屋頂現視研
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アニメーションの演出性――安濃高志と高橋ナオヒトの再発見

一条は、安濃高志と高橋ナオヒトの作品を起点に、時間、写真、凝視、表層、触覚などの問題をたどりながら、日本アニメが静止、反復、メディアの制約のなかで、いかに独自の演出性を生み出すのかを論じる。

著者: 一条翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

本文は、屋上現視研「拾荒戦略 Rags Drum 2022」前夜祭・後夜祭の受賞稿である。

「リアリズムから遠く離れよ!」これは、個人の手仕事によるアニメーションへのアンドレ・バザンの持続的な関心から生まれた、アニメーションへの警告である。アニメーションはアニメーターの手から自らを生み出し、既存の概念や手法から絶えず解放され、新しく多様な独自性によって他と差異化していく必要がある。それでは、この教えに対置して言うなら、つねに擬似リアリズムの磁場の周囲を回りつづけてきた、日本アニメという商業的な巨大技術装置はいったいどうなのか。バザンの言うとおりなら、ほとんどつねに具象的・叙述的・図解的であるアニメーションの擬似リアリズムが要請する技術装置は、アニメーション本来の広大な視域を縛り、思考の藩籬と化している。だとすれば、日本のテレビアニメやOVAを観ているとき、「これはアニメーションだ」という一瞬の安心感が打ち砕かれる。その狼狽と驚異に、私たちはどう向き合えばよいのか。過去ゆえに過去となったのではなく、「現在」の体験として存在する驚異を、いかに発見し、正面から見つめるのか。それこそが本稿の試みである。

一、安濃高志、そして時間への哀悼

I 『魔法のスター マジカルエミ 蝉時雨』

太った大柄な小金井が階段を駆け下り、部下の国分寺に企画書の件を急いで尋ねる。だが、明らかに小金井の記憶は間違っていた。ついさっき、自分が企画書を突き返して国分寺に書き直させたばかりなのだから。気づいた彼は振り返り、童謡のような記憶の呪文を唱え始める。夏の暑さには重たく感じられる服のポケットを太い手で探り、身につけている物や用事を列挙したリストを確かめようとする。しかし、何かがふと閃いたように、彼はまた戻ってきて、国分寺に向かって大声で叫ぶものの、何を求めているのか言葉にできない。「何でもない? 何でもない……」彼は振り返り、疑念に満ちたまま呟く。この、目立たないどころか平凡で退屈とさえ言える挿話が、些細な出来事の積み重ねでできた『魔法のスター マジカルエミ 蝉時雨』(1986年、以下『蝉時雨』)全体の中では、かえって目を引く。『蝉時雨』の際立った特徴として、遅滞と逡巡が知覚と運動の回路を崩壊させていることは、誰にでも分かるだろう。そして人物の放心はしばしば、変化、つまり未来から来る予示として読まれる。だがこの場面で小金井は、過去に弄ばれているかのように、何度もためらい、揺れ動く。表面だけを見れば、それはむしろ記憶のもつれ、回想の失敗に近い――既視感(「思い出せない、でもどこかにあるはず……」)のように。

『魔法のスター マジカルエミ』TVアニメシリーズの最終回で、舞が自分をエミに変身させていた魔法を返す直前に置かれた、舞とその周囲の人々の夏の数日間を描くOVA『蝉時雨』は、彼女と妖精トポの別れの兆候を繰り返し描く。これは誰も疑わない物語の内容だ。母親に頼まれて届け物をするところから、安濃高志は象徴と暗示に富んだ一連の場面を開始する。基本的には、巨大で白みがかった町を横切る舞の小さな姿を遠景で捉え、そのショットを、同じ町の中で並行して営まれる人々の生活へ、針仕事のように細かく、しかし散漫に差し挟んでいく。舞が時間の町を横切っているのだとすれば、人々の生活の情景は、有機的な全体を構成しうるかたちで時間の中に散らばっているように見える。あるいは、ここは記憶の町であり、映像の散漫な配置は記憶の雑然たる現れで、舞もまた町=鏡の記録の中にいるのだろうか……。この狂想はいったん止めて、もっと安全な仕方で、素朴な記述に取り組むことにしよう。帽子をかぶり、小さなスカートに着替えた舞が届け物をして戻るまでの過程(図1(a)—(d))では背景画が繰り返し使われる。そして最初の場所へ戻ったそのとき(図1(d))、思いもよらないことに、アニメのタイトル表示以降、流れることを禁じられていた音楽が流れ始める。もう何度も歩いた町の道で、彼女は突然、道に迷うのだ(図1(e))。

『魔法のスター マジカルエミ』OVA『蝉時雨』における舞の町横断ショットの連鎖
図1

こうして舞の横断は、機能から切り離された漫遊となる。日常が経験したことのない脇道へ入り込んだ、と言ってもいい。それは、夏の果てしない蝉の声が耳を満たす、誰もいない秘境である。ほどけそうな花の紐を結びながら、彼女は折れた警告標識を通り過ぎる(図1(f))。その少し後、正面には壁と「行き止まり」と書かれた標識が現れ、脇道は尽き、旋律も止む(図1(g))。この道が終点に達する決定的な象徴の瞬間に、なぜ小金井はまた奇妙な記憶の呪文を唱え始めるのか。自分の記憶を呼び起こすあの魔法を。映像の近接配置が生む曖昧なずれ、その暗く判然としない解釈可能性に、私たちは囚われる。安濃が暗示するように、画面の継起性を同時性と見なすなら、舞がただ笑い、歌を口ずさみ、拍子を踏みながら去っていく一方、標識の曲面鏡に映った彼女の背中が遠ざかっていくそのとき、呪文を唱えながら書類を片づけていた小金井が、手元に置いたばかりのコップを割る。コップが落ちる。砕ける。破片がゆっくりと花開く。

小金井はしゃがみ込み、破片を一つずつ拾って手のひらに載せる。そのあまりに尋常でない動作に私たちは惹きつけられ、やがて彼がそれらを机の上に慎重に積み上げていることに気づく。このとき、窓の外ではすでに雨が降っている。雨は町全体を、人々の生活全体を横切っていく。小金井の場面に続けて、安濃は雨の空ショットをいくつも連ねる(図1(h)—(k))。それは先ほどの舞の道行き(図1(c)—(f))を逆向きにしたものであり、同時性の雨を継起する画面へと解体する。夕立は舞の歩いた道を引き返し、木の下で雨宿りする彼女のいる町の公園へ至る。彼女が将から受け取った小さなきらめく貝殻の飾り越しに、地面に描いたエミの落書きが雨に少しずつ洗い流されていることにふと気づく。次の瞬間、雨は上がり、光と風の中で空が晴れる。これは明らかに、神秘主義的な啓示である。

舞は、雨上がりに突然騒がしくなった世界を呆然と見つめ、立ち止まったままだった。しかし遠く、町の上空に虹がかかっているのを見ると、思わず数歩前へ走り、トポを置き去りにする。ここで私たちはタイトル画面を思い出す。地面の水道管の途中から何気なく噴き出した小さな虹。安濃とは、修辞語のような映像の要素を細心に編成し、象徴の体系においてより根本的な位置を与えようとする、なんと好奇心の強い作家なのだろう。続いて、木の上でじっと身動きしないトポに舞が呼びかけると、蝉の声が突然浮かび上がる。それは先ほどまでのものとは違い、少しまばらで寂しげで、夏の終わりを予告するかのような蝉の声だった。私たちの座標をトポと同じものにしようとしているように、カメラの正面にいる舞が、空の虹を興奮して指差す。すると風が銀杏の葉と欄干の虹色の水滴を吹き上げ、水滴が落ちる。地面には消えた落書きと、まだ乾いていない水の跡がある。中国語の批評文『安濃高志演出拾遺:日常的超験性』には、次のような見事な一節がある。「このとき、どんなに鈍い観客もトポと同じように、聴覚、視覚、触覚が鋭敏になっていく。体感時間は無限に引き延ばされ、周囲のあらゆる活動がこの上なく明瞭になる……」延々と続く蝉の声の中、舞は前方にいる。私たちとトポはなおも、現在の微細な変化の刺激に浸っている。しばらくのあいだ、彼女が何を言っているのかさえ聞き取れない。やがてようやく、彼女が私たちに叫んでいるのが聞こえる――早くしないと置いていくよ、という台詞だ。

