屋頂現視研

スローアニメの三つの次元02

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第二章:愛と超越、時間イメージ

空間のリアリズム、愛と超越、時間イメージという三つの次元から、押井守、高橋ナオヒト、川面真也が静止、長回し、ミザンセーヌを通じて、スローアニメ独自の美学をいかに生み出しているかを考察する。

著者: 鲜奶饼干中国語版校閲: 伦勃朗翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

第二章:愛と超越、時間イメージ

二、愛と超越

「私が神と呼ぶ存在がある。けれど、それをあまり見せたくはない。むしろ人に感じてもらいたいのだ。」

——ロベール・ブレッソン1

『劇場版2』では、静止と遅延は、能動性の欠如と、政治の泥沼が行動する者を縛るさまを物語のなかで表すために使われる。遅さの美学はここで、現実を映像にするための写実的な戦略の一つとなっている。しかし、その可能性はそこにとどまらない。押井のアニメ映画でもそうだ。

多くの人にとって、押井のアニメ映画のもっとも際立つ特徴の一つは、物語の進行の合間に置かれる、台詞も動作も人物もない、風景や物だけを映すショットの連なりだ。物語の進行をいったん離れるこうしたくだりには、作品ごとにさまざまな変形がある。一人か二人の人物が何かを探し、目的地へ向かうことを軸にしたものもあれば、台詞や語りを主とし、画面を従とするものもある。後者では、画面にイメージを示したり情報を付け加えたりして、台詞に呼応させる。こうしたショットについて、押井の弟子である神山健治は次のように捉えている。「物語を主に伝えるものとは違い、人物のいないショットは余白のようなものであるべきです。物語の筋の外を流れる時間、観客が想像を働かせられる場面なのです」「映画が終わったあと、そこで示された時空間のほかにも、別の時空間が存在しているように感じる映画があります。そう感じられない映画もある。人物のいないショットには、そうした時空間をつくる働きがあるのではないでしょうか」。2

神山のいう、物語の筋の外を流れる時間は、おもに物語の進行の合間に置かれる休息の時間を指している。「長編では、観客も物語ばかり見ていると疲れるでしょう。疲れさせないよう、人物のいないショットを入れる。そういう場合もあるはずです」。だが本稿の議論にとって、より重要なのは、神山が物語の本筋から離れた映像の時空間を指し示していることだ。押井のアニメ映画では、そうした時空間がしばしば主題についての思索、あるいは非物語的・反物語的な精神の経験を担う。『劇場版2』で「戦争と平和」を思索する、人物のいないショットの連なりでは、押井は台詞、つまり音を、画面とは異なる時空間に置く。台詞はもとの文脈から切り離される。物語要素を欠くショットの連続と、過去の時空間の声が組み合わされ、このくだり全体が物語を離れ、視覚的な像と概念からなる純粋な存在論的思索の空間へと変わる。遅さの美学がもたらすのは、多くの場合、単なる「遅さ」だけではない。それと組み合わされた、映像をめぐる一連の「引き算」の戦略である。高橋ナオヒトのアニメでは、この引き算が大抵、「聖なる他者」(the Wholly Other)の現前へと通じていることがわかる。

高橋に宗教的な思い入れがあるのかどうかは、わからない。インタビューを受けることが少なく、宗教や有神論にかかわる話題に触れたこともないからだ。しかし、彼が手がける原作もののアニメには、一神教や超越性にかかわる演出上の要素——いわば、こっそり忍ばせた私的なこだわり——が、決まって現れる。『誘惑COUNT DOWN』(1998)で監督した「鏡 AKIRA」編では、二人の主人公がクリスマスの夜に救済を得る。演出も繰り返し、何らかの外部からの助力をほのめかす。それどころか、最後に男女の主人公が身体を重ねる場面では、寄り添う二人の天使を描いた一枚のスケッチへと頻繁に切り替える交差編集によって、二人と天使の対応を「それとなく」示す。介錯の漫画を原作とする『鋼鉄天使くるみ』の二期分(1999、2001)を監督したあとに出た外伝的なOVA3『鋼鉄天使くるみ零』(2001)では、その二期とはまったく関係のない世界が描かれた。キャラクターデザインや性格は似ていても、登場人物たちの来歴や人間関係はまったく異なる。物語は、原作ではSF的な色合いの強かった「エンゼルハート」の設定を、科学技術とは無関係な、愛が直接引き起こす聖なる奇跡へと変えている。

『誘惑』の「鏡」編で語られることは、きわめて単純明快だ。男女二人の主人公が真実の愛を探す物語である。そして語り草となっているのは、このアニメが、なんとその大半を静止画で見せることだ。「鏡」編の映像は、鮮明に対立する二つの部分に分かれる。日常を描くくだりでは、「動」画はすべて動かない止め絵である。ところが身体を重ねるくだりでは、完全な1コマ打ちのアニメーションを用意し、身体の生き生きとしたさまを精一杯描く。出﨑統の表現主義から強い影響を受けたと自ら語る演出家の一人として、高橋は「鏡」編で、出﨑に由来するさまざまな静止画の使い方を最大限に活かした。『ベルセルク』についてのインタビューで、静止画、いわゆるハーモニーをなぜ多用するのかと聞かれ、高橋はこう答えている。「もちろん、動く場面が多ければ時間がかかるし、労力や人手が足りないという客観的な事情もあります。けれど、だから当然静止画で演出する、という考え方ではありません。静止画を使うのは、感情が激しく動くときや静まるとき、人は止まった画面をじっくり味わい、思いや感情をさらに深く落ち着かせたくなるからです。そういうことなのです」。4

形式から見ても内容から見ても、「鏡」編は独自の創作と作家性が大きく発揮された、原作とはまったく異なる作品といってよい。原作の鏡の物語は短く、語りもきわめて曖昧だ。男性主人公は肉体の交わりに溺れながら、真実の愛の相手である姉をつねに思い、海外からの帰国を待っている。女性主人公は冒頭で彼の奔放な性関係を非難するが、そのあと——漫画ではわずか六ページ後に——彼に惹かれ、しかし愛を得られずにいる。表面的には、誰もが身体を重ねながら魂は「すれ違い」、真実の愛を見つけても、その愛が手に入らない物語と読めるだろう。一方、題名と男性主人公の名前にある「鏡」、そして最後に女装して鏡の前で姉を呼ぶ姿は、彼が精神の混乱に陥っているかのようにも見せる。姉は本当に存在するのか。それとも、彼のナルシシズムを引き受けるため、心のなかにつくられた架空の他者にすぎないのか。読者には判断しがたい。

