屋頂現視研

スローアニメの三つの次元01

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第一章:序文と空間—リアリズム

空間のリアリズム、愛と超越、時間イメージという三つの次元から、押井守、高橋ナオヒト、川面真也が静止、長回し、ミザンセーヌを通じて、スローアニメ独自の美学をいかに生み出しているかを考察する。

著者: 鲜奶饼干中国語版校閲: 伦勃朗翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

第一章:序文と空間—リアリズム

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鲜奶饼干1

哲学好きの素人、アニメの手練れ。

序文

「日本のアニメには……私には我慢ならないところがある。しかも驚くべきことに、そうした不快な要素は、安上がりなOVAから宮崎駿の名作大作まで、私が見たあらゆる日本のアニメに存在する。具体的には、魅力のかけらもない冷たいキャラクターデザイン、そして人物の個性を動きで表すアニメーション(personality animation)に、総じて動きと複雑さが欠けていることだ。キャラクターが生き生きとした、信じられる存在でなくなれば、そのキャラクターが語る物語の効果も価値も失われる。それこそアニメーションの死である。」——アミッド・アミディ2

ミシェル・シマン(Michel Ciment)が2003年に初めて「cinema of slowness」という語を用いた。2010年には、ニック・ジェームズ(Nick James)が『サイト・アンド・サウンド』(Sight and Sound)4月号で広範かつ激しい論争を巻き起こす。こうしてスローシネマ(slow cinema)は、21世紀最初の十数年間の映画研究と批評における大きな話題の一つとなった。3議論が広がるにつれ、批評家や理論家は、その起源をネオレアリズモ(Nouveau Realism)、ヌーヴェルヴァーグ(La Nouvelle Vague)以降の現代映画に結びつけて考えるようになった。集中的に論じられるようになったのは近年でも、スローシネマはすでに六、七十年前、古典的ハリウッドの物語規範を打ち破ろうとする試みのなかで芽生えていた。長い伝統を持つのである。

しかし、アニメーションでは事情が大きく異なる。映画が人為を排した自動性(automatism)によって運動を再現するのに対し、アニメーションは根本的に、運動を「創造」し、生命を「創造」しなければならない。animationのラテン語の語源animusが意味する「生命を与える」とは、まさにこのことだ。運動を生むのは映像の機械ではない。静止した絵画を動くアニメーションに変える以上、出発点からして運動にかかわる芸術なのである。そのため実践においても、アニメーションはつねに「静」や「遅さ」とは無縁の芸術形式であり続けてきた。ディズニーの「アニメーションの12原則」(12 principles of animation)は、スクウォッシュとストレッチ(Squash and Stretch)、予備動作(Anticipation)、フォロースルーとオーバーラッピング・アクション(Follow Through and Overlapping Action)、誇張(Exaggeration)などを、あたかもアニメーションの物理法則であるかのように、すべてのアニメーターに教え込む。アニメーション史家モーリーン・ファーニス(Maureen Furniss)による理論概説の古典も、『運動の芸術——アニメーションの美学』(Art in Motion: Animation Aesthetics)と題されている。「静止の芸術(art in stillness)」ではない。アニメーションの芸術実践において、運動はもっとも中心的な主題なのだ。

だから、スローシネマへの関心を実写映像からアニメーションへ移すと、意外でありながら、筋の通った事実に気づく。アニメーションの遅さの美学は、批評でほとんど論じられていないだけでなく、創作の場でもほとんど探究されていないのだ。典型的なアメリカのアニメーションは12原則に従い、動きの速さと密度によって、強い躍動感を保たなければならない。そのため作画はしばしば1コマ打ち、つまり1フレームに1枚の絵を使い、絵の枚数を減らすとしても、2コマ打ち、つまり2フレームにつき1枚は必要となる。これがフル・アニメーション(full animation)と呼ばれる。アメリカのアニメーション界は、「ディズニーのナイン・オールドメン」(Disney’s Nine Old Men)のようなアニメーターが名声を得る一方、監督は裏方に回る世界だ。「よい」アニメーションの基本的な基準は、豊かな動きが絶え間なく次々と連なる、連続した運動の表現にある。