この言葉の意外さに、私たちは心を深く奪われる。そう言い終えると、舞は静止画になり、ゆっくりとフェードアウトして夜の闇へディゾルブする。無関係に積み重ねられたように見えるイメージが、実はアニメーション全体の構造を緻密に導いていた。その主題が正面から露出し、率直に私たちの心を震わせる瞬間である。聖アウグスティヌスは、三つの現在が存在すると考えたと言われる。未来の現在、現在の現在、過去の現在。それは「起ころうとしていること」「起きていること」「起きてしまったこと」が同時に存在するということだ。ならば疑いようもなく、同じ現在の中で、舞は未来の「起ころうとしていること」へ向かい、小金井は過去の「起きてしまったこと」に沈み込み、トポと私たちはその両者のあいだにある無限小の裂け目の中、画面が映し出し刻みつける現在の「起きていること」にいる。私たちは出来事や変化に追いつけそうで追いつけない。だが明らかなのは、トポの消失、すなわち置き去りにされることが物語の終わりであり、物語の終わりが私たちの終わりだということだ。私たちはいつか置き去りにされ、あの古い現在、記憶へと投げ出される。

こうして『蝉時雨』における「起ころうとしていること」/予示と、「起きてしまったこと」/既視感の反復構図が、容易に見えてくる。舞の漫遊の連鎖における、彼女と小金井の近接配置は言うまでもない。小金井が国分寺に向かって何かを言おうと叫び、記憶が微妙に混乱した直後に置かれるのは、舞の化身であるエミが突然立ち止まり、振り返って夏の遠い空を見つめるいくつものショットである。タイトル画面の前では、皆でエミのマジックショーを見ている。祖父はエミの人形オルゴールを作るという着想を得る。しかし同時に、ショーの衝撃を受けた小金井が白昼夢のように呟いていた言葉の正確な内容を、私たちは知ることができない。彼は、不安定で無秩序な回想によって構成された、雑然とした混乱の夢の中にいるようだ。自分を現実へ連れ戻す回想の閉じた回路を、彼は組み立てることができない。別の場面では、舞が誤って花の紐を引きちぎるのを見て、小金井は目を見開き、動かなくなる。その断裂のイメージが彼の視界全体を満たしたかのように。ここでも、予示と既視感という対の反復が提示される。では、切れた花の紐を予示と結びつけながら、同時に既視感とも結びつける媒介は何なのか。私たちは心の中で、黙って答えるしかない――死だ。

オルゴールの、人形のように柔らかく、少し物悲しい主題曲の伴奏が流れ続ける中、小金井は厚い手のひらを差し出し、舞の線香花火から落ちてきた、暗い虚空へ沈み、まもなく消えようとする一滴の火花を受け止める。皆が彼の火傷を心配して部屋を出ていく。カメラと私たちは、空っぽの室内に留まり、置き去りにされる。人形のオルゴールだけが、止まるまで単調な動きを繰り返している。息が詰まるほど希薄な残酷さに耐えながら、私たちはエミの人形が一枚の写真へと変わるのを見る。時間は凝固し、滞り、流れなくなる。私たちは自分の場所に釘づけにされ、動くことができない。成長した舞がめくるアルバムに並んでいるのは、累々たる死体だ。いつか私たちが置き去りにされることを、すでに理解している。それでも、その確信の後になお驚かされるのは、安濃が成長した舞を覗き見ることを私たちに禁じていることだ。彼女が憧れていたアイドルになったのかどうか、私たちは知らない。彼女の顔全体を見ることさえできず、ただの一語を発するのを聞くこともできない。部屋は暗い。彼女はほとんど動かず、その場所に静かにいる。鈍く重い焦燥が、私たちの心を引っ掻く。

冒頭と結末のアルバムが舞の記憶を呼び起こし、作品全体の過去が彼女の主観的な回想として存在している――この広く流布した凡庸な見解には、私たちはただちに反論しなければならない。夏の数日間には、彼女が経験していない他人の生活も含まれているという自明の事実だけではない。この見解では、安濃作品における写真というモチーフの奥行きを取り逃がしてしまうからだ。写真は回想を呼び起こすのではなく、回想を破壊する。私たち自身が写真を見るときの体験と同じように、イメージは巨大で強制的な姿勢で回想を塞ぎ、その写真が撮られた前後の経緯を私たちが思い出せないようにする。この体験は、現在を生き生きと流れる具体的な回想へ変換できない。だから写真の体験に本当に似ているのは、まさに小金井が回想の閉じた回路を組み立てることに失敗すること、そして既視感というかたちでしか存在できない、暗く判然としないものなのだ。冷たく硬い破片が手の中に横たわり、手のひらにわずかな焼ける痛みを残す。その痛みが遠い喪失感を私たちに与えるように、この触覚は、古くぼやけた写真を見る残酷な体験に似ている。

写真というモチーフをさらに追えば、安濃のモチーフが、彼の監督した『ヨコハマ買い出し紀行』(1998年)へどのように継承されているかが見えてくる。このアニメが原作を忠実に翻案しているにもかかわらず、私たちはその題材の一貫性に驚かされる。第1話で、写真を撮ろうとするアルファは、目の前の海上を流れゆく夕景を、一枚の孤立した写真に切り取ることができず、家へ戻ってから、風景が変化していった瞬間をひそかに思い出すしかない。では、写真の体験はどこにあるのか。第2話では、夜、水没した町の中でなお稼働する巨大で輝かしい電力システムを眺めるアルファが、廃墟に対する、空虚でありながら充実した愛によって涙を流す。本文が紹介する押井守の説明では、廃墟にも「かつてあった」という過去、「いまやそうなっている」という現在、「ほどなくそうなる」という未来の三つの時間が流れている。1かつての輝かしさはもうない。しかし、それがかつて現実に存在したことを私たちは確信している。この無力なずれの感覚の中で、私たちは死者の幻影を抱きしめ、そして取り逃がす――それが愛の無能さである。あの場所では、電力システムの光が持っていた機能性はすでに消えている。だがそれらは純粋な物質として、夜の闇の中で互いに戯れている。この物質の戯れが、ついにアニメーションという媒体によって表現される。これに対応して、かつての人々が放っていた光が銀イオンのフィルムに刻印され、物質となったことを、私たちはすぐに理解する。そして長い歳月を経て、その物質の光が、いまの私たちの瞳へ映り込む。写真の中の人々は、過去には存在した。いまはすでに死んでいる。――私たちも未来には死ぬ。

II 『めぞん一刻』第27話

魯迅『野草・題辞』の言葉。――「黙っている時、私は充実を感じる。口を開くと同時に、空虚を感じる。」2私は白紙を見つめ、そこに宿る混沌の豊かさに充実を感じる。だが筆を置いた瞬間、その豊かさは、物語の機能を担う単調な具象へと崩れ落ちる。私は自分の意図の卑小さと俗悪さに驚き、恥じ入る。ひとたび完成すれば、それは絵画ではなく、物語体系に組み込めるさまざまな記号にすぎない。記号たちは恥知らずに身を寄せ合って自分を見せびらかし、がやがやと騒ぎ立て、先ほどまで白紙が持っていた充実した沈黙を完全に失う。私はそこで、紙面に豊かな表象を精密に築き上げ、あらゆる浅薄な対応関係を避けようと努める。ところが、心血を注いで作り出した、一見すると自由奔放な記号の数々も、なお「物語」という中心化された磁場に繋がれていることに気づく。それらを奥行きのある世界の中で自由に戯れさせ、意味を無限に増殖させることができない。物語を語る人間に頭を垂れて従うか、青白く空洞な具象の背後に、あらかじめ反省しておいた思想を何か詰め込むしかない(充実した具象はつねに空虚な具象である)。そして、この物語と思想はアニメーションという媒体でしか表現できないのだという顔をして、私は文化研究者の手のひらにがっちり捕らえられている。

