本文は同人誌『東方文化学刊』2020年春号に初出し、図版を増補したBilibili版が掲載された。拾荒戦略 Rags Drum 2021前夜祭の受賞稿でもある。
序論
古今東西、高尚なものから通俗的なものまで、俗世から聖なる世界まで、「動物」は人間の文芸創作に効く万能薬であり、尽きることのない素材の源だと言える。商周の青銅器から古代エジプトの壁画まで、呉承恩の『西遊記』から芥川龍之介の『河童』まで、藤子不二雄の『ドラえもん』からHypergryphの『アークナイツ』まで、人間は「動物」を征服し、奴隷化する一方で、これほどまでに「動物」を愛好し、ときには夢中になり、崇拝さえしてきた。
洞窟壁画の時代から、人間による動物の「二次創作」はさまざまな姿に分岐してきたが、基本的には二つの型にまとめられる。「人間の動物化」と「動物の人間化」である。『西遊記』は前者の典型であり、西天取経の旅とは、仏法の導きのもと、師弟四人が自らの「動物性」を消し去る「成人儀礼」にほかならない。しかし「動物性」は、いつも否定的な意味だけを帯びるわけではない。日本の諏訪地方に伝わる民間伝承「甲賀三郎」1 は「人間の動物化」に属し、甲賀三郎は人間から蛇へと変じることで、蛇の「神性」を得るのである。

古代の祭司たちは動物を演じることで天と通じる道を開いた。一方、現代資本に突き動かされた動物の扮装は、奇妙な欲望をも目覚めさせた。猫耳は、画面の内外で女性がオタクの心をつかむ秘密兵器となり、近ごろではカフェで「うさぎを注文」することさえできる。疑いなく、「動物性」は現代ポップカルチャーの巨大な「データベース」に入り込み、そこに蓄積されたさまざまな要素と交配して「新しくも古い」文化商品となり、今日の象徴交換のなかで流通している。
この観点からすれば、人間による動物の「二次創作」には、純粋な「動物」など決して存在しない。人間が想像し、分類した瞬間、そこから生まれるものは、どうしても人間の形を帯びてしまうからだ。これが、「動物、ゆえに我あり」2 と言われる理由の一つでもある。われわれの思考活動において、科学的研究を除けば、「人間」と「動物」はつねに互いに投影し合い、照らし合う存在である。われわれはしばしば、人間の基準や心性から動物を測り、推し量る。動物に感情はあるのか、動物に権利はあるのか、といった具合に。現代哲学が「動物」について見いだした最大の発見は、人間と動物を区別することが、往々にして単なる科学的探究ではなく、強い政治的意味を帯びた文化的秩序の構築であることだ。権力関係の構築に敏感な研究者/文化研究者たちは、人間と動物は境界を引かれた時点から平等ではなく、階層化された権利構造に組み込まれていると指摘する。人間と動物の境界は、科学的分類ほど厳密でも変更困難でもなく、浮動し、変化しやすい。一方では人間が動物の権利を訴え、動物に(ある程度の)「人権」を与える。他方では、戦争や天災などの特殊な状況において、人間も「人権」を剥奪され、奴隷にされ、屠殺を待つ「動物」へと転落する。さらに、「人間による自然の征服」を推進した産業革命のもとで近代以降に流行した優等民族/劣等民族の神話は、人間(魂)と動物(肉体)という古い「陰陽図」のような対に、その社会心理の根を見いだせるという見方もある。いわゆる西洋中心主義も、中国の華夷思想も、結局は「人間は万物の霊長である」という観念の変種にすぎない。しかし、ナチスのように優越感と支配欲の上に築かれた「人類学機械」3 が「正道」によって滅ぼされた後でさえ、鉄のカーテン下の政治、父権社会、人種差別、環境危機、宗教紛争など、平等の理想を嘲笑する根深い病弊は次々と現れる。だから理想主義者や芸術家は、「ゴジラ」のような復讐の巨霊を呼び出し、書物やスクリーンの上で大都市に上陸させ、破壊光線を放って悪を一挙に打ち砕き、最後には人間が本来実現できるはずの「友愛」に希望を託すしかないのである。

「動物問題」は、動物保護主義者がわざわざ騒ぎ立てるだけの話ではない。動物がいなければ、人類は農耕社会へ踏み出すことさえ難しかっただろうし、われわれの「伴侶種」とどう付き合うかを学ぶことは、人類自身の運命とも密接に関わっている。たとえば、子年の2020年に猛威を振るったコロナウイルスは、人間の動物に対する傲慢さと無関係ではない。そして、ウイルスに感染した人々も、冷血な現代社会のなかで、動物的な「剥き出しの生」へと変えられてしまう。
千年紀の変わり目に育ったわれわれは、平成日本の文化に親しみ、その影響を受けて成長した世代である。平成の作り手たちには、「動物問題」を深く省察した者が少なくない。太田酒鬼は、座右の銘に「人を呪わば穴二つ」を掲げているという。この日本のことわざの意味は、「自業自得」や「自縄自縛」に近い。平成のさまざまな「動物」の物語を見ていくと、「動物」がたしかに人間の運命を映し出す一枚の「ハハ鏡」――姿をゆがめて映す鏡――であることに気づくだろう。人間が動物をどう見るかは、人間自身の運命と結びついている。デリダの議論を言い換えれば、「われわれは動物を見つめ、動物もまたわれわれを見返す」のである。以下では、平成の漫画家やアニメ作家がこの問題をどのように扱ったのかを見ていこう。
腐海と王蟲――人種を浄化する人工生態系
「動物問題」について最も深く考察したアニメ/漫画の作り手は、平成(1989―2019)以前、戦火の洗礼を受けた昭和(1926.12―1989.1)世代にほかならない。戦争機械のなかで人間が「動物」へと転落するのを目の当たりにした彼らは、戦後日本のアニメ・漫画界における師であり良心となった。少女と巨大な異種の友情を描く宮崎駿(1941―)の長編漫画『風の谷のナウシカ』は、昭和の末(1982)に執筆が始まり、平成の初め(1994)に完結した、昭和世代による「動物問題」省察の代表作の一つである。
『風の谷のナウシカ』における「動物の主役」は、蟲の群れと菌類だ。人類文明を滅ぼした世界大戦「火の七日間」の後、彼らが形づくる腐海の生態系は地球上で拡大を続け、人間の生存空間を絶えず侵食している。人間は蟲の王国の縁でかろうじて生き延びる一方、残された土地をめぐって互いに殺し合っている。

