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ジェンダーの視点から読む『素晴らしき日々』02

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ジェンダーの視点から読む『素晴らしき日々』(中)――ジェンダーの行為遂行と権力

精神分析、クィア理論、ジェンダー社会学を手がかりに、钟子默が『素晴らしき日々』の登場人物、欲望と権力の関係を読み解く三部作。

著者: 钟子默中国語版校閲: 伦勃朗翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

ジェンダーの視点から読む『素晴らしき日々』(中)――ジェンダーの行為遂行と権力

まず、前回示した議論の道筋を振り返ろう。女性における無意識の主体→欲望の主体(ジェンダーの行為遂行性)→社会のなかの個人、という流れだ。前回は主に精神分析とポスト構造主義フェミニズムの視点から、『素晴らしき日々』の鍵を握る高島ざくろに焦点を当て、彼女の無意識の主体と欲望の主体を分析した。つまり、この流れの前半である。もちろん、最後にはまだ説明していない問題も残った。主体性という概念の説明が曖昧なこと、女性以外のジェンダーを避けていること、現実の実践の問題を見過ごしていることなどだ。これらには、他の登場人物の分析を通して答えてみたい。

はじめに

前回の最後には、ざくろの欲望を簡単な精神分析によって読み解き、女性の性的指向の流動性を説明した。ここでいう流動性には二つの側面がある。一つは、自分を何者と捉えるかという自己同一性において、ジェンダーの拠り所が揺れ動くこと。もう一つは、誰を欲望するかという対象の選び方において、その拠り所が揺れ動くことだ。しかし、この分析の道筋と結果は、女性を女性たらしめる構成要素を崩してしまう。女性のジェンダー・アイデンティティそのものが流動的だというなら、「女性」という概念の正当性はどこから来るのだろう。ポスト・ラカン派のフェミニストたちは、ジェンダーの流動性へ目を向け、第二波フェミニズムに残された「性差別主義」を解消しようとし始めた。なかでも際立つのが、ジュディス・バトラーを筆頭とするクィア理論家である。

他方、性とジェンダーをめぐる議論も、「主体化」から「脱主体化」へ、そしていまでは「脱主体化」と「再主体化」が併存する状態へと変わってきた。性とジェンダーの政治的な実践を、多元的で経験に即した視点から捉えることは、もはや避けられない。したがって精神分析以上に大事なのは、個人の経験に基づいて、登場人物が主体としての行為能力と実践的な政治をどう実現するかを考えることだ。とくに、抑圧のなかにいる個人は、その環境にどう適応し、どう抗うのか。ここではラディカルな視点とリベラルな視点から、これを捉え直すための切り口を示したい。

一、ジェンダーの行為遂行性と「ふたなり」の生成

カメラを追って、ゲームの第2章へ進もう。この章では、本作の主要な主人公、間宮卓司の視点を通して、事件の全体像を知ることになる。卓司は、プレイヤーが直感的に男性主人公と受け取る人物であり、学校での集団自殺事件を引き起こした張本人でもある。偏執狂、自己陶酔者、暴走する狂人、邪悪な教主――彼にはいくつものラベルがつく。だが、ゲームの初めに見えるのは、その気弱な一面だけだ。身体は華奢で、行動することを恐れ、敏感で疑り深い。博識ではあるものの、二次元の想像世界に深くはまり、抜け出せずにいる。隣のクラスの高島ざくろに片思いし、学校の不良や、もう一人の主人公である皆守に虐待され、いじめられている。父を早くに亡くしたため、幼いころから母性的な他者に依存してきた。母は厳しく彼をしつけるだけでなく、その欲望のすべてを、暗く神秘的な「白蓮華教」へ向けさせた。これが、のちに卓司の「救世主人格」が生まれる伏線となる。

間宮卓司の立ち姿

第2章は非常に長く、ジェンダーに関わるほとんどあらゆる問題に触れている。まずは卓司の欲望の移り変わりに目を向け、この人物と、彼の性的倒錯が描かれる場面に注目したい。印象深い場面は三つある。一つ目は、女装して男性に性的に奉仕することを強いられる場面。二つ目は、「空想したふたなり」であるリルルとの性行為。三つ目は、空想のなかで音無彩名と関係を持つ場面だ。一つ目には、ジェンダーの相互作用に潜む権力と暴力が関わるので、後で詳しく述べる。三つ目は、卓司のナルシシズム的幻想と、彩名の複雑な位置づけ――超越者の化身――に関わるため、ジェンダーの議論の中心ではない。また、卓司と彩名の性的関係は、リルルとの関係からもうかがえる。そこで最初は、卓司とリルルの身体的な関係を重点的に論じよう。

