本稿は、屋頂現視研「拾荒戦略 Rags Drum 2022」の前夜祭・後夜祭受賞作である。
リアリズムから遠く離れよ! 個人の手仕事としてのアニメーションに注目しつづけたアンドレ・バザンは、アニメーションにそう警告した。アニメーションはアニメーターの手によって自らを発明しなければならない。従来の概念と技法からたえず離脱し、新しく多様な特異性によって自らを際立たせなければならない。では、この教えとは反対に、つねに擬似リアリズムの磁場をめぐって回転してきたとも言える、日本アニメという巨大な商業的技術装置をどう考えればよいのか。バザンの言うとおり、ほとんど常に具象的・物語的・図解的であるアニメーションの擬似リアリズムが要求する技術装置が、アニメーションに本来開かれていた広大な視野を拘束し、思考の囲いとなったのだとすれば、日本のテレビアニメやOVAを見ているとき、「これはアニメなのだ」という安堵が一瞬で打ち砕かれる、あの狼狽と驚異にどう向き合えばよいのか。過去に起きたからといって過ぎ去ることなく、「現在」の経験として存在する驚異をいかに見いだし、直視するか。それが本稿の試みである。
一 安濃高志、そして時間を悼むこと
I 『魔法のスター マジカルエミ 蝉時雨』
大柄で恰幅のよい小金井が階段を駆け下り、部下の国分寺に企画書の件を問いただす。だが小金井の記憶は明らかに混乱している。つい先ほど、自分で企画書を突き返し、国分寺に書き直せと命じたばかりだからだ。それに気づいた彼は背を向け、童歌めいた記憶の呪文を唱えはじめる。夏には重苦しく見える服のポケットを太い手で探り、持ち物と用事の一覧を確かめていく。ところが何かがふと頭をよぎったらしく、急いで戻って国分寺を大声で呼ぶものの、何を求めていたのか口にできない。「何もない? 何もない……」と、彼は背を向け、いぶかしげに呟く。目立たず、平凡で退屈とさえ言えるこの挿話は、些細な出来事の積み重ねからなる『魔法のスター マジカルエミ 蝉時雨』(1986年、以下『蝉時雨』)のなかで、かえって人目を引く。『蝉時雨』では、遅延と逡巡が感覚=運動回路を崩壊させる。それは誰の目にも明らかな特徴だ。登場人物の放心は、しばしば変化の予兆、すなわち未来から届く告知として読まれる。だがこの場面では、小金井はむしろ過去に弄ばれ、何度も揺れ戻る。表面だけを見れば、これは記憶のもつれ、想起の失敗に近い。既視感のように――「思い出せないが、どこかにあったはずだ……」。
舞がエミに変身する魔法を返す『魔法のスター マジカルエミ』テレビシリーズの結末より前、舞と周囲の人々の夏の数日を描いたOVA『蝉時雨』は、舞と妖精トポの別れが近いことを示す徴を繰り返し描く。これが物語の内容であることを疑う者はいないだろう。母に頼まれて品物を届けに出た舞から、安濃高志は象徴と暗示に富むシークエンスを始める。巨大で白くかすんだ町を横切る舞の小さな姿を、主としてロングショットで捉え、その映像を、同じ町にいる人々の並行する生活の断片へ、針で糸を通すように散漫に差し挟んでいく。舞が時間の町を横切るのだとすれば、人々の生活は、有機的な全体を構成しうるかたちで時間のなかに散らばっているように見える。あるいは、これは記憶の町であり、映像の散漫な配置は記憶の雑然とした現れで、舞もまた町=鏡の記録のうちにいる……。こうした空想はいったん止め、もっと安全な仕方で素朴な記述へ戻ろう。帽子をかぶり、小さなワンピースに着替えた舞が品物を届けて帰る道程(図1(a)―(d))では、背景画が反復利用される。そして同じ場所をめぐり、出発点へ戻ったそのとき(図1(d))、思いもよらないことに、タイトルが現れて以来ずっと禁じられていた音楽が流れはじめる。すでに何度となく歩いた町の道で、舞はふいに迷う(図1(e))。

こうして舞の歩みは、機能を失った彷徨となる。日常にはなかった脇道へ迷い込み、夏の尽きない蝉声が耳を満たす、人気のない秘境へ入ったとも言える。ほどけないあやとりを結びながら、彼女は折れた警戒標識を通り過ぎる(図1(f))。やがて壁と「行き止まり」の文字が現れ、脇道は尽き、旋律も止む(図1(g))。道が終わる、この決定的に象徴的な瞬間に、なぜ小金井はまた、記憶を呼び起こすあの奇妙な呪文を唱えはじめるのか。映像を隣り合わせた配置が生む曖昧なずれ、ほの暗い解釈可能性が私たちを捉える。安濃が暗示するように、画面の継起を一種の同時性として捉えてみよう。舞がただ笑い、歌を口ずさみ、拍子を取りながら去り、標識のカーブミラーに映る後ろ姿が遠ざかっていく、その同じとき。呪文を唱えながら書類を片づける小金井は、いましがた脇に置いたコップを割る。コップは落ちる。砕ける。破片がゆっくりと花開く。
小金井はしゃがみ、破片を一つずつ拾って掌に載せる。根本的に異様なその動作に目を引かれ、ほどなくして、彼が破片を机の上へ丁寧に積んだことに気づく。窓の外では、もう雨が降っている。空間としての雨が町全体を、人々の暮らしを貫いていく。小金井の場面の直後、安濃は雨を映した無人のショットをいくつも連ねる(図1(h)―(k))。それは先ほどの舞の道順(図1(c)―(f))を反転し、同時に降る雨を継起する画面へ分解する。夕立は舞の道を引き返し、町を抜け、彼女が木の下で雨宿りする公園へ至る。舞は将から、小さく光る貝殻の飾りを贈られる。手のなかの貝殻越しに、地面へ描いたばかりのエミの絵を、雨が少しずつ洗い流していることにふと気づく。次の瞬間、光る風のなかで雨は上がり、空が晴れる。これは明らかに神秘主義的な啓示である。
舞は雨のあと急に騒がしくなった世界を呆然と見つめ、立ち止まる。だが遠く、町の空に虹を見つけると、思わず数歩駆け出し、トポを後ろに残す。ここで私たちはタイトル画面を思い出す。地面のホースから何気なく噴き出す小さな虹。安濃が、象徴体系を細やかに配列し構成することをどれほど好む作家か、感嘆するほかない。彼は、修飾語のように見える映像の成分に、もっと根源的な地位を与えようとする。舞が木の上でじっと伏せるトポを呼ぶと、蝉の声がふいに立ち上がる。先ほどまでとは違い、まばらで少し寂しく、夏の終わりを告げるかのような声だ。私たちの座標をトポと重ねるように、正面からカメラを向いた舞が、空の虹を興奮して指差す。風が銀杏の葉と、柵に宿った虹色の雫を揺らす。水滴が落ちる。地上には消えた絵と、乾ききらない水跡がある。「安濃高志演出拾遺――日常の超越性」は、この瞬間を見事に論じている。「このとき、どれほど鈍い観客もトポと同じように、聴覚、視覚、触覚を研ぎ澄まされる。体感時間は無限に引き延ばされ、周囲のあらゆる動きが鮮明になる……」。長くつづく蝉声のなか、舞は前方にいる。トポと私たちは、なおもその瞬間の微細な変化がもたらす一つ一つの刺激に浸り、しばらく彼女の声さえ聞き取れない。ようやく、舞が私たちに叫ぶのを聞く――「早くしないと、置いてっちゃうよ!」
