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特集討論|〈父の名〉の冒険――『EVA』と新海誠を斜めから見る

『新世紀エヴァンゲリオン』と新海誠作品をテクストに、ラカンの〈父の名〉、欲望、アーテー(Ate)の概念を通して、ポスト・エディプス的主体とその抵抗の道筋を論じる。

著者: 鱼板翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

アニメ・漫画・ゲーム(ACG)交流会(試行開催)、復旦大学沸点漫画社 主催・運営
講演:魚板(🐟)
講評:張先生

講演者🐟:

フロイトの有名なエディプス・コンプレックスから始めましょう。これはブルジョワ的な核家族についてのモデルです。

左上に父、右上に母、下に主体/子どもを置いた関係図
図中の表記:左上は父、右上は母、下は主体/子ども。

フロイトがエディプス・コンプレックスという構造のなかでとりわけ重視したのは、主体が父に同一化することです。もちろん、最初にあるのは母への同一化です。それを父が去勢コンプレックスによって断ち切り、今度は自分に同一化するよう子どもを導きます。フロイトの娘アンナ・フロイトや英米の精神分析学派は、主体が母に同一化することをより重視しました。それに対してジャック・ラカンが、自分こそフロイトの道を歩み続けていると宣言したのは、あくまで父への同一化を重視したからです。

もちろん、それだけではありません。ラカンはフロイトの言葉をオウム返しするだけの装置ではなく、フロイトを大きく書き換えてもいます。たとえば構造主義という方法の導入です。構造主義とは大まかにいえば、20世紀の言語学が生んだ成果や方法を、哲学や社会科学のほかの分野で、人間の活動の研究に応用するものです。ラカンは構造主義の方法を取り入れることで、父・母・主体というエディプス・コンプレックスの構造を保ちつつ、父のあり方を変えました。父はもはや生物学的な父ではなく、今日の発表を貫く最初の手がかり、〈父の名〉、父という名、Nom-du-Pèreになるのです。

〈父の名〉の意味を簡単に説明するために、張先生から聞いたジジェクの笑い話を紹介します。哲学者であるジジェクに、記者が私生活について実に退屈な質問をすることがあります。たとえば、自分の子どもとはどんな関係なのか。するとジジェクは「私は父親として失格だ」と答えます。日常の文脈なら、研究や仕事が忙しくて子どもの世話に手が回らない、という意味に取るかもしれません。けれどもラカン派精神分析の文脈では、この答えには別の深い意味があります。生身の、生きている父は、父親としては合格しない。合格するのは、言葉がものを殺すことで、もはや生身の人間ではなく、父という名、象徴的な機能になった父なのです。この点を説明するため、ジョイスの『ユリシーズ』から一節を引きましょう。

意識的に子をもうけるという意味での父性は、人間にとって未知のものだ。それは唯一の生み手から唯一の生まれる者へと受け継がれる神秘的な財産であり、使徒の伝統だ。教会は、狡猾なイタリアの知識人たちがヨーロッパの衆生に投げ与えた聖母マリアの上に築かれているのではない。この神秘の上に――揺るぎなくこの神秘の上に築かれている。世界が、大宇宙であれ小宇宙であれ、無の上に築かれているように。不確かさと不可能性の上に。母の愛は、主格であれ目的格であれ、生命のなかでただ一つの確かなものかもしれない。父であることは、法の上の虚構だ。あらゆる息子に愛され、あらゆる息子を愛する父とは、いったい誰なのか。

――ジョイス『ユリシーズ』第9挿話(英語原文)

ここでジョイスが持ち出しているのは、キリスト教の聖母マリアのネタです。彼はある問題を鋭く見抜いています。本当に血のつながった父は誰なのか。人類の歴史のかなり長いあいだ、それは不確かでした。母から生まれたことは確かでも、父が誰かは、答えの定まらない問題なのです。けれども、たいていの時代、私たちのほとんどには父がいます。なぜでしょう。父とは、家族、記号、法といった仕組みによって私たちに押しつけられた虚構だからです。もちろん、それでかまいません。まさにこの虚構を通じて、私たちは何もないところから自我理想を手に入れるのです。

〈父の名〉がどういうものか分かったところで、今日取り上げる最初のACG作品へ進みましょう。あの有名な父、碇ゲンドウです。彼はもちろん、父親として合格です。『EVA』TV版第1話、碇ゲンドウが初めて登場する場面を見てみましょう。

初号機の前に立つシンジと、上方の窓に姿を見せるゲンドウ
父の名において。

これが、碇ゲンドウが父の名において初めて姿を現す場面です。なぜ彼こそ父親として申し分ないと言うのか。考えてみてください。ここまで彼は父親としての責任をほとんど果たしていません。それなのに、登場するやいなや横柄な態度と絶対的な威厳をまとって碇シンジの前に立ち、命令を下す。その命令は、同時に禁止でもあります。なぜ禁止なのか。ここでラカンは言葉遊びをしています。Nom-du-Père → Non-du-Père、〈父の名〉から〈父のノン〉、つまり父の禁止へ。フランス語の「名」Nomと「否」Nonは同じ発音です。父という名は何をするのか。禁止を言い渡すのです。先ほどのブルジョワ的な核家族モデルを思い出してください。最初、主体は母に対して禁じられた欲望を抱いています。父は去勢の脅しでその欲望を断ち切り、主体が父に同一化するように仕向ける。これがフロイトの一般的な理解です。

