屋頂現視研日本語版
中国語原文目次編集プレビュー

『風の谷のナウシカ』から『東方鬼形獣』へ――さまざまな苦境のなかの「偶像に世界を委ねて」

宫酒姬が『風の谷のナウシカ』『ユリ熊嵐』『けものフレンズ』『東方鬼形獣』を手がかりに、動物という他者、人間中心主義、人工知能の偶像をめぐる平成文化の思想的変奏を論じる。

著者: 宫酒姬翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · complete work

本稿は拾荒戦略 Rags Drum 2021前夜祭の受賞作であり、もとはBilibiliに掲載された。

本稿の初出は同人誌『東方文化学刊』2020年春季号で、Bilibili版には図版が追加されている。

はじめに

古今東西、雅俗聖凡を問わず、「動物」は人類の文芸創作にとって、霊薬にも似た素材の源泉でありつづけてきた。殷周の青銅器から古代エジプトの壁画へ、呉承恩の『西遊記』から芥川龍之介の『河童』へ、藤子不二雄の『ドラえもん』からHypergryphの『アークナイツ』へ――人類は「動物」を征服し奴隷としながら、同時にかくも「動物」を愛で、果ては溺れ、崇めてさえきたのである。

洞窟壁画に始まり、人類による動物の「二次創作」はさまざまな姿へと分化してきたが、二つの基本類型に整理することもできる。「人間の動物化」と「動物の人間化」である。『西遊記』は前者のきわめて典型的な例で、天竺への取経の旅とは、実のところ、師弟四人が仏法の導きのもとで自らの「動物性」を消し去っていく「成人儀礼」にほかならない。しかし「動物性」がつねに消極的な意味しか帯びないわけではない。日本の諏訪地方の民間伝承「甲賀三郎」1は「人間の動物化」に属し、甲賀三郎は人から蛇と化すことで、蛇の「神性」を獲得するのである。

『ご注文はうさぎですか?』成人向け同人誌の表紙
2011年に連載の始まった漫画/アニメシリーズ『ご注文はうさぎですか?』の成人向け同人誌。うさぎはその旺盛な繁殖力ゆえに、欧米の民間信仰では繁栄と豊穣をもたらす精霊となった。たとえば春の再生の祝祭とキリスト教信仰とが混ざり合った復活祭(イースター)の主役は、キリストではなく、「新しい生命を創造する」うさぎである。うさぎ信仰にエロティックな側面が存在することは明らかで、バニーガールはまさにうさぎ信仰から進化してきた現代のエロス文化であり、その身体の語りが言外に含意するのは「いつでも性交に応じる用意のある女性」である。『ごちうさ』は「うさぎ」と相互テクストをなす少女たちを健全な手法でしか描いていないが、このシリーズの爆発的な人気も、現代の紳士たちによる『ごちうさ』への一味違った解釈と無縁ではあるまい。

上古の巫祝は動物を演じることで天へ通じる道を開いた。そして現代の資本に駆り立てられて、動物の扮装は奇妙な心性に目覚めている。猫耳はスクリーンの内外で女性たちがオタクの心を虜にする秘密兵器となり、最近ではカフェで「うさぎをご注文」することさえできる。疑いなく、「動物性」はすでに現代ポピュラー文化の壮大な「データベース」に入り込み、そこにあるさまざまな元素要素と交雑して「新古」の文化商品となり、今日の象徴交換のなかで活躍しているのである。

この角度から見れば、人類による動物の「二次創作」に純粋な「動物」など存在したためしはない。人間の想像と分別を一度くぐれば、そこから生まれてくるものはどうしても人間のかたちを帯びてしまうからで、これが「動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある」2と言われるゆえんの一つでもある。私たちの思考の営みのなかで、科学研究を別にすれば、「人間」と「動物」はつねに、互いを投影し合い、映し合う一対の存在であった。私たちはしばしば人間の基準や心理で動物を測り、推し量る。動物に感情はあるのか、動物に権利はあるのか、というように。現代哲学による「動物」の最大の再発見とは、人間と動物の区分がしばしば、純粋に科学的な知の実践ではなく、強い政治的意味を帯びた文化的秩序の構築だ、ということである。権力関係の構築に敏感な研究者たち/文化研究者たちは指摘する。人間と動物は分界されたその時から平等ではなく、階層化された権利構造のなかに嵌め込まれている。人間と動物の境界線は、科学的分類のように厳密で変更しがたいものではなく、浮動的で変わりやすい。一方で人類は動物の権利を訴え、動物に(一定程度の)「人権」を与えるが、他方で、戦争や天災といった特殊な状況の下では、人間もまた「人権」を剥奪され、奴隷とされ屠殺を待つ「動物」へと転落する。また、「人類による自然の征服」を掲げた産業革命に押し進められて、近現代に流行した優等/劣等民族の神話はいずれも、人間(魂)と動物(肉体)という古い「陰陽図」のなかにその社会心理の根源を見出せる、と論じる者もいる。いわゆる西洋中心主義も、中国の華夷思想も、「人は万物の霊長である」の変奏にすぎない。しかし、ナチスのような、優越感と支配欲の上に築かれた「人類学機械」3が「正道」によって誅滅されたのちも、鉄のカーテンの政治、家父長制社会、人種差別、環境危機、宗教紛争といった、平等の理想を嘲笑う病弊は次から次へと現れつづける。そして理想主義者と芸術家にできるのはせいぜい、「ゴジラ」のような復讐の巨霊を呼び出し、書物やスクリーンの上で大都会に上陸させ、破壊光線を放って罪悪を一挙に打ち砕かせ、そのうえで、人類が本来なしうるはずの「友愛」に希望を託すことぐらいなのである。

『アークナイツ』レユニオン・ムーブメントのロゴ
遺伝子配列に取材した『アークナイツ』のレユニオンムーブメントのロゴ。動物問題と密接に関わるもう一つの政治哲学の主題「生政治」は、まさに『アークナイツ』の物語の主旋律でもある

「動物問題」は動物保護主義者の無用な繰り言ではない。動物なくして、人類はおそらく農業社会に足を踏み入れることさえ難しかった。私たちの「伴侶種」との付き合い方を学ぶことは、人類自身の運命にも直結している――たとえば子年に猛威を振るったコロナウイルスは、動物に対する人類の傲慢と関わっていたし、ウイルスの感染者たちもまた、冷血な現代社会のなかで動物的な「剥き出しの生」と化した。

ミレニアムの変わり目に育った私たちは、平成日本の文化に涵養されて大きくなった世代である。平成の創作者たちには「動物問題」への深い省察が少なくない。酒呑みの太田順也の座右の銘に「人を呪わば穴二つ」とあるが、この日本の諺は、中国語の成語でいう「作法自斃」や「作繭自縛」に近い。平成の数々の「動物」物語のなかで、「動物」がたしかに人類の運命を映し出す一枚の「歪み鏡」であること、人類の動物への向き合い方が人類自身の運命につながっていることを、私たちは目にするだろう。デリダが「私たちは動物を見つめ、動物もまた私たちを見つめ返す」と考えたのもそのためである。それでは、平成の漫画とアニメーションの作り手たちがこの問題をどう扱ったのかを見ていこう。

