屋頂現視研

ジェンダーの視点から読む『素晴らしき日々』03

← 中国語原文13 分で読了編集プレビュー

ジェンダーの視点から読む『素晴らしき日々』(下)

精神分析、クィア理論、ジェンダー社会学を手がかりに、钟子默が『素晴らしき日々』の登場人物、欲望と権力の関係を読み解く三部作。

著者: 钟子默翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

ジェンダーの視点から読む『素晴らしき日々』(下)

本稿は序章から第5章までの重要な展開と、各ルートの結末に触れる。重大なネタバレを含むので、読む際には注意してほしい。長い文章になる。本作の中国語圏での略称は「素晴日」。「素晴」は、すばらしい、ということだ。

前回は主に、何人かのポストモダンの論者の視点から、『素晴らしき日々』でジェンダーの行為遂行性を体現する人物像を論じ、ふたなりへの欲望の謎を簡単に説明した。後半では性の政治という視点に移り、なぜ性の自由に警戒が必要なのかを考えた。「男性たちと女装した卓司との性的関係」と、「卓司とリルルとの性的関係」が、根本的にどう異なるのかを分析したのである。実際、現在の歴史的な段階から見れば、性の解放を唱える運動は、異性愛のヘゲモニーによる文化的な危機と、家父長制の構造による制度的な危機の両方に直面している。前者についていえば、自分たちの親密な関係へ、異性愛文化の主従秩序を移し入れてしまう人が、いまも少なくない。後者については、自由な文化市場が性とジェンダーの解放に十分寛容に見えても、現実の実践へ戻れば、伝統的なジェンダー規範に合わない人々が、なお「文明」の制度的な抑圧を受けている。「エロス」を呼び起こして性の自由と平等を実現しようとするフロイト主義は、権利と責任について、さらに考えねばならない。この究極の理想へどう到達するかには、実践と理論の両面からの検討が必要だ。

実践を論じるなら、社会学、さらには社会哲学の話に踏み込むことは避けられない。若槻鏡という人物は、筆者に「物」をめぐる謎をもたらした。一方、橘希実香の率直さと果敢さは、「行動」について考えるきっかけになった。本篇では、これまでの議論で取りこぼした点を補うことを主な課題とし、若槻鏡と橘希実香の経験に焦点を当て、他の作品の分析にも使えるひな型を見いだしたい。それができれば、彼女たちの経験と、その背後に潜む「言説」を手がかりに、他のアニメ・漫画・ゲームの人物、さらには物語を分析することもできるはずだ。

(一)物と物象化

若槻鏡と妹の若槻司は、まず水上由岐の幼なじみとして登場し、序章では多くの場面に顔を出す。鏡については、一言多く語るだけで重大なネタバレになってしまう。ここで注目したいのは、第2章で彼女が果たす「貢献」だ。他の生徒が救世主の英明さを信じて身を委ねるなか、彼女だけは卓司の誤りを正そうとする。つねに妹を守る立場に立って、救世主の卓司に対抗するのである。ここで若槻鏡と由岐の人格は、それぞれ外側と内側から卓司を阻む、対をなす存在となる。しかし第2章の後半には、卓司の救世主人格が急激に膨張し、由岐の人格が表に出ることはさらに抑え込まれる。鏡の努力だけでは、まるで歯が立たない。最後には妹を守るため、彼女もまた、きわめて痛ましい形で退場する。

若槻鏡と若槻司のCG

卓司の救世主人格が目覚めたあと、プレイヤーは秘密基地で、ゲーム最初の「暗く、重く、残酷な」場面に出会う。卓司を止めに来た若槻鏡が信徒たちに捕まり、縛られ、服を切り裂かれ、殴られ、その後、数十人の男性信徒から性的暴行を受ける。冷え冷えとした地下室。灯りに照らされたコンクリートの床が、青白く光っている。鏡の衣服はぼろぼろに裂け、身体には深い血の痕が刻まれている。こうした場面を見れば、心の弱いプレイヤーはマウスを置き、もうやめたくなるだろう。だが、張り裂けるように叫び、ついには力尽きた鏡が、そのまま命を落とすと思ったとき、彼女は最後に、卓司の予想もしなかった反撃を見せる。暴行のあと、裸でコンクリートに横たわったまま、見下すような、憐れむような目で間宮卓司を見つめ、冷笑し、さらに皮肉を浴びせるのだ。この一連の異様な反応に、尊大だった卓司は一瞬どうしてよいかわからなくなる。恐ろしい形相の男性信徒たちを前に、鏡には余裕さえあるように見える。辱めの極限にあって、なお自分を保ち続けた、あるいは取り戻したのだ。暴力と物化を極めたこの関係のなかで、鏡は弁証法的に「物神」となり、救世主の心を揺さぶる。しかし――この短い反撃だけでは、まだ若槻鏡の特異さは際立たない――その後、彼女は信徒によってコンクリートの柱へ釘で打ちつけられ、受難のイエスの姿で死んでいく。

