屋頂現視研
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一周年|守り続けるものと、これから――屋顶からの手紙

屋顶现视研の創立一周年にあたり、第3代・第4代所長の鍾子默が、サークルをめぐる論争や成果、組織運営を振り返り、アニメ批評の方法、価値観、今後の方向を語る。

著者: 钟子默翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

1871年から2019年までには、百年以上にわたる戦争と植民地支配の歴史がある。西九龍から北上して中央に至るまでには、二千キロ余りの隔たりと、根深い文化の壁がある。寝室のベッドから、家を出ようとするその戸口までには、怒れる夫と経済的な困窮がある。それなのに、Bilibiliのアニメ配信ページからehのタブへ移るには、マウスをほんの少し、さっと動かすだけでいい……。しばらくすると、「済ませること」は済んでいる。賢者タイムの省察にも、どこかずるい味わいが混じる。

蝉も寝静まる深夜ではないし、会社勤めの人が仕事の合間に一息つくときでもない。ちょっとした幸運は、ちょうどいい頃合いにやってくる。ティッシュは片づけたばかり、『魔眼蒐集列車』の最新話はもうすぐ配信されるし、ドクターの理性もすでに回復している。1 QQのグループチャットには新たな笑いのネタと「妙な人」がグループを抜けたという知らせが届き、微博のニュースは警察官のけがの具合や、ある事故の続報を伝えている。ばらばらに引き裂かれた主体は、これほど自然にいくつもの事柄のあいだを行き来し、そのつど、ありったけの注意を注ぎ、自分の歴史を書き綴っていく。その見返りに、主体は心身のくつろぎを得る。イメージの誘惑に取り囲まれていると、団結は居心地が悪く、かといって内輪もめに走れば、傍から笑われる。どこにあるとも知れない天国が訪れるまで、「余暇」を使って楽しみを得ることが、もはやいちばん反逆的な行いであるかのようだ。

私たちは文化的な消費財が約束するものに惑わされ、「飛び地」を守りながら英気を養っている。それでも、夜更けに眠気が差し、薄暗い天井と窮屈な壁を前にすると、かすかな失望が湧いてくる。想像に浮かぶ貧しい者たちに戸惑うだけでなく、そうした想像の偏りを自分で責めてもいる。この切迫感は、分裂の亡霊を強く呼び戻す。そして私たちに迫る。互いに切り離されたイメージや物語、きれいに包装された抽象的な人間性を、生身の人間が実践のなかで抱える矛盾と結びつけよ、と……。

赤い傘を差し、街を振り返る少女

親愛なる読者、書き手、屋顶のメンバー、そして通りがかりに見てくださっている皆さんへ。

こんにちは!

子默です。中国語圏のオンライン批評サークル、屋顶现视研で、第3代に続き、現在は第4代の所長を務めています。月日のたつのは早いもので、屋顶现视研は創立一周年を迎えました。チャット仲間の最初の呼びかけから実際の運営に至るまで、私は屋顶の成長と発展を目の当たりにし、次第に見守る側から参加する側へと変わってきました。現在、屋顶のフォロワーは、Q&Aサイト・知乎のコラムで1,939人、SNSの微信で908人、動画・記事投稿サイトのBilibiliで7,223人。動画再生数は9.3万回、記事の閲覧数は56.4万回です。ひとまず形になり、Bilibiliのコラム部門からも評価していただけるようになりました。

この一年の成果と至らなかった点について思うところがあり、メンバーからのお誘いも受けて、「所長」という立場からこの文章を書いています。屋顶の歩みを簡単に振り返り、その特徴と現在の強み・弱みを紹介したうえで、サークルの今後の見取り図を描いてみたいと思います。

今回の振り返りと屋顶の役割を、ベンヤミンが論じた《新しい天使》になぞらえてみましょう。大ざっぱな比喩ですが、そこに二つの意味を込めたいのです。一つは、屋顶が自分たちの過去に向き合うときの態度です。主体は否応なく「歴史の嵐」に引きずられ、新たな状況に出会い、変わっていきます。そのとき、どのような顔で過去を振り返るのか。それが現在と未来を決めます。言い換えれば、未来に答えるためには、未来の可能性が宿る過去へと戻らなくてはなりません。屋顶が守り続けるものと、これからについて語りたいのです。