『風の谷のナウシカ』における、「人間」から「非人間」へと広がる「人間―動物のスペクトル」は、きわめて複雑である。トルメキア人、土鬼人、蟲使い、森の人、ヒドラ5、巨神兵、王蟲、粘菌、蟲の食料となる木々などだ。しかも『風の谷のナウシカ』の荒廃した世界には、「純粋な」「真正の」人類など存在しない。「火の七日間」を生き残った人間は、生物工学によって自らの身体を荒廃した環境に適応するよう改造し、環境を改変する人工生態系「腐海」を設計して、前代未聞の地球浄化事業を開始した。この意味で、『風の谷のナウシカ』に登場する存在は――「翼ある救世主」ナウシカを含め――すべて「非人間」の「動物的生命」なのである。
興味深いことに、腐海計画は単なる環境浄化の科学事業ではない。それは同時に、巨大な人種浄化の政治計画でもあった。
腐海浄化計画の設計者たちの構想では、ナウシカの目に「高貴」と映る蟲族も、トルメキア人、土鬼人、風の谷の住民、蟲使い、腐海の奥深くへ逃れ蟲の群れと共存する森の人など旧人類の末裔も、さらには超人的な身体能力や膨大な知性を持つ人工生命「ヒドラ」も――シュワの墓所の外にいるあらゆる種が、浄化事業に奉仕させられている。彼らは「政治的生」(たとえば生存権)を奪われた「剥き出しの生」6 なのだ。物語の結末で、ナウシカはシュワの墓所の中枢を構成する知性あるヒドラ――「墓所の主」――に、滅びる運命にある者たちを本当に欺くつもりなのか、どれほど知識や技術を与えても世界の復活には奴隷が必要なのではないか、と問いただす。巨大な生物人工知能が管理するシュワの墓所は、腐海浄化計画全体の「総司令部」である。墓所の主(人工知能)は、失われた旧文明の技術――主に生物工学――を切り札に、政治へ介入し、戦争を操り、自らの代理人を探して育てることで、荒廃した世界の人間社会全体を支配する。そして生き残った旧人類を、ヒドラのように浄化計画に従う生身の「機械奴隷」へと「改造」していく。難攻不落の旧文明の技術の結晶である「シュワの墓所」は、腐海の生物工学体系の管理者であるだけではない。それは「新人類」の揺籃でもある。シュワの墓所には、腐海浄化計画の創始者が設計した「新人類」の胚が保存されている。「身体」(遺伝子)を改造されているため、「新人類」は腐海浄化計画完了後の地球環境に適応できるだけでなく、愚昧で、残虐で、略奪的な旧人類よりも「賢く」「従順な」種族でもある。腐海計画の完遂は旧人種の絶滅と新人種の誕生を意味する。新たな地球環境に適応できない旧人類は、腐海の果てにある「青い浄土」で血を吐きながら死に、腐海とともに自らの道具としての使命を終えるだけなのだ。この観点から見れば、腐海の生態系とは実質的に、人種を浄化する巨大な有機的「人類学機械」なのである。

人文主義の観点からすれば、これはなんと偉大な「人類補完計画」だろう。腐海浄化計画の設計者たち自身、世界を汚染し、争いをやめられない旧人類の一部である。彼らは絶望と混乱の時代に知性のエリートを集め、旧人類のために苦難に満ちた「贖罪の道」を設計した。そしてその「贖罪の道」の果てに、自らの種族の黄昏をもって新たな人種の夜明けを呼び出そうとしたのである。しかしナウシカは、墓所の主が示したこの「光明と希望の道」をきっぱりと拒絶する。彼女は、いわゆる「贖罪計画」の背後にある傲慢を見抜いたのだ。旧人類であれ新人類であれ、旧文明の浄化主義者たちは依然として、人間を世界の中心的主体とする立場を掲げている。彼らは自らを創造主と称し、生命(主体)を、好き勝手に改造し、廃棄できる道具(客体)として扱う。墓所の主の人工生命技術は、荒廃した時代の戦争を推進する道具となった。ヒドラの超兵士、王蟲の幼生を使った囮、あらゆるものを食らう巨大で猛毒の粘菌などの生物兵器が、荒廃した世界の人間たちによる報復の連鎖に利用される。旧人類の末裔たちが絶え間なく繰り返す戦争もまた、「贖罪の道」にあらかじめ組み込まれた一過程だった。なぜなら、それによって腐海の拡大と旧人種の滅亡が大幅に加速するからである。

