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ジェンダーの視点から読む『素晴らしき日々』01

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すばらしい十六歳――ジェンダーの視点から読む『素晴らしき日々』(上)

精神分析、クィア理論、ジェンダー社会学を手がかりに、钟子默が『素晴らしき日々』の登場人物、欲望と権力の関係を読み解く三部作。

著者: 钟子默中国語版校閲: 子厚翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

すばらしい十六歳――ジェンダーの視点から読む『素晴らしき日々』(上)

本稿は序章から第5章までの重要な展開と、各ルートの結末に触れる。重大なネタバレを含むので、読む際には注意してほしい。長い文章になる。本作の中国語圏での略称は「素晴日」。「素晴」は、すばらしい、ということだ。

十六歳のころに観たり遊んだりした作品を紹介するなら、おそらく文章の七割はギャルゲーに割くことになる。残りの三割は、さまざまなマイナーな新作アニメと『拡散性ミリオン○○○』だ。

あのころ、中国で名門大学を目指すリア充たちは汗と涙を流し、百二十点以上取った英語の答案を手に「失敗した」と嘆いていた。私は冷ややかに笑い、布団やトイレに隠れてひたすらギャルゲーをやっていた。けれど、幸運だったともいえる。当時ギャルゲーにのめり込まなければ、あの忌々しい毒電波に「脳を乗っ取られる」こともなかっただろう。大学で理系から文系に転じ、社会学を学んでも彼女ができない、なんてことにもならなかっただろう。ここでこんな学問くさい長広舌を垂れることもなかっただろう。そして、十六歳の私がこっそり成人向けゲームで遊ぶときに感じていた、規則を踏み越えるあの快感が、一種の「倒錯」だったと気づくことも、まずなかっただろう。

もちろん、いちばん大事なのは、あのとき『メモリーズオフ6』を起動しなければ、その後の猟奇・鬼畜作品との縁が生まれなかったばかりか、社会学や哲学的な思考との出会いまで逃していたかもしれない、ということだ。

文化産業の産物であるギャルゲーの影響力は、もちろん限られている。同時に、受け手が少なく、ファンの集まりも比較的閉じたゲームジャンルであることは否定できない。作者の理想主義や、現実生活への不満、罵倒に満ちた作品も少なくない。奔放な物語のなかで、架空のユートピアと「社会への復讐」が「夢の共演」を果たす。このイデオロギーの「飛び地」は、すでに新しい読解の可能性を生み出している。ギャルゲーの価値を掘り起こすとは、ゲームのなかにまだ誰にも見つけられていない長所を探しに戻ることではない。「誤読」を通じて新たな実践へ踏み出し、現実を変え、より公正な社会をつくる可能性を開くことなのだ。

いまの知識と経験を携えて、私にもっとも大きな影響を与えた作品をもう一度分析したい。十六歳のあの日、何気なく訪れた出会いに、悔いを残さないためにも。

シリーズの前置き――ジェンダー

二次元でジェンダーが話題になることは珍しくない。二次元の消費文化が栄えるにつれ、記号としての価値を持ち、象徴交換の働きを担うジェンダーの記号も、商品の狂宴から逃れられなくなった。よく知られた例なら、すぐ挙げられる。「こんなにかわいいなら、きっと男の子だ」。いまの中国語圏のネットでは少し古びて見える言葉だが、かつては若い女性を親しげに呼ぶ「小姐姐」という言葉とともにオタク文化の一大風景をなし、オタクではない人々のあいだにも広がった。もう一つ身近なのは、私たちが男女を問わず女性キャラクターに、とりわけ女性の身体――胸や脚――や女性性――いわゆる萌えポイント――に執着することだ。それは二次元の享楽に、これでもかというほど表れている。こう考えると、二次元文化を論じるうえでジェンダーは避けて通れない。

