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『攻殻機動隊』についての二つの回答と一つの随筆

二つの回答と一つの随筆を収録。『ブレードランナー』と『攻殻機動隊』の進歩観と宗教的イメージを比較し、TVシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』で国家主義が占める位置を分析。さらに柄谷行人を手がかりに、『パトレイバー2』とTV第2期『2nd GIG』を読み直す。

著者: 秘则为花翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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秘则为花

高き岸は谷となり、深き谷は丘となる。

回答:『ブレードランナー』と『攻殻機動隊』には、どんな関係があるのか?

共通点ではなく、違いの話をしよう。

二本の『ブレードランナー』(旧作と『2049』)も、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995年版)も、「人間よりも人間らしい」という問題を扱っている。その背後には、実は啓蒙思想の理性観に根ざす進歩観がある。つまり、人類は不完全な状態から、よりよく、完全なものへと変わりうるという考えだ。レプリカントも素子も、ある意味での「新人類」なのである。

『ブレードランナー』の進歩観には、ヘーゲルに代表されるドイツの伝統、あるいは観念論の伝統の影響がある。この伝統は集団に目を向け、人間の精神が必然の王国から自由の王国へ向かうなかで、集団が足並みを揃えて進化することを重視する。精神が一歩進むたび、集団の理性的な能力も高まっていく。この考えはドイツ・ロマン主義によって作り替えられ、民族精神や民族の心といった一連の概念を生んだ。そこでより重視されるのは、集団どうしの対立だ。『ブレードランナー』なら、レプリカントと人間の対立である。

反対に、『攻殻機動隊』の進歩観は、スペンサーやダーウィンに代表される英国の伝統、あるいは進化論の伝統に由来する。進化の理論は、実は分化の理論でもある。重視するのは、個体の進化が不連続であること、言い換えれば、集団が分化していくことなのだ。『攻殻機動隊』には、サイボーグと人間という、明確な壁に隔てられて対立する二つの集団は存在しない。誰もが程度の差こそあれ、サイボーグ化している。そのなかで、素子という名の警察官が真っ先に未来への扉に触れ、少しためらったあと、一足飛びに新たな生命となる。

だから、レプリカントの神殿はピラミッドであり、素子の神殿は自然史博物館なのだ。『ブレードランナー』が主に不平等を論じるのに対して、『攻殻機動隊』が主に論じるのは自己のアイデンティティである。前者はより古典的で、宗教的な性格を帯びている。後者はよりポストモダンで、そこにあるのは、いわば救済が失敗したあとの残り滓だ。根底にあるこうした構想の違いが、二作品の物語の趣をまったく異なるものにしている。以下、一つずつ見ていこう。

『ブレードランナー』には強い宗教性がある。タイレル社もウォレス社も、地球本社の外観はピラミッドだ。ピラミッドに住むファラオは、神と人が一つになった「神王」である。だから旧作でロイがタイレル博士を「Father」(父)と呼ぶのは、「天の父」を呼んでいるのだ。しかし、その「天の父」も彼に命を与えることはできない。『2049』でウォレス博士が、神はレイチェルを覚えていると語るのも、彼自身がレイチェルを覚えている、という意味なのである。ここでいう神とは、ウォレス自身なのだ。

『ブレードランナー』のピラミッド
ピラミッド。

さらに言えば、旧作は聖書の「出エジプト記」を下敷きにしている。古代エジプトは人類史上最初の奴隷制国家で、無数の奴隷を働かせてピラミッドを築いた。旧作では、無数のレプリカントが星間植民という偉業を成し遂げている。古代エジプトでは、人類史上もっとも重要な奴隷の逃亡が起きた。モーセが同族の人々――イスラエルの六千世帯――を率いて紅海を渡ったのだ。旧作では、ロイに率いられた男女三人ずつが地球へ逃げ帰る。ここでレプリカントは男女のペアで現れ、互いにきわめて強い愛情と執着を示す。その背後にあるのは、家族の物語である。ロイと男女のレプリカントたちは、『百年の孤独』のマコンドに暮らすブエンディア一族のように、明確な境界を持つ家族の王国を作っている。タイレル博士はロイを「技術の王子」(Prince of Technic)と呼んでいる。これは、ロイが奴隷たちのなかの王子、モーセのような存在だということでもある。