アニメでは、脚本と監督が、内容と形式の両面から物語に宗教的な補完を施している。最初のショットは、山裾に重なる住宅地から上へとパンし、山頂の教会を捉える。男性主人公は教会で、聖母マリアのステンドグラスに手を伸ばす。続いて性的な喘ぎ声が先に聞こえ、画面は、彼が脇役の女性と性行為をする場面へとディゾルヴする。この導入によって、男女の主人公が世俗を離れ、精神的なものを求めるという文脈、真実の愛を探すという目標、身体の交わりという手段が、作品全体の基調と基本構成として定まる。女性主人公が彼を非難する立場から惹かれる側へと変わる過程は、漫画では説明されなかった。アニメの脚本はそこに超越的な枠組みを設け、彼女が彼に惹かれるのは、二人がともに求める〈私とあなた〉の関係の、超越性と純粋さゆえだとほのめかす。漫画では一度も姿を見せなかった姉についても、アニメは二人の過去を描き直すだけでなく、海外から帰国させ、弟の前に実際に登場させる。この姉の物語は、原作のナルシシズムという解釈を拡張し、変形したものだ。弟が唯一無二の関係を求めるのとは正反対に、姉は最初から最後まで、彼を自分に似た、好きなように着飾らせられる「玩具」としか見ていない。ナルシシズムにとらわれた姉は、弟を本当に「見る」ことが一度もない。要求を突きつけ、女装させながら、その姿に「反映」された自分を見ているのだ。

ポール・シュレイダー(Paul Schrader)は、小津安二郎、ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)、カール・テオドア・ドライヤー(Carl Theodor Dreyer)の三人を論じ、その映像に共通するものを「超越的スタイル」(Transcendental Style)としてまとめた。超越的スタイルにおいて、「超越者」(the Transcendent)は、目に見える姿で直接向き合えるものとしてではなく、表現を通じて示される。映画のなかの超越者が具体的に何であるかを説明することはできない。それでも、その映像形式が「想定」する超越者の現前を認めることはできる。5シュレイダーの観点では、『誘惑』も『くるみ零』も、超越的スタイルとは呼びがたい。どちらも、きわめて具体的な、時には華麗ですらある方法によって、人物が聖なるものと直接向き合えるようにしているからだ。とりわけ後者の結末では、愛の奇跡がそのまま天使の降臨をもたらす。ただし、その点を除けば、どちらも、シュレイダーが超越的スタイルの成立に必要と考えた三つの段階——日常(the everyday)、乖離(disparity)、静止状態(stasis)——を、かなり十全に実現しているように思える。6その段階を形にしているのが、高橋による映像の彫琢なのである。

『誘惑』のアニメは、日常、肉体、超越者という三つの層を通して、魂と肉体の関係を暗示する。脚本では一度も明示されないが、映像の形式には否応なく示されている関係だ。停滞する日常は、静止画の連続によってそのまま表される。魂は現実世界の欠乏に沈み、救われることがない。それなのに、二人の主人公以外の登場人物はみな「自由」を持ち、日常の快楽に溺れている。女性主人公の恋人は、彼女に不実であることを自由に選び、ほかの女性に気ままに愛を約束する。大半の人にとって、相手を替え、性に開放的であることは、ごく当たり前の態度として描かれる。唯一無二の関係をひたすら探す二人だけが、囚われているという思いを深くする。

そうした日常の表現と対照的に、肉体の結びつきはこのうえなく生き生きと描かれる。本能的な衝動と肉欲は、アニメの世界の人物たちを日常の退屈から救い出す。女性主人公の友人を含む多くの男女は、男性主人公の美貌に心を奪われ、彼と肉体的に一つになることで満たされる。肉体の外に現れる豊かさは、1コマ打ちのフル・アニメーションによって表される。その豊かさは魂に直接届くこともできるが、つねに俗世へと堕ちてしまう。

そして超越者は、静止画の日常にも、フル・アニメーションの肉体にもいない。全編を通じて姿を見せないのに、その存在は絶えず確証される。身体を重ねるなかで、ときおり少女漫画を思わせる、感情を表す背景が現れ、二本の線分が繰り返し跳ね、交わることで、肉体の交流における魂の揺れを表す。女装と化粧をした男性主人公を、女性主人公は一目で見抜く。外見を見通すそのまなざしと、精神的で、唯一無二で、超越的な〈私とあなた〉の出会いを求める二人の願いは、最後に聖なる他者によって保証される。聖なる他者は、一度も姿を見せず、どこにでもいる。

『くるみ零』の最初のショットは、重苦しい雨の降る窓の外から室内へと引き、それ以降、作品全体の舞台を、装飾も解釈の余地も乏しい、固定された閉鎖的な室内に限定する。主人公のくるみは一人の男性を愛するが、観客は最初から最後まで、その男性の顔も見ず、声も聞かない。くるみとの出会いも恋も、すべて屋外で進み、観客には見えない。こうして『くるみ零』の空間は、儀式的な空間となる。そこでは、外的なもの——リアリズムや合理主義——と、内的なもの——心理主義や表現主義——による、現実の慣習的な理解が退けられる。それらはブレッソンが「覆い」(screens)と呼ぶ、感情や理性による構築物であり、存在者の超越性を「覆い隠し」(screen)、そこから遠ざけるものだからだ。超越的スタイルでは、こうした感情や理性による意味づけは「非表出的」(nonexpressive)なものとなる。人間の具体的な経験を表す要素が削ぎ落とされ、映像は静止状態へと至る。7個別の事情や心理的な意味づけを離れた儀式的な空間において、初めて、永遠としての超越的なものへ直接近づくことができるのである。

『誘惑』で二人の主人公が俗世を超え、唯一無二の関係を見いだすのに対し、『くるみ零』で聖なる他者と結びつくのは、ある「病」だ。最初の二話では世界のあり方が曖昧なまま、くるみと恋人の愛に、危機の予兆がかすかに差している。第三話で登場人物の真実が明かされると、この世界では広くその「病」が生じ、発病した人々は免疫を持たない者と呼ばれることがわかる。彼らは外からの何らかの作用によって発病するのではなく、身体がひとりでに死へと向かう。ここで脚本はついに、「現にそうあること」を、超越性へと向かう「そうあるべきこと」の領域に導き入れる。登場人物たちが語るところでは、人間はこの世界にもはや存在すべきではなく、かろうじて生き延びていても、生物としては本来死ぬはずだった者たちなのだ。したがって免疫を持たない者の死は異常ではない。むしろ生命力が自然のままに失われていくことなのである。『くるみ零』は、媒介となる病を飛び越え、生と死を、人間の存在全体を問う倫理へと直接結びつける。この瞬間、物語はようやく真の姿を現す。免疫を持たない恋人とくるみは愛を求める。だが、人間はもはや存在すべきではないというなら、その願いは、自然な帰結としての死と衝突する。こうして世俗の問題は、徹底して超越性をめぐる矛盾へと追い込まれ、物語全体が最後の奇跡の瞬間へと導かれていく。