女性キャラクターの脚や座り姿を四分割で並べた画像

女性性の消費は、そのすべてが家父長制による疎外の産物というわけではない。個々の作品に向き合うときは、ひとまずイデオロギーの重荷を下ろし、作品を読んだ経験を手がかりに、ジェンダー社会学の視点から問題に入ってみよう。ここでは、ジェンダーは社会と個人を説明する数ある変数の一つである。これを主要な変数として研究するにも、経済や政治だけでなく、人種や個人が自らを何者と捉えるかを考慮しなければならない。性の政治性を考えるときも、男性が「力を得る」、女性が「去勢される」という状況だけでは足りない。さまざまな影響のもとで男女の権力関係が逆転する問題や、性的マイノリティが周縁へ追いやられる問題も考える必要がある。女性が抑圧される家父長制の現実にあって、女性が「拒否」する主体性にも目を向けたい。最後に、出発点を「女性の視点」ではなく「ジェンダーの視点」とするのは、ポストモダンの視野では、男性と女性という概念を隔てていた薄いヴェールが引き裂かれているからでもある。ラディカルに捉えるなら、男女の境界はもはや明瞭ではなく、固定された男性性や女性性などというものもない。では、それが作品のなかでどのような関係として表れ、私たちはその美的な矛盾にどう浸っているのか、見てみよう。

作品紹介

本稿の「主役」は、愛好者ならほとんど誰もが知っている美少女ゲーム、『素晴らしき日々~不連続存在~』だ。中国語題は『美好的每一天』、中国語圏のファンのあいだではふつう「素晴日」と呼ばれる。この作品は発売当初から大きな注目を集め、萌えゲーアワード2010では総合銅賞とシナリオ賞金賞を一挙に獲得。批評空間では九十点台、Bangumiのゲームランキングでも肩を並べられるのは十数作にすぎず、中国のギャルゲー掲示板「G吧」で「十二神器」と称えられる十二作の筆頭に位置する。詳しい情報は、読者の皆さんに各自検索してもらいたい。こうした評価は、物語の哲学的・文学的な深みと無関係ではない。主軸となるウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』や、そこに彩りを添える『不思議の国のアリス』、シラノなどの文学や、新古典主義に由来する素材を取り去れば、作品全体が色あせてしまうだろう。実際、世界と言語の関係をめぐる初期ウィトゲンシュタインの考えは難解で、解釈も多義的だ。神秘主義の光をまとい、人を惹きつける。それはまた、現代哲学や現代社会学で大きな位置を占める「言語論的転回」にも、一定の影響を及ぼした。そのため、ウィトゲンシュタインの言語哲学や心の哲学から人物と物語を分析することが、『素晴らしき日々』の批評の主流となっている。

夜の屋上を描いた『素晴らしき日々』のCG

だがここでは、これまでの読解からこぼれた領域を掘り起こし、人物と物語の関係にもう一度焦点を当ててみたい。同じく「人物論」から物語や世界観を読み解いていても、ほとんどの批評家は、登場人物のジェンダーに対しては「鈍感」だ。筆者に言わせれば、哲学を別とすれば、本作でもっとも読み解く価値があるのは、まさに人物が示すジェンダーとその性質である。作中の異性装、ふたなり、男の娘、学校でのいじめを、すべてすかぢの鬼畜趣味に帰してしまうのは、作品の分析として公正さを欠くだろう。とりわけ、「終ノ空」エンドを除けば、物語の基調となる抵抗と救済は、登場人物がジェンダーの主体として行う実践と、驚くほど重なっている。以下では主に「人物論」から出発し、鍵となる人物のジェンダー的な性質と、彼らが主体として行う実践をそれぞれ論じる。

ジェンダーの問題は複雑なので、本稿は上・中・下の三部に分ける。「女性における無意識の主体→欲望の主体(ジェンダーの行為遂行性)→社会のなかの個人(ジェンダー社会学)」を軸に、原作のジェンダーについて試論を進めたい。

一、想像と女性の語り

女性の想像界を論じるなら、ラカンのエディプス・コンプレックスと、想像界・象徴界・現実界という「三界」の議論を避けては通れない。もちろん、後継者たちによるラカン理論の「止揚」もだ。その一端は、ゲームの第3章に見て取れる。第2章で中二病の教主の洗礼を浴びたプレイヤーは、第3章では高島ざくろの視点へと移る。この章でのざくろの変貌と破滅の結末には、胸が痛む。けれど、ある意味では、最後に妄想とヒステリーが噴き出すからこそ、彼女の主体性が鮮やかに立ち現れるのだ。それによって彼女は他の人物を超え、とりわけ男性には存在論的な居場所すら残さないほどの位置を占める。時間の流れから見ても、ざくろは物語全体を動かす第一の要因である。

