重要なのは、神話が語られる時代であって、神話が語る時代ではない。
——ブライアン・ヘンダーソン「『捜索者』——あるアメリカのジレンマ」
【序 夢思考だけではない】
水島精二、會川昇、BONESの組み合わせは、『コンクリート・レボルティオ~超人幻想~』に先立ち、『UN-GO』を送り出している。『UN-GO』と『超人幻想』は、昭和という時代を破壊的に語り直すという点で、ほとんど瓜二つだ。「歴史の記憶」の外にある「幻想」の次元が、二つの作品を微妙な位置に置いている。歴史でもなければ、奔放な空想でもない。むしろ、一つの夢に近い。
もし『UN-GO』も『超人幻想』も、昭和という時代に端を発する夢幻だとするなら、その語り尽くされていない意味を明らかにするには、夢の形式から取りかかる必要がある。「形式によって隠された内容ではなく、その形式そのものの秘密」(ジジェク)である。つまり、「潜在的な夢思考」(latent dream-thoughts)と「無意識の欲望」(unconscious desire)を厳密に区別しなければならない。ここでの「潜在的な夢思考」は明らかだ。冒頭で述べたとおり、この夢全体は、情熱に満ちた昭和という時代の語り直しにすぎない。だが、なぜか。なぜ、このような幻想が選ばれたのか。
いささか唐突な結論が、「ゼロ年代の想像力」を代表する作品の一つ、『Fate/stay night』の世界観に隠されている。現代は神秘が退いた後の時代であり、世界を覆すには、神秘がまだ存在していた時代の英霊の力を借りるほかない。これはまさに、『超人幻想』が言い尽くさなかったことではないか。昭和が終わった後の日本は、もはや真に破壊的な力を持たない。だから私たちは、あの情熱の時代の英雄譚を、日常の言葉ではなく、幻想を通してしか語れない。本稿が解き明かそうとするのは、まさにこの夢幻を駆動する欲望の謎である。ある意味では、そこに「神秘が退いた後の想像力」を批判する可能性もある。
【一 「二都物語」】
……生の重要な瞬間における、身振りの強調(誇張)が持つ真実。
——ボードレール1
アニメをただ「画面」と「音」に分解するなら、『超人幻想』は「コラージュ芸術」の典型といえるかもしれない。昭和以来のさまざまなジャンルの映像作品を物語の中に重ねることで、登場人物同士の出会いは、互いの「記号の帝国」へと繰り返し踏み込んでいく出来事として描かれる。第一話だけを見ても、「ウルトラマン/怪獣」という古典的な二項対立に「巨大ロボット」と「魔法少女」が介入し、ついには「怪獣を倒し、平和を守る」という単純な物語を超えていく。こうして都市は、物語の中でいくつもの顔を見せる。爾朗にとっては陰謀の舞台、笑美にとっては自然を破壊したもの、輝子にとっては壊れやすい日常の風景、エクウスにとっては工場、そして兵馬にとっては歴史の必然性でもあるのだ。

一方、私たちは、これらすべてのジャンルから独立した別の次元にも、必ず行き当たる。「物理的現実」としての都市だ。『超人幻想』の物語が、昭和の歴史の記憶——広島への原爆投下、日米安保条約、民主主義運動、全共闘2……——に還元できることは、もちろん否定しない。そしてこの還元によって、分裂した「都市の二つの身体」が現れる。一方は「歴史」と「記憶」の中にある「物自体」、もう一方はシミュラークルとして存在する「虚構」の都市である。
物語全体を成り立たせているのは、この二つの都市の間の隔たりだ。その隔たりは、すでに層を重ねる作画の中に、隠喩として現れていたのかもしれない。表象としての記号の帝国の層(layer)が、歴史の層の上に置かれ、上の層の人物は、下の層の背景へ本当に入り込む3ことが難しい。この断裂こそが、ジェイムソンのいう「深さを欠いたテクスト」を生む。ポストモダンのテクストは物理的現実へと通じず、そこへ至る解釈の深さも与えない。テクストの外にあるのも、またテクストにすぎない。この意味で、ポストモダニズムが繰り広げる間テクスト的な遊戯も、「物理的現実」とは大きく隔たっている。