安濃は、それほど才能のある作家ではない。彼はただ、自分の設計図に従って、役に立たないように見える青白い具象をひたすら繰り返し並べているだけだ。私たちが『蝉時雨』を安濃的だと言うのは、他のアニメーションより空ショットや少し長めのショットを多用し、劇伴の使用を避け、あるいは人物描写を念入りに考えているから……ではない。それらをいくら組み合わせても安濃作品の特徴にはならない。真に指摘すべき理由は、反復される列挙の中で、作品のあらゆる要素がいつのまにかひとつの拮抗する構造へと自ずから収束し、物語と交響する別の相貌を現しているという点にある。ここでは、空虚と充実の逆転が一瞬のうちに起きたと言える。作品は先に述べた裂け目を形づくる。そしてこの不可視の空白の裂け目こそ、充実した裂け目なのだ。むしろ、この不可視の空白が、その周囲を取り巻くさまざまな具象に真の強度を与える。そこに現れる構造こそが、時間という、最も広大で、語ることのできない、したがって沈黙している領域を表現するのである。

『めぞん一刻』TVアニメシリーズは、長期制作の途中で二度も路線を変更した、かなり珍しい作品である。最初の変更は第27話(1986年)で、主要スタッフが入れ替わったことだった。安濃高志は第27話からシリーズの総監督を務め、これが彼自身が絵コンテを切った唯一の回でもある。その後、シリーズ構成は伊藤和典に、キャラクターデザインは高田明美に引き継がれ、色彩設計の保田道世と音楽担当の川井憲次が制作陣に加わった。本作の作画監督の一人であり、ヒロイン音無響子が好きだったため、芸名を音無竜之介とした高橋ナオヒトは、これについて次のように語っている。「特に最初の路線変更はすごかったですね。キャラクターデザインまで変わりましたから。当時(制作現場の)状況は非常に混乱していました。でも、あの路線変更があったからこそ、どうすれば日常芝居を魅力的に見せられるのかを各スタッフが覚えたと思うんです。」3実際、第27話には、深刻な制作ミスとさえ言える箇所がいくつかある。それでも私がこの回を詳しく取り上げるのは、それが安濃的な姿勢を強烈に示していること、そして私たちに比類なく素晴らしいアニメーション体験を与えるからだ。

主題歌の後、最初の画面の手前には、枝に実った、ふっくらと重たげな柿がある。同時に私たちは、遠い空の彼方を滑るように上へ伸びていく飛行機雲をはっきりと追う。静かに流れる時間の中で、落ち着き、安定しようとする力と、ゆっくり流れる力とが交錯しているのを感じる。二つの力の強さと緊張関係に応じて、私たちは「何かが起こりそうなのに、実際には何も起こらない」ことと、「表面上は何も変わらないのに、何かがひそかに変わっている」ことの共存を予感する。そしてこの力が拮抗する構造が、物語の展開と、日常の果てしない円環運動を支配している。この組み合わせは、季節の変化を示す機能を伴って、『蝉時雨』の雛形と呼ばれる『魔法のスター マジカルエミ』TVアニメ第22話(1985年)にも現れる。安濃は、修飾語のような小さな挿話を置いている。ユキ子が、流れる水で野菜を洗いながら手を浸し、その冷たさに驚く。すると窓の外の柿がすでに熟していることに気づき、画面は上へ伸びる飛行機雲の斜線へディゾルブする……秋の柿は、この回の冒頭から物語と回想の枠組みを定めている。しかも安濃は、現場の引き継ぎの混乱や制作時間の逼迫をものともせず、柿をさまざまな姿の風景の細部として、20分余りのあいだ飽きることなく8回も繰り返し登場させる。ただし『魔法のスター マジカルエミ』では、季節の断片がユキ子に直接働きかけ、衝撃を与えるのに対して、この回のそれらは物語の外から傍観するだけだ。ここに存在しているという、素朴でありながら奇妙な事実を、私たちに告げるだけなのである。

そよ風に揺れる坂道脇の花を映した後、響子と、亡夫惣一郎の姪である郁子が、遠くから話しながらこちらへ歩いてくる。漫画原作のように、「亡夫を今でも恋しく思うけれど、最近はもう苦しくも悲しくもないようだ」と率直に口にすることはない。郁子が祖父と食事をするため家へ帰ると言うと、ちょうどよいタイミングで入るクローズアップの中で、響子は少し考え込むような表情を見せる。漫画では、郁子がなぜ犬に惣一郎と同じ名前をつけたのかと尋ね、彼女の記憶を呼び起こす。だがアニメでは、響子はただ笑いながら惣一郎の名を呼び、犬とじゃれ合う郁子のもとへ走っていく。抒情的な旋律が流れ始めると、画面は夕陽に赤く染まった、私たちには見慣れない町の回想へ切り替わる。続くのは、突然、私たちの胸を震わせる短いクローズアップだ――髪の短い響子が、まだ未来に何が起こるか知らぬまま、ふと何かに気づく。放心した彼女は手にした買い物リストを読み始める。「ピーマン、豚肉……何か忘れているような……」彼女は食材を買い終え、家に帰って料理をしようとしていたのだ。この安濃らしい、突然降ってくる記憶違いの中で、彼女は、巨大な落日を背景に高い坂道を登っていく一人と一匹のシルエットを見る。小さく惣一郎の名を呟くと、安堵したような、私たちが羨望すら覚える微笑みを浮かべる。続いて惣一郎と呼びながら彼らのもとへ走る。人と犬が、圧倒的な予示の感覚を伴って同時に振り返る。決定的な瞬間、落日の残光に逆光で染められ、黒く塗りつぶされた人と犬の振り返りが静止する。タイトルが出る――「消えた惣一郎!? 思い出は焼鳥の香り」。

「消えた惣一郎」というタイトルが、人と犬の同名を利用した駄洒落であることは疑いない。振り返る偶然を強調する原作題「ふりむいた惣一郎」に比べると、それは、響子がもう苦しくも悲しくも感じないという、削除された、忘却を象徴する台詞や、この瞬間の画面において記憶の曖昧さと恍惚を暗示するかのような、夕陽の下で黒く塗りつぶされた処理と、より深く結びついている。さらに画面が私たちを惹きつけるのは、おそらく望遠感を備えた巨大な落日だ。回想の中でそれは空を真っ赤に染め、町を最後の光で満たす――ここで私たちは、拡大装置としてのアニメーションに出会う。距離を無限に圧縮し、近いものが大きく遠いものが小さくなる遠近の法則を抑え込み、構成要素が一点へ集中せず、周囲へ拡散し流出していく世界。響子の背後の家々は、互いに交わらない平行線のように見えながら空中へ散っている。私たちに望遠感を与えるこの町は、最初からそれを示していたのではないか。遠いものを拡大して人物のそばへぴたりと寄せ、人物を取り囲んでそびえ立ち、歴史的時間と集合的記憶の豊かさを積み重ねた町を構成する……私たちはすぐに、『ヨコハマ買い出し紀行』の海底に並ぶ街灯と、縦横に走る電力システムを思い出す。どれほど遠くにあっても、それらは同じ平面を共有している。そしてこのアニメーションの平面上では、物質を透過する光が流れ、広がり、互いに戯れている。これはまさに安濃の世界にふさわしいと、私たちはまた嘆息するしかない。