ところがラカンは別の解釈をします。父が横から割って入り、主体と母との同一化を断ち切るのではありません。父は取引によって、主体の母への欲望を引き取るのです。どんな取引でしょう。象徴的ファルスΦ\Phiを渡す代わりに、主体の想像的ファルスφ\varphiを受け取るのです。

ファルス(Phallus)とは何か。ギリシャ語ではもともと男のアレを意味します。ただ、フロイトが精神分析に導入してから、とりわけラカン以降は、肉体の器官であるペニスとは意味が違います。象徴的ファルスは、シニフィアン、つまり言葉です。その言葉は何を意味するのか。主体の欲望を表すのです。ファルスとは、主体の欲望を表す言葉です。父はこの言葉、シニフィアンと引き換えに、主体の母への欲望を受け取ります。なぜエディプス・コンプレックスをこのような取引として解釈するのでしょう。そして、なぜ『EVA』を使って説明するのか。みなさん、先ほどの場面は碇ゲンドウの初登場であるだけでなく、綾波レイの初登場でもあることに注目してください。ゲンドウがシンジにEVAを操縦するよう命じるこの場面で、シンジが手放す対象は綾波レイです。想像的ファルスですね。その肉体は実際にはシンジの母、碇ユイのクローンですから、エディプス・コンプレックスを指しているのは明々白々でしょう。この取引の全体は、次のような欲望のグラフで示せます。

欲望のグラフや幻想の式が書かれた講義の黒板
欲望のグラフ(左)。板書上部は「〈父の名〉→肛門的な父→辱められた…」。Aは大他者、斜線つきのSは主体、I(A)は自我理想。

ラカンが欲望のグラフと呼ぶ図の、いちばん簡単な形です。Sは主体、subjectで、そこに斜線が引かれています。場面の初めのシンジのように、何をどうしていいか分からない、情けないやつですね。シンジは象徴的な父への同一化から出発します。この大文字のAは、大文字の他者、つまり大他者を表します。父としての大他者ですね。もちろん、ここでは碇ゲンドウです。他者に同一化することで、自分の欲望に意味が与えられる。もちろん、一つの言葉で表されることによってです。その言葉は、もちろんEVAです。そのためには想像的ファルス、つまり母への**欲望を手放さなければなりません(訳注:**は中国語原文の表記。以下同じ)。主体は父に同一化することで、自らの欲望を表すシニフィアン、大文字のファルスを生み出す。そうして初めて、自分とは何かを確かにしてくれるもの、つまり自我理想を得られるのです。これは主体の自我と考えてもよいでしょう。こうして主体は、空っぽのものから、中身のあるものになります。

レヴィ=ストロースの構造人類学をご存じなら、父が課す**の禁忌には二つの面があることもお分かりでしょう。少なくとも、彼が研究した発展の遅れた原始部族では、父というシニフィアンには二重性がありました。父は自分の子どもが同じ氏族の女性に近づくことを禁じる一方、氏族内の婚姻の秩序を定める役割も果たします。同じ氏族の女性には近づけないけれど、別の氏族の女性を妻に迎えることはできる。この二重性は『EVA』にもはっきり表れています。主体である碇シンジにとって、一方には綾波レイがいる。彼女はもちろん**欲望の対象であり、**の禁忌によって禁じられた対象でもあります。他方、アスカは許された対象です。〈父の名〉は、禁止を言い渡す厳格な父であり、シンジがレイを手に入れることを禁じる。では、主体とアスカの関係は誰が調整するのでしょう。そこで今日の二つ目の手がかり、肛門的な父が出てきます。厳しく禁止を言い渡す父に対して、こちらは欲望のままに振る舞う父です。子どもに、あるものを楽しめと要求します。『EVA』でこの肛門的な父を代表するのが葛城ミサトです。ここまで来ると、ラカンが精神分析を構造主義的に組み替えた妙味が分かりますね。ミサトは生物学的には女性なのに、肛門的な父の役割を代行しているのです。ラカンも、女もまた父の名の一つだと述べています。父の名とは、いくつかの象徴的な機能、象徴的な位置にすぎず、誰でもそこを占められる。まず構造があり、その後で個々の具体的な人間が、その機能を担うのです。

なぜミサトが肛門的な父なのか。TV版『EVA』のその後を思い出してください。シンジはミサトの家で暮らすようになり、アスカもそこへ居候します。実際、ミサトは何度もこの二人をくっつけようとしています。肛門的な父として、主体に享楽を勧める。アスカという女性を楽しめ、と促すのです。さて、ここで問題です。一見すると、肛門的な父と禁止する父は対立していると言えそうですが、本当にそうでしょうか。『EVA』のなかでの社会的な役割を見れば、ミサトはシンジの上司であり、ゲンドウの部下でもある。二人の仲介役です。そう考えると、ゲンドウとミサトの対立は、それほどはっきりしたものではなくなります。