この言葉の意外さが、私たちの心を強く捉える。言い終えた舞は静止し、ゆっくりと消え、夜景へ溶け合う。一見脈絡なく形象を重ねているようで、実はアニメ全体の構築を精密に導いてきた主題が、あからさまに姿を現し、率直に胸を揺さぶる瞬間である。聖アウグスティヌスは、未来の現在、現在の現在、過去の現在という三つの現在を考えたという。それは「起ころうとしていること」「起きつつあること」「起きてしまったこと」の同時的な存在だ。ならば一つの現在において、舞は未来の「起ころうとしていること」へ向かい、小金井は過去の「起きてしまったこと」へ沈み、トポと私たちは両者の無限小の亀裂にある現在の現在――画面が投映し、書き記す「起きつつあること」――に位置する。私たちは出来事と変化に追いつけそうで追いつけない。あるいは追いつけないまま、あと少しで追いつく。だがトポの消失/置き去りは明らかに物語の終わりであり、物語の終わりは私たちの終わりである。私たちもいつか置き去りにされ、記憶へ、あの古い現在へ投げ返される。
こうして『蝉時雨』では、「起ころうとしていること」/予兆と、「起きてしまったこと」/既視感が、対をなして何度も構図化される。舞の彷徨における彼女と小金井の隣接配置は言うまでもない。小金井が国分寺を呼び止め、何か言おうとしながら記憶をわずかに混乱させた直後には、舞が変身したエミがふいに立ち止まり、振り返って遠い夏空を見つめるショットがいくつもつづく。タイトル画面より前、皆でエミのマジックショーを見る場面では、祖父はエミ人形のオルゴールを作る着想を得る。だが同時にショーから衝撃を受け、白昼夢のように呟く小金井が何を言ったのか、私たちは正確には知りえない。彼は不安定で秩序を欠いた記憶からなる錯綜した夢のなかにいるかのようで、自分を現実へ戻す想起の閉回路を作れない。また別の場面では、舞が誤ってあやとりの紐を切るのを見た小金井が、目を見開いて動かなくなる。断裂の形象が視界全体を満たしたかのようだ。ここでも予兆と既視感の一対が反復される。切れた紐を予兆へつなぎながら、同時に既視感へも結ぶ媒介とは何か。私たちは胸のうちで、ただ静かに答える――死である。
オルゴールの温かく、わずかに物悲しいオープニング曲の旋律が流れつづける。小金井は広い掌を差し出し、舞の線香花火から暗い虚空へ落ち、消えようとする火花を一滴受け止める。皆は火傷を心配して部屋から出ていく。カメラと私たちは、空になった室内へ留まる/置き去りにされる。エミ人形のオルゴールだけが、単調な動きを繰り返し、やがて止まる。希薄すぎて息が詰まるほどの残酷さに耐えながら、私たちはエミ人形が一枚の写真へ変わるのを見る。時間は凝固し、よどんで流れない。私たちはその場に釘づけとなり、身動きできない。成長した舞がめくるアルバムには、累々たる死体が並んでいる。いずれ置き去りにされるとすでに理解していても、その確信のあとでなお驚かされるのは、安濃が成長した舞を覗き見ることさえ私たちに禁じる点だ。彼女が憧れたアイドルになったのか、私たちには分からない。顔全体を見ることも、一言の声を聞くこともできない。部屋は暗い。彼女はほとんど動かず、そこに静かにいる。重く鈍い焦燥が、胸の内側を掻きむしる。
冒頭と末尾のアルバムが舞の記憶を呼び起こし、全篇の過去は彼女の主観的回想として存在する――この広く流布した凡庸な見方には、すぐさま反対しなければならない。夏の数日には、舞が経験していない他者の生活も含まれるという明白な事実だけが理由ではない。この見方は、安濃作品における写真というモチーフの奥行きを取り逃がす。写真は記憶を呼び起こすのではなく、記憶を破壊する。私たち自身が写真を見る経験と同じように、像は巨大で強制的な姿勢で記憶を塞ぎ、その写真が撮られた前後を思い出せなくする。この経験を、現在に生き生きと流れる具体的な記憶へ変換することはできない。だから写真の経験に真に似るのは、小金井が記憶の閉回路を作ることに失敗すること、そして既視感としてしか存在できない不明瞭さである。冷たく硬い破片が手のなかにあり、掌のかすかな灼ける痛みさえ、遠い喪失感をもたらす。その触覚は、古びてぼやけた写真を見る残酷な経験に似ている。
このようにして、安濃のモチーフが、彼の監督した『ヨコハマ買い出し紀行』(1998年)へどう継承されたかが見えてくる。原作に忠実なアニメ化でありながら、題材選択の一貫性には驚かされる。第1話で、写真を撮ろうとするアルファは、目の前の海上を過ぎていく夕景を一枚の孤立した写真に切り取れず、帰宅後、風景が変わった瞬間を黙って思い返すしかない。では、写真の経験はどこにあるのか。第2話でアルファは夜、水没した町でなお動きつづける巨大で煌びやかな電力系統を眺め、廃墟への空虚で豊かな愛のために涙を流す。押井守によれば、廃墟にも三つの時間が流れる。「かくあったという過去」「いまこのようにある現在」「やがてこうなるであろう未来」である。1 かつての輝きはもうない。だが、それが実在したことを私たちは確信している。この無力なずれのなかで、過ぎ去ったものの虚像を抱きしめながら、取り逃がす。これは愛の無能である。向こうでは電力系統の光が機能を失っている。しかし純粋な物質として、暗夜のなかで互いに戯れる。この物質の戯れは、アニメーションという媒体によってようやく表現される。それに対応して、かつて人が放った光が、いかに銀塩のネガフィルムへ物質として刻まれ、長い年月を経て、いま私たちの瞳へ映り込むのかを、私たちはただちに理解する。写真のなかの人は、かつて存在した。いまはもう死んでいる。――私たちも、いつか死ぬ。
II 『めぞん一刻』第27話
あるアニメ作家の回想。――「黙っているとき、私は充実している。口を開こうとして、同時に空虚を感じる」。白紙を見つめ、そこに孕まれた混沌の豊かさのために、私は充実する。だが筆を下ろした瞬間、その豊かさは、物語の機能を担う単調な具象へ崩れ落ちる。自分の意図の卑俗さに驚き、恥じる。完成しても、それは絵画ですらない。物語の体系へ回収される記号にすぎない。記号たちは恥じらいもなく押し合い、自己をさらし、騒ぎ立て、白紙がかつて持っていた充実の沈黙をすっかり失う。そこで私は、紙面に豊かな表象を精密に築き、浅薄な映射関係をさまざまに避けるほかない。それでも、心血を注いで作った自由奔放に見える記号は、なお「物語」という中心化の磁場へ繋がれている。奥行きのある世界で自由に戯れ、意味を無限に増殖させることはできない。物語の巧みな人間に頭を下げるか、青白く空洞な具象の背後へ、事前に反省した思想を詰め込むかしかない(充実した具象はつねに空虚な具象である)。そして、この物語と思想はアニメでしか表現できないのだと装う。私は文化研究者の掌中へしっかり捉えられる。
