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『涼宮ハルヒ』シリーズと〈セカイ系〉を起点に――ポストモダンとACGN研究をめぐる雑感

真紅様が「セカイ系」、ポストモダニティ、文化研究という三つの手がかりから『涼宮ハルヒ』シリーズを読み直し、ラベリングと理論先行、そして作品の精読の軽視というACGN研究のあり方を問い直す。

著者: 真紅様翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · complete work

本稿は拾荒戦略 Rags Drum 2021前夜祭の受賞作で、初出はBilibiliです。

こう考えてみてほしい。人々がいつもこのような仕方で対象を指し示すことに慣れているとしよう。すなわち、指で対象のまわりに、空中で円を描くようにして指し示すのだと。そのとき、ある哲学者がこう言いたがる場面を想定できる。「すべてのものは円い。テーブルはこのように見えるし、ストーブはこのように見えるし、ランプはこのように見える」等々。しかも彼はそのたびに、そのものの周りに円を描いてみせるのである。

――ウィトゲンシュタイン『断片』1

20世紀哲学の偉大な教訓のひとつは、論理構造がふつう「物事がどう見えるか」という表面には浮かび上がってこない、ということである。記述の理論、言語行為論、志向性の理論はいずれも、「物事がどう見えるか」を出発点としながら、そこから深く掘り下げて、真の潜在構造を掘り出さなければならないことを示す事例である。

――ジョンサール「現象学の限界」

1 ハルヒシリーズは「セカイ系」なのか?――イエスであり、ノーでもある

私たちはとかく、一つの作品にさまざまなラベルを貼りつける。そうした分類によって、作品同士の「共通性」がよりよく説明できるのだという2。ハルヒシリーズについて言えば、よく貼られるラベルの一つが「セカイ系」である。「セカイ系」とは、東浩紀の言い方によれば、次のような一群の作品を指す。

主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと。3

東浩紀は『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』でこの定義をあらためて取り上げ、こう述べている。

谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』などの作品は、いずれもセカイ系のキャラクター小説としての特徴を備えている。

「セカイ系」の定義にはこれ以外の言い方もあるが、互いに大きな違いはない。この点については、前島賢が『セカイ系とは何か』で挙げている、「セカイ系」の定義の別のいくつかの言い方を参照できる。たとえば――

物語の男性主人公(ぼく)と、彼が思いを寄せるヒロイン(きみ)との関係を中心として、小さな日常性(きみとぼく)の問題が、「世界の危機」「世界の終わり」といった抽象的で、しかも非日常的な大問題と、いっさいの具体的な(社会的な)文脈(中間項)を挟むことなく、素朴に直結している作品群。

別名「ポストエヴァンゲリオン症候群」。すなわち、国家や社会を措いて、「自分の気持ち」「自意識」の及ぶ範囲を「世界」としてとらえる。そのような世界観を持つ一連の「オタク」系作品が「セカイ系」と呼ばれる。『ほしのこえ』『最終兵器彼女』などの作品がそれである。4

したがって、おおむね5次のように考えてよい。さまざまな人の口から出る「涼宮はセカイ系だ」という類の言い方(劇場版『消失』の感想文に「セカイ系恋愛物語」という題を付けること6や、谷川流を「セカイ系意識のきわめて強い作者」と呼ぶこと7も含む)における「セカイ系」の語は、いずれも上に引いた諸定義と同じ意味で使われている、と。

本稿の執筆目的のひとつは、ハルヒシリーズが果たして「セカイ系」作品なのかどうかを腑分けしてみることにある。(指摘しておきたいのは、報道によれば、山本寛がOtakon 2009で次のような発言をしていることだ。「セカイ系の定義に深入りするつもりはないが、谷川はそれ(涼宮)をセカイ系ではないと考えている。SOS団は反セカイ系のコンセプトであり、現実と虚構のあいだに立って、ストーリーに独特の味付けを加えている。涼宮はセカイ系ではないという説に私も賛成だ」8。しかし、たとえ谷川流が本当にそう考えているとしても、それだけでは、ハルヒシリーズをセカイ系と考える人々を説得するには足りない。また、いま論じているのが涼宮のアニメであるなら原作小説の作者の言葉に参照価値はない、と言う人もいるかもしれない――もっとも後述するように、少なくとも「セカイ系かどうか」という一点に関するかぎり、アニメと原作小説に大きな違いはないのだが。)

腑分けの便宜のため、私は「セカイ系」の定義を、以下の三つの条件の連言に書き換えておく。

1)主役たちのあいだの関係性を中心とすること。

2)「世界(の危機、)」はもっぱら(1)を表現する手段として用いられ、具体的ではなく抽象的であること(「『セカイ系』作品は往々にして、さほど完全な世界観描写を備えていない」9。より過激な言い方では、「『宇宙人が侵略してきた、世界が滅びた』という構図こそが最重要であって、宇宙人がどんな姿をしているか、人類がどう対処するか、世界がどのように滅亡へ向かうかといったディテールは驚くほどいい加減である」10)。

3)個人と「世界」のあいだにある「社会」の層の描写を欠くこと(術語で言えば「脱社会化」)。

(注意しておきたいのは、以上の三条件がそれぞれ「個人」「社会」「世界」という三つの側面に対応していることである。この三つの領域は、ラカンの「想像界」「象徴界」「現実界」と何やら奇妙な対応関係にあるとも言われており11、この点には後段でもふれる。)

ハルヒシリーズ全12巻の小説に収められた大小さまざまな物語のうち、以上の三条件を非常に典型的に満たしているように見えるものがいくつかある――「涼宮ハルヒの退屈」(以下、『退屈』は小説第3巻を指し、「涼宮ハルヒの退屈」は第3巻の第一篇を指す。以下同様)、『憂鬱』の結末、『消失』の全篇、そして「エンドレスエイト」である。なかでも最も典型的なのは「涼宮ハルヒの退屈」の一篇だ。ハルヒ(ヒロイン)が、野球の試合でのキョン(主人公)のふるまいに失望する(「小さな関係性の問題」)。それが直接に閉鎖空間の拡大を引き起こす(抽象的な世界の危機――『憂鬱』と違って、「涼宮ハルヒの退屈」には閉鎖空間の具体的な描写すらいっさいない)。そして最後には、長門の超能力によって(「社会」によってではなく)問題が解決される。残りの三つの物語も、同じような「あらすじ要約」の操作によって、三条件を同時に満たすことを確かめられそうに見える。

ハルヒシリーズ各篇の発表順を整理した表
ハルヒシリーズ各篇の発表順収録巻メディア化一覧。

しかし、注意深い読者ならすぐに気づくはずだ。この四つの物語はいずれも、ハルヒシリーズ全体のなかでかなり「前期」に位置している。そのうち「涼宮ハルヒの退屈」と『憂鬱』はシリーズ最初期に発表された二篇であり、「エンドレスエイト」がそれに次ぎ、最も遅い『消失』でさえ20048月――『憂鬱』のわずか一年後――の発表である。それに比べて、いくらか「後期」の物語(ひとまず『消失』を境界線とする)は、総じて上の三条件を満たしにくくなっている。

まず、「世界の危機」(あるいは何かほかの世界規模の大問題)は、もはや二度と登場していないように見える。「雪山シンドローム」でSOS団が直面する「危機」でさえ、範囲の上ではあの雪山の洋館に、規模の上ではSOS団の団員に限られており、「世界」の水準にはとうてい及ばない。まして「編集長★一直線!」の「部室が生徒会に接収される」や、『陰謀』の「朝比奈が誘拐される」などは、なおさら「世界の危機」とは言えない。

ここでありうる反論がひとつある。『分裂』と『驚愕』には依然として「世界の危機」が現れているではないか、と。古泉の言うとおりに――

これは涼宮さんが無意識のうちにその能力を行使した結果です。防衛線を張るために、世界をそのように分裂させたのです。一方はあるべき世界、もう一方は存在してはならない世界。彼女はまったく自覚のないまま、それでも何らかの危機意識を抱いて、この世界を守ったのですね。(古泉一樹、小説『驚愕(後)』台湾版)

しかし、「世界の分裂」という言い方に対する渡橋泰水の反論(「それぞれに少しばかり違う歴史があるだけで、時間と世界は同じものです」)をひとまず措くとしても、書き方そのものから言って、谷川流が読者に差し出している本当の危機は、「長門が倒れる」「朝倉が復活する」「ハルヒの神のごとき力が佐々木へ移されようとしている」といった、「世界」の水準にはない危機である。谷川流は「分裂」を「世界規模のもの」として描こうと試みてはいないし(先に引いた古泉のあの言葉が「描写」のうちに入らないのは明らかだ)、そもそも「分裂」そのものを一つの「問題」として書いてさえいない(「エンドレスエイト」における「世界のループ」の書き方と比べてみてほしい)。したがって、『分裂』『驚愕』の「世界の分裂」が、「セカイ系」の定義に言うあの「世界の危機」に属するとは考えるべきではない。