物語の始まりから、一人称による内面の描写が、卓司の偏執的な性格を余すところなくあらわにする。彼は極度に自己中心的で、他人の一挙手一投足を極端に受け取る。天真爛漫なざくろが目の前に現れると、欲望はすぐに呼び覚まされ、一連の欲望の幻想を作り出す。とくに彼は、ざくろが処女であることに執着する。この時点の彼は、男尊女卑の考えを色濃く持った、典型的な異性愛者である。

卓司から見た高島ざくろ。中国語版の地の文には、彼の沈黙を気遣うざくろと、秘密基地での卓司の思考が記されている
中国語字幕の要旨:卓司は、自分を気遣うざくろを気弱な相手と見なし、ここは自分の秘密基地で、すべて順調に進んでいると考える。

画像内の中国語の意味:高島は、突然黙り込んだ自分を心配しているらしく、少しおびえて体を縮め、美しい目でこちらを見つめている。消極的で気の弱い性格なのだろう。自分が危険な状況にあるのに、なお不安げにこちらの顔色をうかがっている。このままなら、うまくいくかもしれない。ここは自分の秘密基地で、今のところすべて順調だ。順調すぎるほどに。だから……と、卓司は考える。

だが、ざくろが自殺すると、その現場を目撃した卓司には一連の変化が起きる。もともと繊細でもろかった彼の理性は、死の現場の第一目撃者となったことで、決壊寸前に追い込まれる。同時に、死んだざくろが自分の欲望の対象である由岐を求めて「卓司」という器へ入り込み、その内部の人格の均衡をさらに崩す。卓司は狂気に陥り、際限のない被害妄想と宗教的な思念へ沈んでいく。やがて、原作者の化身である音無彩名に導かれた卓司は、神の啓示を受け入れて預言者となり、「救世主」の復讐の道を歩み始める。

空から落ちてきた高島ざくろを目撃し、混乱する卓司を描いた中国語版の文章表示
中国語字幕の要旨:卓司は、さっきまで話していたざくろが空から落ち、血まみれになったことを理解できず、その場から逃げ出す。

画像内の中国語の意味:少し後ずさりし、そのまま、そこから逃げるように走り出す。何が起きたのか、まったく理解できない。さっきまで話していた高島が、突然空から降ってきて地面に落ち、顔もわからないほどになり、全身が血まみれになった。周囲に人垣ができる。自分は走り続け、息が苦しい。

ここで、卓司の「二次元の嫁」であるリルルが、ざくろに代わる新たな対象として、ひとまず彼の欲望を受け止める。リルルとはどんな姿なのか。卓司の目には、彼女は魔法少女として映っている。特徴的なポニーテールに、ふわりとした白いワンピース。派手な模様の魔法の杖を持ち、表情豊かで、何かにつけて愛と正義を口にする。物語のなかで――つまり卓司の妄想のなかで――、リルルは二次元から三次元へやって来て、彼の宗教的な世界観を完成させる手助けをし、物語を一歩ずつ、より深い淵へと押し進める。

魔法の杖を持つリルル。中国語版の台詞では、身体がどこから来たのかが語られている
中国語字幕の要旨:リルルは、自分の身体はおそらくあの絵から来たのだと話す。

画像内の中国語の意味:リルルは、自分の身体は、おそらくあの絵から来たのだと話す。

面白いのはここだ。リルルが卓司と関係を持とうとして裾を持ち上げると、眼前にはファルスがある。彼女は、自分はふたなりだと打ち明ける。ところが、救世主となった卓司はこの設定を喜んで受け入れ、彼女と交わる。伝統的なジェンダー観から、狂気に陥る前後で卓司の性的指向は変わらず、異性愛者のままだと考えるなら、もっともよい説明はこうなる。卓司は、リルルのファルスと彼女の性別とのつながりを完全に断ち、彼女が示す女性の記号に注意を向けたのだ、と。だが、この考え方は、卓司の愛欲の逆説をさらに浮かび上がらせる。こうした異性愛の男性が、リルルを前にファルスを無視するなら、それは、解剖学的なペニス自体にはジェンダー・アイデンティティを定める働きがないことを意味する。それは愛欲を引き起こす他の記号と同列であるか、他の愛欲の記号に置き換えられているのだ。女性の記号と男性の記号がともに作る「ふたなり」というゲシュタルト構造だけが、最後に卓司の欲望を引き起こす。この場面は、フロイトのテクストの断裂を劇的にあらわにする。バトラーはこう述べている。「優越性と生殖性のシニフィアンとしてのファルスは、それ自体、一連の欲情を喚起する身体部位の例から生まれたものである……ファルスはいかなる身体部位にも属さず、本質的に移し替えが可能なのだ」1。