もう一つは、屋顶の価値観を真剣に位置づけ、打ち出すことです。私たちは中立ではなく、政治に無関心でもありません。二次元文化と生身の人間が生きる現実を結びつけようとするとき、オタクの自己認識を形づくってきた歴史に、切実に向き合う必要があります。「歴史の嵐」がもたらすポストモダンの状況に、唯物論の立場から抗わなければなりません。とはいえ、ここで述べる考えも願いも、一個人の意見にすぎません。皆さん自身で見極めていただければと思います。

論争と成果

屋顶の設立のきっかけは、創設メンバーが、ある「新しい」アニメ批評の形に可能性を見いだしたことでした。その最大の特徴は、理論性と思弁性です。幅広い人文・社会科学の知と積極的に照らし合わせながら論を進め、多くの場合、社会の上部構造を分析しようとします。屋顶もまた、こうした批評を育て、広めていく使命を掲げて発足しました。批評の世界に新たな声を届け、文化の民主化を実践したいと考えたのです。

初期の屋顶は、創設メンバーの三次元の人脈に助けられました。彼ら自身の実行力も高く、当初の活動は比較的順調でした。今年の4月までには、オンラインのサークルとしてひとまず形になり、微信、知乎、Bilibiliのコラムという三つの場で活動が実を結びました。アニメ・マンガ・ゲーム(ACG)の愛好家や人文・社会科学に通じた大物からも評価をいただき、その中には、かつてS1掲示板やbangumiで名を知られた方々もいました。ただ、「理論でアニメ批評に介入する」という熱いスローガンとは裏腹に、屋顶の運営業務はやけに暇で、何週間も原稿が見つからないことさえありました。私が所長になったのも、何か貢献したからではなく、そのとき所長に立候補する人がいなかったからです。選ばれたのはまったくの偶然でした。ご覧のとおり、屋顶の運営はとても緩く、普段の仕事も執筆も、基本的には「愛」だけで回しています。社畜生活がきつくなったり、期末試験が来たりすれば、そろってフリーズします。原稿料の大半は創設者の持ち出しで、残りはBilibiliの投げ銭による支援です。これまでに少なくとも3回、商業提携のお話をいただきましたが、すべてお断りしました。このサークルの特徴を挙げるとしても、隙のない組織運営や爆発的な人気といった言葉には、まったく縁がありません。屋顶は「清貧」で、どうやら「真面目」すぎるようです。通りがかりの読者には内容が難解すぎるうえ、アクセス数の収益化も、丁重にお断りしているのですから。

紫がかった髪で、赤いマフラーを巻いた人物

運営の仕事は暇で、管理は緩く、内容は理論寄り。これは屋顶がずっと持ってきた特徴で、評価してくれる人がいる一方、批判も受けてきました。その理由は理解できます。アクセス数を求めずに学術的な言葉を振り回す動機は、自己愛に根ざした潔癖さと結びつけられがちです。偏屈な芸術家が外の世界を顧みずに作っているようで、近寄りがたいのでしょう。こうして「アニメ婆羅門」2というレッテルが、空から降ってきました。さらに「鋭い」友人たちは、この人を寄せつけない学術的な言葉それ自体が、バンクシーの作品のように流行を呼び、「審美化」されて鑑賞の対象にもなることで、屋顶にさらなる象徴資本をもたらすことに気づいたようです。そして、客観的な作用の話から主観的な意図の話へと飛躍し、屋顶も結局は言論の主導権を求めているのだと批判します。

こうした批判に対しては、所長に就任する前に、アニメ批評の方法論についての文章で弁明しました。また、「なぜジジェクとラカンはアニメ批評にこれほど重要なのか」という問いへの回答でも、ACG作品の存在論という観点から、意見の分かれ目をひとまず説明しました。要点だけ述べると、私たちの批評の基本原則は、「残余のカテゴリー」を掘り起こすことです。テクストを一つの集合と見なして、その中に余った要素を探すのではなく、テクストの境界を取り払う。内と外のあいだから、できるだけ多くの解釈を花開かせるのです。作品の主題だけでなく、イデオロギーの断裂についても論じる。作中の人々だけでなく、私たち自身についても論じる。イメージだけでなく、生身の人間についても論じる。

