編者注: 著者本人は表舞台に出るつもりがないため、知乎の許可を得て塔塔君(Minkun)が代理投稿し、「屋頂現視研」側の許可を得てBilibiliのコラムに転載した。ここに記す。
「ラーメンを愛する人は、欲求不満の革新派に似ている。ラーメンには街の匂いが満ちているからだ」。ラーメン好きの寺山修司は、ありふれた庶民の食べ物について、こんな奇妙な見解を示した。押井守がその影響を受け、そばをただ食いする立喰師という、同じく奇妙な職業を生み出したのかどうかは、知る由もない。押井守自身は、子どものころ、道端でおじさんや子どもが立ったまま食事をする姿をよく見たが、いまではそれが叱られるべき行為とされている。だから、立ち食い店で起きる物語を撮るのが楽しいのだ、と語っている。
こうした「過去への郷愁」という説明も、他人が口にするならまだ信じられるかもしれない。だが、押井守の幾重ものフィルターを通した立ち食いそば屋の光景を見せられた観客には、昔を懐かしむだけのためにここまでやる必要があるとは、とても思えない。実際、押井守は一九八〇年代初頭から、関わった作品の中に、意識的にせよ無意識的にせよ立喰師を登場させてきた。いまでは「鴨片」(押井作品を指す原文の俗称)に立喰師が現れる頻度は、『ガンダム』に仮面の男が現れる頻度に迫っているようにさえ見える。明らかに、押井守を語るうえで立喰師を避けて通ることはできない。
別の見方をすれば、押井守が長年温めてきた立喰師の世界を、こうした「作品集」の形で送り出してくれたことは、愛好家にとって便利この上ない。何しろ、押井守の数多くのアニメ、漫画、映画から立喰師の断片を探し出し、パズルのようにつなぎ合わせるのは簡単ではないのだから。押井守がこの『立喰師列伝』を温めていた期間も十年を超える。『イノセンス』がカンヌ国際映画祭に参加した際、石川光久が「賞を取れなかったら、押井守に好きな映画を撮らせる」と発言し、押井守はついにその機会をつかんだという。
もっとも、予算の都合で、この映画には押井守の親戚や友人たちが本人役で出演するしかなかった(娘も婿も逃げられなかった)。そのため、これまでずっと「押井守が暇なときに作った、さほど重要ではない小品」とみなされてきたのである。
そのせいか、公開から十年以上たった現在も、この作品についての感想や解釈は少ない。もちろん、二十一世紀以降、自分の演出と創作体系に限界を感じていた押井守が、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』のような作品を再び作れず、アニメ・映画ファンを満足させられなかったことも一因だろう。だが、押井守の言葉そのものが難解であることにも原因があるのかもしれない。観客が知りたい、あるいは見たがっているのは、映像理論に長けた押井守であって、個人的な見解を語ろうとする押井守には、ひどく馴染みがない。
『機動警察パトレイバー2 the Movie』のような晦渋な比喩は、盲人が象を撫でるような感覚を与えるし、他人の手を経た『人狼 JIN-ROH』には、靴の上から痒いところを掻くようなもどかしさがある。そもそも、専門教育を受けていない押井守の思想に、必ずしも深さや創意があるとは限らない。多くのテクスト(texts)分析も、まさにこの点を批判してきた。では、『立喰師列伝』はどこに分析可能性を持つのだろうか。
まず、作家主義(politique des auteurs)の観点から見れば、筆者が改めて説明する必要はないだろう。押井守の生涯を通じて一貫している、自己反省性(自己言及性を含む)と映画の存在論への探究は、彼の自述、インタビュー、作品の中に、そこかしこに見て取れる。その探究が形式の次元にとどまらず、内容にまで浸透していることも、愛好家にはよく知られている。これまでの分析の型にならえば、筆者は、それが押井の曖昧性への執着と関係しているのだと思う。
形式の面から見れば、曖昧性は、芸術映画が写実の美学と表現の美学を両立させようとするとき、真実性をめぐって避けがたく抱える矛盾を解消しうる。だが、一般には、押井守の曖昧性は、この矛盾を解決することを第一の目標としているわけではなく、むしろ彼自身が「真実/虚構」という対概念(doublet)に対して抱く逡巡に向けられていると考えられている。この命題を詳しく論じるには、すでに十分研究されている、押井守の夢や迷宮をめぐる作品の解釈を参照すればよい。
押井守は、キャリアの大半にわたってこの命題への関心を保ってきた。ならば、その理由や内幕を知りたくなるのは当然だろう。押井守の作家研究における大きな問題、すなわち「私たちは押井守の曖昧性の真相や内幕をどう掘り出せるのか」という問題について、押井守自身も非常に重視している『列伝』から、何らかの答えを得ようとするのは筋の通ったことだ。客観的に見ても、『列伝』は、脱ドラマ化されても曖昧性を失わないテクストとして、分析に適した作品になっている。
次に、押井守は日本のアニメーションと映画の業界を代表する人物である。そのため、作家研究の観点を越え、社会や歴史的環境の次元を組み込んだ研究にとって、より外向きで社会に開かれた作品である本作は、いっそう重要になる。アニメ業界において、押井守は数多くの重要人物と深く関わってきた。押井守はかつて、富野由悠季の『ガンダム』と自分の相性があまりよくない理由の一つとして、「探っている内実は似ているが、追い求める方向が違う」からだと語ったことがある。
この「探っている内実が似ている」ということは、この二人に限らず、日本の多くの著名な業界人の間に見られる。もちろん、それが社会環境と無関係であるはずはない。押井守としばしば「セット」で語られる人物を、さらに挙げてみよう。宮崎駿、今敏、大友克洋、鈴木敏夫、石川光久など。彼らだけで、業界全体の大半の見取り図が描けそうなほどである。逆に、吉本隆明、三島由紀夫、村上春樹など、押井守がよく読む作家たちが取り上げる主題と、彼自身が追い求める主題との間に、価値観やイデオロギーの面で応答や共鳴が成立しているのかを問うことも、日本の「戦後」における文学・映像の歴史を研究する一つの道になりうる。
最後に、いっそこの作品を、くたびれた老人のたわごとだと思ってしまってもよい。押井守はこう語っている。
みんなにとって、一人の人間が一途に自分のことばかり話すのは、いつだって困ったものだ。でも、せっかくの機会だから、みんなに伝えたい。
この映画は、野良犬が遠吠えしているような作品にすぎない。それでも、その声を聞いて振り返る人は、きっといる。