安濃は、それほど才能豊かな作家ではない。ただ自分の青写真に従い、一見すると無益なまま、青白い具象を繰り返し羅列する。『蝉時雨』を安濃的と呼ぶのは、ほかのアニメより無人のショットや長めのショットが多く、劇伴を避け、人物描写を丁寧に検討したからなのか……。いや、これらの特徴を組み合わせても、安濃作品にはならない。本当に指摘すべき理由は、反復される羅列のうちに、作品のすべての要素がいつの間にか一つの拮抗する構造へ自発的に集中し、物語と響き合う別の顔を現すことにある。そこでは、空虚と充実が一瞬で反転する。作品は前に述べた亀裂を作り出す。その見えない白い亀裂こそ、充実した亀裂である。むしろ見えない余白が、その周囲の具象に真の強度を与える。この構造こそが、最も広大で語り尽くせず、それゆえ沈黙する領土、時間を表現する。
長期にわたったテレビアニメ『めぞん一刻』の制作では、珍しく二度の路線変更が行われた。最初は第27話(1986年)の主要スタッフ交代である。この回から安濃高志が監督を務め、彼が自ら絵コンテを切ったのもこの一回だけだった。ここからシリーズ構成は伊藤和典、キャラクターデザインは高田明美へ交代し、色彩設計の保田道世と音楽の川井憲次が加わった。本作の作画監督の一人、高橋ナオヒトは、ヒロインの音無響子が好きなあまり、音無竜之介という筆名を名乗った。高橋は、最初の路線変更ではキャラクターデザインまで変わり、制作現場も非常に混乱していたが、その変更を通じて各スタッフが日常芝居を魅力的に見せる方法をつかんだのだと思う、と振り返っている。2 実際、第27話には深刻とさえ言える制作上のミスがいくつかある。それでも詳しく論じるのは、この回がこれほど強く安濃的な姿勢を呈示し、これほど見事なアニメーションの経験を私たちに与えるからだ。
オープニングの後、最初の画面の手前には、枝に実ったふっくらと重そうな柿がある。同時に遠い空で、滑るように上方へ伸びていく飛行機雲をはっきりと追う。静かに流れる時間のなかで、静止して安定へ向かう力と、緩やかに流れる力が交錯する。両者の強弱と緊張関係から、「何かが起こりそうなのに、実は何も起こらない」と「表面上は何も変わっていないのに、何かが密かに変わった」という二つの予感が同居する。この力の拮抗構造こそが、物語の進行と日常の果てしない円運動を支配する。
季節の変化を示す機能として、この組み合わせは『蝉時雨』の雛形と呼ばれる『魔法のスター マジカルエミ』テレビ第22話(1985年)にも現れる。安濃は修飾語のような小さな挿話を配す。ユキ子が野菜を洗う流水に手を浸し、その冷たさに驚く。そして窓の外で柿が実ったことに気づき、画面は斜め上へ伸びる飛行機雲にディゾルブする……。秋の柿はこの回の冒頭から、物語と回想の枠組みを規定する。現場の引き継ぎの混乱と制作時間の切迫をよそに、安濃は20数分のあいだ、風景の細部として形を変えた柿を八回も繰り返す。『マジカルエミ』で季節の断片がユキ子と直接ぶつかり、彼女に衝撃を与えたのとは異なり、この回の柿は物語の外側から傍観する。自分がここにあるという素朴でありながら奇異な事実だけを、私たちへ宣言する。
坂道の傍らで軽い風に揺れる花を映した後、響子と、亡夫惣一郎の姪・郁子が、遠くから話しながら私たちの方へ歩いてくる。原作漫画のように、亡夫をまだ思い出すけれど、最近はもうそれほどつらくも悲しくもないと直截に言うことはない。郁子が家に帰っておじいちゃんと食事すると聞いたとき、タイミングのよいクローズアップで、響子はかすかに考え込む。漫画では郁子が、なぜ犬に惣一郎と同じ名をつけたのかと聞き、彼女の回想を促す。アニメでは、響子はただ笑い、惣一郎という名を呼び、犬とじゃれる郁子へ走り寄る。抒情的な旋律とともに、画面は夕日に赤く染まった、私たちの知らない回想の町へ切り替わる。
その直後、突如現れる短いクローズアップが胸を衝く。まだ未来に何が起こるか知らない、短髪の響子がふと何かに気づく。我を失ったように、手の買い物メモを読む。「ピーマン、豚肉のかたまり……まだ何か忘れたような……」。買い物を終え、帰って食事を作る途中なのだ。安濃の手つきを強く思わせる、突然の記憶の錯誤のなかで、彼女は、背後に巨大な夕日を受け、高い坂道を登る人と犬のシルエットを見る。惣一郎の名を小さく口にし、安堵した、私たちが羨むほどの微笑を浮かべる。そして惣一郎を呼びながら彼らへ走る。人と犬は圧倒的な予兆を湛えて、同時に振り返る。決定的な一瞬、夕日の残照に逆光で黒く塗りつぶされた人と犬の振り返りが静止し、「消えた惣一郎!? 思い出は焼鳥の香り」というタイトルが現れる。
「消えた惣一郎」は、人と犬の同名を利用した洒落である。「ふりむいた惣一郎」という原作のタイトルが振り返りの偶然を強調するのに対し、アニメのタイトルは、響子がもう以前ほど苦しく悲しくはないという、忘却を象徴する削除された台詞、そして記憶の曖昧さと恍惚を暗示するような、夕日の下で黒く潰されたこの瞬間の画面と、さらに深く結びつく。画面が私たちを引きつけるもう一つの理由は、遠望的な効果を持つ巨大な夕日だろう。回想のなかで、それは空を赤く染め、町を最後の輝きで満たす。ここで私たちは拡大装置としてのアニメーションに出会う。距離を無限に圧縮し、近きものは大きく、遠きものは小さくなる法則を抑制する世界。構成要素は一点に集中せず、周縁へ拡散し、逸脱する。響子の後ろの家々の、互いに交わらないように見える平行線は空中へ放射している。遠望的な感覚を与える町は、それをとうに告げていないか。遠いものを拡大し、人物に密着させ、人物の周囲にそびえ、歴史的な時間と集合的記憶を蓄えた豊かな町を作る。すぐに『ヨコハマ買い出し紀行』の海底に沈む街灯と、四方八方へ伸びる電力系統が思い出される。どれほど遠くても、それらは同じ一つの平面を共有する。アニメーションの平面で透過光が物質として流れ、広がり、交錯して戯れる。改めて、これがどれほど安濃の世界に適合するか、感嘆するほかない。