浄化主義者たちはさらに、生命技術によって一種の「完璧な新人類」を作ろうとした。この「新人類」は、動物、人工生物、機械、旧人類など、他の非人間的な存在とは異なる本質的属性を備える。その属性とは、知性や優しさといった特質からなる「人間性」、つまり墓所の主が言う「生命の光」である。だがナウシカは、この新人類という「完璧な生命」の空虚さを暴く。他者を気遣う温情と他者と共存する知恵――「人間性」――は、遺伝子によって決定される生得的な属性などではなく、他者との相互作用のなかで構築されるものだからだ。ナウシカが蟲の群れとの交わりのなかで知ったように、「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」。旧人類の絶滅を企てた腐海計画の設計者たちは、腐海を守る蟲の群れを、人間と共存できる種として設計することなどできなかった。しかし長い進化のなかで、ナウシカの時代の王蟲は人間を受け入れる温情を示すようになった。腐海の生態系には人間の住民さえ組み込まれ、蟲の群れは「森の人」たちに食料として蟲の卵を分け与えている。それに比べれば、征服をやめない旧人類は、同類に対する「友愛」さえ実現できない。それでも千年にわたって腐海と人間世界が衝突するなか、腐海の首領である王蟲と一人の人間の少女は友情を結んだ。蟲の群れがもともとまとっていた空虚な道具の殻から、人間への友愛があふれ出したのである――それはレヴィナス(Emmanuel Lévinas, 1906―1995)的な、「無限に異質な他者を受け入れること」だった。人間は互いに憐れみ合えない。しかし「動物」は人間を憐れむことができる。浄化主義者たちは、人間の「愚かさ」「貪欲さ」「残虐さ」「好戦性」などを動物性(獣性)だと決めつけて動物をおとしめ、それらを「人間性」から排除し、この区別に基づいて人間の内部に「非人間」をつくり出している。そうした者たちにとって、これはまさに真っ向から突きつけられた皮肉なのである。
しかし、滅びへ向かうこの世界を前にして、浄化主義者たちが設計した「贖罪の道」が行き詰まるとしたら、人類はいったいどこへ向かえばよいのか。これに対してナウシカは、人類の活路は「伴侶種」にあると考える。平たくいえば、『風の谷のナウシカ』における人類文明の危機の根源は、人類が「友達をつくれない」ことにある――人類は、人間社会の内部や自然界に存在する自分たちとは異質な存在(他者)を、対等な立場で、さらには自らがへりくだって受け入れることができない。その根源にあるのは、人間中心主義の世界観だ。人間はいつも高みから、「人類学機械」によって人間と非人間(動物)を生み出し、「人間の尺度」で世界を二つに切り分けるのである。

「動物問題」をめぐるポスト構造主義以降の研究において、ハラウェイ(Donna Jeanne Haraway, 1944–)は、人間と非人間を分ける人間中心主義的な二分法を解体し、種と種のあいだにある多元主義的な「伴侶種」関係へと組み替えた。『伴侶種宣言――犬と人の「重要な他者性」』8で、ハラウェイは人間と最も密接な関係を持つ動物の一つである犬を事例として、人間と犬(「動物」)が互いに「伴侶種」であり、双方が互いを形づくりながら共に進化していく相互的な関係を明らかにしている。ハラウェイにとって、人間と「動物」の関係は、見る者と見られる者、飼いならす者と飼いならされる者、奴隷にする者と奴隷にされる者という、主体と客体の対立や一方向的な関係ではない。それは、対等な種同士の、友愛的な「対話」の関係である――世界に存在するのは「人」と「非人」という二種類の種だけではない。人類は宇宙に無数に存在する種のうちの小さな一員にすぎず、私たちは他の種と複雑な関係で絡み合いながら、共に生き、共に進化している――私たちは動物を「見る」が、動物もまた私たちを「見る」のだ。
『風の谷のナウシカ』において、腐海の生物は人類文明をのみ込む終末の使者であると同時に、人類に希望をもたらす「伴侶種」でもある。ナウシカは墓所の主への反論のなかで、生きているものは変わるのだと訴える。王蟲も、粘菌も、草木も、人間も変わるし、自分たちも腐海と共生できるのだと。そしてこう言い放つ。「私達は血を吐きつつ くり返しくり返し その朝をこえて とぶ鳥だ!!」。共存への道がどれほど険しくとも、人類と腐海は長い対話のなかで互いを形づくり、共に進化していく――道具としての生命である王蟲の心に広がる虚無の深淵からさえ、人間を憐れむ友愛が湧き上がった。そして人間も、人間を中心に据える人文主義の呪縛を解けば、腐海の生命との交わりのなかで、「絶対的に異質な他者」を受け入れる真の「友愛」を学ぶことができる。
『風の谷のナウシカ』の終盤における墓所の主とナウシカの対決は、人文主義とポストヒューマニズムの見事な応酬だといえる――「研鑽を徹底し、設計を尊ぶ」のか、それとも「謙虚さを保ち、混在を受け入れる」のか。人類の運命の岐路に立って、ナウシカは「伴侶種」を選んだ。つまり、宮崎駿はポストヒューマニズムを選んだのである。しかし、人類文明をのみ込む蟲の群れは、宮崎駿が構想した数々のポストヒューマニズム的な「大津波」の一つにすぎない。『もののけ姫』の発光する巨人から、『崖の上のポニョ』の大洪水に至るまで、宮崎駿は一方で「動物という他者」を崇拝しながら、他方では人間の自己中心的な一方主義の傲慢さを遠回しに批判している。『風の谷のナウシカ』は、冷戦の影のもとに生まれた作品だといえる。人類文明を破壊した「火の七日間」は究極の熱核戦争を暗示し、荒廃した世界の政治も、西洋風のトルメキアと東洋風の土鬼という二つの陣営に分かれている。トルメキアに従属する腐海の辺境小国、風の谷は、アメリカ占領下の日本の鏡像である。二大陣営の終わりなき衝突のなかで、人類同士の殺し合いと蟲たちの友愛が鮮やかな対照をなしている。人間性を消し去る戦争は、「人類学機械」の最も高度な形態だ。戦争においては、すべての人間が非人間的な存在へと格下げされる――戦争機械に仕える道具になるか、戦争機械に殺戮される「動物」になるか、そのどちらかである。