もちろん、肝心なのはそれだけではない。疑問を抱いたまま第5章まで進むと、それまでの分析が一気に開ける。若槻鏡は、そもそも生身の人間ではなかった。間宮皆守が妹の羽咲へ贈った、ウサギのぬいぐるみだったのだ。ここには第4章、第5章の重要な展開が関わる。卓司として登場する人物の身体――以下、Aの身体と呼ぶ――のもともとの持ち主は間宮皆守であり、由岐と卓司の人格は、あとから入り込んだか、内側で生まれたものだった。皆守は妹の羽咲をとても大切にし、ずっと守ると誓っていた。ところが、物語が幸せな時を迎えたところへ、母が弟の卓司を連れて現れ、羽咲を誘拐する。現実の由岐は羽咲を助けようとして崖から落ち、命を失った。それを目撃した皆守の精神は一瞬で崩れ、Aの身体には卓司が寄生し、自我は身体の無意識へ封じられる。ウサギのぬいぐるみである若槻鏡は、兄妹の愛の代替的な補償となり、兄妹の絆の「不在」に「現前」を与えた。一方、卓司の人格も妹を大切にしながら、妹を生贄にしたいという母の欲望を尊重している。この二つの言説の秩序が衝突するなか、羽咲は卓司の葛藤の結び目となる。卓司は葛藤を取り除こうとして幻覚を作り、羽咲を、自分に対立する若槻鏡の妹、若槻司へと作り替える。そして、皆守への「憎しみ」と「羽咲を殺す」という強い罪責を、姉の若槻鏡へ移し替える。こうして鏡には、三つの顔が集まる。第一に、皆守の妹への愛の化身。第二に、卓司の皆守への憎しみを収める器。第三に、卓司の「妹殺し」の欲望を引き受ける「身代わり」だ。ここでようやく、プレイヤーは最初の三章に登場した若槻姉妹の正体を、おおよそ理解できる。

言い換えれば、あの「事件」は、卓司の教義を忠実に守る信徒たちが、ウサギのぬいぐるみに性的暴行を加えた、ということになる。主要人物が引き起こす出来事を際立たせるため、脚本があえて「通行人」を物語の構造から排除している可能性を考えれば、この行為全体を卓司一人の幻覚として理解することもできるだろう。信徒という空のシニフィアンは卓司の意識の分身にすぎず、暴行を実行する身体を提供し、ただ「強姦」という暴虐な行為を際立たせるためのものだ、と。しかし筆者は、ここで信徒たちをそのように単純化したくはない。彼らを物語の人形ではなく、「知性」を持つ人間だと仮定したい。すると、二つの場合が考えられる。一つは、信徒たちが集団的な幻覚を起こし、その現象世界では物が人になっている場合。もう一つは、それが「物」だと知りながら、それでも「物」を強姦し、快感を得ている場合である。後者はフェティシズムの構造を示している。

直感的にいえば、安易に一つ目から考えるべきではない。信徒たちがきわめてよく似た集団的幻覚を見るというのは、経験の水準では理解しがたい偶然だからだ。単なる物語上の都合だとすれば、結局「信徒の単純化」に戻ってしまう。ここではむしろ、人と物の関係をめぐる解釈学に訴えるべきだろう。「物」が信徒の目に「人」として見えていたかどうかは、それほど重要ではない。注目すべきなのは、物が人間の属性を帯び、人間が物のようになってしまうという、その奥にある物化の関係なのだ。

ウサギのぬいぐるみを抱く羽咲

先に述べたとおり、ウサギのぬいぐるみは単なる物ではない。皆守の妹への愛と、卓司の「妹殺し」の罪責を引き受けることとが結びついた存在であり、表象としての物の属性と、本質である社会関係の属性をともに示す。皆守の妹への愛がなお私的な性格を持つのに対し、卓司の罪責を引き受けることには、比較的社会的な性格がある。罪責の根源は、母とその背後の白蓮華教という〈大他者〉の命令にある。この命令は、卓司に働きかけるのと同じ仕方で、信徒たちにも働きかけているにすぎない。救世主である卓司に名指されたウサギのぬいぐるみは、黙示録を妨げる汚れ、象徴秩序から排除すべき他者と見なされる。だが、この物は人の意識から完全に独立した客観的実在ではなく、人間同士の関係を帯びた「物象(Sache)」である。だからこそ、物語にはあの暴行の場面が現れる。一方では、男性が女性に加える性的暴力の幻覚をこの排除の過程へ持ち込み、汚れの排除をジェンダーのヘゲモニーと結びつける。他方では、その映像の背後の真実が、物が人にとってよそよそしい他者であることを告げる。前者は、信徒が人間関係の理解を物の理解へ持ち込んでいることを示し、後者は、物への恐れと拒認を表す。この二つが弁証法的に統一されて、「物象化(Versachlichung)」の過程全体をなすのである。

「物」の文化論

このゲームには、暴力装置や政治制度の描写がない。邪教という神秘的な組織に上部構造を暗示させているだけなので、マルクス主義哲学の概念を持ち出すのは、少し場違いにも見える。しかし、この場面の物象化は、もっと広い社会文化のなかで考え続けることができる。もし若槻鏡がぬいぐるみではなく、性具だったら、問題はどうなるだろう。

