屋頂現視研
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問う――屋根の上の文化研究所はいかにして可能か?

屋頂現視研の発刊の辞。私たちは何を研究するのか、なぜ業界の外に理論を求めるのか、そして共同で書き、学ぶ場をどう作っていきたいのか。

著者: 屋顶现视研翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

主よ、時が来た。夏はあれほど豊かだった。
あなたの影を日時計に落とし、野に秋風を吹かせたまえ。
最後の果実に熟せと命じ、あと二日、南の暖かさを与えたまえ。
熟しきるまで追い立て、最後の甘みを濃い酒に溶け込ませたまえ。
――リルケ「秋の日」1

時が来た、私たちの家を建てる時が。

時が来た、並木道へと踏み入り、よそよそしい光と影のなかで存在を探る時が。

皆さん、こんにちは。筆者は「屋根の上の文化研究所」のメンバー全員から依頼を受け、この発刊の辞を書いています。私たちの趣旨と活動内容を簡単に説明し、志を同じくする読者の皆さんに私たちを知っていただければと思います。そして、活動に参加し、仲間に加わっていただければ幸いです。

Q1:私たちは何を研究し、何を語るのか? どう進めるのか?

アニメ・漫画・ゲームと、それらにまつわる文化現象を考察します。書き手の関心に応じて、映画や小説、コスプレなどを取り上げることもあります。

皆さんもご存じのように、アニメ・漫画・ゲームは、内容がますます豊かになり、社会的な影響力も増している文化の分野です。近年は、注目を集め、研究の対象となる機会も増えています。筆者も自分の専門の関係で、証券分野の研究機関がアニメなどの「二次元経済」を扱った調査報告を目にしましたが、これも関心の高まりを示す一例でしょう。映画には、映画批評やメディア批評、あるいは大衆文化研究があります。ならば、その研究の方法や視点をアニメ・漫画・ゲームにも向けられるのではないか。私たちがやりたいのは、そういうことです。実際、日本や欧米、さらには中国でも、多くの先駆者がすでに取り組んできました。その仕事の種類も、どこまで掘り下げるかも、さまざまです。ここで、その方々に敬意を表します。

何かを考察するには、その道具となる知的資源を十分に備えておく必要があります。研究者は自分の目的に照らして、対象となるものも、考えるための道具も、ともに研究の[素材]として十分に把握し、自分のものにしておかなければなりません。では、私たちはどう考察を進めるのか。その道具となる知的資源を二つに分けてお話ししましょう。

実は、話はそう複雑ではありません。筆者なりに考えると、業界に由来するものと、学術の世界に由来するものに分けられます。自然科学では、産業界での研究と大学などの機関での研究に分けることがあるのは、ご存じの方も多いでしょう。これになぞらえて、アニメ・漫画・ゲームの考察に使う概念や範疇も、二つに分けてみるわけです。一方は、絵コンテやレイアウト(LO)、それらに関わる制作工程など、アニメ業界の内部で生まれ、日常的に使われている概念や範疇。もう一方は、業界の外にある学術の世界から得られる思想です。

ここで学術の世界の知的資源と言っても、閉じた狭い学問分野を指しているわけではありません。哲学、社会科学、人文学や芸術をはじめとする、人類の広い知の世界を指しています。映画批評でさまざまな理論が道具として使われていることを思い浮かべれば、なるほどと思っていただけるかもしれません。

私たちの記事では、問題意識を持ち、そうした理論を活用して、対象を真剣に考察することを目指します。ただし、学術誌の論文を自分たちの基準にするつもりはありません。その必要もなければ、面白くもないからです。映画批評を思い浮かべてください。笑おうが怒ろうが罵ろうが、どんな語り口でも構いません。対象をきちんと説明できるなら、それでいいのです。読者の皆さんにも、有志で集まった私たちに高い水準を求めすぎないよう、お願いしたいと思います。

Q2:アニメを作る人や楽しむ人に、アニメ業界の外から理論を借りる必要はあるのか?