テレビアニメ『To Heart』での「引き算」は、視聴覚や物語の要素にとどまらない。高橋はその「はさみ」を、語りそのものにまで差し入れた。『To Heart』では、何ひとつ「起こらない」。それでいて、すべてはすでに起きている。今日のアニメでは、日常を中心に据えることは珍しくない。しかし、いわゆる「日常系」「空気系」の大半は、物語性を持たないわけではない。起承転結の構造を、状況全体を変える「大事件」から、日常の些細な出来事へと絞り込んでいるのだ。話数間の連続性がない日常系アニメでも、一話、少なくとも一つの小話のなかにはドラマの構造がある。ところが、空気系アニメというジャンルの意識がまだできあがっていなかった時期に、『To Heart』は、今日に至るまで誰も模倣を試みていない、きわめて特殊な語りの構成を示していた。

全体としては、『To Heart』にも、主人公がさまざまな脇役と出会う一話完結のエピソードがある。だが、その合間に語られる本筋は、まるで始まったことがないかのようだ。第一話の冒頭は雨の日である。まだ小学生の二人はすでに幼なじみで、ヒロインがうっかり本やノートを地面にぶちまける。主人公はため息をついて拾い上げ、自分のノートと彼女の濡れたノートを取り替えようと慰める。やがてヒロインが目を覚まし、観客はこれが過去を夢に見ていた場面だと知る。古典的な様式では、回想にはつねに役割がある。一度の回想は必ず一つの行動を引き起こす。それは人物の心理的なわだかまりを外に表す行動か、人物の真実が明かされることによる構造的な転換のどちらかだ。ところが『To Heart』では、その行動が抑えられるだけでなく、最後までほとんど、日常の習慣を離れるドラマ上の行動として示されることがない。この「何も起こらない」ことが、『To Heart』の脚本の構成を深く規定している。ハーレムアニメで、本命ではない女性キャラクターに対して主人公が示す、あのお決まりの「鈍感さ」さえ、ここでは昇華されているのだ。

「何も起こらない」ことが、いかに張り詰めた構成を生むのか。『To Heart』では、それをはっきり観察できる。第八話では、ヒロインと主人公、そして二人の友人が、ヒロインの家で試験前の勉強会を開くことになる。冒頭では、彼女が用意をし、クッキーを焼き、時計を見ながら心待ちにするさまが細やかに描かれる。ところがオープニング曲のあと、やって来るのは主人公一人だけだ。友人たちはそれぞれ、急用や病気で来られないと電話してくる。先は読める。彼女の家に二人きりなのだから、この回はきっと二人の仲が進展するはずだ。恋愛ものを見慣れた観客でなくても、十分にそう期待できる。しかし、筋はどうもそのようには進まない。友人は二人きりになると知って驚くのに、ヒロインは電話を切ると、いつもの雑談のようにそのことを主人公へ伝え、彼も気にとめない。来客が三人から一人になったので、居間では広すぎると主人公が言い、二人はそのまま彼女の部屋に入って勉強する。友人は二人のことが気になって仕方がなく、口実をつくってもう一度電話してくる。どう見ても、二人の仲を進める助言をしたいのだ。ところが主人公は、病気なのだからよく休むべきだと、途中で電話を切ってしまう。

家族の帰りは遅い。二人きりで、場所は私室。お膳立てはすべて揃っている。それなのに二人は、その状況が関係を進めるきっかけになりうることに、まったく気づいていないかのようだ。「何も起こらない」日常の時間を、平穏に進めていく。休憩に入って、ようやく環境に促された最初の行動が起きる。主人公がベッドのそばにある幼い頃の二人の写真をふと見つけ、ヒロインに話しかける。二人はアルバムを開き、過去を思い出し始める。

『To Heart』第八話の連続ショット。時計、室内の俯瞰、切り返し、戸外へ(図14–24)

わざとやきもきさせるこの手法は、編集にも現れる。夕食後、最後の勉強の時間に、時計は午後七時十分を示す。二人は机を挟んで向き合って座り、勉強している。場面全体を示すショットから切り返しに入るが、二人とも机を見ている。切り返しが二度繰り返され、何かが起きそうに思える。だが、場面全体を示すショットへ戻る。再び切り返しに入ると、二人は顔を上げ、互いを見る。そのまま動きが止まる。しばらく待っても、やはり何も起こらない。次のショットではいきなり場面が変わり、机を離れて外へ出るまでの時間が省かれる。切り返すとヒロインが戸締まりを終え、二人で病気の友人を見舞いに行くところだ。押井や、後で論じる川面の長回しの戦略とは異なり、高橋はとりわけ分析的編集を好む。しかし、その細かく刻まれた編集のなかで、人物は止まったままか、動いて観客に期待させるだけで、結局何も起こらない。あるいは編集によって行動が省かれ、いつ起きたのか観客にはわからない。

『To Heart』の主人公は、たしかにハーレムアニメのお決まりの鈍感な主人公と、いくらか似ている。しかし、その実質は大きく違う。ハーレムアニメにおける鈍感さは、人物どうしの劇的な衝突を遅らせる内的な原因だ。状況の変化に鈍感であるため、主人公はそれに反応しなくてもよい。『To Heart』の鈍感さも、最後の劇的な行動を引き延ばしているように見えるが、そもそも劇的な行動を本当に必要としているわけではない。二人の愛情関係は、確かめられるよりはるか前、遠い過去にすでに生まれている。すべてが運命で決まっていたかのようだ。行動する者が行動せず、状況を超えたところにいるのは、二人の関係を根本から変えるものが、とっくに記憶のなかで育っていたからである。その変化は、ずっと以前から日常に潜んでいた無数の細部から生まれる。そして細部がアニメの結末で実を結ぶとき、それは何かを告げる決定的な瞬間ではなく、日常生活の再確認となる。こうして『To Heart』は、日常の状況のなかに、時間を超え、永遠へと通じるかのような愛を見せてくれる。

三、時間イメージ

(一)川面の演出と漫画の「間」

「人は時間を求めて映画を見るのだと私は思う。すでに過ぎ去り、使い果たした時間、あるいはまだ持ったことのない時間を求めて。人が映画を見るのは、人生の経験を得るためである。映画ほど、一人の人間の経験を広げ、強め、凝縮する芸術はない。強めるだけでなく、伸ばすのだ。きわめて意味深く、伸ばす。映画の力はそこにあるのであって、スターにも、筋立てにも、娯楽にも、まったく関係がない。」 「監督の仕事の本質とは何か。それは時間を彫刻することだと定義できるだろう。」

——アンドレイ・タルコフスキー8

80年代のアニメ制作者たちは、写実的な演出技法と、空間をめぐる存在論的な転回をアニメにもたらした。それが、映画の芸術的伝統に属する映像スタイルを、アニメで用いるための前提となった。押井とは似ていながらも異なる経緯で、川面真也もまた、「遅さ」で知られる演出家となった。9