腰を下ろした高島ざくろのCG

章の冒頭の語りは、ごく平穏だ。主人公のざくろは物静かな文学少女。無邪気で空想好き、周囲となかなか趣味が合わず、口下手で、ときどき不器用なことをし、本作のもう一人の主人公、間宮卓司にひそかな恋心を抱いている。さまざまな作品で見かける主人公の設定だ。しかし、陰謀や駆け引きに満ちたこの作品では、ざくろの率直さと純粋さが破滅を招く。章の初めから、彼女が学校でいじめられる状況が示される。その理由は、空気を読めないことと、以前いじめられていた橘希実香と関わりを持ったことに尽きる。物語が進むにつれ、ざくろと希実香の関係も、近づいたかと思えば離れていく。鍵となる選択肢では、希実香との関係を考えるかどうかが、本筋と分岐ルートを分けることになる。

何もできないという中国語の文が表示された、左側の切れたゲーム画面
クラスメイトにいじめられる希実香。 中国語字幕の要旨:何もできないという無力感が記されている。

クラスメイトにいじめられる希実香。

画像内の中国語の意味:何もできない……。原画像の左端で文が切れている。

教室を背景に、視線にさらされるざくろの状況を記す中国語版画面。一部に消去や乱れがある
矛先はついにざくろへ向かう。 中国語字幕の要旨:ざくろが相手の視線にさらされていることが記されている。文字の一部は消されている。

矛先はついにざくろへ向かう。

画像内の中国語の意味:見える断片には、彼女が楽しんでいるようだという記述と、自分が彼女の視線にさらされているという記述がある。途中の文字は消されている。

希実香のことを考えるほうを選べば、その後、彼女を助けて心の結びつきを深めたざくろは、レストランの事件で立ち上がり、希実香と共に闘う。一方、先に教室へ入るほうを選ぶと、ざくろが希実香に代わって恵にいじめられるようになり、レストランの事件では徹底して受け身の立場に置かれる。不幸にも、本筋はまさに、ざくろが希実香との仲を修復しようと考えなかったほうだ。その先で彼女は、学校の男たちにも女たちにも、死ぬほどいたぶられる。落書き、服を切り裂くこと、裸での見世物の強要。あらゆる手段で彼女を食い物にする。一人称で語られるだけに、穏やかな物語が残酷なものへと変わっていくさまは、いっそう生々しい。そして物語の山場で、ざくろは薬を飲まされて性的暴行を受け、精神崩壊の淵へ突き落とされる。

血まみれの自分をぼんやり見つめるという、中国語版の文章表示
中国語字幕の要旨:血まみれになった自分を、ぼんやりと見つめている。

画像内の中国語の意味:血まみれになった自分を、ぼんやりと見つめている。

苦痛にゆがむ顔から涙が止まらないという、中国語版の文章表示
中国語字幕の要旨:苦痛にゆがんだ顔から、涙が止まらない。

画像内の中国語の意味:苦しい……。苦痛にゆがんだ顔から、涙が止まらない。

第3章の本筋をめぐる、具体的な経験に即した分析は、ここでぷつりと途切れるといってよい。代わって必要になるのが心理的な分析だ。精神がひどく蝕まれたざくろの目に映る、ゆがんだ現実を、プレイヤーは直接目にする。貞操という象徴秩序の〈大他者〉が、そのまま神の姿を取り、ざくろの現象世界に現れて、彼女の精神へ絶えず圧力をかける。性的暴行を受けた女性の恐怖と葛藤が、きわめて繊細に描かれている。

大きな「神」の文字と中国語の台詞を含む、塗りつぶしや画像の重なった画面
「神」がざくろに、狂ったような「スラット・シェイミング」――性的にふしだらだと責める言葉――を浴びせる。 中国語字幕の要旨:「神」が、ざくろと心を通わせていると語りかける。ほかの文言の多くは覆われている。