夜の屋上の少女と、中国語で表示された身体的接触についての会話
中国語字幕の要旨:身体の接触によって限界を超えることが語られ、ためらう相手に安心するよう促している。会話の一部は伏せられている。

画像内の中国語の意味:身体の接触によって限界を超える、という言葉に、相手はうなずく。しかし自分は、とためらい、どうしたのかと問われる。続けて、伏せられた事情があるのでうまくいかないかもしれないと話す。もう一方は、安心するよう促し、自分も同じだと答える。該当する語は原図ですでに伏せられている。

リルルは、卓司の欲望の全体性を体現しているといえる。彼のリルルへの愛欲は、共通の経験と、共通の形而上学的な目的に基づくものだ。そこには、性的指向という説明がどこまで当てになるのかも、ひそかに露呈している。卓司を興奮させるのは、リルルの女性の姿ではなく、リルルという「存在」なのだ。現実の生活でも、こうしたことは珍しくない。そして、このような奇妙な性癖に目を向け、そのねじれの根を探ろうとすれば、性別の二元的な分類を問い直さずにはいられない。

恥じらうリルルに、卓司がかわいいと答える中国語版の会話
中国語字幕の要旨:リルルは、女の子なのにこうした器官があることを恥ずかしがる。卓司は隠さなくてよい、かわいいと答える。

画像内の中国語の意味:リルルがひどく恥ずかしがると、相手は隠さなくてよいと言う。女の子の身体にこうしたものがあるのはやはり恥ずかしい、とリルルが言い、相手はそんなことはなく、リルルはかわいいと答える。

ジュディス・バトラーなら、おそらくこうしたテクストに目を留めるだろう。卓司とリルルに限らず、多くの男の娘の物語にも、異性愛のトラブルが表れている。前回は女性としてのざくろの性的指向の流動性を取り上げたが、最後には疑問を残した。ここでいう「女性」とは何か。なぜ女性だけが流動的で、男性はそうではないのか。この問いは、イリガライやシクスーら、精神分析的フェミニズムに残る本質主義をあぶり出す。アン・ロザリンド・ジョーンズが指摘するように、シクスーらのフェミニストは、女性の身体の純粋さ(purity)と統一性を信頼しすぎ、女性と社会との相互作用や、女性たちのあいだのアイデンティティの違いを見落としている。また、ジェンダーが生み出される過程から歴史性を取り去ってしまう2。ふたなりの存在は、女性の身体が確かな根拠であることを揺るがすだけでなく、ジェンダーの二元的構築の欠陥をさらけ出す。ボーヴォワール以来築かれてきた、生物学的な性であるセックスと、社会的な性であるジェンダーの二元的な枠組みは、こうして挑戦を受ける。

現実に存在し、徹底して周縁に追いやられたインターセックスの人々――本当の「ふたなり」――を考察することで、バトラーはさらに、アイデンティティを指し示し、それによって「言説以前」の本質を呼び出すようなセックスなど存在しないと指摘する。あらゆるセックスは、言説が遡及的に生み出すものだ。社会的構築に一切触れられていない真正なものは想定できず、したがってジェンダーとセックスの対立も虚妄である。さらに、ジェンダーとセックスの絶対的な分離には進歩的な意味があるとしても、その分離はジェンダー研究に、生物学という不可侵の領域を残し、議論のすべてをジェンダーのなかへ限定してしまう。意味が増殖し続ければ、ジェンダーは最終的に自己解体する。確かな意味を探す人々は、結局またセックスを説明の枠組みにするだろう。自己解体を防ぐには、ジェンダーはセックスのなかに区分の根拠を求めねばならない。そのため、解剖学的な身体と結びついていようといまいと、ジェンダーはつねに、ひとまとまりの集団としての女と男を区分する。結果として、ジェンダーは男女の二項対立を繰り返し強化し、クィアな人々を言説の権力から締め出してしまうのだ3。

したがって、セックスとジェンダーの区分をなくすことは、知の考古学であるだけでなく、脱構築の戦略でもある。そこからバトラーは、精神分析への体系的な批判を展開する。ラカンの無意識の主体の議論を受け入れつつも、少なくとも二つの点で、それを批判し、止揚する。