『ブレードランナー』のタイレル
ファラオ。

『2049』は、預言者モーセが惨殺されたあとの物語だ。レプリカントたちは、自分たちの「天の父」である人間に祈っても、救済をもたらす「聖霊」の交じった「神の子」を授かることができない。そこで、自分たちの「人の子」を探し始める。だからこそ「出産の奇跡」が『2049』の核心となるのだ。ここから容易に連想されるのは、ビューヒナーの戯曲『ダントンの死』と、ロベスピエールが「道徳の共和国」を築こうとした際の宣言である。その宣言に重なるのは、「神の子」が捧げた血と肉でも人々を救うには足りないなら、自らが「人の子」として十字架にかかり、恩寵を得ようという決意だ。

旧作でデッカードが人工の蛇の鱗を手がかりにロイたちを探すのは、レプリカントが「悪魔」であることを暗示している。一方、『2049』でKが木彫りを手がかりにデッカードを探すのは、この年老いた殺し屋が「聖人の父」であることを暗示する。キリストの名目上の父である聖ヨセフも、大工だった。『2049』の終盤、フレイザはKにデッカードを殺せと告げる。ステリン博士もまた、レプリカントに捧げられる生贄の一人なのだ。

『ブレードランナー 2049』の森の場面
「エデンの園」の「人の子」。

だが、『攻殻機動隊』では話がまったく違う。もはや人類の救済はなく、残っているのは素子一人の生だけだ。旧作『ブレードランナー』の「雨」と『攻殻機動隊』の「雨」を結びつけて、両作の類似性を語りたがる人は多い。しかし実際には、押井守はすでに1985年の『天使のたまご』で、自分の映像に降る「雨」に、ある意味を与えていた。

『攻殻機動隊』の「雨」は、ノアの「雨」、災厄の「雨」である。神はノアに、やがて激しい雨はやむと約束した。シナイ山ではモーセと「十戒」の契約を結んだ。そして、自らのひとり子を遣わして人々に福音を伝えた。だから神は、人類の歴史につねに立ち会ってきたのだ。神の存在は、不完全な人類と不完全な世界が、最後には救われることを告げている。

だが、もし神が人類の歴史に一度も存在しなかったとしたら? もしノアの「雨」が、一度もやんでいなかったとしたら? 私たちは誰もが激しい雨のなかで生まれ、激しい雨のなかで死に、いまなお大海原の方舟で暮らしている。周囲に陸地はなく、道しるべもない。これが『攻殻機動隊』の「雨」、押井守の「雨」だ。それが示すのは、不完全で、完全になることもない世界である。

『天使のたまご』のラストに現れる、転覆した「方舟」
『天使のたまご』のラスト。カメラが引くと現れる「断片」は、転覆した「方舟」だ。

果てしない海に漂うのは、救済が失敗したあとの、世界の残り滓だ。一つひとつの断片、一つひとつの「シミュラークル」。それがポストモダンである。実際、素子のいる場所は、香港であれ台湾であれ日本であれ、より広く、より連続性と一貫性を備えた文明の大陸と比べれば、一つの「島」にすぎない。

水辺の都市を背に立つ女性を捉えた実写画像
水と「島」。

素子は、ポストモダンの不確かさを受け入れることを選んだ。その先、どこへ向かうのかは誰にも分からない。自然史博物館の「進化の樹」の頂点には人類がいる。人類のあとには何があるのか? 「新人類」とは何なのか? 押井守は答えていない。

自然史博物館の、銃撃で傷ついた進化の樹
「人類」の上には、何もない。

だが、2008年に彼が撮った『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』を見るかぎり、先行きは楽観できない。『天使のたまご』と同じだ。 天使はなお、高い木の上に封じられ、歴史の外にいる。

『天使のたまご』の、翼ある姿を頂に抱く高い木
高い木の上の「天使」。

『ブレードランナー』と『攻殻機動隊』は、異なる二つの作品、偉大な二つの作品であって、一つの作品とその延長ではない。

回答:アニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』をどう評価するか?

