屋頂現視研
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屋頂現視研2019:なぜ今なお屋頂現視研とそのACGN評論を必要とするのか

屋頂現視研がベンヤミンの歴史観と精神分析を手がかりにACGN批評の置かれた状況を論じ、理論を通じて問いを立て、作品や文化をめぐる「単純さ」を疑い続ける理由を語る。

著者: 屋顶现视研翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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屋頂現視研

私、真理が、これから語る。

衣食足りて

天国来たる

——ヘーゲル(G.W.F. Hegel)、1807年12

1

本稿は、屋頂現視研がこの一年/この十年に発表する、最後の文章となる。ある種の慣例に従えば、この先の紙幅は、過去一年(あるいは過去十年、屋頂現視研の「前史(pre-history)」)の「苦労」を振り返るか、来年の壮大な青写真を描くために使うことになる(使わされることになる)。だが、この「慣例」が見落としているのは、回顧と展望をつなぐもの、すなわちこの「挨拶文」そのものではないか。だからこそ、私たちはそれを存在論の水準で詳しく検討する必要がある。「挨拶文」は何かを語り始める前から、それ自体がすでに一つの問題なのだから。

ここから、本稿の最初の問いが生まれる。なぜ私たちは、2019年と2020年をつなぐために、まったく形式だけの空虚な挨拶文を必要とするのか。言い換えれば、12月31日か1月1日に、本当に何か重大な断絶が起こるとしたら、それは何なのか。答えはもちろん、まっさらなカレンダーを一冊使い始めたということだ——そこでは過ぎた日々がきれいさっぱり消され、その先にあるのは、

何の重荷もない一枚の白紙。最も新しく最も美しい文章を書き、最も新しく最も美しい絵を描くのにうってつけだ。34

そして、ここで私たちはヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)のメシア的時間に出会う。

したがって、暦は時計のように時間を計るのではなく、歴史意識の記念碑なのである。ヨーロッパではここ数百年、その意識の痕跡はまったく見られなかった。だが七月革命で起きたある出来事は、その意識がなお生命力を保っていることを示している。革命の最初の夜、パリのいくつもの場所で、時計塔が同時に銃撃された。ある目撃者は、おそらくそこから着想を得て、こう書いた。「誰が信じられよう! 時計塔の下で新たな指導者たちが針に向かって発砲する。この瞬間をとどめようと、まるで時間そのものに腹を立てているかのように」56

挨拶文としての本稿と、ベンヤミンの「歴史の概念について」(「歴史哲学テーゼ」)を結ぶものは、おそらく、この時間がいかに日常の秩序を打ち砕くかという点にある。中世ヨーロッパの「無礼講の王(Lord of Misrule)」が支配する祝祭のように、そこでは私たちが、経済から生の統治、ジェンダーに至るまで、社会のあらゆる秩序をひっくり返す。この祝祭が示す可能性は、後のフランス革命や、それに続く無数の闘争において、単なる「冗談」を超え、真に秩序を転覆する力となった(「サブカルチャー」の実践が「主流」に反撃を仕掛けるように)。そして、この論理を反転させれば、私たちのこの「挨拶文」にも解放の意味を与え、時間の断絶点にとどまりたいという願いを託すことができる。こう考えると、皮肉なことに、「挨拶文」とはまず戦争なのだ。未来に向けた戦争(「時計の針に向かって発砲する」)である——そこでは、私たちの書く言葉が、敵陣へ突撃する兵士へと姿を変える。そして、その手にあるのは、過去という名の武器なのだ。

『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』第9話。画面下部の日本語歌詞は「時計の針を今 止めて」。上部の中国語字幕は「私が今、時計の針を止める」の意。

2

ベンヤミンの思考では、歴史と過去が大きな部分を占めている。彼が私たちに示した「新しい天使」の像にも、それは表れている。彼はドイツのバロック演劇や、十九世紀のフランスを研究した。しかし同時に、「いま」を観察していたからこそ、しがない「歴史家」という肩書きだけで終わらずに済んだ。「一言で言う」なら、ベンヤミンは、評論家やエッセイストではなく、批評家と呼ぶのが最も近いのかもしれない。彼自身の言葉を借りよう。