筆者は、この自述が真実であると信じている。『列伝』を完成させた後(本作の前に『イノセンス』、後に『スカイ・クロラ』を置く従来の見方はいったん脇に置くとして)、押井守の創作は、形式においても題材においても大きく変化した。本作は、押井守の「自分の作品」に属する暗線の終わりであり、見どころに満ちている(明線は『ケルベロス』である)。
本稿が試みるのは、以上の第一点を軸に、華語圏における小さな押井守作家研究を行うことだ。第二点については、まず、人物同士の「ゴシップ的な関係」を扱う記事の分析的重要性を称揚するつもりはないことを明らかにしておきたい。映像の歴史研究は、歴史学と映像分析が交差する領域であり、より立体的な視点を必要とする。それは筆者の力量をとうに越えている。不得手な領域に踏み込むことで、さらに多くの誤りを招くのを避けるため、本稿では歴史研究の問題には立ち入らず、本作が指示する(referential)歴史上の出来事の意味についても、できるだけ論じないことにする。読者諸氏には、どうか大目に見ていただきたい。
まずは、このアニメーション独特のスタイルから入ろう。そう、筆者はこれをアニメーションと呼んでいる。図1は、このアニメーションの予告編の一カットである。大多数の読者は、これを見ても驚かないかもしれない。だが、本作がアニメーションであることに驚く読者も、少数ながらいるはずだ。実際、本作を論じる作家論の多くは、この映画を実写映画として扱っている。

本作はアニメーションであって、実写映画ではない。二〇〇一年の『Avalon』のインタビューですでに「すべての映画はアニメになる」と語っていた押井守にとって、この違いを何度も強調することは、筆者が少し狭量に見えるかもしれない。しかし、形式を極度に重視する押井守については、作品において形式が内容に及ぼす影響をどれほど強調しても、しすぎることはないと筆者は思う。本作も同じである。
本作の制作には、写真素材に後処理を組み合わせる技術、スーパーライヴメーション(super live-motion)が用いられている。まるで紙人形劇を撮影しているようなものだ。『ミニパト』を見たことのある読者なら、本作をアニメーションとして受け入れるのは簡単だろう。『ミニパト』が手描きの素材を使うのに対し、本作が使うのは写真素材である。主な違いは、その一点にすぎない。
狭量な話はここで終わりにしよう。押井守は冗談めかして、これは歴史に名を残す映像作品になる、なぜならこんなことをした人は誰もいないからだ、と語っている。映像作品としての本作は、実際、アニメーションと実写映画の境界を打ち破っている。
アニメーションと実写の境界は、一見はっきり分かれているように見える。だが、具体的に、両者を本質からどう区別するのかという点では、理論家たちの間で激しい議論が続いている。最も古い見解である「実写はより真実で現実的、アニメーションはより偽物で誇張されている」という誤謬については、もう詳しく語るまでもない。現在は、運動の存在論から両者を区別し、「実際の運動」と「表象された運動」を分ける考え方が強い。
実践の観点からいえば、多くの制作者は、実写映画のほうがより豊富な情報を持ち、アニメーションは情報が少ないからこそ、提示する情報を際立たせ、観客の注意を導きやすいと考えている。これに対し、押井守は否定的な意見を述べた。二つの制作過程を身をもって経験した彼にとっては、おそらく――実写映画での失敗経験のためかもしれないが――、次の単純な見方のほうが受け入れやすかったのだろう。アニメーションは足し算をし、実写は引き算をする。
この考えを論じた資料は、読者もいくらでも見つけられるだろう。それでも筆者が付け加えておきたいのは、この考えがアニメーションと実写を制約する方法論なのではなく、創作の出発点を強調するものだということだ。つまり、アニメーションの情報はゼロから構築され、実写の情報は百から構築される。
この点を早くから意識していた押井守は、実写映画において、一般の観客には理解しにくいほどの足し算を試みてきた。例を挙げるまでもない。一方でアニメーションにおいても、多くの引き算を行った。図2は、『機動警察パトレイバー2 the Movie』で編集によって行われた一つの「引き算のゲーム」を示している。

読者は、「足し算と引き算」と、前に筆者が述べた「境界を打ち破ること」とを容易に結びつけられるだろう。そこから、次の問いが生まれる。この境界、つまり足し算と引き算の境界とは何なのか。
アニメーションと実写を、街の東端と西端からそれぞれ出発した二人にたとえてみよう。かつての「真実/誇張」の違いという定説は、CG技術の発展によって徹底的に崩された。「細部の多さ」という偏見も、ますます精密になる3Dモデル技術によって、吟味する意味を失いつつある。
では、技術がさらに発展したとき、この二人を街の中で自由に歩かせることができるだろうか。もしできないのなら、最終的に必ず到達する限界とは何なのか。この問いへの答え、ひいては「アニメーションと実写映画をどう区別するのか」という機能的な答えとして、押井守はこう考える。鍵になるのは、俳優をスタッフ(人)として扱うのか、それとも素材として扱うのかということだ。
つまり、ほとんどすべての映画における重要な構成要素――キャラクター(character)――の違いである。以前、『列伝』の出演者一覧を見た友人が、「こんなにたくさんの“素人俳優”を使っているなら、押井守の映画は新しいリアリズム映画なのか」と筆者をからかったことがある。だが、その友人が本当に『列伝』を見たなら、顎が外れるほど驚いただろう。
これらの「俳優」の写真素材は、押井守によって徹底的に選別され、制限されている。新しいリアリズム映画によく見られる、感情の自然な発露どころか、自然な表情さえ最終的な素材として採用されていない。完成した映像を「人間の形をした鬼」と呼ぶほうが、むしろふさわしいかもしれない。
一般に実写映像では、俳優が演じる行為(enactment)は、生身の人間として備えるものすべてを、模倣的(mimetic)な過程へ投じることによって成立する。そこには演技や「役になりきる」といった考え方が含まれる。実際、一九五〇年代から六〇年代にかけてのハリウッドでは、俳優の演技に介入しない潮流が生まれたこともある。