最近、「国家主義者」としての押井守について、一篇書きたいと思っている。『攻殻機動隊』(GIS)を見直していて、『ブレードランナー』(BR)とは実はかなり違う、とふと気づいたからだ。BRには、企業シンジケートに対するレプリカントのテロという「サブ政治」があり、地球外の植民地でレプリカントが働く「生産の政治」があり、レプリカントの隔離と差別をめぐる「文化の政治」がある。だが、「国家の政治」だけがない。こうしたBRの構造は、「サイバーパンクは後期資本主義の一つの症候である」というイメージに実によく合っている。そこに描かれるのは、国家が消滅したあとの世界であり、市場社会が支配する無政府状態の世界であり、個人が新自由主義の統治術に全面的にさらされた世界だ。だが、GISはそうではない。TVシリーズのS.A.C.も、とりわけ第2期『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』ではそうではない。「アヒル」というあだ名で呼ばれる押井の色が濃くなっているからだ。国家はつねに、アヒルの問題意識の核心にある。

『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』の公安9課

stand alone complexとは、いったいどんな現象なのか。それは個人の原子化と均質化(同期化)という現象だ。実は、ふつう「大衆化」と呼ばれるものにほかならず、その結果が「大衆社会」である。ブルーマーの定義によれば、「大衆」(mass)とは、同じ空間にいるわけでも、互いに直接交流しているわけでもないのに、行動の時期や形がかなり一致する、大勢の人々を指す。S.A.C.に即して言えば、「一人ひとりが独自に起こす抵抗」ということになる。

これも新しい現象ではない。少なくとも19世紀には、すでに古典社会学の中心的な問題となっており、マルクス主義もデュルケームも論じていた。社会学者たちは、伝統社会における集団への帰属意識や集団間の対立が、つねに具体的な状況に根ざしていることに気づいた。たいていは、特定の場所で直接関わり合う二つの集団のことが問題となる。ところが近代社会では、同じような集合的行動が、具体的な状況を超えて起きる。直接のつながりを持たない個人どうしでも、互いに対立する、いわゆる「想像の共同体」を作れるのだ。

集合的行動のこうした伝統から近代への変化を、どう説明すればよいのか。ここでマルクス主義の「階級」概念がきわめて重要な位置を占めるのは、間違いない。マルクス主義はこの概念によって、社会の「構造」が、具体的な状況を超えて人々を動員する潜在的な力を持つことを、最初に指摘したのだ。同じ構造的位置にいる個人は、社会生活で互いに接点がなくても、一つの潜在的な集団なのである。こうした「単独で行動する者」(stand alone)たちは、必要なときに、境遇を共有する「即自階級」から、共通の利害を自覚して行動する「対自階級」への転換を遂げることができる。それが「単独で行動する者たちの複合体」(stand alone complex)だ。

そしてS.A.C.が論じるのは、サイバー社会、つまり個人がいっそう原子化し、均質化した(stand alone)社会が、なぜ生まれるのかということだ。また、そうした社会で集合的行動(stand alone complex)はどうすれば可能なのか。つまり、大衆社会の成り立ちと仕組みである。

大衆社会の成り立ちについては、従来二つの考え方がある。一つはマルクス主義の、資本による編成という考え方だ。大衆を作り出すのは、資本が組織する生産(古典的マルクス主義)、流通(ウォーラーステインの世界システム論的マルクス主義)、消費(ボードリヤールのポスト・マルクス主義)だ。こうして作り出された大衆は、似通った経済的境遇、つまり階級を通じて再び「構造」化され、行動する集団になる。これが労働者階級の形成論だ。