知乎にはかつて、「ギャルゲーは女性を物化しているのか」という、何とも気まずい問いがあった。マルクスの物化概念に従うなら、これには検討すべき点が多い。物化が示すのは、資本主義の生産関係のもとで、人と人の関係が物と物の関係に支配され、置き換えられ、「商品」の形を取ることだ。ギャルゲーが女性を物化すると言うこと自体、適切ではない。

第一に、その言い方は物化を行う主体を想定して主客の対立を作り、家父長制の構造全体のなかでの主体と客体の位置、そして両者の微妙な相互作用を見落とす。第二に、その物化を行う主体をギャルゲーとすることで、生命も意志もない物が迫害者であり支配者であることになってしまう。これはひどく奇妙だ。したがって、女性を物化しているのはギャルゲーではない。多くの作り手は、ギャルゲーを通じて自分の内にある物化の意識を表す。その意識は、物としての作品に表れた姿を通して、今度は人に働きかける。こうして、物化された人間関係――男女の主人公のやり取り――が、プレイヤーの意識にも映し出されるのである。

月を背景にした女性キャラクターのCG

物化が示すのは、物と物の関係が人と人の関係に取って代わったという客観的な事実にすぎず、女性やその性器が、商品や道具と見なされることを映している。一方、物化の意識とは、人が物と物の関係を受け入れ、それに基づいて物を作ることで、現実のヘゲモニーの秩序を物にも反映させることだ。この二つは、時間を追って現れるのではなく、同時に存在する。そのため日本の研究者、廣松渉は、「物化」を「物象化」に置き換えることを提案した。マルクスの本来の意図を強調するためだ。形を持ち、物質として存在する物(Ding)は商品の外的な表象であり、形も物質的な実体も持たない物(Sache)――社会関係――は商品の内的な本質である。マルクスは、物が人にとってよそよそしく対立することを強調するが、それを物にいかなる自己もないことと理解してはならない。いやはや、実にヘーゲル的な読みだ。物象化は必然的に「間主観的」なものであり、「主客の対立」ではない。

要するに、オタクがゲームの美少女を見つめて遊ぶのは、一見すると物の擬人化だが、実際には、物と物の関係という表象の下にある、人と人の関係を感じ取っている。同時に、自身も美少女への転移のなかで、物と物の関係に陥っているのだ。

二次元のキャラクターにあらゆる欲望を注ぎ、物化の極みに達するほど敬虔な男性オタクがいると仮定してみよう。ある意味では、そういう人こそもっとも無害だろう。だが、物象化がまさに明らかにしているのは、人間同士の社会関係を刻まれた商品は、「人」を排除したそのような「物神」にはなれない、ということだ。男性オタクも完全に「物」へと成り下がることはできず、物神崇拝――あるいはフェティシズム――の過程で、転移という幻の形式を得る。一方では、異性愛の男性オタクはゲームのなかの物への欲望によって、現実の異性から確かに距離を取る。他方では、商品のなかにある物化された人間関係を、受け入れることから完全には逃れられない。結局、現実の付き合いのなかでも、この意識を多かれ少なかれ再現する。サイバー社会で、ただ「二次元キャラをぺろぺろする」ためだけの「デブオタ・ロボット」になるのでなければ。

寝転んだ人物の絵に「肥宅又做错了什么」と添えた中国語のミーム画像
画像の中国語は「デブオタがまた何をしたっていうんだ」。

フェミニズムの批判では、人を物として扱う物化の概念が、まなざし(gaze)と結びつき、比較的扱いやすくなる。物化は、主観の側で、人が自らの主体性を放棄し、自分にとって異質な外部の力へ同一化することだけを意味しない。客観的な水準では、物を観察の対象へ変える、体系的な手続きでもある。客体の持つある物的な特徴が、単独で取り出され、観察者のまなざしの下に置かれる。そこには、政治的な権力の不平等が表れる。このなかで物化が担うのは、見られる対象を商品化する過程だ。マルクス主義哲学の物象化と比べると、観念論的な色彩が薄いほか、物化の主体として、資本主義の生産関係ではなく男性を指すことが多い点にも、はっきりした違いがある。もっと具体的にいえば、主流の消費者の輪のなかで発言の場を失い、ならず者化した重度のオタクに、マルクス主義者がときおり同情を寄せるのに対し、ラディカル・フェミニストは、より批判的な態度を取る。家父長制の構造全体も、女性へ不快に馴れ馴れしく振る舞う個人も、批判の対象になる。実践的な運用の面では、フェミニズムの物化概念のほうが、行動を起こす力を備えているように見える。広く浸透し、大きな成果をいくつも上げてきた。

多数の目が一面に描かれた画像

マルクス主義哲学の男性オタクへの批判は、観念の批判として現れることが多く、カントの義務論的な色彩がかなり強い。対してフェミニズムは、物化が具体的にどう行われるかを問う。いま、コミュニケーション学や社会学などの経験科学は、ポルノ映像と性犯罪との相関を研究しようとしており、論争も大きい。知乎には、ポルノ映像が青少年の心身の健康に影響するかという問いへの回答がある。コミュニケーション学を専門とする回答者の一人の文章は、一読に値する。知乎の質問ページ