実際、巨大な落日も、坂道の人物の背後にある遠い町も、過去と現在を貫いて繰り返し現れる。『蝉時雨』で河の音が時間を貫き、いまへと続いていたのと同じように。『蝉時雨』の冒頭で、私たちはすでに音の拡大装置に出会っていた。窓の外、見えない向こうで、河が静かに騒いでいるのをはっきり聞く。風鈴を聞く。近くでは舞がアルバムをめくり、遠くでは子供たちが遊び、電車が通り過ぎる……安濃は多層的な音によって音響の奥行きを構築する。人々の生活を育み、時間と記憶を蓄積してきた河のざわめきが、画面の背後で拡大され、満ち、広がっている。では、匂いを拡大する装置はあるのか。結局のところ、アニメーションは匂いを取り込むことができない。だが「思い出は焼鳥の香り」というタイトルが、この物語の手がかりを結びつけていることに私たちは気づく。犬はいつも、散らばった物体の中から揮発し、拡散する気配を探す。鋭い嗅覚を持つ犬は、下駄から死者の匂いを嗅ぎ分ける。その意味で犬は、人間には馴染みがなく、脆く捉えがたい匂いの細部と形を拡大している。犬は夕陽の下で焼鳥の匂いを追って響子の家へやって来る。そしてある日、かつてと同じ、遠い時間を貫く串焼きの香りを嗅ぎながら去っていき、最後には五代が、似たように空の端が赤く染まる黄昏時にそれを連れ戻す……五代が見つけたのは、過去の匂いを追ったために「消えた惣一郎」だった。これは疑いようもなく隠喩である。それはすでに予示している。五代が、響子の亡夫への思いの重さを、いや、死者の重さを背負うことを。ここまでで、この回の結末をめぐる構造のために、さまざまな構成要素がすべて配置された。

これらの作品を注意深く見れば、安濃の町がつねに秘密の儀式を執り行っていることに気づくのはたやすい。それは、場所が機能空間から儀式空間へ変わることだ。『蝉時雨』では、舞が歩いている途中で行き止まりに出会う。『ヨコハマ買い出し紀行』では、アルファが、ただ光るためだけに一つずつ灯される街灯を遠く眺める。町は、誰にも知られない小さな奇跡をひそかに用意している。『魔法のスター マジカルエミ』第22話の終盤では、マジックに失敗して家を飛び出した進が、公園の高台(『蝉時雨』の公園も同じく高台にある)から遠い町の点々とした灯りを眺めている。すると、それまでずっと忘れていた童謡の後半を突然思い出す。彼はブランコから跳び上がり、飛翔の魔法を演じているかのようだ。俯瞰される町は次第に拡大し、一瞬、彼との距離を縮めたように見える。そして『めぞん一刻』第27話の結末で、町の儀式/奇跡は私たちに「残酷さに隣接する甘美な体験」を与える。ここで安濃は生涯の頂点に達したと言ってもいい。そよ風に揺れる花を映しながら、カメラはゆっくり右へパンする。響子が坂道の低い方から遠く現れる。背後には夜の帳が下り、無数の家々に灯りがともる町がある。横からのショットで、夕陽を浴びた遠くの家々を見る。続いて彼女は、巨大な落日を背景に坂道の高みを登る一人と一匹のシルエットに気づく。それが五代と惣一郎の姿であることは明らかだ。彼女が惣一郎の名を呼ぶと、落日の残光に逆光で染められ黒く塗りつぶされた人と犬が同時に振り返る。彼らは写真のように動かず静止する。突然、強風が唸る。先ほどとは逆に、カメラは左へパンし、花は左へ傾ぎ、響子の長い髪と衣服は左へ吹き上げられる。彼女の背後の遠い町には、突然、左へ走る電車が現れる……これでもまだ足りないかのように、目の前の過度に偶然的なイメージを驚いて見つめる響子の目のクローズアップも左へ移動する。これは、回想の中で、死者の匂いを探す犬に向かって彼女が「惣一郎はもういない」と言ったとき、目のクローズアップが右へ移動したことを思い出させずにはおかない。この運動方向の逆転によって、私たちは気づかざるをえない。黄昏のこの一切は、響子にとって死者復活の儀式にほかならないのだ。

回想から抜き出された写真のように静止した、黒く塗りつぶされた人と犬。その圧倒的な既視感が、響子に千万分の一の幸運を期待させる。これは、私が先に述べた写真の体験と矛盾するように見える。写真が町の儀式によって呼び出され、現実として復元される。完全に失われた過去が、時空の幾重もの障害を突破し、信じがたい仕方で現在に降り立つ。長い凝視の中で、電車が通り過ぎるがたんという音と、遠くから近くへ一つずつ灯る街灯が、暮色の静けさの中で心臓の規則的な鼓動になる――実際、この息の詰まる儀式は、原作では心臓の鼓動を示す擬音が一コマあるだけだった。五代が惣一郎になるとは私たちは思わない。それでもここでは、誰もが息を詰め、時間の流れの中で最も深い場所に沈殿した言葉が噴き出すのを待つしかない。ついに街灯が響子と坂道脇の花を照らす。強風の中で彼女の髪が舞い、驚いた横顔が実に見事だ。今度は犬ではなく人への呼びかけになることを、私たちは知っている。惣一郎という名が、すでに身体の内側から飛び出そうとしている。だが決定的な瞬間、言葉は唇でつかえる。広がった一つの街灯が五代の顔を照らすからだ。そこで私たちは理解する。これは死者復活の儀式ではなく、一枚の写真の残酷な現像なのだと。ここに惣一郎の顔が映る可能性はまったくない。余分な想いが入り込む余地もない。彼のあのときの顔は、あまりにも遠いために永遠に失われ、取り戻せない。現像のトラウマ性は、それが自分自身を変えられないことにある。現像された瞬間、それはあらゆる可能性を永遠に失うことを意味する。アニメーションに内在する非現実性と非連続性が、五代が長時間立ち尽くすことを自然なものにする。そして街灯が五代を現像することこそ、安濃高志が原作者・高橋留美子の意図と想像を超える瞬間である。現像はまさに同一性の反復を強調し、その同一性の反復は他者の死/葬送を指し示す。灯りがつく前と後、生者と死者の拮抗の中で、私たちは再び無限小の裂け目に出会う。それは空虚と充実を一瞬にして覆し、絶対的なトラウマ性によってアニメーションの一話全体を支配する。無力な崩壊の感覚が響子の身体を支配し、彼女はしばらく動くことさえできない。まさにそうでなければならない瞬間、一曲の歌が適切に流れ始める。『Alone Again (Naturally)』。

『Alone Again (Naturally)』、再び孤独。取り戻された(?)響子を見つめる五代と、その背後の落日は、優しく寂しげに、夜空へ降り注ぐ天の川へとディゾルブする。流れに沿ってカメラが下へ移動し、一刻館の時計へ至る。回想が蘇った黄昏が終わると、私たちは窓の外の濃い藍色の夜の向こうを見る。町には、切り裂かれた傷口のように、輝く河が静かに湧き流れている。そして私たちは再び柿を見る。回想を規定する季節の枠組みの始まりから、風景の細部として何度も繰り返され、最後にはまたこの物質へ戻ってくる。最初からやり直し、出発点へ戻る。回想との関係は語ることができず、いかなるつながりも目に見えない。それはただ、不思議なほど静かにそこにある。全体の構図を超越しながら、さまざまな構図を通り抜け、どこにでも存在している。その自己反復は、観客に問いかけているようだ。この、失われたものが戻ってくる円環運動の物語は、起こったのか、起こらなかったのか(潜在性)。変わらないのか、変わるのか(流動変化)。俯瞰するゆっくりとした回転ショットの中で、町の無数の灯りに比べれば、一刻館にともるいくつかの温かな明かりはあまりに弱い。この物語もまた、無数の小さな物語の一つにすぎない。歌の終わり、編集によって「Alone again, naturally」という一節が一刻館の上階にいる五代へ割り当てられ、もう一つの「Alone again, naturally」が下階の響子へ割り当てられる。犬(?)に向かって惣一郎の名を小さく呼ぶ響子の顔に、再び淡い微笑みが浮かぶ。こうして、柿と飛行機雲から始まったこの回は終わりを迎える。だがこの物語に呼応するように、エンディングの最後には、降り注ぐ天の川の下を歩く五代の姿が映る。惣一郎という名の犬が、突然道端から現れ、彼の連れとなる。果てのない夜の中で、二人は見つめ合い、遠ざかっていく。

