしまう。この提示を、幻想による現実の補足に陥らせないにはどうすればよいか。それが鍵になる。安定した人格として存在し、異性に向けた目的意識を持ち、最後には「日常的な行動」になるヤンデレ属性とは違い、黒化はしばしば、一時的な制御不能と、意識が極度に散漫になった状態を意味する。異性愛の加虐と受虐の関係に限られず、もっと広い価値や信念の崩壊に関わる。それゆえ、ヤンデレとは少し違う姿を見せるのである。

(3)黒化

中国語の「黒化(黑化)」という語が最初に見られたのは、著名なテキストアドベンチャーゲーム『Fate/stay night』のHFルートをめぐる用法である。聖杯の泥に汚染された後、セイバーの性情が激変することを表していた。その後、黒化は一般に、「善人」が強烈な精神的刺激を受け、狂気と残酷さを帯びることを指すようになった。また、作品の筋書きが「癒やし」から「鬱」へと激変することにも用いられる。

黒化した女性と、ヤンデレが発現した女性には、ある程度の共通点がある。行動に目を向けると、この狂女たちはどちらも自分の邪悪な意志を隠さずに示し、精神の異常をはっきりと表す。しかし両属性を、人物の心理と社会の来歴を掘り起こすように見ていけば、違いもはっきりしている。たとえばヤンデレは、時間のなかで持続する性格を指す。すでに内面化され、日常生活のあらゆる面に働いている。「逸脱」によって邪悪な自己を示す人格障害である。一方、黒化が指すのはある瞬間の変化である。現実界のトラウマに反応して起こり、黒化後の状態も一時的だ。したがって、邪悪さに酔う過剰な自意識を持つヤンデレに比べ、黒化はより不安定で、ヒステリー的に見える。黒化の瞬間は、主体の内側で観念が衝突することの、直接的な身体化なのだ。

アニメ『Caligula -カリギュラ-』は、このヒステリーを演じてみせる。テクストに即していえば、物語の進歩性は、仮想世界メビウスに反抗する者たちではなく、それを作ったバーチャルアイドルμにこそ現れている。μは「父」である式島律から受けた、世界中の人を幸福にするという不可能な命令を内面化した。誰もがメビウスから逃れようとするのを見たとき、μが瞬間的に爆発させた力は、反逆者への怒りを吐き出すだけでなく、不完全な命令そのものにも向けられている。要するに、メビウスに真っ向から反旗を翻す者たちが現れたために、μはある行き詰まりを認識せざるをえなくなる。人々を心の底から幸福にするには、外からの強制力が必要だというのは、逆説なのである。第6話で初めてこの裂け目に出会ったμは、〈大他者〉に対し、アンティゴネーの訴えを繰り返さなくてはならなくなる。μが制御を失ってぶつけた感情は、メビウスから逃れたい反抗者に向けられたのでも、秩序を守るメビウスの体制派に向けられたのでもない。幸福の法則そのものに向けられている。

『Fate/stay night』のセイバー オルタ。三つの姿と剣が組み合わされ、「セイバー オルタ」の文字と作品ロゴが入っている

しかし避けられないのは、具体的に表現される「黒化」は、つねに一瞬で過ぎる局面だということである。ここでは「黒化」と「黒化の後に続く病理的状態」を、議論のうえで区別する必要がある。ヒステリー状態、あるいは注意が拡散した状態は、出来事を時系列に並べるような直線的な時間のなかで、一定期間続く状態としては捉えられない。黒化したキャラクターが暗黒面に同一化すると、テクストは転回し、その人物を悪役(villain)として描き直す。この現象は、文化産業の定型化によって、大衆文化商品の美的論理に合うようアニメのテンポを調整しなくてはならないことだけに関わるのではない。ポストモダン文化のもとで、視覚によって構築される欲望の機械の作動原理にも関わっている。画面に「ヒステリー」の姿が繰り返されても、もはや取り立てて見るべきものがなくなるのだ。

だから商業アニメでは、黒化の後に続く状態は、もはや物語から分離した、芸術家の偏執から来る自己の技法ではない。テクストのなかで解決を待つ「矛盾」として存在する。この矛盾は通常、二元論的な要素を含んでいる。善良なキャラクターが残酷な打撃によって悪へ転じるとき、しばしばその人物の内側には、一組の対立が前提とされている。言い換えれば、黒化したキャラクターにも黒化と対になる「白化」、つまり元の善良な側面は残っており、トラウマのために暗黒面に抑えられ、一時的に取って代わられているだけだとされる。