もちろん、原画を担当するアニメーターは、思想や理論を知らなくても、卓越した技術を駆使して、見る人が神業だと驚嘆するような作品を作れます。

さまざまな新聞や雑誌に載る、あの低劣な、大半が否定とあら探しに終始する芸術批評を通じて、一種の「生半可な教養」が大衆に浸透してゆく。だが、創作する者にとって、それは邪悪な霧であり、毒液なのだ。創造力という樹木を、緑の葉から幹の芯に至るまで、繊維の一本一本にわたって徹底的に破壊してしまう。 ――『ゲーテとの対話』2

私たちは、自分たちの研究や発言によって、アニメ業界の制作工程や作品の内容に何らかの影響を及ぼそうとは考えていません。これまでも、一度も考えたことはありません。そんな思い上がりは毒です。ただ、影響を与えるつもりはなくても、影響が生じることはあります。優れた映画批評家も、自分の批評が監督に影響を与えるなどと、うぬぼれることはめったにないでしょう。それでも、映画が百年以上にわたって発展してきた今日、批評家たちの言葉は教科書を通して広まり、専門教育を受けた監督や制作関係者の一部に、多かれ少なかれ影響を与えてきました。抽象的な話になりますが、社会を大きく捉えれば、ほかの領域と影響を及ぼし合わずに成り立つ産業など、明らかにありません。

もちろん、遠い将来に業界を「後押し」することを期待して始めたわけでもありません。戴錦華が『ダンケルク』を論じた際の、もっと平明な説明を借りましょう。3 ヒット作を理解する鍵は、まず、その作品が置かれた時代と社会にあります。私たちが生きる今ここに、そして映画を取り巻く、より大きな政治経済の論理や人々の心理状態にあるのです。作り手が創作に際して抱く意識は、しばしば社会的無意識に支配されています(これはフロイトの言い方で、デュルケームの言い方なら、集合意識と呼べるでしょう)。人々の心理を敏感に感じ取り、共有することがまったくできない芸術家には、作品の流行を通じて、こうした社会的な熱狂を生み出すことはできません。ある意味で、映画批評を含む文化研究の目的は、作品や業界に影響力を及ぼすことではなく、社会全体を分析することにあります。

zecy先輩の分類に従うなら、私たちが重きを置くのは、作り手(主にテクストの作り手)の考えや、観客の反応、作品の人気が、社会のどこに根を持つのか、ということになるでしょう。ときには作品の内容をより細かく考察することもあります。ある意味では、作品のなかの「ネタ探し」です。

作品を楽しむ人にとっても、別の視点から作品を見る経験は、それが「もっとよく見える」助けになるかもしれません。もっとよく見えること。それ自体が、よいこと、目指すべきことではないでしょうか。近視の人は普通、もっとよく見えることに、それ以上の目的があるのかとは問いません。よく見えること自体が、一つの善なのです。文学理論に親しんでいる方ならご存じのとおり、作者自身の意図は重要ですが、それが批評者による多様な読みを妨げるわけではありません。「作者の権威」を疑ってはいけないわけではないのです。国語の読解問題に深く毒されてきた多くの読者には、苦々しい気持ちでうなずける話かもしれません。

最後に強調しておきたいのは、研究に必要なら、アニメ業界そのものが生み出してきた知識――制作工程や作り手の技法など――を重んじなければならない、ということです。靴の上から足をかくような仕事はなるべくしないよう、私たちは自分たちに繰り返し言い聞かせています。まして、独りよがりな高尚さを誇るつもりはありません。伝えたい内容を、訳の分からない言葉でではなく、できるだけ分かりやすく読者に届けたいと思います。

Q3:どんなチームなのか? 参加したいのだけれど?

自由と理性を武器にするチームです。一人ひとりの自発性を生かしつつ、チームが特定個人のものになったり、閉じた仲間内になったりすることを避けます。道を踏み外すメンバーが現れた場合は、文書で定めた規範に基づいて自浄を図ります。分業によって効率よく協力しつつも、そこから生まれる序列や、人を「上知・下愚」、つまり賢い者と愚かな者に分けることには抗います。人を説得するのは、論証と道理です。

私たちは、自ら学ぶことを非常に重視しています。毎週、アニメ業界や人文・社会科学について学ぶ日を設けています~~(形だけになってはいますが)~~。また、毎月、その月に共有した学習用の記事や動画、利用できるプラットフォームを一つの資料にまとめています。

ある程度の商業化も目標にしています。より多くの人に私たちの発信を届け、執筆や制作を担う人に妥当な報酬を支払うためです。活動の目的は利益そのものではない、という点では全員が一致しています。利益が出れば喜んで受け取るかもしれませんが、それとこれとは矛盾しません。WeChat公式アカウント、微博(Weibo)、QQ公式アカウント、知乎のコラム、Bilibili、LOFTERなど、できるだけ多くのプラットフォームで活動していきます。ぜひフォローしてください。