「神」がざくろに、狂ったような「スラット・シェイミング」――性的にふしだらだと責める言葉――を浴びせる。

画像内の中国語の意味:「神」が、ざくろと心を通わせていると語りかける。大きく「神」と表示され、ほかの文言の多くは塗りつぶされている。

後半には、考えさせられる展開がある。ざくろは中二病めいたサイトで、自分と同じく不幸を抱え、行動を共にしようとする二人に出会う。その一人、宇佐美という少女は、自分たち三人は異世界の女神の転生であり、彼方の世界の敵――中国語で「物理特化符虫」と記される存在――と闘ってきたのだと、何やら神がかりなことを言う。女神と魔界の闘争をめぐる、中二病じみた物語を一式こしらえてさえいる。ところが、すでに精神の崩れたざくろは、この荒唐無稽な話を丸ごと受け入れる。それに強く触発され、自分の妄想のすべてを正当化し、妄想の世界観をさらに完成させていく。章の最後、ざくろは自分の妄想世界をすべてさらけ出し、激しい精神の混乱とヒステリーのなかで、他の二人を連れて高いビルから飛び降りる。彼女の妄想のなかでは、乳白色の星へ帰ったのだ。第3章は、この息苦しい場面で幕を閉じる。

飲み物とケーキを前にした二人。中国語版では宇佐美が前世の仲間について語る
中国語字幕の要旨:宇佐美は、三人が前世で世界を危機から救った仲間だったと告げる。

画像内の中国語の意味:宇佐美は、メールに書いたとおり、自分たちは前世で世界を危機から救った仲間だったと告げる。

夕景のなかの三人と、世界の破滅について語るざくろの中国語の台詞
中国語字幕の要旨:ざくろは、世界が今にも滅ぼされると叫ぶ。

画像内の中国語の意味:ざくろは、世界がもうすぐ滅ぼされると叫ぶ。

先に触れた、この章で唯一にしてもっとも重要な選択肢は、実は物語の形式そのものを大きく変えている。本筋へ進んだあと、プレイヤーが接するのは、ざくろと希実香という二人の女性の「関係」ではなく、ざくろの「独白」なのだ。物語の重点は、学校でのいじめという社会的行為の問題から、妄想の症状へ移っている。恵や聡子といった加害者も、希実香も、間宮卓司も舞台を去り、物語の主体は高島ざくろ一人になる。世界は彼女を中心に回っているかのようだ。後半のほぼすべての展開が、ざくろの世界に沿って進む。その妄想の支配下では、異世界の設定を作った宇佐美さえ恐怖を覚える。高島ざくろは、豊かな想像力と非人間的な虐待の経験から、想像世界の中心を作り上げ、異世界を言い出した当人から、その言葉を解釈する権利をことごとく奪う。ここまで来ると、ざくろをか弱い少女として憐れもうとするのは、身のほど知らずにさえ見える。彼女の狂気は、まなざしを向けるプレイヤーの転移を拒み、逆に恐れという逆転移を引き起こす。狂乱する者の姿が「凌辱された女性」の姿と切り離され、実体を伴わずとも、強烈な衝撃を持つ破壊を私たちに見せるのである。