押井守は、あえてその逆を行った。生身の人間の一部だけを選び取る「素材法」を採用したのである。古典的な物語スキーマ(schemata)、さらには大多数の芸術映画の物語スキーマに従う観客や、一部の制作者にとっては、理解しにくい方法だろう。言い換えれば、一人の人間らしく、いや、人間以上の人物を作ることこそ、実写の制作者だけでなく、絵やモデリングによって人物を構築するアニメーションの制作者にとっても目標なのだ。
大多数の制作者は、より豊かなキャラクター・アーク(character arc)を持つ人物像を創造できたことを誇りに思う。批評家もまた、人物像が生き生きしていることを、制作者の能力への称賛として扱う。たとえば「富野由悠季はキャラクター造形の名人だ」といった具合だ。しかし押井守は、こう評している。
富野のようにキャラクターを創造することは、僕にはまったくできない。
……僕には泉野明がわからない。ロボットに乗るのが好きな二十代の女警察官が、どういう気持ちなのか、僕にはわからない……。
押井守の方法は、映画批評や解釈において、人物(personage)を素材として扱うという古くからの議論を、読者に思い起こさせるかもしれない。批評家は、映像の中の人物素材をいくつかの特性(features)に還元する。人物が表現する感情や行う行動は、一見すると生きた人間のものだが、実際には批評家によって抽出され、精製され、一つ一つの命題へ変えられる。それを基礎にして、テーマを解釈したり、そこから別の話へ飛躍したりする。
確かに、この種の解釈法と押井守の考え方には、ある程度の類似性がある。しかし、映画批評の次元におけるこの命題は、突き詰めれば、批評家が最終的には解釈の意味や作者の意図から、一定の独立性を求めていることに由来するのかもしれない。批評家とは違い、制作者である押井守には、この問題を根源から探る力がある。
その根源とは、人間の認知の型である。
人間は、生理的にも文化的にも、物事を、表面上は擬人化された仕組みとして理解する傾向を持つ。人物を人間の図式として理解することが、これほど明白に見えるのは、それが私たちの図式だからであり、つまり私たち自身だからだ。
人格化スキーマ(personification schemata)は、人間の基本的な認知の型であり、映像を理解するうえで不可欠な部分になる。押井守が試みているのは、まさにこの図式への挑戦である。押井守が一九八九年に制作した実験アニメーション『御先祖様万々歳!』第五話の最後の場面を例に、筆者は、押井守が制作者の側からこの図式をいかに破壊したのかを分析してみたい。
『御先祖様』はメタ・アニメ(meta anime)なので、作中の多くの不調和な場面も、メタ要素として理解しやすい。だが、事はそれほど単純ではない。図3を見てほしい。ヒロインのマロ子は、台詞を二種類の声で演じている。
一つは低い声(図a)で、台詞はこうだ。
こんなにも苦労して、ここまで深く掘り下げてきた家族の物語を、こんな馬鹿げた展開で終わらせてしまって、本当にいいの?
これはキャラクターの台詞として成立しない。観客は、前五話を通じて繰り返されてきた、押井守自身による物語創作方法の自述というメタ要素として、つまり押井守が登場人物の口を借りて語っている台詞として、紋切り型に理解することもできる。
もう一つは高い声(図b)で、男に向かってこう言う。
何のため? 私はいったい、なぜ祖父に会わなければならないの?
この高い声の台詞は、本来のキャラクター像にかなっている。このような明瞭な分類だけで、十分な手がかりになる。では、その意味は何だろうか。
観客に手がかりを与える台詞の一つ(図c)によれば、ヒロインは「四方田家(主人公一家)に破壊と混乱をもたらす者」である。つまり、平穏な普通の家庭に、突然「破壊と混乱」(ドラマの力)が入り込む。ドラマの力とは何か。ドラマの力の根本は、矛盾である。そして、矛盾を導入する者は、根本的には劇中の敵でも、主人公の宿命でもなく、劇作家そのものだ。
この場面は、観客と劇作家の間に慣習的に成立している「偽りの現実設定」を見事に突き破っている。だが、筆者がこの場面で強調したいのは、それだけではない。ヒロインのマロ子が、構造上、「物語の矛盾」そのものとして存在する素材だということである。
つまり、人物が人格化スキーマに適応する一方で、押井守は人物を、無機的な「矛盾」という素材として扱う可能性を試みた。「矛盾」だけが、「これほど素晴らしい矛盾が、こんな展開で終わるなんて」と形容できる。まさにその役割を宣告するように、劇中には図dのような低い声の台詞もある。
最後に、答えのない謎を残して、終わりになる。
「答えのない謎」とは、物語の次元では「サスペンス」、叙事の次元では「空隙」を指す名詞だろう。「終わり」については、説明するまでもない。これらは完成した映画の外部にある素材的な名詞であり、人物が人格を持たない可能性を浮かび上がらせる。
本作は最終話で、前五話の舞台劇の形式を完全に破壊する。矛盾の消失、つまりヒロインの不在と、素材としての物語上の人物の終末、一家が流浪すること――完結した物語素材がもはや作者に必要とされなくなったため――を語る筋においても、この点と完全に一致している。

図3の字幕(左上から右へ):(a)「こんなにも苦労して、ここまで深く掘り下げてきた家族の物語を……」/(b)「私はいったい、なぜ祖父に会わなければならないの?」/(c)「四方田家に破壊と混乱をもたらす」/(d)「最後に、答えのない謎を残して……」。
解釈はできないが、創作はできる。読者はすでに気づいたことだろう。上で述べた、明瞭な分類が示しているのは、素材としての図式が、いわゆる人物の内面、欲望、イメージではないということだ。
観客が最初に目にするマロ子は、確かに人格を持つマロ子である。だが、少し意地悪に言えば、「物語構造」の素材としてのマロ子が突然降ってきて、別の話し方によって明確に境界線を引く。観客はその違いをぼんやり感じ取るが、両者が同じ身体、同じペルソナ(persona)を共有しているからといって、強引に一体だと考えることはできない。こうして、この仕掛けは人格化スキーマを覆し、人物を素材として扱う方法論を成立させている。
『御先祖様』では、押井は人物に「物語構造」を与え、人格から切り離した。この命題は『イノセンス』では、より純粋な人形(shell)/人間という対概念として現れる。図4は、その対概念を示す数コマである。
