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『攻殻機動隊』、あるいはあまりにも曖昧な押井守

三分間の都市映像を出発点に、縫合、時間イメージ、純粋な生を手がかりとして、押井守の唯物論と、作家としての立場に残る曖昧さや揺れを問う。

著者: Hisui翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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アブラカダブラ

『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995)で押井守の天才が遺憾なく発揮されているのは、間違いなく、まるまる三分間に及ぶ都市の情景ショット、いわゆる空ショットである。そのあいだ観客にできるのは、果てしなく続く客観ショットを追いながら、「見る者」、つまり素子とバトーの幻聴の源をむなしく探すことだけだ。

『攻殻機動隊』の草薙素子

われわれは、この一連のショットをどのような意味で理解すべきなのか。もちろん、最も拙劣な説明は「縫合」(suture)の次元に答えを求め、この連なりを人形使いの現れとするものだ。まず、観客に(想像的な)直接の喜びをもたらす画面がある。次に、フレームの存在に気づくと(ここでは頻繁なショットの切り替えがその役割を果たし、われわれはいつまでも全景を得られない)、映像を操る(不在の)〈大他者〉、すなわち人形使いを探し始める。最後に、望みどおり、その不在者を含む画面が与えられる。こうして、フェティシズム的な否認という形を通じて(「ショットを操っているのが彼ではないことは知っている、でも……」)、われわれはこの観察者を物語の中へと取り込む。

まさにこのように、ショットを人形使いに預けるという(ある意味で卑劣な)手段によって、われわれは自分を客観的な観察者の位置に保っておける。ヒッチコックが『鳥』(1963)で観客に与えた屈辱を、味わわずに済むのだ。鳥の群れがカメラの背後から画面に入ってきたとき、われわれは突如、自分が「邪悪な神」であることを思い知らされる。他方、こうした説明を嘲笑しつつも、ここでリルケの詩句を思い出さずにはいられないのではないか――1

なぜなら美とは、ただ
われわれがかろうじて耐えられる偉大さの一隅にすぎない
われわれが美に驚嘆するのは、それが優しくも
われわれを滅ぼすことをよしとしないからだ

この詩句の変奏は、ラカンの二つのセミネール(S7、S11)に現れる。アンティゴネの美が現れるのは、彼女が「自らの欲望について譲歩しない」ときである。そして不可能なものに「美」を与えることで、われわれは(アンティゴネと同じように)欲望の終点――自己破壊――に達する手前で、足を止められる。これこそラカンの芸術観でもある。芸術はつねに、不可能性をしるす〈物〉(das Ding, the Thing)の周囲に構築される。ならば、これこそ映画芸術における縫合の働きではないか。われわれが「見る者」を必要とするのは、断片化した画面と、どこから聞こえるのか分からない声に直接さらされる境遇から、救い出してもらうためだ。仮にこのショットの連なりが、あらゆる意味で唐突かつ奇妙な『ゼイリブ』の八分間の格闘場面ほどに引き延ばされたなら、途中で席を立つ観客が必ず出るだろう。想像に難くない。

あるいは、この三分間の空ショットを、モダニズム芸術のトラウマ的な要素として捉えないとしたら? 押井守の示すイメージを見つめてみたらどうだろう?(つまり、現実界にある〈物〉を象徴化しようとしたら?)2 飛行機が見える(水面に映る姿は、むしろ一羽の……鳥のようだ)。ネオン、ショーウィンドーのマネキン(『ブレードランナー』〔1982〕を思い出さずにはいられない)、等々。ここでは、これらのイメージを素子の「性格」の比喩へと還元する読みを退けなくてはならない。その読みが取り逃がす次元とは、まさにこれらのイメージそのものだと言える。見えているのは、一つの都市なのだ。そして、この都市を見せるために、われわれは三分間の「停滞」に耐えなくてはならない。この時間は物語の語りの外に置かれており、「論理的時間」とは違って、ショットの切り替えにはまったく「論理がない」。

ここで思い起こすべきは、押井守に多大な影響を与えたアンドレイ・タルコフスキー(Andrei Tarkovsky)だ。この都市のシークエンスは、容易に『ストーカー』(1979)のショットを連想させる。タルコフスキーが水面すれすれのカメラで「ゾーン」の淀んだ水をなぞるとき、われわれはやはり、この「停滞」を経験する。まるで大地の質量が――相対論的に――映像の時間を歪めているかのようだ(ここでの「大地」は、ハイデガーの文脈で論じてもまったくかまわないし、むしろそうすべきである)。