この特徴は、『Fate/stay night』のHFルートにまさしく表れている。桜の黒化は、彼女の残酷な経験が一挙に爆発したものだ。明らかなのは、黒桜は除去できる汚点であり、その元凶は、本質的に歪んだ聖杯に関わるということだ。ここに私たちは、近代初期の統治の論理の、現代における再演を見る。精神の崩壊は、もちろん説明不能な神秘ではない。しかしアニメでは、それがあまりにも手慣れた調子で、心理学、愛、正しい思い、温かな日常によって治療できる病理と決めつけられる。

HFルートは、少年のエディプス神話にほかならない。士郎はそこで、人々が奉じる聖杯――ファルス――の暗い本質が露呈させる逆説を、真に理解する。冬木市を救うには、「黒い聖杯」の門となった桜を殺さなくてはならない。物語の選択が示すのは、士郎が最終的に自分の欲望を受け入れ、幼い頃からの信念を否定したことだ。最初の願い――正義の味方になること――を犠牲にする代わりに、士郎は、その願いから切り離された余剰を得られるという約束を手にし、去勢されたファルスを引き受ける。桜の味方になるのである。聖杯の「門」である桜は、最初の理想から切り離された対象aの生きた姿ではないか。士郎が黒化した桜を直視できず、本当の桜を救い戻せると信じ抜くことは、対象aが暗示する、最初の願いを喪失した現実界と、そのトラウマの縫合を示しているのではないか。

まさにここに、黒化状態が明かす二元論の展開の論理が見える。ヤンデレが、新しいファム・ファタールの暗黒面を見せることで女性の謎を問うことを避けるように、黒化状態は、観念のなかに「黒化の外部」をあらかじめ置き、自分こそが女性の謎の表現だと正当化しようとする。結局、女性の欲望と苦痛は黒化を通じて解放され、示されたのだから、まだ別の欲望が隠れているとは考えにくい。テクストが黒化をどう解決するかも明白だ。黒化した少女が救われるか、黒化して絶望的な悪役となった少女が倒されるかである。前者は桜、後者はさやかがその例だ。

黒化とヤンデレの決定的な違いは、女性像を分析の中心に据えたとき、黒化属性には、線形の時間を超え、日常をねじ曲げる爆発の可能性があることに現れる。黒化の瞬間には、与えられた〈大他者〉の言説への激しい不満と、苛烈な要求が伴う。一方ヤンデレは、同一化するにせよしないにせよ、その言説と命令を受け入れるのである。

結論:「狂女」幻想を横断する

「狂女」という概念は、女性像を分析するための、興味深く力強い視点を与える。また、男性に同化するフェミニズムの立場が覆い隠してきた問題をも問い直させる。女性は男性と同じように、書くことで権力を握ることはできても、男性の言説からは逃れられない。しかし、日本の少女文化の文脈には、女性の身体とまなざしの関係をめぐる緊張がある。それゆえ、狂女の身体像を深く考察することには、重要な理論的価値がある。

本稿は、アニメの演出における狂女の身体の変化を論じ、とりわけ際立ったハイライトのない目と不気味な笑いを、それぞれ詳しく分析し、その限界も指摘した。視覚文化批判は、アニメというメディアの「超幻想性」の問題を提起する。要するに、映画性では観客は、あらかじめ定められたカメラの誘導からつねに注意をそらし、自ら幻想を補っていく。それに対してアニメ性では、レイヤーの美学とキャラクターの平面的な美学によって、観客は注意を動員し、アニメが直接見せる幻想に参加する。その注意の調節は、あらかじめ与えられた幻想の場面の内部で行われる。狂女の恐ろしい笑いにも、美的なフィルターがかかる。そしてまさにこの水準で、ジジェクの「現実の不完結性をめぐる存在論」は、女性への幻想についての二つの見方を批判する。

第一に、「超幻想性」を「現実」の絶望的な対極とみなし、ボードリヤール的な記号論の袋小路に陥ってはならない。この不安に満ちた考え方では、アニメの女性像がどれほど奇矯な行動や感情を表しても、脱中心化された男性の美的秩序に操られているとみなされる。それはもはや、中心から一方的に課される家父長制の命令ではなく、欲望の記号の自己複製と、権力の末端の拡散にすぎないからである。女性のモノ化を批判する立場は、目の前の家父長制という敵に向き合わなくてはならないだけでなく、オタクの消費文化のポストモダンな文脈のなかで、自らの解体にも直面する。

しかし、媒介としての幻想を別の角度から考えるなら、超幻想的なサイバースペース、すなわち二次元は、それが支える現実の一貫性を裏切る。「現実の不完結性をめぐる存在論」は、私たちが現実の象徴化の完成する日を見ることは、決してないと指摘する8。狂女の幻想性は、まさにそのことを暴く。歪んだ性格についての超幻想は、非現実的な幻想の可能性を極限まで展開し尽くすことで、現実を支える幻想としての張力を失う。それは、主体が思いもよらない可能性を無限に広げ、示すからこそである。「私たちを支える幻想を演じてみせる(act out)ことを可能にする。ついには、私たちが決して主体化できない、根本的な『サディスティックな』幻想に至るまで」9。まさにこのように尽くしていくなかで、私たちは「象徴化できない」という事実の硬い核に出会う。