物象化の問題について、『素晴らしき日々』のこの部分は、社会全体を論じるところまでは進まない。しかし「人間中心ではない」立場から考えると、最後に鏡が卓司へ浴びせた嘲笑は、主従の弁証法において「物」が主客を逆転させることを、まさに示しているように見える。「ウサギのぬいぐるみ」を若槻鏡という女性として描いたのは、意図しない成り行きだったかもしれないが、そのためにジェンダー関係における物化が、具体的な姿であらわになった。家父長的な秩序のもとで女性が置かれる客体の位置と、人間の秩序のもとで物が置かれる客体の位置は、これほど似ている。そこからフェミニズムの新しい思考の道が開く。最後に鏡が一瞬だけ権力を奪うことは、人間の社会関係が、人に対立する創造物に支配され、物がふたたび人間関係の形を取るという物象化の過程を意味するだけではない。ハラウェイの描くポストヒューマンの時代を、暗示しているのかもしれない。若槻鏡は、凌辱され尽くして客体化の極みに至り、逆に、人間中心――ファルス中心――を脱構築する主体性を作り出す。正体が明らかになった鏡は、象徴的なサイボーグを、この弁証法的な衝突のなかへ遡及的に呼び込む。最後には、怒り狂った人間――男性――が、それを、彼女を、コンクリートの柱へ打ちつける。鏡はイエスの受難の形で使命を終え、一人の「聖女」の受難を語るのである。

柱に打ちつけられたウサギのぬいぐるみと、キリストの磔刑画を並べた画像

このくだりは、物語全体のなかではごくわずかに見えるかもしれない。だが、音無彩名の神秘性や、作品全体の猟奇的な位置づけと結びつければ、プレイヤーが味わうべき点は実に多い。ここから「物」の解釈をさらに広げることもできるし、鬼畜ゲームの「暗く、重く、残酷な」場面が果たす役割を捉え直す助けにもなる。ただ、本稿の主題から離れすぎるので、分析はここでひと区切りにしよう。

(二)「ゆり」の実践

若槻鏡の物語を読むことが、観念論の複雑なもつれへ入り込むことだとすれば、橘希実香の物語には、経験の水準でより確かな足場がある。物語を丁寧に追ったプレイヤーは、彼女の贖罪の行動に心を動かされずにはいられない。大きくいえば、この人物の存在そのものが、一つのフェミニズムの物語だ。個人としての行動で、終始自らの主体性を守り抜くだけでなく、ざくろとの「ゆり」の関係においても、思いをむやみに露わにせず、彼女に忠実であり続けるからである。

橘希実香の日本語の人物紹介。名前と声優名、文学・化学・物理についての紹介文がある

卓司の視点で進む第2章では、プレイヤーは男性のまなざしの主体となって、希実香の一挙一動をのぞき見る。一般的な美少女ゲームの視点と同じだ。しかし第3章に至るまで、彼女の行動にある特別な意味を、プレイヤーは知らない。複数の視点による非線形の語りが、構造のうえで巧みに、希実香の本当の姿と欲望を隠している。そのため真相が明らかになると、この人物は予想もしなかった感情をプレイヤーにもたらす。第2章だけを取り出しても、卓司への忠誠と、最後まで失われない醒めた意識のなかに、その「魅力」を見いだすのは難しくない。卓司のルートでは、彼女は確かに重要な助手となる。救世主は生徒たちの信仰を得るために、教室での終末の演説で三つの預言を立て、次に起きる「死」をはっきり予告する。だが、人格の不安定な卓司は、計画を仕掛ける最良の機会を思いがけず逃す。最後には希実香が卓司の名を借り、一人でその「予定調和」を完成させることで、救世主の威信を大きく高めた。その後、秘密基地で活動が始まると、演説する卓司の椅子になりたいと自ら申し出て、自分の上に彼を座らせる。第2章の希実香ルートでは、抜きん出た化学の知識を使って、卓司の薬物精製も手伝う。依存性を生む部分を除き、幻覚を起こす働きを残したのだ。そして校舎の屋上では、卓司と二人、宇宙へ連れ立って飛び立つ一幕を演じる。

ここには、他の信徒と希実香との根本的な違いが見える。誰もが信仰に迷い、預言の実現を待とうとしているとき、彼女はためらわず救世主の側につき、その神聖な権威を固めることまで手伝う。自らの意思で行動する、対自的な自由を十分に発揮し、救世主本人以上に自律的でさえある。何か特別な理由から、あるいは卓司の推測どおり、ざくろへの贖罪のために、希実香は救世主の身分を利用して、自分とざくろをいじめた者たちに徹底した復讐を行う。この復讐をめぐる関係こそ、希実香が救世主を信仰する理由であり、その信仰が他の信徒のものと異なる鍵なのだ。そして、この章のプレイヤーには、原因より先に結果が示される。それは後の展開の伏線になるだけでなく、この信仰関係が何を意味するのかを、先の章まで隠している。