『ストーカー』で水面越しに捉えられた図像と硬貨

では、(物語の)象徴界の時間にも、現実(reality)にも属さない、この現実界の時間はどうか。それはまた、押井守の映す都市の極端な曖昧さをも指し示す(もちろん、この都市像が香港/ロサンゼルスを描いたものにほかならないことは分かっている。それでも、背景音楽が奏でられると、そこに何か深い意味があると思ってしまう……)。この時間が指し示すのは、まさに対象 a の享楽が物質化したものではないか。3「物語の外を流れる時間」は、モダニズム芸術における「二つのフレームのあいだ」を直接に指し示す(最初にこれを露わにしたのは、マレーヴィチの《黒の正方形》だった)。そこに現れるのが、エドヴァルド・ムンクの《マドンナ》(1893–1894)に描かれた、恐怖だけを宿す赤ん坊である。4 そして、この人間ならざる(純粋な)生の極限的な現れは、われわれをカフカと、そのオドラデクへと連れ戻す。5

むなしいことだが、私は自分に問いかける。これからあれはどうなるのだろう? 死ぬことがあるのだろうか? 死ぬものはみな、生きているあいだに何らかの目的を持ち、何かをし、そのために命を終える。だが、オドラデクにはそれが当てはまらない。では、あれはいつまでも糸の端を引きずりながら階段を転がり落ち、私の子供たちの足元へ、さらにその子供たちの足元へと転がっていくのだと、考えなければならないのか? あれが誰かに目に見える害を与えるわけではない。だが、あれが私より長く生きるかもしれないと思うと、かすかな痛みを覚える。

オドラデクが指し示す〈物〉―享楽は、さらに三つの次元へと展開できる。

  1. 第一は法―イデオロギーである。この次元は、都市のシークエンスを「性格の比喩」として読む解釈に、すでに戯画的に現れている。われわれはそこから素子の性格だけでなく、都市/大都会としての香港―ロサンゼルスの性格をも読み取れるのだ――都市にも性格なるものがあるのなら。ここで出会うのは、マルクス―アルチュセールの古典的な問題である。「上部構造」と「下部構造」、「イデオロギー」と「生産関係の再生産」とのあいだにある、謎めいた分裂(あるいは短絡)。われわれが向き合っているのは、物質としての城塞や川やネオンだけでなく、幽霊のようにつきまとう「精神」でもある。最良の例は、『攻殻機動隊』の公開時期と香港返還の時期が近接していることだ。1995年の時点で、物質的には何も変わっていなかった(そして変わることもない)としても、そこに住む者たちはなお、途方もない不確かさと不安を感じ取れたのだ。

  2. 第二は快感―サントーム(sinthome)、すなわち、癒えることもなければ死なせてもくれない傷である。この厄介な過剰、「私のうちにあって、私以上のもの」という部分が、映画芸術で直接に現れるのは、まさにタルコフスキーや押井守による運動イメージ(movement-image)から時間イメージ(time-image)への置き換えにおいてだ。運動イメージとは異なり、時間イメージはもはや、何かを観客に見せ、観客がそれを見るという関係のためにあるのではない。それは時間に直接かかわるイメージを与え、しかも物語から逸脱する運動として現れるわけでもない。したがって時間イメージは、時間の生産(力)と、主体の外にある時間の運動とを指し示す。これは、ラカンが1954年から1955年にかけてのセミネール『フロイト理論と精神分析技法における自我』(S2)で触れた「自然の時計」と、容易に結びつけられる。

    自然という大時計はただひとりでに動き、自分がいなくても時を告げるのだと人間が考えた、その瞬間に、科学の秩序は生まれた。科学の秩序は、人間が自然を司るなかで、その忠実な召使いとなることにかかっている。人間は自然に従うことによってしか、自然を支配できない。奴隷と同じように、主人に仕えることで、主人を自分に依存させるのだ。

    したがって時間イメージは、電子映像やデジタル技術と密接に結びついた、別種の記憶あるいは記録のあり方を示している。ここから、この「傷」をドゥルーズの機械へと結びつけることもできるかもしれない。われわれの主体性は、いかにして「欲望機械」、あるいは無限に複雑な一台の機械としての脳に依存しているのか。肉体―主体を機械によって補うことは、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)から『攻殻機動隊』、『serial experiments lain』(1998)へと至る、人間―サイボーグというモチーフの展開でもある。環境としての機械―身体としての機械―「精神」としての機械という連なりのなかで、われわれの主体性は次第に問い直されていく。このような機械は、ドゥルーズの「器官なき身体」(Body without Organs)を反転させた、「身体なき器官」(Organ without Body)なのだ。