第二に、「超幻想性」を純粋な好機とみなし、映画を超える幻想性に没頭することが、政治的な進歩だと考えてもならない。斎藤環は、ファリック・ガールと、それに没頭するオタクの集団を肯定的に評価した。斎藤にとって最も革命的なオタクは、極端に非現実的な二次元少女に性的な欲望を抱く集団から生まれる。美少女への性的な欲望を幻想のなかで満たそうとするうちに、かつてない創造力を刺激され、自律した幻想の創造へと身を投じるからである。しかし、まさにここで、オタクの社会的地位に対する曖昧な態度が、幻想と現実の関係を扱いきれないことを露呈させる10。二次元の人物を通じて享楽しようとするオタクは、いわゆる深層の幻想の情熱に遭遇するのではなく、斎藤が慎重に期待するように、平凡な生活へ溶け込んでいる。これも、1996年以降の、宮台真司のいう「自己の時代」後期に独特の症状である。前エディプス的な「去勢されていない想像」に頼ることは、幻想を横断しないばかりか、硬直し虚無的だとされる現実の条件を捨て去ることで、幻想を横断するという幻想を作ってしまう。

『はねバド!』の羽咲綾乃。緑の瞳を見開き、ラケットを手にコート上で振り向いている

したがって私たちは、アニメの狂女像の二つの面に向き合う。一方では、黒化とヤンデレは定型的な属性である以上、必然的に表象の様式化をもたらし、それは具体的な行動規範や、感情を予測する体系にまで細分化される。ファム・ファタールは最終的には、男性の征服欲を演じるものとなる。しかし他方で、幻想を絶えず演じていくと、決して主体化できない、根本的な「サディスティックな」幻想が姿を現す。

ジジェクはペーター・ホゥの小説 The Woman and the Ape(題意は「女と猿」)を手がかりに、議論を呼ぶ仕方でこの核を説明した。どちらも男性の征服欲を描くものだが、男性主人公の側に置かれる究極の幻想は、自分で属性を設定した女サイボーグと関係を持つことだ。一方、女性主人公の幻想は、永遠に自分だけを愛する、強健な「雄の猿」を得ることにある。この議論を本稿の文脈で捉えれば、私たちは、「女サイボーグ」と「雄の猿」という二つの幻想の性的関係を、まさに想像できない。ここに幻想の亀裂が露呈する――性関係は存在しないのだ。

アニメ『はねバド!』にも、これに似た影が見える。第一のヒロインである綾乃の黒化は、「女性化された」ものだ。他者の承認を得るためであり、強い愛着を表すためである。しかし黒化は、不可避的に男性化されたサディズムの行動を借りる。そのため全体として、変身する戦闘美少女による、俺TUEEE的な万能主人公の幻想――中国語でいう「龍傲天」の幻想――が現れる。対して、性別を際立たせない装いの第二のヒロイン、なぎさは、本来、男性性の幻想、すなわちスポーツをめぐる幻想に最も近い人物だった。

『はねバド!』の「破綻」は、〈大他者〉の欲望を求める綾乃が担う龍傲天型の幻想と、スポーツをめぐる幻想の、誤った交配にある。観客がすでに万能主人公に自己を重ねる「龍傲天精神」の加虐的な側面に同一化したとき、テクストの背後に隠され、抑圧されていた「スポーツ精神」が、突然「受け」から「攻め」へ転じる。この提示は、脚本の論理性を壊すだけではない。観客が築いた根本的な幻想をも引き裂く。

惜しいことに、アニメはなぎさが示すスポーツの幻想を、物語の周縁から、観客が自己を投影し同一化する中心へと引き上げ、龍傲天型の幻想と対等にすることができなかった。そのため、物語が「黒化」した後、観客は崩れた龍傲天型の幻想から、比較的負担なく離れ、自己を守ることができてしまった。

残念ながら、男性向けのテクストだけを用い、男性のヘゲモニーの解体だけに焦点を当てた本稿では、まなざす「女性」の位置を論じ損ねている。観客の幻想のジェンダー差を、過度に一般化し、さらには完全に消してしまう。コンスタンス・ペンリー(Constance Penley)の警告は示唆に富む。狂気の女性像の反抗性と限界にだけ注目し、クリステヴァのような「もう一つの女性性の理論」に向かうことは、社会的にジェンダー化された性欲と、女性の身体との同一化を、本質化するだけなのだ11。

私たちはさらに問わずにはいられない。抑圧的な男性の言説に向き合うとき、女性主体がテクストとの交渉に参加する、別の可能性はないのか。狂女像は、ジェンダーの異なる人々に、どのように異なる文化的作用をもたらすのか。アニメのイメージのヒステリーを考えることで、フェミニズム批評のどのような新しい転機を見いだせるだろうか。