この姿勢は、既存のアニメ批評の世界に、どうしても大きな変化をもたらします。これから批評を書こうとする人を引きつける一方で、別の批評家とは衝突することになります。この方法論に共感し、屋顶という場を通じて発言する人たちは、比較的「外向性」が強く、社会学的な情熱を持っています。社会の現状に積極的に関わろうとする一方で、社会や政治に「乱暴」に踏み込む批評には警戒を抱きます。日常生活をめぐる思い込みへの批判と、それに対する反批判がたびたび起こり、不愉快な出来事につながったこともあります。こうした衝突には、私自身、何度も打ちのめされました。フォロワーが千人を超えたばかりの屋顶がこれほどの影響を及ぼすとは、思ってもいませんでした。それを受けて、屋顶の価値観や、課題目標と過程目標3を達成する方法を、改めて考えることにもなりました。さまざまな論争の中でも、屋顶は内容の独自性を保ち、少なくとも今のところは、引き続き注目するに値する新しい存在であり続けています。

建物を背景に並ぶ制服姿の少女4人

その後の数か月も、屋顶は「一つのプラットフォーム、三つの部門」(なぜかお役所口調)という形を引き続き整えてきました。屋顶があくまで発表の場であることは、一貫して大事にしています。屋顶のイデオロギーに照らして原稿を選別することはあっても、書き手に考えを変えるよう求めることはなく、原稿についての権限は書き手に残します。まして、書き手を屋顶に縛りつけることもしません。屋顶の外でも、自分の創作の場を持ち、「個人の立場」で発言できるのです。

三つの部門は、前所長が残した構想を受け継いだものです。思想班は原稿の質を確かめ、書き手とのやり取りを担当します。動画班には動画編集者やナレーション担当などが集まり、優れた原稿を動画にします。翻訳班は優れたACG批評を翻訳し、現在は日本語と英語の記事の中国語訳に力を入れています。三部門にはそれぞれ決まった責任者がおらず、メンバーの重なりも少なくありません。大半は屋顶の理念に共感する愛好家、あるいは「通りがかり」の人たちであって、いつまでも所属し続ける「屋顶の人間」というわけではないのです。

皆さんのおかげで、屋顶は「中身のある記事」を出し、千人近い読者を屋顶の読者グループに迎え、多彩な表現を花開かせていくことができます。ここでお礼を申し上げるとともに、お詫びもしたいと思います。屋顶の持つ象徴的な価値は、まだ報酬の少なさを埋め合わせるには足りません。だからこそ、屋顶に共感してくださる皆さんの熱意は、いっそう貴重なのです。

このほか、在任中に屋顶初の論考募集企画「都市・空間」も立ち上げました。まずまずの反響があり、よい原稿が集まりました(これらの記事は、もうすぐ皆さんにも読んでいただけます)。この企画には、二つの狙いがありました。一つは、屋顶で発表する記事に、ある程度のテーマのまとまりを持たせることです。前の記事では存在論から『lain』を分析していたのに、次の記事では『響け!ユーフォニアム』の撮影技法を解説する――これでは読む方はくじを引くようなものです。もう一つは、先に述べた民主化の理念に沿って、「民主的」な教え方を引き続き実践することです。より多くの読者、さらには屋顶をまだよく知らない人にも、考えること、批評を書くことに加わってほしいと思っています。皆さんの得意なものを生かして、新鮮な人文・社会科学の知見、さらには人文・社会科学以外の視点も取り入れてほしい。そして、それ以上に大切なのは、自分の考えを表すことです。ギデンズの姿勢に倣って言えば、社会の誰もが、絶えず自分の理論を生み出しています。大学の「臭老九」4たちとの差は、多くの場合、自分の考えから距離を取って省みることができるか、開かれた姿勢でいられるか、公正な発表の場を持てるかということにすぎないのです。