これに対し、日本のアニメはまったく別の産業と美学の体系を形づくった。多数の短編と少数の大予算長編からなるアメリカのアニメーション業界とは違い、戦後日本のアニメ産業は、その誕生時から、資金、人手、技術水準の制約に直面していた。産業を持続させるため、動画枚数を厳しく抑え、アニメーションの質を大幅に落としてでも量産し、テレビで放送したのである。日本のアニメは、最初から「動く」美学を捨てていた。動画枚数の制限がある以上、日本のアニメーターに12原則を守ることは根本的に不可能だった。低予算を前提にどう表現力を高めるかを考えるしかなく、そこからリミテッド・アニメーション(limited animation)を使った、多彩な作風の創作美学を発展させてきた。その結果が、豊かで多様な芸術実践を包み込む今日の日本のアニメ産業であり、熱狂的な少数のファンに支えられた、きわめてカルト色の強い深夜アニメ市場である。

したがって、アニメーションの遅さの美学を論じるとき、日本のアニメは避けて通れない。1950年代から今日に至るまで、日本のアニメ界は静止(still)、遅さ(slow)、遅延(delayed)を特徴とする作品を数多く生み出してきた。そのなかには、押井守の数々のアニメ映画のように、国際的なアート映画の世界で早くから名高いものもある。押井は2004年にカンヌ映画祭のコンペティション部門に選出された監督でもある。一方で、一時代の話題をさらった商業的ヒット作もある。高橋ナオヒト監督の『To Heart』(1999)と『鋼鉄天使くるみ零』(2001)、川面真也監督の『のんのんびより』(2013)と『のんのんびより りぴーと』(2015)などがそうだ。本稿では、押井守、高橋ナオヒト、川面真也という三つの点を遅さの美学という線で結び、人物や物の配置、動きによる画面内の演出、すなわちミザンセーヌ(Mise-en-scène)を軸に、三人の映像作家がスローアニメ(slow anime)という主題に対して行ってきた豊かな試みと、そこに現れる作家性を分析する。さらに、スローシネマとは異なるスローアニメの美的特徴と、メディア固有性(medium specificity)を示したい。

一、空間—リアリズム

アニメーションは、もともとリアリズムのメディアではなかったように思える。アンドレ・バザン(André Bazin)が映画の写実性を現象学的に論じ、長回しの美学を高らかに称賛したときも、アニメーションは根本的に幻想を担う芸術形式と考えられていた。この違いの根には、絵画と写真の成り立ちの違いがある。絵画にとって遠近法は、初めから一つの発明だった。写実は絵画の本性ではなく、画家が芸術として追い求めるものなのである。写真の発明後、芸術界ではかつてないほどリアリズムが論じられた。やがて絵画は、写真とは異なる発展の方向として幻想と抽象へ向かった。写実の役目は、映像の機械に永久に独占されてしまったかのようだった。

アニメーションは幻想の芸術である。ラディスラス・スタレヴィッチ(Ladislas Starewitch)は、アニメーターをこうたたえている。「たゆまず幻想の王国を歩き回る。大きくは混沌とした天空から、小さくは最小の昆虫の一億分の一しかない体まで、彼は意のままにつくり変えられる」。ロイド・プライス(Lloyd Price)にとっては、「アニメーションのすばらしさは、動かないものに生命を与えられることにある。映画は幻想のために生まれた芸術だが、その幻想が極まるのはアニメーションにおいてなのだ。カメラをどけてしまえば、そこにあるのはただの粘土のかたまりなのだから」。4

しかし、アニメーションがその成り立ちゆえに、写実をなしえない映像形式だということは決してない。映像の写実性にとって時間が持つ意味は、実写映画よりもアニメーションのほうがはるかにはっきりしている。実写映像は現実の直接的な記録であるため、人はつい現実の忠実な再現という面を見て、動く写真として受け取ってしまう。アニメーションの本質はなお絵画であり、記号表現と記号内容のあいだに、このような密接なつながりはない。現実との結びつきという点では、不完全な映像記号ともいえる。だが、だからこそ映像の時間的な性質が浮かび上がる。実写やアニメーションが写真や絵画と決定的に違うのは、映像がまったく新しい時間の次元をもたらすことだ。一枚の写真が与えるのは「現実的な非現実性」(irréalité réelle)である。そこには「ここ」(ici)という空間が示されているが、それは「あのとき」(autrefois)の一断面にすぎない。映像は違う。それが過去の記録だと意識していようといまいと、観客が経験するのは、つねに現在進行形の時間が目の前で少しずつ開かれていくことだ。観客が映像に自分を重ねる「まさに私である」(c’est moi)という実感が、「これはかつてあった」(cela a été)という意識を圧倒し、「事物の〈かつてそこにあったこと〉は、〈そこにあること〉のために消え去る」。5