肛門的な父と〈父の名〉をもう少しよく理解するために、ラカンの有名な命題、「カントとサド」を導入しましょう。カントは人間を、人間の理性を、万物に法を与える地位にまで高めました。その倫理学では、最高善から主観的な質料、つまり個人の苦楽など、彼が病理的と考えたものを排除し、最高善を純粋に形式的な普遍法則にします。どういうことでしょう。カントによれば、倫理、つまり最高善の出発点は、誰かの幸福のためであってはならない。誰の幸福でも駄目です。それは個別的なもので、普遍的ではないからです。倫理は普遍的な形式から出発すべきであり、道徳的かどうかは具体的な内容ではなく、形式によって決まる。

サドは、ご存じのとおり有名な色情狂です。SMのSは彼の名前から来ています。極端に倒錯していただけでなく、自分の倒錯した経験を書き残しました。たとえば『閨房哲学』です。「カントとサド」という命題を最初に打ち出したのはラカンではありません。ホルクハイマーとアドルノが『啓蒙の弁証法』ですでに論じていました。彼らはサドをカント倫理学の帰結と見ています。人間を万物に法を与える地位へ高めるカントの倫理学によって、サドは解放され、伝統的な束縛から抜け出した。サドとは、その束縛を脱したブルジョワ的主体なのです。ラカンは『啓蒙の弁証法』のこの議論を知らず、少し後に同じ命題を打ち出したのは偶然でした。

では、ラカンはこの命題をどう考えたのか。カントの『純粋理性批判』をもとに、自分なりの「純粋欲望批判」を行ったのです。どういうことか。カントは、人間を普遍的な理性を備えた存在と考えます。そこへラカンは、人間は普遍的な欲望を備えた生き物でもある、と付け加えるでしょう。例を挙げます。カントは、ある部屋にいる情事の相手に欲情する放蕩者の話をしています。もちろん彼は、今すぐ部屋へ飛び込んで欲望を満たしたい。けれども部屋の前に絞首台を立て、入って欲望を満たすのはかまわないが、出てきたら首を吊られるぞ、と告げたらどうでしょう。カントは、彼も理性的に損得を量って、諦めるはずだと考えます。ラカンに言わせれば、これは少々甘い。人間には普遍的な欲望もある。サドのような倒錯者、変態なら、絞首台などおかまいなしに部屋へ飛び込み、欲望を満たすのです。さらにラカンは、サドのような倒錯者、変態を引きつけて部屋へ飛び込ませるのは、中にいる相手ではなく、あの絞首台、首を吊られる可能性なのだと考えます。

カントとサドの肖像を上下に組み合わせた画像
カントとサド。

バタイユはラカンに先立って、このことを鋭く感じ取っていました。私たちには制度も、過剰も必要だというのです。制度があり、それによる禁止があってこそ、それに背く喜びを味わえる。バタイユの言葉は、こう言い換えられます。容赦のない禁止としての法は、その内側から自分自身への侵犯を呼び寄せており、人はその侵犯を通じて享楽を得る。法は内側から自らを侵犯するのです。ラカンはさらに踏み込み、法こそ人類が古来犯してきた数々の罪のなかで、最も重いものだとまで言います。

まず、フロイトの局所論を思い浮かべてください。超自我―自我―エスの氷山図.jpgです。

水面の上と下に広がる氷山

ラカンなら、父としての大他者から下された禁止が、どうやって主体に効力を及ぼすのか、と問うでしょう。超自我を通じてです。それまでは、他者が私という主体の外から法や禁止を課していた。それを今度は私の超自我が引き受け、超自我から自我へと命令を下します。法に責めさいなまれる自我は、もちろんひどく苦しみます。けれども、そのとき超自我は、まんまと快楽を得ているのです。超自我は法を無事に執行し、苦しめられる自我を見て喜ぶ。私たちが法に同一化できるのは、少なくとも主体の精神の一部には、法が喜びを与えるからです。法が自分を苦しめることで、私たちは喜びを感じる。だからこそ、法は私たちの数ある罪のなかで、最も残酷なものだと言えるのです。

一方では、法は自らへの侵犯を呼び寄せる。他方では、法そのものが罪である。これで「サドとカント」という命題が明らかになりました。この論証を終えると、〈父の名〉と肛門的な父は、実際には同じものだと分かります。ヘーゲル的な意味での弁証法の過程で、〈父の名〉は肛門的な父へと転化する。〈父の名〉は主体に禁止を言い渡すことで、主体を苦しめ、そこから快楽を得るのです。すると、問題はまた複雑になります。