黒地に幾何学的な枠と光を配した「都市・空間」論考募集ポスター
屋顶现视研の第1回論考募集「都市・空間」。ポスターの記載(中国語部分は日本語訳):ESSAY CONTEST/夏の論考募集/都市・空間/主催:屋顶现视研/募集期間:本日より2019年7月14日まで。

これまでの論争と成果は、屋顶に進む方向を示すと同時に、重圧ももたらしました。「読み応えのある」アニメ批評を売りにするサークルであり発表の場である以上、発信する内容には決定的な重みがあります。屋顶の今後を描くためには、これまでの内容と価値観をめぐる問題を、一度きちんと洗い直さなくてはなりません。多くの批判には、通りがかりの人や「敵陣営」からのものもあれば、内部や屋顶に近い界隈からのものもあります。それらを並べてみると、互いに矛盾していることも多い。屋顶はそのはざまで道を見つけ、受け入れるべきものは受け入れ、退けるべきものは退けなければなりません。

「進む」ことと「退く」こと

質が高く、深みのある原稿は、屋顶の競争力を支える柱の一つです。これまでに百本以上の投稿をいただきました。大半はオリジナルの論考で、一部は愛好家による海外の優れた批評の翻訳紹介です。オリジナルの論考のうち、大半は自主投稿で、創設メンバーが執筆を依頼したものは一部にとどまります。内容は社会科学の理論を手がかりに作品を分析するものが多く、典型的なのは精神分析や社会心理学です。政治哲学から切り込むものもあれば、ニーチェやドゥルーズ、現代の映画理論やメディア理論を引く原稿もあります。編集側の時間と知識には限りがあるため、理論を深く援用する原稿の質は、主として書き手自身の責任で確保してもらっています。屋顶は「開かれた解釈」と「創造的誤読」を原則とする一方、論文調を嫌う書き手や読者にも配慮し、引用の形式については規則を設けていません。理論の使い方が適切で、議論が滑らかに進み、明らかな誤りがなく、社会・政治の問題について乱暴な結論を出したり、屋顶の価値観から大きく外れたりしていなければ、基本的にはすべて受け入れています。大きく外れるものとは、社会ダーウィニズムや組織神学の支持、資本の礼賛、性差別、日常や「人間性」の無条件の肯定、根拠のないでたらめな批判などです。

こうした折衷的なやり方には、やや粗いところがあります。書く側と読む側、双方のハードルを下げるためのものですが、疑問の声は絶えません。一方には、屋顶の文章はまだ学術的すぎて、言い回しも絡まり合い、「気持ち悪い」と言う一般の読者がいます。他方には、屋顶に注目している人文・社会科学の愛好家や進歩的な人たちがいます。彼らは、一部の書き手の理論的な水準が足りず、多くの原稿が期待した質に達していないと考えています。理論の水準を高めることと、文章を伝わりやすくすることは、相反するものではありません。ただ同時に、批評がすべての人に配慮することは不可能だと認める必要もあります。「一般読者」と「人文・社会科学の愛好家」では、批評のどこに注目するかが大きく違うかもしれません。こうした文化的な集団のあいだの対立は、折衷的な批評一つで双方を満足させれば済むものではないのです。屋顶は自分たちの立場を守らなければならず、その立場を弁護する責任もあります。

桜の下に立つ制服姿の少女

批判する方々からは、理論の使い方が不適切だ、抽象的すぎる、乱暴すぎるといった問題が、数多く指摘されました。その矢面に立ったのが精神分析です。屋顶の多くの原稿はラカン派の精神分析を万能のテンプレートとして扱い、さまざまなアニメの人物分析に当てはめているうえ、一部の概念を説明する「義務」も果たしていない、という批判がありました。ここではっきり認めなければなりません。確かにそのとおりであり、改めるべきです。一つには、書き手の理論理解が十分に深くないため、架空のキャラクターだけを分析の対象とし、メディアの精神分析を見落としやすいという問題があります。もう一つには、精神分析の強い説明力を頼りに、慣れた認識の枠組みに安住しやすくなるという問題があります。自分たちの知の枠組みを省み、洗い直すことがなければ、文脈を越えてほかの読者と通じ合うことも難しくなります。