外見上は生きているように見えるものが本当に生きているのかどうかという疑惑。その逆に、生命のない事物がひょっとして生きているのではないかという疑惑。人形の不気味さはどこから来るのかといえばそれは、人形が人間の雛形であり、つまり、人間自身にほかならないからだ。人間が簡単な仕掛けと物質に還元されてしまうのではないかという恐怖。
(以下、著者による中国語訳。日本語訳)
外から生きているように見えるものが、本当に生きているのかという疑い。その反対に、生命のないものが、実は生きているのではないかという疑い。人形の不気味さはどこから来るのか。それは、人形が人間の雛形、つまり人間そのものであって、ほかの何ものでもないからだ。これが、人間が単純な仕組みや物質へ還元されるのではないかという恐怖である。
この「独白」が自ら明らかにしているように、人間は、自分を物質へ還元するものに恐怖を感じる。そして、それができるのは人間だけである。しかし、人物は違う。素材としての人形である人物は、物質へ還元されることを恐れない。そう考えると、人間が作り出した人物と人形との違いは何なのだろうか。『御先祖様』の人物設定が球体関節を持っていることの意味は、説明するまでもない。

押井守の「素材」への思考は、ここで止まらない。先ほどの奇妙な手法が限界へ向かう一歩だとすれば、鋭い観客は『イノセンス』の中に、鏡像となるもう一つの歩みを見いだせるだろう。押井守は一九九二年の『トーキング・ヘッド(talking head)』で、次のように詳しく述べている。
人はより多く無防備で無意識に突き動かされそれと気づかぬところでイデオロギッシュな立場にたたされるからほかなりません……通常観客はペルソナと呼ばれる絵画的身体すなわち俳優によって演じられる具体的な役という新旧を通し主人公、敵役などの物語における役割や弁別可能で内面的人格をもつ個人としての新旧を了解するわけですが、アニメにあってはこのペルソナの実態をなす実在する俳優が存在せず……
(押井守はここで、身体、人物、人格という三つの意味を同時に指している。これが深く考え抜かれずにできることだとは、考えにくい。)
具体的な人物はもちろん動物だろうが植物だろうがモンスターだろうが宇宙人だろうがいや机だって椅子だってメロンパンだってただのぐっちゃぐちゃだって内面的人格と特定の物語の具体的役割を担う存在として創造することが可能なのです。
(アニメーションでは)人物、動物、植物、怪物、宇宙人はもちろん、机や椅子、メロンパン、さらにはただのぐちゃぐちゃでさえ、特定の人格と物語上の具体的な役割を持つ存在として創造できる。
確かに、劇中の人物は「ホモ・サピエンス」に限られるべきだと考える人は、ほとんどいない。「人物の構築は、現実の人間に適用できる図式、さらにはアニメーション、歯、コンピューターその他に適用できる図式に基づいている」。
例を挙げよう。機械学習を使わない、固定された麻雀プログラムは、実在の人間のように調子の良し悪しを示したり、経験によって強くなったりはしない。それは「考え」ない。だが、その人間の対戦相手は、しばしばそのプログラムを理性的な相手だと想像し、「このコンピューター、よく大物手を抱えているな」と言ったりする。
私たちは当然のこととして、ティガーやスポンジ・ボブのような動物や非生物を人物として扱う。さらに本質的には、絵、あるいは絵を構成する線のような「素材」に生命を与える(animate)。押井守が考えているのは、その生命付与の広さと深さにどこまで境界があるのかということだ。
『トーキング・ヘッド』のある場面で、押井守はその試みを行った。「登場し続けるのに、姿を持たない人物」を作ったのである。姿がないため身体を持たない。だが身体を持たないまま、人物を成立させている。
アニメーションでは、押井守は人格化スキーマの破壊を試みた。実写映画では、不確かな身体の構築を試みた。こうした奔放な選択は、彼の内面には、本当にアニメーションと実写の境界など存在しないと宣言しているようにも見える。
しかし明らかなのは、『トーキング・ヘッド』も『御先祖様』も、押井守を満足させるには至らなかったということだ。『御先祖様』の手法は依然として理解の仕方に依存し、『トーキング・ヘッド』自体はすでに「邪作」と批判されている。その仕掛けは一つの断片にしか現れず、映画全体には適用できない。そのため、その部分は「異質な要素」や「メタ要素」として理解されやすい(この仕掛けは実は『御先祖様』でも使われている。読者なら、この人物が誰なのか簡単に気づくだろう)。
この二作品がそれぞれ別の方向から限界に触れたのだとすれば、『立喰師列伝』の意図は、その限界を直接突き破ることにある。身体と人格を取り除く作品である。もしこの試みが成功しているなら、観客が目にするのは「情報量を極限まで圧縮した映画」、つまり引き算を極限まで行った映画ではない。むしろ、「ばねのように、大幅な足し算も、大幅な引き算もできる作品」であるはずだ。
この挑戦的で前衛的な形式は、私たちを自然に分析へと誘う。『列伝』において、押井守独特の人物体系は具体的にどのように実行され、どのような特殊な効果を達成したのか。さらに冒頭で述べたように、この体系と押井守の曖昧性、すなわち真実/虚構との間に、何らかの結びつきがあるのかを探ることもできる。
筆者がまず指摘したいのは、比較的明らかな一点である。『列伝』の八人の立喰師は、固有の性格や個性を持っていない。彼らは、日本の戦後における各時期のイデオロギーの特徴として存在している。劇中の台詞にもこうある。
立喰師とは、体制の周縁を漂泊する流民たちが、「戦後に属するもの」に向けて、固有の意志と方法で行うアプローチである。
つまり押井守は、一種類の方法、一種類の思想だけによって、テクスト内の図式を構築した。この図式に属する一つ一つの事例(instance)は、非人格的な人物を完成させるための、一枚一枚のパズルのピースに近い。
この方法は、「制度的キャラクター(institutional character)」という概念を思い起こさせる。確かに、本作の方法と制度的キャラクターは、各個体が分類に応じた特徴を持つ、驚きのない例として現れるという点で似ている。しかし、両者を同一視してはならない。
第一に、制度的キャラクターは、かなりの程度、テクストの外部に独立して存在し、観客が文化的な共通理解に基づいて決めるものだからだ。ある国の人々が「侍」や、それに類する制度的キャラクターをまったく知らなければ、「侍」という型に基づく人物の行動を見ても、当然、理解上の問題が生じる。つまり、その型は鑑賞体験に先立って存在し、それに依存している。