笑顔を見せる希実香と、そのうれしそうな表情を記した中国語版の文章表示
中国語字幕の要旨:卓司の「椅子」となった希実香が、うれしそうな表情を見せる。画面の地の文も彼女を「椅子」と呼んでいる。

画像内の中国語の意味:希実香がうれしそうな表情を見せる、と記されている。

ここまで来ると、希実香ルートでの、彼女と卓司の絆に触れずにはいられない。このルートでは、救世主の卓司も、彼女が他の信徒と異なることに薄々気づく。信徒たちは死を忌み、終末のあとに生まれ変わることを願って救世主に運命を捧げることで、消極的な主体性を形づくる。だが希実香は、一心に死を求めながら、現実の社会関係を静かに邪教の場へ持ち込み、積極的な主体性を形づくる。卓司は、忠実な希実香に手を下して殺すことができない。なぜ彼女がざくろの死を、そこまで自分の責任だと考えるのかも説明できない。教師の自殺を引き起こし、薬を改良し、卓司の「椅子」になることを求める彼女は、他の信徒以上に熱狂的だ。そればかりか、救世主という身分へ踏み込んでくるようなところがある。受け取る者が逆に要求する者になる、主従の逆転である。救世主はついに、邪教の知が支配を支える「大学のディスクール」のなかに、とどまってはいられないと気づく。そして、一つの「負の幻覚」を作らざるをえなくなる――橘希実香を愛してしまうのだ。そこから、想像の枠をあふれ出たものをたどって現実を見いだし、希実香ルートでは人間としての感情を見せる。

しかし第2章のプレイヤーは、彼女の具体的な欲望を知らない。プレイヤーのまなざしも卓司のまなざしも、同じ死角に突き当たる。目の前にいるのは、自分を崇拝している様子もなく、独自の道を行く少女だ。私たちは問わずにはいられない。彼女はいったい、何を望んでいるのか?この問いは、卓司の転移を開くと同時に、プレイヤーの転移も開く。救世主が希実香を愛し、人格を持つ自分の一面を見いだす鍵は、彼のような全知全能の救世主でさえ、彼女の欲望のシニフィアンを捉えられないことにある。

星空を背景に、上下逆さに描かれた希実香のCG

ルートの終わり、橘希実香はついに、自分のせいでざくろが死んだという深い後悔を、卓司に打ち明ける。彼女が復讐したいのは、二人をいじめた者たちだけではない。ざくろが迫害されるのを見ながら、何もしなかった自分自身にも復讐したいのだ。語り終えると、彼女は立ち上がって屋上から飛び降りる。救世主の卓司は、とっさに彼女を抱きとめ、二人で地面へ落ちていく。最後の画面は、宙に浮いた二人の、ある一瞬で止まる。希実香は微笑み、涙を流す。贖罪を果たせたことで解き放たれたのか。それとも、誰かに愛されたことに心を動かされたのか。私たちにはわからない。この表情の記号を、一つの意味に還元することはできない。その記号自体が、人物の還元不可能な構造であるかのようだ。意味を追うまなざしは、ここで遮られる。逆に、見ている側の主体が、自らを差し出すよう求められるのだ。希実香が自分を好きなのか、卓司にはわからない。卓司の視点に立つプレイヤーにも、希実香が自分を好きなのかはわからない。彼女の欲望は問いとなり、それがまた、説明し尽くせない彼女の主体を成り立たせる。

ざくろと希実香

第3章に入ると、この批評の上篇で述べたように、プレイヤーはようやく、希実香が自分を責める理由の核心を知る。彼女が忠実だったのは、ざくろと共に苦難を生きた、忘れがたい過去なのだ。第3章の分岐ルートは、ざくろと希実香が成長する舞台でもある。

ここでは、二人の「ゆり」の愛はひとまず論じない。それは複雑な転移だからだ。代わりに、女性として共に持つ経験を掘り下げてみよう。ざくろと希実香は、ともにいじめられる側に立ち、恵、聡子、城山ら、同じ加害者たちから迫害を受ける。食物連鎖の下層に置かれ、言説のなかの他者として敵視され、排除されている。この対抗関係があるからこそ、希実香とざくろのあいだには、弱い者同士が苦境で支え合う関係が生まれ、共に抵抗を実践する可能性が開く。ただし、この対立の境界は、初めから明瞭に引かれ、きっぱり分かれているわけではない。それを左右する鍵は、プレイヤーの選択にある。上篇では、ざくろが希実香のことを考えない選択を取り上げた。そのルートでは、二人の同盟は成立しない。プレイヤーの選択が、ざくろの希実香への関心の足りなさを遡及的に形づくり、同時に、服を剥ぎ取られた希実香が教室の隅でひとり悲しんでいる姿を、ざくろに見逃させるからだ。この一手の違いで、ざくろと希実香はすれ違う。ざくろはついに迫害され、希実香も贖罪の悲劇へ進んでしまう。