ただし、同時に指摘しておきたいこともあります。精神分析によるアニメ批評は屋顶の誕生より前から存在し、知乎では小さからぬ批評の「パラダイム革命」を巻き起こし、多くのACG愛好家に影響を与えました。屋顶の創設者や多くの書き手も、その初期の読者でした。彼らが何の影響も受けていないと言えば、口から出まかせになります。屋顶が精神分析のために精神分析をしているのではありません。屋顶ができたことで、こうした愛好家に発言の場が生まれ、彼らは執筆や原稿の検討を通じて、分析の方法を学び続けてきたのです。それは屋顶の初期の作風を形づくるうえで、大きな役割を果たしました。よく考えてみれば、精神分析は屋顶に初めて来た読者にとって、とりわけ退屈せずに読める理論の一つです。大衆文化や家庭、生活に密着できるからでもあり、精神分析自身が批判している、あの神秘的な雰囲気をまとっているからでもあります。

ですから、屋顶で精神分析が「氾濫」するようになったのには、それなりの経緯があります。今では精神分析にうんざりする人もいますが、私には、それが批評に精神分析を持ち込むことの不適切さを証明しているとは思えません。改めるべきなのは、私たちの使い方です。屋顶は精神分析を拒むのではなく、分析をより多様に、文章をより伝わりやすく、結論をより慎重にするよう求めていくべきだと考えています。もちろん精神分析以外にも、多くの方がさまざまな角度から原稿への意見を寄せてくれました。皆さんに指摘された問題と、自分で気づいた問題を、考える手がかりとして以下にまとめます。

内容分析は多いが、メディア分析は少ない

原稿の中には、内容の解釈を重視し、「物象化された意識」への批判を軸に、作中人物の生産関係の分析から、そのまま生身の人間の生産関係の批判へと進むものがあります。逆に、社会の生産関係の分析を作品に戻したとたん、社会への関心を失ってしまうものもあります。作品と現実を同じものとして扱う、この同一性の論理では、抽象的な普遍性が繰り返し語られるばかりで、うんざりさせられます。いわゆる「現実界の侵入」や「縫合」が、単に主人公の受ける心の傷や矛盾の解決として扱われたり、まとめてテクストのイデオロギーが働く形式と見なされたりして、物語の「反動性」が何度も示されるのです。問題の核心は、この分析の道筋が使えないことではなく、作品と現実をつなぐメディアの働きが説明されていないことです。ジジェクは映画批評を書くとき、テクストとイデオロギーの相互参照を重視するだけでなく、ショットによる表現にも特に注意を払い、「眼差し」の概念を用います。これは私たちも気に留めるべき点かもしれません。さらに重要なのが、作品を直接に担う媒体の働きです。たとえば、セルアニメーションの多平面性がもたらす視覚的な影響や、画面の線がどのように私たちの「目」を引きつけ、意志をとらえ、知覚を宙づりにするか、といったことです。メディア分析は、生身の人間と、イメージやそれを支える媒体とのあいだを行き来しながら、現象の記述から本質の批判へと、よりよく橋を架けることができます。それによって批評は身近なものにもなるでしょう。人はやはり、身体に起こることには直感的に反応するものですから。

文化の議論は多いが、制度の議論は少ない

多くの批評はテクストのイデオロギーに焦点を当て、作品と文化が互いの原因となり、結果となることを強調します。その一方で、文化を支える制度的な上部構造については、十分に論じていません。そもそも、制度が具体的に運用されるあり方はメディア技術に直接作用し、メディアを使う環境も、しばしば制度によって管理されています。分析の対象には、文化に関する立法、企業の組織構造、人事管理、予算方針、アニメのプロジェクト管理、制作工程、人員配置、製作委員会の組織と運営方法などが含まれます。政治学や組織社会学の知識に関わる領域です。制度の分析は、私たちの視野を経済的土台やアニメ市場の分析へと広げ、そこで得られたものを文化研究によりよく還元するうえでも役立ちます。

