下篇
LISTEN / NETEASE CLOUD MUSIC

三、完結する世界
TV版『EVA』の最終回――ここでいう「最終回」は、実質的には第25・26話の意識の流れによる思考を含む――を、予算不足のため制作陣がいいかげんに済ませた未完成品だと考える観客は多い。だが、この見方は論理的に筋が通らないだけでなく、実際の証拠からも反駁できる。
第一に、庵野秀明はインタビューで、最終回の結末を真剣に考えたことを、一度ならず語っている。1 その言葉を、中国語訳から引こう。
庵野:(第25話と第26話は)映像の表現や台詞といった方法論は違っても、本質的には、結末で表したかったことと同じです。
記者:そうなんですか。最後は時間が迫って、本来やりたかったものを中途半端にするくらいなら、思い切って賭けに出よう、ということかと思っていました(笑)。失敗するにしても、ちゃんと形になる失敗にしようと。
庵野:いや、それもありました。でも、それは方法論にすぎないんです。締切間際になって、劇中劇や舞台のようにすることを思いついたのはたしかですけど、シンジ君にほかの人を見てもらう。表面だけでなく、その人の過去も見てもらう……どんな人間にも汚いところがあるでしょう。でも人と付き合うとき、とくに相手に嫌われたくないときには、できるだけ自分の悪いところを見せないようにする。なるべくいいところを見せようとする。でも、いいところだけではなく、その人の負の部分も見なければ、その人を独立した一人の人間として見たことにはならないんです。
(1996年『JUNE』庵野秀明インタビュー。)
第二に、最終回を作者の無責任な「発狂」と見なすことも、やろうと思えばできる。だがそれは、TVシリーズを読むこと自体を放棄するに等しく、テクストを読む原則に反している。その第一の原則は、作者は狂っているわけではない、ということだ。そうでなければ、いかなる読解にも意味がなくなる。読むとは、テクストを理解して、それを言葉にすることであり、「発狂」とは「理解不能」「話が通じない」という意味だからだ。この読み方は、わからない箇所を作者の狂気のせいにする自己中心的な読みと、たちまち重なってしまう。作品の理解不能な面にどうしても触れるなら、それも読解の失敗を通して行う必要がある。初めから読むことを放棄すべきではない。放棄には、作者を完全に理解したと確信する傲慢な態度が潜んでいるからだ。「作者が狂っているだけだ。読む価値のあるところなどない。」この読み方は自己矛盾している。一方では作者を完全に理解したと宣言し、他方では作者は理解不能だと宣言するのである。
「最終回は無責任なやっつけ仕事だ」という見方を、論理と証拠の両面から退けた以上、最終回を真剣に読む必要がある。ただし、その前に、自分の読みをいわゆる「深読みのしすぎ」とどう区別するのか、明らかにしておきたい。過剰な読解とは、作者本人の考えを過度に憶測し、相応の証拠もないのに、自分の主観的な考えを作品に無理やり押し込むことをいう。
ここで筆者が行うのは、アニメ作品そのものの内的な思考の筋道から論理的に推論し、『EVA』の最終回がいったい何を「表現」しているのかを判断して、それに応じた「再構成」の道筋を示すことだ。まず目の前に現れるのは、第26話の一連の意識の流れの画面である。以下では、その問答をたどりながら、推論の筋道を再構成していこう。
1. 人間は脆弱であり、他人に頼らなければ生きていけない(碇ゲンドウ)。したがって、生き続けるためには補完計画を実行しなければならない(同)。

2.

3. なぜ生きるのか。生きる理由を知るために生き続けるのか(アスカ、綾波レイ)。ならば、生きる理由とは何かを探る必要がある。
4. 第一の仮説――快楽。
a) 生きるのは楽しいことをするためだ。したがって、苦痛や嫌なことを避けるのは正当である(シンジ)。
b) ところが、なぜシンジは、それでも逃げてはいけないと思うのか。「逃げたあとで苦しくなる」からだ。つまり「苦痛から逃げること」が苦痛になる。これは矛盾したジレンマである。どうしても快楽を得られないことになるからだ。
c)

d) なぜか。逃避は、さらに大きな苦痛をもたらすからだ。
e)

f) ここまでの『EVA』第26話の結論は、以下のとおりだ。
-
i. 生存には意味がある。生きるのは快楽のため、あるいは苦痛を避けるためである。
-
ii. 苦痛から逃げても苦痛は残る。それでも、より大きな苦痛を避けるためなら、その苦痛を引き受ける必要がある。したがって苦痛の総量は減り、快楽の総量は増える。
-
iii. つまり、生きるのは快楽を最大限に得るためであり、快楽とは苦痛を最大限に避けることにある。
g) この考えによって、「苦痛から逃げることも苦痛だ」という矛盾は、うまく解決された。同じ苦痛でも、その程度は異なるからだ。矛盾は解けた。補完は終わってもよさそうだ。
他人からの承認
h) さらに問い直す。では、逃げると苦しいのはなぜか。逃げる者は軽蔑され、他人の承認を得られないからだ。したがって、ここで実際に導かれた命題は、「快楽は他人から承認されることにある」というものだ。