実際、巨大な夕日も、坂道の人物の後ろにある遠い町も、過去と現在を貫いて反復される。『蝉時雨』で川の水音が時間を貫き、現在までつづくように。『蝉時雨』の冒頭で、私たちはすでに音の拡大装置に出会っている。窓の外、見えない向こう側で、川が静かに轟くのを鮮明に聞く。風鈴が鳴り、近くで舞がアルバムをめくる。遠くで子どもが遊び、電車が通り過ぎる……。安濃は多層的な音から音響の奥行きを構築する。人々の生活を育み、時間と記憶を蓄えた川の轟きは、画面の後ろで拡大し、満ち、広がっていく。では、匂いを拡大する装置はあるのか。そもそもアニメーションに匂いを撮り込むことはできない。しかし「思い出は焼鳥の香り」というタイトルは、物語を通す一本の線を結びつける。犬は散らばった物から、揮発し拡散する匂いを繰り返し探す。鋭い嗅覚で、下駄から死者の匂いを識別する。その意味で、人間にとって未知で壊れやすい匂いの細部と輪郭を拡大する。夕日の下、犬は焼鳥の香りを追って響子の家へ来た。そしてある日、かつてと同じ、遠い時間を貫く焼鳥の香りを嗅ぎ、去っていく。最後に、同じように空が赤く染まる黄昏時、五代が見つける……。五代は過去の匂いを追って「消えた惣一郎」を見つけた。これが隠喩であることは疑いない。五代が、響子の亡夫への思いの重さ――あるいは死者の重さ――を引き受けることを、すでに予示している。こうして、この回の結末をめぐる構造のすべての構成要素が、配置された。
これらの作品を細かく見れば、安濃の町がつねに秘密の儀式を行っていることに気づく。場所は機能空間から儀式空間へ転じる。『蝉時雨』では舞が歩くうちに行き止まりと出会う。『ヨコハマ買い出し紀行』ではアルファが、ただ光るために一灯ずつ点く街灯を遠望する。町は、ほかの誰にも知られない小さな奇跡を密かに準備する。すでに『魔法のスター マジカルエミ』第22話の終盤、マジックに失敗して家を出た進は、公園の高台(『蝉時雨』の公園も高台にある)から遠い町の灯を眺める。ふと、それまでずっと忘れていた童歌の後半を思い出す。飛行の魔法を演じるように、ブランコから跳び立つ。俯瞰された町はしだいに大きくなり、一瞬、彼との距離を縮めたように見える。
『めぞん一刻』第27話の結尾で、町の儀式/奇跡は「残酷と地続きの甘美な経験」を私たちに与える。ここで安濃は、作家生涯の頂へ至ったと言ってよい。軽風に揺れる花を、ゆっくり右へトラッキングする。響子が遠く坂道の下から現れ、背後には夜のとばりの下りた町と家々の灯がある。横からのショットに遠方の夕日を浴びた家々が映る。すると響子は、背後に巨大な夕日を受け、坂道の上を登る人と犬のシルエットを見つける。それは明らかに五代と惣一郎の姿だ。彼女が惣一郎と呼ぶ。夕日の残照に逆光で黒く塗りつぶされた人と犬が、同時に振り返る。二人は動かず、写真のように静止する。
ふいに強風が吹きすさぶ。先ほどとは反対に、左へトラッキングするショットで、花は左へ傾く。響子の長い髪と裾も左へ吹き上がる。彼女の背後、遠い町に突然、左へ進む電車が現れる……。それでも不十分なら、過度に偶然な像を驚きの目で見る響子の瞳のクローズアップも、左へ移動する。回想のなかで、死者の匂いを探す犬に「惣一郎さんはもういないのよ」と語るとき、瞳のクローズアップが右へ移動したのを思い出さずにはいられない。この運動方向の反転は、黄昏のすべてが、響子にとって死者復活の儀式であることを、どうしても意識させる。
回想から抜き出した写真のように静止する、黒く潰された人と犬。その圧倒的な既視感が、響子に千万に一つの望みを抱かせる。これはさきほど述べた写真体験と矛盾するように見える。写真が町の儀式に召喚され、現実によって復元される。絶対に失われた過去が、時空の幾重もの障害を突破し、信じ難い仕方で現在へ到来する。長い注視のあいだ、電車が過ぎるガタンゴトンという音と、遠くから近くへ一灯ずつ点く街灯が、夕闇の静寂のなかで心臓の規則的な鼓動となる。実は原作では、この息の詰まる儀式は、心音の擬音一コマにすぎない。五代が惣一郎に変わるとは思わない。それでもここでは、誰もが息を潜め、流れた時間の最深部へ沈殿した言葉が噴き出すのを待つしかない。
ついに街灯が響子と坂道の花を照らす。強風に髪が舞い、驚いた彼女の横顔はみごとである。今度呼ぶのは犬ではなく、人間であると私たちには分かっている。惣一郎という名はすでに身体から迸り出そうだ。しかし決定的な瞬間、声は口元で凝る。広がってきた街灯の光が五代の顔を照らし、私たちはやっと理解する。これは死者復活の儀式などではなく、一枚の写真の残酷な現像だったのだ。ここに惣一郎の顔が映ることは決してない。余分な望みはひとかけらもありえない。あのときの容貌は、遠すぎて永遠に失われ、もう取り戻せない。現像の外傷性とは、それが自らを変えられないことにある。現像の瞬間は、すべての可能性と永久にすれ違うことを意味する。アニメに内在する非現実性と非連続性は、五代が長く立ち尽くすことを自然化する。街灯が五代を現像するそのとき、安濃高志は原作者・高橋留美子の意図と想像を超える。
現像は同一の反復を強調し、同一の反復は他者の死/葬送を指し示す。灯が点く前と後、生者と死者の拮抗のなかで、再び無限小の亀裂に出会う。それは空虚と充実を一瞬で覆し、絶対的な外傷性でこの一話全体を統べる。無力な崩壊感が響子の身体を支配し、しばらく彼女は身動きできない。そこ以外にはありえないタイミングで、「Alone Again (Naturally)」という曲がふさわしく流れはじめる。
Alone Again、ふたたびひとり。失って取り戻した(?)響子を見つめる五代と、その背後の夕日が、優しく寂しげに、夜空から注ぐ銀河へディゾルブする。流れに沿ってカメラが下り、一刻館の時計へ至る。記憶が蘇る黄昏が終わり、窓の外、深い青の夜の向こうに、町に走る傷口のような、燦然とした川の静かな奔流を見る。そして柿がまた現れる。回想を規定する季節の枠のなかで、風景の細部として始まった柿は反復されつづけ、最後にまた、この物質へ帰ってくる。最初からやり直し、出発点へ戻る。回想との関係は言葉にできず、どの接続も見えない。ただ不思議なほど静かに、そこにある。構図全体の外に超然としてあり、さまざまな構図を通じて遍在する。自己反復する柿は、この失って取り戻す円運動の物語が、発生したのかしなかったのか(潜在性)、不変だったのか変化したのか(流動)を、観客に問いかけるようだ。
俯瞰しながらゆっくり回転するショットで、町の無数の灯火と比べれば、一刻館の温かな光の雫は微弱である。そしてこの物語も、無数の小さな物語の一つにすぎない。歌の最後は編集によって分けられる。一句の「Alone again, naturally」が一刻館二階の五代へ、もう一句の「Alone again, naturally」が階下の響子へ与えられる。犬(?)へ惣一郎と小さく呼びかけ、響子の顔にまたかすかな微笑が浮かぶ。こうして柿と飛行機雲から始まった一話が終わる。しかしその物語へ応えるように、エンディングの最後、銀河の降り注ぐ下を五代が歩く。惣一郎という犬が道端からふいに現れ、彼と連れ立つ。果てのない夜色のなかで、一人と一匹は見つめ合い、遠ざかっていく。
二 高橋ナオヒト、そして瞳を見つめること
I 貫入を禁じる表層