川面は真下耕一に師事し、真下が監督したテレビアニメ『NOIR』(2001)で、初めて各話の絵コンテと演出を担当した。その後十年にわたり、Bee Train制作の多くのアニメで各話演出を務め、『吟遊黙示録マイネリーベ』(2004)の第一期で監督補佐に、第二期(2006)でついに監督となった。ただ、真下のもとで何を学んだのかは、なかなか言い切れない。真下の監督としてのスタイルは、竜の子で働いていた頃には目立たず、Bee Train設立後になって、固定の長回しと低密度の情報配置を特徴とするようになった。川面も雰囲気づくりを得意とするが、技法の面で真下から受け継いだものは少ない。むしろ初期作品を調べると、その雰囲気づくりは、Bee Trainに、作画や背景などの制作工程を支える腕利きがいなかったための、やむをえない選択に見える。担当した『.hack//黄昏の腕輪伝説』(2003)の第二話と第六話では、川面は画面内の前景・中景・後景を豊かに使う演出を、さまざまに試みている。しかし、ほかの「.hack」シリーズのアニメでは、作画や背景などの制作水準が総じて低く、川面が腕を振るえる余地など、到底なかった。そこでカット数と動画枚数を節約する工夫に力を注ぐほかなくなり、その結果、固定の長回しと「間」による時間の演出に、非常に長けるようになったのだ。

結果として、川面は作家性がかなり表に出にくい演出家となった。新房昭之のように、一般の観客にも容易に見分けられる強い個性を持たないだけではない。ほかの優れた演出家と比べても、川面の作家としてのしるしは捉えにくい。その理由は、時間の演出が映画言語の文法構造の内側で、すべて実現されていることにある。その特徴は「見える」のではなく、知らず知らずのうちに「感じられる」のだ。川面自身、ツイッターで自嘲している。演出を始めたばかりの人には、自分が好きだと感じる演出家に学ぶのがいちばんの近道だと教えているのだから、自分が人に教える日は来そうもない、と。10

だが、時間は映像の存在そのものの核心である。Bee Trainを離れてから、川面の監督作品は、ようやく高い水準のレイアウトと背景を得られるようになった。とりわけ『のんのんびより』では、草薙の精巧な背景美術の功績が大きい。必要なものがすべて揃った二期分の『のんのんびより』では、もはや作家性は隠れたままではない。川面は多種多様な時間の扱い方によって、映像芸術として高い価値を持つアニメをつくり上げた。11ただ、まずは漫画から受け継いだ、時間の特徴を見ておこう。

『のんのんびより』第一話の漫画。同じ大きさの四つのコマに続く、教室を見渡す大きなコマ
図25。『のんのんびより』第一話のコマ割り。

画像内の中国語の内容:れんげが姉に、問題集を終えたと告げる。一穂はしばらく反応せず、あくびをしてから、ようやく問題について話し始める。人物紹介は「宮内一穂、教師、24歳、れんげの姉」。

中国語の吹き出しと紹介枠の意味:れんげが姉に、問題集が終わったと告げる。紹介枠は「宮内一穂、教師、24歳、れんげの姉」。一穂はしばらく黙り、あくびをする。最後に、ええと、どうして図形の問題なのだろう、と言いかける。

漫画第一話の三ページ目(図25)を見ると、最初の四コマはまったく同じ大きさで、二コマ目から四コマ目までは内容もほぼ同じだ。一方、五コマ目はページの半分を占める。最初の四コマの静止によって物語の緊張を溜め込み、五コマ目の大きさ、強い奥行き、複雑な画面によって一気に解放し、読者を笑わせる。原作では、この笑わせ方が繰り返し登場し、ときには一話の笑いどころのほとんどを占める。たとえば第三十三話では七回も使われている。『のんのんびより』独自の特徴の一つといってよい。

筆者は、このように特定の仕方で「間」を使うギャグを、「沈黙のギャグ」と呼ぶ。連載が進むにつれ、沈黙のギャグにも多くの変形が生まれた。コマが順に大きくなったり小さくなったりするモンタージュの構文や、別のコマと交互に示される「二重の進行」などだ。それでも、もっとも早くから、もっとも頻繁に使われるのは、同じ大きさで内容もほとんど変わらないコマの連続である。

明らかに、この技法は作者のあっとが四コマ漫画を描いていた頃から受け継いだものだ。しかし、四コマ形式ではない日本の漫画に持ち込むと、そこには新しい意味が生まれる。四コマ漫画では、同じ大きさのコマは決まった形式なので、必ずしも特別な意味を持たない。四コマ形式ではない漫画なら、コマの大きさや位置、コマ内の構図を変えて読むリズムを制御するのは、ごく普通のやり方だ。ただし、見る時間をあらかじめ決める映像と違って、漫画では読者が能動的に読むため、そのリズムにはつねに幅がある。

では、そうした漫画に、同じ大きさで内容の連続するコマを並べると、どのような効果が生じるのか。読む速さにかかわらず、読者は各コマのあいだに流れる時間を、異なる長さとは捉えにくい。ここではリズムの感覚が後退し、同じ大きさのコマが同じ時間を定めていることを、読者は目で見る。そして変化の少ない画面の内容が、連続性をつくり出す。これは、描き上がった動画用紙を一枚ずつめくって見ることによく似ている。言い換えれば、原作漫画は、沈黙のギャグによって、映像に似た時間性を実際に伝えているのだ。

川面は漫画のこの特徴を吸収した。原作の沈黙のギャグを再現するだけでなく、番外編の四コマ漫画も数多く、似たかたちにしてアニメへ取り込んでいる。たとえば、次の一篇だ。

『のんのんびより』番外四コマ。れんげが姉に呼びかける場面
図26。『のんのんびより』番外四コマ。

画像内の中国語の内容:題は「言ってみた」。姉が、寒くなるので秋の服を買ったとれんげに告げる。れんげは、それが高級な服かと尋ね、反応のない姉に繰り返し質問する。姉がそうだと答えると、今度は高級な服とは何かを尋ねる。姉は、知らずに聞いたのかと驚く。

中国語の題は「言ってみた」。姉はれんげに、寒くなるので秋服を買ったと告げる。れんげは姉を呼び、それは高級な服なのかと尋ねる。返答がないためもう一度尋ねると、姉は、え、うん、そうだと答える。れんげが高級な服とは何かと聞き返し、姉は、知らずにそう聞いたのかと驚く。

アニメでも川面は、これを「間」の演出として再現している(第二期第一話13:58–14:40)。一見、沈黙のギャグそのもののようだが、実は微妙な違いがある。そして、その違いこそが、アニメと原作を決定的に分けている。