先ほど、主体と父の禁止とのあいだには取引があると話しました。想像的ファルス、つまり**欲望と引き換えに、象徴的ファルス、つまり自分の欲望を表すシニフィアン/言葉を与えるという父の約束を得る。父が厳格な〈父の名〉のままでいてくれるなら、この取引は続けられるかもしれません。対等な交換に見えるからです。ところが父は、主体を苦しめ、象徴的去勢を施すことで、この取引から不当な享楽を得ている。主体の側からすると、取引はどうも釣り合っていない。父はより多くを手元に残し、失ったものは少ないように見えます。主体が手放したものは、受け取ったものより少し多いようです。その失われたものを、ラカンはobject a、対象a――小文字のaです――と呼びます。

象徴的去勢という取引に生じたこの変化を、欲望のグラフに書き込むとどうなるでしょう。主体は、自分が手放したものと受け取ったものとのあいだに、対象aという余剰があると考えます。主体の欲望は、まさにこの対象aに向けられた欲望です。だから主体は父に迫り、問いただし始める。きちんと取引を完了し、対等な取引にしてほしい。対象aを返してほしい、と。

けれども、その問いはどんな形を取るのでしょう。あなたは、いったい私に何をしてほしいのか。主体は父に尋ねるのです。いったい私に何をしてほしいのか、何をすれば取り上げた対象a、あの卑しい残りかすを返してくれるのか。こうして父へと問いを投げかけます。ところが父自身にも、主体から取り上げた対象aが、そもそも何なのか分からない。そこで今日の三つ目の手がかり、辱められた父が出てきます。

辱められた父とは、どんな父でしょう。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』で、威信を失った碇ゲンドウを見てみましょう。

床に横たわるゲンドウと左側の少女、それぞれの上方に伸びる影
辱められた父。中国語字幕の意味は「シンジのそばにいても、彼を傷つけるだけだ」。

この場面のゲンドウは、威厳ある〈父の名〉から、享楽する肛門的な父へと弁証法的に反転しています。そして今、その享楽こそが〈父の名〉の威厳を壊し、彼を辱められた父にしている。なぜゲンドウは最後に崩れ落ちたのでしょう。肉体を打ち倒されただけではありません。名として、象徴的な機能としても崩れ落ちたのです。どこがいけなかったのか。この場面で、自分の欲望をさらけ出しすぎたことです。では、ゲンドウの欲望はどこに現れているのか。自分の子、碇シンジと向き合えない、その点です。鍵はあの問いです。あなたは、いったい私に何をしてほしいのか。主体であるシンジから、ゲンドウ、つまり父としての大他者の秩序へ向けて発せられたメッセージです。けれどもゲンドウは、この問いに答えられない。だから急いで、その問いをさらに別の相手へ投げかけようとする。誰にでしょう。父としての大他者の、そのまた他者へ。mOther、英語のmotherのOだけを大文字にした、母なる〈他者〉です。しかしラカンがここで強調するのは、〈他者〉の〈他者〉は存在しないということです。父はもう、問いを先へ回せない。答えを出せる人は誰もいません。

この母なる〈他者〉、mOtherは、フロイトの概念でいうdas Ding、〈もの〉に対応します(英語ではThing、中国語では「原质」と訳されます)。「あなたは、いったい私に何をしてほしいのか」という問いに答えてくれると想像される人です。けれども、その人は存在しないのです。

こうして「あなたは、いったい私に何をしてほしいのか」という問いは、欲望のグラフの線に沿って、主体から父としての大他者へ投げかけられます。父としての大他者も、さらに別の他者へ投げかけたい。けれども〈他者〉の〈他者〉は存在しないので、問いは宙づりになります。主体もまた、その線に沿って宙づりになり、確かな居場所を得られません。このとき主体が感じる情動を、ラカンもフロイトも「不安」と呼びます。この「不安」は対象のない情動です。その対象が、問いのなかで宙づりになっているからです。対象に向けられた情動ではなく、欠如に向けられた情動なのです。この問いに答えられる他者が、想像のなかにはいる。けれども、その他者は実際には存在しません。

ここでもう一つ、ラカンの概念が関わってきます。あるセミネールで、ソフォクレスの悲劇『アンティゴネー』から取り出した、アーテー(Ate)という境界です。『アンティゴネー』では女神の名ですが、ラカンはそれを一つの境界と解釈します。主体はアーテーの片側から、自分の欲望の真相を見る。つまるところ自分が欲望している、そして失っている対象を見るのです。しかし、アーテーを越えてその対象に触れたとたん、主体は消えてしまいます。対象は想像のなかにしかなく、実際には存在しないからです。この生と死の境界、アーテーが、次に取り上げるACG作品、新海誠の『雲のむこう、約束の場所』への手がかりになります。

その前に、辱められた父について少し補足します。別のアニメ、『フリップフラッパーズ』にもこの父の姿があります。物語の本筋に『EVA』へのオマージュがとても多い作品ですが、そこにも、実にみっともない、辱められた父が登場します。この父を辱めるのは誰か。母です。父の問いに答えてくれるはずだった、あの対象に辱められるのです。『EVA』に戻ると、先ほどの場面の後に巨大な白いレイが現れ、人類補完計画を実行します。この巨大なレイがdas Dingです。問いに答えられると想像される対象ですが、その対象は実際には存在しません。もし本当に「あなたは、いったい私に何をしてほしいのか」という問いの答えが得られる地点まで主体が到達したら、主体の欲望は消え、主体もまた消えてしまいます。