  3. 第三は第二の変奏、他者―純粋な生としてのオドラデクである。ここまでの議論を続けるなら、機械―サイボーグが迫ってくることへの不安は、「隣人」という深淵の次元が迫ってくることへの不安でもある。われわれは見すぎてしまったために、「人間」のうちにある、耐えがたい「非人間的なもの」の次元を垣間見てしまうのだ。ヒッチコック(の狂想)からウォシャウスキー姉妹(の映画)へ至る道のりに対して、キェシロフスキのドキュメンタリーから劇映画への敗走には、逆方向の動きを読み取れないだろうか。ヒッチコックの究極の夢は、映画のスクリーンを取り払い(視覚技術としてのスクリーンとラカンの幻想との親縁性に注意しよう)、機械から直接、喜怒哀楽を出力することだった……こうして得られるものこそ、母体―マトリックス(Matrix)ではないか?

ここで、『ブレードランナー 2049』(2017)の逆説について論じておく必要がある。われわれがコンピューター技術を歓迎する一方でサイボーグを拒む、その境界線こそが物語の症候なのだ。機械とレプリカントとAIとを線引きすることは不可能である。そしてK(またしても飽きもせずカフカに触れることになる)がデッカードに示す(新自由主義的な)寛容さは、その寛容の限界をも露呈する。「隣人を愛せよ」。だが、その後はどうなる?

『ブレードランナー 2049』のK

この「非人間的なもの」の次元の頂点にいるのは、K自身である。自分の記憶が信頼できるかどうかさえ確信できない「人間」、自分の身体しか残されていない「人間」だ。押井守が「リミテッド・アニメーション」の「リミテッド=制限された」という性質を突き詰めたように、ここでも人物の動きは最小限にまで切り詰められている。Kは、マルクスのいう「ルンペンプロレタリア」、生産過程の外に排除された「人間」である(スピノザ―ドゥルーズの用語を借りれば、ここで論じているのは別の次元の生産、すなわち情動〔affectus〕の生産だ)。彼は「無以下」(less than nothing)なのだ。そして、こうした「純粋な生」、あるいは「ホモ・サケル」(homo sacer)の死の欲動に訴えることでしか、資本主義は存続できない(死の欲動が指し示すのは、ほかならぬ死の反対、すなわち不死である)。

ここでタルコフスキーに戻るなら、「遊牧するプロレタリアート」の曖昧さがはっきりと露わになる。「大地」と「(現実界の)時間」への忠実さは、タルコフスキー自身においては、宗教的蒙昧主義へ、そして『ノスタルジア』(1983)や『サクリファイス』(1986)に見られる無意味な献身へと傾いてしまった(もう一つの例はキェシロフスキかもしれない。彼もまた、現実界に固執することで、「救済」をもたらす劇映画へと帰っていった)。それは、〈物〉から距離を取ろうとする絶望的な行為である。しかし他方では、ストーカーの姿勢を主人のディスクールと結びつけることもできる。騒がしい自然の音と背景音楽が接するところに、われわれはレーニン主義的な決断さえ見て取る。「愚かな」固執から、信仰の体系を丸ごと打ち立てること……。そして「遊牧するプロレタリア」自身も、二つの極のあいだを揺れ動く。一方では「世界の夜」となり、象徴秩序の不正を直接に告発する(強制収容所を経験した者から、グアンタナモの囚人まで)。他方では、暴力的な国家装置の一部となる(支配者が裏社会といかに結託するかを、われわれはつい最近、目にしたばかりではないか)。

同じ問いは、押井守にも向けられなければならない。彼の作品は、どのようにこの社会と向き合っているのか? ただ「儀礼を通じた抵抗」によって、サブカルチャーと主流文化の言説の協働、抵抗、闘争に訴え、「消費主義の内部で消費主義に抵抗する」だけで十分なのか? われわれは勇気を持って(痛みを伴いながらも)、この事実を認めるべきだと私は思う。彼の政治的立場が最もむき出しになった『機動警察パトレイバー2 the Movie』以後でさえ、押井守のテクストは、オタク文化―オタク―日本社会という連なりのどこにも変化をもたらせず、振り返って考え直すきっかけすら作れなかった。逆に、目にするのは、アニメ業界が彼の「静止」を取り込んだことだ。『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(2008)で完全に敗北し、情愛に譲歩することになる押井守の衰えは、『攻殻機動隊』の時点ですでに垣間見えている。彼はこのとき、あと一歩で(タルコフスキーの後を追って)『lain』のあの耐えがたい神秘主義へと踏み込んでしまうところにいた。物理的な身体を捨て、代わりにLCLのような享楽の海を追い求める神秘主義へと。