(二)物語からはみ出す時間

この違いを考えるために、映像における物語と時間の関係へ戻ろう。多くの映画人にとって、映像のリアリズムの鍵は時間にある。しかし古典的な物語が重視するのは、因果の連鎖を一貫して示すことだ。ドラマの状況と行動は、あらかじめ設けられた前提に従って段階的に進み、最後には決定論的な結末へと至る。こうした映画を見る観客は、「語られている物語が、描かれた物質的な生活から育ったのではなく、それに合うかもしれない構造へ、外から付け加えられたものだと感じずにはいられない」。このことから、クラカウアーは映画と古典的な形式は相容れないと考えた。12

では、古典的な物語以外に、映像のつくり手にはどんな選択肢があるのか。アニメでは、非常に面白い新しい形式の作品が見られる。一方には、物語を伝える機能を極限まで強め、演出が力を発揮する余地を圧縮し、物語の構造を余さず示すことへと語りを純化する作品がある。『UN-GO』や『コンクリート・レボルティオ~超人幻想~』だ。他方には、物語の内容を薄め、物語と状況をほとんど切り離してしまう作品がある。映像は語りとの緊密な関係を失い、純粋に視聴覚的な「自然」の現れとなる。いわゆる「美少女動物園」の一作、『のんのんびより』がそれだ。

川面はアニメで沈黙のギャグに似た方法を使うが、決定的に違うのは、アニメの沈黙には、沈黙のギャグが持つ構造的な緊張がないことだ。沈黙のギャグは、映像に似た時間性を持つとはいえ、結局はドラマを刻む一拍である。だから笑える。それに比べて前節の例は、物語の構造からはみ出す余剰のように見える。より自然な、劇化されていない語りの時間に近づき、通常の語りを超えようとするのだ。

観客の鈍感さを心配しているかのように、第一話では自然な静けさをつくる手法が繰り返される。筋と筋のあいだから「溢れ出す」、音も動きもない静止としてだ。それだけではない。すべての観客に自分の作家性を認めさせるまで気が済まないとでもいうように、川面はさらに踏み込んだ処理を何度も施す。たとえば本編の始まったばかりのところ(第一期第一話4:58–5:51)では、人物の注意がそれることで話を途切れさせ、動作も台詞もない状況を強引につくり出す。まるで川面は、ネオレアリズモやヌーヴェルヴァーグに見られる静止、〈死んだ時間〉(temps mort)を、観客に思い出させようとしているかのようだ。先に挙げた自然な静けさは、語られる時間を現実の時間の流れに近づける。それに対し、ここでの中断は、行動を状況から直接引き剝がし、状況を相対的に独立した断片へと変える。同時に、被写体からずれたり離れたりしたフレーミング、長回し、限定的な語りなども使われる。すべての処理が客観性と脱ドラマ化に向かっている。いや、ほかの処理が客観的であるからこそ、〈死んだ時間〉が可能になるというべきかもしれない。

れんげの感情を暗示する手のクローズアップ
図27。れんげの手のクローズアップ。

れんげの内面に負の感情が生じたときに現れる手のクローズアップも、同様の例である。これは、川面が演出で感情の表出を抑えるしるしだ。こうしたくだりでは、画面だけで物語ることが多いが、それでも人物の奥底にあるひそかな感情に、控えめに触れている。第一期第四話のほのかをめぐる場面や、第二期第一話のれんげの不安がその例だ。これは、クラカウアーが理想とした表現にぴたりと重なる。「映画が内面生活やイデオロギーや精神の問題に直接触れることが少ないほど、その映画は映画的になる」。13こうした抑制は、あとで解放するために感情を溜めることもあれば、余白となって観客の想像の余地を残すこともある。

川面は〈死んだ時間〉や人物のいないショットの連続によって、クリスチャン・メッツ(Christian Metz)が述べた物語時間の三つの可能性のうち、最初の二つを実現しているといえる。14すなわち「指示される空間から、指示する空間へ」と、「指示される空間から、指示する時間へ」。描かれた空間を、ただ空間として示す非物語的な純粋映像と、空間を描写することで物語上の時間を示す映像である。メッツによれば、前者の、写真のように静止した映像には、時間を示す要素が欠けている。映像である以上、見るための時間は必要だとしても、「そこには、読み取れるような、指示された連続的な事物が何もない」。15しかし、この見解は実のところ、そうした映像の真の価値をすでに示している。出来事の進行が描かれていないからこそ、観客は純粋に映像が続く時間を見つめることになる。メッツのいう「連続的な事物」がないからこそ、時間の持続が現れ、映像はついに運動を超え、時間イメージ(image-temps)となる可能性を得るのだ。

(三)時間イメージをつくる三つの技法

第二次世界大戦を経て、映画人たちの思想はきわめて深く変わった。それは現実の見方にも及び、のちに「ネオレアリズモ」と呼ばれる映画運動を生んだ。その監督たちは、従来の語りの方法と、古典的な芸術のもっともらしさから離れ、まとまりのない、些細な現在の現実を表そうとした。「現実はもはや再現も再生産もされず、『照準を合わせられる』(visé)……つねに曖昧で、解読を待っている現実へと照準が合わされる」。16古典的な語りには、状況から行動を経て次の状況へと至る「大形式」がある。また、局部に焦点を絞り、行動から状況を経て次の行動へと至る「小形式」もある。ネオレアリズモの映画では、状況はもはや、このどちらの連鎖にも収まらない。独立した断片となるのだ。知覚から運動へとつながる、従来の観客の受け取り方はここで働かなくなり、「連続的な事物」の不在が映像の時間を解放する。状況もまた物語上の役割から離れ、その現実性は、語りに従属する機能的なものから、時間イメージの自律した現実性へと変わる。ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)が「純粋に光学的・音声的な状況」(situation optique pure)と呼ぶものである。

以下では、川面の長回しの美学から三つの特徴を取り出し、具体的な場面を一つずつ分析していく。

1. 時間の具体化

注意深い観客なら、動くものを後景に通過させる処理が、『のんのんびより』に繰り返し現れることに、容易に気づくだろう。漫画とアニメの両方にある一場面を比較してみよう。

『のんのんびより』の漫画。夏海とれんげが時速50キロについて話す五つのコマ。三つ目には台詞がない
図28。時速50キロをめぐる会話と、その途中の無言のコマ。

画像内の中国語の内容:れんげが、時速50キロとは一時間に50キロ進むことだと姉から聞いた話をする。夏海はなるほどと応じる。無言のコマを挟み、れんげは、信号があれば一時間で50キロは進めないのではないかと尋ねる。夏海はまた、わかったように同意する。