理論を単独で引くことは多いが、相互に照らし合わせることは少ない

一部の記事には、引用する理論が限られているという問題があります。いくつか、あるいは「たった一つ」の包括的な理論による説明にとどまり、同じ問題に取り組むほかの理論と「連動」しないのです。理由を考えると、もちろん、書き手がどの理論に関心を向けるか、どれだけ学習の手間をかけるか、普段どのように文章を書くか、といったことも影響しています。しかし、もう一つの要因の方が重要かもしれません。問題を中心に理論を組み立てるのではなく、理論を問題に当てはめようとする書き手がいるのです。私自身も含め、そうした書き手は、説明力の強い理論を通して複雑な認識の枠組みを作り、以前は曖昧だった事物や問題を明瞭にしてきました。しかし、その「満足感」は、肝心の問題意識を押しのけて主役になりがちでもあります。目新しさのない、お手軽なアニメが次々と現れる中で、問題を新たに掘り起こせなければ、新しい理論を組み立てることもできません。私たちは昔からの説明の型で無理に問題を作り、「仮想敵」を相手に繰り返し訓練する方へ傾いていきます。しかし実際には、逆のことが起きている場合も明らかにあります。「文化産業というよどんだ水の中で、ラディカルな批判の根拠を探す」必要があるのではなく、「ラディカルな批判の根拠をあらかじめ決めていることが、新たな問いが生まれるのを妨げている」のです。内容の意味を解く批評家は、こうしてメディアや制度の働きを忘れてしまうかもしれません。

問題を覆い隠すことは多いが、問いを開くことは少ない

少数ですが、すべてを完結させようとする思考に強くとらわれた記事もあります。自分の立てた問いにすべて答え、記事をそれだけで成り立つ閉じた空間にしようとするのです。それはしばしば、結論の乱暴さとなって表れます。盲信からであれ、「完結」への執念からであれ、悪い影響をもたらしています。たとえばACG作品の「混成的な存在」――喰種、巨人、カバネリ、鉱石病患者、デビルマンなど――を分析するときには、「社会的排除」「スティグマ化」「ホモ・サケル」といった複雑な概念に出会うことがよくあります。ところが書き手は、記事を締めくくるために、意識して、あるいは無意識のうちに、抽象的な人間性に訴えることで、争いを解決しようとしてしまいます。前半では深い分析と批判をしていたのに、後半では一転して、「普遍的な配慮」や「共通の道徳」に頼るのです。疑問を片づけると同時に、読者がさらに考えることも妨げてしまいます。この問題についての私の答えは、すべての問題を解決するつもりで書かないこと、そして、すべて解決したかどうかを記事の完成度の物差しにしないことです。屋顶の価値観は、決して説教や解決策の提示にあるのではありません。読者に考えるきっかけを与え、さらには、より多くの問いを生むことにあるはずです。

本の山と少女、動物たち、星空に浮かぶ線描の鯨。右上にYuumeiArt.comの署名

以上の問題を挙げたのは、主として、私を含む書き手の皆さんが見落としを見つけ、不足を補うためです。多くの問題は、書き手が考えていないのではなく、「思いはあっても力が及ばない」か、取り組むことが個人の関心から大きく離れているのだということも理解しています。ですから、以上は子默個人の意見であると同時に、書き手の皆さんとの相談でもあります。変化は一朝一夕には起こりませんし、一人ひとりに変化を強いるわけでもありません。これまでの批評のやり方にも、変わらず意義があります。ここで挙げた問題は、書き手の皆さんの「これからの読書で気に留めてほしいこと」、そして原稿を検討するときの新たな注意点として受け止めてもらえればと思います。

これからも屋顶の「芸の幅」を広げていきたいと思います。そのためには、屋顶を支えてきた古参の書き手の努力だけでなく、新しい書き手にも加わってもらう必要があります。私たちはこれからも、さまざまな批評家に門戸を開き、修正の提案や掲載を断る理由については、十分な説明を続けていきます。