暗夜に浮かぶ無数の光点は傷口を成し、川に沿って町全体を貫き、優しく、残酷に存在しつづける。その存在は、長い静止によって保たれた、死者に似た振り返りの同一的反復を通じ、深青の町の夜へ裂かれ、露わになる。時間への哀悼としてのこの傷口が、『蝉時雨』ですでに示されていなかったとは言えない。三つの同時的な現在の分裂を構造的に反復することで、舞のアイドルとしての身分がまだ死んでいなくても、傷口は作品のうちにとうに存在していた。高橋ナオヒトにおいて、この根本的な側面は、画面という名の表層の純粋反復へと退化する。
『フィギュア17 つばさ&ヒカル』第12話「思い出はのこりますか」(2002年)では、北国の空が何も見せない、その希薄さと空虚さに心を動かされずにはいられない。双子の姉妹のようにいつもつばさと離れなかったヒカルは、やがて別れねばならないと知り、ときおり彼女を避けはじめる。つばさが雪原にひとり立つと、横へ移動するローアングル・ショットのなか、小林七郎を思わせる鋭い枝が、墨を紙へ滲ませたように輪郭を失った空を囲んでいる。
つづいて少年は、バス停でひとり待つ少女を見つける。二人は並んで立ち、視線を交わさない。「今日はちょっと用事があるから、バスで」と、小学生には少し大げさな言葉で弁明する。少年は、うつむいて沈み込む少女を見て、すぐに顔をそむける。画面が、先ほどとほとんど同じ、枝に囲まれた空へ戻ると、抒情的な旋律が流れはじめる。だが今度は横へ移動せず、その空に吸い寄せられるように、何もない空虚へ拡大していく。黙って立ちながら、二人は遠い林を吹き抜ける風をともに聞く。帽子には、空から絶えず落ちる雪が積もる。先に待っていた少女の帽子とマフラーには、少年より厚く雪が積もっている。
やがてタイヤが氷雪を踏む鋭い音とともにバスが着き、二人は一緒に最後列へ座る。遠い雪国の山々がゆっくり滑っていく。バスのなかでも、窓越しに仰ぎ見た果てしない空が映る。「東京に帰るんだってね」。また少年が先に沈黙を破る。そこで初めて、二人が短いあいだ共有する同じ時空、この雪国の重い空と風景に、別れの儀式性がすでに密かに含まれていたと気づく。少年は話しながら少女を見ない。少女が横を向いて彼を見る。だが話し終えた少年が彼女を見るより早く、少女はもううつむいている。
二人の視線を絶えずすれ違わせる配置が、会話へきわめて自然に差し込まれる。高橋が会話劇を撮れる監督であることに感嘆せずにはいられない。人物の位置を適切に扱い、視線の関係と移る時機を正確かつ緊密に組み立て、身体と頭部の向き、回転へ繊細な注意を払う。そのため視線の物語的な経済性と有効性を存分に利用できる。少年が少し腰を浮かせ、降車ボタンを押して出ていこうとするまで、二人の目はほとんど合わない。そのとき初めて、ワイド・ショットに捉えられた二人が、密かに互いを見たように見える。
バスでの会話では、窓越しに仰いだ空が三度反復され、何も見えない空虚によって二人の断続する沈黙を満たす。高橋のこの消極的で受動的な、いわば負の表現は、確かに希薄な表層の反復を特徴づける。だが、これがすべてだと考えれば大きな誤りである。彼の反復は、むしろもっと理不尽なものだとすぐに分かる。
同じ話の終盤、林にいるヒカルとつばさは、数片の細雪が舞い落ちることへふいに気づく。穏やかな音楽が弱まり、風の叫びだけが残る。二人が立ち上がって空を仰ぐと、下へ縦パンする画面に、枝に囲まれた灰色の空が一瞬見える。これはバス停にあったあの空ではないのか。一瞬だけなので、私たちはまだ疑っている。だが全く同じ画がこのシークエンスで二度、三度と頑固に反復されると、誰もがこの故意の暴行に唖然とするしかない。それでもバス停の二人と空を結ぶ同様のパンはなかった。高橋に、なぜバス停のシークエンスでは別の画を使わなければならないのかと問い返されれば、私たちは言葉を失うほかない。
いや、つばさが勇気を振り絞り、二人がやがて別れるのではないかという気づきをヒカルへ尋ねるのは、まさにこの空を見たあとである。固定ショットの空は、小さな二人が雪原で抱き合って泣く姿を黙って見つめる。それは永遠の図柄となり、世のあらゆる別れゆく人々の頭上にある空を思い出させはしないか。希薄な表層として完全に自らを露わにしながら、何も語らない。私たちはもはや、それを具体的な場所へ単純に還元できない。貫入できない平面の図柄として、それ自体が存在しつづける。
音楽と調和し、あるいは音楽に駆動される律動的なアニメーションの動きと編集は、その高度な制御可能性ゆえに繰り返し実践されてきた。そうした実践が、スペクタクルやほかの安易な手段による、観客を安心させる単純な効果へ、抵抗なく屈することさえある。しかしアニメーションは、沈黙と静止にこれほど長けた媒体でもある。高橋ナオヒトにおいて、完全に沈黙した表層の反復から、糸のようにかすかな揺らぎが目に見えない姿で生まれる。
高橋は、音楽に合わせて観客を扇動し、物語によって熱狂させる作家では決してない。一つのショットから次のショットへの連鎖に執着し、アニメーションの微妙な感性を少しずつ形にする。ところが実写もアニメーションも理解しない、いわゆるカルチュラル・スタディーズの学者たちは、ショットを配列し編集する一技法にすぎないモンタージュを特権化し、大げさに語る一方、実際のショットの連鎖形式と具体的な画面には無関心である。だから映像の不自由、無力、不可能性を理解できない。高橋の負の表現は、まさにこの不可能性へ深く根づいている。
『To Heart』(1999年)第8話は、あかりと浩之の視線が交わる空間を静かに保ちつづける。二人はほとんど触れ合わない。向かい合って座る二人の距離が、視線の成立に必要な条件なのは言うまでもない。逆に、二人の柔らかな眼差しも、もともと曖昧で繊細だった距離の意識を明確で破れないものにする。接触を禁じながら、身体は隔たりの向こうにある身体の存在を静かに感じる。淡い相互凝視は、私的で穏やかなこの時空を二人が共有することを改めて確かめる。
蓮實重彦によれば、最も緊密な結合は瞳の機能を殺すことによってのみ成立し、視線は距離の介入によってのみ存在する。ならば、凝視と接触の背反関係を最後まで貫く第8話末尾の反復するショット/リバースショットを、遅延によって「何かが起こりそうなのに、実は何も起こらない」日常を際立たせるだけのものとは考えられない。
高橋は驚くべき勇気で、全く同じ静止画を短い時間に並べる。停滞に近い反復のあと、あかりの肩越しに浩之を撮った同じバスト・ショットが、今度はわずかに長くつづく。すると、あかりがふいに少し身を起こし、穏やかな音楽が始まり、浩之も顔を上げる。あかりは黙って彼を見つめていたのだ。画面は、その無言の凝視へゆっくり寄っていく。