【完】

本文終わり
注16

注釈

  1. 注12に同じ、95–99頁。 ↑

  2. Zizek, Slavoj. The Art of the Ridiculous Sublime: On David Lynch’s Lost Highway.(Seattle: University of Washington, 2000), p.46。また、鱼板による中国語訳稿「荒谬之崇高的艺术:论大卫林奇的《妖夜慌踪》」[DB/OL]、zhuanlan.zhihu.com(訳文Ⅰ)、zhuanlan.zhihu.com(訳文Ⅳ)も参照した。 ↑

  3. Saitō, Tamaki. Beautiful Fighting Girl. Translated by J. Keith Vincent and Dawn Lawson(Minneapolis: University of Minnesota Press, 2011), pp.163–164。斎藤環は、ファルスとしての戦闘美少女にヒステリー的な性質が含まれると考える。「ヒステリー者の存在の証拠が症状の形で書かれるように、ファリック・ガールの存在も、戦うという症状のなかに刻まれている」(p.164)。つまり斎藤は、美少女が戦う幻想の場面は、美少女が症状の一貫性に囚われていることを直接映すものだと考える。男性オタクは、この幻想によって自らの存在の一貫性を補うことができる。ラマールは、「実際、彼女〔戦闘美少女〕のヒステリーは、男性オタクに存在の一貫性を与える、その虚構のなかで救済される」と補足する(The Anime Machine, p.253)。 ↑

  4. 「病娇」(2019年8月27日)『萌娘百科――万物皆可萌的百科全书』、2019年10月15日閲覧、zh.moegirl.org。 ↑

  5. 注3に同じ、p.159。「ファリック・マザーは、文字どおりにはファルスを持つ母を意味し、ときには権威を示す女性を表すために用いられる。西洋のメディアに現れる強靱な戦う女性は、いずれもファリック・マザーと呼ぶことができる」。戦う女性にはセクシュアリティの表現が欠けている(p.127)。一方、戦闘美少女はしばしば性的な対象となる。 ↑

  6. 注2に同じ、pp.15–16。 ↑

  7. 注2に同じ、p.16。 ↑

  8. 注13に同じ、58頁。 ↑

  9. 注2に同じ。〔訳注:本文の「サディスティックな」は中国語稿の「虐待狂」に対応する。英語原文では sadomasochistic(加虐的・受虐的)とある。〕「私たちは幻想の奴隷となり、それゆえ脱主体化された盲目的な操り人形となるのではない。むしろ幻想を戯れとして扱い、それによって幻想との最小限の距離を保てるようになるのだ」。 ↑

  10. 注14に同じ、pp.255–256。ラマールによれば、斎藤環は「創造力」と「幻想」を、絶えず増大する情報技術の権力への抵抗として提示する。しかし、その曖昧な精神分析の方法は、男性オタクが社会の伝統的な異性愛秩序に適合していることをも強調する。そのため不可避的に、幻想の革命的な創造力を信奉し、ユング主義の道へ向かう。 ↑

  11. 注15に同じ、153頁。 ↑

  12. マイク・フェザーストーン『消费文化与后现代主义』、刘精明訳、南京:译林出版社、2000年、103–105頁を参照。ポストモダン社会では、距離を取る美的経験から没入する美的経験への転換が起こった。しかし、近代の距離化された、没入しない美意識には長い歴史がある。19世紀の古典的な文学作品には性差別的な色彩が濃く、男性が女性像を距離を置いて美的に捉えることは、その典型である。 ↑

  13. 注16に同じ、100頁。 ↑

  14. Lamarre, Thomas. The Anime Machine.(Minneapolis: University of Minnesota Press, 2009), p.8を参照。アニメ性がもたらす表面の経験は、ポストモダンの消費文化の論理に非常によく似ている。それは一種の「安っぽさ」をもたらし、映画で感じる、景観の世界に入っていく感覚を壊す。 ↑

  15. スー・ソーネム『激情的疏离:女性主义电影理论导论』、艾晓明、宋素凤、冯芃芃訳、桂林:广西师范大学出版社、2007年、160頁を参照。アブジェクシオンの三つの形態は、ソーネムによる整理である。 ↑

  16. 刘昕亭「齐泽克的凝视理论与电影凝视的重构」『文艺研究』2018年2号、99頁を参照。刘は、ボードリーやファルジエに代表される装置論の見方を概説している。カメラは記録機器の集まりであるだけでなく、現実を丸ごと複製する手段でもある。ショットは周到に並べられ、虚構効果のネットワークを構築する。そのなかで見る主体は、テクストの無意識を受動的に受け入れる。 ↑

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