次に、キャラクター同士の関係は、もはや物語の唯一の中心ではない。ほかならぬ「世界」もまた、それ自体が表現される対象とされているからである。その顕著な現れとして、宇宙人未来人超能力者の三派の「世界理論」は、いずれもいっそうの深化を遂げている(「ワンダリングシャドウ」の全篇と『陰謀』の全巻は、宇宙人と未来人の理論への補足と見なせる。超能力者理論にかかわる紙幅は少ないものの、『驚愕』における「グノーシス主義」の紹介はそこに含まれ、これは『溜息』以来、超能力者理論における最大のブレイクスルーと言ってよい。以前に書いた「人類への賛歌――『涼宮ハルヒの分裂』と『驚愕』を読み解く一つの枠組み」12を参照)。ここからは、「世界」の法則――「世界がどのような姿をしているか」に、抽象的ではない具体的な内容がそもそもありうるとすれば、その一大重点は法則的な要素であって、次々に登場する宇宙の怪物たちではない――の描写に、作者が大量の筆と心血を注いでいることが見てとれる。ハルヒシリーズの舞台であるあの「世界」は、いったいどのような世界なのか。それはどんな(自然的あるいは超自然的な)法則に従っているのか。この問いの提起と解答の試みは、『驚愕』における朝比奈さん(大)と藤原の「未来の改変」をめぐる対話で頂点に達する。これが示しているのは、ここでの「世界」が「危機の発生する場所」という抽象的な役目を担ってはいないこと、むしろその具体的なありようこそが、作品の表現しようとする中心のひとつだということである。(対比のために、「セカイ系」の代表作と公認される『ほしのこえ』の「タルシアン」と「国連宇宙軍」を思い浮かべてみてほしい。あちらのほうがずっと、「危機を引き起こす」「危機に対処する」という筋書き上の任務を担う抽象的な装置に近い。)

最後に、三条件のうち最も満たしやすい「脱社会化」の条件(そもそも作り手には、すべての作品で意識的に「社会」を反映する義務などない)でさえ、満たしにくくなっている。『陰謀』でパトカーを運転する多丸兄弟から、「編集長★一直線!」で巨額の経費によって作り出された生徒会長まで、『機関』の社会階層における組織運営は、ますます水面へ浮かび上がってくる(ある面白い二次創作小説「ハルヒの四つの瞬間」13は、この点を直観的に示してくれる)。さらに「鶴屋さんの挑戦」における、Tと鶴屋の家庭背景の詳細な設定(富と地位を持ち、各分野の研究開発にも投資している)は、「資本」という要素を舞台裏から表舞台へと押し出し、科学魔法宗教の外にある第四の勢力がまもなく物語に加わることを暗示している。「『君の名は。』では町長である父親の関与が社会にかかわってくるから、厳密に言えばセカイ系には数えられない」という類の見解14が嘲笑を免れうるのなら、私たちも同じような方法で、ハルヒシリーズがセカイ系でないことを論証できるだろう。

「なるほど、言うことには一理ある。だが、あなたの区分に従えば、前期の涼宮はセカイ系で、後期はセカイ系ではない、と言えばまったく済む話だ。しかもこの区分は『アニメ化済み-未アニメ化』の区分とほぼ重なるのだから、いっそ簡単に、涼宮のアニメはセカイ系で小説はセカイ系ではない、と主張すればいいじゃないか!」

――これはたしかに巧みな応答戦略であり、「ハルヒシリーズは前期がセカイ系で後期がそうでないのか、それとも一貫してセカイ系ではなく、ただ後期になるほどそれが明白になるだけなのか」という問いに正面から向き合わねばならないことを、私たちに気づかせてくれる。これに対する私の答えは、もちろん後者である。疑いなく前期に属し、アニメにも小説にもある『溜息』の、次の二つの場面を検討してみよう。

「古泉くんの言うことは、その、あまり信じすぎないほうがいいと思いますこんなこと言うと、あたしが古泉くんをアレかと思われるようで15その、あたしもそういうのはいやなんですけど

「あいつが言っていた、ハルヒが神だという話のことですか?」

そのことなら、俺は信じちゃいない。

「あたし、その別の考え方をしているんです。つまり、その古泉くんの解釈とは違うんです」

朝比奈さんはほうっと息を吐き、上目づかいに俺を見た。

「涼宮さんには、この『現在』を変える力が確かにあります。でも、それが世界の構造を変える力だとは思いません。この世界は最初からこうだったんです。涼宮さんが作り出したものではありません」

そう来たか。彼女の見解は古泉と正反対というわけだ。

「長門さんの考えも、また違うと思います」

「俺には、古泉より朝比奈さんの見解のほうが分かりやすいですね」

朝比奈さんはかすかに微笑んだ。甘い豆が笑うとしたら、きっとこんな感じではなかろうか。

「はい、ありがとう。でも、あたし自身は古泉くんに不満があるわけじゃないんです。そこも分かってくださいね。

そんな微妙なことを言うと、彼女は上目づかいに俺をちらりと見て、すぐさま逃げるように身を翻して去っていった。(小説『溜息』台湾版、一部校訂)

「古泉一樹と朝比奈みくるが涼宮ハルヒに対して担っている任務は異なる。古泉一樹と朝比奈みくるは、互いに相手の解釈を決して認めることはない。彼等にとって異なる存在の理論は、自分達の存在基盤を揺るがすものに他ならないから」

ま、待てよ、古泉は三年前に超能力が自分に宿ったのだと言ったぞ?

長門は俺の疑問に即答した。

「古泉一樹の言葉が真実であるという保障はどこにもない」(小説『溜息』台湾版)

以上の二つの場面から、三つの結論を引き出すことができる。

1)宇宙人未来人超能力者の三派の「理論」のあいだには、実質的な(言い回しの上だけではない)衝突が存在する。『憂鬱』で三派が示した、世界とハルヒの能力についての三つの異なる理論は、「同じ一つの事柄についての三通りの言い方にすぎない」と思わせるかもしれない。だが『溜息』は、少なくとも未来人と超能力者の両者の理論が両立しえないこと、キョンであれ私たち読者であれ、そのうちのせいぜい一方しか受け入れられないことを、はっきり教えてくれる。(さらに一歩進んで、両者の理論のうち正しいものはせいぜい一つだ、とさえ言える。真理の整合説やプラグマティズムの信奉者とは違って、キョンが気にかけているのは「自分の遭遇した出来事に、いかにももっともらしい説明を与えること」だけではなく、「正しい答え」16なのだから。)

2)(1)で述べた「理論の衝突」を、作者は「人物関係の衝突を表現するための手段」として理解してほしくないと考えている。先のキョンと朝比奈さんの対話は、理論の衝突と人物関係の衝突とが同時に存在し、互いに相対的に独立していること、一方が「表象」で他方が「本質」ないし「内核」であるのではないことを、くどいほど念押ししている17

3)これは(1)からの自然な帰結である。理論を設定として扱ってはならない。三派の理論は、作者が登場人物の口を借りて同じ設定を三度語ったものではなく、むしろ作者が三つの異なる言い分を与えて、どれが本当の設定なのか(あるいは、どれも違うのか)を読者に推測させているように見える――そして、そのような設定はもはや「設定」とは言えない。それは物語全体の最大の懸案であり、作者の仕掛けた「最終の謎」なのである。

ここから、ハルヒシリーズの「世界」と「セカイ系」の「世界」との最大の違いが見えてくる。ハルヒシリーズにおいて、出来事の起こる舞台としての「世界」は、最初から直接に、絶対的に、あからさまに私たちに「与えられて」いるのではないし、純粋に芸術表現へ奉仕する「装置」として目の前に「置かれて」いるのでもない。それは、作者によって豊かな内容を与えられた、私たちがこれから認識し探索すべきものなのである。だから、ハルヒシリーズを真剣に扱おうとするなら、キャラクターの内面とキャラクター同士の関係だけに注目して、「世界」そのものへの思考を脇に置いておくわけにはいかない。この点で、本当に典型的な「セカイ系」作品とのあいだには根本的な違いがある。(言い換えれば、ハルヒシリーズも本物の「セカイ系」作品も、読者に「セカイ系」として読まれる可能性はあるが、だからといって、どちらも「セカイ系」であることにはならない。後者は、それを「セカイ系」として読むよう読者に内在的に要求し、導くのに対して、前者はそうではないからだ――もし読者が、世界とは「主人公たちの存在を支える引き立て役」18にすぎないと思い込み続けるなら、その読者が読んでいるのは永遠に、不完全な、欠損したハルヒシリーズである。)

(もうひとつ使える論拠がある。ハルヒシリーズの「宇宙人」はきわめて非典型的な「宇宙人」であり、「超能力者」に至ってはなおさらそうで、しかも谷川流は明らかに意図してそうしている、という点だ。前者は佐々木のぼやきに現れている。