時空を無限に停滞へ近づけるショット/リバースショットは、平凡な日常で幾度も交わされた眼差しのうち、現在の二人の見つめ合いへ明らかな優位を与える。ここで、あかりの凝視はまず待つこと、あるいは自分が待っていることを知らせる合図である。しかし完全な沈黙と静止によって、凝視は貫入できない、無限に曖昧なものとなる。凝固した時空で、彼女の待機はこの瞬間に限られず、浩之との関係の全歴史へ思いがけず拡張する。あるいは、日常に無数にある見つめ合いの一つだけを掬い上げたからこそ、この凝視は自らの意味をほかの平凡な凝視へ無限に投射し、分け与える。だから、あかりの眼差しはテレビシリーズ全体で特権的な位置を占めるのだろう。
それでも高橋は、見つめ合う二人を横から同時に撮ることを無益に反復するか、凝視をショットとリバースショットへ分解し、交互に編集するほかない。押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)のように、カメラを視線の中心で絶えず回転させても、向かい合う二人の正面を同時にフレームへ収めることはできない。つまりカメラは、二人の視線を同時には捉えられない。
蓮實は、二人が向かい合うとき、カメラが無力に横から撮るか、介入して同時性を破壊するしかないという惨めな状態を正確に指摘した。それはある意味で、瞳と瞳の遭遇を撮ることへの死刑宣告である。この不可能性は実写の現場では明白だが、同じ絶望と不幸がアニメーションにもある。凡庸な作家は、瞳の衝突という危険な状況を無視して、無造作に眼と眼をつなぐ。カメラポジションの反復を避けるショット/リバースショットを日々繰り返し、自らの凡庸さから逃れようとする。押井が、会話劇で無用なショット/リバースショットを可能な限り削れと勧めたのも、この点を意識していたからかもしれない。
だが高橋ナオヒトは、凝視を構築する困難な状況のなかへ踏み込み、愚鈍にさえ見える表層の反復を、映像の決定的なモチーフとした。絶対的な静止と反復のなかで微妙な差異が生まれ、同じままでいることによって逆説的に変化が起きる。
『To Heart』を疑いなく恋愛アニメの極北とした第13話は、眼と眼の遭遇を頑固に表象しようとする。体育館の場面では、屋外で降りつづく雨を聞きながら、壁際にいるあかりの視線をたどり、遠くで少女たちと並ぶ志保を見る。カメラは右を向く志保へ寄りつづけ、その途中にあかりのクローズアップが挟まれ、眼差しが志保へ注がれつづけていることを強調する。長く静止していた志保は、何かに気づいたのか、あるいは視線に耐えられなくなったのか、ふいに少し首を回し、あかりを一瞥する。少し驚いたあかりへ切り替わる。すると角度を変えない固定ショットのなか、志保はすばやく顔を戻して少しうつむき、今度はカメラがあかりへ寄りはじめる。
高橋はカメラポジションを変えようとせず、寄りを固定へ、固定を寄りへと、交互に交換する。パスを受け渡すようなこの表現に、感嘆せずにはいられない。それでも継起する編集であることに変わりはないが、遠距離で目が遭遇したあとに起きる、より曖昧な人物の変化を暗示する。あかりの場合、その変化は心理に対応する表情では伝えられない。驚きのあとも、顔は以前と全く変わらないからだ。
希薄な表層の反復へのこの執着は、同話中盤、志保があかりを見舞う場面でさらに明らかになる。室内を構成する一連のショットの比類ない美しさに、誰もが驚くだろう。震える単調なやかんの音が時間のなかに持続する。あかりはベッドの上に、志保はベッド脇に座る。二人の向きは直角ではなく、ほぼ同じ方向へ向く鋭角を成す。顔と身体を相手へ少し向けると、背後の窓を通った外光が頬を照らす。向き直ると、頬は影へ沈む。画面の繊細さに浸り、あかりが話すとき、耳、頬、首の柔らかな影の線がかすかに震えるのを見つめずにはいられない。
蓮實によれば、「心理の顔」は心理的な影という虚構の奥行きを捏造し、「画面の顔」は影そのものを表層へ露出する。光と影の交替を絶えず反復する、あかりと志保の表情は、疑いなく「画面の顔」である。志保は浩之を好きではないと二度否定する。一度目はあかりの目を避け、顔を影へ向ける。二度目は立ち上がり、あかりへ向き直って、あんな奴は全然好きではないと言う。光が志保とあかりの顔を照らし、その瞬間から場面が終わるまで、どの顔も影へ入らない。私たちは理由の分からない悲しみと、いくらかの安堵を覚える。抒情的な音楽が始まり、やかんの音が徐々に消える。透明で長く引き延ばされた時間の圧力のなか、舞台装置としてのあかりの寝室が持つ歴史の雄弁さのなかで、志保の避けられない敗北を理解する。
影のように、言葉なく自らを表層へ露わにするのは瞳である。この場面でもう一つ驚くべきなのは、あかりが志保に、浩之が好きなのかと尋ねたあと、沈黙したショット/リバースショット(図2a―d)が、二人のあいだの危険と言えるほどの相互凝視を捉えることだ。二人の関係を清算するかに見える深い直視が、何を漏らし、何を隠すのか、私たちには分からない。瞳はすでに、空虚な充実として自らを示しているのではないか。それは魂の窓ではない。深部を探ろうとする力を、表層で排斥する力学である。そこでようやく悟る。瞳こそ最も堅固な防壁なのだ。
反復するショット/リバースショットで相互凝視を表すことは、実写でも珍しくない。たとえば加藤泰『明治侠客伝 三代目襲名』(1965年)と、鈴木則文『女番長ブルース 牝蜂の挑戦』(1972年)のショット列(図2a′―d′、a″―d″)である。しかし、どちらのシークエンスでも俳優の表情、ショットの角度、画面のサイズは微妙に変わる。逆に言えば、アニメーションの非連続性は、動きつづける実写に比べた弱点である。非連続性が五代の静止を自然化すると述べたが、凝視の停滞が、アニメーションに属する不自然さと不自由を残酷に露呈するとも言える。高橋は、動きを根本的に禁じ、角度の変化を捨てる絶対的反復によって、完全な切断と断絶を作る。そして徹底した弱点を糧とし、空虚で充実した表層の反復を極限へ近づける。

凝視の危機において、一枚の画の運動関係を不意に断ち切り、時間の外へ吊り下げる。高橋ナオヒトは映像の決定的な場所で、この手段を用いる。台詞のない短篇の傑作『ああっ女神さまっ 小っちゃいって事は便利だねっ』第28話(1998年)の冒頭、縁側にひとり座る少女は呆然と雨を見つめ、高い場所にいる一羽の烏と目を合わせる。前後二度にわたり反復されるのは、動かない少女の落ち着いた眼差しである。機械仕掛けのような不自然さで首を回し、ふいに不吉な目を向ける烏にも驚かされる。だが、もっと驚くのは、少女が全く驚かず、とうに予期していたように見えることだ。烏が飛び去ると、むしろ引き留めるような表情を見せる。