第一に、ラカンの思想にあるファルス中心主義への批判だ。ラカンの理論を知の考古学の方法でたどると、その起点である鏡像段階が、まず男性のまなざしに陥っていることがわかる。さらにファルスの機能を論じる際には、異性愛のマトリクスを反省することなく、性をめぐるタブーの検討へ持ち込んでいる。フロイトより一歩進んでファルスとペニスの違いを強調してはいても、欲望を「持つ(have)」と「なる(be)」という異性愛の型に規定し、ファルスの役割を強調しすぎる。さらにいえば、性化の式に代表される精神分析の言説は、すでにジョン・オースティンのいう遂行的言語(performative language)となっており、主体に呼びかけることで、異性愛の観念を強めている4。

第二に、ラカンの思想は無意識の主体にこだわる。だが、性/ジェンダーの問題は抽象的、形而上学的な問題ではなく――精神分析が重要であるにせよ――、具体的なアイデンティティの実践の問題だ。人間の無意識の主体よりも、主体のジェンダーの行為遂行性に焦点を当てるべきなのである。

ジュディス・バトラーの肖像写真

では、バトラー自身の議論を三つの点から見てみよう。第一に、「純粋な自然」が現れうるのは、言語が触れていない現実界だけであり、ゆえにセックスとジェンダーを分けることには意味がないと考える。第二に、ブルデューとオースティンの思想を受け入れて、権威の背後にある言語の象徴的なシステムを掘り起こす。「話す者が言葉を語る――私が言葉を語る」を、「言葉が話す者を語る――言葉が私を語る」へと置き換え、その後デリダの批判を取り入れて、「言葉と話す者が互いを語る」へ改め、社会学的な転回を始めた。

第三に、そしてもっとも重要なのは、知と言説の権力が主体を形づくるというフーコーの認識を受け入れ、人の身体は言説が繰り返し引用されるなかで生成すると考えたことだ。したがって、いわゆる「ジェンダー」は、この生成のなかで表現される、純粋な「行為遂行(performative)」なのである。「演技」ではなく「行為遂行」と呼ぶのは、「演技」の背後に「演者」が存在しないからだ。演技は演者に先立って存在し、演者のほうが演技によって形づくられる。主体は生み出されるものであり、その背後に本質はない。本質は、遂行的な「身体」という表面に生じる。ならば、いわゆるペニスも、行為遂行のための道具にすぎない。それを選ぶかどうかは、身体がどのような姿勢を必要とし、どのような行動を取るかによるだけだ。主体を本当に制限するのは、外にある象徴秩序――〈父の法〉――である。

好きなキャラクターが自分と同じものを持つことを肯定する、卓司の中国語版の台詞
中国語字幕の要旨:卓司は、好きなキャラクターが自分と同じ器官を持っているのは、むしろ望むところだと答える。

画像内の中国語の意味:だめだ、という言葉に対し、そんなことはない、好きなキャラクターが自分と同じものを持つのは、むしろ望むところだ、と答えている。

卓司がリルルや音無彩名に抱く性欲は、一面では〈父の法〉の拒認を示している。卓司が狂気に陥ると、心のなかにあった道徳や倫理は完全に崩れ、それに代わって、重度のオタクであり救世主である欲望の主体が現れる。彼は愛欲の対象を男性とも女性とも見なさず、ただ対象として捉える。伝統的な道徳や倫理で重視される基準としての「ジェンダー」は解体し、「性」が「ジェンダー」に代わって主人の座に就く。このとき、規範を繰り返しなぞる「引用」に失敗した周縁の人々――卓司とその信徒たち――は、もっとも周縁的なこの場所で、ようやく自分を解放する。ある意味では、これはまさにフロイトの文明哲学が示した一つの出口だ。それが、一つの物語テクストのなかで、理想的な孤立した場所において、やや残念な形で実現したのである。

ただ、残念なのは、卓司が異性愛の視点を転換しきれず、男女の生理的特徴が混じるふたなりの構造を、一つの全体として欲望の対象にできていないことだ。彼は依然として、まなざしを向け、所有する側にいる。性的倒錯は欲望の初歩的な逸脱を果たしただけであり、去勢された男性としての自己の想像は、なお異性愛的である。前回述べたとおり、間宮卓司は救世主の身分を拠り所に、再び〈父の法〉へ帰順した。その侵犯が最終的に目指すのは、「庶民」ではなく「超人」――原父――なのだ。

河原で話す兄弟、目を見開く兄、涙を流す兄の三コマ。弟は兄の思いを聞いたうえで、やはりかっこいいと伝える
漫画『凛とチア。』。チアリーディング部に入りたい主人公と、女性になりたいという兄。兄についての「性転換症」という呼び方は、本稿筆者によるもの。

