
高い岸は谷となり、深い谷は丘となる。
少年が少女を介して、間接的に世界の運命とつながる。これぞ小島のセカイ系!(誤)
『デス・ストランディング』には、明らかに『エヴァ』を参考にしたイメージがいくつかあると、多くの人が指摘している。ビーチとLCLの海、巨大なアメリと巨大な白いレイ、第六次大量絶滅とサードインパクト、といった具合だ。その気になって探せば、確かに『デス・ストランディング』と『エヴァ』の似ているところはいくらでも見つかる。たとえばサムがビーチで目を覚ますと、空の彼方に五人だったか、何人かの人影が浮いている。私はあれを一目見て、旧劇場版『エヴァ』で量産機が弐号機を袋叩きにする場面を思い出した。
だが、私が言いたいのは、こんな表面的な類似のことではない。丁寧に分析すれば、『デス・ストランディング』は物語全体の構造まで『エヴァ』式だと、すぐに分かる。どちらも「世界の謎」のところで「座礁」してしまうのだ。1 第六次大量絶滅の阻止は、感情の高まりの頂点にはならなかった。それに取って代わるのは「個人の謎」、サム、アメリ、クリフという聖家族の愛憎劇だ。小島はヒッグスとダイハードマンに、縄と棒、結び目と拳銃の比喩を大量に語らせ、ゲームプレイの面では、プレイヤー同士が非同期につながる仕組みを用意した。

『エヴァ』と似た展開は、ほかにもいくらでも見つかる。だが、このゲームの「つながり」を語るには、それがどんなつながりなのかまで問わなくてはならない。UCA(アメリカ都市連合)に国家の比喩を見て取るのはたやすいが、そこには何種類のつながりが含まれているのか。ゲームプレイにおける非同期のつながりは、自発性に基づく、ノージックの「最小国家」のつながりと見ることができる。オーストリア学派の経済学と新自由主義に対応するつながりだ。ダイハードマンとヒッグスが語る縄と棒、結び目と拳銃の比喩は、「権力国家」のつながりであり、最後に勝利するつながりでもある。ムービーの愛憎劇は「神聖国家」のつながり、「天国」のつながりであり、血縁、人の子あるいは神の子、神の愛を表している。
だが、この物語を本当につないでいるものは何なのか。やはり「世界の中心でアイを叫んだけもの」だ。家庭を築けない者たちが、家庭への渇望からつくり上げる「疑似家族」なのだ。アメリはサムをビーチから送り返すことで、彼の「疑似的な」母親になり、サムはルーを目覚めさせることで、その「疑似的な」父親になる。結局のところ、これは「父親」の物語であり、〈父の名〉を探し、父親になる物語なのだ。『エヴァ』のような物語、セカイ系の物語なのだ。

だから私に言わせれば、『デス・ストランディング』の語りには大きな欠陥がある。ゲームプレイとムービーが完全に切り離されているのだ。ゲームプレイの「つながり」は、アメリカを一つの共同体として結ぶつながりであり、素朴な道徳感情だ。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」であり、オキシトシンであり、満足感だ。ムービーの「つながり」は、家族や疑似家族のなかの血縁のつながりである。もちろん小島の場合、それはもっと具体的な形を取る。「冥帯」、あるいはへその緒だ。2 ゲームで長々と語られる、へその緒を軸にした数々のエピソードは、どれもこの血縁のつながりを指し示している。
ここで、セカイ系の核心を最もよく捉えた定義として、東浩紀の『AIR』評の言葉を持ち出してもいいだろう。「萌えの手前、不能性に止まること」だ。『AIR』もまた、「父親」の物語である。プレイヤーはヒロインたちと出会い、彼女たちの夫/父親になろうとし、最後には失敗する。だから、セカイ系は大風呂敷を広げることが多いが、その核は実は小さく、一つの家庭を超えるものではない。少年と少女の出会いとは、実のところ、自分たちの家庭を築いたことのない二人が、大人として相手に責任を負おうとすること、「夫」になろうとすること、あるいはもっと長い時間のなかで「父親」になろうとすることなのだ(ここで「父親」しか挙げないのは、セカイ系が間違いなく、男性のまなざしにひどく支配されたジャンルだからだ。とりわけセカイ系のエロゲーでは)。そしてセカイ系の感情的な緊張は、父親になる過程が阻まれることにある。そのインポテンツ、つまり「不能」にあるのだ。『デス・ストランディング』を取り上げれば、感情がいちばん強烈に爆発する場面が、父親になる/なれないことに集中しているのはすぐに分かる。ママーとBB(ブリッジ・ベイビー)、ハートマンの無限の輪廻、クリフとサム、アメリとサム、サムとルー。実に正統なセカイ系だ。