i) だが、「他人に認められる」ために「逃げない」とすれば、それは実際には「他人から嫌われるのを避ける」ことに等しく、やはり逃避である。他人に認められようとして「逃げない」ことが、他人の嫌悪からの「逃避」へと反転するのだ。したがって、どうしても逃避になる。
j) だから、そのような行動は他人の承認を得るどころか、再び軽蔑を招く。

k)

l)

m) ここまでの論理は、こうなる。
-
i. 生きるのは快楽のためであり、快楽は他人から承認されることにある。
-
ii. したがって、他人の承認を得られなければ快楽はない。
-
iii. 逃避する行為は、他人に認められない。
-
iv. しかし、他人の承認を得ようとする行為も、他人の憎しみから逃げることと見なされるため、やはり逃避である。逃避は他人に認められず、認められなければ快楽はない。
-
v. したがって、他人の承認を得ても、得なくても、快楽はない。ゆえに人生に快楽はありえない。
-
vi. ここまでの推論の最終結論。快楽の得られない人生に価値はない。したがって人生には価値がない。ゆえに、「自分は永遠に他人の承認を得られない」という事実に向き合うことによってのみ、快楽を最大化できる。どうしても逃避は生じ、苦痛も生じる。だが、「どうしても快楽を得られない」という事実からは、もはや以前のようには逃げていない。だから逃避の総量を最小に抑えられ、苦痛の総量も最小になり、快楽は最大化される。こうして、快楽と苦痛を比較することで、ジレンマは再び解決された。補完は成功したようだ。




n) だが、この結論も再び否定される。
o)




p) つまり、最初から「自分はどうしても快楽を得られない」を事実と受け止めていれば、快楽を得られないことを受け入れ、その事実に苦しまずに済む。しかし、それはまたしても苦痛から逃げたということだ。したがって、先ほどの態度は倒錯であり、真実に近づいたわけではない。
エヴァに乗ることで得られる承認
q) とはいえ、以上の推論の失敗は、快楽が存在しないことを意味しない。推論ではなく経験によって、シンジは再び快楽への道を見つける。エヴァに乗ることだ。どういうわけかわからないが、エヴァに乗りさえすれば、認められる。
r)

s) シンジは結論する。いまの自分にはエヴァしかない。エヴァに乗りさえすれば認められ、生きる価値を見いだせる。「エヴァに乗るとなぜ認められるのか」は重要ではない。この点は問い直されない。
t) したがって、「エヴァに乗れば快楽が得られる」という命題は、経験的なものにすぎず、必然的ではない。外から与えられたものであり、自分自身から生じるものでもない。ゆえに、この快楽もまた不確かで偶然的なものとなる。不確かなものに快楽を託すのは、「快楽を得られない」という事実からの、一時的な逃避にすぎない。
u)





v) 「エヴァに乗ること」は自分自身から生じるものではない以上、自分では制御できない。エヴァに乗れるようになるか、乗れなくなるかを自分では決められず、自分の快楽も制御できない。エヴァが消えれば快楽も失われ、人生には何の価値もなくなる。自分の力で得た価値だけが、本当のものなのだ。
w)

自分で自分を満たす
x) こうして、他人から快楽と幸福を得るための、演繹による道も経験による道も、すべて失敗した。自我には価値がない。価値のない自我は、自我がないに等しい。自我がないとは、「自我」が空虚な記号だということだ。私には、自分を超えて他者へ向かう価値が一切ない。私は私であり、それ以外には何もない。自我は完全に閉じており、自分を知り、理解し、慰め、快楽を与えられるのは、自分だけである。これは、純粋に自己規定する自由な世界だ。
y)


z)


aa)


ab) これで、また完全な状態に至ったように見える。他人から快楽を得られないのなら、自分自身から得ればよい。自分と自分の間には、隔たりも差異もない。自分は、自分を苦しめないからだ。
ac) しかし、自分に快楽を与えるには、自分を知る必要がある。ところが自我は空っぽで、知るべき内容が何もないのなら、どうやって自分に快楽を与えるのか。したがって、「自分で自分を満たす」とは、自己欺瞞にすぎない。
ad) だから、純粋に自由で、自らを規定する世界は、空虚で内容のない世界である。そこでは何も得られず、したがって快楽も承認も得られない。
ae)


af)



ag) さらに、実際の自我は、内容のない空虚でもない。周囲の環境と関わり、変化し、新たな内容を生み出す。自我は変化し、それまでの自我との間に差異が生じる。ならば、ある時点の自我によって、そこから変わってしまった自我を満たすことは不可能だ。「自己満足」が可能なのは、変わることのない自我にとってだけである。
ah)


ai) ここで、自我から快楽を得る道も、他人から快楽を得る道も否定された。純粋な自由が生み出したのは、快楽ではなく、一面の虚無だった。
存在と制約
aj) それでも、快楽は存在の上にしか成り立たず、虚無の上には成り立たない。いまなお快楽への道はわからないにせよ、少なくとも「まず自我が存在しなければならない」ことだけは、確かめられる。では、自我が存在するにはどうすればよいのか。答えは――自由を捨て、有限で制約のある世界へ入ることだ。
ak)




al)