これに対して本作の「アプローチ」は、すべて押井守が作品の中で初めて提示したものだ。現実の物乞いと立喰師は、おそらく大きく異なる。観客は作品の内容だけをもとに分析し、理解し、作品内の規範モデルを組み立てるしかない。このモデルを得られるのは、鑑賞の後である。
第二に、制度的キャラクターは通常、観客に、指示されている内容以上の情報を引き出させる。たとえば、ある人物を「悪党」だと思えば、その人物が裏切り、密告し、ろくな死に方をしないといった一連の情報が、観客の頭の中に浮かぶ。つまり制度的キャラクターの最終的な効果は、ある人物の特性をより速く知らせることであり、結局は人物の人格へ戻ってくる。
しかし本作では、観客が作品内の規範モデルを構築した後、その人物類型を個別の人格化された人物へ具体化することはない。人物たちのアプローチが直接指示され、そこで終わる。全過程を通じて、人格の存在は完全に希薄である。
一方、本作の人物は、確かな身体を備えた姿で登場するわけでもない。これまでの本作の分析文の多くは、作中人物の性格やイメージ、行動を具体的に描写することで分析を行ってきた。筆者は、これは誤読だと言わざるをえない。
もちろん、そうした分析の著者たちが真剣でないと非難しているのではない。むしろ、熟練した批評家であるほど、本作の理解に適応できず、不快さを覚える可能性が高い。
一般に、観客と映像の制作者の間には、暗黙の約束がある。映像テクストには一貫性があるという約束だ。映像の意味を構成する最小単位において、一貫性とは、音声(解説である場合もある)が画面を説明したり、画面にさらに深い情報を加えたりすること、そして画面が音声の現実の状況を示したり、音声との緊張を伴う対比になったりすることによって現れる。
ところが本作で、押井守は少し「裏切り」を行っている。八人の立喰師そのものの姿は、画面の中に一度も存在しない。これは当然、普通の鑑賞経験に反する。通常、映像に登場する人物の姿は、自然にその人物そのものになる。たとえば「美女」を表現したければ、たいていは美しい俳優を選ぶか、美しい人物設定やモデルを作る。いったんその姿が確立すれば、観客の主観的判断によって変わることはない。
しかし本作では、画面に現れる彼らは立喰師自身ではなく、他人の印象の中にある、書面または口頭の伝承にすぎないと、繰り返し強調される。人物は解説の中にしか存在しない。これは、小説の中で「美女」という二文字だけを使って描写し、読者がそれぞれ異なる美しい姿を心の中で補うのに似ている。
本作では、人物の外見、服装、さらには名前までが、「ある者はこう言い、またある者はこう言う」という反復の中で、絶えず発酵し、変化していく(図5)。そのため観客は、音と映像の真実性や対応を追い求めることをあきらめ、新たな鑑賞体験へ入るしかない。この「対応しない」人物は、確かに「ずっと登場するのに姿を持たない人物」の一つの表現でもある。

押井守が本作で人物体系をどのように用いたのかがわかれば、本作の構造もますます明瞭になる。ここでは、ジャンル、すなわち本作が属するモキュメンタリー(偽ドキュメンタリー)という観点から、本作における真実/虚構の対概念がどのように構築されているのかを見てみよう。
ドキュメンタリー(documentary)の真実性は、機械の物理的特性に由来する。アンドレ・バザンは、カメラが機械的に複製する能力を称賛した。この装置による機械的複製が生み出す「完全なリアリズム」は、機械の特性を最も活用するドキュメンタリーに深い影響を与えた。
装置は初めて、介入も書き直しもなしに、事実を撮影した。
一部の制作者は、古典的なドキュメンタリーの中にも「虚構」が存在することを見落としているようだ。ニュースにおけるやらせのように、偽造行為だと嘲笑されることがあっても、「再現」は論争の中で広く使われてきた。それをドキュメンタリー固有の創作だと考える人もいれば、現実の出来事の一部の過程を強調するものだと考える人もいる。ドキュメンタリーと新しいリアリズム映画を一体のものとして扱うべきだと主張する人さえいる。
こうした潮流の中で、最初期のアニメーション・ニュースとされる『The Sinking of the Lusitania(ルシタニア号の沈没)』を始めとする作品も、ドキュメンタリーの名のもとに、真実性と虚構性の論争へ加わってきた。同じくアニメーション・ドキュメンタリーである『列伝』は、ジャンルの段階からすでに、全体にわたって真実/虚構の性質を含む有利な条件を備えている。
本作の語りのスタイル(narrative style)を具体的に分析するなら、押井守独特の人物体系によって、その「偽」(mock)がどのように作られているのかに注目する必要がある。プロット構造(plot structure)について、筆者は図6を例に、部分から全体を推し量ってみたい。この場面の台詞は次のようなものだ。
昭和二十九年二月、シャープ兄弟対力道山・木村組の試合が三日間にわたり行われ、NHKと日本テレビが中継し、プロレス黄金時代の象徴となった。その後、三十三年十二月二十三日、高さ三百三十三メートルの東京タワーが完成式を行い、さらに十一月四日には飛び降り自殺の第一号が出た。タワー完成後には「塔が傾いている」という流言も伝わったが、建設局が機械で測定した結果、噂と判定された。なお、モスラがその上で繭を作ったのは数年後のことである。そのころ、巷では空前のフラフープ・ブームが巻き起こり、昭和三十三年十一月十三日には、「サタンの爪」と自称する怪盗が住宅に侵入したところを現行犯で逮捕された……
この場面には、叙事的なつながりがまったくない。ここで叙事的連関の本質について大仰な議論に身を投じれば、論点が完全にずれてしまうだろう。ここでは、その機能的な意味だけに注目する。
ドキュメンタリーに似た一般的な叙事構成では、異なる事件、異なる順序、異なる目的を持つ映像断片が、全体としては一つのテーマに奉仕する感覚を作り出す。明瞭な時間の直線性、空間の統一、論理的関係を捨てることで、脱ドラマ化が達成される。首尾一貫した筋の中心線やドラマ上の対立がないのは、「現実とはそういうものだから」である。
この場面では、確かに事件が時間の順序に沿って並べられている。だが、これらの事件に叙事的なつながりを与えることはできない。まして、ここで何がテーマなのかを指摘することもできない。この断片そのものの混乱は、前述した音と画の不一致と呼応している。