私たちがこの作品を昭和史の隠喩として解釈しない理由は、ここにある。実際、「超人」と最も深く関わるはずの「超人革命」さえ、むしろ物語の背景として描かれる。クロードとの闘いであれ、里見義昭との闘いであれ、私たちが向かうのは「戦争」ではなく「対決」であり、物語はそこで、不安を残したまま断ち切られる。まるで、決闘の勝敗がそのまま戦争の勝敗でもあるかのように。だがこれから見るとおり、「歴史」を脇に置き、この政治的な物語だけに目を向けても、闘争を対決に還元するこの描き方は耐えがたい。
【二 超人あるいは怪獣の政治】
『超人幻想』において、超人も怪獣も政治の次元を超え出てはいない。超人同士の対決が戦争の勝敗と対応するなかで、「超人」はしばしば、「人」としての側面を退け、より純粋な力を体現する存在となる。この点を踏まえて人吉爾朗の正体を検討すると、私たちはほとんど必然的に、一つの矛盾に行き着く。超人、人、怪獣という単純な区分が通用しなくなるのだ。この言説の逆説を明らかにする一つの手がかりが、「イデオロギー装置」としての帝都広告社(帝告)である。帝告の超人への態度と怪獣への態度がよく似ていることは、両者の区別が失われているという事実を、疑いなく示している。
「超人/怪獣」という対立を、広い意味での「人間ならざるもの」の次元で論じるなら、両者が代表しているのは明らかに、ラディカルな政治哲学(radical political philosophy)の二つの系譜である。ラクラウ的な「言説の政治」と、ジジェク的な「怪物の政治」だ。ラクラウはこうした闘争を「ヘゲモニー闘争」(hegemonic struggle)と呼ぶ。各勢力が「正義」を語ることは、まさに「ヘゲモニー」をめぐる死闘である。このような闘争の構造を、呉冠軍は王冠・神・金銭をめぐる三つの物語の競合を例に、次のように説明している。
……ラクラウのいう「等価性」(equivalence)の連鎖の上で、三つの物語が競い合い、それぞれが自らを「大他者」の位置へと押し上げようとする。自らをこうして押し上げることこそ、ラカンのいう「昇華」の操作である。だが、それが完全に成し遂げられることはない。象徴的な「大他者」は、絶対を名乗ることしかできず、本当に絶対となることはできないからだ。物語は、何度語り直されようと、どれほど多くの人に受け入れられようと、「真理」にはなれない。たとえ一つの物語が、支配的な言説、主流のイデオロギーにまで上り詰めても、ほかの物語から絶えず挑戦を受けるのである。4
こうして「超人」の闘争は、ジジェクの批判する「フランケンシュタイン」型の闘争となる。ジジェクによれば、『フランケンシュタイン』の怪物は、実はフランス革命——うまく語られなかった物語——の隠喩なのだ。議論の出発点である人吉爾朗へ、もう一度戻ろう。物語の終わりに、爾朗の「本当の」正体が明かされる。広島の「リトルボーイ」が人の姿を取ったものだ。ならば彼もまた、ヴィクターが作り出した、あの「制御不能」の「怪物」ではないか。資本主義が自らの過剰を生み出すように、人もまた人の過剰を生み出す。「超人」の正しい書き方は「(超)人」5なのである。超人は「人」と区別されながら、同時に、人であるという本質から逃れられない。
言説の政治の限界も、同じくジジェクの示すとおりだ。主体は自分の「物語」を語ることによって、既存の秩序を変えることはできない。物語はつねに、すでに無意識のうちに、既存の象徴秩序によって定められているからである。象徴秩序に真に挑むもの、その外部へと完全に超え出た主体は、語らない怪獣でしかありえない。ここで、第四話・第五話「日本『怪獣』史 前篇/後篇」が、『超人幻想』というテクスト全体への切り口となる。怪獣こそ自分たちの怒りなのだという宣言は、まさにブレヒトが語ったスターリン通り(Stalinallee)の熱狂でもある。ジジェクはそれをこう記している。
これは、ブレヒトが弾圧によって豊かな未来がもたらされることを期待し、そのために残酷な闘争を黙認した、ということではない。そうではなく、こうした苛烈な暴力そのものが、本物であることのしるし(sign of authenticity)として受け止められ、肯定されたのである。6