アニメーションのリアリズムにとって本当に難しいのは、時間ではなく空間である。「映画の映像からは、空間の現実性という一点を除き、あらゆる現実性を取り去ることができる」。バザンのこの断言は、アンリ・グイエ(Henri Gouhier)の演劇についての定式を言い換えたものだ。「舞台では、俳優がそこにいること以外、あらゆるものが幻であってよい」。6演劇では、約束事によって成り立つ空間に、生身の俳優が実際に立つ。映画の空間は、それとは違う。映画における「人間」は、演劇ほど重要な位置を占めていない。「演劇には演じる人が不可欠だが、映画のドラマには俳優がいなくてもよい」。7映画では空間こそが真の主役なのである。「一本の映画は、一時のあいだ大地の万物であり、世界そのものであり、あるいは自然そのものだといってよい」。8

トーマス・ラマール(Thomas LaMarre)は『アニメ・マシーン』(The Anime Machine: A Media Theory of Animation)で、実写とアニメーションが空間をつくり出す仕方を、閉じたコンポジティング(合成、closed compositing)と開かれたコンポジティング(open compositing)という二つの対立するあり方から論じている。シネマティズム(cinematism)の閉じたコンポジティングでは、空間は「継ぎ目のない」かたちで標準的なデカルト的モデル(the Cartesian model)へ統合される。映像が変化しても、空間の均質さと一貫した幾何学的な関係は保たれる。一方、アニメティズム(animetism)の開かれたコンポジティングでは、多層の平面が空間の閉鎖性を内側から突き崩す。セルアニメーションでは、奥行きのある空間を複数のレイヤーによって平面上に合成する。図形どうしの相対的な関係の変化が奥行きの錯覚を生むが、実際の奥行き方向の運動はめったに存在しない。9

空間の現実性は閉じたコンポジティングに依存するが、アニメーションでそれを実現するのはひときわ難しい。絵画にとっての遠近法と同じく、アニメーションにとって空間の現実性とは、徹頭徹尾、一つの発明なのである。押井守が『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993)を監督したときに直面したのは、まさにこの難題だった。『パトレイバー』の二本の劇場版を制作していた頃、Production I.Gはまだ駆け出しで、経験豊かなスタッフは少なく、押井の印象に強く残ったのは黄瀬和哉だけだった。10『劇場版1』では予算も日程も厳しく、スタッフは仕事に追われ続けた。押井自身、その出来に満足してはいなかった。そこで『劇場版2』を「復讐」と位置づけ、一気に挽回しようとしたのである。押井はほとんど一から映画のつくり方を学び直し、画面の縦横比16:9がどこから来たのか、というところまで問い直した。I.Gには映画の16:9に合う作画用紙がなかったため、劇場版の作画用紙を自らつくるほかなかった。

それまでの経験をいったん捨て、映画の本質に遡る鍛錬のなかで、押井はアニメ映画制作の方法論を完成させた。映画の文法から具体的な制作工程まで、さまざまな定式と経験則を網羅したこの方法論をまとめたのが、『Methods―押井守「パトレイバー2」演出ノート』である。のちに『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995)や『アヴァロン』(2001)で繰り返し使われ、押井を世界に知らしめる看板となっただけでなく、その後のアニメ業界にも大きな影響を及ぼした。

『劇場版2』のスタイルを一言で表すなら、「動かないアニメ」だ。そう呼ばれるのは、固定の長回しが多用され、映画の全編を通じてキャラクターがほとんど動かないからである。人物は立ち止まっているか、構図を崩さない規則的な運動をしている。なぜか。『劇場版2』は構図が主導するアニメだからだ。「復讐」を果たすため、押井は制作に先立ってできる限り素材を揃え、レイアウトに多くの思考と時間を費やした。レイアウトの制作には五か月かかったが、実際の作画はわずか三か月で終わった。レイアウトをそのまま実現するには、カメラもキャラクターも、構図の効果を壊すほど動かすわけにはいかない。11従来のアニメーターがなお運動をアニメーションの「生命」と考えていたとき、押井は意図してかせずか、その運動を「去勢」し、アニメーションを空間へと変えてしまった。いずれにせよ、日本のアニメを根底から変えるほど先駆的な試みになるとは、当時の押井自身も思っていなかっただろう。

『スカイ・クロラ』の戦闘機

押井は映画理論に詳しく、自身でも深く考え、数多くの著書を出している。そのため、押井の映像美学やミザンセーヌの研究は、本人の方法論を参照するものが多い。たとえば、『「パトレイバー2」演出ノート』に出てくる有名な「三景法」が、各種のショットサイズと物語要素をそれぞれ結びつける仕方などだ。しかし、それゆえに、押井の映像を扱う研究もまた、本人の枠組みを出ることが少ない。実写映画へ視野を広げれば、この時期の押井のスタイルが台湾ニューシネマと興味深い対照をなしていることに、すぐ気づくはずだ。人物の全身や遠景を捉えた長回し、編集への慎重さ、人物の動きの少なさ、あるいは動かなさ。これらは台湾ニューシネマの作家たちを有名にした美的特徴であると同時に、押井の映像上の好みでもある。さらに広く、アジアの新しい映画とも響き合っている。

