上篇
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前書き:
『EVA』が表現する思想を、どう理解すればよいのか。このアニメについては、ほとんどの方がよくご存じだろう。本稿は、その思想を探る一つの試みである。『EVA』そのものの内的な論理を出発点に推論し、作品の思想的な核心と主要な登場人物を分析する。筆者が採るのは合理主義の立場だ。誤りがあれば、ぜひ指摘していただきたい。
一、EVAとセカイ系
ついに狂人の最後の防衛線が崩れ、彼は抵抗をやめた。槽の中に霧がたまる速さはますます増していった。体が震え、変わり、縮んでいく。やがて男の姿が現れ、七つの頭を持つ竜の体に重なった。槽の四分の三が煙に満たされ、竜の体はぼやけた影となった。「浄化」が始まったときの姿をうかがわせるのは、かすかな残像だけだった。時が刻々と過ぎ、男の姿はいよいよはっきりしてきた。
ついに槽は煙でいっぱいになり、外見は正常に見える男が銀色の光の下に横たわった。荒い息をつき、目を固く閉じ、筋肉がひとりでに痙攣していた。
「『浄化』完了」とサリンが言った。
「あれは、まだ槽の中にあるのか?」リンナーが小声で尋ねた。
「いや、すべて取り除いた」
「では……」
「残っているのは残滓だけだ。まったく害はない。危険な負の感情は、何種類かの感応剤ですべて中和した。危険な感情の本質、堕落した精神の場を形づくるエネルギーの線は……消えた。『浄化』は終わったんだ」
リンナーは不安げに見えた。こんなことは初めてだった。「では、どこへ行った?」
「教えてくれ。君は同胞を愛しているか?」
「よせ、サフ! どこへ行ったのかと聞いているんだ……どの時へ?」
「本当にほかの者たちのことを気にかけているか、と聞いている」
「答えはわかっているだろう……僕のことは知っているじゃないか! 知りたいんだ、教えてくれ。せめて君の知っていることだけでも、すべて。どこへ行った……どの時へ……?」
「許してくれ、リンナー。僕も同胞を愛しているんだ。いつ、どこにいようとも。こうするほかない。僕の仕事に、人間らしい情けを持ち込むわけにはいかない。こうするしかないんだ。だから……許してくれ……」
「何をするつもりだ……」
(ハーラン・エリスン『世界の中心で愛を叫んだけもの』。)
TV版『EVA』の最終話の題名は「世界の中心でアイを叫んだけもの」である。ここでは、その複雑な時代背景1――90年代、バブル経済、日本人、閉じこもり、地震と宗教、世紀末哲学……――を論じるつもりはない。「オタク」といった批評上の概念をあれこれ引き、東浩紀や宇野常寛といった研究者の名を借りて、この批評をさも深遠そうに見せる気もない。
『EVA』自体、SFロボットものと宗教の皮をかぶり、自分の「神秘性」を示している。だが、本稿はそのような外からの視点で「解読」するのではない。たしかに『EVA』にはきわめて強い実存主義的な側面があり、精神分析の素材となる内容もある。それでも、ここでは作品そのものに戻り、「再構成」を行う。『EVA』を読むのに宗教の知識はいらないし、アニメなどの「二次元」文化に通じている必要もない。必要なのは「他者」と率直に向き合う決意だけだ。この再構成には『EVA』の精神にかなう面もあるが、作者を超え、作者を批判する面もある。なお、第一節は『EVA』全体の読解を含むため、最も分量が多い。残る四節は、細部を補うものとなる。
『EVA』はしばしば「セカイ系アニメ」の先駆けと位置づけられる。「セカイ系」には厳密に統一された定義こそないものの、おおむね共有される説明はある。ここではWikipediaの定義を採り、主人公とヒロイン/ヒーローを中心とする、「僕と君」の関係をめぐる小さな問題が、具体的な社会の設定を間にはさむことなく、世界の危機や滅亡といった抽象的な大問題に直結する作品群、としておこう。