全体として見れば、バトラーのラカン批判は、もちろん十分なものではない。たとえば、ラカン理論におけるファルスとペニスの、つかず離れずの関係を誤解していること、ファルスへの批判にフェミニズムの立場が先行していることなどだ。したがって、バトラーを理解する鍵は、ラカンを経由する道より、フーコーを経由する道にあるのかもしれない。とくに、理論の後期における社会学的転回が重要になる。精神分析にこだわるより、彼女が関心を向けるのは、「人はどう自分の性を実践するか」、すなわち主体がジェンダーの行為遂行を実践する自由だ。これは、性的マイノリティが自分の生の哲学をどう見いだし、主流社会とどう闘い、その言説の権力のなかにどう根を下ろすか、という問題につながる。クィア理論の見解を受け入れるかどうかにかかわらず、性的マイノリティが承認を得るには、個人のアイデンティティに基づいて公共の場に参加し、権利を守らなければならない。

二、ジェンダーの権力

(一)「男性のホモソーシャルな欲望」とヘゲモニー

精神分析は、哲学の水準で性欲望と性的主体性を説明する道を示してくれる。だが、さらに重要な問題を見過ごすわけにはいかない。象徴秩序に触れられた現実のなかで、主体はいかに生き、行動するのか。この問いにより強い関心を寄せるのは、社会学的な傾向を持つ研究者たちだ。フランスの社会学者ミシェル・ヴィヴィオルカは、ラカンの思想をこう評する。「……意識と、それに伴う個人の責任は主体性の外へ排除され、結局、内面化された外からの要求、あるいはあらかじめ存在する要求のほうが有利になる」5。言い換えれば、ラカン派は、主体が外へ能動的に働きかけることを重視しない。あるいは主体を、社会学的な意味での行為者と捉えようとせず、汚染された無意識へと帰してしまう。ここに、精神分析と主体の社会学との、パラダイムの衝突がある。

社会的行為を考えるには、ラカン派の明らかにした内的事実から議論を延ばし、ラカン派が「他者」と見なす部分も含めて、経験を通して理解できる一つの全体として捉えなければならない。したがって、登場人物の無意識の欲望の謎にこだわる必要はない。むしろ、その人物が何を信じ、そのためにどのような行動を取るのかに注目すべきだ。第2章の性の権力をめぐる場面と、第3章の百合ルートは、個人の行為を理解するための「掛け合い」をなしている。

ゲーム全体でもっとも狂気に満ちたこの章では、主人公の間宮卓司の視点から、学校で起きた集団事件の経緯をたどり直し、卓司の狂気と冷徹さを目にする。もちろん、彼の境遇には同情を覚えずにはいられない。幼いころから重苦しく抑圧的な家庭で暮らし、中学では女性的な性格のためにいじめられ、高校では不良三人組や皆守に、徹底して痛めつけられた。心身に大きな圧力を受け続けてきたのだ。最後に高島ざくろの死を目撃したことが、その圧力を爆発させる重要な引き金となった。この章では卓司の生い立ちはほとんど駆け足でしか触れられないが、それでも重要な情報は拾える。幼いころから形づくられた、劣等感の強い気弱な性格。他の生徒から男らしくないと笑われたこと。そして、いじめられて積み重なった怒りを女性の客体へ向け、恥ずべきスラット・シェイミングによって「男」としての尊厳を守ろうとすることだ。

間宮卓司と生徒たちを描いたセピア色のCG

いじめを描く多くのアニメ・漫画・ゲームのテクストには、ある直感的な筋道がある。いじめられた者は、しばしば自分の不満をさらに弱い者へぶつける。そして、初めは弱者とされた者が、何らかの劇的な衝突を経て強者を倒し、自ら強者になる。この動きを通俗的に説明するなら、心理学でいう「猫を蹴る」式の、弱い相手への八つ当たりの連鎖になる。だが、ジェンダーの視点から入ると、説明はまた違ってくる。同じく学校で暴力を受けながら、卓司とざくろの対処の仕方は大きく異なる。ざくろは現実の不快さに直面して、無意識に刻まれたスラット・シェイミングから妄想によって逃れようとするが、その中身はあてどなく自由奔放だ。対して卓司の妄想には、比較的はっきりした方向がある。不満と怒りを、想像のなかの女性の客体へぶつけるのである。

別の少女たちだったら、と仮定して女性を罵る卓司の、中国語版の文章表示
中国語字幕の要旨:卓司は、エロ漫画や空想の世界にしかないような道具を前に感激する一方、別の少女たちが持っていたら、性本能だけで生きる「尻軽」の「クズ」だと罵るだろう、と考える。