近代社会は、人類史上もっとも恐ろしい二つの「人類学機械」を生み出した。ナチス・ドイツと日本帝国である。それらは西洋社会における自由・平等・博愛という人文主義の神話を打ち砕き、多くの研究者に、「動物問題」を出発点として、人文主義のエンジンである「近代性」を反省させた。しかし、反省したその先に、いったいどんな新しい方策を提示できるのだろうか。
まさにこのような冷戦の背景のもとで、デリダは「動物」と「友」を人間の政治哲学の議題に載せた。そして第二次世界大戦中に「人類学機械」を目の当たりにした日本の漫画・アニメの巨匠たちも、相次いで自らの動物主人公を生み出し、彼らにポストヒューマニズムの旗を担わせた――宮崎駿の『風の谷のナウシカ』と『紅の豚』、手塚治虫の『ジャングル大帝』と『火の鳥』、藤子・F・不二雄の数多くの『ドラえもん』短編・大長編作品9。これら冷戦期、あるいは冷戦末期の「動物の友達」を扱う作品は、多くが人間と動物の関係に立脚し、率直で想像力に富んだ劇の形式によって、冷戦や熱戦、環境汚染のなかにある人間の尊大さと傲慢さを暴き出した。そして、たとえ脆弱であっても、心を込めて育むべき「友愛」を答えとして提示したのである――それが現世にどの程度実現できるのかは、なかなか言えないとしても。
それに対して、現在のポスト冷戦時代における「動物の友達」を扱う作品、たとえば『ユリ熊嵐』や『けものフレンズ』には、熱核戦争が今にも勃発しそうなあの緊張感が薄い。その代わり、より穏やかな寓話の形式で、人間と動物の物語を書いている。
熊に変身する少女と「他者のための愛」
舞台芸術を専攻していた幾原邦彦(1964–)は、宮崎駿と同じく畑違いの領域からアニメ界へ入り、その専門を生かして業界に確固たる地位を築いた。幾原のアニメ作家としての活動は平成に入ってから本格的に始まり、監督作は少ないが粒ぞろいで、個人の作家性が強く、そのほとんどが平成アニメの代表作となった。幾原邦彦の『少女革命ウテナ』(1997)と、庵野秀明が監督した『新世紀エヴァンゲリオン』(Neon Genesis Evangelion, 1995)は、バブル経済と世紀末の時代を象徴するアニメの双璧とされている。『EVA』の父・庵野秀明の親友でもある彼は、平成中期を代表するアニメ作家の一人だといえる。そして『ユリ熊嵐』(2015)は、『輪るピングドラム』(2011)に続き、彼が「動物」に目を向けた二度目の作品である。

『ユリ熊嵐』の主題は、よくある文学的構図の一つである。対立する陣営を背景にした異種族間の恋だ。黒いクマの銀子は、茶色いクマのるるの助けを借りて「断絶の壁」を越え、人間へと変身し、幼い頃の人間の友人・紅羽の「真実の愛のキス」を求める。クマと人間、捕食する側と捕食される側の対立関係が、銀子と紅羽の恋を全編の対立軸にしている10。幾原は作中で、二種類の「愛」を描いた。一つは「同一性」に基づく愛、もう一つは「異質な他者」に向けられる愛である。前者は基本的に、デリダが『友愛のポリティックス』11で解体した西洋的な「友愛」を映し出している――「自己」を出発点として、自分に似た者を友達と認定する一方、自分とは異なる者を敵として排除するのだ。作中のこの「同類」(fellow)の友愛は、「排除の儀」と呼ばれる「人類学機械」によって誓約され、維持されている。その誓いの内容をまとめれば、こうなる。
「友達は最も大切なもの。私たちは友達がいるからこそ、ここに集まっている。私たちの友愛を否定する者は、最低最悪の連中だ。私たちから離れる者は友達ではない。私たちと一致しない者は、みな厄介者だ。空気を読めない者はみな悪党。そして今こそ、罪深い者を排除する時だ。」
異類を排除する「友愛の誓い」(前述)、標準化された装備(制服、猟銃、携帯電話)、電子化された「陶片追放」12、学級委員長・普通の生徒・「悪い生徒」(悪人)からなる階層構造。これらによって、嵐が丘女子学園は異端を粛清するミニチュアの近代政権さながらとなり、学園内の「群れに馴染まない者」は、「同一性」(人種、性別、思想など)を追求する「友愛」の言説によって規律化され、支配される対象となる。