それだけではない。行為を起こす者を中心にするのではなく、出来事を中心にするという点、つまり行為中心(action-centered)であって行為者中心(agent-centered)ではないという点が、本作の「脱人物化」の文脈をさらに強めている。技術的にも、通常の映像で複数の出来事を連続して切り替えるのは難しい。しかし本作の制作手法は、人形劇のように場面を自在に変えられるため、その問題を自動的に解決している。形式の特色を十分に利用していると言えるだろう。

本作の語り(narration)が構築する真実/虚構の対概念も独特である。前述のとおり、本作では音と画の真実性や対応を追い求めることができない。ここでは第二部の人物、アギンの場面の系列を例に、表1に沿って見てみよう。
C1~C4は典型的な叙事の型に属し、基本的な叙事的連関を作る、問答形式のリズムを構成している。C5で解説者Aが現れ、このアギンの素性を紹介し、彼の行動パターンを示す。観客はドキュメンタリーにおける典型的な型に沿って理解しやすい。この解説者は、この場面以前から登場している人物でもある。
問答形式はC5で終わる。C6ではC5への回答がなく、アギンがそばを十二杯食べ、店主に怒鳴られる場面へ突然飛ぶ。C7にもアギンの劇中の音声台詞があるが、C9の「髷」を手がかりに、C10で解説者Bが話の糸を引き継ぐ。この解説者Bは、便宜上そう呼ぶだけで、実際には別の話し方をする同じ解説者である。
C11以降、解説者Bは筋の内容を完全に説明し、人物の台詞まで解説者Bが言い換える。観客は、そこにわずかな違和感を覚えるだろう。その後、C12で解説者Aが、先ほどの内容は「逸話」だと示す。つまり、これまで語られた内容はすべて虚構だったということだ。
C13では、架空の本『魔性の女狐』が示される。観客は、先ほどの「逸話」がこの本の内容なのかもしれないと推測できる(ただし、明かされることはない)。続いて三つの架空の創作物が置かれる。これは、先ほどの逸話が、アギンにまつわる複数の物語の伝承の一つにすぎないことを示している。
ちなみに、押井守自身が実際に複数のアギンの物語を創作している。読者はそこから自由に考えを広げてみてもよい。さらにC17では、「批判された一つの説」、つまり狐拳遊びへ話題が移る。これによって、後に語られる内容は事実ではない可能性が高いと、あらかじめ観客に告げられる。
それでも押井守は、画面によってその説を表現する。そしてC25で、その説が事実ではないことの根拠を提示する。視覚的なイメージは、言葉による説明よりも強く、確かな印象を与えることが多い。だがこの場面では、観客が目にした確かな画面が、ぼんやりした噂へと変えられ、その後で虚構だと説明される。
まるで観客をからかうかのように、続く場面では、あらかじめ虚構だと宣言しておきながら、わざわざ画面を与えてくる。

| ショット番号 | 劇外の語り | 劇中の台詞と画面 |
|---|---|---|
| C1 | なし | 店主がテレビのスポーツ映像を見ている。客が来る(問い)。 |
| C2 | なし | 背景は議事堂。アギンが入店する(答え)。 |
| C3 | なし | アギンがそばを注文する(問い)。 |
| C4 | なし | 店主がそばを出す(答え)。 |
| C5 | 解説者Aがアギンの行動パターンを紹介・説明する。 | アギンがコロッケを注文する(問い)。 |
| C6 | なし | 店主がアギンを怒鳴りつける。 |
| C7 | なし | 二人が言い争い、店主はアギンがそばを十二杯ただ食いしたと責める。 |
| C8 | なし | アギンが振り返るリアクションショット。 |
| C9 | なし | アギンの髷(箸)のクローズアップ。 |
| C10 | 解説者Bが、店主がアギンを怒鳴りつける場面とアギンの反応、アギンの髷、アギンの「美しさ」、店主の次の反応を描写する。 | 画面は解説の描写に対応する。 |
| C11 | 解説者Bがアギンの店主への台詞を言い換えて伝え、アギンが立ち去る様子を描写し、続いて店主の台詞を言い換えて伝える。 | 画面は解説の描写に対応する。 |
| C12 | 解説者Aが、以上の内容は「逸話」だと明示する。 | アギンと議事堂。 |
| C13 | 解説者Aが、「逸話」の中でアギンが美女として描かれた理由を分析する。 | 書籍『魔性の女狐』。 |
| C14 | 同上。 | 媒体不明の『昭和女侠伝』(推定)。 |
| C15 | 同上。 | 書籍『女狐アギン』。 |
| C16 | 同上。 | 映画『荒野のトロツキスト』。 |
| C17 | それまでの話題を締めくくり、「学者から酷評された」遊び「狐拳」を描写する。 | アギンが店内で「狐拳」の構えを取る。 |
| C18 | 解説者Aが「狐拳」を紹介する。 | 画面は解説に沿って「狐拳」を描写する。 |
| C19 | 同上。 | 店主が妄想をする。 |
| C20 | 同上。 | 「狐拳」で遊ぶ場面。 |
| C21 | 同上。 | 同上。 |
| C22 | 同上。 | 同上。 |
| C23 | 同上。 | 同上。 |
| C24 | 同上。 | 同上。 |
| C25 | 解説者Aが、「狐拳」の遊びは虚構だと告げる。 | 暗転。 |
この手法のほかにも、音と画の真実性の揺らぎや不一致には、別の現れ方もある。前述したモスラの場面では、意図的な偽のショットが使われている。
……原子熱線砲の模型が見つからなかったので、代わりにMarker-light FAHPを使った……
画面と解説の描写が、まったく別物になっている場合さえある。真実と虚構は画面、音声、出来事の中に満ち、すでに真偽の組み合わせを一通り埋め尽くしているのかもしれない。
この様式化された語りのもとで、押井守が観客に手加減していると言えるのは、他の押井作品とは異なり、観客がしばしば「自分はどこにいるのか」と疑うような曖昧さを、ここでは手放しているからだ。押井守自身が犬養喜一を追う語り手となり、観客と対話を行っている。
人格化された人物が不在であるだけでなく、人格化されたカメラ、つまり人格化された視点も同時に不在である。そのため観客は、論文の読者に似た立場で、押井守独特の人物体系が表現する、明瞭な真実/虚構の対概念を「明瞭に」観察できる。
それなら、筆者はこう断言してもよいだろう。押井守独特の人物体系と、彼の真実/虚構をめぐる曖昧性は、互いに照らし合っている。
鈴木敏夫は押井守をこう評した。