am) 自我は他者がいることで自由を失う。しかし制限があるから内容を持ち、内容があるから理解できるものとなり、理解できる内容があるから、他人に承認される土台を持つ。自我が現実の存在であろうとするなら、自分とは異なる他者を受け入れざるをえない。だから自我はつねに、自分と他人との距離や差異によって形づくられる。

an)

ao) したがって、ここまでの論理はこうなる。
-
i. 少なくとも、自分がまず存在して初めて、快楽を得られる。実際に快楽が可能かどうかは別として。
-
ii. しかし、現実に存在するとは、制限を受けることだ。自我が自我を制限することはできない。自分で自分を制限するのは、制限がないに等しいからだ。自我を制限できるのは、自我とは異なる他者だけである。
-
iii. したがって、自我は自分とは異なる他者に依存する。自我の存在は、心の壁の存在に依存する。
-
iv. 心の壁は苦痛の源だが、同時に存在の源でもある。
-
v. したがって苦痛が、自分の存在を保証する。苦痛がなければ存在できず、快楽も得られない。
-
vi. ゆえに苦痛は快楽の前提であり、苦痛がなければ快楽もない。
ap) どうやら、ここで保証されたのは快楽の前提だけのようだ。「存在」という前提を得たあと、快楽をどう獲得するのか。それは、まだ解けない謎である。
推論の中断と祝福
aq) ところがこの瞬間、『EVA』は唐突に心の中で進む推論を終え、代わりに他人の承認を差し出す。
ar)

as) そして次に入っていくのは、完全に空想された平穏な日常だ。それまでの「現実の存在、現実の他者と向き合う」という主旨に反している。続いて、現実の問題が、突然、純粋に内心の問題へと置き換えられる。現実は必ずしも苦痛ではなく、角度を変えて見れば幸福なのだ、と。
at)






au)

av)

aw)

ax)

ay) そのまま、全員から祝福される場面へと続く。
az) それまでの読みは、すべて失敗した。筆者は打ちのめされた。
読解が失敗するのは、BGM「Good, or Don’t Be.」が鳴り始める、その瞬間だ。それまでの分析からは、ストア主義への批判が見えていた。ところが突如として、自己への省察と問い詰めが放棄され、「視点を変えさえすれば、世界は違って見える」という相対主義的な倫理観へ移ってしまう。
それどころか、第26話の最後、皆がシンジを囲んで拍手し、「おめでとう」と祝う場面も、私たちが思い描くほど調和した美しいものではないのかもしれない。この「おめでとう」は、90年代の自己啓発セミナーを思わせる皮肉のほうに近い。まして旧劇場版の結末では、アスカは補完を拒み、LCLの海でシンジに「キモチワルイ」と真っ向から浴びせかけるのだ――
中国語版には、大塚英志『「おたく」の精神史』からの引用として、次の日本語が掲げられている。
全登場人物に囲まれ、自分を発見した主人公シンジが拍手され、人々は口々に彼に「おめでとう…」と言う。このラストシーン、思い当たる人もいるだろうが、自己啓発セミナーのカリキュラムの最後と見事に同じなのだ
これに添えられた中国語訳も、皆が主人公を囲んで拍手と祝福を送る光景を、「自我开发训练营」――自己啓発のための訓練合宿――になぞらえている。
自己啓発セミナーは、当時流行した心理的な指導の形式だ。セミナーの集団は小さな社会のようなもので、参加者は独特の問答を通じ、自分を変えるための心理的な指導を受ける。TV版『EVA』の最終話に頻出する問答も、これに似ている。最後にほかの参加者から祝福され、集団内の承認を通じて自分の意味を得る。大塚英志の見解を要約すれば、この結末は、この時代に自分が成長するには自己啓発セミナーのような方法によるほかない、ということを皮肉にも証明しているのだという。(「90年代のすべて――自殺マニュアル、転生戦士、最終戦争、EVA」)
こう読めば、この結末は、皆がシンジを、その内心と勇気を認め、それによって心の壁がすっかり消える補完だというより、完全さの「拒絶」と捉えるほうがよい。加えて『まごころを、君に』の結末を見るかぎり、庵野秀明本人も補完には反対しているように見える。
ある意味で、TV版『EVA』は結末でしくじっている。筋立てが破綻したのではない。最後に、作品そのものの論理と主題が崩れてしまったのだ。『EVA』は、「他人がいないとは、自我に内容がないに等しい。内容のない自我に固執するとは、いったいどういうことなのか」という偉大な考えを深く表現している。そして「本当の自我」なるものが、実はまったく形而上学的な自己欺瞞にすぎず、自我が他者によって必ず歪められるその場にこそ真実があると、明らかに気づいている。それなのに、この反ストア主義的な志向は、結末の強烈なストア主義的調和と統一によって、かき消されてしまう。2 外界との闘争をひととおり経た末に、自由は抽象的な心の中にあった、と発見するのだ。
そもそも、皆に囲まれ拍手してもらう、この集団療法自体が疑わしい。他人が自分を承認するかどうかは、まったく制御できないからだ。制御できないものを治療に使うのは、無責任な態度である。だが、儀式のように他人へ承認を強制するなら――心の中でどう思っていようが、せめて礼儀としては祝福するようにさせるなら――その承認は偽物になる。そして偽りの承認こそ、実は補完計画の真相なのだ。ここには、セカイ系の問題がじつにわかりやすく現れている。3 すなわち「世界の問題を、個人の心の決断によって」解決するという問題である。再構成するなら、こう読めるかもしれない。TV版の幻想の世界は皮肉であり、『まごころを、君に』の精神分析的な結末こそ本当の結末だ、と。そうすれば、『EVA』の内容の深さを最大限に保てる。
筆者が「おめでとう」のくだりから直接受ける感覚は、癒やしであると同時に、不条理でもある。対象としてあるものがすべて、もう崩れなくなったかのようだ。ならば、いっそ考えるのをやめてしまおう。あらゆるものが自分で自分を解消してしまったので、皆は「拍手」を始める。こうして、客観的な矛盾の構造がすべて主観の問題へと変えられる。TV版の結末は、ここで皮肉な結末となる。「ははは、自分が苦しいのは考えすぎのせいだと、本気で思ってるの? いいよ、それで。おめでたいね!」
私たちが外から見れば、その皮肉はいっそう明白なのかもしれない。自我が完全になるには、偽りの励ましに頼らなくてはならない。想像してみてほしい。もともと自分との間に隔たりや距離のある人たちが、自分が閉じこもって考え込み、そこから立ち直ったあとで、笑顔で「おめでとう」と励ましてくる。目の前が暗くなるようなこの仕掛けは、パフォーマンス・アートさながらだ。だが、さらにパフォーマンス・アートめいているのは、結末が本当にそれを「励まし」として扱ってしまうことである。
ところが、擬似ストア主義を持ち込んだ結末を、このように皮肉として読むことは、庵野秀明監督本人の考えと食い違うようだ。同時期のインタビューでは、自分の演出をこう捉えている――