画像内の中国語の意味:やはり間違いない、と卓司は興奮する。清純な印象とはほど遠く、エロ漫画や空想の世界にしか出てこないような不思議な道具を前に、天を仰いで涙を流す。一方、それが赤坂や北見のような素行の悪い少女のポケットから出てきたのなら、あいつらは性本能だけで生きる「クズの痴女」「尻軽」だ、と罵るだろうと考える。

前半では、ざくろが自分に身体を捧げるところを空想しながら自慰にふける卓司の姿が、折に触れて描かれる。だが、根も葉もない話を拾い集め――実際には、これも自分の妄想なのだが――ざくろが処女ではないと知ると、ひどい屈辱と怒りを覚える。彼女を侮辱し、迫害する一連の場面を妄想し、秘密基地の壁には、処女でないなら死ねというような、おぞましい言葉を書き連ねる。狂気に陥るまで、卓司がプレイヤーに見せるのは、色情の空想に浸った二次元のダメオタクの姿だ。夢の空間に「閉じこもり」、公共の場への参加を拒む。大量生産された文化消費財を通じて、自分の想像と欲望の純粋さを作り上げる。女性一人ひとりを狭く理解し、極端な妄想を繰り広げ、あるときは天使や女神と見なし、あるときは「糞」にも劣るものへと貶める。

この段階の卓司は、ざくろが処女ではない可能性を恐れるだけではない。水上由岐が何気なくかけた気遣いの一言にも、性的な方向へ際限なく想像を膨らませ、彼女を、自分と関係を持とうとする卑猥な女と決めつける。骨の髄までこじらせた男尊女卑の思考が、むき出しになっている。そしてそれは、狂気に陥ったあとのふたなりへの欲望も、その本質はなおファルス中心的だと示唆している。

女子の制服を着て座る間宮卓司
この制服を着た卓司はかわいい。惜しむらくは、純愛とはあまりにもかけ離れた展開だということ。

だが、興味深いのは、それ以前に卓司が受けた傷である。同じ学校の男子から性的暴行を受けるのだ。この場面には、多くの異性愛の男性が戦慄するだろう。卓司は、いじめる男子たちに脅され、女子更衣室からざくろのスカートを盗まされる。そして女装を強いられ、彼らへの性的な奉仕をさせられる。加害者の西村は、卓司の女装によって、いっそう「興奮」する。ここの性行為の描写には、卓司とリルルの性行為の描写と似たところがある。たとえば、卓司が女装したことで、西村の性欲がさらに呼び覚まされる。卓司はこのとき、加害者の性的倒錯を誘発する対象となり、男の娘やふたなりがペニスを脱構築するのと同じ働きをしている。まさにこの場面で、バトラーのいうクィアの逸脱が生じる。卓司はこの性行為を描く虚構の場面で、周縁の他者、棄却される対象となるのだ。

しかし他方で、ここの性は、卓司とリルルのあいだの性とは大きく異なる。女装して西村に性的に奉仕する行為は、強要されたものだからだ。この虚構の場面では、行為遂行が強制されている。そのため、権力を脇に置いて、いわゆる逸脱を論じることは難しい。「加害者―卓司」と「卓司―リルル」の性的関係の違いは、前者が「拷問」であることに表れる。西村は権力を握り、いじめを行う。卓司は権力を奪われ、いじめに耐える。そもそも卓司がいじめられるのは、男性でありながら「女のような」性格を持つからだ。そのため彼は、「ボーイズ・クラブ」の周縁に置かれる。このクラブをつなぎとめる基盤こそ、セジウィックのいう「男性のホモソーシャルな欲望(male homosocial desire)」である。これは、一般にいう男性同性愛(male homosexuality)ではなく、女性の交換を介して間接的に結ばれる絆(bond)なのだ。

精神分析は、私たちの欲望の構造を、「なる欲望」と「持つ欲望」の二つとして記述する。同一化の欲望は、男性が幼いころ父に同一化する経験とつながる。男の子がトランスフォーマーやレーシングカー、おもちゃの銃といった「男らしい」ものを好むのは、それらになろうとするためだ。「持つ欲望」は、思春期に構築される異性愛的な同一性とつながる。男の子が異性を好きになり、さまざまなフィギュアや「萌えっ娘」に熱中するのは、彼女たちを所有しようとするためである。この説明に従えば、一般に、同性愛の男性には倒錯が起き、同一化と所有の欲望が同じところへ向かう。そのため男性同性愛者は、性的主体と性的客体の位置を同時に持つ。しかし、男性のホモソーシャルな欲望――男同士の絆――は、性的客体となることを拒んで生まれる。男同士の男らしい友情を保つには、その男らしさの要求に合わない欲望の客体――女――を、主体の周縁へ棄却しなければならない。男同士の関係はつねに、ファルス(女性的な存在)をめぐる語りによって結びつく。この独特の三角関係は、男性の社会集団内部の分裂を予告している6。