だが、「〈現実界〉への情熱」を具体化した存在であっても、メガゴンが「正式に」怪獣となる、あるいは「世界の夜」となるのは、怒りをかき立てられてからだ。エイリアン——あの真の主体——と同じく、メガゴンは自分の創造者を殺し、「言説」による示威を捨て、もっぱら「激情」による破壊を始める。私たちが見ているのは、もう一つの『ファイト・クラブ』だ。革命の出発点である「私」さえ、もはや革命の方向を選べない。破壊の激情を前にして、理性など取るに足りない。何より重要なのは、「スペース・モンキー」を駆り立てる死の欲動が、まずその当人を標的とすることである。

革命の「指導者」が、主人のディスクールから大学のディスクールへと後退する。そのとき爾朗は、相手が何者であろうと、その炎で泣く子どもがいるかぎり自分は闘うのだと宣言する。この宣言が、闘いを方向づける強固な拠り所となる。そして『超人幻想』における唯一の「怪獣」を前に、言説の政治で争う双方は、等しく脅威を感じたように見える。ここで「夢思考」の次元へ戻るなら、メガゴンの出現は、フロイトの語る、あの燃える子ども7にほかならないといえないだろうか。象徴秩序を破壊したいという本当の願望が、怪獣となって現れる。その欲望の〈現実界〉にこれ以上向き合わずにすむように、爾朗は登場し、夢の中の「真の主体」を倒さなければならない。これ以降、物語にはもう怪物はいない。「正義」をどう理解するかという、(超)人と(超)人の食い違いだけが残る。
【三 「自由」の亡霊】
この「怪獣」の排除において、私たちは再び、『超人幻想』のテクストと歴史の断裂に行き当たる。『超人幻想』の言説の政治では、どの陣営も、イデオロギー上の指導者である特定の超人のもとに集まり、自分たちの「正義」のために闘う。だが、この運動の捉え方は、現実の運動のあり方とすでに矛盾している。バルトは全学連について、こう記している。
全学連の暴力行動は、その計画に先立って生じるのではなく、計画と同時に生じる。それはただちに一つの記号となる。何も表現しない——憎悪も、憤慨も、いかなる道徳観念も表現しない。むしろ、市庁舎の包囲・占拠や鉄条網の一掃といった別の目標へと移されるなかで、自らを解消してしまう……。純粋に実践的な行動は、それらの象徴的記号を括弧に入れ、その指示する意味を探ろうとはしない。その主題を利用しながら、そこにはいささかも手を触れないのである。8

写真下部のフランス語「Etudiants」は「学生たち」の意味。
ならば、「正義」を解釈するという行為こそが、運動の真のラディカルさを去勢するのではないか。運動の情熱は破壊に由来する。ベンヤミン的な「神的暴力」に由来する。それは、「歴史の天使」(the angel of history)による、「進歩」という名の不正義の清算なのだ。これにさらに解釈を加えることは、すべて、ヨブの神学者の友人たちが犯した過ちに等しい。全知全能の存在に訴えかけ、出来事をなかったことにしようとするのである。ところが、この過ちが『超人幻想』の基礎をなしている。闘いが始まる前に、私たちはいつも、双方の「正義」の理解がどう衝突しているのか、なぜ闘わざるをえないのかを知らされる。だが、私たちはみな知っている。運動に参加した人々が、どれほど具体的な「自由」のために闘っていたとしても9、ここでの「自由」は空虚なシニフィアンにすぎないのだ。

だからこそ、『超人幻想』による「神的暴力」の解釈には失望させられる。純粋で崇高なこの爆発が、社会(あるいは家族)の内部の「衝突」として描かれ、しかもつねに「感情」を軸に展開される。爾朗とクロード、爾朗と里見義昭。この二組の対立には、どちらにも奇妙な絆が与えられている。こうして言説の政治で争う双方は、まるで「身内同士が刃を向け合う」悲劇を演じているかのようになる。まさにここで、闘争の真の残酷さが消し去られるのだ。
こうして、正義や感情の物語に収められることで、「神的暴力」は「神聖な暴力」へと格下げされる。それとともに、残酷さを失った昭和運動史としての『超人幻想』は、別の解釈の枠にも収まってしまう。物語が設定する「絶対的な正義はありえない」という前提のもとで、各陣営が自らの「正義」を貫こうとする闘争は、もはや宇野常寛のいう「決断主義」にほかならない。