夕方の教室にいる希実香。中国語版の台詞では、クラス全体から無視されることと、転校生がその禁忌を破ったことが語られる
中国語字幕の要旨:希実香は、クラス全員が自分を無視するなか、転校してきたざくろだけが、空気を読まずにその禁忌を破り続けたと話す。

画像内の中国語の意味:希実香は、クラスの皆が自分を無視しているが、転校してきたばかりで空気を読まない相手、つまりざくろが、その禁忌を破り続けていると話す。

もう一つの選択では、ざくろは希実香のことをよく考える。それによって、彼女を気遣う行動を、さらに一歩進めて取ることができる。教室の隅でいじめられた希実香を見つけたざくろは、言葉を交わす。世間知らずで無垢なざくろに、希実香は心を動かされるとともに、困り果てる。この会話で希実香は、ざくろを近づけたくなかった本当の理由を明かし、初めて罪悪感に触れる。これによってプレイヤーは、第2章の希実香の行動の意味を確かめる。その後のやり取りでは、恵たちにいじめられる本当の理由も、希実香の口から明かされる。恵の恋人である城山が、希実香とざくろはとてもかわいいと恵に話したため、嫉妬を買ったのだ。心優しい希実香は、自分がいじめられるほうがまだよいと思っている。誰かが自分を気遣ったために、とりわけあの無邪気な気遣いのために、巻き添えを食うことは望まない。このルートでも、彼女はざくろの純粋な善意を、何度も何度も拒んでいた。しかし、二人のやり取りのなかで、その拒絶は次第に、うれしさをにじませる冗談へと変わっていく。物語の中盤には、希実香はもう、自分を本当に気遣ってくれるこの少女を放っておけなくなっている。レストランの事件で、ざくろはついに爆発し、希実香を連れて逃げ出す。ここで二人の、苦境で支え合い、同じ相手に抗う関係が、はっきりと成立する。

城山翼が恵の前で二人を褒めたことと、いじめの理由をめぐる中国語版の会話
中国語字幕の要旨:希実香は、城山が恵の前で自分たち二人をかわいいと言ったことを明かす。ざくろには、それがなぜいじめる理由になるのかわからない。

画像内の中国語の意味:希実香が城山翼という男を知っているかと尋ね、ざくろは、とても怖いと聞く不良のことかと答える。希実香は、城山と赤坂恵が付き合っていると話す。ざくろが、それでどうしたのかと聞くと、希実香は、城山が恵の前で自分をかわいいと言い、それからざくろのことも褒めたのだと説明する。ざくろは驚き、それがどうして恵にいじめられる理由になるのかと尋ねる。

ここまでの展開は、希実香がざくろへ転移し始めると同時に、ざくろがかつての幼さを断ち切るしるしでもある。レストランの事件で一瞬現れたヒステリーの症状は、ざくろが心のなかで保ってきた幻想を突き破る。文学的な想像に浸っていた少女にとって、現実のなかで自分を奮い立たせる宣言をし、粘り強く抵抗することほど、それまでの自分を覆す力を持つものはない。これは、弱者が立ち上がる過程であるだけでなく、一人の少女がナルシシズムに別れを告げる成長でもある。現実とのつながりを結び直し、自分が抑圧される位置にいることを知り、主体として積極的に行動することで、自分を形づくる成長だ。その行動は、想像上の異性愛の関係を目指すものではなく、いじめを受ける女性たちの共通の経験に基づいている。内容の表面には恵たちへの抵抗があり、構造の核心には、恵と城山の異性愛のヘゲモニーをめぐる物語への抵抗がある。

他人の言いなりであり続けることと、虫けらのような自分をめぐる、ざくろの中国語版の内語
中国語字幕の要旨:ざくろは、他人の望むとおりに振る舞えば以前のように踏みにじられずに済むかもしれないと迷いながら、それでは虫けらの生き方だと思い直す。

画像内の中国語の意味:他人の思うままに動いてはいけない。このままでは、あのときと同じになってしまう。いや、違う。素直に従い、相手の望む自分を演じれば、以前のようにいじめられずに済むかもしれない。虫けらのように蔑まれ、踏みつけられ、虐げられずに済むかもしれない。しかし、それこそが虫けらのやり方だ、とざくろは考える。

こうした実際の行動のなかで、二人の「ゆり」は初めて本当に成立する。本作の序章や、他の日常系作品が示す「ゆり」に比べ、ここの「ゆり」は危うく不完全な環境のなかに生まれ、烙印を振り払うように花開く。無垢で何も心配せずにいられるあり方を犠牲にし、「ゆり」が直面する現実の困難を強調するのだ。その困難は制度的な排除によるものではないが、いじめる恵や聡子の言動には、「異質な者」への激しい敵意が感じられる。恵の恋人、城山の賛辞についてはいうまでもない。恵が初めに二人を嫌ったのは、恋人に気に入られようとする従属関係からだった。そして、このように権力を受け継ぐ「引用」の背後には、希実香とざくろの独特な個性――ざくろの無垢さ、希実香のひょうきんで一筋縄ではいかないところなど――も、さらに関わっているのかもしれない。序章でざくろが作ったのは、男性を排除した十全な女性のユートピアであり、彼女の無垢さが世界全体の秩序でもあった。しかし第3章の学校での暴力は、ここが無垢さを尊重するユートピアではないことを告げている。幸福になりたいなら、立ち上がって抗わなければならない。