『フリップフラッパーズ』。顔を寄せるパピカをココナが押し返すアニメーション

ラカンにとって、人間はどう定義されるのでしょう。彼は下の図の右側にある、幻想の式で人間を定義します。式の左に人間の主体、右にその欲望の対象aがある。そのあいだに、とても奇妙な菱形の記号があります。不調和、発展、結合と分岐を表す記号です。つまり、欲望の対象aが最終的に欠けていることは、主体の形成にとって積極的な意味を持ちます。対象aを求めても得られないときにこそ、主体は人間になれる。そのとき初めて、動物のように自分の本質を直接実現する惰性から抜け出し、主体になることができるのです。これでアーテーの意味が分かりましたね。アーテーとは、あの奇妙な菱形の記号であり、主体とその欲望の対象が、最後まで隔てられていることを保証するものです。この菱形が一本の横線になり、主体がアーテーを越えれば、主体はついに消えてしまいます。

黒板に描かれたアーテーの境界と、それに並べられた幻想の式
アーテー(Ate)。左は境界を越える主体、右は幻想の式。

では、『雲のむこう、約束の場所』を見てみましょう。日本は南北に分断され、それぞれ別の統治下にあります。主人公の浩紀は海峡の南側に暮らしていて、北には謎めいた巨大な塔がある。ファルス崇拝の対象です。ただし象徴的な、大文字のファルスではなく、想像的ファルスです。少年時代の浩紀は海峡越しにこの巨塔を眺め、ヒロインの佐由理と、小さな飛行機を組み立てて見に行こうと約束します。しかし佐由理は眠りに落ち、東京の病院へ移されてしまい、浩紀もやる気を失います。数年後、目標を失ったまま東京で暮らす浩紀は、いつからか佐由理の夢を頻繁に見るようになります。そして偶然、佐由理が15歳のあの夏以来、原因不明の記憶障害を患い、病院で眠り続けていることを知るのです。

すると浩紀は、これといった理由もなく、飛行機を作って佐由理とあのファルスを見に行くという夢を、もう一度追い始めます。戦乱に乗じて、眠った佐由理を乗せた飛行機で津軽海峡を渡る。アーテーを越え、想像的ファルスに触れるのです。そして佐由理は、浩紀とともに巨塔に触れた後、目を覚まします。物語はそこで終わります。

『雲のむこう、約束の場所』。塔の破片のそばを飛ぶヴェラシーラ
中国語字幕の意味は「ほかにはもう何も求めない」。
『雲のむこう、約束の場所』。機内で佐由理の顔に手を伸ばす浩紀
中国語字幕:「佐由理…」。

気づくと思いますが、『雲のむこう』とおとぎ話は同じ構造をしています。ある地点に達すると、物語全体がぷつりと終わるのです。精神分析の観点からいえば、ここではきっと何かが抑圧されている。言いたくても言えないものがある。けれども幸いなことに、新海誠は『秒速5センチメートル』でそれを語った、と私は思います。『秒速5センチメートル』は、『雲のむこう』では形を与えられなかった結末なのです。そしてそこから、今日の本筋の最後の手がかりが出てきます。それは父の姿の一つではなく、父の最終的な不在です。父は、辱められた段階ですでに崩れ落ちています。このような父のいない主体を、私はポスト・エディプス的主体と呼びます。

『秒速5センチメートル』。桜の舞う踏切で男女がすれ違う場面

『EVA』の巨大なレイが示すのは、主体がアーテーを越え、欲望の究極の真相に触れた後に消えてしまうという結末です。それに対して『雲のむこう』は巧妙です。浩紀と佐由理が巨塔に触れた後の展開を、はっきり言わずに省略し、物語をぷつりと終わらせています。一方、『秒速5センチメートル』の貴樹は、ラストで明里と出会い、線路上ですれ違った後、背を向けて立ち去ります。ポスト・エディプス的主体になるのです。ポスト・エディプス的主体は、抑うつ的な構造を持っています。フロイトは「喪とメランコリー」で、この構造を説明しています。こうした抑うつ的な主体の症状とは、すでに手に入れた欲望の対象を、すでに失われたものと見なすことです。どういうことか。貴樹は明里に偶然出会っても、追いかけようとはしません。背を向けて立ち去り、この欲望の対象から遠く離れていく。この場面を私が『雲のむこう』につなぎ直してみれば、分かるでしょう。浩紀と佐由理が巨塔に触れた後に待っているのは、二人の別れです。貴樹は、アーテーを越えて明里に触れてはいけないと知っているのです。