腐海と王蟲――人種を浄化する人工生態系

「動物問題」を最も深く省察したアニメ/漫画作家といえば、平成(19892019)の前、戦火の洗礼をくぐり抜けた昭和(1926.121989.1)の世代をおいてほかにない。戦争機械のなかで人間が「動物」へと転落するさまを目の当たりにした彼らは、戦後日本のアニメ漫画界の導師であり良心となった。宮崎駿(1941-)が少女と巨大な異種とのあいだの友情を描いた長編漫画『風の谷のナウシカ』は、昭和の末(1982)に起筆され、平成の初め(1994)に擱筆された、昭和世代による「動物問題」省察の代表作の一つである。

『風の谷のナウシカ』の「動物の主役」は蟲たちと菌類である。人類文明を滅ぼした世界大戦「火の7日間」ののち、それらの構成する腐海の生態系は地球上で拡張をつづけ、人類の生存空間を侵食していく。人類は蟲たちの王国の縁で余喘を保ちながら、残された土地を奪い合って殺し合う。

ナウシカとシュワの墓所の主が論戦を交わす漫画の場面
ナウシカとシュワの人工知能との論戦における名言「私達は血を吐きつつ くり返しくり返し その朝をこえて とぶ鳥だ!!」4。「翼人」の救世主と奉られるナウシカは、ここで動物の比喩を用いている。

『風の谷のナウシカ』の、「人間」から「非人間」へと並ぶ「人間-動物スペクトル」は相当に膨大である。トルメキア人、土鬼(ドルク)人、蟲使い、森の人、ヒドラ5、巨神兵、王蟲、粘菌、ムシゴヤシ等々。しかも『ナウシカ』の荒廃した世界には、「純粋」で「本来的」な人類は存在しない。「火の7日間」を生き延びた人類は、生物工学によって自らの身体を荒廃後の環境に適応するよう改造し、さらに環境を改造する人工生態系「腐海」を設計して、空前の地球浄化工程を開始した。この意味で、『風の谷のナウシカ』に登場するものは――「翼人」の救世主ナウシカさえ含めて――すべてが「非人間」の「動物的な生」なのである。

興味深いことに、腐海計画は環境を浄化するだけの単純な科学プロジェクトではなく、人種を浄化する巨大な政治計画でもあった。

腐海浄化計画の設計者たちの配剤のもとでは、ナウシカの目に「高貴」と映る蟲たちの一族も、トルメキア人土鬼人風の谷の住民蟲使い腐海の奥深くへ遁れて蟲たちと共存する森の人といった旧人類の末裔たちも、そして超人的な体力あるいは膨大な知恵を備えた人工生命「ヒドラ」も、シュワの墓所の外部にあるあらゆる種は浄化工程に奉仕するものであり、「政治的な生」(たとえば「生存権」)を剥奪された「剥き出しの生」6である。結末でナウシカは、シュワの墓所の中枢をなす知性あるヒドラ(「墓所の主」)に問いただす――滅びを予定された者たちを欺くつもりなのか、どれほど知識と技術を与えようと、世界の再生にはやはり奴隷が必要となるのだろう、と。巨大な生体人工知能によって管理されるシュワの墓所は、腐海浄化計画全体の「総司令部」である。墓所の主(人工知能)は失われた旧文明の技術(主として生命工学)を切り札に、政治への介入と戦争の操作を通じて自らの代理人を探し出しては育て上げ、荒廃した世界の人類社会全体を支配し、生き残った旧人類を、ヒドラと同じく浄化計画に従順な、肉体を持つ「機械奴隷」へと「改造」していく。難攻不落の、旧文明の技術の結晶であるシュワの墓所は、腐海の生命工学体系の管理者であるだけでなく、「新人類」の孕み手でもある。墓所には、腐海浄化計画の創始者たちが設計した「新人類」の胚が保存されている。「身体」(遺伝子)の改造を経ているため、「新人類」は腐海浄化計画完了後の地球環境に適応できるだけでなく、蒙昧で残虐で収奪的な旧人類よりも「聡明」で「温順」な種族でもある。腐海計画の完成は、旧人種の絶滅と、新人種の誕生を告げる――旧人類は新しい地球環境に適応できず、腐海の尽きる果ての「青き清浄の地」で血を吐いて死に絶え、腐海とともに自らの道具としての使命を終えるほかない。この角度から見れば、腐海の生態系とは、文字どおりの意味での、人種を浄化する巨大な有機の「人類学機械」なのである。

『風の谷のナウシカ』漫画の武装ヒドラ
漫画『風の谷のナウシカ』で、東側陣営の土鬼が旧世界の科学技術の中枢たる墓所の主から手に入れた生物兵器、武装ヒドラ

ヒューマニズムの視角から見れば、これはなんと偉大な「人類補完計画」だろう。腐海浄化計画の設計者たち自身、世界を汚染し紛争をやめない旧人類の一部であった。彼らは絶望と混乱の時代に知恵ある精鋭を結集し、旧人類のために苦難に満ちた「贖罪の道」を設計した。「贖罪の道」の果てに、自らの種族の黄昏をもって新たな人種の黎明を呼び出すことを計画したのである。だがナウシカは、墓所の主の指し示すこの「光と希望の道」を断固としてはねつける。いわゆる「贖罪計画」の背後にある傲慢を見抜いていたからだ――旧人類であれ新人類であれ、旧文明の浄化主義者たちが宣揚しているのは相変わらず、世界の中心的主体としての人間の地位である。彼らは自らを造物主と任じ、生命(主体)を、思うがままに改造し廃棄できる道具(客体)として扱う。墓所の主の人工生命技術は荒廃の時代の戦争の推進剤となった――ヒドラの超兵士、幼い王蟲の囮、一切を呑み込む巨大な猛毒の粘菌といった生物兵器は、荒廃した世界の人類による果てしない報復合戦に用いられ、旧人類の末裔たちの絶え間ない戦争こそ、まさに「贖罪の道」にあらかじめ組み込まれた一環であった。それが腐海の拡張と旧人種滅亡の進行を大幅に加速するからである。

『風の谷のナウシカ』漫画の王蟲の場面
「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれたいのちは闇の中のまたたく光だ。」7