たとえば、成長を続ける作品を火葬の薪の山と見なすなら、その注釈者は化学者に、その批評家は錬金術師にたとえられる。前者にとって分析の対象となるのは薪と灰だけだが、後者が関心を寄せるのは炎そのものの謎、すなわち生きていることの秘密である。だからこそ、批評家は真理を探究する。その生きた炎は、過去の乾いた薪と、過ぎ去った生の灰の上で燃え続けるのだ。7

だが、この評価もまた矛盾をはらんでいる。これも彼の言葉だ。

いま批評の衰退を嘆く者は愚かである。批評の時代はとうに過ぎ去ったのだから。批評には少なくとも、事物との適切な距離が必要だ。批評の尊重すべき点は、そこではまだ、ある立場から問題を見ることができるということにある。いまや、物質による社会への侵入は、あまりにも隅々まで及んでいる。……今日、物質を最もありのままに、最も本質に即して捉えるまなざし、それが商業広告である。広告は、批評的な観察が自由に成り立つ領域を取り壊した。物質が恐ろしいほど近くまで迫り、まっすぐこちらへ突進してくる。映画のスクリーンから巨大な自動車がこちらへ突っ込んでくるように。……こうして「事物の根源」もまた終わりを迎える……研究対象の温もりが彼に伝わり、感覚の源を揺り動かす。広告をこれほどまでに批評に優越させるものは、いったい何なのか。点滅するネオンの看板に何が書かれているかではない。アスファルトの路面に映る、あの炎の光なのだ。89

『一方通行路』が刊行されたのは1928年である——そして私たちは、今日でもこの断言が一字も変えずに通用することを、憂鬱な気持ちで認めるほかない。私たちが直面する現実と彼の記述に何か違いがあるとすれば、それは、もはや「評論」と「批評」を明確に区別できないということだ。伝統に逆らい、想像力に満ちていたこの実践は、いまでは大学の専攻になっている(そう考えると、一日中「文化研究の想像力」を叫んでいる人々の口調は、むしろヒステリーと言うべきだろう。想像力が今日、最も希少な商品になったことを、私たちに思い出させる——彼らの想像力も売り物になるのなら、だが)。

さらに悪いことに、いまや「評論」でさえ、かつての効力をますます失いつつある。今日、評論する者と評論されるものが一体化しているさまを見ればよい。主流の文化商品の視覚中心主義が極みに達すると、私たちの評論も、動画という形式を借りなければ成立しなくなる。そればかりか、評論の文章の多くが、画像ミームや、インパクト狙いの大げさな書体へと、さらに退化している。私たちは文字の力を、かつてないほど弱めてしまった——しかも、そのすべてが、文芸作品の評論を(たとえ「ハリー・ポッター文学」であっても)飲食店レビューに仕立て、作品を売り、評判を高めるための資本を、さらに注ぎ込むためでしかないのだ。

今日、生きた批評はとうに死んでいると言える。その代わりにあるのは、アカデミズム臭の染みついた批評装置の一式だ。そしてオタク文化では、批評と評論は初めから作品の生産、販売、交換に結びつき、その受け手が自らのアイデンティティを形づくるうえでも、ほとんど前例のないほどの影響を及ぼしている。そこで私たちは問わねばならない。ACGN作品10を読む際に、それほどアカデミズムに染まってはいないが、それでもなお「理論的」な視点を導入することに、なぜこだわるのか。なぜ今なお屋頂現視研とそのACGN評論を必要とするのか。

3

この問いに答えるには、もう一度、第1節に戻らなければならない。時間の断絶点で私たちが行う、書くという実践。その関心が向かう先は、まさに歴史のなかで失われた可能性である。