子どものころから、僕はずっと、もし宇宙人が存在するとしたらどんな姿だろうと想像してきたんだ。小説や漫画では、宇宙人はたいてい、光学的な方式で外形を観測できることと、ある程度の意思疎通が成り立つことが前提になっている。たとえば素数の概念を理解できるとかね。翻訳機のような便利な道具もよく出てくる。長門さんの側の情報統合思念体や、九曜さんの側の天蓋領域は、人類のこしらえた分かりやすい物語に出てくるような宇宙人のイメージとは、まるで違っているようだね。(佐々木、小説『驚愕(前)』台湾版)

後者はキョンのツッコミに現れている。

「超能力があるって言ったよな?」

「ええ、言い方は少し違いますが、簡単に言えば間違ってはいません」

「だったら、その能力とやらを見せてくれよ。そうしたら信じてやる。たとえばこのコーヒーを元の温度に戻すとかさ」

古泉は愉快そうに笑った。こいつが心から笑うのを見るのは、これが初めてのような気がする。

「申し訳ありませんが、それはできません。僕の持っているのは、そんなに簡単に理解してもらえる能力ではないんです。普通の状態では、僕に特別な能力はありません。能力を発揮するには、いくつかの重要な条件が同時にそろわなければならないんです。いずれあなたにも見ていただく機会があると思いますよ」(小説『憂鬱』台湾版)

このような「非典型」の設定もまた、読者の注意の一部を「宇宙人」あるいは〈宇宙人であること〉そのものへ引き寄せ、「『宇宙人』という萌え要素を持つこの長門」「『超能力者』という萌え要素を持つこの古泉」だけに集中させない。これが、シリーズを「セカイ系」として読むことの妨げになるのは疑いない。

実のところ、ハルヒシリーズにおける「非典型」は、それだけで一本の文章を書いて論じるに値する話題なのだが、紙幅の都合上ここでは展開しない。)

ここまで来たところで、もう一度『憂鬱』の冒頭を振り返ってみよう。谷川流が2003年に書いたこの一節は、果たして「セカイ系」への追従とオマージュなのか、それとも「セカイ系」への反省とパロディなのか。皆さんはもう、自分なりの答えを持っているはずだ。

宇宙人にさらわれ、透明な大きなエンドウ豆のさやに閉じ込められた少女を、俺は本気で救い出したかった。レーザー銃を手に、知恵と勇気で、歴史を書き換えようとする未来人を撃退したくもあった。あるいは呪文ひとつで悪霊や妖怪を片づけるのでもいい。でなければ、秘密組織の超能力者と超能力バトルを繰り広げるとか!

いや待て、落ち着け。仮に俺が宇宙人うんぬん(以下略)といった類の生き物に襲われたとして、何の特殊能力もない俺が、どうやって奴らと渡り合うんだ? そこで俺は、こう夢想したのだった――

ある日、クラスに謎めいた転校生が突然やって来る。実はそいつは宇宙人だの未来人だのの類で、未知の能力を持っている。やがてそいつは悪者と戦うことになり、俺はその戦いにうまいこと巻き込まれさえすればいい。主に戦うのはそいつで、俺はそいつに付き従う舎弟だ。ああ、なんて素晴らしい。俺はなんて頭がいいんだ!

でなければ、こうだ。ある日、俺の不思議な力が突然目覚める。物体を宙から取り寄せるとか、念動力とか、そういう類のやつだ。しかも地球上には、実はほかにも超能力を持った人間が大勢いて、当然、そういう人間たちを収容する組織もある。ほどなくして、善良な組織が俺を迎えに人をよこし、俺も組織の一員となって、世界征服を企む邪悪な超能力者と戦うのだ。(キョン、小説『憂鬱』台湾版)

2 ハルヒシリーズと「ポストモダンのまなざし」

ここまでで、「ハルヒシリーズは果たしてセカイ系作品なのか」という問いへの詳細な解答は済んだ。しかし私の見るところ、これは研究の第一歩にすぎない――この研究にそもそも何らかの意義があるとすれば、の話だが。著名なライトノベル評論家框框框子はかつてこう言った。「おまえら**どもが定義をこねくり回すのを聞くくらいなら、自分で一つ定義したほうがましだ」19。この言葉は当時こそ嘲笑の的になったが、そこには疑いなく、ある種の洞見が含まれている。「セカイ系」というかつての流行語がとうに廃れた今日、とうに旬を過ぎた作品が「セカイ系」に属するかどうかを長々と論じ分けることに、いったい何の意味があるのか。さらに言えば、「セカイ系」という、ごく一部の人間がこしらえた古びた概念に、今日どれほどの重要性が残っているのか。ある特定の作品が「セカイ系」と呼ばれるかどうか、呼ばれるべきかどうかなどということを、私たちは気にかける必要があるのか。

これらの疑問への応答はいくつも考えられるだろうが、少なくとも私にとって、「セカイ系」という言葉が気にかかるのは、その定義のためだけではない。それ以上に、この言葉が暗に含み前提としている、あるポストモダン的文化研究的なまなざしのためである。そしてハルヒシリーズと「セカイ系」という言葉のあいだの緊張は、シリーズが「セカイ系」の定義に合致しないことだけでなく、それ以上に、「セカイ系」という言葉が依って立つ文脈と視角にそぐわないことにある。本節では「ポストモダン」に集中して論じ、「文化研究」の議論は次節に譲る。

実のところ、「セカイ系」という言葉自体が、ポストモダンの文脈から生まれたものである。高瀬司の言うとおり――

東(浩紀)は言う。「僕たちは、象徴界がすでに失墜し、確かな現実感が消え失せた、偽りに満ちた世界に生きている。この感覚をシステムで表現すればループもののゲームになり、物語で表現すればセカイ系になる」。ここで言われる象徴界とは精神分析学者ジャックラカンの概念で、簡単には「社会や歴史や国家」、すなわち「大きな物語」と理解してよい。20

「大きな物語」は、東浩紀がとりわけ好んで用いる言い回しである。『動物化するポストモダン』で彼はこう書いている。

近代とは、大きな物語に支配された時代である。だがポストモダンにおいては、大きな物語はすでに破綻をきたし、社会の統合性は急速に衰退していく。日本では、その衰退は、高度経済成長期と「政治の季節」の終わり、オイルショックと連合赤軍事件を迎えた70年代に、いっそう加速した。

また『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』では、こう書く。

ポストモダンの相対主義的かつ多文化主義的な倫理のもとでは、仮に私たちが何らかの「大きな」物語を信じるとしても、他人もまた同じ物語を信じなければならないと考えることはできない。言い換えれば、ポストモダンの言説において、あらゆる「大きな」物語は、他の多様な物語のなかの一つとしか見なされえず、「小さな物語」としてのみ流通を許される。ポストモダン理論は、このような状況を「大きな物語の衰退」と呼ぶ。

ここで東浩紀は、フランスの思想家リオタールが『ポストモダンの条件』で示した考えに従っており、そこから「ポストモダンの状況→大きな物語の衰退→セカイ系作品」という、ポストモダン理論からACGN研究の領域へと延びる論理の鎖を与えている。これが、私の言う「ポストモダンのまなざし」である。(ポストモダン理論が20世紀後半の西洋人文学界を支配した思想理論であったのと同じように、ポストモダンのまなざしもまた、今日のACGN研究界を支配するまなざしである。)

残念ながら、『動物化するポストモダン』には、リオタールとボードリヤールの引用を別にすれば「ポストモダン」という言葉の詳しい説明はなく、ただ大づかみに、「ポストモダン(post modern)」とは「近代のあとに現れたもの」を意味し、人々は近年の文化上の断層について「常識的な直観」を抱いており、それを「ポストモダン」という言葉で呼んでいる、と述べられているだけである。そのため私は、イーグルトン『ポストモダニズムの幻想』の一節を引いて補わなければならない。

ポストモダニズムpostmodernism)という言葉は、ふつう現代文化の一つの形式を指し、ポストモダニティpostmodernity)という術語は、ある特定の歴史的時期をほのめかす。ポストモダニティとは一つの思考の様式であり、真理理性同一性客観性についての古典的な概念を疑い、普遍的な進歩や解放の観念を疑い、単一の体系、大きな物語、あるいは説明の最終的根拠を疑う。こうした啓蒙主義の規範に対立して、それは世界を、偶然的で、根拠を欠き、多様で、移ろいやすく、不確定なもの、一連の分離した文化ないし解釈の集まりと見る。それらの文化や解釈は、真理歴史規範の客観性、本性の所与性、アイデンティティの一貫性に対する、ある程度の懐疑をはらんでいる。ポストモダニズムとは一つの文化の様式であり、深さも中心も根拠もない、自己反省的で、遊戯的で、模擬的で、折衷主義的で、多元主義的な芸術によって、この時代的変化のいくつかの側面を反映する。その芸術は、ハイカルチャーと大衆文化の境界を、そして芸術と日常経験の境界を曖昧にする。