二、高橋ナオヒト、そして凝視する眼瞳

I 貫通を禁じる表層

暗夜に漂う無数の光点が傷口を形づくる。河に沿って町全体を横切りながら、優しくも残酷に持続するこの存在は、長時間の静止によって保たれた、死者に似た振り返りの同一性の反復を通じて、深い青の町の夜のなかへ引き裂かれ、露呈する。時間への哀悼として、この傷口が『蝉時雨』のなかで予示されていないとは言えない。それは、同時性における三つの現在の分裂を構造的反復によって示すものであり、舞のアイドルとしての身分がまだ死んでいないにもかかわらず、傷口はとうに作品のなかに存在していたのである。高橋ナオヒトにおいて、この根本的な側面は、画面と呼ばれる表層の純粋な反復へと退化している。『フィギュア17 つばさ&ヒカル』第12話(2002年)では、北国の空の、何も見えない希薄さと空虚さに、私たちは心を動かされずにはいられない。双子の姉妹のように、つねに翼と影のように離れない光は、やがて別れる運命を知っているため、ときおり翼を避けるようになる。翼が雪原にひとり立つと、横移動するあおりのショットのなかに、小林七郎風の鋭くそそり立つ枝々が、墨をにじませた紙面のように輪郭を失った空を取り囲んでいるのが見える。やがて少年は、駅でひとり待つ少女を見つける。二人は並んで立つが、視線は交わらない。「今日は用事があるから、バスに乗るんだ」と、小学生にしては少し大げさな言葉で少年は弁解する。少年は、ずっとうつむき落ち込んでいる少女をちらりと見て、すぐにまた顔を背ける。画面が先ほどとほとんど変わらず、枝に囲まれた空へ切り替わると、叙情的な旋律が流れ始める。ただし今度は横移動ではなく、その空に引き寄せられるように、何もない空虚へ向かって絶えずズームしていく。沈黙した佇立のなかで、二人は遠くの林から吹きすさぶ風をともに聞き、頭上の帽子は空から降り続ける雪を受け止める。実際、少女のほうが少年より先に待っていたため、帽子やマフラーにはより厚く雪が積もっている。ついに、タイヤが氷雪を踏みしめる耳障りな音とともにバスが到着し、二人は最後列に並んで座る。遠くの雪国の山脈がゆっくりと滑っていき、バスのなかでも、窓越しに仰ぎ見る茫漠たる空が映し出される。「東京に帰るんだってね」と、先に沈黙を破るのはやはり少年である。そこで初めて、二人が短いあいだ共有した同じ時空、この雪国の沈鬱な空と風景が、別れの儀式性をひそかに含んでいたことに気づく。少年は話しながらも少女のほうを見ない。少女が顔を横に向けて彼を見るが、少年が話し終えて少女を見るより先に、少女はもううつむいている。二人の視線がつねにすれ違うように配置された演出は、会話のなかにきわめて自然に差し挟まれている。人物の位置を的確に処理し、視線の関係と移り変わりのタイミングを正確かつ緊密に組み立て、身体と頭部の向きや回転に細やかなこだわりを示す高橋は、視線の物語的な経済性と有効性を十分に活用できる、会話劇を撮れる演出家なのだと感嘆せずにはいられない。少年がわずかに身を起こして停車ボタンを押し、降りようとするまで、広角レンズの位置から捉えられた二人は、隠れて互いに視線を投げかけているように見える。そのとき初めて、視線はほとんど交わる。バスでの会話のあいだ、窓越しに仰がれた空が三度反復され、その何も見えない空虚さによって、二人の断続的な沈黙を満たしている――高橋のこの消極的で受動的な、いわば負の表現こそ、彼の希薄な表層の反復の特徴である。だが、これがすべてだと思うなら大間違いだ。すぐにわかるのは、彼の反復が、むしろいっそう理不尽なものだということである。同じ話の終わり近く、林のなかにいる光と翼が、ふいに舞い落ちる細かな雪に気づく。穏やかな音楽が止み、風の唸りだけが残る。二人が立ち上がって空を見上げたとき、上から下へ振られるカメラが、枝に囲まれた灰色の空を一瞬見せる――これは先ほど駅で見た空ではないか。ほんの一瞬の感覚にすぎないため、私たちはひとまず疑いを抱き続ける。だが、このシークエンスのなかでまったく同じ画が二度、三度と頑固に反復されると、誰もがこの故意の暴行を前に呆然とするほかない。しかも、駅にいる二人とこの空を結びつけるような振り下ろしのショットは一度もない。もし高橋が、なぜ駅のシークエンスでは違う画を使わなければならないのかと問い返してきたなら、私たちはただ口をつぐむしかない。いや、この空を見たからこそ、翼は勇気を奮い、光に向かって、二人がやがて別れることに気づき始めたのだ。そして固定ショットで捉えられた空は、雪原で抱き合い、すすり泣く小さな二人を黙って見つめている。それは、この世のあらゆる別離する者たちの頭上に広がる空を思い起こさせる、永遠の図柄となったのではないか。希薄な表層として自らを完全に露呈しながら、何も語らない。そして私たちはもはや、それを具体的な場所へ単純に還元することはできず、貫通不可能な平面図形そのものとして持続する存在として受け取るしかない。