①〜④ エヴァについては、少し力を入れすぎたと感じている。ある意味では、エヴァが現実逃避の場になってしまったと気づいた。
⑤ 制作するときに気持ちを沈ませる内容を入れて。
⑥ そういうのは本当に嫌だった。
⑦ もともとは観客へのサービスとして。
⑧〜⑨ 同時に、観客をいくらか励ませるように。見終わった人が元気になり、また生きることを愛せるように。
別に重ねられた英語表示:「エヴァの真実」/「エヴァンゲリオンは1997年に劇場公開された」。
別のインタビューでは、庵野秀明はさらに踏み込んでいる。
庵野:なぜ「逃げてはいけない」をテーマにするんでしょう?
記者:えっ!? そう言われると(笑)。たしかに、シンジ君がいつも正しいわけではないですね。
庵野:ええ。なぜ皆、主人公の言うこと、することは必ず正しいと思うんでしょう。
記者:そうか。主人公が、逃げてもいいと言う。
庵野:ええ。それがテーマです。逃げても悪くはない。
記者:それなら、渚カヲルを殺さなくてもいい。
庵野:自分と共鳴できる人なら、殺さなくてもいいんです。逃げてはいけないと言っていた人が逃げた。そのことを責めるのはいい。でも、逃げないことが正しいと考えるのも、思い込みでしょう。僕のしたことはすべて正しいのか。そんなはずはない。第25・26話にも、逃げたければ逃げればいいという台詞がある。逃げることで、得るものも失うものもある。人間は生きているかぎり選ぶので、得るものと失うものがある。何もしなければ、何も得ず、何も失わない。それでは死んでいるのと変わらない。でも、そういう人も大勢いる。ともかく、得るものがあれば、必ず失うものがある。人間は他人を傷つけずには前へ進めないからです。傷つけるのが怖ければ、立ち止まるしかない。逃げなければそれでいい、ということではありません。逃げないのは、逃げるとひどく嫌なことが起きるからにすぎない。逃げたほうが楽になるのなら、逃げたっていいんです。
…………
記者:空洞を埋めるために作るんですか?
庵野:そうです。それが表現です。どんな表現もそうです。だからデカダンスはありえない。アニメを作るという領域では。いや、あらゆる表現がそうだと思います。声優の演技も、原画を描くことも、そういう仕事はすべて表現だと思う。
記者:では「補完計画」も、その空洞を埋めるためなんですか?
庵野:生きるとは、その空洞を埋め続ける行為だと思います。
記者:なるほど。
庵野:ただ、ほかの人と比べて、自分の空洞はずっと大きい気がする。だから、ここまでやらないと満足できない。ここまでやっても、まだ満足できないんです。
(1996年『JUNE』庵野秀明インタビュー。)
こう考えられるかもしれない。庵野秀明は、観客が勇気を出して生きられるよう励ますために、たしかに矛盾を薄め、もっと鋭い衝突を意図的に消した。しかしTV版が世に出たあと、観客がかえってその方策を使って逃避していることに気づいた。そこで『まごころを、君に』が生まれたのだ、と。もちろん、これは推測にすぎない。いずれにせよ、TV版の結末には埋めがたい欠陥がある。唐突な論理の転換によって、『EVA』は本質的にはやはり典型的なストア主義となってしまう。そして、まさにその欠陥によって、筆者の推論と分析は失敗したのである。
TV版『EVA』は、第25話と第26話の前半まで、ほぼ完璧に力を発揮していた。とくに第25話では、庵野秀明が、もう思わせぶりなことはしないと腹をくくったのがわかる。ロボット、科学、宗教の要素をすべて捨て、本当に扱うべき困難と主題に正面から向き合い、純粋に心の中で進む推論を始めた。そのため、この一話の情報量と省察の深さは、それ以前の全話を足したものを超えている。第26話も半ばを過ぎるまで、きわめて高い水準を維持する。幸福、苦痛、生存、相互承認の関係を思弁的に整理し、「他人と苦痛は、生存を貶めるものではない。それどころか、生存の条件そのものだ」という、実に高度な命題にたどり着いた。ところが残念なことに、終盤、開始から19分ほどの時点で始まる、「心さえ変われば、自分の世界を変えられる」という唐突な立場の押しつけが、それまでの深さをすべて壊してしまう。作品は普通のセカイ系に格下げされ、内心に退くストア主義の立場から読むほかなくなる。こうして作品には、どんな解釈を尽くしても埋められない、見過ごしがたい傷痕が残った。実に残念だ。だから次の節、『まごころを、君に』へ移らなければならない。
旧劇場版の示す方策のほうが、より理にかなっていることは認めざるをえない。
四、甘美な死、そして補完
LISTEN / NETEASE CLOUD MUSIC
この預言者めいた語りは、自分がまさに中心に、最も深いところにいると思い込み、規定や明確さを蔑む。そして、有限な世界にしかないとされる反省を避けるのと同じように、概念と必然性をわざと避ける。しかし、空虚な広がりがあるように、空虚な深さもある。実体が有限世界の多種多様なものへ広がり、それらをまとめる力を持たないことがあるように、ただの力として現れ、広がりを持たない、内容のない深さもある。この実体のない深さは、実は浅薄さと同じことだ。精神の力は、その外への現れに見合うだけの強さしか持たない。その深さもまた、自らを展開するなかで、あえて広がり、あえて自らを失うところまで達した、その深さにほかならない。
(『精神現象学』序文「学的認識について」、一「現代の学の課題」。)