『秒速5センチメートル』。踏切に立つ貴樹の顔
背を向ける場面。

『EVA』旧劇場版の最後、アスカとシンジの場面を見てみましょう。そして「カントとサド」を思い出してください。倒錯者を本当に引きつけていたのは、絞首台で首を吊られる可能性でした。ところが今や、厳格な〈父の名〉は辱められて崩壊し、絞首台は焼け落ちた。性的な対象どうしをつなぐ媒介が消えれば、性関係もなくなります。ここでの貴樹は賢明だと私が言うのは、なぜでしょう。もし本当に明里を追いかけていたら、現実にどんな結果が待っていたか。貴樹の暮らしぶりと明里の指輪、そしてもちろん、日本社会という背景が暗示するものから、想像がつきます。性関係は実際には存在しないという現実が、むき出しになってしまう。だから貴樹は、抑うつ的な構造によって惨劇を回避し、明里を回避する。性関係が存在しないという事実を回避するのです。

ジジェクの言うように、禁止によって不在を回避するわけです。das Dingは存在しない。私たちの欲望をすべて満たしてくれる母なる〈他者〉は存在しません。主体は、実際には存在しないものを欲望し、大きな不安に襲われます。そこへ父が禁止をもって介入し、母なる〈他者〉への欲望を禁じてくれると、主体は正常に戻るのです。責める相手を、ある「人」を見つけられるからです。母なる〈他者〉が存在しないのではなく、父に禁じられているのだ、と。

ですから、エディプス・コンプレックスにおいて、父は一種の救済者です。〈もの〉に照らし出されることで生じる不安から、主体を救い出してくれる。ところが今、〈父の名〉から肛門的な父、そして辱められた父へと進み、〈父の名〉の働きは崩れてしまいました。主体はどうすればよいのでしょう。超自我を思い出してください。もう〈父の名〉はない。主体に禁止を言い渡すのは超自我です。主体は自分から惨劇を回避し、自らの欲望の対象を回避するようになり、最終的には、一つの症状を軸に自分という主体を形づくるのです。この症状によって、「あなたは、いったい私に何をしてほしいのか」という問いは、もはや宙づりではなくなり、その行き場が定まる。何によって定まるのか。超自我が自分に言い渡す禁止によってです。

ポスト・エディプス的主体とは何か、まだ説明が必要でしょうか。考えてみてください。私たちはどうやって、自分からダイエットに励む主体になるのか。誰かが目の前に現れて、体重を管理しろと要求したでしょうか。していません。実際には、超自我が自分に禁止を言い渡しているのです。運動しろ、食事を制限しろ。そうして主体を苦しめる一方で、超自我はその苦しみから快楽を得ます。そして私たちには、自分が何をすべきかが分かる。ただ、それだけのことです。以上が今日の本筋です。ここからは、私個人の考えを少し付け加えます。

〈父の名〉から肛門的な父、辱められた父、そしてポスト・エディプス的主体へ。この流れが何を示していると私は考えるのか。私はこれを、精神分析による歴史的唯物論と呼びます。カントのような啓蒙的で、規律によって抑制される主体から、新自由主義的な、ドゥルーズ流の器官なき身体へと徐々に進んでいく。この過程は、実際には資本の展開過程です。あるいは資本のリビドー・モデルと言ってもよい。リビドー経済の展開過程なのです。

グローバル化した今日の世界、とりわけ欧米では、新自由主義(Neoliberalism)が一つの約束を掲げました。〈父の名〉の禁止を解除するという約束です。「禁止することを禁止せよ」というスローガンのもと、私たちはあらゆる禁止からの解放を約束された。その結果はどうなったか。ポスト・エディプス的主体です。私たちは解放されたわけではありません。解放されることはできません。リビドー経済は解放を許さず、私たちは一つの症状を軸に、自分という主体を形づくるしかないのです。

ジャック・ラカン

ラカンによれば、症状に苦しんで精神分析家の助けを求める主体は、誰もが実際には自分の症状から享楽を得ています。欲望が消えた場所で、主体が持ちこたえるために残された唯一のものが、その症状だからです。アーテーを越えてはいけないと私が言うのは、そのためです。父が禁止を与えてくれなければ、超自我が自分に与えるしかない。ここにいるみなさんが、人類について楽観的で、進歩を信じる啓蒙的な考えをお持ちなら、今日の話は少々絶望的かもしれません。あらゆる禁止を取り払い、自分らしくあろうとするとき、私たちが実際に経験しているのは、超自我からの途方もない脅迫です。そこで実現する自分とは、症状によって形づくられた自分にすぎません。

これで終わりなのでしょうか。出口はないのでしょうか。精神分析の観点から、歴史の別の選択肢を示すことはできないのでしょうか。欲望のグラフを見てください。ポスト・エディプス的主体が症状を軸に自分を形づくった、その先にもグラフはまだ続いています。