音楽と調和し、あるいは音楽に駆動されるリズミカルなアニメーション運動と編集は、その高度な制御可能性ゆえに絶えず実践されてきた。ときには、こうした実践は、スペクタクルやその他の安価な手段が観客にもたらす安心と単純な効果に、抵抗もなく容易に屈服してしまう。しかし、アニメーションは沈黙と静止にこれほど長けたメディアである。高橋ナオヒトにおいては、完全に沈黙した表層の反復のなかに、糸のように細い揺らぎが不可視のかたちで生まれる。高橋は、音楽に合わせて観客を煽ったり、物語によって観客を熱狂させたりする作家では決してない。一枚のショットと次のショットの連鎖に執着し、そのことによってアニメーションの微妙な感性を徐々に形づくる作家である。ところが、実写もアニメーションも理解していない、いわゆる文化研究者たちは、モンタージュを、単にショットを配列し編集するための一技術にすぎないものとして特権化し、大げさに語る一方で、現実のショットの連鎖形式と具体的な画面には無関心である。だからこそ彼らは、映像の不自由、無力、不可能性を理解できない。高橋の負の表現は、まさにこの不可能性に深く根ざしていると言える。『To Heart』(1999年)第8話は、あかりと浩之の視線が交差する空間を静かに保ち続ける。二人はほとんど互いに触れない。向かい合って座る二人の距離は、もちろん視線が成立するための必要条件である。逆に言えば、二人の柔らかな視線が、もともと曖昧で繊細だった距離の意識を、明瞭で揺るぎないものにする。接触を禁じられたまま、二人は身体によって、隔たりを越えた向こう側にいる相手の身体の存在を静かに感じ取っている。淡々とした相互凝視が、私的で穏やかなこの時空を二人が共有していることを、あらためて確認するのである。蓮實重彦によれば、もっとも緊密な結合は、瞳の機能を殺すことによってのみ成立し、視線は距離の介在によってのみ存在する。それならば、凝視と接触の逆説的な関係を貫く第8話終盤の反復されたショット/リバースショットを、ここでの遅延の意図が「何かが起こりそうなのに、実際には何も起こらなかった」日常を際立たせることにある、とだけ考えることはできない。高橋は驚くべき勇気をもって、短い時間のなかにまったく同じ静止画を並べる。ほとんど停滞に近い反復のあと、あかりの肩越しに浩之を撮った、まったく同じ、しかし少しだけ長いバストショットのなかで、あかりがふいにわずかに身を起こすのが見える。穏やかな音楽が奏でられ、浩之もつられて顔を上げる――あかりは黙って彼を見つめていたのだ。画面が彼女の無言の凝視へゆっくりとズームしていく……時空を限りなく凝滞させるこのショット/リバースショットは、平凡な日常のなかで無数に交わされる二人の視線のうち、いまこの瞬間の対面に明らかな優位を与えている。ここでのあかりの凝視は、まず待つこと、あるいは自分が待っているということへの気づきである。だが、完全な沈黙と静止によって、彼女の凝視は貫通不可能で、限りなく曖昧なものとなる。凝滞した時空のなかで、彼女の待つことはもはやこの瞬間に限定されず、あかりと浩之の関係の全歴史へと思いがけず拡張される。あるいは、日常のなかで無数に交わされる視線の一つだけを掬い取っているからこそ、この凝視は自らの意味を他の平凡な凝視へ無限に投射しているのだ。だからこそ、あかりの視線は、TVアニメ・シリーズ全体において特権的な位置を占めるのである。とはいえ、高橋ができるのは、視線を交わす二人を横から同時に、しかも徒労に終わるかたちで繰り返し撮ること、あるいは凝視を正反ショットに分解して交互に編集することだけである。押井守が『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)で行ったように、カメラを視線の中心で絶えず回転させたとしても、二人が向かい合う正面を同時にフレームへ収めることはできない。つまり、カメラは二人の視線を同時に捉えられないのである。蓮實は、二人が向かい合うとき、カメラが無力に横から撮るか、あるいは介入してその同時性を破壊するしかないという悲惨な状態を正確に指摘し、ある意味では、瞳と瞳の遭遇を撮影することに死刑を宣告した。この不能性は実写の現場では明白だと言えるが、絶望と不幸はアニメーションにも同じように存在する。凡庸な作家は瞳の衝突という危険な状況を無視し、軽率かつ無造作に目と目をつなぎ、日々、カメラ位置の反復を避けるためのショット/リバースショットを繰り返し、自らの凡庸さから逃れようとする。おそらく押井守はこの点を意識したうえで、会話劇における無駄なショット/リバースショットの使用を最大限減らす努力を勧めたのだろう。しかし高橋ナオヒトは、凝視が困難になる状況を構築しながら、あえて愚鈍とも言える表層の反復によって、凝視を映像の核心的なモチーフにした。絶対的な静止と反復のなかで微妙な差異が生まれ、逆説的に、同じまま維持されることで変化が生じる。『To Heart』を疑いようもなく恋愛アニメーションの極北へと押し上げる第13話は、目と目の遭遇を表象しようと執拗に試みる。体育館の場面では、屋外に降り続ける細かな雨の音が聞こえる。壁にもたれているあかりの視線をたどると、遠くで少女たちと一列に並ぶ志保が見える。ついでカメラは、右を向いた志保へ絶えず近づいていく。その途中にあかりのクローズアップが挿入され、志保へ注がれ続ける視線が強調される。すると、長いあいだ静止していた志保が、何かに気づいたか、あるいはもはやこの視線に耐えられなくなったかのように、わずかに首を傾け、あかりを一瞥する。あかりの少し驚いた顔へ切り替わったあと、角度を変えない固定ショットのなかで、志保はすぐに顔を戻し、少しうつむく。そしてカメラがあかりのほうへ近づき始める。高橋はカメラ位置の角度を変えようとはせず、移動ショットを固定ショットへ、固定ショットを移動ショットへと交互に入れ替える、いわばボールを受け渡すような表現を行う。私たちは思わず感嘆する。そこにはなお継起的な編集があるにもかかわらず、遠距離の視線の遭遇を経た人物たちの、より曖昧な変化が暗示されている。あかりの場合、それは対応する心理を表す表情によって伝えられるのではない。驚いたあとも、彼女の顔はそれ以前とまったく変わらないからである。この希薄な表層の反復への執着は、本話の中心に位置する、志保があかりを見舞う場面でさらに明瞭になる。この室内劇の一連のショットの比類ない美しさに、誰もが驚嘆するだろう。震えながら単調に鳴るやかんの音が時間のなかに持続する。あかりはベッドに座り、志保はベッドの脇に座っている。二人の座る向きは垂直ではなく、ほぼ同じ方向を向いた鋭角をつくっている。二人が顔と身体を少し相手へ向けると、背後の窓から差し込む外光が頬を照らす。身体を戻すと、頬は影のなかへ沈む。私たちは画面の繊細さに浸り、あかりが話すとき、耳や頬や首にある柔らかな影の線がわずかに震えるのを見つめる。蓮實は、「心理の顔」が心理の影という虚構の深さを捏造するのに対して、「画面の顔」は影そのものを表層へ露呈させると考える。ならば、光と影の交替反復を続けるあかりと志保の表情は、疑いなく「画面の顔」である。たとえば志保は、浩之を好きなのかと問われて二度否定する。一度目には、あかりの視線を避けて顔を影へ向ける。二度目には、立ち上がって振り返り、あかりを見ながら、あんな奴のことはまったく好きではないと言う。そのとき光が彼女とあかりの顔を照らし、そこから場面が終わるまで、画面から顔の影は消える。私たちはそこに、理由のわからない寂しさと、いくらかの安堵を同時に覚える。叙情的な音楽が流れ、やかんの音が次第に消えていく。透明で綿々と続く時間の圧力のなか、あかりの寝室という舞台装置が語る歴史の雄弁さのなかで、彼女がどうしようもなく敗北したことを、私たちは理解する。影と同じように、無言のまま自らを表層へ露呈するものが、眼瞳である――この場面でもう一つ驚くべきなのは、あかりが志保に浩之を好きなのかと尋ねたあとに置かれる、沈黙したショット/リバースショット(図2(a)—(d))である。そこに収められた二人のあいだの相互凝視は、危険に近いものだと言える。しかしそれは、二人の関係性を清算する場面であるにもかかわらず、深く入り込むように見える直視が何を漏らし、何を隠しているのか、私たちには知る由もない。眼瞳はすでに、空無の充実として自らを露呈しているのではないか。それは魂の窓などではなく、表層で深部への探査を拒む力学なのである。そこで私たちは、眼瞳こそがもっとも堅固な防壁なのだと、ようやく悟る。実際、反復されたショット/リバースショットによって相互凝視を表現することは、実写では珍しくない。たとえば加藤泰『明治侠客伝 三代目襲名』(1965年)と鈴木則文『女番長ブルース 牝蜂の挑戦』(1972年)のショット連鎖(図2(a’)—(d’)、(a’’)—(d’’))がそうである。だが、どちらの連鎖でも、俳優の表情、カメラの角度、ショットサイズには微細な変化が生じている。逆に言えば、アニメーションの非連続性とは、持続的に運動する実写に対するアニメーションの弱点である。非連続性によって五代の佇立が自然なものになったと言える一方で、凝視の停滞は、アニメーションに固有の不自然さと不自由さを残酷に露呈させもする。高橋は運動を根本から禁じ、角度の変化を捨て去る絶対的反復によって、完全な切断と断裂を形成する。逆に、徹底した弱点を糧とし、空虚の充実たる表層の反復を、その極限へと近づけていくのである。