つづいて彼女は、雨の無人都市をさまよう。カメラは何度も無言の眼差しを捉え、画面は荒廃の気配に満ちる。生気のない世界を暗くする雨、雨に氾濫する川、果てなく動く波。この三つの音だけが、この世の空間を満たすようだ。実際、雨音の外へ超脱するのは、烏と鴎の羽音だけである。海岸で彼女は、朽ちた木の幹と、誰かに捨てられた人形を見る。死物を黙って見つめる目も前後二度反復される。先ほどと似た構造が、烏と死物を結びつけずにはおかない。
彼女は地面で奇妙なほど動かない鴎の群れへ近づく。だが鴎はふいに羽ばたき、舞い上がる。それと同時に彼女は空へ手を伸ばす。しかし目に映る空を私たちは見られない。彼女は一体どこへ行きたいのか。いや、答えはすでに明らかだ。不吉な烏が冥界とつなぐ装置であり、鴎もまた此岸と彼岸を往還する使者だと、私たちは少しずつ悟る。
高橋が瞳の衝突をどう扱うかを考えれば、冒頭の烏は少女を死へ招いている。あるいは逆に、彼女の落ち着いた眼差しこそ自殺者の眼差しである。アニメーションで何気なくこれを行う高橋ナオヒトに、戦慄せずにはいられない。最後には、一陣の風が、この世で唯一鮮やかとも言える少女の傘を吹き飛ばす。烏がまた現れ、そこへ向かう決然としたゆっくりした歩みが、心を沈ませる。だが仲間たちの登場が、ほんの一瞬で世界を温かく明るくする。感動しながら、私たちは静かに思う。凝視という映像の宿命的な限界を、孤独な死へ結びつける高橋ナオヒトは、なんと貴重な作家なのだろう。
II 触れられないものに触れることから、見えないものを見ることへ
アニメーションは肉を表現できない。骨から剥がれ落ちそうな肉、頭蓋から抉り出され、膣へ押し込まれた眼、精液と尿を等しく噴き出す陰茎を表現できない。言い換えれば、肉質の色を表現できない。アニメーションでは、身体の素材はつねに構造化された空間組織に覆われる。その名が線である。だから、肉を「人間と動物の共通領域」として構造から真に逸脱させ、肉そのものを現前させることはできない。あらゆる距離を無効にし、触れられないものへ触れる狂暴な空間で泳がせることはできず、変形された構造的なグロテスクへ変えるほかない。
一方、神代辰巳は、大島渚『愛のコリーダ』(1976年)で殿山泰司の萎えた陰茎を捉えたクローズアップが、あらゆる演技を超え、滑稽、破廉恥、悲哀などの総体として人間の存在を表現したと考えたという。これに基づくなら、アニメーションには陰茎がない、と言うしかない。
OVA『Stainless Night』(1995年)は、色トレス線と黒い主線の性交である。二種類の線は絡まり合い、舐め合う。これは表層に属する線のエロティシズムだ。衣服の皺と光影、さらには身体の下へ押しつぶされたシーツの細かな皺まで、身体との接触と連動によって、確かに身体の一部となる。あるいは逆に、肉体を覆う線として、表層のテクスチャーとして、それらこそ根本的でエロティックな存在である。肉体は、何かに覆われて初めて見える。
アニメーションの身体を語るとき、私たちはすでに一つの倒錯へ直面する。暗示する覆いこそが根本なのである。たとえば毛先はどのように身体へ沿って垂れ、どう数束へ分かれるのか。これは表層のテクスチャーによって、そこに何かが「ある」とあらゆる手段で暗示する試みである。しかし真に私たちを魅了するのは、背後に別のものがあると示す騙し絵として、一つの表象によって別の表象を与えるものとして、完全に露わになったテクスチャーそのものではないか。暗示される身体、画面の後ろに「ある」ものは、しばしば退屈な記号へ還元される。それに対してテクスチャーは、流れつづける経験を与える。この意味で、私たちは再び貫入を禁じる表層へ到達する。
高橋ナオヒトが二つの最も重要な性描写をこれほど強い照明で描き、身体の上で光と影を絶えず震わせ、変化させたのは、この意識に基づくに違いない。これは変化を止めない光影の変調であり、安定した形へ造形されず、動きと応答を保つ。陰茎――偽の陰茎としか呼べないもの――も半透明になり、光が通り、内部で液体が湧き動く。本作と、OVA『誘惑COUNT DOWN』第2作『鏡』(1997年)に共通する表現を一つずつ列挙するつもりはない。だが偽の陰茎こそ、二作をつなぐ最も顕著な特徴である。
前に述べたように、アニメーションは、表層を覆う線の運動から肉の触覚へ入り込めない。だが可視的な画面としても、セルはあまりに滑らかである。ほとんど不純物を含まない清潔さには、この純粋さ、あるいは稚拙さへの深い疑いが潜む。では背景画はどうか。連続的に変えられない背景画を前に、カメラには移動、拡大縮小、固定という三つの貧しい手段しかない。この不自由への痛切で残酷な自己審問において、高橋ナオヒトの『鏡』は、アニメーションの頽廃をきわめて稀に実践した作品であり、それゆえアニメーション史に名を留めつづけなければならない。
高橋が夢見た『哀しみのベラドンナ』(1973年)をアニメーション以上のアニメーションと呼ぶなら、この意味で『鏡』は全くアニメーションではない。前者は、美術監督・深井国の主導によって肉の問題をたやすく放棄し、線の多義性と自由が誘発するアニメーションの崩壊を楽観的に追う。後者は、日常場面の不連続な疎外と、セルの線まで凝固させる自己禁止のなかで、線によって肉の触覚を模倣するアニメーションの虚構を暴く。実際、物語も「触れられないもの」という禁忌を直接主題にする。この矛盾へ正面から向き合うとき、アニメーションは自らの存在を支える前提を失い、この頽廃のなかでアニメーション自身が崩壊する。
日常場面で静止画の先取りと遅延を操作するのとは対照的に、官能的な接触を見せなければならない性描写でさえ、実際の結合部は映らない。膣と陰茎を模倣する画面の質感も、身体の触覚性から遠く隔たっている。第2話末尾の性描写では身体さえ静止し、透過光だけが要というヒロインの下半身を舐める。高橋は射精を一度も描かない。むしろ性交のなかに、射精そのものが不在であることを暗示する。
細密に並ぶ長い線が背景へ頻出するのは、ほとんど主人公・雨夜鏡が姉と一緒にいる場面だけだと、すぐに気づく。この掻き傷のような線が刻む質感、触感は、鏡と姉が幼いころから織り上げてきた関係を表象する。もっと単純に言えば、背景を覆う傷跡は、触れる行為を姉が支配する二人の関係を表す。第2話で姉が鏡の耳へピアスを開け、自ら口づけるときも、第3話で立った姉が、座る鏡の頬へ掌を添えるときも、背景は一瞬で細かな線が急速に増殖する空間へ変わるではないか。
本作は、雨夜鏡が線の触覚へ閉じ込められ、肉の絶頂、すなわち動物性の神聖へ届かない状況を、痛切なほど描く。都市の風景で身体接触へ没頭する人々を見ながら、鏡は言う。「つながっているのは、どうせ身体だけだ」。この台詞は、線の身体が持つ悲哀と頽廃を鋭く指摘する。