『劇場版2』で押井は、カット数を極力減らそうとしている。一つのカットは、物語の文法上、編集が必要でない限り、できるだけ分割しない。冒頭からほどなく、主要人物をそれぞれ紹介する二つの場面がある。篠原遊馬と泉野明が自転車に乗る場面(6:16–7:09)と、南雲しのぶが報告を終えてエレベーターに乗る場面(12:53–14:20)だ。場面の前後をつなぐショットを除くと、どちらも長短二つのショットしか使っていない。短いほうは、観客を長回しへ導き入れるか、そこから連れ出すためのもので、実質的にはこれもつなぎのショットである。厳密にいえば、押井がそれぞれの場面に用意した主要なショットは一つだけだ。遊馬と野明は、水平に追うカメラのなかで自転車をこぎ、後ろへ飛び去る背景が生き生きとした視覚的リズムを生む。それとは対照的に、しのぶはエレベーター内で、極端な俯瞰の構図に動かぬまま閉じ込められる。そこには彼女の精神的な落ち込みと停滞が暗示されている。

『機動警察パトレイバー 2 the Movie』の作戦会議における、画面内の人物配置と動きの六つの変化(図1–6)
図1–6。中国語字幕の意味は、図1・2が、これは使われていない地下鉄駅だという説明。図3は、このトンネルの存在は敵もおそらく知っているという説明。図4は質問があるという申し出。図5は、この地下鉄路線へどう入るのかという質問。図6は、後藤隊長のことかと驚いて聞き返す言葉。

画像内の中国語字幕の内容:1・2は、この場所が隠れるのに都合がよいという説明。3は、敵もこの通路の存在を知っているだろうという指摘。4・5は、遊馬が質問を切り出し、どうやってこの通路へ入るのかを尋ねる。6は、後藤隊長の名を聞いて驚く反応。

さらに直接的な例が、決戦前の作戦会議のショット(1:31:35–1:31:53)にある。『劇場版2』では珍しく多数の人物が集まる場面だが、ここでも押井は少ないカット数を選び、画面内の人物配置と動きによって物語を伝えている。最初、太田の顔は完全に隠れている(図1)。話し始めると、太田はわずかに頭を動かして目をのぞかせる(図2)。太田が話し終わる前に、右側の前景にいる進士が振り向き、太田の顔がすべて見えるようになる。続いて進士が話す(図3)。遊馬が手を挙げて質問し始めると(図4)、野明はすぐに遊馬のほうへ顔を向け、今度は山崎の顔を隠す(図5)。最後に後藤隊長の名が出ると、全員の反応が示される(図6)。複雑な遮蔽の演出と、見える/見えないの駆け引き。一つのショット内で構図を何度も組み直し、変化のたびに注意を集中させたり、人物どうしを結びつけたりして、画面内の演出の役割を正確に果たしている。

デヴィッド・ボードウェル(David Bordwell)は心理学の用語を借り、このようなミザンセーヌの技法を「最小可知差異」(just-noticeable differences, JNDs)と呼んだ。かろうじて知覚できるほどの差、という意味である。12この微小な差を利用する演出では、人物の全身を捉えるショットや遠景、固定カメラ、長回しを組み合わせる。オーソン・ウェルズ(Orson Welles)のような従来の長回しの使い手は、奥行き方向に人物を配置して動かすとき、明確な視覚的中心を設け、物語上もっとも重要な要素を前景に置く傾向があった。だが最小可知差異の技法では、密度の高い構図と人物のごくわずかな動きが、一つのショット内で物語を伝える。それにより観客は、演出の緻密な誘導にまったく気づかず、無意識のうちに注意を移す。あるいは、映画の見方を変えることを迫られ、古典的な様式のように受け身で映画の提示するものに圧倒され、感化される代わりに、より能動的に観察するようになる。ただし、ボードウェルがこう分析したのは押井守ではなく、ホウ・シャオシェンについてだった。彼は著書のなかで、この技法こそホウが映画の形式言語にもたらした最大の功績だと位置づけている。13