イーグルトンの言う「ポストモダニティ」と「ポストモダニズム」の区別は、とりわけ東浩紀によって重視されている。彼は『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』で繰り返し強調する。

「ポストモダン」という言葉は、1970年代以降の社会的文化的変化を広く指す。「ポストモダニズム」という言葉が指すのは、その時代のなかから派生した一つの思潮にすぎない。本書の「ライトノベルはポストモダン的な小説である」という主張は、そのようなポストモダン的性格の水準を作家が自覚しうることを意味しない。本書が関心を寄せるのは、それが反映するポストモダンの精神の機構である。そしてそれは、小説の内容そのものからではなく、小説と小説のあいだの環境空間から、ライトノベルのポストモダン的な性格を見るということでもある。

ここで東浩紀は、なかなか狡猾な手を打っている。「作家に自覚的なポストモダニズムがなくても、その作品はポストモダンの環境のもとに生まれ、そこに住まっているのだから、やはりポストモダン的である」と宣言することで、彼は、先に示したポストモダンのまなざしを、どのライトノベルの上にでも合法的に投射できるようになる(何冊かを選び出して「セカイ系」と呼ぶのは、この投射の一例だ)。そのライトノベルの内容や作者の意図に、明確なポストモダニズムの立場が含まれているかどうかにかかわらず、である。こうして彼は、「これこれの作品にはこれこれの内容があるのだから、ポストモダンのまなざしにはなじまない」という告発を、あらかじめ解消してしまった。

しかし、私がこれから起こす告発は、それよりも手ごわい。私は二つの側面から、ハルヒシリーズの事情がもっと特殊であることを論証する。すなわち、このシリーズは内容の上で自覚的なポストモダンでないばかりか、ある意味では、自覚的な反ポストモダンなのだ! この論証が成り立つなら、ポストモダンのまなざしから生まれた「セカイ系」という言葉でハルヒシリーズを形容することは、単なる「誤り」であるにとどまらず、一つの「過失」だということになる。

まず注目に値するのは、『驚愕(前)』の結末にある佐々木とキョンの対話である。この対話は情報量がきわめて大きく、しかも多くの段落には筋書き上の明白な働きがなく、作者の自己表現の色彩を強く含むと考えられる。それゆえ私の見るところ、これは『驚愕』を、ひいてはハルヒシリーズ全体を理解するための「鍵」である。この対話のなかで佐々木は、きわめて強いポストモダン的な問題意識を見せ、ポストモダンを色濃く映す社会現象の数々を論じている――

価値観の多元化(注意に値するのは、この一節で作者が「価値観の多元化」を、宇宙人の世界理論における中核概念である「情報」と結びつけていることだ。一方では、情報の豊かな現在において価値観が多元化していることを指摘し、他方では、情報が欠けている状況では、たとえ〔社会生活の〕多様性が増しても価値観は多元化せず、かえって価値観の均一化へ向かうことを論証している)。

「キョン、君にとっては何がいちばん大切だい?」

俺はとっさに答えられなかった。

「僕もだよ。情報21が高度に錯綜する現代社会では、価値観を数量化することはできないからね」

佐々木の表情と口調は、相変わらずのものだった。

「たとえば、金だと感じる人もいれば、情報だと言う人もいるし、感情だと考える人もいる。各人が各人の、まったく異なる価値基準を持っているせいで、人は自分の価値観だけでこの世のすべてを判断することはできない――そのことは君も僕もよく分かっている。だから君は、僕の問いにすぐ答えられなかったんだ」

だろうな。

「けれど僕が思うに、昔の人は、こんな問題でここまで悩みはしなかった」

だろうな。

今どき、情報は手を伸ばせば届くところにあると言っていい。だが百年前、いや、ほんの十年前でさえ、得られる情報はごく限られていた。戦国時代や平安時代までさかのぼったなら、彼らが選択を前にしてためらう度合いは、現代人より深かっただろうか。選ぼうにも、選択肢はきっとごく限られていたはずなのだ。

多様性が増せば選択の自由もそれにつれて増すとはいえ、かえってどう選ぶべきかで悩むことになるのなら、それはむしろ、多様化のもたらした選択の弊害と言うべきではないか。情報が足りず、何を選べばいいか分からないとき、人は多数の人が選ぶものを選ぶだろう。それでは本末転倒だ。多様化しないばかりか、かえって両極へ集中していく。すなわち、価値観の均一化である。(小説『驚愕(前)』台湾版、一部校訂)

人間という個体の意味の喪失(以下に引く二つの段落のうち、後者には「涼宮ハルヒがこの時代にいるからこそ、この時代が重要になった」といった筋書き寄りの解釈を施すこともできるが、文脈から見るとやはり相当に唐突である。そのため、これを藤原の動機を理解する突破口と見なす研究者もいるが、私はむしろ、作者が佐々木の口を借りて、この時代についての考えを語ったものだと見なしたい)。

「単細胞生物や細菌が人間なみの知能を得たとしても、きっと同じ感想を抱くだろうと僕は思うんだ――『この二足歩行の哺乳動物は、いったいどういう考えで行動しているのだろう』とね。人間はいったい、何のために生きているのか。もしかすると彼らは、『人類はこの星と世界に何をしたいのだろう』という疑問を発する前に、まずそのことに驚くんじゃないかな」

自分が何のために生きているのか、俺はどう考えても分からない。だが、そういう人間こそ全人類のなかで圧倒的な多数派だと、俺は信じている。(小説『驚愕(前)』、引用者訳)

「僕たちが向き合っている問題は、もしかすると、ただの存在意義の証明なのかもしれない。誰であれ、自分の存在証明を確かな事実にするために努力しているだけなのかもしれないよ。宇宙人だろうと未来人だろうと超能力者だろうと、誰もがただ、『自分は確かに存在していて、他人もみな自分の存在を認識している』というただ一つの単純な行動理念に従って行動しているだけなのかもしれない。キョン、君はもう、九曜さんと藤原さんと橘さんが、いまここにいることを認識しているだろう? 彼らが今すぐここから消えたとしても、君は彼らを忘れられないだろう? いまこの瞬間、彼らは疑いようもなくこの世界に存在している。もしかすると彼らの願いはただ一つ、『僕たちを忘れないで』という、短くて物悲しいメッセージを伝えることなのかもしれないね」

やっぱり分からん。そういうことを、なぜよりによってこの時代に、俺の前でやらなきゃならないんだ? あいつらの顔つきや言動を俺は死んでも忘れないだろうが、だからどうだと言うんだ。俺は記録癖のある宮廷文官でもなければ、史書の編集長でもない。騒ぎたいなら、タキトゥスやヘロドトスの時代に行けばいいだろう。でなければ、この時代にだって、似たような趣味を持つ人間くらいいるはずだ。(小説『驚愕(前)』台湾版、一部校訂)

ところが、これらの「ポストモダン的な」問題を前にして、佐々木の選ぶ解決策はきわめて「近代的」である。それは、彼女の理性主義への傾き、意味の追求、進歩への賛美、大きな物語への偏愛に現れている。

「やれやれ。人はなぜ生きるのか、何のために生きるのかという問題は、禅問答の一種にすぎないよ。ちょっと聞くと観念的な意義がありそうだが、実際には何の意味もない。それでも、どうしても言えと言うなら、こう答えるほかないね。僕の存在意義は、第一に『思考すること』、第二に『思考を続けること』だ。僕は死んではじめて思考をやめる。逆に言えば、思考をやめることは、死と異ならないと言っていい。そのとき『僕』という個は消えて、動物のような生命だけが残るんだろうね」

佐々木はくくっと低く笑った。

僕は絶え間なく考え続けたい。この世界の森羅万象を、死ぬそのときまで考え続けたいんだ。

思考が終点に達したあとには、何が残るんだ? えー、子どもを産む以外で頼む。

「実にいい質問だね、キョン。それは確かに、人情味のある問いだ。自分がこの時代に生きた証として、遺伝子以外のものを後世に残したいなら、なにもアミノ酸でできた二重螺旋にこだわる必要はない。有史以来、僕たち人類は地球上に実にさまざまなものを残してきた。贅を尽くした大規模な遺跡、小さいけれど画期的な発明、当時最先端をいく先進技術、国家の文化芸術品、まったく新しい技術体系、さらには後世に伝わる理論

佐々木の表情からは、彼女の思考が時代をまたぐ脳内時間旅行を続けているのが見てとれた。

世界史で習うような歴史上の偉人にしても、偉人と呼ばれるに足ることを成し遂げたからこそ、歴史に名を残したんだ。僕は身も心も小さくて非力だけれど、僕の思考を出発点として、未来にまで伝わる新しい概念が生まれてこないとは限らない。正直に言うと、僕は本当に、自分の生み育てたささやかなものを後世に残したいんだよ。もちろん、DNA以外のものをね」