「鏡」という名そのもの、そして繰り返し現れる鏡は、外見の似た姉との鏡像回路へ彼が囚われ、虚像から目を離して他者を見られないことだけを暗示するのではない。鏡面の向こうが、絶対に触れられない深度として存在する仮想空間であることを直接示す。この場所なき場所が、アニメーションには耐えられない禁忌である。だから鏡が虚空へ伸ばす手は、鏡面の向こうの充実へ触れられない。かつて姉の身体を覆っていた、彼が撫でる制服は、それと対置される空虚である。
だが当時の規制により、高橋ナオヒトは原作漫画の近親相姦の結末を実現できなかった。3 「触れられないものへ触れる」という主題の一貫性を保つには、どんな解決が必要だったか想像しよう。外見の似た姉弟は、線の身体から盲目的かつ濁った仕方で動物の肉へ堕ち、禁忌を越えて交わると同時に、神聖な暴力へ触れなければならない。それは激烈な痛みによる相互の蹂躙、無限の蕩尽による熱狂的な自己供犠と破壊、線の快楽を凌駕する眩暈のような仮死と失神でしかありえない。
偽の陰茎を捨てて現実の陰茎を導入し、滑らかなセルを捨て、糞尿と精液を浴びた姉の淫猥と腐敗を映しても、映像が真に観念を超え、生々しい像によって文学の領域に近い衝撃へ達したとは言いにくい。だから『鏡』が「触れられないものへ触れる」から「見えないものを見る」へ主題を移すことは、映像理論上の必然と呼べる。現実の陰茎からファルスの無化へ、動物的な性交運動から天使的な性交運動へ、動物の肉から天使の眼球へ。それは本作の二重構造に内在する必然的な反転である。
第1話の冒頭を見れば、見ることと触れることという二つの主題が共存すると分かる。町の最も高い場所にある教会で、ステンドグラスの聖像から差す色とりどりの光影が、クローズアップされた鏡の瞳を覆う。彼は見上げるが、聖像は首を傾け、彼を見ない。聖像が見つめる消失点を、鏡は知ることができない。しかしすぐに、聖像の第二の分身が、彼の後ろの地面から鏡を見ていることに気づく。このシュルレアリスティックな視線は、私たち自身の見ることの空虚と無力を、逆に鮮明に示す。目の前の可視的な対象にしか向き合えず、不可視のものへ自らを開けない盲目である。
つづいて鏡は手を伸ばし、虚空へ触れ、「渇く」と言う。セルのなかに生きることの貧しさに関わるこの告白は、アニメーション理論家とカルチュラル・スタディーズの学者たちが凝視すべき決定的な瞬間である。
高橋ナオヒトは、アニメーションの果てしない頽廃の底で、安濃高志と同じく執拗に、亀裂から生まれるかもしれない第三の眼を獲得しようとする。ついに見えるものだけを見なくなる眼球である。これを理解すれば、第1話と第3話の決定的な場所で、鏡と要が互いを見つめるショット/リバースショットの反復(図3)を見逃せないことは明らかだ。この構造的反復によって、高橋は観客へ、見えない差異を見るよう呼びかけているのではないか。a―cにおける鏡の無表情な表層の反復が、彼は見たが実際には「何も」見ていないことを意味するなら、α―γでは関係が反転する。彼は何も見ていないのに、「何か」を見た。これは眼球自身の侵犯である。視覚の秩序は崩壊する。眼球は他者の存在そのものを直接経験でき、凝視だけで人を絶頂へ導ける。第三の眼とは経験の眼である。
私たちはすでにこれを感じていた。要は教会の前で、髪を下ろし女装した鏡をすぐに見分ける。鏡の女装という視覚的事実は、最後まで彼女が問う問題にならない。さらに詳しく見れば、アニメーションのなかで一瞬身体から離れ、機能構造に属さなくなる眼を持つのは、要と鏡だけである。対照的に、要の元恋人は眼さえ持たない。

鏡の寝室の机には姉の写真があり、要の机には一枚の絵がある。そこでは、互いを映す二人の天使、あるいは天使とその鏡像が、口づけようとしている。ここでのモチーフは、近親者の表面的な類似ではなく、内的な本質の同一性である。眼球は表面を突破して内部の領域を侵犯し、自らを対象から区別しなくなる。もはや、性器による侵入と被侵入のどんな痕跡が残っているだろう。ファルスの痕跡すら、ほとんど見つけられない。
鏡は女装を一度も解かず、スカートが最初から最後まで陰茎を覆う。これはファルスの完全な無化としか呼べない。二人の女性が抱き合っているように見えるため、それは通常の意味での性交ではなく、無性の交わりとなる。
人間より高次の存在である天使は、幾何学で最も完全な器官、すなわち眼球を中心として育った球形の身体を持つという。4 ならば天使の性交運動は、動物の性行為にある機械的な抽挿ではなく、惑星の公転と自転でなければならない。このエロティックな倒錯によって、高橋は、作画上の機械的で退屈な往復運動をすべて排除することに成功する。鏡と要は相手の周りを公転し、自転する。そして鏡は、この無性的な回転によって初めて絶頂へ達する。
しかし眼すら持たない私たちにとって、この天使の交わりは、私たちの虚像を映すガラス戸の向こうに聖夜の雪のように降る奇跡でしかない。線でできた掌に、夢の終わりに落ちる寂しい涙のように、たちまち溶ける。だから実写と同じく、誰も眼を持たない以上、誰もよいアニメーションを必要としないし、悪いアニメーションへ顔をしかめても仕方がない。それでも線の身体から逃れるために、私たちは、この崩壊すべき崩壊のなかで生きなければならない。
参考文献
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蓮實重彦『ショットとは何か』(講談社、2022年)。
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『ユリイカ』2017年10月臨時増刊号「総特集=蓮實重彥」(青土社)。
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蓮實重彦『蓮實重彦の映画の神話学』(泰流社、1979年)。
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蓮實重彦『シネマの記憶装置』新装版(フィルムアート社、1997年)。
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ジョルジュ・バタイユ『眼球譚』、1928年。
-
『映画監督 神代辰巳』(国書刊行会、2019年)。
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蓮實重彦『監督 小津安二郎』増補版(筑摩書房、2003年)。
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ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』、1957年。