過去は時間の目録を携え、その目録を介して救済へと託されている。過去の人々と、いま生きている人々とのあいだには、秘密の約束がある。私たちの到来は、この地上で待ち望まれていた。先人たちと同じく、私たちにも弱いメシア的な力が与えられている。この力に対する請求権は、過去に属している。1112

これこそベンヤミンの要点ではないか。過去はつねに失敗している。だが、過去の失敗を救い出してこそ、未来の成功は築かれる。だから、真に重要なのは、「過去へ頭から飛び込む」という省察の運動なのだ——真のメシアが到来するまで、私たちはこの姿勢を一切妥協せずに貫かなければならない。本稿に野心があるとすれば、それは一つしかない。この「挨拶文」によって、すでに失敗し、これからも失敗する私たちの批評を救済し、屋頂現視研の文章のために、粗削りな指針を示すことである。

4

私たちの一周年記念で、钟先生はACGN評論のパラダイムとして精神分析(ラカン=ジジェク)を論じた。しかし、ラカンがオタク文化に初めて登場したときの、ほとんどトラウマ的とも言える出来事には触れなかった。斎藤環が『戦闘美少女の精神分析』で、オタクとその欲望を擁護しようとした、あの試みだ。同書が出版された2000年には、宮崎勤の影はまだ遠ざかっていなかった。また私たちは、『EVA』と地下鉄サリン事件のあいだに、「終末」と「終末後」の問題に対する態度の驚くほどの一致を見ることもできる。こうした状況で、斎藤環の最優先の課題は、オタクが「変態」(pervert、精神分析でいう倒錯者)ではないと証明することだった。

戦闘美少女がこれほど大きな反響を呼ぶことは、今日の社会、とりわけ今日の社会における女性の境遇を、見事に象徴している。この言い分は正しいのかもしれない……だが、私の興味をさほど引くものではない。この見方はいささか素朴すぎる。虚構を現実の生活の「真実」の反映と見なしているが、それこそ、事実と虚構を混同するという誤りの典型例なのである。1314

この問題に対する斎藤環の姿勢が正しいことは、私たちも認める。しかし、続く議論で彼は道を誤る。オタクと戦闘美少女との関係における欲望のエコノミー、つまり欲望の配分と循環の仕組みは、それ自体で成り立つという。その一方で、その仕組みは「日本という空間がきわめて強く文脈に依存すること」に支えられているとし、最後には「去勢されていない想像」という概念へと向かう。

この問題へのさらなる応答と批判は、すでにLudの文章でなされている。そこで、ここでは斎藤の理論の別の側面へ目を向けよう。斎藤の文章は、今日の精神分析家の使命を描く典型とも言える。その使命とは、次のようなものだ。

……人々に問題への注意を促しながら、何よりもパニックを引き起こさないための、適切な手立てを見つけるのは難しい……今日の精神分析の臨床家、精神分析の研究者は、国家に、その代表者に、……自分たちが持つ一定の知識を伝えられなければならない。その知識によって、周期的に押し寄せるパニックの波に、実際に対処できるのだ。1516

フロイトの時代の精神分析の言説が、「正常でない」患者を治療するために生まれたのだとすれば、その「伝統」は今日の分析家たちのもとで、最もよく保存されていると言える。分析家の治療を受ければ、私たちは誰でも、自分はどんな意味でも「変態」ではないと言い聞かせ、自らの享楽に固執できるのだから——この論法は、宮崎勤にも、あるいは近ごろの青葉真司にも、そのまま広げられる(まず、彼らがこんなふうに自分を弁護できることが、どれほど気色悪いかを考えてほしい。そして逆に、このような弁護の筋道そのものが、どれほど宮崎勤的、青葉真司的であるかも考えてほしい)。

屋頂現視研がACGN評論に精神分析を用いることにこだわるのも、まさにこの問題を出発点としている。斎藤環の試みがすでに失敗し、忘れられてしまった今日、私たちの評論は作品「そのもの」を対象とするだけではない。既存の解釈に満足するのではなく、理論にも新しい道を開こうとする試みなのだ。