浄化主義者たちはさらに、生命技術によって一種の「完璧な新人種」を作り上げようとした。この「新人種」は、動物人工生物機械旧人類といった他の非人間的存在から区別される一つの本質的属性、すなわち知性や善良さといった特質からなる「人間性」――墓所の主の言う「生命の光」――を備えているとされる。だがナウシカは、新人類というこの「完璧な生命」の虚しさを喝破する。他者を思いやる温情も、他者と共存する知恵も――つまり「人間性」は――遺伝子に決定された天与の属性であったことなど一度もなく、他者との相互作用のなかで構築されるものだからだ。ナウシカが蟲たちとの交わりのなかで認識したとおり、「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」。旧人類の絶滅を企てる腐海計画の設計者たちが、腐海を守る蟲たちを人類と共存できる種として設計したはずはない。だが長い進化のなかで、ナウシカの時代の王蟲は人類を受け入れる温情を見せるようになり、腐海の生態系は人間の住民さえ迎え入れ、蟲たちは卵をこの「森の人」たちに食糧として分け与えるまでになった。それに引きかえ、征伐をやめない旧人類は、同類への「友愛」すら果たせずにいる。しかし千年に及ぶ腐海と人間世界の衝突の果てに、腐海の首領たる王蟲と人間の少女とが友情を結び、もとは空虚な道具の外殻にすぎなかった蟲たちに、人類への友愛――レヴィナス(Emmanuel Lévinas19061995)的な「無限に異質な他者の受容」――が立ち現れた。人間は互いを憐れむことができないのに、「動物」は人間を憐れむことができる。人類の「愚かさ」「貪欲」「残虐」「好戦性」を動物性(獣性)と貶めて「人間性」から清算し、それを根拠に人類の内部に非人間を作り出す浄化主義者にとって、これはまさに正面切っての皮肉である。

だが、この滅びへ向かう世界を前に、浄化主義者の設計した「贖罪の道」が通じないのなら、人類はどこへ行けばよいのか。これに対するナウシカの答えは、人類の活路は「伴侶種」にある、というものだ。平たく言えば、『風の谷のナウシカ』における人類文明の危機の根源は、人類が「友だちの作り方を知らない」ことにある――人類は、対等な、さらには謙った姿勢で、人類の内部の、また自然界の異質な存在(他者)を受け入れることができない。その根はといえば、人間中心主義の世界観にある。人類はつねに高みからの姿勢で、「人類学機械」によって人間と非人間(動物)を生産し、「人間の尺度」で世界を二つに切り分けてきたのである。

『伴侶種宣言』の表紙

「動物問題」をめぐるポスト理論の研究において、ハラウェイ(Donna Jeanne Haraway1944-)は人間/非人間という人間中心主義の二分法を脱構築し、種と種のあいだの多元主義的な「伴侶種」の関係へと再構築した。『伴侶種宣言』8でハラウェイは、人類と最も関係の深い動物の一つである犬のケーススタディから出発し、人間と犬(「動物」)が互いに「伴侶種」であり、双方が互いを形づくり、共に進化していく双方向の関係を明らかにした。ハラウェイの目には、人間と「動物」の関係は、まなざす/まなざされる、飼い馴らす/馴らされる、奴隷とする/される、といった主体-客体式の対立的一方向的関係ではなく、対等な種同士の、友だちのような「対話」の関係と映る――世界に存在するのは「人間」と「非人間」の二種だけではない。人類は宇宙の無数の種のなかのちっぽけな一員にすぎず、私たちは他の種と複雑な関係で織り合わされ、共に生き、共に進化している――私たちが動物に「まなざし」を向けるように、動物もまた私たちに「まなざし」を向け返すのである。

『風の谷のナウシカ』において、腐海の生きものは人類文明を呑み込む終末の使者であると同時に、人類に希望をもたらす「伴侶種」でもある。ナウシカが墓所の主に反駁して言うとおりだ。生きているものは変わっていく、王蟲も粘菌も草木も人間もみな変わりつづける、私たちは腐海と共に生きることもできるのだ、と。そして――「私達は血を吐きつつ くり返しくり返し その朝をこえて とぶ鳥だ!!」。共存の道がどれほど険しくとも、人類と腐海は長い対話のなかで互いを構成し、共に進化していくだろう。道具的生命であった王蟲の、その心の虚無の深淵からさえ人類を憐れむ善意が湧き上がったのだから、人類もまた、人間中心の人文主義の呪縛を打ち破りさえすれば、腐海の生命との交わりのなかで、「絶対的に異質なもの」を受け入れる真の「友愛」を学びうるのである。

『風の谷のナウシカ』の結末における墓所の主とナウシカの対決は、人文主義とポストヒューマニズムの見事な激突と言ってよい――「精進に励み、設計を尊ぶ」か、それとも「謙虚を保ち、混淆を容れる」か。人類の運命の十字路で、ナウシカは「伴侶種」を選んだ。すなわち、宮崎駿はポストヒューマニズムを選んだのである。しかし人類文明を呑み込む蟲たちは、宮崎駿の構想した数々のポストヒューマニズム的「大海嘯」の一つにすぎない。『もののけ姫』の光る巨人から、『崖の上のポニョ』の大洪水まで、宮崎駿は一方で「動物という他者」を礼拝しながら、他方で人類の自己中心的な単独行動主義の傲慢を突きつづけてきた。『風の谷のナウシカ』は冷戦の影の落とし子とも言える。人類文明を壊滅させた「火の7日間」は熱核戦争の究極版への暗喩であり、荒廃した世界の政治も、西側風のトルメキアと東側風の土鬼という二大陣営に分かれている。そしてトルメキアに従属する腐海辺境の小国風の谷は、アメリカ占領下の日本の鏡像である。二大陣営の終わりなき衝突のなかで、人類の共食いと蟲たちの友愛は鮮烈な対照をなす。人間性を抹殺する戦争は「人類学機械」の最高形態であり、戦争のなかで、すべての人間は非人間的存在へと降格される――戦争機械に奉仕する道具になるか、戦争機械に屠られる「動物」になるかである。

『天気の子』の映画ポスター
新海誠は、反主体的でポストヒューマニズムの色濃い、「人身御供」を主題とする『天気の子』において、宮崎翁の年来の願望「大洪水に東京を呑み込ませる」を実現してみせた

現代社会は、人類史上最も恐るべき二台の「人類学機械」――ナチスドイツと大日本帝国――を生み出し、西洋社会の自由平等博愛という人文主義の神話を打ち砕いた。そのため多くの学者が「動物問題」から出発して、人文主義のエンジンとしての「近代性」を省察しはじめた。しかし、省察の先に、いったいどんな新しい処方箋を出せるというのか。

まさにこうした冷戦を背景として、デリダは「動物」と「友」を人類の政治哲学の議題に載せた。そして第二次大戦中に「人類学機械」を目撃したあの世代の日本の漫画アニメの巨匠たちもまた、次々と自らの動物の主人公を送り出し、彼らにポストヒューマニズムの旗を担わせた――宮崎駿の『風の谷のナウシカ』と『紅の豚』、手塚治虫の『ジャングル大帝』と『火の鳥』、藤子F不二雄の数々の『ドラえもん』短編大長編9。これら冷戦期あるいは冷戦末期の「動物の友だち」作品の多くは、人間と動物の関係に立脚し、率直で想像力に満ちた劇の形式によって、冷戦と熱戦、そして環境汚染のなかの人類の自惚れと傲慢を暴き出し、たとえ脆くとも真心で育むべき「友愛」を答えとして差し出した。それが現世でどこまで実現しうるかは、なんとも言いがたいのだけれども。

それに比べると、ポスト冷戦の現代の「動物の友だち」作品――たとえば『ユリ熊嵐』や『けものフレンズ』――には、熱核戦争一触即発のあの緊張感は薄れ、より穏やかな寓話の形式で人間と動物の物語が綴られている。