赤く染まった空のCG

卓司とざくろの狂気の表れ方を比べると、ざくろの妄想の特徴がよくわかる。イリガライが最初の著書『Le langage des déments』(精神錯乱者の言語)で見いだしたところでは、男性の患者は狂気の状態でも構文を修正し「メタ言語」を使う能力を保つが、女性はしばしば「身体」を通じて症状――ヒステリー――を表すという1。卓司の症状は、救世主としての期待を注ぎ込まれた幼いころの経験と結びついている。彼は神秘学や邪教についての知識を大量に蓄えており、いじめは持続的な誘因にすぎず、それだけで症状を決定したのではない。精神病の症状は半章にも満たないうちに収まり、卓司は再び「教主」という位置を受け入れ、安定した全体性の観念――邪教への信仰――を組み直して、神の権威を呼び求める。そのため、後半で布教する卓司は、自分の保守的なメシア思想を冷静かつ厳密に語る。これに対し、ざくろの妄想の核心にあるのは「男性に性的暴行を受けた」という事実だ。その事実は、最後に飛び降りて自殺する直前まで認められず、異世界の妄想に置き換えられたままである。彼女の無意識では、「純潔」がつねに崇高な〈大他者〉の位置を占めており、「男性に性的暴行を受けた」事実など、とうてい受け入れられない。そこに宇佐美が差し出した不完全な世界観が、ざくろを「逃げ込ませる」ことになった。この世界観には、別の生を思い描くための重要な枠組みであり、入口でもある「前世」があり、女神もまた純潔のイメージと結びつくからだ。さらに重要なのは、ざくろが自分の空想を、筋道の通った言説として整理することは一度もなく、ずっと「揺れ動く狂気の状態」にあったという点である。最後にはそれが、他人を連れて飛び降りるという激しい身体の興奮となって現れる。卓司の狂気との最大の違いはここにある。

腕を伸ばす男性のCG

イリガライは、女性の想像界の特徴として、多様さ、変わりやすさ、流動性を挙げる。対して男性のそれは、同一的で合理的だという。同じ「ナルシシズム」に支えられていても、卓司の同一化は、妄想のなかで現実の秩序を組み直すことにつながり、奪われる側から奪う側へ転じたいという欲望と承認を意味している。一方、ざくろの同一化は狂気の不確定性を示し、象徴秩序の拘束から完全に逃れようとする。そして最後には、同一化そのものに神話的な色彩が与えられる。この象徴界からの逃走は、性的暴行を受けてから始まったのではない。物語に描かれた経験よりも、ずっと前から起きていた。彼女は完璧な自己像をあらかじめ置き、早くから精神的な潔癖さを築いていたのだ。

横たわる人物のCG

イリガライと響き合うように、クリステヴァもラカンのファルス中心主義を超えようとし、女性を「セミオティク」に結びつける。彼女の理論では、セミオティクはサンボリクと対をなす。セミオティクの諸要素――刻み、痕跡、指し示しなど――には、前エディプス期に結びつくあらゆる欲動と、母子関係における原初的な思いが含まれる2。女性は「前エディプス的」な一次過程につながっている。この段階では、父性的な〈大他者〉は主体の形成に介入しておらず、分析の焦点は「母と子」の関係へと移る。こうして「母」の役割が重要な位置へ引き上げられる。前エディプス期を広く解釈するなら、ざくろが「前世」の想像へと転移することも、理解しがたくはない。

卓司は「予定調和」を受け入れ、七月二十日を空へ帰る日と定める。だが、ざくろが選ぶのは過去へ戻ること、現実がまだ象徴秩序に侵されていない、もう一つの生へ帰ることである。あの世界では、自分はまだ処女で、初めてを好きな人に捧げられる。それ以上に大事なのは、あの世界の自分が、このうえない善も汚点もともに含む「完全な私」だということだ。ざくろは、家父長的な象徴秩序の記号である「純潔」を気にするあまり狂気に陥ったというより、「完全な私」という〈もの〉が象徴界の欲望のシニフィアンへ入り込んだ、その衝撃を受けたのだ。それは彼女に告げる。覆す時が来たのだ。

明るい空間に棒人間のような姿が浮かぶCG

二、女性の欲望と百合

クリステヴァは女性をセミオティクと結びつけ、そこには想像界の要素も現実界の要素も含まれると考える。ここから二つ目の話題へ進もう。ラカンの議論では、想像界はしばしば鏡像段階のナルシシズム的幻想と結びつく。これは恋愛や親密な関係を分析する重要な理論的基礎でもある。しかし、フロイトやラカンらによる女性の探究もまた、一種の「男性の想像」だと批判されてきた。フェミニストたちは逆に「スペキュルム(膣鏡)」を用い、飽くことなく女性を探る男性のナルシシズム的な本質を透かし見ようとする3。女性の欲望は、ずっと謎のままだ。