中国語の会話の意味:れんげは、姉が、時速50キロとは一時間に50キロ進むことだと言っていた、と話す。夏海は、なるほど、そうなのかと応じる。無言のコマを挟み、れんげは、姉の説明を聞いて思ったのだが、信号があれば一時間に50キロ進むはずはない、と言う。夏海は、そういう説明もできる、と答える。

れんげの話を聞いた夏海は、わからないのに、わかったふりをする。漫画では、その応答のあと、れんげが次の問いを口にするまでに、背景を空白にして動作を止めた一コマが入る。読者がこの一拍の間を読む時間は、一秒を超えないだろう。ではアニメではどうか。ショットが始まってかられんげが話すまで、まるまる七秒の静止がある(第一期第一話15:20–15:52)。

なぜこれほど長く静止できるのか。明らかに、見ることを促しているのは、後ろの小さなバイクだ。もちろん、「……」のような漫画の記号で、この静止を表すこともできる。しかし映像の写実性のためには、記号の恣意性を制限しなければならない。この技法は映画史の初期にまで遡る。当時のハリウッドは、すでに成熟した技法の体系を発展させていた。背景の変化によって一つの場面を区切ること、背景の特定の活動によって主要人物に潜在的な動機を与えること、背景で動くものが画面に出入りすることで、まとまった時間を区切り、はっきりさせることなどである。つまり、空間内の運動によって時間を具体化するのだ。

『のんのんびより』が描こうとするのは、物語を超え、人と自然が調和した「のんびり」した光景である。そのため主役たちが静止しているとき、川面は画面と音によって時間を具体化し、観客の注意を保つ。この技法を広く応用することで、川面は作品の視聴覚的な語彙の重要な一要素をつくった。バスを待つ場面(第一期第一話21:26–21:51)を例にしよう。長回しが始まると、画面外の車の音、車の姿と音、画面外へ去った車の音、れんげのリコーダーの音が、順に示される。筋のうえでは、車の音が蛍と観客に、次のバスが来たのかもしれないと思わせる。そうでないとわかったあと、れんげがリコーダーを吹き、蛍が話し始めるまでの時間には、当てが外れ、次の展開を待つ空白が生まれる。観客は蛍と一緒に、次のバスはいつ来るのかと問う。ただし筋とは別のところで、れんげのリコーダーがあるため、注意の対象が本当になくなるわけではない。

『のんのんびより』の漫画。ほのかが帰ったと知ったれんげの顔を捉えた四つのコマと、続く俯瞰の大きなコマ
図29。ほのかが帰ったと知らされたれんげ。

二コマ目の小さな吹き出しは、れんげが短く声を漏らす箇所。ほかの文字は日本語の題字と効果音。

次は、放送時に広く議論を呼び、大きな話題となった五十三秒の長回しだ。れんげは、休み中に知り合った友人のほのかと、小さな滝を見に行く約束をする。しかし翌朝訪ねると、ほのかの父に急な仕事が入り、ほのかは父と一緒にすでに町へ帰ったと知らされ、深く悲しむ。漫画では、作者は沈黙のギャグの形式を用い、感情が本当に解放されるのは五コマ目である。アニメは巧みに、観客の感情をそれより早く動かし始める(第一期第四話17:40–20:25)。ほのかの祖母がれんげを迎える言葉をかけると音楽が始まり、蝉の声は少しずつ小さくなる。祖母が戸を閉めるのと同時に蝉の声は完全に消え、物語世界外の音楽だけが残り、長回しが始まる。ここでは人物の感情の主観的な表現と、観客の注意の制御が重なっている。音楽は長回しの前から始まり、三十秒余りをかけて、慎重に観客の意識へ入り込み、感情を染み込ませる。れんげの表情が変わらないあいだ、観客を導くのは、ゆっくり前進して彼女の内面へ分け入る長回しと、徐々に音量を増す音楽の二つだけだ。観客の感情が十分に溜まったところで音楽が消え、注意はれんげの表情へと戻る。それまでとは対照的な豊かな表情の変化が、観客の感情にも、ちょうどよい出口を与える。表情の動かないあいだに二度まばたきをするのは、画面が固まったと思って、観客が作品から引き戻されるのを防ぐためだ。

れんげ自身にとっては、友人が何も告げずに帰ってしまったことが大きな衝撃となり、周囲の環境が意識の外へと退く。だから蝉の声が消える。やがて我に返り、祖母の言葉を理解すると、周囲への注意が戻り、蝉の声も再び聞こえ始める。音楽から表情へと観客の注意を導く処理は、実のところ、れんげの内なる感情が外の表情へ、内から外へと溢れ出る過程でもある。

この回を見終えても、ショットがそれほど長かったとは気づかなかった観客が多い。それだけ完成度が高いということだ。この長回しは、観客に気づかせずに導く川面の演出が成熟し、長回しにおけるアニメの生来の不利を、どう補うかを十分につかんだ証しといえる。川面が通常の形式を破る勇気を持てるのは、こうした伝統的な方法を自在に使いこなしているからにほかならない。だから第二期の最後には、テレビアニメではめったに見られない、四分近い長回しが現れる(第二期第十二話13:24–17:16)。さまざまなものの動きが次々と続き、広く奥まで見通せる画面によって観客の注意を保つ。人物が画面に出入りすることで、観客は画面の外に広がる空間を想像する。画面外から聞こえる音も、手前で鳴るか、奥で鳴るかがはっきりしており、フレームの外の空間を具体的に感じさせる。もっとも重要なのは、終始しっかりと固定されたこのショットが、ダイレクト・シネマのような現実感をもたらすことだ。出来事に介入せずに観察する、いわゆる「壁の蠅」というよりも、壁に開いた覗き穴に近い。どんな技法を使うよりも、連続した現実味のある「のんびり」した日常を、そのまま見せるほうが効果的なのだと、川面が語っているように思える。アニメのなかで単純な方法を使いながら、川面は最後に、日常生活の本当の性質へと帰ってきたのである。

2. 静物

『のんのんびより』のさまざまな長回しに共通するのは、画面内のものが完全に、あるいはほとんど止まっていることだ。すでに述べたように、本作はこの動作の不在によって物語から離れ、純粋に視聴覚的な感受性を得ている。しかし、時間イメージは運動イメージの危機から生まれる。純粋に光学的・音声的な状況をつくるだけなら、鍵となるのは、「大形式」と「小形式」における状況と行動の連鎖を解くことであって、人物が静止する必要はない。先ほどの四分近い長回しが、よい例である。この静止から筆者が思い出すのは、小津安二郎の「静物イメージ」だ。「屋内であれ屋外であれ、空っぽの空間が純粋に光学的な、そして音声的な状況を構成するとすれば、静物イメージは、その裏面として対応するものとなる」。17ここでは『晩春』(1949)の、花瓶を映した有名なショットを例に取ろう。

『晩春』で人物と花瓶を交互に映す四つのショット(図30)