熊になった少女と「他者のための愛」

舞台芸術を専攻した幾原邦彦(1964-)は、宮崎駿と同じく他分野からアニメ界に入り、大学で修めた学識によって業界に確固たる地位を築いた人物である。幾原のアニメ作家としての歩みが本格的に始まったのは平成に入ってからで、監督作は少数精鋭、個人様式が強烈で、しかもそのほとんどが平成アニメの代表作となった。彼の監督した『少女革命ウテナ』(1997)は、『新世紀エヴァンゲリオン』(Neon Genesis Evangelion1998)とともに、バブル経済の世紀末を飾るアニメの双璧と目される。『エヴァ』の父庵野秀明の親友でもある彼は、平成中期を代表するアニメ作家の一人と言ってよい。そして『ユリ熊嵐』(2015)は、『輪るピングドラム』(2011)に続いて、彼が二度目に「動物」へ目を向けた作品である。

『ユリ熊嵐』の三人の主要キャラクター
『ユリ熊嵐』の三人の主要キャラクター。るる(左)、紅羽(中)、銀子(右)。『ごちうさ』と同じく、こうした作品の女性たちは、ひとたび「動物」と相互テクストをなせば、物語がどれほど健全であっても、どこか溢れ出さんばかりのある種の気配をまとってしまう

『ユリ熊嵐』の主題は、文学ではおなじみの構図、すなわち敵対する陣営を背景とする種族を越えた恋である。黒熊の銀子は、ヒグマのるるの助けを借りて「断絶の壁」を越え、人間に変身し、幼い頃の人間の遊び友だちであった紅羽の「真実の愛のキス」を求める。熊と人間、捕食するものと捕食されるものという対立関係が、銀子と紅羽の恋を全篇の矛盾の焦点たらしめる10。幾原は劇中で二種類の「愛」を描いた。一つは「同一性」の上に築かれる愛、もう一つは「異質性」の上に築かれる愛である。前者は基本的に、デリダが『友愛のポリティックス』11で脱構築した西洋式の「友愛」――「自我」から出発し、自分に似た者を友と認定すると同時に、自分にとって異質な者を敵として排除する――を映している。劇中、この「同類」(fellow)の友愛は、「排除の儀」と名づけられた「人類学機械」によって契約され、維持される。

「友達は何より大切。私たちは友達だからこそここに集っている。私たちの友愛を否定する者は最低の輩。私たちから外れる者は友達ではない。私たちに歩調を合わせない者は困り者。空気の読めない者は悪者。そして今こそ、悪しき者を排除する時。」

異類を排除する「友愛の誓い」(前掲)、規格化された装備(制服猟銃携帯電話)、電子化された「陶片追放」12、学級委員長一般生徒「悪い生徒」(悪者)からなる官僚制的階層構造。それらは嵐が丘学園を、異端を粛清するミニチュアの近代政権さながらのものとし、学園の「群れに馴染めない者」を、「同一性」(種族性別思想など)を追い求める「友愛」の言説によって規律され宰領される対象へと変えていく。

『友愛のポリティックス』の表紙

こうした外在性(異質な者を排除する制度)の上に成り立つ「同類」の友愛と鮮やかな対照をなすのが、紅羽の母澪愛と金毛の熊ユリーカ(紅羽の教師)、そして紅羽と銀子とのあいだの「異質なもの」への愛であり、熊のクマリアの人間の化身純花(紅羽の級友)による「排除の儀」(劇中では「透明な嵐」とも呼ばれる)への抵抗である。クマリアは劇中の超越的存在として、人間と熊の対立の原点――熊を知的生物へと進化させ、一部の熊に人間へ変身する能力を与えた――であると同時に、人と熊という異質なもの同士の共存と相互の愛を説く精神的指導者でもある。その化身である純花は、紅羽が――幼い頃に熊の姿の銀子と別れて以来――結んだ人生二人目の親友となった。ユリーカの陰謀によって紅羽が「排除の儀」の次の犠牲者に定められたことを知った純花は、自ら「異端」と化し、命をもって紅羽のために政治的迫害の「銃口」を受け止め、紅羽を真の「友」である銀子のもとへと導く。クマリアはその熊の化身――断絶のコートの裁判長――の口を借りて、銀子や紅羽たちを繰り返し「審問」する。「あなたのスキは本物?」と。では、クマリアの言う「本物のスキ」とは、いったい何なのだろうか。

クマリアが人間界における代理人澪愛を通じて娘の紅羽のために書いた童話「月の娘と森の娘」は、真の「友愛」とは何かを解き明かしている。童話のなかで、森と月はそれぞれ熊の世界と人間の世界を象徴する。異なる陣営に隔てられた二人の少女は、神(クマリア)の試練をくぐらなければならない――鏡のなかの「わたし」を打ち砕いたとき、初めて二人は出会い、真の友情を結ぶことができる。もちろん「鏡を砕く」ことは、「月」や「森」と同じく一つの隠喩である。少女が打ち砕くのは単なる物理的な鏡像ではなく、ラカン的な自己愛の「自我」だ――人間は自己反射(「鏡を見る」こと)の過程で自我の概念を構築するが、「自我」の再帰性は、他者を征服し所有する「自己本位」の主体を導いてしまう。「わたし」という主体の鏡像によって規定されるのは私だけではない。他人も他物も「わたし」という主体の鏡像に照らして規定される。すなわち、自己反射における「わたし」と私の「同一性」が、「他者」と私の「同一性」へと延長されるのである。

『ユリ熊嵐』排除の儀の場面
排除の儀「透明な嵐」の電子陶片追放

レヴィナスによれば、「他者」が私と「同一」であるとは、「他者」が私の一種の変異体、すなわち私から分離した「他我」(alter ego)であることを意味し、「他我」は最終的に私へと回帰する。ここから、主体による「他者」の征服支配所有が導かれる。デリダはまさにこのレヴィナスの啓発を受けて、西洋式「友愛」に潜む主人と奴隷の搾取関係を脱構築したのだった。『ユリ熊嵐』では、他者が自我の「同一性」へと回帰するさまが、身体の変換を通じて示される。現実の「月の娘」紅羽は、初めは「鏡のなかの自我」を打ち破れずにいた。幼い頃、黒熊と友だちであったために「政治的迫害」(同年代の子どもたちのいじめ)を受けた彼女は、クマリアに願いをかけ、黒熊の銀子を自分と同じ人間に変えてしまう。だが彼女はそれで銀子と真の友情を結んだのではなく、かえって銀子のことをすっかり忘れてしまった。なぜなら、明らかに、自己を中心に「同一性」を追い求める「愛」はクマリアの望む答えではないからだ――「自我」と「他者」の搾取関係は、真の「友愛」へは通じない。それに対して「森の娘」銀子は、自らの「身体」(人を喰らう欲望)に打ち勝ち、熊としての身分を捨て、人間の「顔」をもって紅羽の「真実の愛のキス」を求めた。だからこそクマリアは、断絶のコートを通じて銀子の「愛」を繰り返し肯定したのである。