『To Heart』と二本の実写映画における相互凝視のショット/リバースショット比較
図2

凝視の危機のなかで、一枚の画面における運動の関係を不意に断ち切り、時間のない空中へ吊り下げる――高橋ナオヒトは、映像の重要な箇所でこのような手段を用いる。台詞のない短編の傑作『ああっ女神さまっ 小っちゃいって事は便利だねっ』(1998年)第28話の冒頭では、軒下にひとり座った少女がぼんやり雨を見つめ、高所にいる一羽のカラスと目を合わせる。前後二度反復されるのは、微動だにしない少女の落ち着いた視線である。機械仕掛けのように不自然に首を回し、突然、不吉な目で少女を見つめるカラスにも驚かされる。だが、それ以上に驚かされるのは、まったく驚かず、まるで予期していたかのような少女のほうだ。カラスが飛び去ると、彼女はむしろ引き留めるような表情を見せる。その後、彼女は雨の降る無人の町をさまよう。カメラは絶えず、彼女の無言の凝視を捉える。画面には荒廃の気配が満ちている。生気のない世界を暗くする雨、雨のなかで氾濫する河と、海の波の絶え間ない運動。まるでこの三つの音だけが、この世の空間を満たしているかのようである。実際、雨音から抜け出しているのは、カラスとカモメの羽ばたきだけだ。海岸で彼女は、地面に横たわる朽ちた木の幹と、誰かに捨てられた人形を見る。これらの死物を黙って見つめる彼女の視線も、前後二度反復される。先ほどと似たこの構造によって、私たちはカラスと死物を結びつけざるをえなくなる。やがて彼女は、地面に奇妙なほどじっとしているカモメの群れへ歩いていく。だがカモメたちは突然、羽ばたいて空へ飛び去る。同時に彼女は空へ手を伸ばす。しかし、彼女の眼に映る空の姿を、私たちは見ることができない――彼女はいったいどこへ行こうとしているのか。いや、答えはすでに明らかである。不吉なカラスは冥界へつながる装置であり、カモメもまた此岸と彼岸を往還する使者なのだと、私たちは徐々に理解していく。高橋が眼瞳の衝突をどのように扱っているかを慎重に考えるなら、冒頭のカラスは彼女を死へ誘っている。あるいは逆に言えば、彼女の落ち着いた視線こそ自殺者の視線なのだ。アニメーションのなかで何食わぬ顔をしてこのようなことをやってのける高橋ナオヒトに、私たちは戦慄せずにはいられない。終盤、風が彼女の差していた、この世で唯一鮮やかなものとも言える傘を吹き飛ばすと、カラスが再び現れる。彼女がカラスのいる方向へ確かな足取りでゆっくり歩いていく姿に、私たちの胸は沈む。だが、仲間たちが現れた一瞬だけ、世界は暖かく明るくなる。感動しながら私たちは、凝視という映像の宿命的な限界を孤独な死へと結びつける高橋ナオヒトが、なんと貴重な作家なのだろうと、心のなかで静かに思う。

II 触れられないものに触れることから、見えないものを見ることへ

アニメーションは肉を表現できない。骨から剥がれ落ちようとする一片の肉、頭蓋からえぐり出され、陰部へ押し込まれた眼球、精液と尿を同じように噴き出す陽具。言い換えれば、アニメーションは肉質の色彩を表現できない。アニメーションにおいて肉体の素材は、つねに構造をもった空間組織に覆われている。その名は線である。したがってアニメーションは、「人間と動物の共同領域」としての肉を、構造から本当に逸脱させることができない。肉そのものを呈示し、あらゆる距離を無効にして、触れられないものに触れる狂暴な空間のなかで肉を泳がせることもできず、ただ変形された構造的な猟奇へと変えるしかない。他方、神代辰巳は、大島渚『愛のコリーダ』(1976年)における殿山泰司の萎びた陽具のクローズアップが、あらゆる演技表現を超え、滑稽、恥知らず、悲哀などの総体としての人間存在を表したと考えていた、と言われている。それを踏まえるなら、アニメーションには陽具がない、としか言えない。

OVA『ステンレス・ナイト』(1995年)は、色を呑み込む線と、黒を主線とする線との交媾である。二種類の線が絡み合い、舐め合う。これは表層に属する線のエロティシズムである。衣服の襞と光と影、さらには身体の下に押しつぶされたシーツの細かな皺までが、身体との接触と連動によって、確かに身体の一部となる。あるいは逆に言えば、肉体を覆う線として、表層のテクスチャーとして、それらこそが根本的で色情的な存在なのである。肉体はつねに何かに覆われて初めて見ることができる。アニメーションで身体を語るとき、私たちはすでに一つの倒錯に直面している。暗示する覆いこそが根本にあるのだ。たとえば、髪の先端がどのように身体に沿って垂れ下がり、いくつの束に分かれるか。これは、表層のテクスチャーをあらゆる手段で用いて、ここに「ある」と暗示しようとする企てである。しかし逆に、私たちを本当に魅了するのは、目を欺く術として背後に別のものがあると暗示し、表象の背後に別の表象を与え、完全に露呈したテクスチャーそのものではないか。暗示された身体、背後にある「存在」は、しばしば退屈な記号へと変えられる。それに対して、テクスチャーは私たちに絶えず流動する経験を与える。この意味で、私たちは再び、貫通を禁じる表層へと到達する。おそらくこうした意識にもとづいているからこそ、高橋ナオヒトは、二つの、もっとも重要な性の場面の照明を、あれほど強烈なものにしたのだろう。光と影が身体のうえで震え、変化し続ける。これは変化を止めない光と影の調律であり、型にはめられることなく、運動と応答を保ち続ける。そして陽具は、私たちはそれを仮陽具と呼ぶしかないが、光の通る透明なものとなり、その内部を液体が湧き動く。私は本作とOVA『誘惑COUNT DOWN VOL.2 鏡~AKIRA~ ORIGINAL ANIMATION VIDEO』(1997年)の表現上の共通点を一つひとつ数え上げるつもりはない。ただ、仮陽具こそが、この二作をつなぐ最大の特徴なのである。

前述したように、アニメーションは、表層を覆う線の運動だけによって、肉の触覚へ入り込むことができない。他方、可視的な画面だけを見ても、セル画はあまりにも滑らかである。不純物をほとんど含まないこの清潔さのなかには、この純粋さ、あるいは幼稚さへの深い疑念が潜んでいる。それでは背景画はどうか。連続的に変化できないとも言える背景画を前に、カメラに残されている貧困な手段は、移動、拡大縮小、固定の三つだけである。この不自由さに対する痛切で残酷な自己尋問のなかで、高橋ナオヒトの『鏡』は、きわめて稀なかたちでアニメーションの頽廃を実践しており、したがってアニメーション史に名を刻み続けなければならない作品である。もし高橋が夢見た『哀しみのベラドンナ』(1973年)が、アニメーションを超えたアニメーションだったと言うなら、その意味で『鏡』はまったくアニメーションではない。前者は美術を担当した深井国が主導し、肉の問題をたやすく放棄し、線の多義性と自由が誘発するアニメーションの崩壊現象を楽天的に追いかけた。後者は、日常場面で非連続の疎外を示し、セル画の線をことごとく凝固させる自己禁止のなかで、線によって肉性の触覚を模倣するというアニメーションの虚構を暴露したからである。実際、物語もまた、触れられないことという禁忌を直接テーマにしている。この矛盾と正面から向き合ったとき、アニメーションは自らの存在を支える前提を失い、この頽廃のなかでアニメーション自身が崩壊する。日常場面における静止画の先取りや遅滞の操作と対照的に、官能的な触れ合いを示さなければならない性の場面でさえ、実際の交合部位を見ることはできない。陰部と陽具を模した画面の質感も、身体の触覚性からはほど遠い。第2話の終わりの性の場面では、身体さえ静止し、要というヒロインの下半身を舐めるのは光だけである。高橋は精液を描くこともない。いや、むしろ精液そのものが性交のなかに不在であることを暗示している。

背景に細密に配置された長い線が頻繁に現れるのは、ほとんど男主人公・雨夜鏡が姉と一緒にいるときだけだということが、容易に見て取れる。引っかき傷のような線が切り刻む質感、あるいは触覚は、鏡と姉が幼い頃から織り重ねてきた関係性を表象している。もっと単純に言えば、背景を埋め尽くす引っかき傷は、触れるという行為を姉が支配している二人の関係の表象なのである。第2話で姉が鏡の耳に穴を開け、みずからキスをする場面でも、第3話で姉が立ったまま、座っている鏡の頬を手のひらで触れる場面でも、背景は一瞬にして、細かな線が急激に増殖する空間へ変わるのではないか。本作は、雨夜鏡を線の触覚のなかに閉じ込め、肉へ到達できない絶頂=動物性の聖なる状態を、痛切なまでに描いている。都市風景のなかで身体接触に耽溺する人々を見ながら、鏡が口にする「つながっているのは、結局身体だけだ」という台詞は、線の身体の悲哀と頽廃を鋭く指摘している。鏡という名前そのもの、あるいは頻繁に現れる鏡は、外見のよく似た姉との鏡像回路に囚われ、虚像から視線を外して他者を見ることができない彼の状態を暗示するだけではない。鏡面の彼方に、絶対に触れられない深さとして存在する仮想空間をも、直接示している。この場所のない場所こそ、アニメーションが耐えられない禁忌の所在である。だから鏡が虚空へ伸ばす手は、鏡面の彼方にある充実に触れられない。彼が撫でる、かつて姉の身体を覆っていた制服は、それと対になる空虚なのである。