ずいぶんな野心だな。

「残せるものなら、言葉でも概念でも構わない。野心と言うなら、それが僕の唯一の野心だ。ただ、僕はそれを独力で成し遂げたい。宇宙人や未来人や超能力者の力は借りたくない。僕の思考は僕だけのものであって、誰にも介入してほしくないんだ。結論は自分で出す。それが、僕が自分に定めた存在意義だ。僕は、自分の心から湧き出るオリジナルの言葉や概念を創り出したい。誰の干渉も影響も受けずにね。だから九曜さんと藤原さんは、むしろ邪魔なんだよ。橘さんは僕は彼女となら、何でも話せる親友になれるだろうね。彼女は僕の唯一の救いだよ」(小説『驚愕(前)』台湾版、一部校訂)

上の一節(とりわけ私が太字にした部分)からは、次のことが容易に見てとれる。ポストモダン期のさまざまな問題を前にした佐々木の答えは、デカルト=啓蒙主義的な理性主義と、リオタールの言う「偉大な英雄、偉大な冒険、偉大な航海、そして偉大な目標」22とを、きわめてはっきりと一身に集めており、理性主義と大きな物語に反対するポストモダンの思潮と鮮明な対照をなす、濃厚な近代性の色彩を帯びている。たしかに、東浩紀の弁明によれば、「物語の内容が雄大な奇想に満ちていること」は、「大きな物語の衰退」という説への反駁にはならない23。しかし、このきわめて強硬な、ほとんど宣言のような発言は、少なくともそれに対する、声を上げた抵抗ではある。これは私の深読みではない。むしろ谷川流は、早くからこの抵抗のための布石を打っていた。『憤慨』で阪中の犬に「ルソー」と名づけ、「哲学者らしい風格のある名前」「本名はフランスの哲学者と同じ」と繰り返し強調したこと、そしてヘーゲルの『精神現象学』を、「長門有希の100冊」における唯一の哲学書として選んだことが、それである。

これこそ、ハルヒシリーズを「セカイ系」に組み入れることに私が反対する、より深い層の理由である。反ポストモダンの作品をポストモダンのまなざしで見ることは、セカイ系でない作品をセカイ系と呼ぶことに比べて、疑いなく、いっそう深刻な皮肉なのだ。

ここで、ありうる反対意見がひとつある。上に引いたのは佐々木ひとりの見解にすぎず、したがって言えるのは、せいぜい佐々木が「反ポストモダン」だということまでだ。この言葉の適用範囲をハルヒシリーズ全体、さらには作者にまで広げる根拠がどこにあるのか、と。たしかに、佐々木の見解とハルヒシリーズの「中心思想」とのきわめて強い関連性を、私は以前に詳しく分析したことがあるが24、一般の読者から見れば、私は結局、一人の登場人物の数節の発言だけで作品全体を性格づけていることになる。そこで以下では、もう一つの側面――ハルヒシリーズのミステリ的性格――から、あらためて論じることにする。

盧冶が「伝奇と日常の弁証法――『黄金期』探偵小説と近代性」で述べるとおり、推理小説は「近代性の新しい産物のひとつであると同時に、その象徴であり論拠でもある」のであり、「いわゆる『探偵小説の弁護』とは、実質的には『近代生活』の弁護にほかならない」。具体的には――

日常生活を魔術化することも、脱魔術化することも、ともに近代性のふるまいである。謎はもともと情報の非対称から生まれるが、謎解きの過程で人々は、あらゆる答えがとうの昔から目の前に示されていたことを発見する。「日常と伝奇の弁証法」が、黄金期の「絶対的にフェア」な叙述原則を作り上げた。作者は読者に情報を隠してはならず、読者も探偵も制限された叙述のなかにいて、同じスタートラインに立つ。明らかに、この日常と伝奇の弁証法は、啓蒙理性の強烈な自信を体現している。すなわち、どれほど多くの読解がありえようとも、問いがあれば答えがある。

この点は、実のところ理解に難くない。(本格)推理小説の「事実と推理によって唯一の真相を突き止める」という構造は、まさしくポストモダンの相対主義反理性主義の宿敵だからである。この面でハルヒシリーズには、「すべての情報をそろえ、理論的な思考と豊かな想像力を加え、いくばくかの直観を組み合わせてはじめて、唯一の真相にたどり着ける」(「ワンダリングシャドウ」での古泉の発言である)という直接的な表明があるだけでなく、「孤島症候群」「猫はどこに行った?」「鶴屋さんの挑戦」という三つの典型的な探偵物語のなかでも、そうした唯一真理観が間接的に体現されている。

まず「孤島症候群」から見よう。ハルヒシリーズ最初の推理物語だからである。物語の前半はきわめて伝統的――「嵐の山荘」で起きる密室殺人事件――だが、後半はそうではない。まず古泉が一つの「偽の真相」を公表し、次にハルヒが「第二の真相」を考え出すが、最後にキョンが、すべては『機関』の自作自演の芝居だったと見破り、これこそが最終的な「真相」となる。こうして「三重解決」の構造ができあがる。この特別な構造ゆえにこそ、京都アニメーションはアニメ化に際して、この物語を本格ミステリアニメのパロディに仕立てたのかもしれない。

しかし、谷川流の意図は本当にそうだったのだろうか。16年後、「鶴屋さんの挑戦」の発表は、「孤島症候群」を考え直し、理解し直す機会を私たちに与えてくれた。「鶴屋さんの挑戦」の冒頭で、古泉とTは「後期クイーン的問題」をめぐって長広舌をふるう。「後期クイーン的問題」とは、簡単に言えばこうだ。推理小説のなかの探偵には、手がかりが完全かどうか、正しいかどうかを確定できないなどの困難があるため、「作品内の世界では、『論理的に唯一可能な犯人』なる人物は論理的に不可能である」。この問題は、本節で論じている主題「ポストモダン」と密接なかかわりを持つ。「後期クイーン的問題」の父と目される法月綸太郎は、かつて文章でこう指摘した。「80年代末期に登場した『新本格』などの理念は、いずれも『ニューアカデミズム』以降の脱構築の思潮に乗って現れたものである。それゆえ、ここでクイーンの『形式化』の問題を考察することは、同時に、われわれ自身の立脚点を問うことでもある。その意味で、この文章の一大任務は、『新本格』の根拠のアリバイ(不在証明)を提出することにある」25。東浩紀の解釈によれば、「新本格の作家たちは、現実に近づく世俗的な物語を拒み(真紅様注:先の『大きな物語の衰退』にほぼ等しい)、名探偵という記号的なキャラクター造形を創り出し、館だの密室だの孤島だのといった幻想的な舞台に物語を設定して、謎の論理性を偏愛した」のであり、法月綸太郎が言いたいのは、「新本格の自己矛盾は探偵小説だけの問題ではなく、80年代以来の思想界全体の問題に結びつけて考えるべきものだ。そしてこの80年代以来の思想の問題とは、すなわち、哲学が存在の根拠を失ったという問題である」。ここから分かるように、「新本格」は強いポストモダン的特質を持つ一群の作品であり、それが偏愛する「論理性」に疑義を突きつける「後期クイーン的問題」もまた、ポストモダン性を帯びた問題なのである。

法月綸太郎自身は、この問題を正面から解決してはいない。それどころか、彼の作品の女性キャラクターは探偵にこう告げさえする。名探偵の存在根拠の問題なんてもう考えないで、あなたはまず自立した人間になりなさい、と。この処理に東浩紀はいたく興奮し、ただちに精神分析学派の筋道に沿って、後期クイーン的問題の根源はいわゆる「父の不在」「巨大化した母性」であり、法月は「『母』との同居をやめる」という方法でこの問題を解決したのだ、と分析してみせた26。これに比べると、谷川流の筋道はまったく異なる。彼は古泉とTの口を借りて、こう指摘する。作者は、作中の登場人物に「読者への挑戦」を提出させることで、実際には読者へ出題する働きを持たせることができる。すなわち、作者と読者のあいだの暗黙の了解を利用し、作者の身分において、真相の存在と唯一性、そして推理の遂行可能性を保証できるのだ、と。このような「保証」は、ハルヒシリーズだけでなく、推理と謎解きを核とする広範な推理小説にも当てはまる。ここで谷川流は、「後期クイーン的問題」の破壊性に正面から向き合うことを選び、探偵小説の根拠を、謎と手がかりと答えの上にあらためて打ち立て(「鶴屋さんの挑戦」でミステリ研とSOS団の面々が実演してみせたとおりである)、「作者と読者のあいだの知的ゲーム」を力強く擁護した。これらすべては、先に論じた佐々木の言葉と同じ構造を持っている。すなわち、ポストモダン的な問題に、近代的な解答を与えるという構造である。