象徴界・想像界・現実界をめぐる線が書き加えられた欲望のグラフ
ラカンの三つの界:象徴界、想像界、現実界。板書左側の「实在」は現実界。

父の法の線は象徴的な線です。主体の鏡像は想像的な線に属し、先ほど話した、不安から症状へと至る線も、やはり想像的な線です。主体は想像のなかで、再び欲望の満足を得ます。では、私が書き加えたのは何か。現実界の線です。現実界、Realは、現実、realityとは厳密に区別します。realityがあるところにRealはなく、Realがあるところにrealityもありません。この線をどう説明すればよいか。主体はそれまで父に同一化していましたが、その父は辱められた父だと明らかになりました。そこで主体は欲望を外へ、父としての大他者の外へと投げ出します。そして今、欲動に導かれて、この位置に到達する。どんな位置でしょう。父としての大他者、その大他者のなかに欠けているシニフィアンの位置です。この位置こそが、精神分析による歴史的唯物論に、一つの別の選択肢を与えます。ただし、それは欠けているシニフィアン、言葉ですから、ここではあえてXと呼ぶほかありません。あるいはラカンの奇妙な言い方を使えば、〈女〉は存在しない。このXも存在しません。歴史のもう一つの、最後の選択肢は女なのです。

この、一見奇妙な言い方を説明するために、性別化の式へ進みましょう。今日はほかの象限は扱いません。下の図の下段に注目してください。左側にも、欠如を抱えた主体Sがあります。こちらは男性の主体で、もちろん、左右を隔てる線もアーテーと見てかまいません。男性の主体はアーテーを越えて、自分のaを見る。これもまた幻想の式です。このaが欲望の原因ですが、実際にはそれに触れられません。右下のLaは女性の主体です。同じくアーテーを越えて、父に同一化しています。もちろん、父から逃れられる主体は一人もいません。彼女も父から与えられた、欲望を表すファルスに同一化します。しかし同時に、女性はファルスの向こう、大他者のなかに欠けているシニフィアンへも向かうのです。

ラカンの性別化の式
性別化の式。見るたびに新しい発見がある。

最後に念を押しておきますが、私はこの、大他者のなかに欠けているシニフィアンについて、多くを解説するつもりはありません。ただ、20世紀のラディカルな思想家たちの主張と共通するところを示しておきます。大他者のなかに欠けているシニフィアンは、バディウの「現実界への情熱」、デリダの『マルクスの亡霊たち』にいう亡霊、アルチュセール晩年の手稿にある「空虚」であってはいけないのでしょうか。そして最後に、メシアへと戻ります。大他者のなかに欠けているシニフィアンは、ベンヤミンが「歴史哲学テーゼ」で描いた、《新しい天使》の向き合う破局と死骸であってはいけないのでしょうか。この欠けているシニフィアンによってこそ、メシア的な時間のなか、静止のうちにある変動のなかで、主体をヒステリーと抑うつの見せかけの行動から解放し、静止したまま存続する現実界と出会わせることができるのです。

鳥の群れを背景に、ボートに乗る人物

講評担当の張先生:

これほど自分の専門から遠いところで話をするのは初めてです。こういうときには、いつでも使えるずるい手があります。話題を自分の得意分野へ引き戻すことです。自分のBGMのなかでしゃべれば、負けませんからね。魚板さんの話を聞いて、私もいろいろ学びました。普段、精神分析の本を読んでいても、これほど多くのことを、こんな大きな枠組みでは考えませんし、これだけ長い連鎖を整理したこともありません。ここまで長く議論をつなぎ、全体を大きく捉えられることには、専門教育を受けた研究者として、敬服します。

辱められた父の話で出てきたアニメの場面ですが、ゲンドウの背後の影がとても濃いことに、今回初めて気づきました。床に横たわった彼は、もう力尽きたように見えます。この場面は、普段の彼も、非の打ちどころのない権威を装っていただけだったと示しているのかもしれません。現実の人間としての彼には、その完璧な権威の姿にまで達することはできなかった。命の終わりに、ようやく彼はその権威の像、あの濃い影と切り離されます。あの濃い影が表す権威の像には、彼は本当の意味では届かなかったのです。

さて、ここからは自分の戦場に話を引き戻します。あはは。今日のテーマとACG作品には、精神分析以外にも使える理論がありそうです。私が取り上げたいのはバトラーです。彼女のある理論が、今日の『EVA』や新海誠作品にかなりよく合うと思います。その基本的な考え方を、簡単にお話しします。

ジュディス・バトラーの肖像
バトラー。

まず、命令に従う人はみな、一つの厄介事を抱えています。ある種の脅迫を受けているのです。命令に従うか、さもなければ死ぬか。先ほど上映した『EVA』の最初の場面なら、シンジはEVAを操縦しろと命じられます。碇司令は、EVAに乗らないなら出ていけと迫るわけです。これは社会的な死です。生き続けることはできても、望んだようには生きられない。共同体から追放されるのです。ですから現実には、従うしか選べません。これがバトラーの扱う基本的な問題です。