外在性(異質な者を排除する制度)に基づくこの「同類」の友愛とは鮮やかな対照をなすものとして、紅羽の母・澪愛と、金色のクマで紅羽の教師でもあるユリーカとの愛、そして紅羽と銀子のあいだの愛がある。いずれも異質な他者同士の愛だ。さらに、クマリアの人間世界での化身である純花(紅羽の同級生)による「排除の儀」(作中では「透明な嵐」とも呼ばれる)への抵抗がある。クマリアは作中の超越的な存在であり、人間とクマの対立の出発点――クマを知性ある生物へと進化させ、一部のクマに人間へ変身する能力を与えた存在――であると同時に、人間とクマという異質な者同士の共存と相互の愛を唱える精神的指導者でもある。彼女の化身である純花は、紅羽が幼い頃にクマの姿をした銀子と別れてから、人生で二人目に得た親友となった。ユリーカの陰謀によって紅羽が「排除の儀」の次の犠牲者にされようとしていると知った純花は、自ら「異端」となり、命を盾にして紅羽を政治的迫害の「銃口」から守り、紅羽を、紅羽にとって真の「友人」である銀子のもとへ導いた。クマリアは、クマの姿をした化身――断絶のコートの裁判長――の口を通して、銀子や紅羽たちに何度も問いかける。その「スキ」は本物なのか、本当の愛とは何か分かったのか、と。では、クマリアのいう「本当の愛」とはいったい何なのか。
クマリアは、人間世界における代理人・澪愛が娘の紅羽のために書いた童話「月の娘と森の娘」を通じて、真の「友愛」とは何かを説いている。童話のなかで、森と月はそれぞれクマの世界と人間の世界を象徴している。異なる陣営に隔てられた二人の少女は、神(クマリア)の試練を通過しなければならない――鏡のなかの「私」を打ち砕いて初めて、二人は出会い、真の友情を結べるのだ。もちろん「鏡を砕く」ことも、「月」や「森」と同じく一つの隠喩である。少女が打ち砕くのは単なる物理的な像ではなく、ラカン的なナルシシズムの「自我」だ――人間は、自らを振り返ること(「鏡を見ること」)を通じて自我の概念を構築する。そして自我の自己反省性は、他者を征服し、所有する「私のため」の主体を生み出す。私だけが「私」という主体の像によって規定されるのではない。他者や他物もまた、「私」という主体の像に基づいて規定される。つまり自らを振り返る過程で、「私」と私の「同一性」が他者と私の「同一性」へと延長されるのである。

レヴィナスによれば、「他者」と私の「同一性」とは、「他者」が私の一変形、すなわち私から分離した「他我」(alter ego)であることを意味する。そして「他我」は最終的に私へと回帰しなければならない。このことが、主体による「他者」の征服・支配・所有をもたらす。デリダはまさにレヴィナスから刺激を受け、西洋的な「友愛」に潜む主人と奴隷のような搾取関係を解体したのである。『ユリ熊嵐』では、他者が自我の「同一性」へ回帰することが、身体の変身によって描かれる。現実の「月の娘」である紅羽は、当初「鏡の中の自我」を打ち砕く勇気を持てなかった。幼い頃、黒いクマと友達だったことで「政治的迫害」(同級生からのいじめ)を受けた彼女は、クマリアに願い、黒いクマの銀子を自分と同じ人間へ変えてもらう。しかしそれによって銀子と真の友情を築くどころか、銀子のことを完全に忘れてしまった。明らかなことだが、自我を中心に据え、同一性を追求する「愛」は、クマリアが望んだ答えではない――「自我」と「他者」の搾取関係は、真の「友愛」へはつながらないからだ。それに対して「森の娘」である銀子は、自らの身体(人を食べたい欲望)に打ち勝ち、クマとしての身分を捨て、人間の「顔」をもって紅羽の「真実の愛のキス」を求めた。だからこそクマリアは、断絶のコートを通じて、銀子の「愛」を何度も肯定したのである。
『ユリ熊嵐』の結末で、人間である紅羽は断絶のコートにおいて、自分が「自我中心的」な傲慢さを持っていたことを認める――銀子を自分と同類の人間に変えることで、相手を「支配」し、「所有」していたのだと。彼女は再びクマリアに願い、今度こそ「月の娘」は鏡のなかの「自我」を打ち砕き、「同類の友愛」の独我論を解体して、「他者に顔を向ける」ことができた。人間がクマを排除する儀式、つまり人間が銀子を裁く場で、紅羽は人間からクマへと変身し、人間に化身した銀子と「真実の愛のキス」を交わす。クマリアが語った真の「友愛」――レヴィナス的な「他者のための愛」を実現したのである。紅羽はクマに変身することによって、自らの主体性を解体し、銀子を所有し支配する関係を放棄した。「譲る」という姿勢によって、友愛を「人間(自我)中心」から「クマ(他者)中心」へと転換し、自分自身を他者の「人質」としたのである。人間から銀子へ向けられた銃口の前に紅羽は身をさらし、無限の「責任感」をもって、銀子の愛にためらいなく「応答」した。人間へと変身した銀子とともに、人間とクマが相互に「自我」を解体することに基づいた、内在的な「友愛」を完成させたのだ。

紅羽と銀子、銀子とるるの「他者のための愛」において、人とクマの主体性は、主体同士が互いを支配するところに現れるのではない。同類を所有し、異質な者を排除すること――たとえば銀子が純花を見殺しにしたことや、るるが紅羽という「恋敵」を排除しようとしたこと――に現れるのでもない。それは、他者同士が互いのために身を差し出すところに現れる。たとえば紅羽がクマになったこと、るるが銀子の身代わりに弾丸を受けたことだ。レヴィナスによれば、他者のために身を差し出してこそ、私は真の「自我」になれる。「排除の儀」が生み出す友愛は「同類」を愛するが、実際に愛しているのは「自分」である。「同類の友愛」の本質は、人間のナルシシズムだ。銀子が人間になり、紅羽がクマになることによって、初めて「自我」と「他者」のあいだの「断絶の壁」が取り払われ、「自我」が「他者」となり、「自分を愛すること」と「他者を愛すること」が結びついて、真の「友愛」を結べるのである13。
「動物園の獣娘」から「動物の友達」へ
「動物」で名を上げたたつき(生年未公表)は、平成アニメにおけるミレニアル世代であり、平成末期を代表するクリエイターの一人である。「退廃」と「動物」は平成末期の文化で互いを映し合うキーワードであり、現在の日本を支配する二つの要素――アメリカにへいこらする官僚集団と、淀みきった経済状況――を反映し、雑草のように蔓延する社畜文化を浮かび上がらせている。
平成中後期のミレニアル世代にとって、前世紀の侵略戦争は、遠く曖昧な歴史の記憶にすぎない。それは、宮崎駿が昭和から平成へ、「左」から「左とは一線を画す」方向へと微妙に心境を変化させたのと同じである。毛沢東の旗を掲げ、安保闘争や東大占拠に身を投じた戦後昭和の学生運動の青年たちの熱気は、とうに引いていた。平成の社畜と社畜予備軍にとって、現代社会は苦しく、反抗することもできない。だが、少なくとも画面越しに異世界の甘美なハーレムへ逃げ込み、世間の束縛を受けない動物の嫁たちと絆を結ぶことくらいはできる。そうして「世間」に奴隷化され、飼いならされた「動物的な生活」も、なんとかやっていける。在りし日の「昭和男児」から「平成の廃オタ」へと社会意識が変化するなかで、平成初期の宮崎駿の終末叙事詩に登場した、畏怖すべき巨大で高貴な異種は、平成末期のカジュアルなソーシャルゲームでは、社畜が愛玩する、ちっぽけでとぼけた愛らしい獣娘へと変わった。これが、たつきが『けものフレンズ』を創作した時代背景である。