5

精神分析というパラダイムへの疑問には、その目的から応えることもできる。幻想の横断(la traversée du fantasme)である。

最も重要な問題は、敵をどう非難し、理性的に打ち負かすかではない——その仕事は、かえって敵による私たちへの支配を強めることになりやすい——そうではなく、敵が私たちにかけた(幻想の)呪文をどう打ち破るかなのだ。幻想の横断が目指すのは、旧左翼の清教徒主義的なモデルのように、享楽を捨て去ることではない。幻想から距離を取るとは、私が享楽‐意味を幻想の枠組みから「解き放ち」、その性質を確定できない残余として認めることである。それは、本来「反動的」で歴史の惰性を支えるものでもなければ、既存の秩序の束縛を打ち破らせてくれる解放の力でもない。1718

この原則を貫くことも、私たちの批評の一部だと言える。この時代の文化商品であるACGN作品は、社会的・文化的現実の無視できない一部であり、細心の注意を払って吟味するに値する。作品が伝える考えや思索は、その形式を通じて、どのように見る者に受け入れられるのか。それに答えようとするなら、単に共感し、感動するだけでは足りない。必要なのは、批評の道具を十分に揃えて作品を解剖すること、そして、その解剖から生まれる想像力なのだ。

6

屋頂現視研は省察する立場にある。あるいは、「省察しないこと」に反対する立場にある。私たちはそのことを、これまで一度も隠してはいない。この立場から私たちは、アルチュセールのいうAIE、すなわち国家のイデオロギー諸装置が物質的な形をとったACGN作品を、条件反射のように疑う。あらゆる「単純さ」への過剰な賛美を疑うのだ。

私たちは、ACGN作品やその派生物(最もわかりやすい例を挙げれば、Vtuberたち)に、フェティシズム(fetishism)にとらわれてただ酔いしれることに、同意しない。とりわけ、それらが性的な欲望に訴える性質を持つことを考えるならば。

私たちは、作品の伝える価値観を単純に肯定することに、同意しない。大多数の作品は、家族愛、友情、恋愛を、何も考えずに直球で礼賛する。こうした礼賛は往々にして、日常生活の秩序のなかに、そうしたいわゆる「美しいもの」そのものが欠けているからこそ成り立つ。そもそも存在しないものを際限なく擁護し、声をからして叫び続けることに支えられているのだ。そこには、ほんのわずかな省察も残っていないと言える。

……

ここで私たちは、冒頭から掲げてきた問いに戻らなければならない。なぜ今なお屋頂現視研とそのACGN評論を必要とするのか。この問いには主語が欠けている——誰が/何が、なお屋頂現視研を必要としているのか。いかなる、いわゆる「歴史の精神」も、その答えにはなりえない。ベンヤミンが述べたように、

天国から嵐が吹いてくる。それは天使の翼を激しく打ち、もはや翼を閉じることさえできなくする。嵐は抗いようもなく、天使が背を向けている未来へと彼を吹き飛ばす。その一方で、彼の前では瓦礫がますます高く積み重なり、天に届こうとしている。この嵐こそ、私たちが進歩と呼んでいるものなのだ。19

ここで私たちが出す答えは、こうだ。屋頂現視研が書くのは、ただ一つの単純な目的のためである——私たちは問いを立てたい。そして、あらゆる「単純さ」を疑う営みに、さらに多くの読者が加わるきっかけを作りたい。私たちの文章は、いかなる問題をも解決しようとはしない——すでに強調したように、書き始めたその瞬間から、「問題を解決する」「答えを出す」という意味では、私たちはつねにすでに失敗している。そのことはよく知っている。それでも私たちは問いを立てることにこだわり、問いの力を疑わない。問いは人々の思考の仕方を変え、それによって、クーンの意味での「パラダイム革命」を成し遂げることができる。問いを立てるために疑うこと(ヘーゲルの意味での否定)こそが、ほかでもない、私たちの理性を最もよく言い表すものなのだ。それは私たちを未来へと導くことができる。しかし同時に、未来へ向かうこの旅は、必ずや苦難に満ちたものとなるだろう。ヘーゲルの言葉を借りれば、それは「陶冶」の旅であり、そのなかで「精神が黙々と織り続ける」のである。20