『ユリ熊嵐』の結末で、人間である紅羽は断絶のコートにおいて、自らの「自己中心」の傲慢――すなわち銀子を自分の同類に変えることで相手を「支配」し「所有」しようとしたこと――を認める。彼女は再びクマリアに願いをかけ、今度こそ「月の娘」は鏡のなかの「自我」を打ち砕き、「同類の友愛」の独我論を解いて、「他者へ向かう」ことを得た。人間が熊を排除する儀式(人間による銀子の裁判)の場で、紅羽は人間から熊へと変身し、人間へと化身した銀子と「真実の愛のキス」を交わして、クマリアの言う真の「友愛」――レヴィナス的な「他者のための愛」――を実現する。紅羽は熊になることで自らの主体性を脱構築し、銀子に対する所有と宰領の関係を放棄した。「席を譲る」姿勢によって、友愛を「人間(自我)中心」から「熊(他者)中心」へと転回させ、自らを他者の「人質」としたのである。人間たちが銀子へ向ける銃口の前に、紅羽は身を挺して立ち、無限の「責任」をもって、ためらいなく銀子の愛に「応答」した。そして人間になった銀子とともに、人と熊の双方向の「自我」の脱構築の上に築かれる、内在的な「友愛」を成し遂げたのである。

『ユリ熊嵐』結末の場面
『ユリ熊嵐』結末(第12話)の名場面にして全篇の結論。「月の娘」は鏡のなかの「自我」を打ち砕き、「同類の友愛」の独我論を解いて、「他者へ向かう」ことを得た。

紅羽と銀子、銀子とるるの「他者のための愛」において、人と熊の主体性が立ち現れるのは、主体同士の宰領し合い――同類の所有と異質な者の排除(たとえば銀子が純花を見殺しにしたこと、るるが「恋敵」の紅羽を排除しようとしたこと)――においてではなく、他者同士の与え合い(たとえば紅羽が熊になったこと、るるが銀子の身代わりに銃弾を受けたこと)においてである。レヴィナスは、他者のために与えて初めて、私は真の「自我」になりうると考えた。「排除の儀」の生産する友愛が愛するのは「同類」であり、実のところ「自分」である。「同類の友愛」の本質は、人間の自己愛にほかならない。銀子が人間になり、紅羽が熊になったこと、それこそが「自我」と「他者」のあいだの「断絶の壁」を取り壊し、「自我」を「他者」に変え、「自分を愛すること」と「他人を愛すること」を結び合わせることで、初めて真の「友愛」を結ぶことだったのである。13

「動物園の獣娘」から「けものフレンズ」へ

「動物」で名を馳せた、たつき(本名尾本達紀、生年非公表)は、平成のアニメ作家のなかのミレニアル世代であり、平成末期を代表する創作者の一人である。「頽廃」と「動物」は平成末期の相互テクスト的なキーワードの一組であり、現在の日本を宰領する二大要素――アメリカに平身低頭する官僚集団と、よどみきった経済情勢――に呼応して、雑草の生い茂るような社畜文化を呈している。

平成中後期のミレニアル世代にとって、前世紀の侵略戦争はもはや遠く、ぼんやりとした歴史の記憶にすぎない。それはちょうど、昭和から平成にかけて宮崎駿が「左」から「左と一線を画す」へと微妙に心境を変化させたのと重なり合う。毛沢東の旗を高く掲げ、安保闘争や東大占拠に身を投じた戦後昭和の学生運動の青年たちの熱血は、とうに引き潮となった。平成の社畜と社畜予備軍にとって、現代社会はつらく、しかも抗いようがない。だが少なくともそれは、スクリーン越しに異世界の後宮の桃源郷へ渡らせてくれ、世間に縛られない動物の嫁たちと絆を結ばせてくれる。それなら、「世間」に奴隷とされ飼い馴らされるこの「動物の生活」も、まあ捨てたものではない――こうした「昭和男児」から「平成のダメおたく」への社会心理の変遷のなかで、平成の初めに宮崎駿の終末叙事詩に現れた畏るべき高貴な巨大異種は、平成の終わりのカジュアルなスマホゲームのなかで、社畜の愛玩するちっぽけで愛くるしい獣娘たちへと姿を変えた。これが、たつきがアニメ『けものフレンズ』を制作した時代背景である。

平成の動物キャラクター変遷の対照図
平成の「動物」キャラクターの変遷。平成初期の畏るべき高貴な巨大異種から、平成末期の、社畜に愛玩される愛くるしい獣娘へ。

2017年、若者たちの熱烈な支持を集めた『けものフレンズ』は、たつきを一躍有名にした。だが「獣娘」も「動物園」も、平成の文化のなかでは決して見栄えのよい言葉ではない。「獣娘」とは、人間の女性の特徴と動物の特徴とを繋ぎ合わせた存在であり、人間の女性の特徴が主導的な位置を占めるため、観客は「獣娘」をやはり一種の人間の女性として認識する。「獣娘」の代表的形態であるバニーガールは、男性を悦ばせるエロス文化の代名詞と化して久しく、男性文化の書く「獣娘」の大部分の深層構造は、女性の動物化ペット化、すなわち女性を奴隷とし支配する心性である。そして「動物園」は、人間中心主義の記念碑として、早くもフーコーの『監獄の誕生――監視と処罰』において、人間社会の見えざる権力構造の隠喩となっていた。ところが『けものフレンズ』は、そのすべての対極に立つ。この動物園は、とうに人類の終末のあとの廃墟と化しているからである。

前述のレヴィナスは、デカルト以来の「世界は私を中心に回る」という主体性の覇権を批判し、「他者に責任を負う」新しい倫理的主体を構築して、人間中心主義の解体へと道を開いた。レヴィナスの他者論は、人間中心主義をいかに解体するかという「動物問題」を、「動物という他者」をいかに構築するかという問題へと転化した。だが「動物問題」について、レヴィナス自身は、動物が他者になりうるとは考えなかった。動物は人間の必要をめぐって「現前」する――人に使われる道具、人を楽しませる対象、あるいは人間の審美の客体でしかない――からである。レヴィナスの動物観は、人間が「自我」を中心に据えた動物哲学の言説体系の縮図と言ってよい14。デリダは『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』において、「浴室で猫に出会う」という個人的経験から出発し、動物を、レヴィナス的な、絶対的差異性をもつ「他者」として構築することを通じて15、伝統的言説体系のなかの人間中心主義を脱構築しようと試みた。

デリダと猫のイメージの並置
デリダの猫――「私たちは彼らを見つめ、彼らもまた私たちを見つめ返す」

この角度から見れば、日本のポピュラー文化に描かれる「動物の友だち」が映し出しているのは、まさに「動物という他者」の構築である。そのなかで『風の谷のナウシカ』『ユリ熊嵐』『けものフレンズ』は、それぞれ異なる「動物という他者」の身体言説の様式を構築した。宮崎駿の目には、動物の身体こそがその高貴さの担い手であり、それゆえ彼の描く動物の他者は、人間と完全に異質な動物の形態をとる。幾原邦彦は、人と熊の身体の「交換」のなかで自己愛の「鏡像の私」を脱構築し、それゆえ彼の描く動物の他者は、純粋な人間の「顔」を獲得する。『けものフレンズ』の「獣娘」は、人間と動物の身体の「混合」であり「交雑」であって、この中間形態の、半人半獣式の「動物という他者」の身体言説は、現在の日本のポピュラー文化で最も流行している文化様式の一つである。