『トワイライトQ 迷宮物件 FILE538』の都市と窓枠の構図
図7。『トワイライトQ 迷宮物件 FILE538』。
『機動警察パトレイバー 2 the Movie』の都市と窓枠の構図
図8。『機動警察パトレイバー 2 the Movie』。
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の都市と窓枠の構図
図9。『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』。

押井とホウの映像の組み立て方には、比較すると非常に面白い点がいくつもある。ホウが『風櫃の少年』(1983)を撮っていたとき、友人の朱天文は励まそうとして沈従文の著作を一冊貸した。それが思いがけず、ホウにまったく新しい物の見方をもたらした。沈従文の文章では、歴史の大きな物語はつねに語りの中心の外側へと押しやられ、日常生活が一貫して中心を占めている。沈従文は「説教もせず、判断を下すこともなく」、距離を置いた超然たる視点で世界を見る。14ホウはその感覚を捉えようとして、『風櫃の少年』の全ショットの約四割に、人物の全身と環境を収めた遠景や極端な遠景を用いた。一方、宮崎駿と押井守の監督としてのスタイルを比較した鈴木敏夫によれば、宮崎は感情豊かな主人公によって観客を感動させるが、押井は大きく異なる。登場人物を客観的に見つめて作品をつくり、無表情の演技を徹底するのだという。15ホウが歴史の表舞台から外れた人々を「遠く」から撮るのに対し、押井のアニメ映画は、思索者による政治と歴史の記述である。押井は、全身ショットやミディアムショットといった、より寄った画面に複数の人物を収め、最小可知差異を利用することを好む。しかし、その人物たちはつねに都市から距離を取り、遠くから眺めるように都市について考える。都市は後景へと押しやられるか、窓の外に切り取られ、人物から独立し、人物と対置される平面的な視覚記号になる(図7『トワイライトQ 迷宮物件 FILE538』〔1987〕、図8『劇場版2』、図9『攻殻機動隊』)。押井はアニメ界で一貫して固定の長回しで知られている——おそらく「冗長」「説教臭い」「退屈」といった評判とともに。ショット内の微細な演技も説明的な台詞も、観客が映像に対して取る距離や、映像と音の関係の捉え方を変えるためにある。

ホウも押井も、ポストコロニアルな状況と政治的主体性に関心を向けている。ホウの『悲情城市』(1989)と『戯夢人生』(1993)は、台湾の戦後史と戦前史に向き合い、歴史的事件の中心から外れた人物を「下から」描く、個人の歴史観を示している。これに対し、押井の『劇場版2』で市井の人々へのまなざしが残るのは、風景の「スケッチ」のなかだけだ。物語の軸は政治が作動する仕組みそのものを切り開き、妥協も空想も交えず、その体制の病弊を突く。「正義の戦争」と「不正義の平和」の存在論的な思弁、「虚構の現実」と「現実の虚構」のシミュラークルの仕組み、そして左右に揺れる日本の戦後政治の、ぬかるみのようなジレンマを正面から見据えるのである。それでも、ホウと押井は結局のところ、「遠くから眺める」「凝固する」映像の美学によって、体制、歴史、権力、集団を前にした個人の無力さを描いている。その個人が歴史のなかの小さな人間であれ、体制から距離を取る思索者であれ、そこは変わらない。よく似たところがありながらも大きく異なる二人の映像表現は、こうした静観のまなざしにおいて、別々の道を通って同じ場所へ辿り着くのかもしれない。

1980年代から90年代にかけての世界の映画文化を見渡すと、ヨーロッパのアート映画は徐々に行き詰まる一方で、ネオレアリズモやヌーヴェルヴァーグの広範な影響が、同時期にアジア各地の映画へと及び、中国大陸、台湾、日本、イランなどで根を下ろしていた。改革開放とともに中国大陸では「第五世代」の監督が台頭し、世界の主要映画祭で次々と受賞した。台湾でも80年代から文化・政治状況が開放へと向かい、16映画産業の危機と香港ニューウェイヴからの刺激が重なって、ニューシネマの誕生を促した。17日本映画のヌーヴェルヴァーグは50年代に始まり、70年代にはほぼ終わっていたが、日本のアニメでリアリズムの潮流が興ったのは『機動戦士ガンダム』(1979)からだった。80年代、日本映画はアニメに新しいスタイルをもたらした。『ガンダム』シリーズで知られる富野由悠季は、大学ではもともと映画学科に学び、映画界に入るつもりだった。しかし競争が激しく、なかなか仕事を得られず、最後に手塚治虫の虫プロダクションへ入った。映画ファンだった押井も同様に、卒業時から映画監督を目指していたものの、やはり職が見つからず、巡り合わせで竜の子プロダクションに就職した。のちに編集技法で名を馳せる今敏も、大学時代は外国映画に夢中で、それが後年の創作スタイルに深い影響を与えている。