2017年、若者たちから大きな支持を集めた『けものフレンズ』によって、たつきは一躍有名になった。しかし、この作品の中国語題『兽娘动物园』にある「獣娘」も「動物園」も、平成文化においてそれほど輝かしい言葉ではない。「獣娘」とは、人間の女性の特徴と動物の特徴を接ぎ合わせた存在であり、人間の女性の特徴が前面に出ているため、観客はなおも「獣娘」を人間の女性の一類型として認識する。獣娘の代表的な形態であるバニーガールは、男性を喜ばせる性愛文化のほとんど代名詞と化している。男性文化が描く「獣娘」の多くは、その深層に女性の動物化・ペット化、すなわち女性を奴隷化し支配する心性を抱えている。一方、「動物園」は人間中心主義の看板として、すでにフーコーの『監獄の誕生――監視と処罰』において、人間社会に潜む権力構造の隠喩となっていた。ところが『けものフレンズ』は、そのすべてに真っ向から対立する。なぜなら、この動物園はとうに、人類滅亡後の瓦礫と化しているからだ。
前述したレヴィナスは、デカルト以来の「世界は私を中心に回る」という主体性の覇権を批判し、「他者に責任を負う」新しい倫理的主体を構築して、人間中心主義の解体への道を開いた。レヴィナスの他者論は、人間中心主義を解体する「動物問題」を、いかに「動物という他者」を構築するかという問題へと転換した。しかし「動物問題」に関して、レヴィナスは動物が他者になりうるとは考えなかった。動物は人間の欲求をめぐって「現前」しているにすぎない――人間に使われる道具、人間を楽しませる対象、人間の美意識の客体にすぎないからである。レヴィナスの動物観は、「自我」を中心に据える人間の動物哲学的言説体系の縮図だといえる14。デリダは『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(L’animal que donc je suis)において、「浴室で猫に出会った」という個人的経験を出発点に、動物を、絶対的な差異を持つレヴィナス的な「他者」15として構築することで、従来の言説体系に潜む人間中心主義を解体しようとした。

この観点から見ると、日本のポップカルチャーに描かれる「動物の友達」は、まさに「動物という他者」の構築を反映している。そこでは『風の谷のナウシカ』『ユリ熊嵐』『けものフレンズ』が、それぞれ異なる「動物という他者」の身体言説の型を構築している。宮崎駿にとって、動物の身体はその高貴性を担う器であり、したがって彼の描く動物という他者は、人間とは完全に異質な動物の形態である。幾原邦彦は、人間とクマの身体の「交換」によって、ナルシシズム的な「鏡像の私」を解体し、ゆえに彼の描く動物という他者は純然たる人間の「顔」を獲得する。『けものフレンズ』の「獣娘」は、人間と動物の身体の「混合」「交雑」であり、この中間形態、半人半獣の「動物という他者」の身体言説は、現在の日本のポップカルチャーでもっとも流行している文化的様式の一つである。
「獣娘」の人間/動物という二つの顔は、その言説分析に複数の可能性をもたらす。一方では、「獣娘」は人間と「同一」であり、大半の観客は「獣娘」の本質を「かわいい女の子」だとみなし、動物的特徴はむしろ少女の「萌え要素」になる。だとすれば、私たちは「獣娘」から反射されてくる人間の身体イメージに耽溺し、紅羽が銀子を人間に変えようとしたように、他者を「自己」へと回帰させることで、他者を「支配」しているのではないか。もう一方では、「獣娘」は人間にとって「異質な他者」である。『けものフレンズ』の一人ひとりの「獣娘」は異なる種に由来し、しかもそれぞれの動物には一個体の「獣娘」しか存在しないように見える。だからこそ一人ひとりの「獣娘」は自身の独自性を保っている。デリダが創作した「アニモ(animot)」16のように、彼女たちは食卓や屠殺場にいる、「個体」を持たない動物ではない。私たちの身近な人間と同じく、一人ひとりが唯一の生命主体なのである。
レヴィナスの倫理的主体は、「他者」によって規定される主体である――他者は私より高位の存在であり、私は他者によって存在し、私の主体性は他者への従属によって現れる。人間の主人公・かばん(かばんちゃん)にとって、「旅のなかで出会い、交流する動物たちはみな、かばんちゃんが『自分は何の動物なのか』を知る鍵となる」17。ジャパリパークは「異質な他者を喜んで迎え入れる」社会であり、泳ぐ、飛ぶ、穴を掘る、狩るといった技能が異なる「獣娘」を区別すると同時に、「獣娘」同士が協力し、互いを称賛する基盤にもなっている。彼女たちは「これといった特技」のないかばんを排除しなかった。むしろ、さまざまな技能を持つ多くの「動物という他者」との交流のなかで、かばんは自分が何者なのかを形づくっていった――それこそハイデガーのいう「世界を形成する人間」である。