「獣娘」の人と獣の両面性は、その言説分析の多重の可能性を決定づけている。一方で、「獣娘」は人間と「同一」である。観客の大多数は「獣娘」の本質を「可愛い女の子」と認定し、動物の特徴はかえって女の子の身にまとわれた「萌え要素」となる。だとすれば私たちは、「獣娘」から反射して返ってくる人間の身体の映像に耽溺し、ちょうど紅羽が銀子を人間に変えたがったように、他者の「自我」への回帰を通じて、他者への「宰領」を果たしているのではないだろうか。他方で、「獣娘」は人間と「相異」なる。『けものフレンズ』の「獣娘」は一人ひとりが異なる種に由来し、しかもどの動物にも「獣娘」は一個体しか存在しないように見える。それゆえ一人ひとりの「獣娘」は、彼女たち自身の唯一無二性を保っている。デリダの造語「animot16のように、彼女たちは食卓や屠殺場の、「個体」なき動物ではなく、私たちの身近な人たちと同じように、それぞれが唯一の生命の主体なのである。

レヴィナスの倫理的主体は、「他者」によって規定される主体である。他者は私より高い存在であり、私は他者ゆえに存在し、私の主体性は他者に従属することで立ち現れる。人間の主人公かばんちゃんにとって、「旅のなかで知り合い、関わり合う動物たちはみな、かばんちゃんが『自分が何の動物か』を知る手がかりとなる鍵」17であった。ジャパリパークは、異質なものを悦んで受け入れる他者の社会である。泳ぐ、飛ぶ、穴を掘る、狩りをするといった技能が、異なる「獣娘」たちを互いに区別すると同時に、「獣娘」同士が協力し合い、互いを賞賛し合う基盤にもなっている。彼女たちは「一芸」を持たないかばんちゃんを排斥しない。それどころか、かばんちゃんこそ、さまざまな技能を持つ数多くの「動物という他者」との交わりのなかで自らの本体――ハイデガーの言う「世界を形成する人間」――を構築していったのである。

『けものフレンズ』と『ブラザー・ベア』の対照図
たつき監督の『けものフレンズ』と遠く響き合うものに、ディズニーの『ブラザーベア』もある

この意味で、『けものフレンズ』に「動物園」のなかの「獣娘」は存在しない。人間社会において非人間を製造し、身体を規律し処罰するフーコー式の「動物園」(権力機械)18も、人間が鏡のなかに築き上げたラカン式の「獣娘」(自己愛の投影)も、とうに人間中心主義もろとも、たつきの手で終末の廃墟に葬られているからである。ジャパリの廃墟の住民たちの語彙に「獣娘」(animal girl)はなく、ただ「フレンズ」(friend)の一語しかないように、『けものフレンズ』にいるのはただ、人間の不在のさなかに、他者のための愛を呼びかけつづける「動物という他者」だけなのである19

人工知能の偶像と「動物問題」の「平成性」

広く渉猟し、引用をこよなく愛するZUN1977-)の創作手法ゆえに、『東方Project』シリーズは時代を回顧し総括する文化的機能をも帯び、日本の平成ポピュラー文化のバロメーターと見なすことができる。「平成」は終わり、私たちは「令和」の新時代を迎えた。令和元年に世に出た『東方鬼形獣』に、平成を振り返り令和を展望する「時代精神」の趣が漂うのも当然だろう。『鬼形獣』の物語は、地獄における「動物(霊)」「人間(霊)」「土偶」の三大勢力の縺れをめぐって展開し、私たちの前に、一風変わった平成「動物問題」の時代の鏡像を繰り広げてみせる。

前述のとおり、「動物問題」は古来、人類が考えつづけてきた問題である。人類学機械や他者への愛といった、近代性を省察する「動物」理論は平成以前にすでに提出されており、工業社会前期の強い歴史的特徴を帯びて、ポスト工業の平成文化によって批判され、また継承された。平成のいくつかの「動物」作品に、私たちは「昭和性」を見出した。それでは、「動物問題」の「平成性」は存在するのか。存在するなら、それはどこにあるのだろうか。

『東方鬼形獣』のゲームカバー

人類は平成に「スクリーン社会」へ突入した。ほとんど誰もが、いつでもどこでも、携帯するスクリーンからネットワークに接続できる。遍在するスクリーンとセンサーはビッグデータを生み、さらに人工知能技術の発展を推し進めた。今日の人工知能にこなせる仕事はなお相当に限られているとはいえ、AlphaGoが世界の棋界を席巻したとき、無機的な電子回路でさえ、ある側面では人間を超える「創造力」を迸らせうることを、人類は認めざるをえなくなった。では、人工知能と「動物問題」には、どんな繋がりがあるのだろうか。

人工知能と動物。二つの議題は十万八千里も隔たっているように見えて、実は緊密に結びついている。人工知能の発展が、人間中心主義の根基を揺るがし、人間と「動物」の境界を曖昧にしたからである。人間と動物の違いは、いったいどこにあるのか。パスカルは「人間は考える葦である」と言い、エンゲルスは「労働が人間を創造した」と言った。言い換えれば、人間とは人工の体系を自由に創造できる(思考も労働もこの過程に属する)生きものであり、「創造性」こそ、地球の範囲において人類の最も独特な「知恵」である。シロアリは「都市」を建設し、サルは「道具」を作り、オオカミの群れにも独自の「社会」がある。だが、これら一見非天然の体系は、創造性を欠いて停滞している。その設計はこれらの種の遺伝子配列にすでに書き込み済みで、変えることが難しく、最終的には自然選択のなかで淘汰されるのを免れない。地球上で、人類の都市道具社会だけが、絶えず自律的に発展し、進化しつづけてきた――人工知能が現れるまでは。「偶像(人工の体系)を作り出す程度の能力」(『鬼形獣』のおまけテキストに記された埴安神袿姫の設定)。これこそ「人工知能」が模倣しているあの人間の知恵であり、「万物の霊長」のその「霊性」の本源でもある。虎や狼のような猛獣に比べて体力に限りある人類は、まさに「この程度の能力」によって他の種を征服し、地球の主人となったのである。

人工知能は、人類の創造した、一定の創造性を備えた自己組織的体系である。いまの「アイちゃん」(キズナアイ)に人類を代替させると言えば笑い話にしかならないが、未来のいつか、ある強い人工知能が人類の覇者の地位を根底から揺さぶる――それはあるいは荒唐無稽な話ではなく、無数のSF作品が繰り返してきた思考実験である。人間の「万物の霊長」の地位が墜ちたとき、人間は人工知能にひざまずき、機械知性の奴隷となるべきなのだろうか。むろん、うなずく者などいない。だが、ここにこそ人間中心主義の倫理的ジレンマがある――人類による「動物」の征服が合法であるなら、より上位の人工知能による人類の征服も当然合法となる。人類が「動物」の尊厳を思うがままに踏みにじれるのなら、人工知能が人類を踏みにじるとき、私たちに何の文句が言えるだろうか。