映画の薫陶を強く受けたアニメ制作者たちは、創作の場で豊かな革新性を発揮し、出﨑統の表現主義とは異なる新たな映像スタイルを日本のアニメにもたらした。笹木信作は『レイアウトの歴史講座』で、80年代を境に二つの段階を分けている。80年代以前には、アニメの空間表現は、抽象的で平面的な象徴空間から、奥行きを持った成熟した映画的空間表現へと向かっていた。80年代以降は、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987)、『AKIRA』(1988)、『パトレイバー』シリーズなどを経て、多様な都市空間の描写が確立され、現代映画のショットや焦点距離の扱いが取り入れられ、洗練されていった。18この革新の源泉は、アニメ業界にいた映画ファンたちだった。そして『「パトレイバー2」演出ノート』で演出の方法論を全面的に公開した押井は、その革新の主力だったのである。19

ヨーロッパ映画を愛し、イングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman)やアンドレイ・タルコフスキー(Andrei Tarkovsky)らに深い影響を受けた押井。一方、エドワード・ヤンをはじめ、海外から帰ってきた台湾の映画人たちの考え方に衝撃を受けたホウ。創作の面でよく似たところがありながら、実質的には大きく異なる二人は、当時のアジア映画文化がヨーロッパのヌーヴェルヴァーグに学ぶなかで、80年代から90年代に創作の爆発を迎えた台湾映画界と日本アニメ界を代表している。実写映画のヌーヴェルヴァーグが古典的な映画の様式を突破したのに対応して、日本アニメのリアリズムの興隆は、出﨑統的な表現主義のスタイルからの徹底した離脱だった。序文で述べたとおり、日本のアニメは最初から「動く」美学を捨てていた。出﨑の体系は、表現主義的な手法によって制作上の制約を乗り越え、リミテッド・アニメーションを、演出の変化によって新しい「動き」へと変えた。80年代のリアリズムの潮流は、さらに徹底した一歩を踏み出した。それまで多用されていた分析的編集や構築的編集に代わり、一つのショット内での演出が前面に出た。身体、動作、空間はもはや物語によって分解されず、空間が映像の真の「主役」として確立された。筆者はこれを、日本アニメの「空間的転回」と呼ぶ。この「空間的転回」によって、アニメは映画の芸術的伝統へと近づいた。日本のアニメは、実写映画の技法を受け継ぎ、それをアニメ独自の美的効果へと変えられるようになったのである。

『スカイ・クロラ』(2008)では、押井の最小可知差異の演出がさらに発展した。制作時、押井は西尾鉄也に、静止しているようで動いているという仕掛けをつくりたい、完全に止めるのではなく、ともかく印象として静止を感じさせたい、という趣旨の指示を出している。20これはどういうことか。簡単にいえば、一見すると完全に止まっているようで、ごく微細な演技があるということだ。観客には画面が止まっているように感じられるが、本当の静止画を見せれば、受ける印象はまったく違う。押井のアニメ映画では、人物はしばしば能動性を欠く状況に置かれる。行動する者ではなく、見る者(seer)として状況の外を漂い、映像のなかで感覚運動図式が働かなくなる。『劇場版2』では微細な演技が筋を理解する鍵となることが多かったが、『スカイ・クロラ』では演技が観客の無意識にまで浸透している。こうした人物の描き方によって、押井の映画は、筋と人物が主導する古典的な物語様式から完全に離れる。代わって「雰囲気」が、映画を理解する中心となる。押井は映画の技法をアニメに持ち込み、それを根本から変えてしまったのである。周知のように、押井はアニメの分野では宮崎駿と並ぶもう一人の巨匠として尊敬されているが、実写映画ではたびたび挫折し、佳作が少ない。映画を愛する押井にとって、これは間違いなく皮肉なことだ。その理由は、彼の演出技法が映画から得られたものでありながら、アニメという方法によってしか実現できないことにある。

『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』の対話場面。三分割の補助線と人物配置(図10)
図10。

画像内の中国語字幕「倦怠」:意味は日本語と同じく、飽きや疲れからくる気だるさ。

『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』で高畑が動き、後藤田が水槽を見る場面(図11)
図11。