剣士、詩人、哲学者である自分を思い起こし、変わろうとするざくろの中国語版の内語
中国語字幕の要旨:ざくろは、自分は剣士であり、詩人であり、哲学者であって、虫けらではないと自分に語りかける。そして、変わろうと決意する。

画像内の中国語の意味:けれど、自分は剣士であり、詩人であり、哲学者なのだ。自分は、自分は……と繰り返し、虫けらなどではない、自分は変わるのだと思い直す。

夜の街にいる希実香。中国語版ではざくろが、自分を助けるために希実香がひどい目に遭うのは嫌だと伝えている
中国語字幕の要旨:ざくろは、自分を助けるために希実香がひどい目に遭うのは嫌だと伝える。

画像内の中国語の意味:ざくろは、そんなのは嫌だ、自分を助けるために希実香があのような扱いを受けてほしくないと伝える。

第3章の現実の秩序が、とりわけはっきり表れるのは、そこが男性のいる社会だという点だ。ざくろと希実香は同じ側に立って闘っているが、ざくろはなお、由岐の人格が表に出た卓司に恋心を抱いている。そのため二人の「ゆり」のあいだには、男性の第三者が宙づりになったまま介在する。実際には女性なのだが、当人たちはそのことに気づいていない。ざくろの気持ちの変化と学校での暴力の解決は、裏と表の二本の筋をなす。皆守の人格が表に出た卓司と接する機会が増えるほど、ざくろは自分の恋心を疑うようになる。その疑いが、逆に、希実香との関係をさらに進めていく。

夜の屋上の二人。間宮が脳についての自分の言葉を訂正する、中国語版の会話
中国語字幕の要旨:間宮は、先ほどの言い方を訂正し、たばこは脳にもよくないと話す。

画像内の中国語の意味:間宮は、いや、言い間違えた、たばこは脳にもよくないと話す。

二人とも抵抗の準備は十分に整えているものの、設定上、この二人の女性はなお、力では相手に対抗できない。山場では、城山が率いる不良たちに襲われ、押さえ込まれて万策尽きたところへ、卓司――皆守――がちょうど現れる。そして圧倒的な古武術で、いじめる者たちを一人ずつ倒す。「英雄が美女を救う」場面が展開し、作品全体でも屈指の熱い瞬間となる。だが、童話の描き方とは正反対に、皆守の人格は善良ではあっても、礼儀正しい紳士でも、お姫様に忠実な騎士でもない。ただの血に飢えた暴力狂だ。公園へ来たのは自分の玩具――ざくろと希実香のことだ――を見つけ、ついでに誰かを相手に憂さを晴らすためだという。闘うなかでも、過剰なほどの攻撃性と加虐性を見せ、その言動に、希実香もざくろも唖然とする。眼前でほとばしる男性のリビドーは、ざくろの卓司の正体への疑念を深めるだけでなく、彼への転移の連鎖を断ち切る。ざくろはついに気づく。自分が恋したのは、この暴力的で粗野で攻撃的なA――皆守――ではない。礼儀正しく、文学や芸術を愛し、知的なA――由岐――だったのだ。彼女が求めるのは、規則と暴力を一身に集めた聖なる父でも、ロマンスで権力を覆い隠す白馬の王子でもない。むしろ、ウルフのいう両性具有的な人物に近い存在なのである。

戦闘に現れた皆守と、間宮卓司の名を呼ぶ希実香の中国語版の台詞
中国語字幕の要旨:希実香が、現れた人物を間宮卓司の名で呼ぶ。

画像内の中国語の意味:希実香が、つかえながら間宮卓司の名を呼ぶ。

脚本の設計として、この場面は捕らわれた二人に解決の手段を与えるためにある。だから、一人で十人を相手にできるほど強く、しかもざくろや希実香とつながりのある人物を、助けに来させなければならない。設定上、その条件を満たすのは由岐と皆守だけだ。このルートの序盤の伏線はひとまず置くとして、ここで男性の皆守を救い手に選んだことは、一面ではフェミニズムの物語として惜しい。女性たちはなお、男性の力を借りて自分たちの危機を解決しているからだ。だが他方で、これは皆守がこの世で見せる最後の暴力の演技でもある。皆守はその力によって卓司の人格に対抗し、調停者である由岐の人格をAの身体へ導き入れるとともに、希実香とざくろの仲を深めるための道を整える。この暴力の場面は、英雄が美女を救う童話ではない。まもなく去る自分自身に耽る、皆守の「独り舞台」なのだ。驚く希実香とざくろは、どこか場の外にいるかのように、まなざしを向ける者として、目の前の恐ろしいサディストを見ている。プレイヤーもざくろの視点から皆守にあれこれ突っ込みを入れる。そこには、この構図がいっそう戯画的に表れている。