したがって、セカイ系は実は「個人系」でもある。その本質は、個人の運命が世界そのものと「直接つながる」ことにあるからだ。この次元では、セカイ系と個人系は同じであり、個人、つまり主人公の運命をめぐる問題が解決すれば、世界そのものの対立も解け、和解に至る。セカイ系は大きな物語が崩壊したあとに生まれ、それに取って代わったのは、個人が「自分自身について考えること」だった。
この角度から見れば、『EVA』はまさしくセカイ系アニメに見える。そこでは国家、民族、政治、主義、闘争の路線がほとんど描かれない。むしろ主人公のシンジは、そうした事柄を何も知らず、関わることもほぼない。この二点で、『コードギアス 反逆のルルーシュ』や『進撃の巨人』のような社会性の強い作品とは、はっきり異なる。視野の中心はあくまで個人であり、社会的なものは単なる背景へと追いやられる。2
だから、最終話で碇シンジが世界の中心で「愛」を叫ぶにせよ、旧劇場版を「まごころこそAirだ」と言い表すにせよ、補完の過程とは、主人公が自分自身の一連の問題を解決していく過程なのである。(中国語版では最終話と小説の題名を、ともに「愛」という語で結びつけている。「まごころこそAirだ」は著者の言い換えであり、正式な劇場版題名は『Air/まごころを、君に』。)
TV版『EVA』は、ある危機的な出来事が「日常生活」を破るところから始まる。第1話冒頭の画面には「時に、西暦2015年」と記され、そこから主人公・碇シンジとさまざまな使徒との戦いが繰り広げられる。シリーズを通じて、外側にはロボット同士の戦闘があり、内側には登場人物の自己意識をめぐる疑いがある。この硬直した「内―外」の対立が解消するのは、第20話になってからだ。ここでようやく碇シンジは、自分が何をすべきなのかを本当に自覚する。そして視点が反転するにつれ、主人公が内面で対峙する形而上学的な敵は、使徒ではなくNERVなのだとわかる。この回には「心のかたち 人のかたち」という題名がつけられている。
第20話より前の碇シンジは、周囲に従っているだけだ。そうした状況では、登場人物たちも意味を考えようとしない。とにかく誰かに認められさえすればよい。それで自分の生活を維持するだけの、意味のない循環と反復が続く。「認められること」以外の目的で初めてエヴァに乗るのが、第19・20話なのである。ここで見いだされた、エヴァに乗る意味は、人に認められることとは異なる――ここが重要だ。



第20話のシンジの心理の動きを作品の主旨と考えるなら、『EVA』は人類補完計画に賛成していないと言える。さらに以上の読みからすれば、『EVA』が支持するのは快楽主義の倫理学でも、アリストテレス的な幸福の倫理学でもない。幸福よりも価値のあるものが存在するのだ。この点で『EVA』は、むしろ広い意味での〈生存の哲学〉に属する。3
その後の数話からは、こうした考えも読み取れる。『EVA』において、即自存在――それ自体としてある存在――は絶えず融合へ向かう。人間の意味は、そうした即自に抗い続け、対自存在、つまり自分自身に向き合う存在になることにある。そして、その存在はいつまでも不完全なままである。これが庵野秀明の貫く中心的な立場だ。彼は何度ものインタビューで、完全なものは好きではないという考えを表してきた。たとえば、ドキュメンタリー『さようなら全てのエヴァンゲリオン~庵野秀明の1214日~』でもそうだ。4
ただし筆者は、ここで一つ異なる見方をしている。即自存在そのものが、絶えず自らを否定し、差異化しているのだ。言い換えれば、即自は「即自的に」すでに対自なのである。『EVA』の立場では、人間に抑圧はいらない。人間の使命は抑圧に抗うことにあるからだ。この作品は、抑圧を人間にとって外的なものとして与え、それに抗うことを通じて人間に自らの意味を見いださせる。だが筆者からすれば、むしろ、抑圧があるからこそ、人間が抗うことにも意味が生まれるのである。違いは、きわめて微妙だ。

『まごころを、君に』のこの会話は、いっそう直接に主題へ切り込んでいる。