もう一つはティリーの、国家による編成という考え方である。大衆は、絶えず続く国家主導の運動によって作り出される。その運動は民主化(オルテガ・イ・ガセット)でも、教育改革(パーソンズ)などでもありうる。そして国民国家の一員という共通の帰属意識を通じて再び「構造」化され、行動する集団になる。これが国家形成論である。後者の見方は、もともと資本の蓄積が乏しい第三世界の国々に明らかによく当てはまるし、東アジアにも比較的よく当てはまる。東アジア各国で最初の経済資本の蓄積を担ったのは国家であり、いまなお国家資本は、社会の各領域で異なる種類の資本を互いに転換する際の比率を規定するうえで、中心的な役割を果たしているからだ。

『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』のロゴ

こうしてBRとGISの違いをもう一度見ると、そこには英国マルクス主義のミリバンドと構造主義的マルクス主義のプーランザスによる「国家の相対的自律性」論争の色合いがある。さらに、その後の社会中心論者と、国家中心論に立つスコチポルとの「国家の自律性」論争にも通じるところがある。

古典的なサイバーパンクが資本への宣戦布告であり、消費主義の〈リトル・シスター〉への抵抗であり、「ポストヒューマン」の労働過程と企業の陰謀を描くものだとしよう。それに対して、国家の権力が長らく民衆の権利を圧倒し、国家と社会のあいだに特殊な癒着が続いてきた東アジアでは、サイバーパンクは国家への宣戦布告であり、国家主義の〈ビッグ・ブラザー〉への抵抗であり、国策の立案と国家の内乱を描くものになる。国家の価値が優位に立つかぎり、個人の価値はそれ自体として表現できず、何らかの国家理性に依拠することでしか、間接的に実現されない。こうして、さまざまな国家主義運動が生まれる。抽象的な理念としての国家を掲げ、現実の国家に抗する運動だ。つまり、危機はそのつど「政府の国家主義の敗北に始まり、民衆の国家主義の勝利に終わる」のだ。

結局、アヒルのGISに現れるのは、国家の「正義」を奪い合い、国家の「倫理性」を立て直そうとする、さまざまな行為者たちである。「国家の政治」が「生産の政治」を圧倒している。これは実に、東アジアの土壌に根ざしたサイバーパンク体験なのだ。

柄谷行人を読んでから……

柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス』中国語版の表紙
『トランスクリティーク――カントとマルクス』(中国語版の表紙)。

柄谷行人著。

柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス』。

ここ二日ほど、柄谷行人の本を数ページめくっていて、ようやく気づいた。『機動警察パトレイバー2 the Movie』――中国語では「和平保卫战」、つまり「平和防衛戦」と呼ばれる作品――は、まさしく戦後日本人が撮った映画であり、戦後日本人にしか撮れない映画なのだ。

「平和憲法」があるために、カント主義が戦後日本に及ぼした影響は、本当に並大抵ではない。戦後日本は、まるごとカントの『永遠平和のために』の上に築かれた国家なのだ。

フーコーはかつて、三種類の「戦争」を区別した。そのうち「国家間戦争」、あるいは「国際戦争」については言うまでもない。戦後日本はとっくに対外戦争の権利を放棄している。だが、戦争が国家だけの「権利」になる前には、いまでは見えなくなった二つの戦争、私人による戦争があった。

一つ目は「人種間戦争」だ。その起源には、初期の国家では支配者と被支配者が同じ民族に属さず、婚姻も文化も法も共有していないことが多かった、という事実がある。近代国民国家が形成される過程では、国内を「ならしていく」動きが生じる。国内にある大小さまざまな共同体を壊し、そこから人々を引き抜いてstand aloneの状態にする。そして「国民」の資格を与えることで、改めて一つの集団にまとめるのだ。だから近代国家の内部には、名目上、一つの「共同体」、すなわち国民/民族共同体しかない。だが、初期の国家の内部は、それほど均質化(あるいは同期化)されていなかった。大小さまざまな民族集団の共同体があり、支配する集団と支配される集団がいた。そこに人種間戦争が生まれる。この「人種間戦争」はいまなお、国民国家の内部で抑圧された形のまま続いている。それがさまざまな人種主義や排外主義だ。たとえば米帝を、「国内の戦争」が存在しない国家だとは言えない。そこではほとんど永遠ともいえる民族集団間の衝突が続いている。