彼女の議論の柱の一つは、これは暗澹たる状況に見えるけれど、実際には、選択した後にこそ、ある種の解放の可能性、潜在力が生まれるということです。従うことを選ぶと、どうなるのか。ここには一つ前提があります。最初に従うのは外からの権威ですが、その権威が本当に、あらゆる場所で四六時中、手取り足取り従い方を教えることはできません。だから外からの権威が効力を持つには、必ず内面化されなければならない。自分自身もある程度それに同一化し、ついていかなければならないのです。もともと外にあって上から見下ろしていた権威が、今度は主体の内に取り込まれる。命令を守ることが自分の意志になったとき、二つの可能性が生まれます。

  1. 外の権威と一心同体になり、精神の上でも権威を担い、その最も忠実な手先になること。監視されなくても自ら進んで命令を守り、他人にも守るよう求める――権威の犬となり、奴隷のように仕える姿です。冷ややかな権威そのもの以上に、熱狂的に命令を守ろうとします。
  2. 内面化によって、ある種の能動性を得ること。もともとは、こちらが一方的に外の権威へ従っているだけだと思っていました。しかし今や、その権威が現実に効力を持つには、私たち自身の力や意志、意欲による協力が必要だと分かります。だからこちらにも、ある程度の決定権がある。つまり、自分の日々の暮らしのなかで、抵抗や妨害の姿勢を示し、実際にそう振る舞うこともできるのです。

『EVA』を振り返ってみましょう。シンジはその後、多くの場面で抵抗の姿勢を示します。EVAに乗って世界を救えるのは、たいてい自分しかいないと、すぐに分かるからです。ゲンドウや組織がシンジの協力を必要としているのは明らかです。何度も抵抗やうんざりした気持ちを態度に表すシンジの姿には、バトラーのいう二つの可能性のうち、抵抗へ向かう側面がよく表れています。一見、すべてを動かしているのは碇司令ですが、実際にはシンジにもある種の決定権があり、事態を左右する力がある。だから、その力を使って抵抗できるのです。

EVAの操縦席に座る碇シンジ

新海誠については、もう少し複雑です。新海作品が日本であれほど人気を集めるのには、身近な現実、社会や歴史に関わる理由もあります。みなさんも見たことがあるでしょうか。以前、Bilibiliの新海作品の動画で、最後に「○○、ごめん」「○○、好きだ」といった弾幕コメントがたくさん流れるのを見ました(編集者:今もあります(笑))。ご存じのように、現代の日本は深刻な少子化社会です。そのため、おもてむき立派な主流文化の多くは、早く子どもを産むよう国民を教え諭し、得になるぞと誘い、子どもを産むのはよいことだと説いています。けれども一方で、ACG文化は主流のイデオロギーと距離を取っています。その意味で、新海誠の『秒速5センチメートル』は、恋人のいない独り身、中国語で自分を犬になぞらえて自嘲する「单身狗」のための作品です。つまり、「早く子どもを産め」という主流イデオロギーの宣伝に、とても懐疑的で、冷ややかで、さらには抵抗する態度を取っている。独り身だっていいじゃないか、どうして子どもを産まなければいけないのか、と。

『秒速5センチメートル』。仕事部屋でパソコンに向かう貴樹

ここにも、バトラーの描く厄介な状況があります。「日本」という外からの権威がすべてを動かしているように見えて、実際には主体にもある程度の決定権が残っている。産むか産まないかを決める権利は、結局、一人ひとりの手に残されているのです。家族や国家が、出産まで何もかも取り仕切ることは、実際にはできません。ここでもやはり、二つの可能性に向き合い、そのどちらかを選び、自ら働きかける力によって抵抗できます。私は産まない、独り身でもいいじゃないか、と。この、独り身を選ぶという基調は、『秒速5センチメートル』などの新海作品に表れています。バトラーの理論は、『EVA』と新海作品のいくつかの特徴に気づかせ、それを理解する一つの方法を与えてくれるのです。

最後に一つ、注意しておきたいことがあります。バトラーのこの理論には問題もあります。彼女が示す解放への道筋には、現実のなかで本当に大きな解放の力があるのでしょうか。新海誠の『秒速5センチメートル』を例に取ると、この作品は「独り身エンドでも、別によくない?.jpg」という物語を見せてくれます。けれども本当に、世界をもう一歩先へ、実質的に良くしたいと思うなら、ただ独り身であり続けるだけで、さらに何ができるのでしょう。そうした振る舞いは確かに抵抗ではありますが、本当に解放と呼べるところまで届くのでしょうか。抵抗(Resistance)は、解放(Liberate)とは違います。抵抗の効力は、ごく限られているかもしれません。『EVA』のシンジも、何度も抵抗したことで、ある程度の発言権を勝ち取り、レイと接する機会まで得たのかもしれない。けれども、やはりEVAに乗ることを強いられます。抵抗だけでは、シンジの世界を本当の意味で良くすることはできないのかもしれません。

編集後記:

「なるほど、そういうことね。うん、完全に理解した」と言う少女に、「全然わかっていない」という矢印が向けられた画像
画像内の中国語の訳――吹き出し:「なるほど、そういうことね。うん、完全に理解した。」/矢印:「全然わかっていない」。

動体視力に自信のあるみなさんなら、今回の講演の内容も、もうすっかり理解できましたよね。

本文終わり

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