画像内の中国語字幕「真是讽刺啊」の訳:実に皮肉だ。

『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』の水槽越しの顔(図12)
図12。

画像内の中国語字幕「水草不能动」の訳:水草は動けない。

『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』の対話場面で変化した人物配置(図13)
図13。

画像内の中国語字幕「那么自由的是什么呢」の訳:では、自由なのは何なのか。

例として、押井が2015年に監督した『劇場版2』の続編、『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』の二人の対話場面を見てみよう。二人は画面を三分割する線によって、左右にはっきりと隔てられている。左側の主人公・後藤田の顔は暗い(図10)。続いて、右側の高畑が少し左へ動き、後藤田は水槽に気を取られる(図11)。図10と図11では、水槽はいずれも画面左下の三分割線の交点にある。筋に合わせて注意の中心となるためだ。後藤田がうつむくと顔がより明るく照らされ、やがて高畑も、後藤田が話を聞いていないことに気づく。図12のショットは、異なる構図のあいだをつなぎ、対話のひと休みもつくる。そのあと再び構図が組み直され、左の三分割線を後藤田と水槽が挟み込み、右では高畑が三分割線上へ移って、画面の主導権を握る(図13)。

押井による変則的な『劇場版2』の実写リメイクであり、新しい時代の再解釈でもある『首都決戦』には、『劇場版2』の筋と非常によく似たくだりが数多くある。撮り方も初期の押井の映像スタイルに近い。しかし公開以来、『首都決戦』への好評は少なく、押井の実写映画におけるまた一つの失敗と広く見なされてきた。その失敗の大部分は、ミザンセーヌのまずさによるものではない。本当の問題は、実写とアニメの本質的な違いにある。この場面では後藤田の顔への光の当たり方が変わることが演出上の鍵の一つなのに、完成した映像では、その変化がごく微妙なものにとどまっている。もしアニメであれば、線と面の明瞭な境界によってつくられる陰影の変化は、はっきりと力強く伝わったはずだ。

アニメに比べた実写の最大の長所の一つは、その神秘性と、生まれながらに備わる複雑さにある。同じ顔のクローズアップでも、本物の人間の顔にはつねに微細な変化があり、形も複雑で、全体として情報量が非常に多い。長いあいだ見つめても退屈するとは限らない。そこにはいつも、言い表せない何かがある。対してアニメでは、描かれた顔は現実よりも概念に近い。今敏は実写とコンピューター・アニメーションの関係について、次のように述べている。「実写映画は、コンピューター・アニメーションの普及によって、画面づくりが単純になるかもしれません。もし黒澤明の『七人の侍』やコッポラの『地獄の黙示録』、デヴィッド・リーンの『アラビアのロレンス』といった名作がコンピューター・アニメーションでつくられていたら、画面の力は元の作品に遠く及ばなかったのではないでしょうか。コンピューター・アニメーションには、どうしても映画の画面を狭くしてしまう傾向があるように思えるからです」。21ここで今が指しているのはCGによる特殊効果であり、日本のアニメではない。それでも、人為的な産物が外界の豊かさに到達するのは、どうやら本質的に難しい。

しかし、描くものを絞れるという性質を活かせば、それは逆にアニメの強みとなる。大半のアニメでは、画面を動かす以上、きわめて複雑な表現スタイルは選べない。よほど時間と資金に余裕がなければ、ディズニーの大作長編や、二十分をつくるのに二年半を費やした『老人と海』(The Old Man and the Sea, 1999)のような作品は、アニメ産業にとっても個人の作家にとっても贅沢すぎる。したがってアニメは、基本的に単純化されたものにならざるをえない。その表現力は線と面に、言い換えれば絵画にある。線と面によって形を的確にまとめ、静止した画面に張りを生むことは、このメディアの可能性を引き出す一つの方法だ。押井の長回しは、まさにそう機能している。実写の長回しのように、対象の自然な現れ方を尊重して、当然のように直感的な現実感を与えるのではない。アニメの長回しは時空間のまとまりを保つことで、繊細な演技、正確なレイアウト、的確に整理された形と陰影、精緻な背景の複雑な絵画的質感を、それぞれ存分に見せる。ところが同じ手法をそのまま実写へ移すと、アニメでは有効だった技法が、実写というメディアにまったくかみ合わないことがわかる。厳密にいえば、実写ではアニメのように光と影を的確に整理し、情報量を完全に制御することはできない。そこで押井の最小可知差異の演出は、機能しなくなるのだ。