『serial experiments lain』のイラスト

これは(押井守を含む)日本の左翼政治の比喩でもあるのかもしれない。60年代に闘争を繰り広げた学生たちは、自らの暴力の背後にあるラディカルな立場を引き受けられなかった(後年の評価によれば、運動の参加者の大半が求めていたのは、ただ「より幸福な日常」だった――物語の最後に玲音がしたことも、結局「調和のとれた家庭」を取り戻すだけだったように)。運動の敗北後、学生たちはかつての信念を捨てるか(その最も顕著な表れの一つが、村上春樹の『ノルウェイの森』〔1987〕における、「突撃隊」とあだ名される人物の描き方である)、さもなくばヒステリーに陥った。あさま山荘へと向かう連合赤軍、そしてその後の*****へと。

だが、最後に押井守と彼の『攻殻機動隊』を擁護しておくなら、彼はこの一歩を前にして、ある唯物論を守り抜いた。素子はバトーの問いに答えることで、彼の連続性に偽りの保証を与えたり、シンジや玲音のように人の姿で現れたりはしなかった。逆に彼女は、自由に漂う声となったのだ。声こそ、究極の身体なき器官、究極の「症状」ではないか? 彼女は絶えず、今日のわれわれの主体性がいかに頼りないかを思い起こさせる。サイバースペースで「言説」へと還元される人間、そして……〈大他者〉が意味を与えることのできない、あの「声」の残余の存在を思い起こさせる。確かに、これによって、作家としての押井守と左翼青年としての押井守との埋めがたい分裂に、納得のいく――あるいは人を「幸福」にしてくれる――解釈が与えられるわけではない。だが、われわれにも背負わなくてはならない責任がある。(ポジティブ心理学まがいの)愚かな妥協を差し出さない、という責任だ(『機動警察パトレイバー2 the Movie』に押井守が残した「手紙」が告げるのも、地上に平和ではなく戦いをもたらすということだ6)。この傷を癒やし、この「過剰な」器官から逃れたいなら、傷/器官そのものにならなくてはならない。「それのあるところへ、私は必ずついてゆく」(Wo es war, soll Ich werden)。7


編集者注: 著者によれば、この記事を書いていたときに彼女が本当に気にかけていたのは、押井守ではなく……スラヴォイ・ジジェクだった。容易に気づくだろうが、著者は意図的とも思えるほどジジェクの名を伏せながら、その議論をほぼ丸ごと残している。結末で問いただそうとしている(そして同時に擁護しようとしている)のも、ジジェクなのかもしれない。ジジェクの理論―実践と、彼自身がスロヴェニア、ヨーロッパ、あるいは資本主義世界に向き合う態度との分裂は、いったい「一つの過ち」なのか(ハイデガーの追随者たちの言い分のように)。それとも、それはすでに彼の理論そのものに内在しているのか(本文で論じられた押井守の曖昧さと揺れのように)。この問いもまた、読者に委ねなくてはならないのだろう。

本文終わり
注07

注釈

  1. 訳注:『ドゥイノの悲歌』第一歌。本記事の中国語引用から訳した。原詩の該当箇所は「恐ろしいものの始まり」(des Schrecklichen Anfang)であり、中国語引用の「偉大さの一隅」とは異なる。「優しくも」も中国語引用に沿った表現。Suhrkamp刊行資料、16頁。 ↑

  2. 訳注:原文では、先に出た「物」に代わって「原质」が使われる。中国語のラカン研究で das Ding を指す語であり、ここでも〈物〉と訳した。中国語の訳語についての研究、125頁。 ↑

  3. 訳注:原文の「享乐/原乐」は、いずれも「享楽」と訳した。後の「快感―サントーム」は原文でも「快感」であり、その語の違いを残している。 ↑

  4. 訳注:年記は本記事の表記を保持した。《マドンナ》には複数の版があり、胎児の図像は絵画に付されていた装飾額と、その図像を取り込んだ版画に見られる。ムンク美術館の作品解説。 ↑

  5. 訳注:カフカ「家父の気がかり」(Die Sorge des Hausvaters)最終段落に当たる。 ↑

  6. 訳注:原記事の引用は「私が来たのは地上に平和をもたらすためではない。地上に戦いを起こすためだ」という意味で、「マタイによる福音書」10章34節に対応する。日本聖書協会の本文。 ↑

  7. 訳注:日本語部分は本記事の中国語の言い回しを訳したもの。併記されるドイツ語はフロイトの『続・精神分析入門講義』第31講の定式で、過去に「それ」があった場所で「私」が生成するべきだという構造を持つ。中国語文では、「それ」についてゆくという追随の意味が前面に出ている。第31講の紹介・抜粋。 ↑

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