ただし、当時の規制のために、高橋ナオヒトは原作漫画における近親相姦の結末を実現できなかった4。触れられないものに触れるというテーマの一貫性を保つために必要だったはずの方策を、ここで想像してみよう。外見の似た姉弟は、線の身体から、盲目的に、濁りながら動物の肉へと堕ちなければならない。禁忌を侵犯する交媾のただなかで、聖なる暴力に触れる。それは、激しい苦痛の相互蹂躙、無限に浪費される熱狂的な自己犠牲と破壊、線の快楽を超える、目眩を起こさせる仮死と失神でしかありえない。仮陽具を捨てて現実の陽具を導入し、滑らかなセル画を捨てて、糞尿と精液を浴びた猥褻で腐敗した姉を見せたとしても、映像が観念を本当に超え、生き生きしたイメージで文学に近い領域の衝撃へ到達できるとは言いがたい。だから『鏡』における「触れられないものに触れること」から「見えないものを見ること」への主題の移行は、映像理論上の必然だったと言える。そこでは、現実の陽具から陽具の無化へ、動物の交媾運動から天使の交媾運動へ、動物の肉から天使の眼球へと、作品に内蔵された二重構造の必然性が反転するのである。

見ることと触れることという二重のテーマが共存していることは、第1話の冒頭を見るだけでわかる。町のいちばん高い場所にある教会で、クローズアップで、聖像のステンドグラスの光と影が鏡の眼瞳を覆う。彼は見上げるが、聖像は首を傾け、彼を見ない。聖像が見ている虚点を、彼は知ることができない。実際、すぐにわかるのは、聖像が彼の背後の地面に、もう一つの分身として現れ、彼を見ているということだ。この超現実的な視線は、私たちの見ることそのものの空虚と無力さ、あるいは、目の前の可視的な対象にしか向かえず、不可視なものへ開かれることのできない盲目を、生々しく示している。続いて彼は虚空へ手を伸ばし、「ひどく喉が渇く」と口にする。この、セル画のなかに生きることの貧困にかかわる告白は、アニメーション理論家や文化研究者たちが凝視すべき重要な瞬間である。高橋ナオヒトは、アニメーションの果てしない頽廃の底で、安濃高志と同じように執拗に、裂け目のなかに生まれるかもしれない第三の眼を手に入れようとする。それは、見えているものだけを見続けるのではない、ついには別のものを見る眼球である。このことを理解するなら、第1話と第3話の要所に置かれた鏡と要の相互凝視の反復されたショット/リバースショット(図3)を見落とすことはできない。この構造的反復によって、高橋は観客に、不可視の差異を見るよう呼びかけているのではないか。(a)—(c)が、無表情な鏡の表層の反復によって、彼が見てはいるが実際には「何も」見ていないことを示すのだとすれば、(α)—(γ)は逆に、彼は何も見ていないのに「何か」を見ていることを示す。これは眼球の自己侵犯であり、視覚の秩序は崩壊する。眼球は相手の存在そのものを直接経験でき、凝視だけで人を直接絶頂へ導くこともできる。第三の眼とは、経験する眼である。実は私たちはそれ以前から、このことに気づいていた。要は教会前で、女装し髪を振り乱した鏡をすぐに見分ける。鏡の女装姿の視覚的イメージは、最後まで彼女によって問題として提起されることがない。さらに突き詰めて考えれば、アニメーションのなかで一瞬だけ身体から離れ、機能的構造に従属しなくなる眼を持つのは、彼女と鏡の二人だけである。彼女の元恋人は、そもそも眼さえ持たず、それとちょうど対照をなしている。

『誘惑COUNT DOWN VOL.2 鏡~AKIRA~ ORIGINAL ANIMATION VIDEO』(原文表記『今、そこにいる僕』)における鏡と要の相互凝視のショット連鎖
図3

鏡の寝室の机には姉の写真が一枚置かれ、要の机には一枚の絵がある。その絵のなかでは、互いに鏡像となった二人の天使(あるいは天使とその鏡像)が、今にもキスをしそうに見つめ合っている。ここでのモチーフは、もはや近親者の表面的な類似ではなく、内在する本質の同一性である。眼球は表面を突破し、内面の領域を侵犯し、自分と対象を区別しなくなる。ここに性器の侵略と被侵略が、どこにあるというのか。陽具の痕跡がどこに残っているのか、私たちはもはや判別しがたい。しかも鏡は最後まで女装を解かず、スカートが終始彼の陽具を覆っている。これは陽具の徹底した無化だと言うしかない。二人の女性が抱き合っているように見える以上、そこにあるのは通常の意味での性交ではなく、「無性‐交」なのである。人間より高等な生物である天使の本体は、実は幾何学的にもっとも完全な器官、すなわち眼球を中心に成長する球体だと言われている5。ならば天使の交媾運動は、動物の性交における機械的な抜き差しなどではなく、惑星の循環のような回転である。このような色情的な倒錯によって、高橋は作画上の機械的で退屈な往復反復をすべて排し、鏡と要を互いの周囲で旋回させ、また自転させる。そしてこの無性の回転のなかで、鏡は初めて絶頂を得る。ただし、眼さえ持たない私たちにとって、この天使の交媾は、私たちの虚像を映し出すガラス戸の彼方から、聖夜の雪のように降りてくる奇跡にすぎない。それはただちに、線でできた私たちの掌のなかで溶けてしまう。夢から醒める瞬間にこぼれ落ちる、寂寥の涙のように。したがって実写と同じく、眼がない以上、誰も「良いアニメーション」を必要としない。悪いアニメーションを前に眉をひそめても無駄である。ただ、線の身体から逃れるために、私たちは、本来崩壊すべきこの崩壊のなかで生きなければならない。

参考文献

  1. 角井誠「リアリズムから遠く離れて:アンドレ・バザンのアニメーション論」、『アンドレ・バザン研究』(5)、2021。

  2. Gilles Deleuze, Francis Bacon: The Logic of Sensation, 1981。

  3. 蓮實重彦『見るレッスン 映画史特別講義』、光文社新書、2020。

  4. Gilles Deleuze, Cinema 2: The Time-Image, 1985。

  5. Roland Barthes, Camera Lucida: Reflections on Photography, 1980。

  6. 蓮實重彦『ショットとは何か』、講談社、2022。

  7. 蓮實重彦『映画狂人、小津の余白に』、河出書房新社、2001。

  8. 『ユリイカ 2017年10月臨時増刊号 総特集=蓮實重彥』、青土社。

  9. 蓮實重彦『蓮實重彦の映画の神話学』、泰流社、1979。

  10. 蓮實重彦『シネマの記憶装置』新装版、フィルムアート社、1997。

  11. Georges Bataille, Story of the Eye, 1928。

  12. 『映画監督 神代辰巳』、国書刊行会、2019。

  13. 蓮實重彦『監督 小津安二郎』増補版、筑摩書房、2003。

  14. Georges Bataille, Erotism: Death and Sensuality, 1957。

本文終わり
注05

注釈

  1. 押井守『Methods 押井守「パトレイバー2」演出ノート』、角川書店、1994年。 ↑

  2. 魯迅「野草・題辞」(1927年)。 ↑

  3. 「この人に話を聞きたい 第四十二回 高橋ナオヒト 聞き手 小黒祐一郎」、『アニメージュ』2002年4月号。 ↑

  4. 『アニメムック 誘惑COUNT DOWN VOL.2 鏡~AKIRA~ ORIGINAL ANIMATION VIDEO』、1998年。 ↑

  5. Gustav Fechner, Vergleichende Anatomie der Engel(英訳題 The Comparative Anatomy of Angels), 1825. ↑

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