望月智充は『海がきこえる』(1993)について、これほど描くのなら、なぜ実際の人間に演じてもらわないのか、という評を目にしたことがある。それに対して望月は、実写のテレビドラマでは余分なものまで数多く写り込み、演技も背景も質感に影響してしまうが、アニメの長所はそうした余分なものを取り除けることだ、と答えている。22押井と同世代の、映画ファンとしてのアニメ監督は、こうした問いをたびたび突きつけられる。あなたの作品は映画と何が違うのか。なぜ映画を撮らないのか。望月にとって、それは描いたものがうまくいった証拠であり、実際には少しも写実的ではないのだという。アニメにしかできないことが多くある。ただし、それはアニメでもっとも表現しにくいところでもある、と。23

『海がきこえる』の場面を組み合わせたポスター

訂正(追記): 序文で「典型的なアメリカのアニメーション」と書いた箇所について。フル・アニメーションとは1コマ打ちや2コマ打ちのアニメーションのことだ、と定義する趣旨ではない。説明にあたって筆者は、たとえばPUAを見落とし、ディズニーだけを考えていた。また日本のアニメについても、テレビアニメだけに重点を置いて述べていた。こうして対象を限ったまま論じたのは、間違いなく誤りである。


編者注: このすばらしい文章の転載を許可してくださった饼干氏に感謝します。本稿は、このあと「愛と超越」「時間イメージ」の二節へと続きます。

本文終わり
注23

注釈

  1. フリーライター。筆名は「饼干」「鲜奶饼干」「cyclotron」。本稿は2019年6月の発表で、本文の「今日」「現在」も発表当時を指す。第一章の訂正は2020年3月31日の追記。 ↑

  2. Tamerlane, “Why Over Sixty Years of Animation History Still Remains Obscure”, 2018-11-20(原注記載日)。中国語訳の出典。 ↑

  3. 林松輝『蔡明亮与缓慢电影』、台北:台大出版中心、2016年、17–19頁。 ↑

  4. セバスチャン・ドゥニ『动画电影』、謝秀娟訳、杭州:浙江大学出版社、2013年、40頁。 ↑

  5. ロラン・バルト「影像的修辞」、邵一平・肖熹訳、『电影艺术』2012年第2期、98頁。 ↑

  6. アンドレ・バザン『电影是什么』、崔君衍訳、北京:文化芸術出版社、2008年、153頁。 ↑

  7. 同上、147頁。 ↑

  8. 同上、154頁。 ↑

  9. LaMarre, Thomas. The Anime Machine: A Media Theory of Animation. Minneapolis: University of Minnesota Press, 2009, pp. 26–54. ↑

  10. 押井守、WOWOWオンライン「押井守監督が自身の作品について語る! 3週連続単独インタビュー 第一弾 ~パトレイバーシリーズ~」、2018-11-20(原注記載日)、blog2.wowow.co.jp ↑

  11. 同上。 ↑

  12. Bordwell, David. “Hou Hsiao-hsien: Constraints, Traditions and Trends.” 2018-11-20(原注記載日), vimeo.com. ↑

  13. Bordwell, David. Figures Traced in Light: On Cinematic Staging. California: University of California Press, 2005, pp. 186–237. ↑

  14. ジェームズ・ウッデン『无人是孤岛:侯孝贤的电影世界』、黄文傑訳、上海:復旦大学出版社、2014年、108–111頁。 ↑

  15. NHK『ハイビジョン特集 映画監督 押井守 妄想を形にする ~新作密着ドキュメント~』、2018-11-20(原注記載日)、参照動画。 ↑

  16. 注13に同じ、93–95頁。 ↑

  17. 注13に同じ、98–102頁。 ↑

  18. JAniCA、笹木信作、徳野悠我『レイアウトの歴史講座』、2018-11-25(原注記載日)、janica.jp ↑

  19. もちろん、これは押井一人の功績ではない。よく知られているように、押井は美術教師を務めたこともあるが、画力に秀でているわけではない。『機動警察パトレイバー』劇場版の一作目と二作目で実際にレイアウトを描いた渡部隆や今敏らも、80年代のレイアウトの革新に大きく貢献した。詳しくは、小黒祐一郎『アニメクリエイター・インタビューズ この人に話を聞きたい 2001–2002』、講談社、2011年を参照。 ↑

  20. 注14に同じ。 ↑

  21. 今敏「動畫大師最後的訪談:意識溢流的棲映之地──今敏」、劉佳旻インタビュー、施穎弘・卓于綉訳、『dpi設計插畫誌』第134号、22–29頁、studio2talks.com より。 ↑

  22. 映像特典・座談会「あれから10年、僕らの青春」~ここからすべてが始まった!、ジブリがいっぱい COLLECTION『海がきこえる』、2018-11-25(原注記載日)、参照動画。 ↑

  23. 同上。 ↑

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