この意味で、『けものフレンズ』には「動物園」にいる「獣娘」は存在しない。人間社会において非人間を生み、身体を規律化し処罰するためのフーコー的な「動物園」(権力機械)18であれ、人間が鏡のなかに構築したラカン的な「獣娘」(ナルシシズム的投影)であれ、いずれも人間中心主義とともに、たつきによって終末の廃墟に葬られてしまったからだ。ジャパリパークの廃墟の住民たちの言語体系に「獣娘」(animal girl)はなく、「フレンズ」(friend)という呼び名しかないのと同じように、『けものフレンズ』にいるのは、人間が不在のとき、他者のための愛を絶えず呼びかける「動物という他者」19だけなのである。
人工知能の偶像と「動物問題」の「平成性」
博識なZUN(1977-)は典拠を多用する創作手法を好む。そのため『東方Project』シリーズには一つの時代回顧・総括としての文化的機能が備わり、日本の平成ポップカルチャーの風向計とみなすことができる。「平成」はすでに終わり、私たちは「令和」という新時代を迎えた。令和元年に登場した『東方鬼形獣 ~ Wily Beast and Weakest Creature.』が平成を振り返り、令和を展望する「時代精神」の趣を帯びるのは、当然だろう。『鬼形獣』の物語は、地獄のなかの「動物(霊)」「人(霊)」「土偶」という三勢力の葛藤をめぐり、平成の「動物問題」を独創的な時代の鏡として映し出す。
前述したように、「動物問題」は人類が古今を通じて考え続けてきた問題である。「人類学機械」や「他者のための愛」など、近代性を反省する「動物」理論は平成以前からすでに提起されており、工業社会初期の歴史的特徴を色濃く帯びながら、ポスト工業化の平成文化によって批判され、継承された。平成のいくつかの「動物」作品に「昭和性」を見いだしたのだとすれば、「動物問題」の「平成性」は存在するのだろうか。存在するとすれば、それはどこにあるのだろう。

人類は、平成という時代に「スクリーン社会」へと移行した。ほとんど誰もが、携帯するスクリーンを通じて、いつでもどこでもネットワークに接続できるようになり、いたるところにあるスクリーンとセンサーがビッグデータを生み、それが人工知能技術の発展を促した。今日の人工知能が遂行できる仕事は依然としてかなり限られているが、AlphaGoが世界の棋界を席巻したことで、人類は、無機的な電子回路でさえ、ある面では人間を超える「創造性」を発揮しうると認めざるをえなくなった。では、人工知能と「動物問題」にはどのようなつながりがあるのか。
人工知能と動物という二つの議題は、一見すると十万八千里も隔たっているように見える。しかし実際には密接に関係している。人工知能の発展は人間中心主義の基盤を揺るがし、人間と「動物」との境界を曖昧にしたからである。人間と動物の違いは、いったいどこにあるのだろう。パスカルは人間を考える葦と呼び、エンゲルスは労働が人間をつくったと論じた。言い換えれば、人間とは人工的な体系を自由に創造できる(思考も労働もその過程に属する)生き物であり、「創造性」こそ地球上で人間にもっとも固有の「知性」なのだ。シロアリは「都市」を築き、猿は「道具」をつくり、狼の群れにも自分たちの「社会」がある。しかし、こうした一見して自然のままではない体系は創造性を欠いて停滞しており、それらの設計はそれぞれの種の遺伝子配列にすでにコードされ、変えることが難しい。結局は自然選択によって淘汰される。地球上で、人間の都市、道具、社会だけが自律的に発展し進化し続けてきた――人工知能が現れるまでは。『鬼形獣』の付属文書にある埴安神袿姫の能力になぞらえていえば、偶像――人工的な体系――を造る能力こそ、「人工知能」が模倣する人間の知性であり、「万物の霊長」における「霊性」の本源である。人間は、山犬や狼、虎や豹に比べて身体能力が限られているにもかかわらず、「この程度の能力」によって他の種を征服し、地球の主人となった。
人工知能とは、人間が創造した、ある程度の創造性を備えた自己組織化体系である。現在の「アイちゃん」(キズナアイ)が人間に取って代わるなどと言えば、笑い話にしかならないとしても、いつの日か、強い人工知能が人類の覇者としての地位を根底から揺さぶることは、荒唐無稽ではない。それは無数のSF作品が繰り返してきた思考実験でもある。人間が「万物の霊長」としての地位から転落したとき、人間は人工知能に身を屈し、知性を持つ機械――「知械」――の奴隷になるべきなのだろうか。言うまでもなく、誰も承知しない。しかしここに、人間中心主義の倫理的ジレンマが生じる――人間が「動物」を征服するのが正当なら、より上位の人工知能が人間を征服するのも当然正当である。人間が「動物」の尊厳を好き勝手に踏みにじれるのなら、人工知能が人間を踏みにじったとき、私たちは何を嘆けるというのか。