——屋頂現視研、2019年12月31日夜

本文終わり
注20

注釈

  1. ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」第IVテーゼ。 ↑

  2. 訳注:この二行は、ベンヤミンがヘーゲルの言葉として掲げる句を、本稿が短縮した形である。原著では、まず衣食を求めよ、そうすれば神の国が自ずと与えられる、という順序になっている。参照:「歴史の概念について」ドイツ語本文、第IVテーゼ。 ↑

  3. 「ある合作社の紹介」、『紅旗』1958年第1号。 ↑

  4. 訳注:毛沢東が1958年4月15日に執筆した文章からの引用。参照:中国共産党の公的年表、1958年6月1日の項。 ↑

  5. ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」第XVテーゼ。 ↑

  6. 訳注:この中国語引用は、原著の第XVテーゼと一部異なる。原著では「数百年」ではなく百年、末尾の詩では「新たな指導者たち」ではなく新たなヨシュアたち、「針」ではなく時計の文字盤となっている。 ↑

  7. 訳注:出典はベンヤミン「ゲーテの『親和力』」冒頭。引用内の「注釈者」は原語の Kommentator による。原著は注釈・注解(Kommentar)と批評(Kritik)を区別しているが、本稿の中国語は前者を「评论」と表し、地の文の「評論」へつないでいる。 ↑

  8. ヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』「この広告面、貸します」の節。 ↑

  9. 訳注:節の原題は「Diese Flächen sind zu vermieten」、初版63–64頁。「事物の根源」に当たる原著の語は、事柄に即した客観性を意味する Sachlichkeit であり、中国語の「事物本原」とは異なる。また「彼」は、省略された箇所に登場する、報酬を受け取って評論を書く者を指す。省略と太字の強調は中国語記事による。 ↑

  10. 訳注:ACGNは、アニメ・コミック・ゲーム・小説をまとめて指す、中国語圏で用いられる略称。 ↑

  11. ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」第IIテーゼ。 ↑

  12. 訳注:中国語引用は原著の第IIテーゼの一部を抜粋し、省略を明示せずに接続している。「時間の目録」に当たる原著の表現は「秘密の索引・指標」の意。 ↑

  13. 斎藤環『戦闘美少女の精神分析』。 ↑

  14. 訳注:『戦闘美少女の精神分析』は太田出版から2000年刊、ちくま文庫版は2006年刊。次の段落は本稿著者による斎藤の議論の要約であり、引用符付きの「日本という空間がきわめて強く文脈に依存すること」「去勢されていない想像」も、その要約の中国語を訳したものである。 ↑

  15. ジャン=ピエール・エルカバック(Jean-Pierre Elkabbach)による、ジャック=アラン・ミレールおよびベルナール・アコワイエへの電話インタビュー、2003年10月31日。 ↑

  16. 訳注:引用の話者はジャック=アラン・ミレール。Europe 1の当該放送は、精神療法をめぐるアコワイエの修正案を扱っている。参照:リリアナ・シンガーによる放送記録の英訳。 ↑

  17. スラヴォイ・ジジェク「『私は目であなたの声を聞く』、あるいは見えない主人」、Gaze and Voice as Love Objects, Durham, NC: Duke University Press, 1996所収。 ↑

  18. 訳注:原題は “‘I Hear You with My Eyes’; or, The Invisible Master”、収録頁90–126頁、引用箇所は118頁。「享楽‐意味」は中国語引用の表現で、英語原著では jouissance(享楽)となっている。太字の強調は中国語記事による。 ↑

  19. ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」第IXテーゼ。 ↑

  20. 訳注:「精神が黙々と織り続ける」は、ヘーゲル『精神現象学』で啓蒙と信仰との闘争を論じる箇所の stumme Fortweben des Geistes に対応する圧縮表現。参照:ドイツ語本文。 ↑

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