同じ認識を携えて、「孤島症候群」へ立ち返ろう。「三重解決」のうち、第一と第二の真相の「偽」と「真」は、探偵物語の「模範解答」の意味で言われている――作者の設定した答えに合致すれば真、さもなければ偽である。一方、前二者と第三の真相の「偽」と「真」は、「世界」の意味で言われている――世界のなかの実際の事情に合致すれば真、さもなければ偽である。谷川流は、一段ずつ積み上がる三重の真理によって、前者の組の「真」「偽」の成立が「模範解答」の成立によって、ひいては後者の組の「真」「偽」の成立によって保証されることを、私たちに示してみせた。探偵小説の存在根拠は、こうして、世界の客観性と真理の唯一性へと還元されたのである。「猫はどこに行った?」ではなおさらで、誰もが最初から、これは『機関』の設計した探偵ゲームだと知っており、その上で推理を行う。「どれほど多くの読解がありえようとも、問いがあれば答えがある」という法則(すなわち出題-解答の構造)は、ハルヒシリーズ全体を貫く一つの信条と言ってよく、谷川流が私たち読者へ伝えたいメッセージでもある――「谷川流の挑戦――『涼宮ハルヒの直観』完全解析」27で、私はこのメッセージをハルヒシリーズそのものに当てはめ、谷川流が、ハルヒシリーズに埋め込んだ数々の謎を読者に解いてほしいと望んでいることを指摘した。そして今の私は、このメッセージがハルヒシリーズの内側に当てはまるだけでなく、より広い世界へも同じように延ばせることに気づいている(ちょうど「鶴屋さんの挑戦」が引く「推理の不可能性は、むしろ現実世界の側にこそ属する」という見解が、後期クイーン的問題とその解答が探偵小説の方面だけで働くのではないことを暗示しているように)。もちろん、そのような世界は、けっしてポストモダンの文脈で言う「世界」ではない。むしろ、ポストモダンの文脈に閉じこもった批評家たちには、そのような世界を理解することは永遠にできないのだ。

3 ハルヒシリーズと「文化研究」

「日本文化研究者東浩紀」は「日本文化/研究者/東浩紀」と区切ることができるが、「文化研究」は実のところ、それ自体が一つの学術用語でもある――

1960年代のイギリスの一群の学者、ホガート(Richard Hoggart, 1918-)、ウィリアムズ(Raymond Williams, 1921-1988)、ホール(Stuart Hall, 1932-)に源を発する。彼らは文化の意味を拡張し、ハイカルチャーだけでなく、同時代の労働者階級や若者の余暇活動、大衆娯楽、放送メディアなどの領域までを含めた。研究上は、文化現象と政治経済社会変動などの要因との相互関係を重視する。28

ただし、本稿での「文化研究」の語の使用にあたっては、「ある種類の対象の全体を一つのまとまった文化と見なし、その視角のもとで研究を行う」という意味だけを取れば足りる(広義の文化研究と呼んでもよい)。このような「文化研究」の適用範囲はきわめて広い。たとえば鬼畜動画(中国版音MAD)文化研究(例:「青年サブカルチャーの視角から見たネット動画文化研究――『鬼畜動画』を例に」)、弾幕文化研究(例:「弾幕サイトと弾幕族を透視する――一つの青年サブカルチャーの視角」)、コスプレ文化研究(例:「役割扮装のカーニバル――青少年コスプレブームの文化研究」)、そしてもちろん、本稿の論じようとするACGN文化研究、すなわち「ACGN文化」全体(あるいは「ライトノベル文化」「ギャルゲー文化」)という尺度の視角のもとで、そのなかの特定の作品(あるいは作品類型)を事例とする研究である。このような研究の視角は、彼らが「作品」よりも「文化の網の目のなかに置かれた作品たち」に注目することを、あらかじめ運命づけている。さらに彼らは必然的に、錯綜した現象のあいだに統括的で高次の理解を形づくろうと努めざるをえず、そこから、既存の理論を援用するにせよ新しい理論を創り出すにせよ、強い理論化への傾向が生まれる。前段で論じた「セカイ系」概念も、一つの「理論化」である。

ここで、「理論」という言葉について少し明確にしておかねばならない。私の見るところ、現象に対するあらゆる体系的な説明は、理論と呼ぶことができる。したがって、「文化研究」が必然的に導く「理論化」は、「リオタールのポストモダン理論」「ラカンの精神分析理論」といった、人を怖じ気づかせる水準に達してはじめて成立するものではない。著名なライトノベル評論家歧路先知の一節を引いて、この点を説明しよう。

作品ごとの貼吧(百度の作品別掲示板)がふだんやっているのは、金石学や訓詁学の類のことだ。もちろん無用とは言えない。作品のどこかの設定や筋を忘れたときには、彼らに教えを請う必要がある。だが私見では、いままさに文章を書いている君に忘れられてしまうような設定や筋なら、そんなものは実のところ大して重要ではない。

貼吧式の筋の整理は、作品が神聖不可侵であることを前提しなければならない。その上に書かれた書き込みが「批評」と呼べないのは当然だ。

知乎にいる、口を開けばジジェクという一部の「ラカン人」は、もう一方の極端である。彼らの書く文章はどれもあまりに筋が通りすぎていて、ライトノベルを読まなくたって批評が書けるんじゃないか、という錯覚を私に起こさせるほどだ。29

ここから分かるように、歧路先知は、ともすればラカンの精神分析理論を援用するライトノベル研究に大いに不満を抱いている。しかし、この不満は、あらゆる「文化研究」、あらゆる「理論化」への不満なのだろうか。そうではない。彼が反対しているのは、せいぜい「学術制度のなかの理論」であって、彼自身が組み立てた理論ではない――この先知をよく知る人なら、彼の「ストラップ式ヒロイン」30「プログレスバー三統一」31といった言い回しや、彼の「属性と人間性」理論が引き起こした、軽之物語と屋頂現視研のあいだの一大論戦32を必ず知っているはずだ。というのも、彼は自分を「全体の高みからライトノベルを分析し読み解く」「文学専門家」には属さないと考えているようだが、その持っている視角は、依然として「ライトノベル文化」ひいては「二次元文化」の高みに立つものだからである――歧路先知がみなに勧め、彼らの「学派」の理念を代表すると称される「ライトノベル書評方法論(七)」33は、冒頭の一句からして「ライトノベルの本質とは何か」であり、同じ文章には、「ライトノベルに優劣をつけるのは、ライトノベル王国をより完全へと近づけるためだ」「君が記録し、飾り立てるべきは一つの時代であって、どこかの個人ではない」といった野心満々の文言まで現れる。したがって、彼の研究も(気ままに書いた読後感でないかぎり)同じく必然的に高度に理論化されており、その理論と、ラカンたち東浩紀たちの理論とのあいだには精粗の差があるだけで、本質上の区別はない。

以上の分析を経れば、このような「理論化」された「文化研究」の弊害も、きわめて明白になる(注意してほしいのは、ここで言うのが「ACGN文化研究」の領域の理論に限られ、あらゆる領域のあらゆる理論にまで押し広げる必要はない、ということだ。もっとも歴史上には、あらゆる理論に、さらにはあらゆる概念に反対する立場を実際に取った哲学者もいる。たとえばそれらを「仮名/施設」にすぎないと見なし、世俗的な意味での効用しか認めない立場である)。――文化研究者たちの「現象→現象の記述→現象の説明(理論)」という進路は、前後二つの段階のどちらでも、容易に問題を起こす。一方で、文化研究者の大部分は、大量の作品を読むこと、さらには大量の理論を学ぶことに時間を費やすため、ある特定の作品を細やかに知ることができず、往々にして、偏った、誤りですらある印象しか形づくれない――東浩紀の「ゼロ年代半ばのベストセラーで、のちに好評を博してアニメ化された、谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズも、しばしばセカイ系の一類に数えられる。この類の作品は、社会描写を必要とは考えない。『宇宙人が侵略してきた、世界が滅びた』という構図こそが最重要であって、宇宙人がどんな姿をしているか、人類がどう対処するか、世界がどのように滅亡へ向かうかといったディテールは驚くほどいい加減である」34にせよ、歧路先知の「『涼宮』では、ハルヒがほぼ100%の発言権を握っている。すべての筋はハルヒを造形するために奉仕しており、脇役たちの存在は、完全にハルヒを観察するためのものだ。とりわけ主人公のキョンにいたっては、作品における意味は、完全に、ハルヒを観察する一つの視点を提供することにある」35にせよ、いずれもこの点を私たちに証明している。他方で、理論は性質上、現象より抽象度の高い層にあり、現象と100%密着することを求めるのは酷であって、おおむね合っていれば及第と言うべきだとしても、ACGN文化研究者たちはしばしば、他の学科他の領域で生まれた理論をACGN作品の頭上にかぶせることに慣れており、そうなると、理論と現象の密着度は危うくなる。さらに悪いことに、前の段階で生じた偏差は、次の段階にも受け継がれる――現象を正確に記述することさえ困難な研究者に、その上に立って現象を正確に説明することなど、どうしてできようか。