ミシェル・フーコー『社会は防衛しなければならない』中国語版の表紙
『社会は防衛しなければならない』(中国語版の表紙)。

ミシェル・フーコー著。

ミシェル・フーコー『社会は防衛しなければならない』。

もう一つは「階級戦争」(Class war)である。階級戦争は、実は人種間戦争から派生したものだ。国民国家という捉え方が前提とするのは、パーソンズの社会均衡モデル、すなわち国家を高度に統合され、諸機能が調和した「社会」と見る考え方だ。それに対して、人種間戦争という捉え方が前提とするのは、マルクス主義的な社会の抑圧モデルである。つまり国家とは、ある集団が別の集団を抑圧する、深く分裂し、対立する「社会」なのだ。この認識の枠組みが、血縁集団から経済的な集団へ移されると、人種間戦争に似た階級戦争が生まれる。この「階級戦争」も、国民国家のなかに残っている。それが、労働者革命が〈フェラハ化〉し、闘う力を失って飼いならされたあとの、社民主義的な闘争だ。だからフーコーは、「人種間戦争」と、そこから派生した「階級戦争」をまとめて、「人種間戦争の図式」と呼ぶのである。

だが、これに類する状況は戦後日本には存在しない。むしろ、戦後日本にだけ存在しないと言ってもよい。戦後日本はそれほど特殊であり、だからこそ『パトレイバー2』は戦後日本の映画なのだ。戦後日本は平和憲法によって、対外戦争の権利を自ら取り消した。イデオロギーの言説において、戦後日本は世界でもごく少数の単一民族国家であり、国境の内側にはほかの民族は存在しないとされる。戦後日本の左翼運動は徹底的に敗北した。少なくとも日本の左翼から見れば、普遍的な革命の主体性を確立できなかった。したがって戦後日本には、少なくとも名目上、国家間戦争も人種間戦争も階級戦争も存在しない。まったくの「平和国家」なのだ。戦後日本にだけ、守るべき「平和」がある。

『機動警察パトレイバー2 the Movie』の一場面
『機動警察パトレイバー2 the Movie』。

だが、その「平和」は正義なのか。柄谷行人の議論に沿って考えるなら、戦後日本のこの状態は、交換様式DでもXでもないのかもしれない。それは過去の交換様式の「揚棄」ではなく、単なる「取り消し」と「抑圧」なのだ。だからこそ、柄谷が説くように、「平和」が不正義であることも、「戦争」が正義であることもありうるのだ。戦争がもたらすのは、まさに抑圧されたものの回帰である。それは、より高い次元の「社会主義」(Socialism)を実現するためのものなのだ。

『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』の集合ビジュアル
TVアニメ『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』。

だから、『パトレイバー2』の本当の主題は「平和」ではなく「戦争」なのだ。この戦争という主題は、2nd GIG(TVアニメ『攻殻機動隊』第2期)へと続いていく。アヒルが2nd GIGでどれほどの役割を果たしたのか、私には分からない。終盤の数話は、どれも神山健治が脚本を書いているからだ。

だが、最終話の合田は、戦後日本は資本主義を名乗っていても、実際には理想化された社会主義国家なのだと、はっきり評価している。神山がここでの「社会主義」をどう理解しているのか、私には分からない。それでも、この「社会主義」は、柄谷行人の「アソシエーショニズム」にすでにとてもよく似ていると、直感的に感じる。

クゼの告白もそうだ。彼が理想とする革命は、実のところ宗教性を帯びた運動である。これも、社会主義/アソシエーショニズムを構成する交換様式Dは、初期の国家では抑圧されながら、仏教やキリスト教の宗教運動という形で現れる、という柄谷の議論に合っている。

2nd GIGには、柄谷行人の影響がはっきりと見える。あるいは、柄谷行人が戦後日本の思想界に及ぼした影響が。

本文終わり

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