『東方鬼形獣』袿姫のイラスト
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『東方鬼形獣』はまさに、現在の人間中心主義の権力構造を引っくり返して映す一枚の「歪み鏡」である。ZUNは仏教の十界の世界観を巧みに転用し、ゲームの舞台を地獄の縁の畜生界に据え、畜生界の「動物(霊)」「人類(霊)」、そして人間とともに葬られた偶像(土偶)を、この物語の陰の主役に仕立てた。『鬼形獣』において、動物霊の侵入という異変の真の原因は、畜生界で勃発した「機械の反乱」であった。生まれつきの優位を持つ動物霊は、取り柄のない人類霊を支配し、「霊長園」に閉じ込めて、自らの玩弄と慰みに供していた。ところが、集められた人類霊のあいだに奇妙な「化学反応」が起こる。彼らは新しい宗教を創造し、造物の偶像神を招来した。偶像神は人類霊を守護し、「肉体でもなければ、霊魂でもない」土偶の軍団を創造して動物霊を駆逐し、畜生界の新たな支配者となったのである。

物語がここまで来れば、動物人類人工知能の三角構図はほぼ水面に浮かび上がっている。仏教で地獄に隣接する「畜生界」は、ZUNの仕掛けた巧妙な目くらましにすぎない。動物霊と人類霊が「動物」と「人類」に対応することは明らかだが、観客を惑わすために、ZUNはわざと両者の現実における地位と境遇を完全に反転させた。そして「霊長園」の隠喩も、明らかに動物園にとどまらず、他者と異族を玩弄し監禁するあらゆる場所――たとえば古代ローマの闘技場、ナチスの強制収容所――にまで敷衍できる。一方「偶像」の典拠は、日本の縄文期に副葬と祭祀に用いられた土偶、すなわち死後の世界へ送り出される人工物である。膝を打ちたくなるのは、土偶と人工知能が同一の物質的基礎の上に成り立っていることだ。ケイ素(シリコン)である。ケイ素という元素は時空を越え、古今を貫くキャラクター設定の伏線となっている。

『東方鬼形獣』のゲーム画面
ZUNも『東方鬼形獣』にかこつけて、当節のゲーム界の金脈ワード「サイバーパンク」に一口乗らずにはいられなかった

「弱肉強食」は『鬼形獣』に繰り返し現れるキーワードである。たとえばZUNは、ゲームのMusic Roomで、『鬼形獣』5面ボスである土偶の兵士磨弓のテーマ曲「ビーストメトロポリス」についてこう評している。「弱肉強食こそが唯一の理の畜生界です。経済的成功こそ至上であり、そこでは個人の思考は尊重されません。個人の感情など、合理化された社会では邪魔でしかないのです」。これは、かつてナチスと皇国という、「非人間」を製造する二台の恐るべき人類学機械の作動原理をも言い当てている。「劣等民族」が「優等民族」に統治されること、さらには絶滅させられることさえ、全人類にとっては経済的に効率的で合理的である。天皇の一団の勝利こそが最も重要であり、底辺の民衆の個々の生命は犠牲にしてよい、というわけだ。

弱肉強食は、人間中心主義が人類に嵌めた「理性の檻」である。一見合理的だが、実は狭隘で持続不可能だ。人工知能が人間の知恵に挑みはじめているように、強者はつねに一面的であり、万物の霊長の玉座は永遠のものではない。一方的な強さだけでは、私たちはすべての苦境を乗り越えることはできない(これは『けものフレンズ』の語った道理の一つでもある)。ひたすら一方的な強さを追い求め、いわゆる「弱者」を踏みにじるなら、私たちもまた、奴隷とし奴隷とされ、捕食し捕食される底なしの深淵に落ちていくだけである。それこそ『鬼形獣』の描く「地獄図」だ。動物霊は人類霊を「霊長園」に閉じ込めたが、その「霊長園」で制御を失った「機械の軍団」に、今度は自分たちの故郷を追われた。自ら蒔いた種の苦い実を味わうその動物霊たちこそ、「歪み鏡」に映った人類自身なのである。

キズナアイ「分身」騒動関連動画のサムネイル
人工知能、偶像、弱肉強食の「ビーストメトロポリス」は、少なからぬ東方のMMR勢に、かつての「アイちゃん」分身騒動を思い起こさせもした

おわりに

「動物」の哲学的意義は、それが人類の絶対的他者、すなわち人類とは異なる生きものの存在であることにある。動物という他者への思考はまた、より多くの他者性への思考を誘発する――私たちとは異なる人間、異なる民族、異なる文化、異なるイデオロギーなどとどう向き合い、彼らといかに調和と互恵の関係、すなわち「友愛」を結ぶのか、と。しかし人類の友愛は、動物に対してであれ、人類自身に対してであれ、美しい理想であると同時に、たよりない幻でもある――暴力で裁きを下す巨神兵にも、善意をもって異質さを容れる袿姫にも、そして人間の造り出した神(人工知能)そのものにさえ、答えは出せなかったのだから。

『ユリ熊嵐』の友愛は、童話の筆致で起承転結を運び、友愛を神(クマリア)の恩寵に帰した。ジャパリの廃墟の獣娘たちの友愛が人類の終末の上に築かれていること自体、すでに途方もない皮肉だが、もしパークの生態を調節する「安全弁」であるセルリアンを取り除いたなら、動物園の政治的生態が一変してしまうのかどうか、それも私たちには知りようがない。

『鬼形獣』が戦争に始まり戦争に終わるように、平成の「動物」物語は、友愛の絵に描いた餅を掲げるか、混沌としたままの散らかった局面を観客に投げて寄越すかのいずれかだった。ひとり宮崎駿だけが、「翼人」の救世主ナウシカに既存の権力体制を打ち壊させ、おのれの青年の熱血のいまだ消えぬことを示した。宮崎駿は現実の学生運動の抗争からは尻尾を巻いて逃げ出したし、ZUNも相変わらず物語の続きをプレイヤーに委ねている。しかし私たちは、これら平成の創作者たちが怯懦にも「偶像に世界を委ねて」しまった――神に私たちの問いに答えさせ、英雄に私たちを未来へと導かせた――と責めることもできない。「動物」問題は、たしかに答えのむずかしい問いだからである。この問いは、神も知らないし、人工知能も知らない。ただ私たちが、動物との「見つめ合い」のなかで、ゆっくりと悟っていくほかないのだろう。

吉弔と饕餮、龍の子たちのイラスト
「龍の子」たちの見つめ合い。龍は並みの「動物」ではなく、上古の農業社会の巫祝が「観象」(天文と気象の観察)のなかで構想した幻想の生きものである。ZUNの一貫した「神話ごった煮」の方針のもとで作られた『鬼形獣』では、「動物」側の二大領袖が、華夏神話の体系に連なる二柱の「龍の子」――吉弔と饕餮――である。西洋では、龍(dragon)はしばしば富(巣に蓄えた財宝を守ること)と結びつき、中国では、龍は封建社会における最高権力の動物記号となった。『鬼形獣』の「畜生界」が権謀術数の人間社会を映す「歪み鏡」であるからには、権力の象徴たる中国の龍とその眷属を『鬼形獣』の「政治闘争」に配するのも、「理の当然」の配剤と言えようか。(筆者の友人の絵師竹艸の画、pid2599407