世界が「正しい価値」や「生きる意味」を明示してくれないことは、当然の「前提」である。その前提のもとで自分の世界に溺れつづけていては、この社会を生きていけない。だから「現代の想像力」は、生き延びるために、自分で考え、行動するという態度を選ぶ。たとえ「間違い」を犯し、「他人を傷つける」としても、自分の立場を選ばなければならない。ここでは「突き詰めれば、選ぶ対象に根拠はない」という考えに立ち、特定の価値観を「果敢に」選び取る、そうした決断の態度が形づくられる。10
ただし、「決断主義」が生まれた背景を忘れてはならない。九・一一と、小泉改革がもたらした「格差社会」という意識だ。注目したいのは、「決断主義」が、争う双方をともに「正義」に執着する「似たような哀れな者たち」として描く点である。そこには、新自由主義的な寛容も隠れてはいないか。「(超)人」と「人」という問題に引きつけ、再びジジェクを、今度は『ブレードランナー 2049』批判から引いて、この節を締めくくろう。
映画に潜むヒューマニズムのメッセージが伝えるのは、自由主義的な寛容である。愛などの人間的な感情を持つアンドロイドには、人権を与え、人間として扱い、私たちの世界に迎え入れるべきだ、と……。だが、彼らが本当にやって来たとき、私たちの世界は、なお私たちのものなのだろうか。11
【四 一九六八年の消失】
こうして新自由主義の文脈にまで行き着いたところで、本稿の冒頭に戻ってみよう。私たちが向き合っているのは、昭和という時代の歴史の記憶の語り直しである。ところが逆説的にも、さまざまな手段を通じて、あの真に情熱的だった時代から遠ざかっていく。左翼の文脈で捉える戦後運動史は、疑いなく、自発的で、妥協を拒み、温かさより残酷さに満ちたものだった。だが、私たちに与えられるのは、「幻想的」で、「言説的」で、「憐れみに満ちた」闘いにすぎない。ならば、形式から内容に至る、この三枚のヴェールは、どれも例外なく、衝撃的な歴史の「真実」を覆い隠そうとしているのではないか。
あの情熱の時代を振り返ってみよう。同じく一九六八年に吹き荒れた「五月革命」は、徐々に殺されていった。革命と反動が対峙する世界像は、文化産業と一連の「哲学」によって引き裂かれた。それに取って代わったのが、ヌーヴェルヴァーグの映画、カウンターカルチャー、ラディカルな哲学である。一九六八年が繰り返し書き換えられるなかで、資本主義が収めきれないものは消され、残りはことごとく取り込まれた。日本では、運動を縛る道徳主義と七〇年代の経済的飛躍によって、若者たちはもはや「転覆」や「変革」に力を注がなくなった。後に残ったのは、共産趣味と、リビドー経済に囚われた異議申し立ての担い手たちにすぎない。
いまや、五月革命に向けられたラカンの呪いは現実となった。新しい主人を望む君たちは、新しい主人を手にするだろう、という呪いである。日本の戦後社会運動を駆動した若者と女性は、社会の主流からの圧迫に抗おうとした。その末に、前者はより高い進学率を得て、後者は洗濯機を得た。今日では、どちらも社会機械の生産の鎖にしっかりと繋ぎ止められ、「寛容」を享受している。
革命の歴史が語り直されるなかで政治の次元を剥ぎ取られ、代わりに快楽に執着する「正義」の衝突が置かれたとき、資本主義は一九六八年の爆発を自らのエネルギーへと変える。これはまさに、『超人幻想』の最後の一連のショットではないか。かつての「超人」(と怪獣)は、商品やイメージとして売られ、生き残った超人は、次の世代を守り育てることや、「反社会的な」犯罪者を取り締まることに力を注ぐ。奇妙なことに、彼ら自身もかつてそう呼ばれていたのだが。要求は「願望」となり、闘いは見世物となり、犠牲は「物語」となる。私たちは超人たちに感謝しながら、彼らが再び日の光のもとに姿を現すことは望まない。

これで、私たちはこの問いに答えられる。『超人幻想』という夢思考を駆動するのは何か。答えはもちろん、排除されたオタク(Otaku)である。日本のテレビアニメの草創期にあたる一九六八年は、オタクの歴史からそう遠くない。『宇宙戦艦ヤマト』(一九七四年)の時代に育ったオタクにとって、学生運動の情熱は、とうに自分たちの「原光景」(primal scene)となっていた。だから彼らは、抑圧された者たちの抵抗の歴史に訴えて、自らの欲望を示すのである。だが一方で、オタクの怒りは、社会を成り立たせる基盤には向けられない。「ゼロ年代の想像力」であれ、さらには「震災後の想像力」であれ、最後に目指すのは「生き延びる」12ことにすぎない。あるいは、もっと「まともに」暮らすことだ。だからこの夢は、象徴秩序が本当に転覆してしまわないよう、自らのうちにある〈現実界〉を、用心深く避けて通るしかない。