『EVA』の旧劇場版『Air/まごころを、君に』の結末を理解するには、「補完計画」そのものを理解する必要がある。筆者は、補完計画を理解するための、もう一つの読み方を試みに示したい。
1. シンジが補完を拒んだのは、現実を選んだからだ。自由なのは、現実の人間だけだからである。ゆえに他者からの承認は、無条件には与えられない。補完された世界で無条件に自分が承認されるのは、実は何の承認もないのと同じだ。その世界に苦痛はないが、幸福もない。「他者が自分を無条件に承認する」世界とは、実際には「他人のいない」世界である。他人のいない世界には意味がない。どんな意味も、自分を超えて他者を指し示さなければならないからだ。シンジは苦痛を避けたい。しかし、それ以上に意味が存在してほしいのだ。
2. シンジは現実を選んだ。しかし世界の現実だけでなく、自分自身の現実も選んだのである。そうでなければ、補完を拒んだあとで、まるで自己矛盾して現実を憎むかのように、アスカを傷つける理由はわからない。シンジはすでに見抜いている。他人が自分を傷つけることを避けられないのと同じく、自分が他人を傷つけることも避けられないのだ。このとき彼は、アスカに臆病で、自分勝手で、意気地がないと見られていることを、完全に受け入れている。そのような自分が、一晩で夢のように成長し、成熟して、地獄のような他者を受け入れられるようになるはずがない。補完を一度拒んだからといって、もう揺るがなくなり、補完が魅力を失うはずもない。だから彼は、激しく悔やみ、苦しむ。ミサトからもらった十字架を壁に釘で打ちつける行為は、彼がこの残酷な神罰を受け入れ、罪を贖おうとしていることを示す。その罰とは、「人間の現実性は、完全さを失うことを代償とする。ゆえに人間は、自らの現実を失うか、幸福を得られないか、どちらかを運命づけられている」ということだ。人間は自分を、こうした存在として理解しなければならない。虚無だとわかっている方向へ、それでも動かずにはいられない存在として。
3. したがってシンジのまごころとは、もはや自分の真実から逃げず、自らの攻撃性と真実を示すことにある。まごころの流出は、当然、気持ち悪さをもたらす。どんな気持ち悪さも、吐き気となって中身が外へ出ることを意味するからだ。先に弐号機が解体されたとき、あふれ出した内臓や組織のように。まごころが流れ出すのは、人がふだん意図的に隠している面を見せることだから、気持ちが悪い。だが同時に、心を動かすものでもある。同じように他人から攻撃される危険を冒して、自分の最も脆い内側を外へさらす行為だからだ。全身傷だらけになっても、真実をもって他人と向き合うという決意なのである。
4. こうして初めて、シンジを気持ち悪いと言いながら、彼をなだめるアスカの行動が説明できる。なだめられ、他者から応答されるに値するのは、まさに、自分から内面を示そうとする意志なのだ。脆い内面を外へさらすその行為は、自らを死の危険に置くことに等しい。そして自分の死を自ら規定する主体は、自分の生命の制限を超えた、自由な主体である。そのような主体だけが承認を得られる。したがって、まさにシンジとアスカの生死を賭けた闘争のなかで、アスカはシンジを承認する。ここで二人は、夢の中ではなく、現実の補完を成し遂げたのである。
5. 最後に、以上の読みの利点は、次のとおりだ。
(1)シンジを、何ひとつ変わらず相変わらず弱いままの人物ではなく、何らかの成長を遂げた人物として、最大限に捉えられる。脚本を読む原則として、脚本に意味を与える読みは、それを無意味にする読みよりつねによい。もしシンジが何も成長していないなら、彼の経験――補完を拒む物語――は、まったく無意味になってしまうからだ。
(2)これまでのほぼどの読みも達成していなかった目標を果たせる。脚本に明らかに存在する矛盾を筋道立てて説明し、対立する二つがつながっていることを示せるのだ。その結果として、アスカの行動を単純な「ツンデレ」のラベルで説明しなくて済むという利点もある。TV版のアスカをツンデレと決めつければ、ツンデレは奇怪さと狂気の代表になってしまう。本解釈は、そのような先入観によるラベルづけを拒む。
(3)本解釈は、庵野秀明の意志に最大限かなうものであり、彼との相互理解を成し遂げる。
一般に『まごころを、君に』の脚本は矛盾だらけであり、唐突な展開や曖昧なつなぎが数多くあるため、庵野秀明が脚本の外の要因を持ち込んだと見なされやすい。すなわち、キモオタへの報復と嘲笑である。そう考えれば、脚本の唐突さにも筋の通った説明がつくように見える。脚本そのものから自然に生まれたのではなく、外の要因が引き起こしたから、唐突なのだ、と。
庵野秀明のやり方は、自分と観客は相互に理解できない、と示しているにすぎない。観客が自分の私的な願いを脚本に押しつけ、狭い自分の世界に合うよう勝手に読む行為は、すべて自分の心の壁を越えることの拒絶であり、それこそ『EVA』に嘲笑されるべき行為なのだ。この点からすれば、筆者がここまで示した読みも、庵野秀明の意志にかなうとは言いがたい。むしろそれは、「脚本が自分の願いと合わない」という事実を受け入れず、矛盾と苦痛に向き合うことを拒む、臆病なオタクの振る舞いではないか。