女性の白黒の肖像写真

面白いのは、ざくろが自殺したあとのことだ。第3章と序章を結びつけるなら、「女性の欲望は現実界とつながる」という結論が、いまにも浮かび上がってくる。自殺した高島ざくろの魂は、その目撃者である卓司の無意識へ入り込み、ついに自分が恋した卓司は、実は水上由岐の人格だったと知る。序章の物語である。それでも彼女は自分の本心をためらうことなく認め、由岐への思いを抑制のきいた形で伝える。この欲望の連なりは、こうなる。卓司(由岐)に初めてを捧げたい→性的暴行を受けたことを受け入れられない→前世をたどって現実から逃れる→真相を知る→自分の欲望を確信する。最後には、自分が同性愛者であることをざくろは受け入れる。処女を失ったことで狂気に陥っていた以前の彼女とは、まるで別人だ。

上下二つのゲーム画像を並べた比較。下段には中国語の話者名と、ユニコーンのスタンプによる覆いがある
実際には、同じ人(格)とキスしている。

画像内の中国語の意味:下段の話者名は間宮で、台詞は「?!」。

イリガライの見解どおり、男性の想像界に固定された女性像や欲望の投影に比べ、女性の欲望には大きな流動性があり、ジェンダーの枠さえ離れていく。この理論が前提とするのは、エディプス・コンプレックスだ。ここでは「欲望」をあえて「性的指向」に狭め、女性が女性への恋愛感情を受け入れることを説明してみよう。男の子と女の子では、エディプス・コンプレックス期――エレクトラ・コンプレックス期――に直面する状況が異なる。

ここでいう「期」は、単なる成長の時期ではなく、主体を形づくる構造として捉えてほしい2。ラカンの鏡像段階からわかるように、前エディプス期には、男の子も女の子も、自分の母を欲望の対象とする。エディプス期の初め、父性的な〈大他者〉が関係の連鎖に入り込み、形式のうえでは三者関係が成立し、主体の社会的構築も始まる。男の子は、母の欲望が父へ向かっていると思い込み――実際には別の場所へ向かっているのだが――、父を敵視し、母を引き続き独占しようとする。そして、母を満足させるファルス4を自分が持っているふりをする。これが想像的ファルスである。エディプス期が終わるころ、母の欲望はつねに捉えどころのない別の場所へ向かうと知り、自分にはファルスがないという事実を受け入れる。男の子は象徴的な父に同一化し始め、その父のもとにファルス――象徴的ファルス――を見いだせると考える。

二枚の西洋絵画を並べた画像

女性のエレクトラ・コンプレックス期――ユングの用語である――は、もっと複雑で、始まりから終わりまでに二度の転換を経る。女の子も男の子と同じくファルスを持たないが、この欠如を覆い隠す心理的な要因は異なる。男の子は、ファルスを持つ「ふり(pretend)」をして、母を満足させられると「思い込む」。これが母への恋着を説明する。女の子は、父のファルスにならなければならない。父も実際には去勢されているからだ。これが父への恋着を説明する。否定と承認の弁証法的な関係に従えば、女性は自分が「すでにファルスである」ことを捨てて初めて、「ファルスになる」ことを目指せる。

どう「ファルスになる」かという点で、ラカンはリヴィエールの「仮装(masquerade)」概念を受け入れた。「女らしさ」は「仮面」のように身にまとえるのである5。家父長的な象徴秩序のもとで、女の子は仮装によって自分の男性的な特質――母の欲望を満たす特質――を隠し、男性からの報復を避ける。だが、そのために今度は母との競争に陥る。男の子は父に同一化し、母から離れることで、父との競争を解決する。女の子も、母の「敵意」を解くためには母へと同一化し直さなければならないが、〈父の名〉による抑圧と制限からは逃れられない。そのため、父をなだめるか母をなだめるか、揺れ続けるジレンマに置かれる。

アピニャネージとフォレスターに言わせれば、この仮装と女性の本質は同じものを指している。女性は、あるときには「持つ」ことにかかわる性質を備え、母を満たすほうへ欲望を向ける――同性愛。別のときには「なる」ことにかかわる性質を備え、母になるほうへ欲望を向ける――異性愛。だから、女性にも女性の性的指向にも流動性がある。仮面の背後に、本当の「女」はいない。