加害者集団の五人を並べたCG

卓司が示すのは、まさに「同一化の欲望」の欠如だ。この欠如は、社会に入ればもはや「個人の成長の失敗」ではなく、その人が置かれた社会環境と密接に関わる。そこで鍵を握るのが加害者たちである。西村たちのほうが能動的で積極的だからこそ、より多くの権力と資本を握り、何が本当の「男らしさ」なのか――ヘゲモニックな男性性(Hegemonic masculinity)――を定義できる。何を交換できる品物とし、何に「女らしさ」を認めるのかも、彼らが決める。さらに、権力には他人を支配する権限が含まれる。加害者は権力への欲求をさらに満たし、ボーイズ・クラブを固めるために、「違う男の子」を何らかの手段で排除する。ミクロな水準では、罵倒や虐待といった身体に向けられる暴力を使う。マクロな水準では、病院、学校、刑務所など、国家の制度的な暴力による逸脱者の矯正に訴える。ところが、この種の広い意味でセカイ系に属するゲーム設定では、そうした権力機関が丸ごと不在となり、排除の手段は身体的暴力だけになる。それを極限まで高めるために、加害者は身体のもっとも私的な部分に手を出すのである。

西村と卓司の中国語版の会話。女性扱いと強要が語られ、一部の文字は伏せられている
卓司を犯す人間の屑、西村も、実は暴力集団のヘゲモニー文化では「周縁の者」だ。刃を向けるのは、さらに弱い相手。 中国語字幕の要旨:加害者たちは、卓司が女に見えると言い合う。やりすぎだとたしなめる声にも、西村は、女として使うだけだと押し切る。伏せられた文言もある。

卓司を犯す人間の屑、西村も、実は暴力集団のヘゲモニー文化では「周縁の者」だ。刃を向けるのは、さらに弱い相手。

画像内の中国語の意味:この角度から見ると、本当に女のように見える、と言う。西村に対して、早くある状態から抜け出したいのはわかるが、これはやりすぎだ、とたしなめる声が上がる。少しどころではない、と別の声も続く。西村は、女に見えるのだから構わないと答える。そういう問題ではない、という指摘にも、女の代わりに使うだけだと押し切る。最後に、専用のものがあるのに、なぜ彼で代用しようと思うのか、そもそも相手は間宮なのだぞ、と問い返す。途中の語は原図ですでに伏せられている。

しかも、西村にとっては、卓司を単に「男として失格な者」と捉えるだけでは危険が残る。西村が卓司をなお男性と見なすなら、いずれは生物学的な性を根拠に、卓司が「1」――挿入する側――となり、自分が「0」――挿入される側――へ転落する可能性を認めねばならないからだ。男性がもっとも恐れるのは、性的客体になることである。それは権力を失い、支配の玉座から転落することを意味する。自分の性的主体としての位置を保つために、彼らは古代ギリシア的な同性の愛を拒み、あらゆる形の同性への恋を拒み、性的客体へ転落する可能性をすべて封じる7。それを長く実現し続けるには、異性愛のヘゲモニーを守り、行為の前提にも意図の形成にも染み込むほどに、内面化しなければならない。こうして、ほとんど現実から目をそらすかのように、卓司が女装し、西村の目に女として映って初めて、西村は自覚していなかった不安を乗り越え、欲望をさらけ出す。「女」にさえなれば、卓司が性的主体になることはありえないからだ。

同時に、この権力関係は、加害者が権力の中心にいることを意味しない。本当に権力を行使するのは、暴力を振るう主体に先立って存在する象徴秩序であり、加害者は自分の無意識にある権力欲や去勢不安に、まったく気づいていないかもしれない。伝統的な権力観とポスト構造主義の権力観を分ける要点は、ここにある。ゲームに即していえば、卓司を女性化するものは「身につけている女物の服」ではなく、「女物の服を着ること」だと注意すべきだ。前者は「状態」、後者は「身体の振る舞い」に対応する。静的な状態の記述に比べ、振る舞いは主体の「強制された行為遂行」に強く結びつく。卓司は無垢な目をして地面に膝をつき、立っている西村に性的な奉仕を強いられる。西村は命令しながら享楽する。逆らったあとのことが怖くて、卓司はついに自分に言い聞かせて相手を喜ばせようとし、抵抗を捨てる。