しかし筆者は、現実を受け入れるとは自分自身の現実を受け入れることでもあると、先に述べた。庵野秀明は明らかに、それを受け入れている。本来なら作品に現れてはならない作者自身の歪みや介入を、観客に見せたからだ。それによって、自分も超然と欲を捨てていられるわけではなく、観客を攻撃し、嘲りたい欲望があることを示した。ならば適切な応答は、「あなたがわかった」ではない。「あなたが私を理解できないのと同じように、私もあなたを理解できない」である。したがって適切な読解は、脚本の矛盾を無視し、「作者がわざとやったことだ。わざわざ説明する必要はない。そんな深い意味はない」と片づけることではなくなる。その読み方は実際には、自分は庵野秀明と『EVA』を理解したと思い込みながら、『EVA』の主旨の一つ、「人と人は互いを理解することが難しい」を捨てているからだ。本当の応答は、その矛盾に大胆に取り組み、仮説を立て、繰り返し検証することである。作品の矛盾をできるかぎり小さくし、最も理にかなう形にできる仮説へ達するまで。
もちろん、テクスト研究者なら誰もが「それは作品への暴力だ」と声を上げるだろう。しかし「人と人の間の、互いへの曲解と暴力は避けられない」ことこそ、『EVA』の核心的な主旨なのだ。だからこそ、作品の矛盾を最小化する、このような読解だけが、庵野秀明の意志に本当にかなう唯一の読解なのである。「私と庵野秀明は互いを理解できない」と示す解釈だけが、互いの心の壁を破り、私たちと庵野秀明を相互の理解へ至らせる。
さらに、TV版『EVA』の核心はストア主義であり、『まごころを、君に』の核心は精神分析だと、先に述べた。この節で詳しく論じたことで、この結論には確かな土台が与えられた。ここで、さらに一歩踏み込んで規定し、まとめておこう。
第一に、『まごころを、君に』は、「矛盾を心だけの問題にすることを拒む」という決断によって、幻の補完を拒み、現実へ戻った。「心と現実の距離は無視できない」というこの点で、「答えは心の中にある」と考える、あらゆるストア主義めいた方策とは異なる。第二に、現実に戻ったあとも、シンジは無邪気に現実を抱きしめ、和解したわけではない。なお苦悩し、もがき、現実とのはっきりした闘争を続ける。この点で、「答えは生活の中にある」とする方策、たとえば通俗的な実存主義とも異なる。したがって『まごころを、君に』の示す唯一の結論はこうだ。絶対者、すなわち無限の神性は、心でも現実でもない。どちらも欠けている。完全なのは、闘い続け、空洞を埋め続ける活動そのものだけである。一度で永久に問題を解決してくれる答えなど、存在しない。自分の症状は治るのだという考えを捨てよ。自分も他人も欺くな。
これはまさに、ラカンによる精神分析の倫理の要約、「欲望に関して譲歩するな」4である。想像界と象徴界が提供する幻想に支えられた欲望の充足に屈するのではない。欲望は永続すること、満たすことは不可能であり、したがって欠如は永遠であることを認め、生活に永遠に問いを突きつけるのである。同時に、「欲望に関して譲歩するな」とは、ある現実を受け入れることでもある。自分の欲望から逃げず、その欲望が実現できないこと、そしてその欲望自体を克服することもできないことを受け入れる。この立場は、「どうせ欲望は実現できないのだから、いっそ何もかも投げ出してしまえ」という見方とは、ただちに区別される。後者は、何も欲しないことを解決策とするからだ。通俗的な仏教である。だが、本当に何も欲しないなら、欲望を克服することも望まないはずだし、完全な状態に戻ろうと願って、さまざまな修行に励むこともないはずだ。むしろ成り行きに任せ、欠けた自分の現実を、逃げずに丸ごと受け入れるべきなのだ。
『まごころを、君に』は、まさにそうしている。シンジは補完を拒んだあとも、自分の攻撃性を受け入れ、行動に移した。その行動によって、欠陥や苦痛を克服できるかもしれない解決策を、もう決して空想しようとはしないと示したのである。「これが you’re ready to suffer――苦しむ覚悟ができている、ということ。これが enjoy your symptom――自分の症状を楽しめ、ということだ。」
五、結語――作者中心主義に抗う読解
LISTEN / NETEASE CLOUD MUSIC
聖書の中で、道に迷った天使がまた教えを説く
けれど世の欺きも堕落も、何ひとつ変わらない
ノアに救われた人々は、とうに誰も残っていない
このエデンの園を、戦いの果てに細かな砂へ変えてしまう
愛する心で、魂の天使がいるのだと夢想する
疲れきった都市も、あなたがいれば火花が散る
冷ややかに見つめる、繰り返す浮き沈みを
空の果てにはやがて、ひときわ美しい夕焼けが残る
抗い、憤り、胸には夢があるのに、私は
エデンの野の花を摘み取れない
旧約には、道に迷って教えを説く天使がいる
暴走し、激しく闘い、堕落するときに変化が起きる
幻想はすべて崩れ落ち、何も残らなかった
それでも知りたい、間違っているのは世界なのか
愛する心で、彼女の魂と交わりながら存在する
疲れきった都市も、あなたがいれば火花が散る(野火大鸿「残酷な天使のテーゼ」広東語版。中国語版に掲載された広東語歌詞からの訳。)
本稿の『EVA』読解は、哲学上の「弁証法」の立場に基づいている。ここまでの説明と結論から見れば、弁証法と『EVA』の核心は近い。しかし、ある意味では完全に両立することもできない。本稿が目指したのは、その差異を示すと同時に、両者の同一性も示すことだ。それができたなら、『EVA』の思想を捉え直したことになる。