刊行情報

ゲーム文化研究誌『東方文化学刊』2020年秋季号がまもなく発売。学刊の連載コラムにもぜひご注目を。

『東方文化学刊』2020年秋季号の見開き図版

『東方文化学刊』2020年秋季号の目次

本文終わり
19

注釈

  1. 「甲賀三郎」伝説は、鎌倉末期、諏訪の大祝の一族が中央で勢力を失ったのち、諏訪の武士集団のあいだで次第に広まった、祖神を記念する武士の伝説である。初出は中世の宗教説話集『神道集』。元寇を機に流行した風神信仰では、神は龍蛇の姿で現れるとされたから、人が蛇と化す伝説には、当時の東国武士集団が自らの祖先に箔をつけようとした心性が反映されているのだろう。

  2. 原題はL’Animal que donc je suis(英題The Animal That Therefore I Am)。デリダが、動物をめぐって展開した自身の哲学論集に与えた表題である。デリダによれば、動物もまた人間を「見つめ返す」主体的存在であり(逆に、客体は「見つめ返す」ことも「見つめ合う」こともできない)、人間もまた動物の「照り返し」のなかで存在している。邦題が『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』とされるゆえんである。

  3. 「人類学機械」はイタリアの学者アガンベンの提起した政治哲学の概念である。それは科学や政治などのさまざまな手段(「実験」)によって人間を「動物化」し、人間の生物学的あるいは社会的特徴に基づいて、人間性を持たないとされた人や動物化された生を生きる人を人類の内部から排除する。すなわち、人類の内部で「非人間」を生産する。たとえばサイボーグ、人造人間、クローン、脳死者、障害者、遺伝子改変ベビー、異教徒、移民や難民、古代ローマのホモサケル(Homo Sacer)、アメリカの黒人奴隷、ナチス強制収容所のユダヤ人、関東軍防疫給水部における中国人などであり、彼らは程度の差こそあれ、いずれも「人類学機械」の製造した「動物的な生」である。

  4. 宮崎駿『風の谷のナウシカ』第7巻、J.T.comix訳、台北:台湾東販、1996年版、198頁。編注:崔健にも「超越那一天(あの日を超えて)」という歌がある。歌われているのは香港のことでこの話ではないが、この文脈に置いてみると、なかなか味わい深い。

  5. 『風の谷のナウシカ』に登場する、「火の7日間」以前の旧文明の技術によって作られ、「腐海浄化計画」に奉仕する生体人造人間有機人工知能。中国語では「席德拉」あるいは「席得拉」と訳される。

  6. アガンベンによれば、古代ギリシャ人は人間の生命を二つに分けていた。一つはあらゆる生物に共通の生命形式「ゾーエー」(生物的な生)、もう一つは人間社会の構築した、人間に固有の生命形式「ビオス」(政治的な生)である。両者は本来緊密に結びついているが、シュミットの主権の論理の作動のなかで、あるいはフーコーの身体=生政治のなかで、しばしば分離の状態に置かれる。ここに、「ビオス」を剥ぎ取られた「ゾーエー」、すなわち「剥き出しの生」が生まれる。

  7. 4に同じ、201頁。

  8. Donna Haraway, The Companion Species Manifesto: Dogs, People, and Significant Otherness, Chicago: Prickly Paradigm Press, 2003.

  9. たとえば「ぞうとおじさん」(『ドラえもん』第5巻、東京:小学館、1979年)、「森は生きている」(『ドラえもん』第26巻、1982年)、『のび太とアニマル惑星』(19891990)など。

  10. ディズニーの2003年のアニメ映画『ブラザーベア』(Brother Bear)も、人間と熊が対立を解消し、友愛を結ぶ物語を語っている。太古の呪術社会で、兄を熊に殺されて復讐心を抱いた猟師キナイは、あらゆる生命の帰り着く先である偉大な精霊(Great Spirit)によって熊に変えられる。偉大な精霊の導きのもと、キナイは小熊のコーダをはじめとする熊たちとの交わりのなかで、「他者のための愛」の真髄を理解する。この角度から見れば、『ユリ熊嵐』は鏡像版の『ブラザーベア』と言えよう。

  11. Jacques Derrida, The Politics of Friendship, New York: Verso Books, 2006.

  12. 陶片追放は、古代ギリシャ人が投票によって政敵を追放した制度である。『ユリ熊嵐』の「排除の儀」も、投票によって学級のなかの「悪者」を追放する。ただ投票の道具だけが、古代の貝殻や陶片から、現代のスマートフォンアプリに変わっている。

  13. 編注:ここで少し補足とまとめをしておきたい。この種の作品の書き方とは、まず「一見美しいが、必ず道を誤り悪をなす」誤った「友愛」や各種の理想を悪役として立て、それから、さほどイデオロギー至上ではない主人公を正義の側に置いて、真の、より善良な友愛を体現させる、というものだ。筆力の足りない作者が悪役の道徳と知力をあまりに低く設定しがちだという問題はさておき、この種の作品を見慣れてくると、一つの疑問が湧いてくるのを抑えられない。作者よ、あなたの提出する正解とやらは、どれほどましなものなのか。なぜそこまで確信できるのか。そして、創作者自身もまた自らの出した答えの確かさを信じきれなくなったとき、私たちは次の段階を迎えることになる。

  14. 龐紅蕊「当代西方文化语境中的动物问题」北京外国語大学、2014年、179頁。

  15. Jacques Derrida, The Animal That Therefore I Am, New York: Fordham University Press, 2008.

  16. デリダが『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』でanimalmot(語)を組み合わせて自ら鋳造した語。フランス語の動物の複数形(animaux)と発音が似ることから、形態は多様でありながら個体としては唯一無二である動物の生を指すために用いられる。

  17. Mark Huang「〈动物朋友〉:悦纳异己怀柔远人,すごーい!」2017531日、U-ACGhttp://www.u-acg.com/archives/14088

  18. フーコーは『監獄の誕生――監視と処罰』(Discipline and Punish)において、身体政治の執行の場である「一望監視施設(パノプティコン)」を動物園によって隠喩した。そして監獄とは、「非人間」を製造する典型的な装置である。

  19. 編注:ここではもう一つの見方を示しておこう。獣娘たちとかばんちゃんの友愛を称賛し、喜ばしく思えば思うほど、私たちは翻って考えることができる。なぜ彼女たちは、私たちの目にあれほど心地よく映るのか。答えは簡単で、この生態系全体が、今日のこうした多元主義、いわば「二次元+聖母」の理想のとおりに築かれているからだ。動物園にいる、由来のはっきり語られないセルリアンなどは、制御装置として、この理想的な友愛がこうした条件の制約下でしか維持できないことを暗示している。そのうえ、世界全体が最初からすでに滅んだ状態にあることを考え合わせれば、こう推論できる――この種の「友愛」が理想的にすぎることに、作者は実は自覚的なのである。