人間が生き続けること。幸福を得ることではない。ここで神が意味するのは、欠けのない状態ではなく、存在し続けることだ。たとえ、その存在が欠けたものであっても。
哲学的な視点から分析すれば、『EVA』が生命というものをきわめて重視していることはたしかだ。たとえば、劇中の高度な技術は、人工知能と呼べるものではほとんどなく、むしろ何らかの生物的知能と呼ぶべきものだろう。宗教的な隠喩と科学技術とを、感覚に訴える形で混ぜ合わせたものだ。『EVA』では、生命的なものがつねに機械的なものに優越する。生命とは目的性と有機性を意味し、補完という融合へ向かう。しかし同時に、庵野秀明にとって生命の意味は、その融合に抗い、個として自ら考えるようになる点にある。登場人物が自分自身について考えることで何を得たのかは、ひとまず措こう。結末に至っても何ひとつ変わらず、何も得ていない可能性は大いにある。
したがって「補完計画」とは、こうして自分自身について考えるための大きな枠組みなのである。『EVA』についてよくある誤解は、TV版でも旧劇場版でも、最後にはあらゆる隔たりがなくなったと受け取ることだ。人類補完計画によって皆が本来の無垢な姿に戻り、完全な和解に至ったかのように。しかしシンジが補完を拒み、それでもLCLの海でアスカの首を絞めるという展開を見れば、そうではない。
これは『精神現象学』の主人と奴隷の弁証法の構造によく似ている。主人と奴隷は、手を取り合って完璧なハッピーエンドへ進むのではない。二人ともストア主義へ退いてしまう。結末はバッドエンドなのだ。筆者は、TV版『EVA』も、この種のストア主義に傾く作品に属すると考えている。
だから補完計画は、決して幸福への道ではない。補完にも欠陥がある。人間の本性とは、ありのままの自分を純粋に外へ表すことを拒み、他人との和解を拒むものに見えるからだ。そのような人の心に逆らう補完計画が、人間を幸福にできるはずがない。綾波レイの言葉を中国語から訳せば、「これは誰も救われない世界」なのである。人間の本性は、幸福を拒むことにこそある。Yes, you’re ready to suffer――そう、苦しむ覚悟はできている。苦痛のただ中にいる人々こそ幸福なのだ。ゆえにこれは神罰であると同時に、神の恩寵でもある。5
和解は不可能だ。そして弁証法的な「和解」へ進むことを、『EVA』は表現できない。あるいは、セカイ系アニメそのものが、そうした欲求を表現できないのだと言ってもよい。6 自我の心の壁、つまり『EVA』でいう「A.T.フィールド」が自分を守り、他者と率直に向き合おうとしないとき、そのつぶやくような独り語りは「中二病」となる。むしろセカイ系と中二病は、表裏一体なのだ。他者を過度に強調すれば、世界全体を抽象化する「無我論」に陥るし、自我を過度に強調すれば「唯我論」に陥る。中二病的な自我と、ある種の自己閉鎖は、精神分析の語り口を借りて、完全な想像上の世界をたやすく組み立てられる。精神分析が好んで『EVA』を分析の事例に用いるのも、そのためだ。
先に述べたように、『EVA』のイデオロギーは広い意味での〈生存の哲学〉である。科学は生命や人格の尊厳に干渉するものであってはならない。科学の中へ宗教的な要素を執拗に差し込むのも、そのためかもしれない。7
アダムとリリスの形態や構造は、明らかに人間をひな型としている。アダムの魂だという渚カヲルも、人間とかけ離れた存在ではない。たとえば非情で、冷酷で、理性的な神性に満ちているわけではなく、反対に、誰よりも愛欲に富んでいる。強い人工知能だというMAGIに至っては、その深部の構造がアルゴリズムではなく、なんと「人間の脳」だ。だとすれば、『EVA』は科学技術や宗教を論じるときにも、やはり人間を論じているのであって、人間にとっての他者へ本当に向かったわけではない。これもまた、心の壁を越えることの拒絶ではないか。科学技術や宗教の要素が、なぜこれほど唐突に見えるのかも、これで説明がつく。それらは存在するが、それ自身として存在してはいない。むしろ、人間の知恵や姿を超人的な規模に拡大した、感覚的な想像なのである。ここにこそ本当の矛盾と剰余がある。心の壁を越えることを唱えながら、ここでは心の壁を「温存」しているのだ。8