血まみれになった人々をめぐる中国語版の会話と、間宮の笑みにざくろがぞっとする地の文
中国語字幕の要旨:皆が血まみれだというざくろに、間宮は、それでもこうするしかないと笑う。ざくろはその笑みにぞっとする。

画像内の中国語の意味:ざくろが、でも皆が血まみれだと言う。間宮は、そうだが、こうするしかないと笑う。ざくろは、その笑みにぞっとする。

だから、その後の展開は少しも不思議ではない。ざくろは卓司と友達にはなりたいが、もう彼に恋することは難しい。代わってそこにいるのは希実香だ。苦楽を共にした、この少女。抜群に頭の切れる、この理系の秀才。口では嫌いと言いながら、本当は自分を放っておけない、このツンデレ。ざくろは、ついに成長した。受け身のまま自分の想像世界に浸る消極的な主体ではなく、積極的に進み、愛する人のために闘う、自らのために行動する人になったのだ。城山たちと皆守の人格が去ると、物語の最後に、本当の意味での女性のユートピアが生まれる。最初から十全さが与えられた序章と違って、この幸福は、なんと得がたいことだろう。そして、これから出会う難題にも向き合わなければならないと、いつもかすかに私たちへ告げている。

ざくろと希実香のキスのCG。中央に大きなハートの覆いがあり、中国語の文章も一部隠れている
炎をくぐり抜けて、生まれ直す。 中国語字幕の要旨:心のなかのさまざまな考えも変わった、と記されている。文の一部はハートで隠れている。

炎をくぐり抜けて、生まれ直す。

画像内の中国語の意味:見える冒頭は、間宮が変わったことに触れる断片。後半では、心の中のさまざまな考えも変わったと記されている。文の中ほどはハートで隠れている。

青空の下のざくろと希実香。中国語版の文章は、かつて恐ろしかった明日への一歩に触れている
中国語字幕の要旨:かつては恐ろしかった、明日へ踏み出す一歩に思いを向ける。

画像内の中国語の意味:かつては恐ろしかった、明日へ踏み出す一歩……。

ざくろの抵抗は、ついに物語の行方を変えた。この分岐ルートでは、彼女は自殺せず、希実香と身を寄せ合って生きる。卓司も救世主として覚醒しない。皆守は使命を終え、卓司の人格を伴って消え、由岐はAの身体を動かして現実の生活を楽しむ……。作品の前向きな力は、このルートで穏やかに語られる。しかし最終的な本筋は、私たちがなお、悲劇を芯に抱えた喜劇の外観に執着していることを、繰り返し告げる。あの本筋の悲劇があるからこそ、ようやく得られたこの幸福を、いっそう大切に思うのかもしれない。

おわりに

これで、このコラムの最初の批評は、おおむね書き終えた。この作品は筆者にとって少し特別な意味を持つ。そのため言葉を惜しまず、三篇も書いてしまった。正直、相当な時間と力を使った。次からの批評は、もうこんなに長くしない。できるかぎり多くの水準と角度から物語全体を示し、ジェンダーの視点でその背後の文化を分析しようとした。けれど、筆者の力にも気力にも限りがあり、重要な点はまだいくつか取り残している。たとえば、悪夢のような存在である音無彩名。そして、本作の筆頭主人公、水上由岐。彼女は知的で非常に個性的な人物であるだけでなく、物語の半分を支えており、どの章にもその影が見つかる。それでも、結局は彼女の分析を諦めた。どこに焦点を当てればよいのかわからなかったからかもしれないし、愛ゆえかもしれない。なんて。

他方、この作品の「猟奇」「鬼畜」についても、掘り下げられるところは多い。若槻鏡が暴行を受けるあの鬼畜的な場面からは、「アブジェクト」や「怪物」をめぐるラディカルな文化哲学へ議論を広げられる。ただ、それを論じるなら、ジェンダーの視点だけにとどまることはできないし、この作品の猟奇・鬼畜場面だけを典型にするわけにもいかない。「暗く、重く、残酷な」領域で成果を上げたアニメ・漫画・ゲームの作品は、世にあまりにも多いからだ。和泉のあの野郎の作品だけでも、何本かまとめて論じられるほどである。だが、この領域の分析には、サブカルチャーにとって特別な意味があるかもしれない。なので、いつかまた――いつかは、ご想像にお任せする――皆さんと一緒に考えていきたい。

最後に、皆さん、応援ありがとう。

本文終わり

特記のない限り、当サイトのコンテンツは CC BY-NC-SA 4.0 で提供します。ライセンスに沿った転載を歓迎します。もし皆さまのブルジョア法権を侵害していたら、ご一報ください。管理人に、ただちに記事を消してずらかる「遊士の倫理」を実践せよ、と釘を刺していただければ幸いです。

SEARCH / サイト内検索

屋頂現視研を検索

よく使われるタグ

08
#女性主义76#精神分析38#动画制作36#动画评论34#性别研究32#拉康26#世界系25#动画演出22

本文の検索結果

—

語句を入力すると、公開中の記事と連載章を検索します。