『東方鬼形獣』は、現在の人間中心主義の権力構図を逆さまにする「ハハ鏡」そのものである。ZUNは仏教の十界という世界観を巧みに借用し、ゲームの舞台を地獄に接する畜生界に置いた。そして畜生界の「動物(霊)」「人間(霊)」、人間とともに埋葬される偶像(土偶)を、この物語の陰の主役にした。『鬼形獣』で動物霊の侵入による異変が起きた本当の原因は、畜生界で「知械危機(AI危機)」が勃発したことにある。生まれつきの優位性を持つ動物霊は、何の長所も持たない人間霊を支配し、人間霊を「霊長園」に閉じ込めて自分たちの娯楽にした。しかし集められた人間霊は不思議な「化学反応」を起こし、新しい宗教を創造して、造物主としての偶像神を呼び寄せた。偶像神は人間霊を守り、生身でもなければ魂も持たない土偶の軍団をつくり、動物霊を追放して、畜生界の新たな支配者となった。
ここまで物語が進むと、動物・人間・人工知能という三角形の構図はすでにほぼ姿を現している。仏教で地獄に接する「畜生界」は、ZUNが仕掛けた巧妙な目くらましにすぎない。動物霊と人間霊が「動物」と「人間」に対応することは明らかだが、観客を惑わせるために、ZUNは現実における双方の地位と境遇を意図的に完全に反転させた。そして「霊長園」の比喩は、明らかに動物園だけに限られず、他者や異民族を弄び、監禁するあらゆる場所へと敷衍できる。たとえば古代ローマの闘技場や、ナチスの強制収容所である。一方、「偶像」は日本の縄文時代に副葬や祭祀のために使われた土偶に典拠を持つ、死後の世界へ送られる人工物だ。驚くべきことに、土偶と人工知能は同じ物質を基盤としている――ケイ素(シリコン)である。ケイ素という元素は時空を越え、古今を貫くキャラクター設定の手がかりとなった。

「弱肉強食」は『鬼形獣』に何度も登場するキーワードである。たとえばZUNは、ゲームのMusic Roomで、土偶兵士・杖刀偶磨弓がボスとして登場する『鬼形獣』5面の曲「ビーストメトロポリス」(Beast Metropolis、「禽獣の大都会」)についてコメントしている。その中国語での紹介文は、次のような内容である。
「畜生界では弱肉強食こそが唯一の真理だ。経済的な成功が何よりも重要で、個人の思想は尊重されない。個人の感情は、合理化された社会においてはただの障害になる。」
これは、かつてナチスと皇国という、非人間を製造する二台の恐ろしい人類学機械が作動した原理も言い当てている。「劣等民族」を「優等民族」が支配し、さらには絶滅させることさえ、全人類にとって経済的に効率がよく、合理的なのだという論理。天皇を中心とする集団の勝利が何より重要であり、底辺の民衆一人ひとりの命は犠牲にしてよいという論理である。
弱肉強食は、人間中心主義が人間を閉じ込める「理性の檻」である。一見もっともらしいが、実際には狭隘で持続不可能だ。人工知能が人間の知性に挑み始めているように、強者といえども、その強さはつねに一面的であり、「万物の霊長」の座は永遠ではない。ある一面で強いだけでは、私たちはあらゆる困難を乗り越えられない(これも『けものフレンズ』が語った道理の一つである)。一面的な強さだけをひたすら追求し、いわゆる「弱者」を踏みにじれば、私たちもまた、隷属させる者とされる者、捕食する者とされる者の果てしない深淵に落ちていくだけだ。これこそ『鬼形獣』が描く「地獄の光景」である。動物霊は人間霊を「霊長園」に閉じ込めた。しかし自分たちは、霊長園で暴走した「知械軍団」に追い立てられ、自分たちの故郷から追放された。苦い実を自ら味わった動物霊こそ、「ハハ鏡」に映った人間自身なのである。

結語
「動物」の哲学的意味とは、人間にとっての絶対的な他者、すなわち人間とは異なる生き物の存在である。動物という他者について考えることは、さらに多くの他者性について考えることも促す――自分たちと異なる人々、異なる民族、異なる文化、異なるイデオロギーなどを、私たちはどのように扱い、彼らと調和した互恵的な関係、すなわち「友愛」を築くのか。しかし人間の友愛は、動物に対してであれ自分自身に対してであれ、美しい理想であると同時に、あやふやな幻影でもある。暴力による裁きを下す巨神兵であれ、異を認め合う友好的な袿姫であれ、人間がつくった神(人工知能)そのものでさえ、答えを示してはいない。
『ユリ熊嵐』は、童話の筆致で友愛の物語を展開し、それを神(クマリア)の恩寵へと帰着させる。ジャパリパークの廃墟における獣娘たちの友愛が、人類の終末の上に築かれていることは、それだけですでに大いなる皮肉である。しかし、公園の生態系を調整する「安全弁」であるセルリアンを取り除いたなら、動物園の政治的生態系は一挙に変わってしまうのだろうか。私たちには知る由もない。
『鬼形獣』が戦争で始まり、また戦争で終わるように、平成の「動物」物語は、友愛という絵に描いた餅を示すか、あるいは謎めいた収拾のつかない混乱を観客に投げ渡すかのどちらかだった。ただ宮崎駿だけは、「翼ある救世主」ナウシカに既存の権力体制を破壊させ、青年期の血気がまだ冷めていないことを示した。宮崎駿は現実の学生運動では尻尾を巻いて逃げ、ZUNもいつものように物語の続きをプレイヤーに委ねた。それでも、こうした平成の作り手たちを、臆病にも「世界を偶像に託した」と責めることはできない。神に私たちの問いへ答えさせ、英雄に私たちを未来へと導かせたからといって。なぜなら「動物」問題は、たしかに答えるのが難しい問題だからだ。この問いについては、神も知らず、人工知能も知らない。私たちが動物と見つめ合うなかで、少しずつ悟っていくほかないのだろう。

刊行情報(掲載当時の告知)
ゲーム文化研究誌『東方文化学刊』2020年秋季号、まもなく発売。学刊の告知欄もぜひご覧ください。