実は、これこそ私が『シン・エヴァンゲリオン劇場版』にあまり期待を抱けずにいる理由でもある。「世界の謎」は、思われているほど重要ではない。たとえ庵野が世界観を補完できたとしても、相変わらず大したクライマックスのない物語でしかない。セカイ系で最も重要なのは「個人の謎」をどう扱うかだ。シンジ、アスカ、綾波レイ、葛城ミサトがもう一歩先に進めるのか。そもそも、踏み出せる一歩があるのか。
だが、私たちはみな『序』『破』『Q』を見てきた。旧作で固く結ばれた結び目を少しでも緩めたのか、そもそもその結び目に触れさえしたのか、答えは明らかだ。正直、新劇場版はもう巨大な同人作品に成り下がっている。『Q』冒頭の大気圏突入戦は、よくできているか? できている。だが、私は庵野という名のアニメーターを、それほど必要としていない。

それから、もう一つ言いたい。小島の『デス・ストランディング』は、誠兄さんこと新海誠の作品より、よほどセカイ系だ。二つの物語を比較したいわけではない。ただ、『天気の子』の商業展開の要は宣伝で、日本では暮らしの隅々にまでその印刷広告があふれている。そんな状況では、個人と世界のあいだにある社会の層が消えることで生まれる、セカイ系の「日常から隔てられた感覚」はなくなっている。セカイ系は本来、人を日常から連れ出す作品なのに、『天気の子』は現実空間を埋め尽くす宣伝を通じて、観客を連れ戻してしまった。だが逆に言えば、ビデオゲームは、ARゲームを除けば、サイバースペースに入らなければ遊べない。もともと仮想性を備えているのだ。これも、押井守が映画はゲームに勝てないと語った理由の一つなのかもしれない。小島の名前には「島」が、誠兄さんの名前には「海」が入っている。どちらもセカイ系によくあるイメージだが、二人の作品は逆だ。小島が撮るものこそ海に似ている。誠兄さんは……そのまま島でいればいい……。
ほかにも言えることはある。たとえば、『デス・ストランディング』は、セカイ系に見られる、女性に国民国家を重ねる比喩を徹底して具体化した。従来の国民国家はいずれも「ビッグ・ブラザー」のイメージをまとい、男性的なシニフィアンの典型である。だがセカイ系では、国家は少女と結びついた女性的シニフィアンになる。ただ、その「世界の運命」というイメージはあまりにも曖昧だ。それに対してUCAは、明らかに女性がつくり上げた国家であり、女性的な記号によって具体的な形を与えられた体制である。まあ、実のところ、別に言うこともないのだが。

最後に一つ。なぜ私たちは、新自由主義に対抗するために疑似家族を必要とするのか。新自由主義のもとでは、私たちは何者にでもなれるがゆえに、何者でもないからだ。いくつかのプラットフォームにある「○○フェチ大全」のようなコミュニティを、少し眺めてみればいい。みんな多弁症にでもかかったかのように、そこで自分にさまざまなラベルを、それもますます周縁的なラベルを貼っている。まるで競い合うように、ひたすらマイナーな方へと逃げていく。それは、私たちが唯一自分のものだと思っていた性においてさえ、ますます何者でもなくなっていると気づきはじめたからにすぎない。では、ますます何者でもなくなっていくこの世界で、サム・ブリッジズとはいったい何者なのかを、誰が答えてくれるのか。もう「血縁」しか残されていない。家族が、私たちを支える最後の根になる。だが、役に立つのか? 立つわけがない。
お茶を飲みながら――コメント欄
紅茶: 東の定義に照らすなら、喵兄さん3がここで論じているのは、セカイ系を生む思想環境のほうに近い。つまり、ポストモダンにおける大きな物語の衰退であって、その環境から生まれたオタク特有の想像力そのものではない。大きな物語が衰退した思想環境からは、それを反映するさまざまな想像力が生まれる。そのなかでセカイ系は、この環境を「きみとぼく」の感情という次元で反映するものなのだと思う。
だから、喵兄さんが家族の問題から『デス・ストランディング』を読み解き、『天気の子』よりセカイ系だと言うのは、実際には、『デス・ストランディング』のほうが『天気の子』より「大きな物語がない」と言っているのであって、セカイ系だと言っているのではない。セカイ系という枠組みで論じるなら、『デス・ストランディング』における不特定の誰かとの偶然的な「連帯」を、セカイ系における特定の誰かとの必然的な連帯=「きみとぼく」の関係へ、どう置き換えるのか。そこが主な問題だと思うし、この記事ではまだ掘り下げが足りない。喵兄さんの記事は、セカイ系というヴェールをめくれば、結局、疑似家族と国民国家の物語は今も頼りになるのか、という話をしている。ただ、そこでは東浩紀の家族論にある偶然性の要素が見落とされている。