結び:価値観への「執着」

最後に、屋顶の価値観について、皆さんと少しお話ししたいと思います。ここまでの書き方から、すでにお気づきのこともあるでしょう。手紙の冒頭でも強調したように、屋顶は客観中立のプラットフォームではありません。それは、創設者のアニメ存在論や批評方法論から導かれる方法上の要請であると同時に、屋顶自身が媒介役として守り続ける使命でもあります。読者の皆さんも、記事のさまざまな引用や、そこで社会問題に向けられる関心から、その気配を感じ取っているかもしれません。屋顶は全体として、ラディカルなプラットフォームです。中心メンバーの具体的な価値観には違いがあっても、大半は次の点で一致しています。批評には技術面・理論面への関心だけでなく、社会への配慮も必要であること。サブカルチャーが日常を再生産していることと、その限界をはっきり認識すること。宇野常寛らの批評家によるオタク批判に、別の姿勢で応答すること。そして、何らかの手段で文化の民主化と社会の公正を進められるのではないかと、希望を託すことです。

この点で、屋顶が笑いものになるのは避けられないでしょう。世界の文化研究者たちより恵まれた立場にいるわけではありません。そもそも、「不平等の解消」を目指す姿勢は、実際に労働に参加することと密接に結びついていますし、理論を実践に還元すべきことは、誰もが知っています。ポストモダン社会のもとで「文化」が相当の自立性と下部構造への反作用の力を得たとしても、文化研究は多くの領域で、やはり居心地の悪い立場にあります。

第一に、研究者はしばしば世間から隔たっています。大衆文化に絶望して消極的なエリート主義へと進み、大衆を敵視し、大衆からも敵視される。あるいは、ポストモダンの文化的民主主義の先頭を走りながら、大衆から精神的指導者と見なされ、ファルス崇拝の一環に組み込まれてしまうのです(これもまた、フェザーストンのいう、リオタールやドゥルーズらのポストモダニストが新しい文化媒介者として大衆に取り巻かれる状況です)。

第二に、研究者は実践からも離れているように見えます。公的機関に取り込まれて国から給料をもらう批評家となる一方、先入観を持って現象に焦点を絞り、そこから抽象的な本質へと進むばかりで、再分配や所有制といった、現象と本質をつなぐ基本的な問題を十分に視野に入れていません。

もし、ポストモダンの議論がいう文化の自立性と「精神分裂」を受け入れるなら、「文学」の政治化と主体化は、必然的にブルームやエーコらの嘲笑の的になるでしょう。一方で、上部構造の反作用を認めつつ、下部構造の優先性と第一義性を強調するなら、文化研究は進歩的な「気休め」と見なされます。取り組み、重視する価値はあっても、それを使って公正を実現しようというのは、木に登って魚を求めるようなものです。なにしろ、文化研究をする人自身が、たびたび文化の表象にはまり込んでしまうのですから。たとえば、エロティシズムを抵抗と見なすように。

室内の壁に青空と緑を描く人物。右の窓の外には工業風景が広がり、下部にYuumeiArt.comの署名がある

屋顶が信念を貫こうとするこの歩みも、ほんの小さな一歩にすぎません。いずれ何らかの使命を果たしたときには、歴史の舞台から退くことになるでしょう。今のところ、屋顶は難しい「理想」について絶えず答えを出そうとするよりも、目の前の課題に取り組むべきだと思います。その中では、「純度が足りない」という問題への対処と、「大衆からの支持を広げる」こととのあいだに、かなりはっきりした矛盾が生じています。私はひとまず、内容の審査で基準を守り、企画を通して考えを伝えていく道を選んでいます。注意は内容にしっかり向けつつ、参加するさまざまな人々には、あまり制限を設けないということです。屋顶は、愛好家同士の共通の理解と賛同を、できるだけ前へ進む力へと結びつけたいと考えています。この姿勢を貫くうえで、まず目指すのは、文化批評における解釈の独占を破り、テクストと社会を解釈する空間を開くことです。読者にどう行動すべきか指図し、説教するのではなく、自ら実践してみせることで、環境を変えていきたいのです。