「文化研究」の進路をこのように省みるのは、私が最初ではない。7年前(2014年末)、知乎にこんな質問が投稿されたことがある。「いま、ACG文化研究の最前線はどこにあるのか? 国内のACG文化研究の現状はどうか?」36。この質問のもとで、nbhtACG文化研究界全体に向かって無差別砲火を浴びせた。彼は東浩紀を「アニメを見ないアニメファン」と呼び、研究者たちを「自分の穴にこもって、いまの現実に向き合おうとしない」「窓越しに部屋の中を覗いているだけ」「こんなゴミのような本まで金科玉条と崇められている」「大部分の人は、以前の誤った見解を単純に繰り返しているだけ」と痛罵した。一方、郭文放(@Macro kuo)は、nbhtの「工業技術(絵コンテ、原画)を重んじて文化分析を見下す、神の視点からの無差別砲撃」を名指しで批判し、大塚英志、東浩紀、斉藤環(注:「斉藤環」という名の研究者は存在しない。ここで郭文放が言おうとしたのは「斎藤環」のはずである。この「斎藤」を「斉藤」と誤る誤りを、今日に至るまで、コメント欄で指摘した者は一人もいない)をひとしきり概説したのち、「自分のよく知らない理論への見下しを減らし、自分自身から始めて、DIYの執筆を開始しよう」と呼びかけた。「文化研究」が取るに足る研究方式かどうかという論争が、ずいぶん前からあったことが分かる。あれから7年、界隈の気風も「理論への見下し」から「進んで理論を学び、文章のなかで理論を当てはめることを奮闘目標とする」へと変わった。屋頂現視研の開いた「社会科学哲学翻訳」「SEP翻訳」のコーナーは、その一つの例証である。いまこの時点で、郭文放の言う「DIYの執筆」がいったいどんな成果を挙げたのか、点検してみようではないか。

まず、華東師範大学文芸学博士で南開大学文学院助理研究員の林雲柯による「ポスト『オタク』時代の『二次元の見守り人』――『創世系』詩学と『セカイ系』の左翼的相貌」37を見よう。ハルヒシリーズがセカイ系かどうかを腑分けする際に、私が探し当てた論文である。文中の「Clannadの中国語訳は『団子大家族』である」(実際には「CLANNAD」は7文字すべて大文字で書くべきだし、「だんご大家族」はアニメ版EDの曲名にすぎない)や、「京都アニメーション2017年の作品『氷菓』」(実際には2012年である)といった明白な瑕疵へのツッコミはひとまず措いて、ハルヒシリーズにかかわる部分を見よう。

この作品にはほとんど筋らしい筋がなく、内容は要するに、いまの世界の崩壊を防ぐために、男性主人公と超能力者たちが、涼宮のさまざまな荒唐無稽な「創世衝動」をいかに満たすか、ということに尽きる。この作品は、極端に異なる「世界観」への態度を一箇所に併置している。一方でそれは、虚構と創世の絶対的な正当性を断固として肯定し、「フィクションの物語にリアリティを求める人間は、頭がどうかしているに違いない」という有名な「二次元」宣言を発した。他方で、あらゆる虚構は、最終的に、普通の人間キョンに対する涼宮の情感的な訴えに奉仕する。この、「データベース消費」に最もよく合致すると言ってよいアニメは、次のような決断を表明している。「創世衝動」が十分に解放され、日常のなかの虚構の潜勢力が十分に発揮されるときにこそ、現存在の世界は最も生き生きとした、完全なものになるのだ、と。

「ハルヒシリーズには筋がない」と「本稿を京都アニメーション放火事件の犠牲者への追悼に捧げる」という二つの文が同じ論文から出てくるとは、私には想像しがたい――著者が09年版アニメの8話にわたる「エンドレスエイト」への怒りで頭が茹だっていたのでないかぎり。ハルヒシリーズへのこの程度の低い認識のもとでは(しかも、これは孤立した例ではないらしい。私が探し当てた、ハルヒシリーズとセカイ系にかかわるもう一本の文章、河北師範大学教員高媛媛の「宮崎駿から新海誠へ、日本のアニメーション映画に何が起きたのか」38は、あろうことか『消失』の筋を「普通の人間と未来人の恋」と要約しているのだ!)、著者にできるのは、「現存在」といった大陸哲学のジャーゴンや、東浩紀の「データベース消費」理論を、力なくシリーズにかぶせてみせることだけである。しかも、「データベース消費」とハルヒシリーズとは、大して噛み合ってもいない。このような「涼宮研究」が、ハルヒシリーズとその愛好者にとっていったい何の意味を持つのか、私にはなかなか見えてこない。

以上の例はどれもハルヒシリーズに限られていて代表性を持たない、と言うのなら、ハルヒシリーズの外の例をもう一つ見よう。「主に文化社会学文化研究をやっている。日本で私塾の教師をしていたことがある」と自称する@kokeihouの「EVA『新世紀エヴァンゲリオン』の内核と矛盾」39である。著者は冒頭からこう書く。

ロボットや使徒などの表象を借り、神学などの一見複雑そうな概念を用いてはいるが、実のところ、物語の編年や武器の外形といったものを理解するかどうかは、物語の内核を読み解くうえではどうでもよい。EVAという作品の内核が拠って立つのは、そもそも神学などではない。神学はむしろ、物語の設定を解釈するために加えられたものだ。その内核はとても単純である。ただしその前に、私たちはまず、私たちのこの時代の哲学と思想の主題、とりわけ本作の核心であるラカンの精神分析理論を理解しなければならない。それが分かったとき、すべてはおのずと氷解する。

これが本論文の基調を定めている。ラカンの精神分析理論でEVAを読み解く、というものだ。近年、ラカンの理論はますます普及し、ネット政治談議のジャーゴンに欠かせない一部にすらなりつつあるから、これはとうに新鮮な発想ではない。たとえば2014年に百度のEVA吧に投稿された「鏡中の花、水中の月――綾波レイと鏡像段階」40という書き込みが、その一例である。しかし、EVAは比較的複雑な作品であり、ラカンの理論だけで括りきれるものではない。当の@kokeihou本人でさえ、自分の読解方式のもとでは、少なくともEVAの神学の部分にまったく触れられないことに気づいている。これが、先に述べた「理論と現象の密着度」の問題である。ところが@kokeihouの解決策は、これらのラカン理論に収まりきらない内容はどれも「どうでもよい」と、独断的に宣言することだった。彼は多くの同業者と同じく、新しい内容を「読み出す」と同時に、もとからある多くの内容を「読み消して」しまっている。彼から見れば、それは「主と従をわきまえる」「良きを取り、劣るものを捨てる」ことなのかもしれないが、突きつめれば、やはり足を削って靴に合わせているのである。(逆向きの話をひとつしたい。私はかつて、ある涼宮ファンと「涼宮はセカイ系か」という問題を語り合ったことがある。「もしハルヒシリーズがセカイ系なら、なぜ谷川流は『世界はいったいどういう姿をしているのか』という類の問題にあれほど筆を費やし、また、あれほど多くのハードな推理物語を書いたのか」と私が尋ねると、彼は、それは谷川流の個人的な好みにすぎない、と答えた。それに対して私はこう応じた。「セカイ系の定義に合う部分だけを抜き出して『涼宮』と呼び、残りを全部『個人的な好み』と呼ぶわけにはいきませんよ。とりわけ、後者の占める割合が前者よりはるかに大きいときには。」)それだけではない。彼はどうやら、自分と同じようにラカンの精神分析などの理論を運用することだけが唯一正しい読解の進路であり、それ以外の読解はすべて、「文学批評によって物語のテクストを分析することも、日本社会の文脈によって物語の表象を理解することもできない」がゆえに、みな「主観的」で「内実がなく」、果ては「無責任」でさえある、と考えているようなのだ。

身体現象学を理解しなければ、『キルラキル』という作品の思想的な礎石を味わい取ることは難しいし、フェミニズムの思潮を知らなければ、『美少女戦士セーラームーン』ひいては『リトルウィッチアカデミア』のなかの感動を味わうことはできない。ポストモダニズムと哲学の思潮を知らなければ、今敏や大友克洋のSF、あるいは『魔法少女まどか☆マギカ』やEVAといったアニメの背後にある思想の下地には、なおさら触れることができない。もちろん、分からなくても構わない。ただ爽快感や高揚感を楽しむ見方もできるし、それも悪くない。ただ怖いのは、ある種の人々が、自分の快感と解釈だけで作品全体の意味を囲い込み、メディアを通じて人々の想像力と自己認識を縛ってしまうことだ。思想的な内実がなくても、まったく問題ない! 物語に夢中になって、自分だけの独特な読解を持てばいい。だが、他人にも認めてもらいたいなら、まず学び、作者に匹敵する思想的素養と、その時代への理解を身につけることだ!