『EVA』が今日なお、これほど人気を保ち、盛んに論じられるのには、筆者の考えでは複数の理由がある。一つは、登場人物の際立った外見のデザインと、その後の先駆けとなった数々の人物設定や展開だ。多くの人が「オタクに媚びる文化」の出発点と呼ぶのも、この部分である。もう一つは、『EVA』が論じる主題そのものが、人々の心に呼び起こす共鳴だ。前者は多かれ少なかれ、オタクへの媚びや神秘主義の表皮を利用する。深く考えるべきなのは、まさに後者である。
筆者の『EVA』読解は、当然、「原作」に従うものではない。たとえば第四節で示した『まごころを、君に』の理解、とくに最後の結末の理解は、庵野秀明の設定と完全に反している。だが大切なのは、どう「原作に忠実」であるかではない。すでにある作品から、どうすれば現在にとっていっそう有益な解釈を得られるかだ。とりわけ『EVA』からは、もう二十数年が過ぎている。こうした「生きた」やりとりのほうが、より意味を持つのではないか。
ある原典に対して、一つの時代の解釈者Aは、その時代の観念にかなう理解を示す。その優れた読解が、テクストへの注釈として残る。何年もたったあと、読者Bが、Aとは異なる理解を新たに示す……。こうして「歴史的な」循環が順々に起こる。AやBの注釈を、文献研究に積もる無用な塵だと考えてはならない。まったく逆だ。本当に行う価値があるのは、テクストそのものとやりとりするだけでなく、その解釈者たちともやりとりすることである。この「やりとりの連なり」こそが、あるべき「読解の仕方」を形づくる。
これは、なあなあで均衡を取ることではない。そんな均衡は必要ない。最も徹底した主観的読解の原則を、そのまま貫けばいい。一つの枠組みを携えて、さっそくテクストを読み、自分の考えが本当に隅々までテクストに裏づけられているのか、丹念に検証する。独自の読みの問題は、主観的なことにあるのではない。その主観的な読みから生まれる、その視角に固有の矛盾を無視することにある。つまり、テクストがその読みを拒み、抵抗する部分だ。自分の読みが残してしまった「その読みへの反証となるテクスト上の証拠」を直視し、さらに修正を加えていくなら、多様な視角は次第に近づいてくることがわかるだろう。
テクストを読む原則は、二つだけだ。第一に、主観性を恐れない。第二に、その主観性が「失敗」することも恐れない。
そして、テクストを主観的に読んだときの「失敗」こそが、ここで私たちをテクストの本当の精神へ向かわせる。『EVA』は科学技術、社会、宗教、さらには幻想的な要素を大量に動員している。だが結局、それらはすべて「個人」の視野に従属する。これこそセカイ系の真髄だ。ゆえに、表現される主題にとって、それらの要素は余計で役に立たない。存在しても主題の深さに決定的な寄与はせず、むしろ本来きわめて単純な主題を覆い隠してしまう。テクストを読む仕事は、まさに、この隠された「単純さ」を明らかにすることにある。雑然とした要素を一つにまとめているものは何か。それは、統一と差異の「関係」なのだ。
使徒が攻めてくるのはアダムと融合するためであり、人類補完は完全な状態を得るためであり、アスカは独立と承認の間をさまよい、シンジもまた生存と意味の間で揺れる……。どれも、同じ単純な構造を分かち持っている。この中心主題を明らかにしたなら、あの神秘的な外殻は、当然、止揚されるべきだ。理性にかなう核心へと場所を譲り、純粋な象徴へ退くべきなのである。これが、『EVA』に内在する単純な核心と、過剰な神秘的要素との矛盾だ。
庵野秀明はよく、外からの視点で『EVA』の物語を説明したがる。作品の外にある三次元の要素を差し込み、つねに異なる視点を積み重ねるのだ。設定についても、物語の中で少しずつ補うのではなく、作品の外の設定集やインタビューなどで説明する。この点でも、『EVA』は芸術形式としての「古典的」な作品ではない。「古典的な劇」は、そのすべての要素が劇の中に含まれており、外の情報に頼って読み解く必要がないからだ。
芸術上の分類として、筆者は『EVA』を「象徴的芸術」と位置づけたい。そこでは神聖なものと感性的なものがまったく分離されず、交錯して融合し、抽象的な主題を表すために大量の具体的な形象が用いられる。崇高は「無限の神性」を表そうとする。しかし、それを表すのにふさわしい感性的な媒体を、何一つ見つけられない。そのため、無限の神性は最後まで、言葉にできず、形容しがたい状態にとどまる。真の崇高は、それを包み込もうと私たちが用意する、あらゆる形式を打ち破り、引き裂く。反対に、厳密な意味での美は、無限の神性が感覚で捉えられる一つの具体的な形のうちに、完全で適切な表現を見いだすことにある。そこで二つの面は、完全に調和し一致する。――これこそ古典的芸術の要請だ。その芸術的な働きは、人間の存在のうちで見落とされている「全体性」と「統一性」を明らかにすることにある。言い換えれば、古典的芸術の狙いは、覆いを取り払う「解蔽」であって、脱構築ではない。
したがって、古典的芸術の考え方で『EVA』を評価すれば、おそらくこうなるだろう。真理を捉えてはいる。しかし、それを表す適切な形式をまったく見つけられず、ぼんやりした曖昧な神性にとどまっている。一部の展開には、神秘主義的な表現へ傾くところさえある。もちろん、掲載画像の中国語字幕によれば、庵野秀明自身も、深い意味があるように見せかけていることを認めている――