ここで思い出さずにいられないのは、哲学史におけるロマン派のやり方だ。何を前にしても、それを神の現れと捉え、主語の中に次々と述語を詰め込んでいく。9 結果、材料は豊かに見えるが、内実はひどく単調になる。この構造の中では、真の他者に出会うこともなければ、本当に新しい事物や変化が生まれることもない。『EVA』も同じだ。宗教も科学技術も、すべて「人間」という型を使って論じられる。したがって、ここでの宗教や科学技術には、それ自体の内容がない。貧しい自我主体が、自らの無力を覆い隠すためにまとう偽装にすぎない。『EVA』の表皮に付着した聖書文学的な暗示が、実際どうでもよいのは、そのためだ。10 そしてこのことが、心の壁を越えて他者に向き合おうという『EVA』の呼びかけと、潜在的に矛盾している。
この生命のない静けさは、生存の運動から、働きかけ、働きかけられる活動から、つねに単なる思考の実在性へと退く。……しかし純粋な思考には、生の充実した内容がない。それゆえ、それは自由の概念にすぎず、生きた自由そのものではない。この思考する意識は、抽象的な自由という性格を持つかぎり、外的な存在の不完全な否定にとどまる。有限な存在を離れ、ただ自分自身へ退いただけでは、自らのうちで有限な存在を絶対的に否定しおえたことにはならない。
(『精神現象学』第四章「自己意識自身の確信の真理」、二「自己意識の自由――ストア主義、懐疑主義、不幸な意識」。)
結末から見れば、矛盾と自己への折り返しに満ちた『EVA』が形づくる思想は、きわめて悲観的だ。それでいて力に満ちている。夢の対岸にあえて立ち、夢そのものの非現実性を嘲りながら、同時に現実そのものの無力をも突くからだ。
表現の面では、『まごころを、君に』で「Komm, süsser Tod/甘き死よ、来たれ」が流れ始めたあと、さまざまな意識の流れの断片が挿入される。アニメは作品の内側から外側の視点へと飛び出し、ヒステリックに語り出す。主人公の自我を幾重にも映し出す像が次々と閃き、最後には画面が二次元を飛び越えて三次元へと至る。映画館、観客、声優、そして日々の現実の断片。TV版でも庵野秀明は、二次元そのものが夢であるという性格を示すため、台本まで画面に貼り出している――


新劇場版の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でも、庵野秀明はこの手法を引き継いでいる。碇シンジと碇ゲンドウ、父と子のエヴァ同士の戦闘では、アニメのモデルがわざと粗末に作られているように見える。観客には、それが現実ではなくアニメだと一目でわかる。まるで監督が、これはすべて虚構で、本当のものはこの虚構の外にある、ここに浸っていてはいけない、と告げているかのようだ。
こうした意識の流れや、作り物であることをあえて露呈させる手法の深さには、感嘆せざるをえない。この点で『EVA』は、偉大な実存主義的心理学の作品と呼ぶに値する。近年、『EVA』と似た発想を持ち、セカイ系に近い角度から社会の問題を考えているのが『ぼっち・ざ・ろっく!』だ。これを『けいおん!』と同じ括りに入れる人は多い。どちらも「少女」+「音楽」のタグがつくのだから、まさしく「萌えだけのアニメ」らしい。