娘と話していた父は、先に眠ってしまう。娘は微笑みながら父を見ているが、六秒間の花瓶のショットを挟んだあとには、涙をこぼしそうになっている。ドゥルーズはこれを、次のように分析した。「『晩春』の花瓶は、娘の微笑みと溢れる涙のあいだにある。そこには生成、変化、推移がある。しかし、変化するものの形式そのものは、変わりも移りもしない。これが時間、時間そのもの(temps en personne)、『純粋な状態にある、わずかな時間』である。直接的な時間イメージは、変わるものに変わらぬ形式を与え、その不変の形式から、変化が絶えず生じる」「静物は時間である(the still life is time)。変化はすべて時間のなかで起こるが、時間そのものは変わらないからだ。変わるとすれば、別の時間のなかでであり、そうして無限に続く」「小津の堅固な静物イメージには持続(duration)がある。たとえば花瓶の十秒の長回し。その持続が表すのは、変わりゆく状態が連なるなかでも、変わらず持続するものにほかならない。自転車も、とどまり、動かず、壁に立てかけられている限り、同じように持続する(durer)。つまり、動くものの変わらぬ形式を表すことができる」。18

『のんのんびより りぴーと』第四話。晴れた日の縁側と雨の日を対照させる、生と死の二つのショット(図31–32)

『晩春』の父と娘の情愛に対応するのが、れんげが飼っているカブトエビに寄せる愛情だ。この回の二つの重要な長回し(第二期第四話13:37–14:30、16:34–17:10、図31・32)には、純粋に光学的・音声的な状況と、静物イメージの特徴が明瞭に現れている。どちらも、長回しの前に人物のいないショットをいくつか続け、それまでのドラマの動作から切り離して場面へ入る。人物は観客よりも先にその場へ入り、位置についている。一方、長回しを終えるのは、画面外の人物がれんげを呼ぶ声だ。それによって彼女は、静物となった状態から運動へと戻る。人物自身が静物になるため、媒介としての静物イメージはもはや必要なく、全体を結ぶ関係がショットの内部で生じる。主体が画面の中央にいるか、両端にいるか。人物がカメラのほうを向いているか、背を向けているか。晴れているか、曇って雨が降っているか。二つの長回しは、はっきりした対照関係にある。とくに注目したいのは音だ。前者は、れんげの吹くリコーダーという物語世界内の音であり、後者は物語世界外のピアノの音である。「時間の具体化」の節で述べたとおり、観客の注意を保つために時間を視聴覚的に具体化することは、本作の映像の語彙の鍵となる要素だ。だが二つ目の長回しでは、画面内の生きた活動として時間を具体化する、そうした要素が消えている。これは何を意味するのか。前者の物語世界内のリコーダーが生命力を表すとすれば、後者の物語世界外のピアノが奏でるのは、生命力の消失だ。途切れがちな音と、その余韻が、いっそう空白を感じさせる。言い換えれば、この二つのショットが表すのは、「生」と「死」という一対のモチーフなのである。

この回の結末で、れんげはカブトエビの死と新たな誕生に心を動かされる。知らず知らずのうちに、生命と時間の弁証法的な関係に触れているのだ。アンリ・ベルクソン(Henri Bergson)の考え方によれば、死は生命の運動の静止や終結ではない。生命は時間のなかで絶えず持続し、その根源的な衝動(original impetus)によって創造し、進化する。アニメの長回しでは、この弁証法的な関係が、「変化に満ちた、持続する形式」によって、体験として描かれる。「変わること」と「変わらないこと」の持続を一つにした、静物イメージによってである。

3. 中断と離脱

川面が小津安二郎の影響を受けたのかどうか、筆者は確かな資料を見つけていない。ただ、『のんのんびより』の分析と解釈には、小津映画の研究成果がとてもよくなじむ。すでに本作で、人物の自発的な行動が通常の語りを崩し、複数の人物が同時に動作する例を挙げた(第一期第一話4:58–5:51)。人物の対話やドラマの頂点を中断し、何らかの動作を同時にさせることもまた、小津がよく使う手法である。

蓮實重彦は『麦秋』(1951)の中断の一例について、こう解釈している。「人を感動させるのは、空へ消えようとする風船の象徴性ではなく、二人が期せずして顔を上げて目を向ける、その動作の同時性である」。こうした同時の動作は、「二人を結びつけると同時に、画面に含まれる心理的な象徴性をすばやく断ち切る」。外へと開かれたこの視覚性においては、「相手の動きをまねるように、ただ同じ動作を繰り返すだけでよい」。19中断の際、小津はしばしば人物に空を見上げさせ、じっと眺め、よい天気を楽しませる。「天気、自然、人間や人間が気にかける些細なことの外にある世界……心ゆくまでそれを楽しむとき、あるいはただ見つめるだけでも、思いは穏やかになり、精神は再び元気を取り戻す」。こうして人物と自然の調和が生まれるのである。20

『のんのんびより』の中断と静止にも、同じ性質がある。ドゥルーズの二種類のイメージを論じたあとなら、夏海とれんげがバスに乗り遅れかける「のんびり」した時間感覚を時間イメージに、時刻表で決まったバスの到着時刻を運動イメージに対応させ、対置するのは自然な連想だ。より正確にいえば、後者はベルクソンの視点から見た、近代科学の任意の瞬間という概念がもたらす、均質で空間化された時間観である。一例だけではこじつけに見えるかもしれない。だが、村に来たばかりの蛍の気持ちの変化を追えば、脚本がこのことを明らかにしているのがわかる(第一期第一話18:06–21:10)。第一期第一話の蛍は、新しい環境のさまざまなものに、不安と好奇心を抱いている。ほかの三人は、まだ馴染めずにいる彼女に気づき、桜の木の下で桜餅を食べようと連れ出す。山を登る儀式が象徴する「苦難」を経て——この意味を指し示すのが、蛍がつまずくことだ——、彼女は山の上の景色と雰囲気に心を動かされ、仲間と一緒に菓子を食べる。こうして、馴染めない状態から環境と一体になるまでの過程を終える。そのあと、自然とともに「のんびり」する四人は、今度こそバスに乗り遅れる。それは、その瞬間、彼女たちが自然の時間に同調したことを意味している。

『秋刀魚の味』(左)と『のんのんびより』(右)の終幕のショット構成
図33。『秋刀魚の味』(左)と『のんのんびより』(右)の終幕。

もう一つ、筆者がすぐに小津を連想したのは、第一期の結末だ。カメラが唐突に人物を離れ、一人で「山を登る」。まるで待ちきれず、主人公たちより先に花見に行きたくなったかのようである。このくだりは、形式のうえで『秋刀魚の味』(1962)の結末と非常によく似ている。どちらもカメラが人物から離れて山、あるいは階段を登り、意味を担う重要なものへ近づいてクローズアップし、最後に主人公のもとへ戻って、作品に終止符を打つ。