卓司のざくろや由岐への悪意と、卓司自身がレイプされる過程は、権力の言説が引用される連鎖を見せている。主流のジェンダー秩序に属する男性たちを前にすると、卓司の性格はひどく場違いだ。だが、本当の女性、あるいは女性的な性質を持つ者の前では、下卑た連想を膨らませ、尊大に振る舞える。これは、社会が特定のジェンダーを優遇することと、失った権力を別のところで埋め合わせる連鎖を映しているのかもしれない。さまざまな性的関係の純粋さを、私たちは保証できない。愛欲の解放という働きが実現するより先に、制度の構造が亡霊のように社会関係を覆っているからだ。権力に従属するなかでは、男性同士の性行為が、必ずしも崇高な同性への愛慕であるとは限らない。「0」の位置にいる男性が女性を装うことで、ジェンダーの記号を脱構築できるとは、なおさら言いがたい。それは異性愛関係のヘゲモニーを別の場所へ移植しただけであり、このことは女性向けの文化でも避けがたい。いまの段階では、文化の解放への欲望と現実の足かせは、つねに曖昧なゼロサムゲームを演じている。

対等でない愛慕のあいだにあるのは、一粒の飴なのか、それとも一杯の「紅茶」なのか。慎重に考えるべきなのかもしれない。

次回予告

卓司はまさに、救世主人格の覚醒によって、世俗の言説の引用を拒む。そこから次の分析が始まる。最終回では、二つの場面を論じたい。一つは若槻鏡がいじめられる場面だ。原作の脚本が、叙述トリックによっていかに驚くべき主従の逆転を成し遂げたかを見る。もう一つは、ざくろを主人公とする第3章のG-L(百合)ルートへ戻り、希実香とざくろのG-Lを序章のG-Lと比較することだ。「G-L」の現実における実践性を論じ、私に大きな影響を与えたこの作品へのオマージュを締めくくりたい。

青空を背景に並ぶ高島ざくろと橘希実香

本文終わり
注07

注釈

  1. ジュディス・バトラー『身体之重』、上海:三联出版社、2011年、44–45頁。 ↑

  2. Ann Rosalind Jones, “Writing the Body: Toward an Understanding of L’écriture féminine”, Feminist Studies, 7.2 (Summer 1981), pp. 247–263. ↑

  3. バトラーは、文化が身体に刻み込まれることをとくに重視する。ここにも、フーコーからの影響がはっきり感じられる。これは、バトラーのラカン批判を理解する鍵の一つである。詳しくは『性别麻烦』(『ジェンダー・トラブル』中国語版)、第1章第2・3節を参照。 ↑

  4. 詳しくは『性别麻烦』第2章第5節を参照。オースティンへの言及は、ジョン・ストーリー『文化理论与大众文化导论』第7版、201–202頁による。 ↑

  5. ミシェル・ヴィヴィオルカ『社会学前沿九讲』、北京:中国大百科全书出版社、2017年、40頁。 ↑

  6. セジウィックは、ラカンがいう男性の性化の非全の論理に、ミクロな解釈を与えている。男性の位置(男性性)は自分だけでは決まらず、女性性を他者化して交換価値を作り、それによって自らの権力の論理を補わなければならない。そのため男同士の関係は、つねに男―女―男の三角関係になる。男性の構造の内部には不整合がある。詳しくは、セジウィック『男人之间』、三联书店、第1章を参照。ジジェクは、まさにこの男性内部の不整合が、余剰としての女性によるラディカルな革命を呼び求めると、議論を呼ぶ指摘をしている。詳しくはこちらを参照:douban.com。 ↑

  7. フーコーは『性の歴史』で、古代ギリシアにおける愛欲の最高の形は、成人男性と少年の同性愛だったと述べている。少年が自ら性的客体になるとき、その愛欲は至高の価値を持った。そして少年は、将来、性的主体になれるという約束を得た。だが、男性市民の愛欲の対象が同性の奴隷であれば、その愛は一段低く、女性との関係はさらに低かった。ここには、当時の男性性のヘゲモニーと女性性への嫌悪が表れている。これはまた、セジウィックや上野千鶴子がミソジニーを論じる際の、考古学的な基礎をなしている。詳しくは上野千鶴子『厌女:日本的女性嫌恶』(『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』中国語版)、三联出版社、19–20頁を参照。 ↑

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