だが、この二つの作品の根本的な違いは、ぼっちという人物に集約されている。第8話での会社員とぼっちの描き方を見ればわかるように、『ぼっち・ざ・ろっく!』は、むしろ原子化した個人を描く作品であり、たまたま題材が音楽だったにすぎない。この意味で、ロックはたしかに孤独だ。そしてぼっちは、最後も実質的には成長せず、相変わらず人付き合いが怖いままである。セカイ系アニメの重点は、成長や和解にはない。まったく逆に、外の世界との「距離を保つことを繰り返す」点にある。それは、人付き合いを恐れる人々のむき出しの現実にも対応している。青春、バラ色の生活、少年少女――すべて虚像だ。こうした見方を、社会の物質的な基盤、彼らのいう「現実」から批判する人もいるだろう。ぼっちはなぜ人付き合いが怖いのか。どう克服するのか。その先はどうなるのか。個人の原子化と対人関係への恐れは、どう結びつくのか。最終的に、どのような方策を示すのか。つまり、本当に問われているのは問題の「提起」ではなく、「解決」なのだ。
この困難を前にして、『EVA』そのものへ戻ってみよう。問題を提起するだけなら、これほど簡単なことはない。ある程度の洞察力さえあればよい。難しいのは、どう解決するかだ。しかし、この問いを『EVA』が設けた思想のモデルに投げ込むなら、別の次元での反論が成り立つかもしれない。いわゆる「二次元」のアニメの中には、そもそも解決策など見つからない。問題を解決するための考え方は、アニメの中に探すものではない。さらには「現実」にも、いわゆる「解決策」は存在しない。
だが、このような悲観的で沈んだ態度を採るとしても、夢と現実を完全に「対立」させることはできない。先ほど説明した論点にも、庵野秀明の『EVA』にも、この一面的な欠陥がある。たしかに夢の中で現実の問題を解決することはできない。それでも夢と現実は、互いから切り離せない。
庵野秀明はこうした方法によって、人々をアニメから離れさせ、現実と和解するよう導こうとする。だが見落としているのは、現実との和解は、アニメや文学、映像作品――ここで広く「二次元」と呼んでいるもの――を捨てることではない、という点だ。現実そのものに、夢の構造があるからだ。現実は抑圧と、抑圧されたものの表出に満ち、現実にないものによって方向づけられている。そして人間が自由なのは、つねに未来へ向けて自分の行動を企てるからであり、その未来は明らかに、いまここにはない。現実の中にいる個人は、自分の現在ではなく、自分の未来を生きる。そうでなければ、現実の生命を失って運動を止めてしまう。存在するものの現状を否定し、いまはそうでないものを期待するからこそ、人は虚無の中に、つまり「頼りなさ」と「夢」の中に生きるのである。
人間は非現実の夢を通してのみ、自分の生命を現実に動かすことができる。庵野秀明が現実へ目を向けるよう人々を促すのは、賛同すべきことだ。しかし、現実と夢、存在と虚無を対立させてはならない。ヘーゲルが述べるように、自然界の事物にすら、それ自身のあるべき姿がある。到達すべきなのにまだ到達していないものこそ、そのものの本来の姿であり、そこには内的な否定が存在する。ヘーゲルは『精神現象学』で、現実と当為を対立させることは、現実の自己否定と、自らを無にする働きを拒むことだと、鋭く指摘した。そのような立場は、たちまち嫌悪すべき保守主義へ転ずる。保守主義者は現実を尊重しているのではなく、まさに夢の中に生きている。現実はこれまでどおりに続けられると思い込み、いま起きている闘争と暴力的な行動を無視するからだ。
これは、保守主義と革命主義という対によく似ている。前者は他人が何を必要としているのかを知りたがり、ヒステリックにその要求を満たす役を演じる。後者は自分が何を欲するのかを知っており、ほかの者は「努力」しなければついていけない。ただし、革命を求める者に人々がついていくとは、エリートが自分だけで決断して突き進むことではない。「二歩進んで、一歩下がる」のである。
結局のところ、文芸作品の本質とは、生活の中で見落とされてきた夢と否定性を明らかにし、現実の全体を示すことだ。「現実を受け入れよう」という、使い古された抽象的な説教を繰り返すことではない。そもそも、わざわざ受け入れる必要などない。誰もがすでに現実の中を生きているのだから。現実にしっかり目を向けるとは、現実がどうやってそうした夢を生み出すのかに目を向けることである。夢とは、ほかでもない――