ピアノのそばにいる二人のCG

要するに、母の欲望を満たそうとする女性の原初的な衝動が、女性の同性愛的傾向を準備する。高島ざくろは自殺によって「自分が性的暴行を受けた」世界から逃れ、自ら作った新しい世界へ来る。そこではファルスが全面的に不在となり、象徴界の〈父の法〉も失われるため、貞淑な女性へと「仮装」する必要はない。由岐が好きだという事実を、ごく自然に受け入れ、欲望を解き放つのである。いまの百合作品の多くにも、こうした特徴がある。ジェンダー的な性質を比べられて女性キャラクターが不利な立場に置かれないよう、意識的に、あるいは無意識に男性の存在を薄め、ときには完全に締め出す。女性だけの舞台、女性の語りを用意するのだ。もちろん、女性だけの舞台を作れば、欲望が「完全な意味で」解放されるわけではない。現実の文化的な環境に作品を置いて考えれば、女性だけの舞台は、観客とのあいだにまた矛盾を抱える。百合が見せるのが、資本に認められた一面だけであるなら、疎外を避けることはできない。

キスなどの場面を三枚組み合わせた画像
本当の百合とは何か?

振り返りと補遺

作品全体のなかで序章がどれほど重要な位置を占めるかは、ジェンダーの観点だけからでもうかがえる。そこには、クリステヴァのいう前エディプス期の「母性的空間」が用意され、象徴界の父の介入が断たれている。第3章の分岐ルートと同じく、序章はファルスの介入しない世界だ。理想の世界という器には、女性同士のほのかな思いの表現と、あふれる詩情だけがあり、世界の十全さが成り立っている。ただし、第3章の分岐ルートと違い、序章の表現は徹底して詩的だ。その美的な高みは、社会科学による単純な還元を拒むため、経験に即した分析がひどくぎこちなくなる。序章がすばらしい幻の世界を差し出してくれるのは確かだが、そのため筆者は新しい疑問を抱えることにもなる。ざくろのものとなった、この序章の世界全体をどう読み解けばよいのか。作品の創作という水準で考えるなら、作者が具体的に描き出せる現実界など、そもそも存在しない。現実界をこのように具体化することには疑問が残る。クリステヴァの女性のセミオティクという議論に従えば、序章が「現実界」に関わるのは間違いない。だが、この序章の「現実界」的な性質を、私たちはどう理解すべきなのだろう。

序章は、美しい幻の世界と大人の童話を通して、美しい百合の情欲にそぐわない不協和を呼び込む。情欲が、読み解くことのできない聖書のテクストのなかに見え隠れする、崇高な「質」のようなものだとすれば、序章での女性同性愛の情欲の描写は、パロディをなしているにすぎない。それは虚構とは異なる、「そうではないかのような」形式によって、読者をテクストから引き離し、間テクスト的な関係のなかの余剰を呼び出す6。序章における『銀河鉄道の夜』のパロディは、まさに神がかった一手だ。この童話の暗喩は、序章もまた、ざくろが作り出したナルシシズム的幻覚にすぎないと告げているかのようである。ジョバンニの欲望の対象であるカムパネルラは、彼のもとを去って天国へ向かわずにはいられない。ジョバンニはついに、自分の欲望が言い表せない別の場所を指していると気づき、大人になる。子どもは最後には「母性的空間」を離れ、父への恋着、あるいは母への恋着の物語へ進む。序章の結末も、幻想を突き抜けて象徴界へ戻ることが、あたかも必然であるようだ。物語は暗く残酷な第1章へ、すなわち、あの現実の恐ろしい事件の経緯へと進んでいく。

そのなかで、ざくろにできる唯一のことは、原作者をかたどる存在――音無彩名――の押しつけを拒み、物語に抵抗することだ。そこに隠れたメタ的要素が生まれる。ではなぜ、その要素は作品全体を脱構築するような姿では現れないのか。おそらくそれは、作品全体の創作の哲学へ、ウィトゲンシュタインの言う「世界は事実の総体である」へと、さかのぼる必要がある。認識は経験の外へ出ることができない。