『秋刀魚の味』では、主人公の娘が嫁いでいく。この人物のいない一連のショットが撮るのは、まさに娘の「不在」であり、カメラが近づくのも、かつて娘が使っていた鏡と椅子だ。明らかに、誰かの視点をそのまま示しているわけではない。しかし人物の心情からすれば、主人公の精神的な視点と捉えることもできる。写っているのは、彼の感傷がよりかかるものだからだ。『のんのんびより』の第一話では、ほかの三人が蛍を環境に馴染ませようと山へ連れていく。そして第一期の結末では、蛍が田舎のよさを肯定し、物語の本筋が終わる。カメラだけが山を登るのは、主人公たちにはもう、山登りという儀式が必要ないことを意味する。彼女たちはすでに、調和を得ているのだ。

四、結語

本稿では、押井守、高橋ナオヒト、川面真也という三人の映像作家による、スローアニメという主題への試みを分析してきた。その狙いは、アニメの存在論を深く検討することだけではない。具体的な画面に即して分析する方法を、改めて主張することにもある。映画理論研究では80年代に、ノエル・キャロル(Noël Carroll)やボードウェルらが主導する認知主義映画理論(Cognitive Film Theory)が台頭し、60年代以来の「大理論」(Grand Theory、すなわち構造言語学、記号論、マルクス主義、精神分析)に取って代わった。映画研究の主流は、ボードウェルのいう「中間レベル」(middle-level)の研究へと移った。「主体やイデオロギー、あるいは文化全体の意味から理論を組み立てるのではなく、特定の現象に基づいて理論を構築する。個別の具体的な問題を研究する」ことで、世界各地の映画史や映像スタイルへ、改めて目を向けるようになったのである。21

対照的に、今日のACG(アニメ・漫画・ゲーム)研究ではなお文化研究が主流であり、アニメの映像の形式とスタイルに対する、細やかで包括的な関心が欠けている。アニメと実写映画、さらにはゲームとの境界がますます曖昧になるいま、下から積み上げ、具体的な問いを起点とする中間レベルの研究は、もはや避けて通れない。今日の日本アニメの成功は、映画の方法を取り入れたことに負うところが大きい。ただし、日本のアニメはそれによって、独自の美的効果を生んでもいる。だからこそ、映像作品の特徴を深く徹底的に見分け、分析し、その形式に固有の美的価値を確立する必要がある。アメリカの伝統を背負ったアニメーターや批評家の偏見に対しても、実写映画人による「越境」的な指導に対しても、ACGオタクが自らのアイデンティティを確立する根拠は、その立場のサブカルチャー性や政治性だけにあるのではない。むしろ、好きなものをどこまでも突き詰めて深く理解すること、目の前の現象の複雑さに正面から向き合う研究の態度にこそある。ボードウェルが、巨匠たちによる伝統的な芸術の規範や単純な技法への微細な革新を論じたように、映画の技法をアニメに用いることは、単なる引き写しではない。細かな違いのなかに築かれる、新しい映像の構成なのである。日本のアニメにおける遅さの美学は、まさにそのような独自の果実だ。実写のアート映画に由来しながら、日本のアニメのなかで根を下ろし、芽を出し、枝を広げ、実を結んだのである。

紙幅の都合で、スローアニメの特徴には、なお一つずつ分析しきれなかったものが多い。本稿を読み終えた読者が、アニメ芸術の新しい可能性について、もう一歩考えを進めてくれることを願うばかりである。

本文終わり
注21

注釈

  1. Schrader, Paul. “Robert Bresson, Possibly.” Film Comment, Vol. 13, No. 5, 1977, pp. 26–30(引用箇所は27頁。掲載英語からの訳)。 ↑

  2. 神山健治『神山健治の映画は撮ったことがない~映画を撮る方法・試論』、2018-11-26(原注記載日)、blog.sina.com.cn より。 ↑

  3. Original Video Animationの略。ビデオテープやビデオディスクで最初に発売されるアニメーション作品を指す。たとえばテレビアニメやアニメ映画の続編、外伝など(ウィキペディア参照)。 ↑

  4. 『ベルセルク オフィシャルガイドブック』、89–90頁、2018-11-26(原注記載日)、zhuanlan.zhihu.com より。 ↑

  5. Schrader, Paul. Transcendental Style in Film: Ozu, Bresson, Dreyer. California: University of California Press, 2018, p. 38. ↑

  6. 同上、67–77頁。 ↑

  7. 同上、42頁。 ↑

  8. アンドレイ・タルコフスキー『雕刻时光』、陳麗貴・李泳泉訳、北京:人民文学出版社、2003年、64頁。 ↑

  9. 原注では、日本語の「演出家」を監督または各話の演出担当者の意味で説明している。本稿でも両方を含めて用いる。 ↑

  10. 川面真也、2018-11-26(原注記載日)、twitter.com ↑

  11. 日本のテレビアニメの制作には、監督自身が絵コンテ・演出を担当しない話数には、監督の手があまり及ばないことが多いという特徴がある。川面真也は二期分の『のんのんびより』で、シリーズ全体のスタイルをよく統一している。ただし、その映像スタイルの際立ったところを示すため、また本稿がある程度、作家研究をも目的としているため、議論は主に川面自身が絵コンテ・演出を担当した回に絞った。具体的には、第一期の第1・4・12・13話と、第二期の第1・4・12話である。 ↑

  12. ジークフリート・クラカウアー『电影的本性』、邵牧君訳、北京:中国電影出版社、1981年、4頁。 ↑

  13. 同上、5頁。 ↑

  14. あるいは「実現」ではなく「模倣」かもしれない。メッツ自身の見方では、映画に真の〈死んだ時間〉は存在しないからだ。 ↑

  15. クリスチャン・メッツ『电影的意义』、劉森堯訳、江蘇:江蘇教育出版社、2005年、18頁。 ↑

  16. ジル・ドゥルーズ『电影II:时间—影像』、黄建宏訳、遠流出版公司、2003年、371頁。 ↑

  17. ジル・ドゥルーズ『电影II:时间—影像』、黄建宏訳、遠流出版公司、2003年、390頁(英訳 Cinema II、Hugh Tomlinson/Robert Galeta訳、17頁も参照)。 ↑

  18. ドゥルーズ、前掲中国語訳、390頁。 ↑

  19. 蓮實重彦『导演小津安二郎』、周以量訳、北京:中信出版社、2012年、134頁。 ↑

  20. ドナルド・リチー『小津』、連城訳、上海:上海訳文出版社、2014年、67頁。 ↑

  21. 劉亭『实践理性:大卫·波德维尔电影理论研究』、北京:中国伝媒大学出版社、2016年、179頁。 ↑

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