夢は現実の続きであり、現実は夢の終わりである。
(『まごころを、君に』のやりとりを引いた、中国語版の表現からの訳。)
庵野秀明や『EVA』と比べると、今敏は異色だ。とりわけ『妄想代理人』での猪狩の言葉――居場所を失った現実こそ自分の本当の居場所だ、という中国語字幕――がそうだ。これはヘーゲルの『大論理学』で「概念」の能動的な実体性を論じた部分の精神と、格別によく重なる。11 筆者には、この言葉のほうが『EVA』よりも、いわゆる「和解」の力を持つように思える。12

真の和解とは何か。たとえば主奴関係を「双方が互いに理性的な尊重を示すこと」と捉える調和主義は、肝心なところを外している。問題は――「主奴関係の構造を、そのように理性的かつ平静に承認することは不可能だ」という点にある。きわめてラディカルな意味で、主奴対立のどちらの側も、相手を理性的かつ平静に自分の認識の構造へ取り込むことはできない。つまり、従属させる/従属させられるという関係を、徹底して実現することはできない。ゆえに、本当に否定的な関係を媒介するのは、「統一」ではなく「差異」なのだ。主奴対立の中の「私」が「あなた」と結びつき、疎外の関係を形づくるのは、素朴な同意があるからではない。双方を巻き込む「対抗」によって、「私たち」はどちらも「自分だけのこと」を考えてはいられなくなる。そのために、疎外された主奴関係を結ぶのである。
したがって、和解を受け入れると同時に、すべてを均質にする抽象的な和解は拒まなくてはならない。あふれ返る大団円型の和解に対して、筆者はマルクスによるロマン主義批判を借りて答えたい。「あの原初の豊かさを懐かしむのは滑稽だが、完全に空虚になったその状態にとどまらなければならないと信じるのも、滑稽である。」13
二、アスカ/自らを傷つけること
自分を被害者に仕立てない。偽りの逃避をしない。どれほどの困難に出会っても、踏みとどまって生きていく。人間とは、そういう生き物なの。現実から逃げ出したいと思う人たちを、あなたは見境なく襲うそうね。それで、その人たちを解放できるの? それで救おうというの? 座って。人間はあなたが思っているほど、弱くも浅はかでもないわ。そこに座ってちょうだい。あなたの存在そのものが幻なのよ。
(『妄想代理人』。)
ここで論じるのは、新劇場版の「式波・アスカ・ラングレー」ではない。TV版と旧劇場版の「惣流・アスカ・ラングレー」である。
筆者にとってアスカは、『EVA』シリーズ全体で最も議論を呼び、最も複雑に矛盾が重なった人物だ。人物設定だけを見ても、旧シリーズと新劇場版のアスカには、多くの違いがある。(1)新劇場版のアスカは、もはや加持に恋い焦がれてはいない。もっとも旧シリーズでも、加持への思いは単純な恋慕ではなく、ねじれた「父性愛の投影」だった。新劇場版では、いくらか青春の恋愛めいた形で碇シンジを好きにさえなる。(2)『シン』でわかるように、新劇場版のアスカも人造人間であり、使徒の性質を持つ。庵野秀明はこの出自を切り口に、式波・アスカの人格を作り直した。綾波レイを描くのと同じ手法だが、実際にはアスカという人物を平板にしてしまった。新劇場版で葛城ミサトを周縁へ追いやったのと、まったく同じである。
アスカを通してなら、『EVA』の最も深い精神を直観できるかもしれない。主体は永遠にヒステリー化している。少年は神話になどなりたくない。ただ「愛」されたいのだ。だから碇シンジは悲劇の英雄ではないし、悲劇的な神話の象徴になる必要もない。オイディプスの神像は、俗世の地面に叩き落とされてはいない。新劇場版の『シン』に至ってさえ、うわべを取り繕う、わざとらしい和解が満ちている。ここにあるのは、オタクに媚びる文化の中で凝り固まった、悲劇をかたどった虚像ではない。血まみれの頭が閃き、荒野に屍をさらす世界の夜だ。アスカは、碇シンジの「愛」されたいという渇望が、自らへ折り返すその面をなしている。ひとけのない夜に立つその人、赤い恐怖の幻影。そして彼女こそがこの夜であり、この空洞であり、単純でありながらそのうちにすべてを含む無なのだ。LCLの海でシンジがアスカの失われた眼を見つめるとき、彼にはその夜が見える。恐ろしいものとなった夜が。