これこそ、文化研究者たちの「高みに立つまなざし」の極端な現れである。彼らは「ACGN文化」の尺度に立って、一つひとつの作品を見下ろし、作者を見下ろし、文化全体さえ見下ろす。当然、普通の読者を見下ろすことも免れない。(前述の歧路先知には、「大学が985〔中国の重点大学群〕に届かなければ、文盲と大差ないだろう」という驚くべき発言さえある41。)しかし、このような見下ろしが私たちに提供してくれるもののうちに、一篇の「ラカン精神分析理論」講義レポートと、一を挙げて万を漏らす全体図に満足する一群の普通の愛好家(たとえば@kokeihouが数日前に新しく発表した文章「セカイ系の超克――日本アニメマンガ文芸思想小史」42は、「大きな物語-セカイ系-日常系」で「日本アニメマンガ文芸史」を括ろうと試みている。もっとも、この括り方も使い古された話であって、私が最初に見かけたのは「終末に別れを告げる――日本虚構の時代の総点検」という文章においてだった43)とを除いて、いったいどれほどの意味ある内容が残っているのだろうか。

ハルヒシリーズに話を戻そう。およそ一年前、ハルヒシリーズを真剣に考え始めたとき、私は多くの資料に当たり、多くの疑問も抱いた。「ハルヒは神なのか」は、未来人と超能力者がそれぞれの言い分を譲らない係争中の問題であるはずなのに、なぜ、ハルヒについて書かれた文章の大多数は、超能力者の言い分が正しいことを暗黙の前提とし、果てはハルヒを『聖書』の神にまでなぞらえるのか44。なぜ、ハルヒシリーズを紹介する文章はどれも判で押したように同じで、触れられる筋は『憂鬱』一冊か、8話の「エンドレスエイト」と劇場版『消失』ばかりであり、ハルヒを褒めるときも、その多くが当時の大ヒットと後世の作品への影響に集中していて、ハルヒシリーズそのものの「神がかった」ところがどこにあるのかを理解することさえできないのか。なぜ、ハルヒシリーズについての根本的に誤った記述があれほど多いのか(ここでは、「単独のアニメマンガ作品などもともと大した価値はない。それなら『六経我を注す』のほうが『我六経を注す』よりずっと意味がある」45といった弁明は無効である。「六経注我」がかかわるのは解釈であって、記述ではないからだ)。昨年10月の一万字の長文「涼宮ハルヒは神なのか――あわせてSF的解釈と学園的解釈を論じる」46で、私はこれらの問題を「SF的解釈」と「学園的解釈」の対立に帰着させ、その原因を、研究者たちが高校生の学園物語をライトノベルの「本質」と見なすことに慣れ、その見方を誤ってハルヒシリーズに当てはめたことに求めた。しかし、成因はさらに下へと掘り進むことができる。いまの私から見れば、これは「文化研究」のあの二つの弊害の具体的な現れにすぎない。一方で、彼らはハルヒシリーズを真剣に読んでいない。他方で、「理論化」への過度の耽溺が、彼らの視野を歪めてもいる――「セカイ系」「日常系」「空気系」「部活もの」、あるいはほかのどんなラベルであれ、彼らは、それらのラベルの指し示す理論的枠組みのもとで、「ハルヒシリーズにおける日常vs非日常」といった使い古された話題を何度も何度も論じることに慣れているだけなのだから、「みんなが褒めそやしているのに、どこがすごいのかは知らない」47という現象が現れるのも、少しも不思議ではない。

しかし、彼らは気づいていない。偉大な作品は、それぞれに違ったふうに偉大なのだ。ちょうど、キャラクターたちがそれぞれの萌えを持っていて、それが東浩紀の言う「萌え要素」の「データベース」には括りきれないのと同じように。だからこそ、「文学批評家はまず普通の読者でなければならない」48と考える人もいれば、「一人の文学批評家は、同時に一人の哲学者でなければならない」49と考える人もいるこの時代に、私たちは立ち止まって考えてみなければならない。私たちにはいったい、どのようなACGN研究が必要なのか?

本文終わり
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注釈

  1. 韩林合《维特根斯坦〈哲学研究〉解读》1503頁からの孫引き。

  2. 以下を参照:https://zhuanlan.zhihu.com/p/81149528

  3. 以下からの孫引き:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB。引用文は同項目に掲げられた原文「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」による。

  4. 以下からの孫引き:https://zhuanlan.zhihu.com/p/91774543

  5. 「おおむね」と言うのは、https://www.zhihu.com/question/265494284という質問に記されているような特殊な場合を除外するためである。

  6. 全文はhttps://www.douban.com/note/77128564/を参照。この文章は《动感新时代 凉宫圣誕增刊》に掲載されたことがある。

  7. 以下を参照:https://zhuanlan.zhihu.com/p/27731058

  8. 以下からの孫引き:https://bitinn.net/4439/

  9. 以下より引用:https://zhuanlan.zhihu.com/p/91774543

  10. 以下より引用:https://www.bilibili.com/read/cv8897570

  11. 以下を参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB

  12. 以下を参照:https://www.bilibili.com/read/cv9159044

  13. https://www.bilibili.com/read/cv10045447

  14. この見解は、https://zhuanlan.zhihu.com/p/32904493のコメント欄で見かけたものである。

  15. 原文は「こんなこと言うと、あたしが古泉くんをアレかと思われるようで」。台湾版はこれを“我这样说你或许会以为我对古泉有所误解と訳しているが、私は妥当ではないと思う。上海訳文版は台湾版の訳をそのまま踏襲している。英訳は “Maybe you would think I have issues with Koizumi-kun if I say that” である。

  16. 以下を参照:https://www.bilibili.com/read/cv7829143。そこで私は、この点を踏まえて、古泉の理論が誤りであることをさらに論証した。

  17. 「ロボットや使徒などの表象を借り、神学などの一見複雑そうな概念を用いてはいるが、実のところ、物語の編年や武器の外形といったものを理解するかどうかは、物語の内核を読み解くうえではどうでもよい」(https://zhuanlan.zhihu.com/p/142753062より引用)といった言い方と比べてみてほしい。

  18. 以下より引用:https://zhuanlan.zhihu.com/p/381478768

  19. https://www.zhihu.com/question/265494284

  20. 以下より引用:https://zhuanlan.zhihu.com/p/27731058

  21. 日本語の「情報」は、中国語では「信息」と訳すのがより一般的である。ただし中国語原文では、ハルヒシリーズの固有名詞に含まれる「情報」(「情報統合思念体」「情報処理」「情報創造」など)を「資訊」と訳してきた中国語圏の歴史的な習慣を尊重して、一律に「資訊」と訳している。

  22. 以下からの孫引き:https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8F%E5%A4%A7%E6%95%98%E4%BA%8B

  23. 『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』の序論を参照。

  24. 以下を参照:https://www.bilibili.com/read/cv9159044

  25. 以下からの孫引き:https://www.bilibili.com/read/cv9562735/

  26. 以上はいずれも以下より引用:https://www.bilibili.com/read/cv9562735/

  27. https://www.bilibili.com/read/cv10056727

  28. 以下より引用:https://terms.naer.edu.tw/detail/3609711/

  29. 以下より引用:https://www.zhihu.com/question/317062507/answer/629863512

  30. 以下を参照:https://zhuanlan.zhihu.com/p/53745247

  31. 以下を参照:https://zhuanlan.zhihu.com/p/41823973

  32. 屋頂現視研側の疑義はhttps://zhuanlan.zhihu.com/p/60862082を、歧路先知陣営の反撃はhttps://zhuanlan.zhihu.com/p/60899415を参照。

  33. https://zhuanlan.zhihu.com/p/43663449

  34. 以下より引用:https://www.bilibili.com/read/cv8897570

  35. 以下より引用:https://zhuanlan.zhihu.com/p/148283120

  36. https://www.zhihu.com/question/26892642

  37. http://www.cqvip.com/QK/91124X/202004/7102293001.html

  38. http://www.xinhuanet.com/ent/2019-12/24/c_1125380111.htm

  39. https://zhuanlan.zhihu.com/p/142753062

  40. https://tieba.baidu.com/p/3259479433

  41. 以下を参照:https://zhuanlan.zhihu.com/p/369655320

  42. https://zhuanlan.zhihu.com/p/381478768

  43. https://zhuanlan.zhihu.com/p/33801768

  44. 例:https://zhuanlan.zhihu.com/p/54701596

  45. 以下より引用:https://www.zhihu.com/question/431257474/answer/1586473964

  46. https://www.bilibili.com/read/cv7829143

  47. 以下より引用:https://www.bilibili.com/read/cv3792031

  48. 以下を参照:http://www.wenming.cn/djw/ds/jtrds/djdp/201606/t20160607_3424533.shtml

  49. 以下を参照:https://zhuanlan.zhihu.com/p/24072579