今日、ACG作品であれ映画であれ、その批評を取り巻く環境は、しばしば日常生活を美的に彩る「日常生活の審美化」と、美の捉え方を日常生活に引き寄せる「審美の日常生活化」のあいだで身動きが取れなくなっています。屋顶の多くの書き手だけではありません。文学理論を駆使して「人間性」を探る文学批評家も、映像や音響の技術の分析にこだわる美学者も、世間に受ける言い回しを巧みに操る術を身につけないかぎり、しばしば冷遇されます。多くのアクセスを集める文章は、さまざまな現象と見方を巧みに結びつけているものです。経験に根ざす現実を入り口に、日常生活に寄り添い、社会や政治の問題にも必ず目を向けながら、それらをうまく収めてしまう。そしてしばしば、秩序と正義への期待へと戻り、社会が団結を失ったことへの悲しみや、過去を懐かしむ「郷愁」を表します。まるで、日常生活がなければ、アニメの美も存在しないかのようです。それなら、そうした美によって不幸と折り合いをつけられなければ、アニメはどうやって私たちの日常の欠落を埋められるというのでしょうか。(象牙の塔の)文学の死こそが、(大衆の)文学の新生なのだと主張する人がいるのも、無理はありません。しかし、エリート志向からポピュリズムへ、高雅な貴族精神から通俗的な日常擁護論へと向かうことが、賢明だとは限りません。

楽器を手にした制服姿の少女4人

屋顶は、これからもある程度は「異物」と見なされ続けるのかもしれません。「私は在る」という主体となり、肯定的なものであれ否定的なものであれ、人々から過剰な欲望を向けられることは避けられないでしょう。理念としては、屋顶は眺められる対象としての「スペクタクル」から、人との関係を生む「出来事」へと変わらなければなりません。人々の暮らしから距離を置いて立つ彫像から、社会に生きる人々を見つめ、映す鏡へと自らを変え、最後には、読者一人ひとりの「私は考える」を促すことを目指すのです。そのために屋顶が長く守り続けるべきものは、謙虚な姿勢、プラットフォームとしての組織の形、そして批判を貫く決意でしょう。自分たちの価値観や態度も、余すところなく人々の吟味にさらし、立場を隠さないことです。これから屋顶が出す記事も、この不器用な告白の手紙のように、自分にできることとできないことを率直に語り、現象から本質へと連なる批判に目を向けてくれることを願っています。結論ではなく問いによって、より多くの人に考えるきっかけを与える。そして、より多くの人から、さらに多くの問いが生まれるようにするのです。

いつの間にか、7,000字余りを書いてしまいました。「うわべばかりで、大げさで、中身がない」と言われそうなところも多々あります。それでも、考えがきちんと伝わっていればと願っています。書き手、読者、見守ってくださる皆さんには、ところどころ「真面目」すぎる点を、大目に見ていただければと思います。最後に、この一年、屋顶を理解し、支え、批判してくださった仲間の皆さんに、改めてお礼を申し上げます。また、この拙い文章を最後まで読んでくださった皆さんにも、感謝します。考えるきっかけや論争のきっかけになれたなら、これほどうれしいことはありません。

皆さんのさらなる前進を願って!

鍾子默

2019年8月10日

白い髪で、花模様の衣服をまとった人物と、顔や花、線の模様を配した背景

本文終わり
注04

注釈

  1. 訳注:『魔眼蒐集列車』はTVアニメ『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 -魔眼蒐集列車 Grace note-』の略称。「ドクター」はゲーム『アークナイツ』のプレイヤーの呼称で、「理性」は行動に必要な資源を指す。 ↑

  2. 訳注:「アニメ婆羅門」は、知識や鑑賞眼を誇る上位層を皮肉る中国語圏の呼び方。 ↑

  3. 訳注:課題目標は活動で具体的な成果を上げること、過程目標は参加を通じて人々の主体性や協力する力を育てることを指す。 ↑

  4. 訳注:「臭老九」は、文化大革命期に使われた知識人への蔑称。 ↑

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