TV版の第22話に目を移そう。この回で、アスカという人物は本格的に解剖される。






筆者からすれば、アスカは「ツンデレ」とはそもそも無縁だ。「ツン」でも「デレ」でもない。新劇場版では、たしかにオタクに媚びる単純なツンデレの性格が強められた。しかしTV版のアスカは、まったく違う。彼女は安心感をひどく欠き、強く肯定を必要としている。ところが逆説的にも、肯定を必要とする自分自身にも不満を抱いている。つまり、自立できない自分に不満がある一方で、他人を必要とする。だから、近づきながら拒むという矛盾した感じが生じるのだ。
アスカの状態は、こう言える。「ひたすら支配するか、ひたすら依存するか」。より深いところで、彼女は「他者」に耐えられないのである。使徒をなぜ攻撃しなければならないのかを、彼女が一度も考えないのも、このためだ。使徒は敵であり、敵は滅ぼさなければならない。それ以外の理由はいらない。
――アスカはたしかに人間らしい。むしろ、人間らしすぎる。彼女のうちに「人間」という概念そのものが見えるからだ。キリスト教の言葉でいえば、アスカはエデンの園を抜け出すことには全面的に賛成するが、その結果には耐えられない。だから心の中ではまだ幼い少女であり、根っから傲慢なのではない。彼女の「ツン」は、子どもの強がりに近い。もっと意地の悪い言い方をすれば、タフガイ気取りの大きな赤ん坊だ。
この行き詰まりは、実は「自己意識」の行き詰まりでもある。アスカは肯定されたい。だが、機械的な肯定は欲しくない。別の自己意識から肯定されたいのである。だから人形を嫌い、綾波レイが大嫌いだと言う。しかし相手が本当に自由な主体なら、彼女の望みどおりに、いつも肯定してくれるはずがない。ここが解けない。これこそ『EVA』全体が見据える人間の魂の奥の矛盾、すなわち「心の壁」なのだ。14
アスカが追い求めるのは「独立した人格」だ。しかし逆説的なことに、彼女にとって独立は手段にすぎず、目的は承認を得ることにある。ところが、独立とはまさに、承認を目的にしないことだ。この矛盾に媒介される以上、彼女が精神的に崩壊するのは当然である。内心の目的と手段が、互いを絶えず壊しているからだ。このヒステリーが極限に達する瞬間には、主体性の欠如があふれ出す。それは、幸福を抱えきれなくなることでもある。死と幸福には、たしかにどこか通じるものがある。幸福は得られない。だから生命の目的が虚無となるのを避けるには、独立性を維持することを目的にするほかない。ところが独立性を維持するとは、「いかなる目的による自分への支配も取り払う」ことを意味する。かくして虚無は、つねに生命に染み込む。あるいは、自由とは虚無を意味する。
したがって、アスカの根本的な矛盾はこうだ。「他人に依存したい。だが、他人に依存したがる自分が嫌いだ。」要するに、「自由と独立」と「安心と幸福」は両立しない。この自己へ折り返す構造、自己反省性が、アスカだけでなく『EVA』全体の人物造形に埋め込まれている。すぐに大人になりたいと思うことこそ子どもの特徴であり、本当の成熟とは、自分が成熟しているかどうかを「気にしない」ことなのだ。
こうしてアスカを理解することから、『EVA』全体における人格を持つ主体の逆説が見えてくる。それは、登場人物たちが自分自身について考えることだ。では、その思考の内的な背景、あるいは核心は何なのか。答えはこうだ。生命が自分自身に抗うこと。そして、その抵抗の中で、自らの歴史的使命を得ることである。
悪人が犯罪を企てる思考でさえ、天国の奇跡より偉大で崇高だ。あるいは、欠けた現実は、幻の完全さに勝る。現実的なものだけが、理性にかなうのである。