【五 不可能の可能性】
結論として、『超人幻想』が示すのは、「神秘」が退いた後に私たちが持ちうる想像力である。私たちには、真に破壊的な情熱を再現する力がない。ある意味で、この物語全体は空疎なうわごとにすぎない。昭和の情熱と光景を懸命に描くのは、まさに本当の昭和を語らないためなのだ。「神秘」の時代を語ろうとする努力は、結局、今日の私たちの言説の貧しさをさらけ出すことに終わる。
だが、物語にはなお一つの空白が残されている。爾朗が自らを燃やし尽くした後に開く、「別の世界」への扉だ。爾朗自身は、もう一人の「消えゆく媒介者」13となった。だが『タイタニック』のジャックとは異なり、「ローズ」を救うほかに、もう一つのことを成し遂げている。あの「超人」たち、俗悪さを超えて闘う者たち、取り込まれることを拒む者たちは、本当の火種となり、別の世界でも闘いを続けるのだ。

もちろん私たちは、『超人幻想』の想像力が結局は体制内の凡庸な個人の「成長」に帰着し、歴史の情熱が打倒を願った、まさにその相手に取り込まれることを批判できる。デリダがマルクス主義に向けた痛烈な批判と同じだ。マルクス主義そのものが、ついには資本主義体制内部のトラウマ的な声となり、ブルジョワ主体によって、倒錯的な享楽を求める手段へと繰り返し転用されるのである。だが一方で、私たちはまさにこう指摘すべきだ。快楽が資本主義に取り込まれるのは、快楽を追求しすぎたからではなく、その追求がまだ徹底していないからである。快楽が取り込まれるなかでも、つねに何か「不可能」な残余がある。それこそが、私たちが「超越」を実現する鍵なのだ。
ならば、ここにこそ、『超人幻想』、さらにはあらゆるACG(N)作品14を批評する可能性がある。精神分析やあらゆる文学批評の理論を用いてACG(N)作品を鑑賞するのは、作品を味わい、「素朴に」感動する能力が自分にないことを覆い隠すだけだ——私たちは繰り返しそう非難されてきた。つまり、倒錯した快楽を追い求めているのだ、と。だがラカンは、セミネール第十七巻ですでに答えを示している。ドストエフスキーの格言を、神が死ねばすべてが可能になる、とするなら、その正反対に、神が死ねば、もはや何も可能ではないのだ。権威もなく、権威を尊重することもない時代に、禁令をもたらす父はすでに死んでいる。誰もが、ヒステリックな享楽のうちに、自らを欺くことしかできない。
精神分析は不可能な営みである。だが、あらゆる可能性は、この不可能からこそ開かれる。もう一度ヴァルター・ベンヤミンの考えを借りれば、敗北した革命は、歴史がまだ完結していないことを人々に示しつづけ、成功する革命によって救済されるのを待っている。作品から遠ざかり、さらには作品を殺すようなこの批評の形式を貫き、真の「批評」あるいは「鑑賞」の可能性を待つこと。それ自体が、精神分析の究極の倫理を守り抜くことでもある。
自らの欲望に関して譲歩するな。
——ジャック・ラカン15
参考文献
- スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』(原記事表記『意识形态的崇高客体』)
- スラヴォイ・ジジェク『暴力』(原記事表記『暴力』)
- スラヴォイ・ジジェク『「テロル」と戦争』(原記事表記『欢迎来到实在界这个大荒漠』)
- ロラン・バルト『表徴の帝国』(原記事表記『符号帝国』)
- ロラン・バルト『神話作用』(原記事表記『神话修辞术』)
- 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(原記事表記『零零年代的想象力』)
- 呉瓊『ジャック・ラカン——あなたの症状を読む』(原題『雅克拉康——阅读你的症状』)
- 呉冠軍「言説の政治と怪物の政治」(原題「话语政治与怪物政治」)
編者注:本稿と前の記事は、『超人幻想』というテクストを二つの角度から論じている。二篇を併せて読んでいただきたい。前の記事は「アニメというメディアの形態——『超人幻想』再検討と『社会派』の會川昇」。