① 自分は本当は、哲学のことなどまったくわからない。
② いままで、ほかの作品でこのような哲学的探究を再現したことはない。
③〜④ 人々はいつも、エヴァは哲学的思考に満ちていると言う。でも実際には哲学ではなく、むしろ深い意味があるように見せかけているだけだ。
⑤〜⑥ 作品の中で、神の視点からするような説教は、たいてい一つの手法だ。「神の視点ですか」「はい」。
⑦〜⑧ でも、こういう話し方をすると、すごそうに見える。エヴァとはそういうものだ。
⑨〜⑫ 作品の、こうした一見深そうな部分が、初めて見た観客に、よくわからないがすごそうだと思わせる。すると、作品の背後に何かが隠れているのではないか、と考え始める。これが、自分の使っている手法だ。
⑤に重なる英語の説明は「衒学とは、自分の知識を誇ること」という意味で、中国語字幕の「神の視点」とは異なる。
だが私たちには、作者よりもうまくできることがある。私たちの使命は、「人と人の間には、避けられず暴力が生じる」という『EVA』の主旨を貫くことで、暴力的に『EVA』の魂を掘り出し――シンジが綾波レイを掘り出したように――昇華へ向かわせることだ。私たちが劇の外から加える解釈の暴力こそ、『EVA』を最もよく体現するものであり、劇の外の要素を持ち込んだ庵野秀明への、唯一ふさわしい応答なのである。
ニーチェの言うとおりだ。「読者を知る者は、もう読者のために何もしない。あと一世紀も、こんな読者が続けば――精神そのものが腐って臭いを放つだろう。」5 そう、人々が自分の自由を捨てるのなら、私たちは彼らに自由であることを強いなければならない。読者には、作者が自分に加える暴力を拒む権利など、初めからない。本稿の中心にある精神は、「作者中心主義」に抗う仕方で、『EVA』が表現する精神を積極的に「再構成」することにある。「過去のものは、未来において創造される」。人間とは、愛の物語を織りながら、同時に歴史を作る動物にすぎない。
当然、もっと「相対主義的」に言うことさえできる。すでにある何か――アニメでも、テクストでも、ある出来事でもよい――を、どう捉え、どう扱うかは人によって異なる。それでも、一つ一つの具体的な時代のもとで、その時代のハムレット像が「歴史的に」生まれるのである。
(全文、了)