宮崎駿は感情豊かな主人公で観客を感動させる。一方、押井守は登場人物を客観的に見つめて創作し、無表情な演技を徹底的に実現している。
おそらく押井の立場は、すでに「見つめること」をはるかに越えている。不確かな身体によって非人格的な人物を構成する方法に押井守が習熟しているのなら、押井守の世界から「表情」が失われ、無機的なものや風景へ近づいていくのは、当然のことだろう。
この限界を打ち破った押井守は、映像において――現在なお「アニメーションと区別されている」実写であれ、「結局はアニメーションになる」アニメーションであれ――無制限の足し算と引き算が可能だと主張する。『立喰師列伝』では、彼の目に最後に残っていた「壁」、つまり俳優までもが素材へと改造された。
字義どおり、俳優がスタッフ、つまり人間としての役割を持つなら、人間である監督は、人間である俳優を完全には制御できない。しかし、俳優が素材であるなら、無意識のうちに少し首を傾けることも、まばたきをすることも不可能になる。すべてが監督自身の制御下に置かれる。
こうして映像のすべてが、創作者によるまぎれもない創造として成立する。そして、その成果は、まぎれもない模倣の蜃気楼として成立する。
本作の分析が示すように、多くの作品の曖昧さは、観客に曖昧な解釈を期待する。押井守の曖昧性が期待するのは、曖昧さそのものを明確に読み取ることだ。限界を突き破った押井守は、街の東端から西端へまっすぐ歩き、まるでデモンストレーションのように、また戻ってきた。
語りのスタイルを見た後は、当然、本作の物語内容を論じる必要がある。明らかなのは、立喰師の歴史という虚構が、現実の歴史の上に重なり、真実/虚構に新たな次元を加えていることだ。
一般に、冒頭で述べたように、内容を中心とする作品は、形式を中心とする作品に比べ、地域的な制約が強い。文化や歴史など解決しにくい問題を除けば、ここから先は翻訳の美学の問題になる。だが、それは筆者の志すところではない。
知識人の理論的啓蒙から大衆への宣伝へ、「総括」や「自己排斥」へ、あるいは文化侵入としての「ビーフ」「ハンバーガー」「ディズニーランド」へ、さらにはインド放浪へ――筆者は、この種の角度から本作に切り込むつもりはない。
細かな問題について長大な議論に陥るのを避けるため、「現実の都市」の外部にある「幻想」の産物としての遊園地など、各物語の局所的な分析も展開しない。筆者が意図しているのは、もっと全体的な角度から、本作の物語に構成された、きわめて様式化された対称性を分析することである。
出発点として、まずテクストの各所に現れる対応関係を見よう。たとえば、銀二とサブが最後に発する、同じ並列の形式を持つ台詞である。
ある者は銀二は長身痩躯の老人にして常に漆黒の二重回しを纏うと伝え。そしてある者は軍帽の庇を深くして双眸を窺わせず、憲兵の外套を羽織る剛直のものなりと伝う、その素性についても神農を奉ずるもの世間士なりと言いあるものは山人の流れにして西行を為し境地に達するものなり言うものがあれば旧満鉄調査部の諜者なりとしたり顔にて答えるものあり。
ある者はサブは再びアジアを放浪し、某国で肝炎を患ってその地に没したと語り。またある者はカルカッタの路上で喰い歩きをしているサブを見たとも言う。そもそも中辛のサブなど存在しなかったあれは本物のインド人の亡霊だったのだと真面目な顔で語る者もいる。
この対称性は、テクスト上だけに現れるのではない。まず容易に気づくのは、本作の前半と後半が、完全に反対の二つのスタイルになっていることだ。俗に言えば、前半はおなじみの「鴨式」の眠たい映画の味であり、後半はおなじみの「鴨式」の小話の味である。
さらに、内容から見ても、解説台詞から見ても、本作が二人一組で四つの部分を構成していることがわかる。立喰師の伝説、立喰師の自己崩壊、立喰師の自己確立、立喰師の終わり。この四つの過程は、古典的な「旅程型の筋」そのものである。
「啓蒙」「神話」「伝説」といった語の登場も、『立喰師列伝』の物語が「戦後の思想」の旅を構成していることを示している。この「旅程型の筋」は、物語形式における対称性と、物語内容における下降という特徴を、自然に備えることになる。筆者はこの特徴を図8にまとめた。

このような対称的な旅を構成するために、実際には最後には「意味を失った」サブを、もっと自由に扱う方法もあったはずだ。しかし作品中で押井守は、前述したテクスト上の対立を意図的に構築した。言葉を放棄する出来事や人物の経験、放浪から帰国した者などを特徴とする筋を配置し、物語全体がより厳密な対称性によって完成することを示したのである。
多くの読者は、筆者が図8をもとに、本作をハーバート・クエインの『三月四月』や『陳述』と比較することを期待しているかもしれない。しかし紙幅の都合で、ここではやめておく。筆者が指摘したいのは、この神話的な旅程型の原典的な筋(canon)が、内容の形式という意味において、立喰師に神秘的な色彩を加え、同時にその「自作神話」にいっそう説得力を与える働きを果たしていることだけである。
このように形式も内容も備えた作品を完成させたのだから、おそらくこれは押井守が最も楽しく作ったアニメーションだったのではないか。本作は、押井守の頭の中に早くから保存されていたわけではないし、分析の結果として客観的に現れたものでもないはずだ。
『うる星やつら』の時代には、まだ単純な構想にすぎなかったが、すでに立喰師を体系化したいという欲望があった。図9は、そのころ登場した立喰師たち、サブ、牛五郎、哲、アギンである。当時の立喰師は、居残り派、クラッシャー派、帝国派、さすらい派、演技派などに分かれていた。押井守の頭の中で二十年以上発酵し続け、いまではまったく異なる姿を見せている。

物語テクストは、美しい対称形を構成している。そして前述した「旅」の形式が必然的に予示するように、戦後の歩みとともに、立喰師の存在意義(raison d’être)は下降している。先ほど述べた、意味を失ったサブのように。
「都市伝説」となったサブは、平成の時代においても、さらには現在の令和においても、何の影響もなく成立するだろう。これは、押井守が考えている「平成以後の時代は、すでにテーマを失った」ということに通じる。
一九五六年にはすでに『経済白書』が発表されていた。それでも現在に至るまで、押井守の、あるいは日本の「戦後」は終わっていない。
厳密に見れば、押井守が理想とする立喰師は、「啓蒙」、あるいは「啓蒙にも満たない宣伝」である銀二とアギンだろう。彼らこそ、本当の意味で「事を成す」立喰師である。下降の過程に沿って見ると、前半の人物たちの悲惨な経験は考えさせるものだが、後半の人物たちは、ひょっとすると笑いを誘うだけかもしれない。