窓の外が光る車内に座る少女のCG

『素晴らしき日々』を見渡すと、高島ざくろは権力の中心を担い、最初から最後まで物語の行方を支配しているといえる。彼女なしでは物語はほとんど成立せず、序章もあの高みには達しなかっただろう。物語を動かすうえでそれほど重要だからこそ、本作のいわゆる鬼畜系同人音楽も、ほぼざくろの精神世界を中心に作られている。興味のある人は、アルバム「zakuro recording」を検索してみてほしい。ここで大胆に推測してみたい。すかぢは脚本を書きながら、そこに見え隠れする自分のファルス中心性に無意識に気づき、それをむなしく否認しようとするあまり、ざくろに自分の化身である音無彩名を憎ませたのではないか。自己去勢を図るために。そう考えれば、作者すかぢは、何かを与えたり施したりするのではなく、権力の空白を作ることで、女性の主体がそこへ入れるようにしている。主流文化では、こうした事態はしばしば「雄の衰退」として批判される。しかし、男性のジェンダーの流動性に扉を開くのは、まさにこの去勢なのかもしれない。

ここまで、簡単な精神分析の視点から、ジェンダーにおける無意識の主体と女性の欲望の一部を整理してきた。これは作品のジェンダー意識を分析するうえで重要だが、こうした粗い分析に安住してよいわけではない。まだ答えなければならない問いは、いくつも残っている。

こうした問いには、本作の他の人物を分析することで、部分的な答えを出せるかもしれない。次回は現実の行動の水準へ目を向け、個人と社会、行為と構造を検討する。とくに、ジェンダーがなぜ行為遂行的なのか、ジェンダーの実践とは何かに注目したい。文化的な意味において、幅広い解釈を試みるつもりだ。ここで改めて、読んでくださった皆さんに感謝したい。指摘や意見も、ぜひ寄せてほしい。

(続く)

本文終わり
注06

注釈

  1. 波拉・祖潘茨・艾塞莫维茨著、金惠敏訳「露西・伊利格瑞:性差异的女性哲学」、『江西社会科学』2004年第3号、202頁。 ↑

  2. エディプス期と前エディプス期を、発達心理学における個人の成長の二つの時期として、字義どおりに理解してはならない。人類の社会文化に影響を与え、それを規定する「神話」と捉えるべきであり、「歴史」ではなく「構造」である。ただし、クリステヴァは「間テクスト性」の概念によって、概念が「発展し変化する」ことを明確に示している。詳しくは、殷祯岑・祝克懿「克里斯蒂娃学术思想的发展流变」、63頁を参照。 ↑ ↑

  3. イリガライは『Speculum. De l’autre femme』で、フロイトとラカンの理論では、女性が欠如し、存在しないものとされていると指摘する。「鏡」を「スペキュルム(膣鏡)」の比喩に置き換えることで、精神分析の男性中心主義が女性という概念に加える侵害を拡大して見せ、あらわにしようとした。注1の文献、202–203頁を参照。 ↑

  4. ファルスは、男性生殖器のトーテムを指し、精神分析における重要なシニフィアン(意味を表す側の記号)である。中国語の「菲勒斯」は、ギリシア語 Phallus の音写である。呉瓊『阅读你的症状』では「菲勒斯」と表記されている。 ↑

  5. Riviere, J. (1986 [1929]), “Womanliness as a Masquerade”, in V. Burgin, J. Donald and C. Kaplan (eds), Formations of Fantasy, London: Routledge, pp. 35–44. ↑

  6. パロディとは、神秘的なものを模倣するという不可能な試みであり、同時に、その「不可能さ」の確認でもある。この点で、虚構とは異なる。虚構はしばしば神秘的な存在を否定することで孤立した文脈を作り、虚構世界の「肯定」を形而上学的な終着点とする。パロディはテクストに断裂を生み、読者をテクストから引き離すことで、ラディカルな読解の可能性をもたらす。詳しくはアガンベン『渎神』(『瀆神』中国語版)、78–81頁を参照。 ↑

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