参加してくださる方には、次のうち少なくとも一つに当てはまることを期待しています。

  1. アニメ・漫画・ゲームの作品と歴史に詳しく、愛着がある。作品評を書いたことがあれば、なお歓迎。

  2. 哲学の諸分野、社会科学、人文学や芸術など、幅広い知の世界について、ある程度の知識がある。

  3. 映画批評や大衆文化研究に親しんでいる。執筆経験があれば、なお歓迎。

  4. 動画の制作・編集、原稿のレイアウト、絵を描くことが得意。

現在は利益が出ていませんが、私たちの理念に賛同し、好きという気持ちで「愛で発電する」仲間を歓迎します。

少し余計な話

私たちの仕事は、その独特な性格から、批判を招きやすいものだと筆者もよく承知しています。今後、避けきれない仕事上のミスによって、意図が伝わりにくくなることもあるでしょう。その点について、あらかじめお詫びしておきます。作品批評のなかで、特定の個人や集団、その見解を取り上げる場合も、私たちは通常、研究以外の目的で発言することはありません。多くの場合、対象としているのは、ある社会的事実や、社会に見られる人々の心理や態度です。その点はご承知おきください。それでも、自分に向けられた話だと受け取って私たちを誹謗する人がいたら、その誹謗は蜘蛛の巣のように、そっと払いのけるしかありません。

方針として、その時々に激しい論争の的となっている作品については、「すぐさま」論争に加わることのないよう、細心の注意を払います。本当に分析する価値のある出来事なら、一年寝かせたところで何の問題があるでしょうか。原稿に過激な見解や言葉、社会的公正に反する見解や言葉があれば、できるだけ修正します。また、私たちの活動で執筆や制作を担う個人とチームとは、ある程度切り分けて考えます。そして、疑問や批判には堂々と、かつ謙虚に応じ、圧倒的大多数の作り手と受け手にとって有益な立場を、常に守ります。

私たちは謙虚さを保ち、腰を低くして、自分たちの見解に限界があることをいつまでも認め続けます。それは形のうえだけでなく、内容についても同じです。一般の人々に理解されにくくなるほど、自分たちは高尚になり、仕事の価値も高まる、などとは考えません。それでも、分かりやすさのために表現の正確さを犠牲にするつもりはありません。この点はどうかご容赦ください。現場の職人や研究者の皆さんには、私たちの過ちや至らない点をご指摘いただき、力を貸していただければと思います。善意の議論と批判を歓迎します。

私たちは、独立した立場を貫き、礼節を守って平和的に交流する方針です。外部から金銭や人気を使って干渉しようとする力が働いても、私たちは何よりもまず、真理を師とします。

ここまで述べてきたことが、どれほど難しいかは、筆者もよく分かっています。正直なところ、もう思わず「万策尽きた」と言ってしまいそうです。それでも、最後はヴェーバーの講演の一節で締めくくらせてください!

あらゆる歴史的経験が、一つの真理を証明している。この世界で不可能なことを執拗に求め続けなければ、可能なことさえ手に入らない。……指導者でも英雄でもない人々もまた、すべての希望が打ち砕かれることに耐えられるよう、強靱な心を備えなければならない。今のうちにそうしなければ、今日できることさえ成し遂げられない。たとえこの世界が、自分の目には愚かで卑しく、身を捧げる価値などまるでないように映っても、なお悔いも恨みも抱かずにいられると、確信していなければならない。そんな状況を前にしても、なおこう言えるのだと。「まあ見ていろ!」

本文終わり
注03

注釈

  1. 訳注:リルケ「秋の日」(Herbsttag)のドイツ語原文。 ↑

  2. 訳注:エッカーマン『ゲーテとの対話』に収められた、1824年1月2日のゲーテの発言(ドイツ語)に対応する。 ↑

  3. 訳注:ここから芸術家と社会的な熱狂について述べる部分までは、林品がまとめた戴錦華の講演紹介(中国語、2017年10月3日)に対応する。ただし、本稿の筆者は、講演紹介の「商業映画の監督」を「創作者」に、「社会の潜在意識」を「社会的無意識」に変えている。フロイトとデュルケームへの言及も本稿の筆者による補足である。 ↑

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