「避けられない下降」「あらかじめ定められた喪失感」あるいは「役に立たないと知りながら、それでも行う戦い(戦争)」。これはまさに「戦後日本」によく見られ、日本の創作者の大多数を縛り続けてきた創作上のテーマである。
「銀二の逆襲」は、本作の開かれた、しかし確かな答えを持たない結末である。しかし、押井守が最も好む『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のように、無限の未来を信じさせるものではない。それは、同じく確かな答えを持たない『スカイ・クロラ』の結末を想起させるだけだ。
では、『立喰師列伝』もまた、曖昧性を表現し、前途が見えない作品なのだろうか。
筆者は、押井守作品の中で一つのパズルを完成させることによって、答えを見つけられると信じている。物語の次元で、『立喰師列伝』が過去の立喰師を反構築していることに注目してほしい。
具体的に言えば、『御先祖様』に登場する犬丸は、確かに詐欺事件の被害者である。だが本作に登場する、自己排斥を旗印にする犬丸たちは、物語を捏造するという特徴を共有している。
『機動警察パトレイバー』では、マッハ軒の政は太田に矯正され、改心し、二度と小さな盗みをしなくなる。これは、総括のために死ぬ政と完全に反転している。
テロリズムの気配を持つ牛五郎と哲は、『うる星やつら』では面堂終太郎に雇われた助っ人にすぎない。
観月の銀二は、『紅い眼鏡』で立ち食いそばを規制され、澄まし汁のそばしか食べられない。「名もなき銀二」と名乗り、情報屋をしている。
この意図的な反転を、過去の創作作品が虚像だとするなら、その反射のこちら側にあるのは、疑いなく押井守自身の実像である。虚構の終点を追い求める中で、押井守はドキュメンタリーの形式によって自分自身を記録する。それこそが、押井守が「自分の真相を宣告するドッペルゲンガー(二重身)」なのである。
「確信的推測」という台詞は、劇中で繰り返され、モチーフ(motif)となっている。確かに、押井守には証拠が見つからない。『御先祖様』における黄色い飛行船の台詞も同じだ。
口先三寸、舌先三寸、証拠がないなら、ここから消えろ!
黄色い飛行船は、『機動警察パトレイバー2 the Movie』でも、同じく虚構の記号として現れる。
押井守は、感覚によって自分の結論を見つけるしかない。しかし理性的な証拠や証明を欠いているため、「あらかじめ定められた喪失感」を、気が進まないまま受け入れるしかない。
そして心の中で、彼の戦いは「次の戦争」(今度の戦争)ではなく、「これからも続く戦争」(今後も戦争)である。「standing on the moon」は、結局のところ到来する。それは創作における彼の粘り強さとも同じなのだろう。
樋口真嗣は本作に嘆息し、過去の押井守作品が人を欺いてきたような感覚に身震いした。
これは押井守の映画ではない。押井守自身だ。
ここまで本稿を振り返ると、筆者は散漫にいくつかの妄言を重ねてきた。読者に、自分が独り言を言っているだけだと思われるのではないかと、ひどく心配している。同時に、「押井守が何を言っているのかわからないなら、押井守が何を言っているかを教えても、やはり押井守が何を言っているのかわからない」という、押井守によくある奇病に取りつかれることも恐れている。そのため拙文では、話の途中で突然脱線することが多かった。
それでも、『立喰師列伝』について筆者が伝えたかったことは、すべて読者諸君に捧げたつもりである。もし何か留保があるとすれば、それは押井守作品に広く存在し、本作にも現れる、劇的な台詞によって表現された創作観の自述テクストである。だが、これらは真とも偽ともつかないテクストであり、筆者自身、「確信的推測」の段階にとどまっている。実証する方法は、実際のところない。読者も本作を見ながら、身をもって感じたことだろう。
それならば、筆者はこの拙文を、アマチュア愛好家の情熱に満ちた「案内」と勝手に定義したい。拙文最大の見どころは、〇〇年に書かれた〇〇〇文であることだろう(笑)。
最後に、善意から読者に注意しておきたい。鮮族冷麺を受け入れられないなら、そばを本当に試してみるのはやめたほうがいいかもしれない。
翻訳の混乱を避けるため、筆者は中国語の文章を、より流暢な表現の基準として用いている。正確な表現については、示された外国語を基準にしてほしい。誤りが多い点については、どうかご指摘いただきたい。
論理が明晰で洞察に富む押井守論については、『首都決戦と劇場版2の演出比較分析』『不安の足し算』を参照されたい。
参考文献・関連読書
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寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』KADOKAWA/角川書店(1975)
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押井守『立喰師、かく語りき。』徳間書店(2006)
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Bordwell, David. Narration in the Fiction Film. University of Wisconsin Press(1985)
-
Bordwell, David. Making Meaning: Inference and Rhetoric in the Interpretation of Cinema(1991)
-
押井守『すべての映画はアニメになる』徳間書店(2004)
-
『アニメ監督 押井守 妄想を形にする 密着ドキュメント』NHK(2008)
-
Bazin, André. What Is Cinema? Trans. Hugh Gray. Berkeley: University of California Press(1967), pp. 16–40.
-
Winston, Brian. “Claiming the Real II: Documentary: Grierson and Beyond.” Documentary Film(2008)
-
Jorge Luis Borges, Ficciones(1944)